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宮和田の渡し

【水戸街道歩き 第4日目】藤代宿→若柴宿→牛久宿→荒川沖宿



【2010年3月14日(日)水戸街道 藤代宿→若柴宿 道中】
そろそろ桜の開花が春の訪れを告げようとする3月中旬。サラリーマンにとっては1年で最も忙しい真っ只中の時期であるが、俗世を離れればようやく長い冬を越えて春の息吹を感じる良い季節となった。朝の清々しくも冷えびえとした空気を思い切り吸い込み、藤代宿から水戸街道歩きを再開する。天気は前回同様、ひと言晴れ。ウォーキングにはもってこいの日曜日である。

古くは小貝川の川筋が下総国と常陸国の国境であり、水戸街道を歩く旅人は宮和田の渡しと呼ばれる渡船によって小貝川を越えた。宮和田の渡しは藤代宿側川岸の熊野神社・八坂神社と川向こうの若柴宿側慈眼院を結ぶ辺りにあった渡し場で、現在の文巻橋が架かる100m程下流にあたる。正徳5年(1715年)水戸藩家臣によって書かれた”駅路鞭影記”に小貝川の渡し賃は二文とあり、宝暦・明和期(1751年~1771年)のかけそば一杯の値段が16文だったというから、単純に今の貨幣価値に換算すると渡し賃は50円位の感覚だろう。

水戸街道・宮和田の渡し


旧水戸街道 宮和田
JR藤代駅から宮和田の水戸街道を歩いて小貝川へ向かう。


旧水戸街道 宮和田
小貝川土手から宮和田の水戸街道を望む。


熊野神社と八坂神社
宮和田渡船場跡付近に鎮座する八坂神社(手前)と熊野神社(奥)。渡し舟で往来する多くの旅人がお参りしていったのだろう。熊野神社本殿は嘉永4年(1851年)の再建であるが、創建は室町期の千葉常胤とも、その子孫である戦国期の千葉俊胤とも伝わる。


文巻橋
文巻橋で小貝川を渡り対岸へ。


宮和田の渡し跡
宮和田の渡し跡。


慈眼院
宮和田の渡しの若柴宿側にある慈眼院。小通観世音と呼ばれる十一面観世音菩薩を本尊とする。創建は天慶年間(938年~947年)にまで溯り、平貞盛(平国香の嫡男、平将門とは従兄弟にあたり敵対した)によって建立された観音堂が起源と伝わる。現在の堂宇は修復を重ねているが貞享2年(1685年)再建のものだという。


旧水戸街道 小通幸谷町
小通幸谷町を行く水戸街道。


竜ヶ崎街道踏切
旧道の道筋は谷田川に阻まれるので、竜ヶ崎街道踏切方向の道へ迂回する。


往還橋
往還橋で谷田川を越える。旧道の橋は往還橋から少し上流に溯った場所に架かっていた。


牛久沼排水機場
往還橋から牛久沼排水機場を望む。


小通幸谷町の駄菓子店
小通幸谷町の街道沿いにある駄菓子屋。おそらく昔から店を営んでいるのだろうが、現代的な感じなのが残念。駄菓子屋のイメージじゃないよなあ…。


旧水戸街道 若柴町
水戸街道は若柴町へ入り、県道5号(竜ヶ崎潮来線)に合流する。


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布川街道・馴柴の追分

【2010年3月14日(日)水戸街道 藤代宿→若柴宿 道中】
県道5号(竜ヶ崎潮来線)の馴柴小入口信号から左折する小径を進み、南中島踏切で関東鉄道竜ヶ崎線を渡って馴柴の追分に至る。ここを左折して道なりに進めば間もなく若柴宿に着く。馴柴の追分は水戸街道と布川街道の分岐点にあたる三差路で、江戸時代に道を間違える旅人が多かったことから道標を置いたという。この道標は文政9年(1826年)建立で、三面に「水戸十六里」「江戸十三里」「布川三里」と刻まれている。
水戸街道・馴柴追分

