山王峠越え②
【2011年4月2日(土)会津西街道 横川宿→糸沢宿 道中】
山王峠を福島県側へ下ろう。峠の頂から狭い尾根上を下って間もなく、峠名の由来になった山王権現の遺構と伝わる礎石を旧道上に見ると、その先には猿馬場と呼ばれた難所が待ち受ける。猿馬場の街道は急勾配の斜面をつづら折れに通されており、万治2年(1659年)の大地震によって谷底へ崩れ落ちたとの記録も残る。この難所を越えれば旧国道を横断し、中曽根と呼ばれる尾根筋に通された堀割状の旧道を通り、小さな沢を越えた後はなだらかな川沿いの道が続く。やがて旧国道に合流して山王川を渡るのだが、江戸期の街道はもっと北側で山王川を渡河していたらしい。そして、山王川右岸(東岸)の街道沿いにあった山王茶屋に辿り着く。元和3年(1617年)から営業を始めたとされる山王茶屋は、これから峠へ向かう旅人、ようやく峠を越えてきた旅人がひと時の休息を得るオアシスだったが、現在は他所へ移築されて残っていない。


山王峠に立つ”下野街道”と書かれた立て札。その先に会津西街道の旧道が会津側へ下りて行く。ついに会津の国に足を踏み入れた。

狭い尾根上を緩やかに降る旧道。

山王権現社跡。峠名の由来になったと伝わる神社跡である。柱が立てられていたと思われる礎石が雪の中に姿を見せていた。同じ礎石がもう一つあるはずなのだが、いまだ雪に埋もれているのか確認できなかった。

山王権現の先から急斜面をつづら折れに降る旧道。かつて猿馬場と呼ばれた難所である。

しかし、少し進んだ先で猿馬場の旧道は旧国道の開削によって分断されていた。

上の写真で途切れた旧道は、U字にカーブしてここに繋がっていたと思われる。

猿馬場の山王峠旧道。

猿馬場の急斜面を下りきると旧国道に出る。旧道は旧国道を横断して先に延びている。

なだらかに狭い尾根上を行く。

山。その通り!

旧道筋の所々に赤松が見られる。街道時代の名残か。

中曽根と呼ばれた尾根筋を堀割状の旧道がつづら折れに下る。

中曽根筋の旧道。急坂が続くため崩壊している場所もある。

木々の合間に国道121号の山王大橋を遠望。

中曽根の急坂を下りきれば沢越えである。

山王川に沿って旧道は続くが、雪が積もっていて道筋が判別できない。”下野街道”と書かれた立て札が頼り。

とにかく川に沿って北上。

後ろを振り返って。この足跡を見た人はどう思うんだろうなあ…。

旧道はここで旧国道に合流。その合流点に”荒海宿”の木柱が立つ。会津西街道に荒海宿という宿駅は存在しておらず、明治22年(1889年)に宿駅の置かれていた糸沢村と川島村をはじめ、いくつかの村が合併して誕生したのが荒海村である。

やっと旧国道へ出たというのにこの雪深さ。とにかく疲れる…。

ようやく山王川を渡って現在の本ルート、国道121号に合流する。江戸期の街道はここで川を渡らず、更に山王川左岸を北上していたようだが、その道筋は消失していると思われる。

旧国道と国道121号の合流地点。

国道121号”道の駅たじま”まで500mの地点。右手に見える鳥居は日吉神社。この神社付近に山王茶屋があったはずだが、事前の調査不足でその跡地がどこなのか確定できなかった。山王茶屋については、後日調査して別の記事で詳しく紹介したい。

日吉神社。日吉とは山王権現の別称。山王峠にあった山王権現はここに合祀されているという。

現代の山王茶屋とも言うべき”道の駅たじま”。男鹿高原駅から歩いてきてようやく食料を調達できる場所に辿り着いたわけで…(涙)

