栗橋関所と房川渡し
【2009年7月25日(土) 旧日光街道 栗橋宿→中田宿】
栗橋宿と中田宿を隔てるのは坂東太郎と称された大河、利根川。関東平野をひたすら北へ向かう日光道中では、最も険しい要害地と言えるだろう。江戸幕府は江戸を守る防衛上の理由から大河川に橋を架けることを許さず、日光街道の利根川渡河には房川渡し(ぼうせんのわたし)と呼ばれる舟渡しが利用された。この渡し場に置かれたのが栗橋関所で、中山道の碓氷関所や東海道の箱根関所、甲州街道の小仏関所と同様に、”入鉄砲に出女”を取り締まっていた。栗橋関所は正式に「房川渡中田御関所」と呼ばれ、当初は中田宿側に関所が置かれていたが、後に対岸の栗橋宿側に移され栗橋関所が通称となった。明治2年(1869年)明治維新の風が吹き荒れる中、幕府と共に栗橋関所は姿を消す。
房川渡しについて、もう少し掘り下げて書いてみる。房川渡しは日光街道が整備される以前、つまり往古の奥州街道だった頃は、幸手宿から栗橋村(現 茨城県五霞町元栗橋)に渡船場があり、”房川渡し・栗橋”とよばれていた。後に街道が付け替えられ、栗橋宿と中田宿間に渡船場が移り、”房川渡し・中田”となった。利根川の渡し場なのに何故”房川渡し”と呼ばれるようになったのか?諸説あるらしいが、栗橋関所跡の案内板によると、栗橋村の渡し場付近に宝泉寺という法華坊があり、そのことから”坊前の渡し”と呼ばれていたが、後に坊前が転訛して記述も変わり”房川”になったという。

栗橋関所付近の見取図(埼玉県・栗橋町教育委員会設置の案内板より抜粋)

栗橋宿から栗橋関所へと続いていた道。突き当たりの利根川堤防辺りに問屋場があった。

利根川土手外側にある栗橋関所跡碑と案内板。

利根川土手から利根川橋を望む。栗橋関所はこの河川敷の中に消えた。

かつては関所を通り舟渡しで川を越えるという、旅人にとっては難所だった利根川も、現在は利根川橋で簡単に渡れてしまう。この利根川橋が最初に架けられたのが大正13年(1924年)のこと。それまでは渡し船による渡河であり、川の増水時等は宿場で足止めをくらう旅人も多かったことだろう。
ここで埼玉県から茨城県の古河市へ。

利根川橋から筑波山を望む。茨城県なんだなあ・・・と、筑波山を見て実感するわけで。
栗橋宿と中田宿を隔てるのは坂東太郎と称された大河、利根川。関東平野をひたすら北へ向かう日光道中では、最も険しい要害地と言えるだろう。江戸幕府は江戸を守る防衛上の理由から大河川に橋を架けることを許さず、日光街道の利根川渡河には房川渡し(ぼうせんのわたし)と呼ばれる舟渡しが利用された。この渡し場に置かれたのが栗橋関所で、中山道の碓氷関所や東海道の箱根関所、甲州街道の小仏関所と同様に、”入鉄砲に出女”を取り締まっていた。栗橋関所は正式に「房川渡中田御関所」と呼ばれ、当初は中田宿側に関所が置かれていたが、後に対岸の栗橋宿側に移され栗橋関所が通称となった。明治2年(1869年)明治維新の風が吹き荒れる中、幕府と共に栗橋関所は姿を消す。
房川渡しについて、もう少し掘り下げて書いてみる。房川渡しは日光街道が整備される以前、つまり往古の奥州街道だった頃は、幸手宿から栗橋村(現 茨城県五霞町元栗橋)に渡船場があり、”房川渡し・栗橋”とよばれていた。後に街道が付け替えられ、栗橋宿と中田宿間に渡船場が移り、”房川渡し・中田”となった。利根川の渡し場なのに何故”房川渡し”と呼ばれるようになったのか?諸説あるらしいが、栗橋関所跡の案内板によると、栗橋村の渡し場付近に宝泉寺という法華坊があり、そのことから”坊前の渡し”と呼ばれていたが、後に坊前が転訛して記述も変わり”房川”になったという。

栗橋関所付近の見取図(埼玉県・栗橋町教育委員会設置の案内板より抜粋)

栗橋宿から栗橋関所へと続いていた道。突き当たりの利根川堤防辺りに問屋場があった。

利根川土手外側にある栗橋関所跡碑と案内板。

利根川土手から利根川橋を望む。栗橋関所はこの河川敷の中に消えた。

かつては関所を通り舟渡しで川を越えるという、旅人にとっては難所だった利根川も、現在は利根川橋で簡単に渡れてしまう。この利根川橋が最初に架けられたのが大正13年(1924年)のこと。それまでは渡し船による渡河であり、川の増水時等は宿場で足止めをくらう旅人も多かったことだろう。
ここで埼玉県から茨城県の古河市へ。

利根川橋から筑波山を望む。茨城県なんだなあ・・・と、筑波山を見て実感するわけで。






























