松戸宿
【2010年2月7日(日)水戸街道 松戸宿】
金町松戸の渡しで江戸川を越えて下総国に入り、川岸から水戸街道第三宿となる松戸宿の町並みの中を行く。一昔の旅人はそんなルートを辿って金町から松戸に至っていた。江戸時代、松戸宿までの水戸街道は道中奉行の支配下に置かれており、松戸宿から先は勘定奉行の支配下に置かれていた。つまり、道中奉行の支配下ということは幕府の意向が強い五街道と同等の直轄地であり、勘定奉行の支配下ということは幕府の意向が強く及ばない委任地だったと考えてよいだろう。何ゆえ松戸宿を境にこのような棲み分けがされていたのかよくわからないが、松戸宿から先の水戸街道は徳川御三家の一つ水戸徳川家の支配力が強かったと見ることができよう。
江戸時代初期、後に水戸徳川家の礎を築く徳川頼房が水戸に君臨してから、江戸と水戸城下を結ぶ街道として整備されたのが水戸街道。それに併せて小さな集落だった松戸村を整備して置かれた宿場が松戸宿である。天保14年(1843年)当時の記録によると、人口1886人、家数436軒、本陣1、脇本陣1、旅籠28軒とあり、渡し場から先が下横町で水戸街道の曲り角から南側が角町、北側に宮前町・三丁目・二丁目・一丁目と続き、江戸時代後期にはかなりの発展を遂げていたことがわかる。利根川の布佐河岸(現 千葉県我孫子市布佐)から江戸川の納屋河岸に魚を運ぶ鮮魚(なま)街道が松戸宿を通り、更に松戸から江戸川を下って江戸深川方面へ人荷を運ぶ水運も大きく発達したことにより、宿場付近の平潟には遊郭(飯盛旅籠の集まった場所)ができて、松戸宿は大いに賑わったようだ。


江戸川畔から松戸宿(下横町)に入る水戸街道。その入口に”是より御料松戸宿”と刻まれた傍示杭が復元され置かれている。

”メゾンドール松戸”というマンションの建つ敷地が松戸宿本陣跡。残念ながら平成16年(2004年)に解体されてしまった。江戸時代前期は吉岡家、中期以降は伊藤家が代々本陣を務め、水戸徳川家をはじめとする参勤交代で往来した常陸・奥州国十数家の大名が宿泊した。

寛永3年(1626年)創建の松戸総鎮守、松戸神社。江戸期には御嶽権現と称していたが、明治15年(1882年)に現社名に変更された。

松戸宿南側(旧宮前町)の町並み。宿場の中央を横切る坂川から南側の宿場は、旅籠が多くあった。写真の右手前にある旧商家の建物は相幸酒店(堀切家)で明治末期の建築。

春雨橋南詰の松戸宿町並み。写真右手に見える町山ミシン商会は大正期の典型的な看板建築。その隣の”栄泉堂 岡松”は明治末期の建築で創業90年以上という老舗の和菓子屋。

宿場の中央を横切る坂川。水戸街道には春雨橋が架かる。松戸宿の町並みは春雨橋を挟んだ両側に旧商家の古い建屋が残り、往時の面影を感じさせる。写真に見える春雨橋袂の福岡家は江戸期から薪や炭を商う旧商家で、隣の”やまだ屋”と共に明治末期の建築である。

松戸宿には南側から圓慶寺、松龍寺、宝光院、善照寺、西蓮寺といった寺が街道沿いに並ぶ。宿場の中心部、宝光院と善照寺の間に、青年期の千葉周作が剣術の手ほどきを受けた浅利又七郎の道場があったという。千葉周作は幕末の剣豪で、北辰一刀流の開祖。ちなみに今、大河ドラマで脚光を浴びる坂本龍馬は北辰一刀流の免許皆伝(皆伝状が現存しておらず真偽は不明)といわれるが、龍馬が師事したのは千葉周作の弟千葉定吉である。

春雨橋から北側の松戸宿(旧二丁目)町並み。近代化の荒波に逆らうが如く、原田家の旧商家が建っている。原田家は元文2年(1737年)創業の商家で幕末から米屋を営んだ。現在も旧商家の向かい側に新店舗を構え、”おこめと笑顔の店 ハラダ”として健在である。

