旭川平和通買物公園

会津西街道の記事を書き終えたところで、我が故郷、旭川の道を紹介しよう。ひと昔前まで北海道の町といえば札幌をはじめとして、函館や小樽、富良野等の有名な観光地が挙げられ、旭川は北海道第二の人口を誇りながらも影が薄い存在だった。しかし、近年になって一地方動物園に過ぎなかった旭山動物園が行動展示によって脚光を浴び、旭川市は全国的に知られるようになった。その旭川の玄関口、旭川駅から北へ向かって直線に延びる約1kmの道が平和通買物公園で、旭川在住・出身者には知らぬ人はいないメインストリートの歩行者天国。その歴史は意外に古く、駅から旭川第七師団(現 陸上自衛隊旭川駐屯地)へ通じていた師団通が、終戦直後の1945年(昭和20年)に平和通へ改められ、1972年(昭和47年)6月1日、日本初の歩行者専用道路として平和通買物公園が誕生した。私が生まれてから半月後のことである。昨年暮れに帰省した際、歩きながら撮影した写真を使って紹介したい。

旭川平和通買物公園02


旭川駅
平和通買物公園の起点、旭川駅。昨年11月に新駅舎が全面開業し、ホームの構造も高架型に改められた。私が見慣れた駅舎とは随分と雰囲気が変わったなあ。


平和通買物公園
旭川駅前から北へ向かって延びる平和通買物公園。ひと昔前、駅付近の買物公園は西武や丸井今井、長崎屋にマルカツといったデパートがあり、商業の中心地として賑わったが、近年になって郊外型の大型商業施設に客足を奪われ、長崎屋は郊外に移転し丸井今井は閉店、西武も撤退が発表されたが辛うじて存続に方向転換した。私が初めてスーツを仕立てたのが西武であり、子供の頃から思い出のあるデパートなので今後も営業を続けてほしい。


平和通買物公園にて
サキソフォン吹きと猫。


平和通買物公園
3条通付近から旭川駅を望む。ちなみに旭川市街の住所は、駅から北へ向かって1条通、2条通、3条通と数字を増やし10条通まで続く。京都を真似たのか?


平和通買物公園にて
平和通買物公園にて。


平和通買物公園
五条通付近の平和通買物公園。四条通を越えると人通りは少ない。昔はスガイビルという映画館やボウリング場、カラオケにゲームセンターと、複合型娯楽施設のはしりみたいなビルがあって、この辺りも結構賑わっていたような記憶があるのだが…。


平和通買物公園
七条通に立つトーテムポール。今思えば前にあったのとは違う気がする。現在あるのは金属製であるが、昔は木製だったような。記憶違いか。


平和通買物公園
北端にある手のオブジェ。これは昔からある。


旭川常盤ロータリー
平和通買物公園の北端からもう少し足を延ばせば旭川常盤ロータリー。知る人ぞ知る六差路のロータリー型交差点。慣れてないドライバーには難所といえる場所である。


旭川常盤ロータリー02
旭橋付近の昭和通(国道40号)からロータリーを望む。


旭橋
最後は旭川のシンボル的存在、石狩川に架かる旭橋で。


旭橋
現在の橋は昭和7年(1932年)竣工。東京の白髭橋を通る度、色こそ違えど旭橋によく似ているなと思っていたが、どうも同じ橋梁形式で同年代に建設されたらしい。当時の技術を今に伝えるべく、平成16年(2004年)北海道遺産に認定された。

ではでは、我が地元・旭川の記事はこの辺で。


撮影日:2011年12月30日(金)
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函館山

時は少々遡る。成田街道歩きの記事を書き終えたところで、今年6月に旅した函館のことを書こう。私は函館の特異な地形と和洋の新旧建築が入り混じった町並みが好きで、年に数回は訪れている。戊辰戦争最後の舞台にもなった場所で、歴史の浅い北海道にあって幕末史を垣間見れる町でもある。標高334mの函館山から望む夜景は広く知られ、100万ドルの夜景と称えられる程に素晴らしいものだ。私も函館山には過去に数回登っているが、山頂へはバスかロープウェイでしか行ったことがない。そこで少々血が騒いだ。歩いて登れんのかと…。観光案内所等で尋ねればすぐにわかることだろうが、それでは面白くない。函館駅に降り立った私は、ただひたすら函館山を目指して歩いた。

