会津西街道っ!

旧宿場町として中山道の妻籠宿・奈良井宿と同じく重要伝統的建造物群保存地区に指定される大内宿。実際に行ったことが無くても、茅葺屋根の民家が連なる大内宿の写真を見たことがある方は多いだろう。大内宿は会津南部の山間に位置する会津西街道の宿場町として栄えた場所で、江戸時代の宿場町の景観を今に良く残している。いや、良く残しているらしいと言った方が正確だろう。そう、私は大内宿に一度も訪れたことが無いのだ。だいぶ前から行ってみたいとは思っていたのだが、その機会もなかなか訪れずに月日は流れ、日光街道の今市宿に着いたときにここから会津西街道を北上すれば大内宿に行けるんだなあ…、と思ったことが会津西街道を歩こうと考えたきっかけである。
会津西街道は日光街道の今市宿(現 栃木県日光市)から会津(現 福島県会津若松市)の若松城下へ至る街道で、会津側からは下野街道や南山通りとも称された。江戸時代初期に会津初代藩主の保科(松平)正之によって整備された会津本街道五筋の一つであり、今市宿を起点にして大桑・高徳・大原・藤原・高原新田・五十里・中三依・上三依・横川の宿場を経て山王峠を越え、旧会津領の福島県へ入ってからは糸沢・川島・田島・楢原・倉谷・大内・関山・福永といった宿場を経て終着点の若松城下へと至る全長約130kmの街道である。
江戸時代初期に会津若松から江戸方面へ向かう街道は2通りあって一つは会津西街道であり、もう一つは白河街道から奥州街道へと通ずるルートである。奥州街道は言わずもがなの五街道の一つであり、会津西街道は会津藩主をはじめ越後の新発田藩主や村上藩主が参勤路として利用し、また、両ルートは会津藩の廻米を輸送する重要なルートだった。しかし、天和3年(1683年)日光大地震により五十里宿付近の山が崩落して男鹿川が堰き止められ、地震湖(五十里湖)が出現して会津西街道は通行不能に陥った。そこで新たに開発されたのが会津城下から白河・奥州街道と会津西街道の中間を南下して奥州街道の氏家宿へ至る会津中街道である。
会津中街道は元禄8年(1695年)会津3代藩主保科(松平)正容によってに整備され、会津西街道の代替路としてしばらくの間利用されたが、元々難路だったことに加えて大雨等による道中の崩落が著しくなり、宝永元年(1704年)には街道としての役目を終えている。その後、会津から江戸方面への参勤路は白河経由の奥州街道が唯一の本道となったが、享保8年(1723年)の大水害で五十里湖が決壊したことにより、会津西街道が再整備された。再び会津藩主が会津西街道を通行するのは会津8代藩主松平容敬の時で、会津西街道が通行不能になってから約140年後の文政10年(1827年)のことである。周辺住民にとっては久々に迎える大名行列で苦労もあったろうが、感無量の面持ちだったのではなかろうか。
幕末から明治期にかけての会津西街道は戊辰戦争終盤の舞台であり、若松城へ向かう旧幕府軍と追撃する新政府軍の攻防の場となっている。その辺りの詳細については後々記事に書くことにするが、水戸から始まった尊攘思想のうねりが、ゆくゆくは日本を保守派と改革派の真っ二つに分けて会津戦争の悲劇へと突入していくあたりに、私が水戸街道の次に会津西街道を歩くことになった縁はあるのかも知れない。さてさて、そんな会津西街道がどんな姿になって今に残り、どんな風景を見せてくれるのか楽しみだ。いざ、会津西街道へ!

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