友沼の松並木は何処に
【2009年8月22日(土) 旧日光街道 野木宿→間々田宿 道中】
野木宿を出れば下野国である。野木町友沼という地域を、引き続いて国道4号伝いに騒音と共に歩くことになり、自然とうつむき加減な早足になってしまう。そんな中、交差点名や歩道橋に”松原”と書かれていることに気付く。これは、かつての日光街道が松並木の道だったことを意味しており、松一本無い国道と化した道に、忘れ去られようとする昔日の面影を小字名として地名に託しているのだ。往時の様子を語るには再び清河八郎の文言を借りるしかない。
星のいまだ落ざるに食をととのへ、宿(古河)を出、十八丁にて野木宿なる弊邑にて馬をかへ、松原を歩み、友の間(友沼)村、乙女村を越。いづれも並木にてきれひなり。

野木町友沼の松原を行く国道4号。かつて松並木の街道が続いていたとは想像し難い現代の様子である。松並木は何処に・・・。

街道筋に広がる田園だけは、きっと昔日の風景と変わらないのだろう。

国道4号をひたすらに北へ。

友沼の愛宕神社と観音堂。

法音寺と八幡神社の間を進む国道4号。この辺りが旧友沼村の中心と思われ、”宿通”という小字名が残っている。かつては数軒の茶屋が軒を連ねる立場で、”名物とろろ汁”で知られる”とろ屋”があった。旅人に”友沼のとろ屋”と書かれた菅笠を提供して広く知られるようになったというから、駅前のティッシュ配りの元祖といったところか。八幡神社前にある豆腐屋の野澤食品という店がそれらしい。

安永9年(1780年)建立の芭蕉句碑がある法音寺。思川左岸の段丘上にあたる法音寺周辺は城跡であり、法音寺があることから法音寺城跡と呼ばれているのだが、築城年代や築城者についてはわかっていない。小山城(祇園城)の支城といった位置付けだったのだろう。法音寺の芭蕉句碑は門人によって建てられたもので、奥の細道の旅に出る5年前、「野ざらし紀行」の旅中で詠んだものである。
道ばたの むくげは馬に 喰れけり

友沼村の鎮守、八幡神社。歴代徳川将軍が日光社参の際、宿泊地の古河城を出てから最初の御小休所となった。
野木宿を出れば下野国である。野木町友沼という地域を、引き続いて国道4号伝いに騒音と共に歩くことになり、自然とうつむき加減な早足になってしまう。そんな中、交差点名や歩道橋に”松原”と書かれていることに気付く。これは、かつての日光街道が松並木の道だったことを意味しており、松一本無い国道と化した道に、忘れ去られようとする昔日の面影を小字名として地名に託しているのだ。往時の様子を語るには再び清河八郎の文言を借りるしかない。
星のいまだ落ざるに食をととのへ、宿(古河)を出、十八丁にて野木宿なる弊邑にて馬をかへ、松原を歩み、友の間(友沼)村、乙女村を越。いづれも並木にてきれひなり。

野木町友沼の松原を行く国道4号。かつて松並木の街道が続いていたとは想像し難い現代の様子である。松並木は何処に・・・。

街道筋に広がる田園だけは、きっと昔日の風景と変わらないのだろう。

国道4号をひたすらに北へ。


友沼の愛宕神社と観音堂。

法音寺と八幡神社の間を進む国道4号。この辺りが旧友沼村の中心と思われ、”宿通”という小字名が残っている。かつては数軒の茶屋が軒を連ねる立場で、”名物とろろ汁”で知られる”とろ屋”があった。旅人に”友沼のとろ屋”と書かれた菅笠を提供して広く知られるようになったというから、駅前のティッシュ配りの元祖といったところか。八幡神社前にある豆腐屋の野澤食品という店がそれらしい。


安永9年(1780年)建立の芭蕉句碑がある法音寺。思川左岸の段丘上にあたる法音寺周辺は城跡であり、法音寺があることから法音寺城跡と呼ばれているのだが、築城年代や築城者についてはわかっていない。小山城(祇園城)の支城といった位置付けだったのだろう。法音寺の芭蕉句碑は門人によって建てられたもので、奥の細道の旅に出る5年前、「野ざらし紀行」の旅中で詠んだものである。
道ばたの むくげは馬に 喰れけり

友沼村の鎮守、八幡神社。歴代徳川将軍が日光社参の際、宿泊地の古河城を出てから最初の御小休所となった。

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