函館山・元町


函館山
豊川町の赤レンガ倉庫群付近より函館山を望む。函館山の頂を目指して歩こう。


豊川稲荷神社
まずは豊川稲荷神社で大願成就?を祈願。豊川稲荷神社は文久年間(1861年~1864年)の創建。当時この辺りは新築島と称していたが、この神社が鎮座して豊川町という地名になった。


赤レンガ倉庫群
せっかくなので赤レンガ倉庫群に寄り道。


赤レンガ倉庫群と函館山
赤レンガ倉庫群と函館山。幕末から函館は横浜・長崎と共に国際貿易港として発展、明治40年頃に建築された赤レンガ倉庫群が往時の面影を留める。現在はベイエリアとして赤レンガ造りの飲食店や土産物屋が並ぶ函館有数の観光スポットだ。


八幡坂と函館山
数多くある函館山山麓の坂道。とりあえず八幡坂から函館山方向へ上ってみよう。


八幡坂
八幡坂より函館湾を望む。


遺愛幼稚園
八幡坂上にある遺愛幼稚園。明治28年(1895年)遺愛女学校併設の幼稚園として開設された。明治40年(1907年)の大火で類焼し、現在の建物は大正2年(1913年)に再建されたもの。


ハリストス正教会
遺愛幼稚園の隣、ハリストス正教会。安政6年(1859年)初代ロシア領事館の付属聖堂として建立、明治40年(1907年)遺愛幼稚園と同じく大火によって類焼し、大正5年(1916年)に再建された。ロシア風ビザンチン様式という建築らしい。


ハリストス正教会と函館山
ハリストス正教会と函館山。教会内部は一般公開されており、恐縮しつつ内部見学。内部の撮影は禁止なので写真は無いが、厳かな雰囲気がとにかく凄い。詳しくはこちらで↓

函館ハリストス正教会


カトリック元町教会
こちらはカトリック元町教会。元町は教会がとにかく多い。この教会は安政6年(1859年)に仮聖堂が建てられたことに始まり、以後3度の大火で類焼。現在の建物は大正13年(1924年)ゴシックスタイルの耐火建築で再建されたもの。


二十間坂
二十間坂。道幅二十間(約36メートル)に坂名の由来がある。函館は大火が多く発生したため、防火のために道幅を広くしたという。


東本願寺函館別院
ニ十間坂沿いにある東本願寺函館別院。元町の教会群の中にあって異端な感じ。始まりは松前専念寺の一寺として木古内にあり、宝永7年(1710年)函館(函館市弥生町、現在の弥生小学校付近)へ移転。安政5年(1858年)本願寺箱館御坊と改名し、明治9年(1876年)本願寺別院となった。明治12年(1879年)の大火で焼失、現在地に移された。現在の建物は大正4年(1915年)の建築で、現存する鉄筋コンクリート造りの寺院としては日本最古という。


二十間坂の女神像
二十間坂上にある女神像。少々違和感があったので調べてみるとこの女神像、平成22年(2010年)マルキタ北村水産が店頭に設置したもので、周辺の景観にそぐわないと地元住民から苦情が多数寄せられ、市の行政指導もあって店の屋上に撤去されていたらしい。何ゆえ再び降臨できたのか…。


大三坂
カトリック元町教会と東本願寺函館別院の間を通る大三坂。その昔、坂の入口に大三という屋号の宿があったことに坂名の由来がある。


チャチャ登り03
大三坂上から小径の坂道を登り函館市街を望む。この小径の坂道は”チャチャ登り”と呼ばれ、”チャチャ”とはアイヌ語でお爺さんの意味。急坂なために前屈みで腰を曲げて登る様が老人のようだったことから、そう名付けられたという。


チャチャ登り坂上より函館山を望む
”チャチャ登り”坂上より函館山山頂を望む。函館山へ近づくにはこの辺りが限界。近いようで遠い函館山、元町辺りから徒歩で登る術はなさそうだ。


函館山登山口
”チャチャ登り”から函館山登山口へ移動。登山道と言ってもアスファルトに舗装された車が登るための道。ここから観光バスが通り抜ける横を登る気にもなれず…。まずは登山口に鎮座する函館護国神社を参拝しつつ、どうするか考えよう。


函館護国神社
函館護国神社。箱館戦争終結後に新政府方の戦没者を祀る招魂場として設けられたのがはじまり。


函館護国神社の新政府軍戦没者墓地
函館護国神社の新政府軍戦没者墓地。墓碑には薩藩をはじめ弘前・大野藩・備後福山藩等の文字が多く見られる。


函館護国神社の新政府軍戦没者墓地
日本のために日本人同士で戦い、函館に散った兵士たちは、今の日本を見て何を思うのだろう。多くの犠牲があって日本の平和が築かれていることを忘れてはならない。


