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投稿日:2009-04-06 Mon
粟田神社の祭りで賑わう三条通を行く。沿道を行く神輿や剣鉾を見物する多くの人々で賑わう中を、ひたひたと三条大橋を目指す。東山三条交差点を過ぎた辺りから、おぼろげに三条大橋の姿が見え、足取りも自然と速くなる。そして高山彦九郎像の土下座に迎えられ、ついに三条大橋に到着!橋の袂には、この日のために遠路はるばる駆けつけてくれた”ふくまん”さんの姿が・・・(涙)。2007年1月7日に日本橋を発ってから1年9ヶ月もの歳月を費やし、旧中山道をひたすらに歩いて約534km、ついに京都三条大橋に到着しました。長かった道中、色々と考えさせられることはありましたが、それは次の記事に譲るとして、とにもかくにも、こんな自己満なブログにお付き合い下さったみなさま、ありがとうございました。感謝の念に堪えません。

粟田神社の祭りで賑わう三条通。

祭りの見せ場の一つ、剣鉾の巡行。担ぎ手は相当大変そう・・・凄いの一言。

三条通の白川橋。こんな小川に架かる橋にも京の風情が漂います。

多くの人が行き交う三条大橋。ここが東海道・中山道の終点である。

東海道中膝栗毛の弥次さん、喜多さんに迎えられ。

三条大橋を行く”しまむー”(ふくまんさん撮影)

三条大橋とその下を流れる鴨川。

鴨川のせせらぎを聞きながら、長かった歩き旅の思いに耽る”しまむー”(ふくまんさん撮影)

鴨川にて。

tomiさん、momo&haruさん、zhang liさん、ドテレンジャーの皆様方、washiroさん、 hiroさん、kaientai1867さん、nanaさん、kawachannくん、タグーさん、江戸旦那さん、Nakaさん、ちばおとうと(ばーち)くん、つもみさん、BigDaddyさん、よっくんさん、yatteさん、カゼノオ〜さん、子ウサギさん、ヨヨ子さん、shioさん、happyさん、シェイドさん、ピンピンシニアさん、くじらさん、sekinemaさん、とみぃ〜さん、宇田川さん、ビア・ヘーロさん、マサヒさん、せきねさん、KENさん、yangyikojimaさん、ににっこさん、ビール党さん、あきさん、satieさん、松山さん、 細久手の大黒屋さん、セイヤさん、やちまたさん(順不同)
応援のコメントありがとうございました!
そして、わざわざ千葉県の我孫子市から京都三条大橋まで来てくれた、ふくまんさん。ありがとう!
投稿日:2009-03-29 Sun
山科を通り抜け日ノ岡峠を越える。中山道・東海道を京へ向かう旅人にとっては最後の峠越えであり、京から江戸へ向かう旅人にとっては最初の難所だった。とはいっても峠と呼ぶには勾配は小さく、歩行者は大して苦にならなかったであろう。しかし、牛馬車が通行するには難渋したようで、逢坂山越えの東海道と同様に車石が敷かれていた。
旧東海道沿いの山科入口にある山科地蔵徳林庵。保元2年(1157年)後白河天皇の勅命により、京洛出入口の主要街道六ヶ所に安置された地蔵の一つを本尊とする。この地蔵は平安時代、小野篁(おののたかむら)作と伝わる。

五条別れを行く旧東海道。写真の直進する道が三条大橋へ至る東海道、手前左折する道を行くと五条大橋へ向かう。この分岐点は古くから五条別れと呼ばれる場所だった。

今も五条別れの分岐点に残される宝永4年(1707年)建立の道標。「左ハ五条橋 ひがしにし六条 大佛 今ぐまきよ水」「右ハ 三条通」と刻まれている。

旧東海道は三条通に合流する。

天智天皇山科陵入口付近から三条通を逸れて、旧東海道は小径となって進む。

日ノ岡峠の上りへ。

坂の途中にある亀の水不動尊。亀の口から水が落ち、量救水(りょうぐすい)という石水鉢で受けている。元文三年(1738年)峠道の改修に尽力した木食正禅養阿(もくじきしょうぜんようあ)上人が、ここに旅人の休息所として庵を結び、旅人や牛馬に水を提供した。

日ノ岡峠から山科方面を望む。

日ノ岡峠越えの旧東海道。

日ノ岡峠にて。

日ノ岡峠越えの旧道は再び三条通へ合流する。写真右の小径が日ノ岡峠を越えてきた旧東海道。

三条通の路傍にある車石のモニュメント。昔はこんな感じの溝をつけた石が延々と敷かれ、その上を荷車が曳かれたわけです。

九条山を行く三条通の旧東海道。いよいよ、道路標識に三条大橋の文字が!
投稿日:2009-03-16 Mon
いよいよ旧東海道は山城国こと京都府へ入る。その県境付近には髭茶屋追分と呼ばれる場所があり、ここで伏見宿を経て大阪へ向かう街道が東海道から分岐する。世間一般に言われる東海道53次の場合、髭茶屋追分から京都三条大橋へ向かう東海道を指すが、東海道57次と言う場合は髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大阪高麗橋へ至る街道が東海道となる。大津宿から伏見宿までは伏見街道(大津街道)、伏見宿から大阪までを大阪街道(京街道)とも呼ぶ。
旧東海道は滋賀県から京都府に入り、県境に沿って進んで行く。