ここで布川街道について触れておく。布川街道は天和年間~貞享年間(1681年~1688年)我孫子宿から若柴宿間の水戸街道が、取手宿・藤代宿経由に付け替えられる以前の水戸街道であり、我孫子宿から利根川に沿って布佐に至り、利根川を越えて布川・中田切・須藤堀・紅葉内を経て若柴宿に至る道筋を辿る。下図を参照して欲しいのだが、このルートは暴れ川と恐れられた小貝川と利根川の低湿地帯を大きく迂回しており、江戸時代初期以前の取手・藤代辺りは小貝川の治水がまともにできておらず、道も通せないほどに悪条件な土地だったことがうかがえる。
水戸街道・我孫子宿~若柴宿
[ルートラボで布川街道を見る]


馴柴小入口信号 馴柴小入口信号の石仏道標
旧道は県道5号(竜ヶ崎潮来線)から馴柴小入口信号で左折する。その三差路角に道標を兼ねた石仏(右写真)があり、「右りゅうがさきなりた」「左わかしば水戸」と刻まれる。この道標は水戸街道と布川街道への近道の方向を示している。


南中島踏切
南中島踏切で関東鉄道竜ヶ崎線を渡る。


馴柴小学校
馴柴小学校の横を行く水戸街道。


馴柴の追分
馴柴の追分。T字路の角に道標が残されている。直進する道が初期水戸街道の道筋である布川街道で、右から突き当たる道が藤代宿方面からの水戸街道である。


馴柴の追分道標
馴柴の追分に残る道標。この道標にどれだけ多くの旅人が助けられたことだろう。やっぱり道標は元の場所にあってこそ歴史的価値があるというもんだ。


旧水戸街道 若柴町
水戸街道は田園地帯を進んで若柴宿へ入って行く。


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若柴宿

【2010年3月14日(日)水戸街道 若柴宿】
水戸街道の第8宿、常陸国入口の宿駅である若柴宿。藤代宿から牛久沼を東へ迂回して牛久宿へ向かう、そのちょうど中間の台地上に位置するため、ここを避けて最短距離の牛久沼を舟で渡り牛久宿へ向かう裏道的なルートもあったらしい。江戸方から下町・仲町・上町・横町と続き、江戸方から大坂を上ってくると下町の入口に八坂神社があり、水戸方出口の横町に星宮神社が鎮座する。宿内の金龍寺には新田義貞をはじめとする新田家累代の墓があり、新田氏とゆかりの深い土地でもある。

若柴宿は江戸方の藤代宿から約5km、水戸方の牛久宿へも約5kmと、両隣の宿駅と距離が近かったことから、本陣や脇本陣は置かれなかったうえに旅籠の数も少なく、公用の荷継ぎを行う問屋場のみが置かれていた。しかしながら、常備人馬数は25人・25疋と水戸街道に常備を義務付けられた同数をしっかりと確保していたようである。明治初期に現在の国道6号の道筋にあたる牛久沼東岸沿いを進む最短ルートの新道が敷設され、若柴宿は時流に取り残されたように衰退していったようだが、国道が大きく逸れてくれたお陰で、宿内の街道筋には明治19年(1886年)の大火後に建てられた立派な塀や門構えの旧家が並び、生活道路として利用された宿場町裏手の坂道が良い状態で残されている。

水戸街道・若柴宿


大坂
若柴宿江戸方外れの大坂。


若柴八坂神社
大坂の坂上付近に鎮座する八坂神社。


若柴宿・下町
大坂を上りきった曲り角から若柴宿下町の町並みが続く。


若柴宿・仲町
若柴宿仲町。下町・仲町・上町にかけて堂々とした門構えや板塀を持つ旧家が並ぶ。


延命寺坂 会所坂
下町・仲町から牛久沼側の低地へ下りる延命寺坂(右写真)と会所坂(左写真)。宿場の人々が生活道路として利用してきた坂道である。仲町から上町にかけて足袋屋坂、鍛冶屋坂という坂道も残っている。


くじ神社
若柴宿の東側に鎮座する鬮(くじ)神社。その名の如く”くじ運”にご利益がある神社らしい。今年のサマージャンボを買った後に参拝してみようか、それとも買う直前の方がよいのかなあ…。