函館山ロープウェイ
人間諦めが肝心。函館山へ歩いて登るのは困難と判断、潔く往復チケットを買ってロープウェイに乗車。函館山山頂の展望台へ来てしまった…。つづく。


撮影日:2012年6月13日(水)
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函館山旧登山道

函館山は日清戦争後の明治31年(1898年)、ロシアを仮想敵国として津軽海峡や函館港の防衛を目的に要塞化の建設がはじめられ、明治35年(1902年)に完成。その2年後に日露戦争が開戦する。以来、約50年に渡って軍の要塞地となり、一般人の入山はもちろんのこと、写真撮影やスケッチも厳しく禁止され、地形図からも消された。第二次世界大戦終戦後の昭和21年(1946年)、要塞は解体され一般人に入山を開放、昭和28年(1953年)函館山の山頂に展望台が設置され、その5年後に函館山ロープウェイが開業した。現在の登山道路は昭和25年(1950年)起工、山頂まで開通したのは昭和29年(1954年)で、展望台設置の翌年のことである。

元町方面から函館山へ登るルートは2つ。前述の登山道路と旧登山道と呼ばれる道である。函館山麓の元町辺りを散策しているときには、特に案内板や道標を見つけられず、旧登山道の存在に気付くことは無かったが、頂上にあるつつじ山駐車場に行ってみたところ、旧登山道の入口を発見。駐車場に設置される函館山散策コース案内図を見てみると、函館山には元町方面からの旧登山道をはじめ、南側の立待岬方面と北側の船見町方面からの登山道があり、つつじ山・千畳敷・汐見山・地蔵山・観音コース等、多くの散策路があることがわかった。これらの散策路は要塞当時に使われていた軍用道路を整備したもので、山中では砲台跡や観測所等の遺構を見ることができる。

明治20年代の函館山 現在の函館山
左写真は明治20年代の函館山(函館市設置の解説板より)。要塞化される前の姿である。山麓に山林の一帯があるが、山腹から山頂にかけては山肌が見えており、”はげ山”だったことがわかる。江戸期から燃料や建築資材に用いるため山林を伐り尽くしてしまったことが原因のよう。右写真は今回撮影した現在の函館山、偶然にもほぼ同じアングルだったことに少々驚いた。比較してみると昔は山頂が尖っていたが、現在は展望台があって丸みを帯びた感じ。山頂から麓にかけて木々が鬱蒼と生い茂っている。

函館山旧登山道


函館山展望台より函館市街を望む
函館夕景。17時過ぎなのだが、6月だけあって空はまだ明るい。あと2時間も待てば綺麗な夜景を見ることができるだろう。山頂を巡って暇つぶしするか。


函館山展望台より立待岬を望む
函館山展望台より谷地頭・立待岬方面を望む。


函館山展望台
函館山展望台。函館山は13ある山の総称で、最高峰の御殿山(334m)に展望台が設置される。


NHK函館山テレビ放送所・HBCテレビ送信所
頂上には展望台の他、NHKや北海道民法各社のテレビ送信所がある。


函館山の碑
函館山の碑。記念撮影のスポット。


函館山展望台・つつじ山駐車場の連絡路
展望台からつつじ山駐車場へ行ってみよう。


つつじ山駐車場付近の石仏群
つつじ山駐車場へ向かう途中にある古そうな石仏群。北海道にあっては珍しい光景。


つつじ山駐車場
つつじ山駐車場。17時~22時まで自家用車は交通規制で入山できないため1台の駐車もない。


函館山旧登山道入口
そして、駐車場で発見した旧登山道入口。ロープウェイの乗車券、往復で買ってるし…。何て迷っているうちに日が暮れてしまう。行こう!