旧東海道の髭茶屋追分。山科追分とも呼ばれる。直進する道は三条大橋へ向かう東海道で、左に分岐する道が伏見を経由して大阪高麗橋へ至る57次の東海道。ここは大宅・小野・醍醐を経て六地蔵に至る奈良街道の分岐点でもあった。

髭茶屋追分に残る道標は三代目のもので、初代は江戸時代に建立された。「みきハ京ミち ひたりハふしミみち」と刻まれている。

髭茶屋追分を過ぎてすぐ右手の街道筋にある閑栖寺。何となく京都らしさを感じたのは私だけでしょうか。

閑栖寺門前に保存されている車石。かつて大津・京都間の東海道は、逢坂山、日ノ岡峠といった勾配があり、牛馬車が通行するには難渋した。そこで花崗岩に溝を刻んだ石をレールのように敷いて牛馬車の往来を助けた。これが車石であり、文化2年(1805年)心学者の脇坂義堂が発案した。

横木を行く旧東海道。

旧東海道は国道1号に分断されるので歩道橋を渡る。「旧東海道をお歩きの皆様へ この先歩道橋を渡って下さい」と、丁寧な看板が掲げられている。

歩道橋から逢坂山を望む。その下を大河の如し、国道1号に車が流れる。

国道1号を越えてきた旧東海道は小関越えの旧道と合流する。写真はその合流点で、直進する旧東海道に右から小関越えの旧道が合流する。

小関越の追分に残る道標。「小関越 三井寺観音道」と刻まれている。小関越えの旧道は逢坂を避ける東海道の迂回路であり、また三井寺へと続く道でもあった。
投稿日:2009-03-07 Sat
かつて東から東海道で逢坂の関を越えれば山城国。現在の滋賀県と京都府の県境とは少し位置が違う。その東海道の山城国入口に走井(はしりい)という清らかな水がこんこんと湧く井戸があり、平安時代から歌に詠まれるほどの名高い水だった。江戸時代になると東海道を往来する旅人が増え、走井の水で喉を潤す者も多かったのであろう。街道沿いには走井茶屋と呼ばれる茶店が軒を連ね、名物の走り井餅を売っていた。その様子は広重の浮世絵、「東海道五十三次 大津」に描かれる。
逢坂の関跡を超えた旧東海道は国道1号から分岐して大谷町へ入る。かつて街道沿いには走井茶屋が軒を連ねた。

往時の走井茶屋の様子が描かれている。

”元祖走井餅本家”の碑が置かれている民家。かつての走井茶屋で、走り井餅の発祥なのだろう。

旧東海道は京阪京津線に分断されるので、歩道橋を渡って国道1号を進もう。

広重の浮世絵に描かれている茶店は現在の月心寺である。車の往来が激しい国道1号沿道に位置し、今も走井の井戸が残っている。

これが現在の走井。平安時代の昔から名水を湛えてきた井戸である。

旧東海道は国道1号を進んで大谷町から追分町へ。写真の国道上を交差する陸橋は名神高速道。この先、いよいよ京都府へ入る!
投稿日:2009-03-04 Wed
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関平安時代の歌人・蝉丸(せみまる)の歌で、小倉百人一首に詠まれる。袖振り合うも多生の縁、古の時代から、逢坂の関を様々な人々が行き交い、そして出会いと別れを重ねたのだろう。逢坂関は古代から東海道と東山道という二つの幹線道が合流して京へ向かう要衝の地にあり、すでに大化の改新以後の飛鳥時代から奈良時代にかけて関所らしきものが置かれていた。794年に都が平安京に遷されると更に重要性は増し、平安時代中期頃には廃止となった愛発関(あらちのせき)にかわり、不破関と鈴鹿関と共に三関の一つとなった。

逢坂山への上り口、国道161号沿いに鎮座する関蝉丸神社下社。平安時代の歌人で琵琶の名手だった蝉丸(せみまる)を祀る。

国道161号を逢坂山へ上る。

安養寺門前にある逢坂(おうさか)の碑。逢坂は神功皇后の将軍・武内宿禰(たけのうちすくね)が忍熊王とばったりと出会ったことに名の由来があると書かれている。

国道1号に合流し、京阪京津線と並行して逢坂を上る。

国道1号沿いの逢坂山上に鎮座する関蝉丸神社の上社。関蝉丸神社は下社・中社・上社の三社からなる。

弘法大師堂を見ると間もなく逢坂の頂に着く。

逢坂の関跡付近を行く国道1号。右斜めに分岐する道が旧東海道である。逢坂山を越える東海道の坂上に置かれた逢坂の関であるが、現在は深く開削して国道1号を通したため、関跡がどこなのかははっきりしない。

国道1号と旧東海道の分岐点、逢坂の頂にある「逢坂山関址」碑。かつてはここが近江と山城の国境であった。
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