槍掛けの松
【水戸街道歩き 第1日目】千住宿→新宿→松戸宿
【2010年2月7日(日) 水戸街道 千住宿】
本日天気晴朗ナレドモ風強シ。日光街道を踏破して間もない2月初旬、真冬の冷たい風が吹き荒れる中、約9ヶ月ぶりに千住宿に立つ。人通りもまばらな日曜日の朝、北千住駅から旧宿場内を通り、途中で朝飯にと”かどや”で槍かけだんごを購入。団子をリュックに詰め込んで、宿場北外れの日光街道と水戸街道の追分(分岐点)へ向かう。強い風が吹いているおかげで、都会の淀んだ空気が吹き飛ばされたのだろう、静かな東京の下町に流れる冷たい空気は澄んでおり、空を見上げれば天にまで届きそうな深い青空が広がっている。幸先の良い好天だ。
千住4丁目の追分から日光街道と別れて、水戸街道の第一歩を踏みしめる。千住4丁目と5丁目の境界となっている小径を進むと間もなくJR常磐線と東京メトロ千代田線のガード下を潜り、更に約100m先で東武伊勢崎線のガード下を潜り抜ける。このガードとガードの間に窮屈そうに清亮寺がある。清亮寺は元和5年(1619年)創建の追分から水戸街道を歩いて最初に目にする寺院で、かつては門前に枝が街道にまで達する見事な松の名木があり、”槍掛けの松”と呼ばれていた。そう、槍かけ団子の名の由来になった松のことである。しかし、樹齢350年といわれた”槍掛けの松”は昭和20年頃に枯死して姿を消した。生き残っていれば、水戸街道の面影を存分に伝えてくれる名松だったろうに…、本当に残念でならない。
槍掛けの松の名の由来について少し書こう。江戸時代に水戸街道も他の街道と同様、参勤交代のため大名行列が往来した。大名行列の槍持ちは如何なる理由があろうとも槍を横に倒すことは許されず、そのため街道にまで枝を張り出した
清亮寺門前の松は邪魔だったわけである。当然ながら枝を切ってしまおうとなった時、見事な枝振りの松を見た徳川光圀、つまり水戸の黄門様が枝を切ることを惜しみ、そこで妙案を思いつく。ここで松の枝に槍を立て掛けて休憩とし、出立の時に槍持ちが枝の向こう側に行って槍を取り直せば、槍を倒したことにはならないという論理である。さすがは天下の副将軍、見事な計らいである。以来、槍掛けの松と称され、ここを通行する大名行列は松の枝に槍を立て掛けて休むようになったという。

千住名物の槍かけだんごを製造販売する”かどや”。朝食用にみたらし2本とあん2本を購入。

旧日光街道の千住4丁目と5丁目の境界になっている交差点が、かつての日光街道と水戸街道の追分。ここに天明元年(1781年)建立の水戸海道と刻まれた追分道標が置かれていたが、現在は「北へ旧日光道中 東へ旧水戸佐倉道」と刻まれた道標に置き換えられている。古い道標は足立区郷土博物館に移されている。

追分から望む水戸街道の道筋。今となっては名も無い小径と化している。

千住4丁目と5丁目の境界を進む旧道から振り返って追分方向を望む。本当にこれがかつての水戸街道なのかと、少々不安になる。

千住4丁目の氷川神社で道中の安全を祈願して。

JR常磐線と東京メトロ千代田線のガード下を潜り抜け、日ノ出町へ入る。先に見えるガードは東武伊勢崎線。

東武伊勢崎線のガード横に足立たちばな幼稚園と並んで清亮寺がある。本堂は天保4年(1833年)再建の総欅造りという立派なもので、山門に掲げる扁額「久榮山」の書は明治から昭和期にかけて活躍した書家、中村不折の筆によるもの。