旧登山道七合目
旧登山道入口辺りは七合目らしい。


旧登山道六合目
あっという間に六合目へ。


旧登山道六合目より山頂を望む
六合目より山頂を望む。


旧登山道五合目付近
よく整備された旧登山道。非常に歩きやすい。


旧登山道五合目
五合目。ここから立待岬方面へ至る千畳敷コースが分岐。


クロツグミ
地面をぴょんぴょん飛び跳ねる見慣れぬ鳥がいた。何だろうと調べてみたらクロツグミ。函館山では5月中旬から7月中旬にかけて観察できる野鳥だという。


旧登山道四合目付近
四合目付近。薬師山へ至る薬師山コースが分岐する。


野鳥観察小屋
四合目と三合目の中間にある野鳥観察小屋。


旧登山道御殿山溶岩
三合目付近にある御殿山溶岩。函館山は約100万年前の火山活動で隆起した火山なのだ。とは言っても今は死火山の部類で、この山が噴火していたなんて到底信じられない。


旧登山道二合目
二合目付近。つづら折れに旧登山道を降る。


スギ林と旧登山道
スギ林と旧登山道。元来、北海道にスギは自生しておらず、函館山に見られるスギは主に文化5年(1808年)から7年かけて植樹されたもの。その後も度々苗木が植えられたという。


旧登山道一合目付近
一合目の手前で函館山登山道路と交差。旧街道の峠越えでよく見る光景だ。


旧登山道一合目
一合目。旧山道入口の標識が立つ。


函館要塞当時の貯水槽
一合目と旧登山道口の中間にある異様な物体。函館要塞当時の貯水槽だという。


旧登山道口付近
山林を抜けて。


青函連絡船海難者殉難碑
旧登山道口付近にある青函連絡船海難者殉難碑。昭和63年(1988年)青函トンネルの開通に伴い廃止された青函連絡船、80年の長きに渡って本州と北海道を結んだ鉄道連絡船だが、戦時の空爆や台風等によって多くの船が沈没し、尊い命の犠牲も伴った。それにしても青函連絡船廃止から24年もの年月が流れたのか…。


ふれあいセンター
函館山管理事務所ふれあいセンター。旧登山道入口にある。


函館山旧登山道口
ふれあいセンター入口で旧登山道の入口ともなる場所。護国神社やロープウェイ乗り場辺りを散策していても、この存在に気付くことはなかった。そもそも函館山を歩いて登ろうなんて奇特な観光客はそういないからだろう。


函館山ロープウェイ山麓駅
再び函館山ロープウェイ山麓駅へ。


函館山ロープウェイ
山頂へ向かうゴンドラ。


南部坂
南部坂より函館市街へ戻ろう。


函館市電十字街停留所と函館山
函館市電十字街停留所と函館山。


赤レンガ倉庫群と函館山の夜景
赤レンガ倉庫群と函館山。頂上では100万ドルの夜景が綺麗に見えていることだろう。


ベイエリア夜景と函館山
函館ベイエリア夜景。ライトアップされた赤レンガの建物に異国情緒が漂う。


ベイエリア夜景と函館山
函館ベイエリア夜景。一人で来るところじゃないね…。


函館山ロープウェイ往復乗車券
往復乗車券を買ったにも係らず、夜景も見ずに函館山を徒歩で降りてやったぜぇ。しまちゃん、ワイルドだろぉ~?


撮影日:2012年6月13日(水)
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苫前ベアーロード

今年の4月、秋田の八幡平クマ牧場で経営者のずさんな管理体制から6頭のヒグマが脱走し、2名の従業員が襲われて死亡、悲惨な事故だっただけに今だ記憶に新しい。脱走したヒグマは全頭射殺されたことはテレビや新聞の報道で知るところだが、一部週刊誌によるとヒグマはろくに餌を与えられておらすに飢えていたといい、解体したヒグマの胃袋から遺体の一部や衣服が出てきたともいう。そんな凄惨な事実を知ったらしい我が盟友のyangyiさんが、ある日唐突に質問をしてきた。

「クマが人間を食う話、知ってるか?」

話をよくよく聞いてみると、八幡平クマ牧場の事件を知ったyangyiさんはネットで人がヒグマに襲われた事件のことを調べたらしく、行き着いた所が三毛別羆(さんけべつひぐま)事件だったという。今度、北海道に行ったときに事件現場へ行って記事に書いてくれよと頼まれた。オッケーとローラばりに軽い返事をした私、今年6月に機会は早くも訪れる。函館山散策の翌日、鉄路で実家のある旭川へ移動。明くる日に父親を案内人にして、三毛別羆事件の現場である苫前町へ向かう。そんな経緯あってこの記事を書くことになった。

旭川から北西へ直進距離で約80km、天売・焼尻島を望む日本海海岸に苫前町は位置する。子供の頃、度々海水浴に訪れた懐かしい場所だ。苫前の海岸から国道239号(霧立国道)を内陸へ5km程入った所に古丹別の町があり、ここから更に道道1049号を南下すること約18km、三渓(旧 三毛別)の六線沢と呼ばれる山間が羆事件現場である。古丹別から羆事件現場までの道道1049号はベアーロードと名付けられ、沿道の看板やシャッター等には可愛らしい熊さんのイラストが描かれる。