御手洗の池
御手洗(おみたらし)の池。かつては清水が湧き出す池だったようだが、現在は枯渇している。若柴宿の鎮守星宮神社は鰻が神の使いと信じられていたため、鰻を誤って捕ってしまった時にはこの池に放していたらしい。鰻が名物であり、うな丼の発祥地とも伝わる牛久沼近郊のこの地で、この話が本当ならば実に滑稽な話である。現実は生けす代わりに使ってたんじゃないのと、いささか思ってしまう。


金龍寺 新田家累代の墓
上町と横町の境、街道の屈曲点にある金龍寺。応永14年(1407年)上州太田の地に新田義貞の孫である貞氏が開基したと伝わる古刹で、新田家の菩提寺。天正18年(1590年)新田氏の流れを汲む由良国繋が牛久城へ移ったとき、共に金龍寺は牛久城下へ移され、変遷あって寛文6年(1666年)若柴の現在地へ移り今日に至っている。そんな経緯で新田義貞をはじめとする新田家累代の墓が境内にある。


若柴宿・上町
金龍寺参道入口より望む若柴宿上町。


田舎庵 にしんそば
若柴宿内にある唯一の飲食店”田舎庵”。古民家を利用した趣ある店構えの蕎麦屋である。暖簾をくぐって一歩店内へ入ると、若柴宿が賑わっていた昔にタイムスリップした感覚に陥る。素朴でありながら上品な味わいの蕎麦はもちろんのこと、店の雰囲気も非常に良かった。☆三つ!


若柴宿・横町
若柴宿横町。


星宮神社
若柴宿内水戸方外れに鎮座する星宮神社。天慶4年(941年)常陸国太守平貞盛の建立と伝わる。鳥居の注連縄に酒樽が吊るされているのは何故なのか…。


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成井一里塚

【2010年3月14日(日)水戸街道 若柴宿→牛久宿 道中】
若柴宿から牛久宿間の水戸街道は道筋に旧街道の面影を残している。その道中で特筆すべきは成井一里塚で、江戸日本橋から水戸街道を歩いてくると、15里目(約59km)にして初めて出会う現存する一里塚だ。ここで一里塚について少し書いておこう。一里塚とは江戸幕府成立後に築造された江戸日本橋を起点にする主要街道の里程標であり、1里(約4km)毎の街道両脇に目印として設置された土盛りのことである。一里塚の崩壊を防ぐ目的で塚上には主に榎や松が植えられていた。

成井一里塚も東海道や中山道に一里塚が築かれたのと同時期の江戸初期に築かれたものであり、成井一里塚にある説明板にも「水戸街道が整えられたのは、慶長末年から寛永初年であり、この一里塚はその頃築造されたものと思われる。」と書かれている。しかしながら、同じ説明板の文面に「この一里塚は、永禄4年(1561年)には既に存在していたといわれている。」という一見矛盾する記載が見られる。1561年の日本は戦国時代の真っ只中にあり、常陸国を支配していたのは戦国大名の佐竹氏だ。日本橋も存在していない時代から既にあったというならば、一体どういう目的で築造されたのか、理解に苦しむところである。

水戸街道 遠山町・城中町・牛久町


旧水戸街道 若柴町
若柴宿を抜け、県道243号(八代庄兵衛新田線)と交差する水戸街道。


旧水戸街道 若柴町 若柴町の道標
水戸街道から女化(おなばけ)町方面への道が分岐する地点。その分岐点に若柴青年会による大正12年(1923年)8月建立の道標が残り、三面に「女化 岡見 柏田方面」「南 若柴 佐貫 藤代方面」「原新田 成井 牛久方面」と刻まれているようだ。ちなみにこの道標が建立された翌月、関東が焼け野原と化す関東大震災が発生している。


旧水戸街道 遠山町
遠山町に残る水戸街道の道筋。


成井一里塚と水戸街道
成井一里塚と水戸街道。


成井一里塚
説明板によると永禄4年(1561年)には存在したといわれる成井一里塚。その根拠はどこから来ているのか是非とも知りたいところ。


旧水戸街道 遠山町
谷津地帯を進む水戸街道。


旧水戸街道 牛久町
旧道は牛久宿の手前で常磐線と国道6号によって分断される。写真は牛久宿方面の地図[A]地点を撮影したものであり、旧道はここでカーブせずに直進方向へ進んでいた。


