相の道
【会津西街道歩き 第1日目】今市宿→大桑宿→高徳宿
【2010年7月11日(日)会津西街道 今市宿】
梅雨明け間近の7月中旬、天気は案の定ぐずついた曇り。決して負け惜しみではないが、夏は時々小雨が降る程度の曇り空の方が歩きやすく、私にとっては絶好のウォーキング日和と言ってよい。北千住駅構内のドトールで朝食を済ませ、9:12発の東武鉄道特急きぬ105号(鬼怒川温泉行)に乗車、定刻通りの10:40に下今市駅へ到着する。まずは日光街道と例弊使街道の合流点にある追分地蔵尊へ行き、ここで会津西街道歩き旅の踏破と道中の安全を祈願して今市宿の相の道へと向かう。いよいよ会津西街道歩きのスタートだ!
相の道は日光街道と会津西街道の追分の呼称であり、国道119号(日光街道)と国道121号が交差する春日町交差点から約80m宇都宮側、たまり漬の老舗日野為商店前のT字路がその分岐点である。何ゆえ”相の道”と呼ばれるようになったのかは不明であるが、江戸時代にはこの名称が定着していたようだ。会津西街道と日光街道が相見える場所だったという由来が自然な気がするが、もしかすると”相”の字と読みが同じな”会”の字ををかけて、”会津への道”という意味も込められているのかもしれない…と、勝手な想像も膨らむ。ちなみにこの辺り、一昔前は相生町と称されていた。
相の道から国道121号へ合流する約250mの小径は”相の道通り”と称され、この道筋が会津西街道の旧道であり、江戸時代には今市宿の商家が軒を連ねた。現在は老舗な屋号の店が並ぶ静かな商店街となっており、中でも松本商店と隣の坂本屋荒物店が老舗らしい佇まいを残し、その斜向かいには看板建築の小林希世料理教室があってレトロ感がぷんぷんと漂っている。相の道は菊屋造花店前から下り坂となり、途中左手に酒屋の旧商店らしき建物前を通って、間もなく国道121号へ合流する。
国道121号に合流してからの街道は東武日光線の高架下を潜り、大谷川へ架かる大谷橋へ向かう。元来の大谷川は現在より北側を流れる古大谷川の流路が本流であり、慶長年間(1596年~1615年)の大洪水によって現在に見る川筋になったといわれる。大谷橋について日光市歴史民俗資料館に問い合わせてみたところ、大谷橋が初めて架橋されたのは明治27年(1894年)のことで、それ以前は土橋等の簡単なものがあったが架橋地点はわからないとのこと。おそらく、明治27年の架橋地点は地図に点線で示すルート上にあり、昭和5年(1930年)の大谷橋開通時に実線で示す現国道121号ルートに付け替えられたと思われる。


再び追分地蔵尊の前に立つ。会津西街道の踏破と道中の安全を祈願して。

会津西街道と日光街道の分岐点、相の道。

会津西街道から相の道を望む。正面突き当りの店が日野為商店。

会津西街道の旧道、相の道通り。

松本商店と坂本屋荒物店は老舗な佇まい。

レトロな看板建築の小林希世料理教室。

立派な松に目を惹かれる旧商店。サッポロビールの古そうな看板が掲げられていることから、昔は酒屋だったのだろうか。

瀬川を行く会津西街道(国道121号)。瀬川には回向庵という寺があり、戊辰戦争の今市攻防戦で戦死した官軍兵(土佐・佐賀藩兵)24名の墓がある。

大谷川に架かる大谷橋。

大谷橋から下流方向を望む。明治初期以前は大谷橋より下流域に土橋か板橋が架けられていたと思われるのだが、今となっては知る由もない。

大谷橋から上流方向には日光連山がきれいに望めるはずなのだが…天気わるっ。
【2010年7月11日(日)会津西街道 今市宿】
梅雨明け間近の7月中旬、天気は案の定ぐずついた曇り。決して負け惜しみではないが、夏は時々小雨が降る程度の曇り空の方が歩きやすく、私にとっては絶好のウォーキング日和と言ってよい。北千住駅構内のドトールで朝食を済ませ、9:12発の東武鉄道特急きぬ105号(鬼怒川温泉行)に乗車、定刻通りの10:40に下今市駅へ到着する。まずは日光街道と例弊使街道の合流点にある追分地蔵尊へ行き、ここで会津西街道歩き旅の踏破と道中の安全を祈願して今市宿の相の道へと向かう。いよいよ会津西街道歩きのスタートだ!
相の道は日光街道と会津西街道の追分の呼称であり、国道119号(日光街道)と国道121号が交差する春日町交差点から約80m宇都宮側、たまり漬の老舗日野為商店前のT字路がその分岐点である。何ゆえ”相の道”と呼ばれるようになったのかは不明であるが、江戸時代にはこの名称が定着していたようだ。会津西街道と日光街道が相見える場所だったという由来が自然な気がするが、もしかすると”相”の字と読みが同じな”会”の字ををかけて、”会津への道”という意味も込められているのかもしれない…と、勝手な想像も膨らむ。ちなみにこの辺り、一昔前は相生町と称されていた。
相の道から国道121号へ合流する約250mの小径は”相の道通り”と称され、この道筋が会津西街道の旧道であり、江戸時代には今市宿の商家が軒を連ねた。現在は老舗な屋号の店が並ぶ静かな商店街となっており、中でも松本商店と隣の坂本屋荒物店が老舗らしい佇まいを残し、その斜向かいには看板建築の小林希世料理教室があってレトロ感がぷんぷんと漂っている。相の道は菊屋造花店前から下り坂となり、途中左手に酒屋の旧商店らしき建物前を通って、間もなく国道121号へ合流する。
国道121号に合流してからの街道は東武日光線の高架下を潜り、大谷川へ架かる大谷橋へ向かう。元来の大谷川は現在より北側を流れる古大谷川の流路が本流であり、慶長年間(1596年~1615年)の大洪水によって現在に見る川筋になったといわれる。大谷橋について日光市歴史民俗資料館に問い合わせてみたところ、大谷橋が初めて架橋されたのは明治27年(1894年)のことで、それ以前は土橋等の簡単なものがあったが架橋地点はわからないとのこと。おそらく、明治27年の架橋地点は地図に点線で示すルート上にあり、昭和5年(1930年)の大谷橋開通時に実線で示す現国道121号ルートに付け替えられたと思われる。


再び追分地蔵尊の前に立つ。会津西街道の踏破と道中の安全を祈願して。


会津西街道と日光街道の分岐点、相の道。

会津西街道から相の道を望む。正面突き当りの店が日野為商店。

会津西街道の旧道、相の道通り。

松本商店と坂本屋荒物店は老舗な佇まい。

レトロな看板建築の小林希世料理教室。

立派な松に目を惹かれる旧商店。サッポロビールの古そうな看板が掲げられていることから、昔は酒屋だったのだろうか。

瀬川を行く会津西街道(国道121号)。瀬川には回向庵という寺があり、戊辰戦争の今市攻防戦で戦死した官軍兵(土佐・佐賀藩兵)24名の墓がある。

大谷川に架かる大谷橋。

大谷橋から下流方向を望む。明治初期以前は大谷橋より下流域に土橋か板橋が架けられていたと思われるのだが、今となっては知る由もない。

大谷橋から上流方向には日光連山がきれいに望めるはずなのだが…天気わるっ。

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