旧三毛別・六線沢広域図


大正4年(1915年)12月、事件は三毛別開拓民の家が点在する三毛別・六線沢で起きた。冬眠に適当な穴を見つけられずその機を逸したヒグマは”穴持たず”と呼ばれ、厳冬期でも餌を求めて活動するという。山地は積雪に覆われ、川は氷結する12月の北海道、まともな餌にありつけるはずもない”穴もたず”は、空腹から狂暴化し、2日間にわたって六線沢の人家を襲った。死者7名(胎児1名を含む)、重傷者3名(後に後遺症で1名死亡)が殺傷された日本史上最悪といわれる獣害事件である。以下に苫前町郷土資料館とウィキ等より得た情報で事件概要を時系列に記し、当時の六線沢にあった開拓民家の位置を地図に示す。

旧三毛別・六線沢詳細図

[大正4年11月初旬]
池田富蔵宅に巨大なヒグマが出現。被害は家にあったトウモロコシのみ。

[11月20日]
ヒグマが池田富蔵宅に再び現れる。ヒグマを仕留めようと富蔵は二人のマタギを呼び寄せて待ち伏せする。

[11月30日]
ヒグマが三度現れ、富蔵とマタギ二人はヒグマを射撃したが、仕留めるには至らず。

[12月9日]
太田三郎(42)宅にて主人・三郎と同家の寄宿人・通称オドこと長松要吉(59)の留守中、家にいた内縁の妻・阿部マユ(34)と預かり児・蓮見幹雄(6)をヒグマが襲う。オドが帰宅し幹雄の死体を発見、マユはヒグマに戸外へ引き摺り出され行方不明に。

[12月10日]
早朝、斉藤石五郎(42)は事件報告に古丹別の警察と苫前村役場へ、明景安太郎が幹雄の実家(力昼村)と石五郎の子を預かる親類宅(鬼鹿村)へ向けてそれぞれ発つ。30名程で阿部マユの捜索隊を結成、太田三郎宅付近の山中でマユの遺体を発見する。この時、遺体を奪還しようとヒグマが現れたが、銃の手入れが悪く一挺の銃が発砲したのみでヒグマは逃走。その夜、太田三郎宅にて通夜が行われる中、遺体奪還にヒグマが再度襲来するも、必死の抵抗で人的被害はなくヒグマは逃走した。

ヒグマは明景安太郎(40)宅へ向かい襲撃。明景家の三男・金蔵(3)をはじめ、ここに避難していた斉藤石五郎の妻タケ(34)と四男の春義(3)を殺害。タケの胎児は腹から引き摺れ出され、発見から1時間後に死亡した。明景安太郎の妻・ヤヨ(34)と四男・梅吉(1)、斉藤石五郎の三男・巌(6)、家番をしていたオドが重傷。巌の負った傷は深く20分後に死亡した。

深夜、明景安太郎が鬼鹿村温根に住む山本兵吉へ加勢を要請。兵吉は若い頃に鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄」の異名を持つ伝説のマタギである。

[12月11日]
六線沢の全住民が三毛別分教場に避難。重傷者は辻橋蔵宅に収容。

[12月12日]
羽幌分署長・菅警部を隊長にヒグマ討伐隊を組織、三毛別村村長・大川與三吉宅を本部とする。人的被害の拡大抑止のため、下流域にヒグマが侵入しないよう氷橋(現 射止橋)周辺の三毛別川右岸を防衛線として警備。

夜から明朝にかけ、明景安太郎宅で犠牲者の遺体をおとりに待ち伏せするも、ヒグマは警戒心から家に近づかず作戦失敗。

[12月13日]
山本兵吉が鬼鹿村より三毛別村へ入る。
旭川から陸軍第7師団歩兵第28連隊の将兵30名が出動。

夕暮れ時、ヒグマが六線沢に現れ、中川孫一・数馬アサノ・松田林治・松村長助・中川長一・吉川輝吉・辻橋蔵・松浦東三郎の8戸がヒグマの侵入を受ける。

夜、防衛線としていた氷橋付近の三毛別川左岸にヒグマが出没。一斉射撃を加えたが仕留めるには至らず。
[12月14日]
明朝、昨夜のヒグマ出没地点を捜索したところ足跡と血痕を発見。これを頼りに討伐隊は追跡を開始。いち早く追跡に山へ入っていた山本兵吉は山麓の討伐隊に気を取られるヒグマを発見。風下から気配を殺してヒグマに近づき、二発の銃弾で仕留めた。一発目はヒグマの心臓、二発目は眉間と確実に急所を弾丸は貫いていたという。