国道6号 牛久町
銅像山踏切で常磐線を渡り国道6号へ迂回。


国道6号 牛久町
国道6号から左斜めに進む小径が水戸街道。牛久宿の入口である。


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牛久宿

【2010年3月14日(日)水戸街道 牛久宿】
牛久宿は天保12年(1841年)頃の記録によると本陣と旅籠15軒を含む家数124軒。戦国期の牛久城主岡見氏の頃には、既に牛久宿の原形となる町場が形成されており、寛文9年(1669年)以来、牛久藩主山口氏によって牛久陣屋が築かれてその支配下に置かれた。牛久宿と隣の荒川沖宿は同じ牛久藩領にあり、また荒川沖宿の規模が小さかったことから、両宿で継立を行う合宿の形態をとっており、荒川沖宿は上りの牛久宿へ片継ぎだけ行い、牛久宿から下りは荒川沖宿を飛ばして次の中村宿へ継立していた。そのため牛久宿の負担は大きく、継立業務の人馬数は中山道並みの50人50疋を数えることもあったという。

街道の通行量が増加するにつれ宿場だけでは人馬継立を賄いきれなくなり、周辺の村々に定助郷や加助郷といった助郷役が賦課されたことは以前にも何度か書いた。水戸街道も例外ではなく、牛久宿や荒川沖宿にも定助郷村が割り当てられ、元文5年(1740年)には牛久宿7ヶ村、荒川沖宿3ヶ村と取り決められていた。天明の大飢饉が全国に広がりをみせる頃、牛久宿と荒川沖宿は通行量増大と度重なる災害によって困窮し、更に34ヶ村の加助郷村が割り当てられることになるが、これらの加助郷村は宿場まで遠かったことから人馬提供も容易ではなく、代納として金銭を納めることも多々あった。当時飢饉と重い年貢の負担によって農村部の疲弊は甚だしく、そんな状況下で更に助郷役が賦課された加助郷村は貧窮を極め、村人と宿役人の関係に軋轢を生じさせることになり、文化元年(1804年)ついに村人は結集して百姓一揆を起こす。世に言う牛久助郷一揆で、女化稲荷神社に決起したことから女化騒動とも言う。

水戸街道 牛久宿


北浦坂
牛久宿江戸方入口の北浦坂。


牛久宿・下町
牛久宿下町の家並み。かつての宿場は下町・上町で構成され、北浦坂から現在の本牛久郵便局辺りまでが下町だった。


四国屋米穀店
宿内にある四国屋米穀店。ここで四国屋という屋号には少々目を惹かれる。昔から商いを営んでいたと思われるが、その歴史については不明。四国屋のある交差点対角に芋銭河童碑道と刻まれた道標があり、ここから水戸街道を左折すると牛久城大手門跡を経て牛久陣屋跡の小川芋銭記念館「雲魚亭」へと至る。ちなみに牛久は河童の絵で有名な日本画家小川芋銭の出身地であり、今に残る牛久沼の河童伝説は芋銭の遺産と言えよう。


明治天皇行在所
宿場の中心にある明治天皇行在所の碑。明治17年(1884年)女化原で近衛砲兵大隊の射的演習があり、明治天皇がその視察のために宿泊した場所がここ。


牛久宿・上町
牛久宿本陣跡付近。


牛久宿・上町
牛久宿がくの字状に曲がる辺り。本陣跡から水戸方面を望む。左手に正源寺の山門が見えている。


正源寺
正源寺の山門と旧観音堂。かつて馬頭観音を安置していた観音堂で、文禄元年(1593年)の建立。現在は火伏せの秋葉三尺坊を祀っている。


宮崎利兵衛酒店
牛久宿内の水戸方外れにある宮崎利兵衛酒店。慶応4年(1868年)創業と看板に書かれており、宿場時代から続く商家のようだ。


旧水戸街道 牛久町
牛久宿を抜けた水戸街道は間もなく国道6号に合流する。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

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