清亮寺境内にある解説板より。関東大震災以前に撮影された槍掛けの松。水戸街道まで松の枝が張り出していたことが
良くわかる。

清亮寺門前から上の写真と同じようなアングルで撮影してみた。

日ノ出町から先の水戸街道は荒川の土手に阻まれる。

荒川土手から小菅方面を望む。対岸に見える大きな建物は東京拘置所。小菅へ向かう水戸街道の旧道は荒川の川底に沈んでしまった。その詳細については次の記事に譲ろう。

土手に腰を下ろし、のんびりと荒川の流れを眺めながら朝食。そんなシチュエーションで食べる”槍かけだんご”の美味しいこと!
【2010年2月7日(日) 水戸街道 千住宿】
本日天気晴朗ナレドモ風強シ。日光街道を踏破して間もない2月初旬、真冬の冷たい風が吹き荒れる中、約9ヶ月ぶりに千住宿に立つ。人通りもまばらな日曜日の朝、北千住駅から旧宿場内を通り、途中で朝飯にと”かどや”で槍かけだんごを購入。団子をリュックに詰め込んで、宿場北外れの日光街道と水戸街道の追分(分岐点)へ向かう。強い風が吹いているおかげで、都会の淀んだ空気が吹き飛ばされたのだろう、静かな東京の下町に流れる冷たい空気は澄んでおり、空を見上げれば天にまで届きそうな深い青空が広がっている。幸先の良い好天だ。
千住4丁目の追分から日光街道と別れて、水戸街道の第一歩を踏みしめる。千住4丁目と5丁目の境界となっている小径を進むと間もなくJR常磐線と東京メトロ千代田線のガード下を潜り、更に約100m先で東武伊勢崎線のガード下を潜り抜ける。このガードとガードの間に窮屈そうに清亮寺がある。清亮寺は元和5年(1619年)創建の追分から水戸街道を歩いて最初に目にする寺院で、かつては門前に枝が街道にまで達する見事な松の名木があり、”槍掛けの松”と呼ばれていた。そう、槍かけ団子の名の由来になった松のことである。しかし、樹齢350年といわれた”槍掛けの松”は昭和20年頃に枯死して姿を消した。生き残っていれば、水戸街道の面影を存分に伝えてくれる名松だったろうに…、本当に残念でならない。
槍掛けの松の名の由来について少し書こう。江戸時代に水戸街道も他の街道と同様、参勤交代のため大名行列が往来した。大名行列の槍持ちは如何なる理由があろうとも槍を横に倒すことは許されず、そのため街道にまで枝を張り出した
清亮寺門前の松は邪魔だったわけである。当然ながら枝を切ってしまおうとなった時、見事な枝振りの松を見た徳川光圀、つまり水戸の黄門様が枝を切ることを惜しみ、そこで妙案を思いつく。ここで松の枝に槍を立て掛けて休憩とし、出立の時に槍持ちが枝の向こう側に行って槍を取り直せば、槍を倒したことにはならないという論理である。さすがは天下の副将軍、見事な計らいである。以来、槍掛けの松と称され、ここを通行する大名行列は松の枝に槍を立て掛けて休むようになったという。

千住名物の槍かけだんごを製造販売する”かどや”。朝食用にみたらし2本とあん2本を購入。


旧日光街道の千住4丁目と5丁目の境界になっている交差点が、かつての日光街道と水戸街道の追分。ここに天明元年(1781年)建立の水戸海道と刻まれた追分道標が置かれていたが、現在は「北へ旧日光道中 東へ旧水戸佐倉道」と刻まれた道標に置き換えられている。古い道標は足立区郷土博物館に移されている。

追分から望む水戸街道の道筋。今となっては名も無い小径と化している。

千住4丁目と5丁目の境界を進む旧道から振り返って追分方向を望む。本当にこれがかつての水戸街道なのかと、少々不安になる。

千住4丁目の氷川神社で道中の安全を祈願して。

JR常磐線と東京メトロ千代田線のガード下を潜り抜け、日ノ出町へ入る。先に見えるガードは東武伊勢崎線。

東武伊勢崎線のガード横に足立たちばな幼稚園と並んで清亮寺がある。本堂は天保4年(1833年)再建の総欅造りという立派なもので、山門に掲げる扁額「久榮山」の書は明治から昭和期にかけて活躍した書家、中村不折の筆によるもの。

清亮寺境内にある解説板より。関東大震災以前に撮影された槍掛けの松。水戸街道まで松の枝が張り出していたことが
良くわかる。

清亮寺門前から上の写真と同じようなアングルで撮影してみた。

日ノ出町から先の水戸街道は荒川の土手に阻まれる。

荒川土手から小菅方面を望む。対岸に見える大きな建物は東京拘置所。小菅へ向かう水戸街道の旧道は荒川の川底に沈んでしまった。その詳細については次の記事に譲ろう。

土手に腰を下ろし、のんびりと荒川の流れを眺めながら朝食。そんなシチュエーションで食べる”槍かけだんご”の美味しいこと!

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