”ごまだれ餅”と”ゆべし”という和菓子を購入し、激しい空腹を満たすべく一気に完食。とにかく美味かったよー。食べ物について表現力が乏しくてスミマセン。
山王峠を福島県側へ下ろう。峠の頂から狭い尾根上を下って間もなく、峠名の由来になった山王権現の遺構と伝わる礎石を旧道上に見ると、その先には猿馬場と呼ばれた難所が待ち受ける。猿馬場の街道は急勾配の斜面をつづら折れに通されており、万治2年(1659年)の大地震によって谷底へ崩れ落ちたとの記録も残る。この難所を越えれば旧国道を横断し、中曽根と呼ばれる尾根筋に通された堀割状の旧道を通り、小さな沢を越えた後はなだらかな川沿いの道が続く。やがて旧国道に合流して山王川を渡るのだが、江戸期の街道はもっと北側で山王川を渡河していたらしい。そして、山王川右岸(東岸)の街道沿いにあった山王茶屋に辿り着く。元和3年(1617年)から営業を始めたとされる山王茶屋は、これから峠へ向かう旅人、ようやく峠を越えてきた旅人がひと時の休息を得るオアシスだったが、現在は他所へ移築されて残っていない。


山王峠に立つ”下野街道”と書かれた立て札。その先に会津西街道の旧道が会津側へ下りて行く。ついに会津の国に足を踏み入れた。

狭い尾根上を緩やかに降る旧道。

山王権現社跡。峠名の由来になったと伝わる神社跡である。柱が立てられていたと思われる礎石が雪の中に姿を見せていた。同じ礎石がもう一つあるはずなのだが、いまだ雪に埋もれているのか確認できなかった。

山王権現の先から急斜面をつづら折れに降る旧道。かつて猿馬場と呼ばれた難所である。

しかし、少し進んだ先で猿馬場の旧道は旧国道の開削によって分断されていた。

上の写真で途切れた旧道は、U字にカーブしてここに繋がっていたと思われる。

猿馬場の山王峠旧道。

猿馬場の急斜面を下りきると旧国道に出る。旧道は旧国道を横断して先に延びている。

なだらかに狭い尾根上を行く。

山。その通り!

旧道筋の所々に赤松が見られる。街道時代の名残か。

中曽根と呼ばれた尾根筋を堀割状の旧道がつづら折れに下る。

中曽根筋の旧道。急坂が続くため崩壊している場所もある。

木々の合間に国道121号の山王大橋を遠望。

中曽根の急坂を下りきれば沢越えである。

山王川に沿って旧道は続くが、雪が積もっていて道筋が判別できない。”下野街道”と書かれた立て札が頼り。

とにかく川に沿って北上。

後ろを振り返って。この足跡を見た人はどう思うんだろうなあ…。


旧道はここで旧国道に合流。その合流点に”荒海宿”の木柱が立つ。会津西街道に荒海宿という宿駅は存在しておらず、明治22年(1889年)に宿駅の置かれていた糸沢村と川島村をはじめ、いくつかの村が合併して誕生したのが荒海村である。

やっと旧国道へ出たというのにこの雪深さ。とにかく疲れる…。

ようやく山王川を渡って現在の本ルート、国道121号に合流する。江戸期の街道はここで川を渡らず、更に山王川左岸を北上していたようだが、その道筋は消失していると思われる。

旧国道と国道121号の合流地点。

国道121号”道の駅たじま”まで500mの地点。右手に見える鳥居は日吉神社。この神社付近に山王茶屋があったはずだが、事前の調査不足でその跡地がどこなのか確定できなかった。山王茶屋については、後日調査して別の記事で詳しく紹介したい。

日吉神社。日吉とは山王権現の別称。山王峠にあった山王権現はここに合祀されているという。

現代の山王茶屋とも言うべき”道の駅たじま”。男鹿高原駅から歩いてきてようやく食料を調達できる場所に辿り着いたわけで…(涙)


”ごまだれ餅”と”ゆべし”という和菓子を購入し、激しい空腹を満たすべく一気に完食。とにかく美味かったよー。食べ物について表現力が乏しくてスミマセン。

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