松戸宿(旧一丁目)の町並み。宿内の北外れにあたる。
金町松戸の渡しで江戸川を越えて下総国に入り、川岸から水戸街道第三宿となる松戸宿の町並みの中を行く。一昔の旅人はそんなルートを辿って金町から松戸に至っていた。江戸時代、松戸宿までの水戸街道は道中奉行の支配下に置かれており、松戸宿から先は勘定奉行の支配下に置かれていた。つまり、道中奉行の支配下ということは幕府の意向が強い五街道と同等の直轄地であり、勘定奉行の支配下ということは幕府の意向が強く及ばない委任地だったと考えてよいだろう。何ゆえ松戸宿を境にこのような棲み分けがされていたのかよくわからないが、松戸宿から先の水戸街道は徳川御三家の一つ水戸徳川家の支配力が強かったと見ることができよう。
江戸時代初期、後に水戸徳川家の礎を築く徳川頼房が水戸に君臨してから、江戸と水戸城下を結ぶ街道として整備されたのが水戸街道。それに併せて小さな集落だった松戸村を整備して置かれた宿場が松戸宿である。天保14年(1843年)当時の記録によると、人口1886人、家数436軒、本陣1、脇本陣1、旅籠28軒とあり、渡し場から先が下横町で水戸街道の曲り角から南側が角町、北側に宮前町・三丁目・二丁目・一丁目と続き、江戸時代後期にはかなりの発展を遂げていたことがわかる。利根川の布佐河岸(現 千葉県我孫子市布佐)から江戸川の納屋河岸に魚を運ぶ鮮魚(なま)街道が松戸宿を通り、更に松戸から江戸川を下って江戸深川方面へ人荷を運ぶ水運も大きく発達したことにより、宿場付近の平潟には遊郭(飯盛旅籠の集まった場所)ができて、松戸宿は大いに賑わったようだ。



江戸川畔から松戸宿(下横町)に入る水戸街道。その入口に”是より御料松戸宿”と刻まれた傍示杭が復元され置かれている。

”メゾンドール松戸”というマンションの建つ敷地が松戸宿本陣跡。残念ながら平成16年(2004年)に解体されてしまった。江戸時代前期は吉岡家、中期以降は伊藤家が代々本陣を務め、水戸徳川家をはじめとする参勤交代で往来した常陸・奥州国十数家の大名が宿泊した。

寛永3年(1626年)創建の松戸総鎮守、松戸神社。江戸期には御嶽権現と称していたが、明治15年(1882年)に現社名に変更された。

松戸宿南側(旧宮前町)の町並み。宿場の中央を横切る坂川から南側の宿場は、旅籠が多くあった。写真の右手前にある旧商家の建物は相幸酒店(堀切家)で明治末期の建築。

春雨橋南詰の松戸宿町並み。写真右手に見える町山ミシン商会は大正期の典型的な看板建築。その隣の”栄泉堂 岡松”は明治末期の建築で創業90年以上という老舗の和菓子屋。

宿場の中央を横切る坂川。水戸街道には春雨橋が架かる。松戸宿の町並みは春雨橋を挟んだ両側に旧商家の古い建屋が残り、往時の面影を感じさせる。写真に見える春雨橋袂の福岡家は江戸期から薪や炭を商う旧商家で、隣の”やまだ屋”と共に明治末期の建築である。


松戸宿には南側から圓慶寺、松龍寺、宝光院、善照寺、西蓮寺といった寺が街道沿いに並ぶ。宿場の中心部、宝光院と善照寺の間に、青年期の千葉周作が剣術の手ほどきを受けた浅利又七郎の道場があったという。千葉周作は幕末の剣豪で、北辰一刀流の開祖。ちなみに今、大河ドラマで脚光を浴びる坂本龍馬は北辰一刀流の免許皆伝(皆伝状が現存しておらず真偽は不明)といわれるが、龍馬が師事したのは千葉周作の弟千葉定吉である。

春雨橋から北側の松戸宿(旧二丁目)町並み。近代化の荒波に逆らうが如く、原田家の旧商家が建っている。原田家は元文2年(1737年)創業の商家で幕末から米屋を営んだ。現在も旧商家の向かい側に新店舗を構え、”おこめと笑顔の店 ハラダ”として健在である。

松戸宿(旧一丁目)の町並み。宿内の北外れにあたる。

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