仕留めたヒグマは年齢7~8歳の雄で体長二・七メートル、体重三四〇キロ。黒褐色に金毛が混じり、胸のあたりに袈裟がけの白斑があったと云われる。ヒグマの死体を三毛別まで運んでくる途次、天候が急変し猛吹雪となった。ヒグマを仕留めた後には強風が吹き荒れるという。羆風(くまかぜ)や羆嵐(くまあらし)と呼ばれる。

事件後、六線沢から開拓農家は次々に去り、翌年暮れには辻家が残るだけになったという。



苫前町郷土資料館
まずは苫前町郷土資料館へ。三毛別羆事件についての資料・展示が豊富で事前学習にはもってこい。


苫前町郷土資料館
資料館展示室。三毛別羆事件をはじめ苫前の歴史を今に伝える資料館だ。


苫前町郷土資料館
展示に見入る案内人の父親。


苫前町郷土資料館
圧倒的にヒグマに関する展示が多い。


苫前町郷土資料館
三毛別羆事件を再現する実物大の展示。大人の男性(長松要吉ことオドか?)がいることから、おそらく明景宅をヒグマが襲ったときの再現だろう。


北海太郎
日本最大のヒグマ”北海太郎”の剥製。和55年5月6日、羽幌町内築別の通称シラカバ沢で射止めれれる。推定年齢18歳の雄で体長二・四メートル、体重五〇〇キロ。仕留めたのは辻優一氏と大川高義氏である。高義氏の父は102頭のヒグマを射止めた熊討ち名人・大川春義氏で、三毛別羆事件当時の三毛別村村長・大川與三吉のご子息である。事件当時7歳だった。


山本兵吉肖像写真
山本兵吉の肖像写真。兵吉は日露戦争に従軍、兵役を終えた後も常に軍帽を被り、深酒しては喧嘩騒ぎを起こす粗暴な男だったというが、写真の柔和な笑顔を見る限りそんな印象は受けない。小説「羆嵐」の創作による人物像なのかもしれない。熊撃ちの腕は一級品で、生涯に射止めたヒグマは300~400頭とも伝わる。戦利品のロシア製ライフルを熊撃ちに愛用したといい、この写真に見えるライフルはそれだろうか。左手に小熊を抱えているのが、いかにも伝説のマタギらしい。


道の駅・風Wとままえ
事前学習を終えて、まずは空腹を満たすべく”道の駅・風Wとままえ”へ。

北海道・北の道の駅 風Wとままえ
http://www.hokkaido-michinoeki.jp/data/94/each.htm


レストラン風夢にて
道の駅内にあるレストラン風夢で苫前産の甘えび丼を食らう。どうですか、このプリッぷりの新鮮な甘えび。美味そうでしょ。


苫前港
苫前港を望む。さっき食べた苫前産の甘えびは、きっとここで荷揚げされたんだろう。


苫前の風車群と海岸
苫前の風車群と海岸。


古丹別・苫前ベアーロード起点
苫前市街から古丹別へ移動。ここが国道239号(霧立国道)から道道1049号(ベアーロード)が分岐点する交差点。写真奥に延びる道がベアーロード。


古丹別にて
ベアーロード起点に立つ案内看板。


古丹別市街
古丹別の町並み。かつては羽幌線(昭和62年廃止)が通り、林業によって賑わったのも今は昔。道道沿いに店が軒を連ねるが、シャッターを閉めた店が多い。


道道1049号(ベアーロード)・九重地区
車窓から。九重地区のベアーロードを行く。北海道らしい直線道。


三渓の集落
三渓(旧三毛別)の集落。数軒の家と三渓へき地保健福祉館、旧三渓小学校の体育館が残るのみ。かつて林業と農業で栄えた集落も今や昔。


旧町立三渓小学校
旧町立三渓小学校。明治40年(1907年)三毛別御料特別教育所として開校し、昭和22年(1947年)三渓小学校に改称。長らく三渓(旧三毛別)地区に住む子供たちの学び舎だったが、平成2年(1990年)に廃校となり、80年以上に渡る歴史に幕を下した。廃校時の在校児童は僅か4名だったという。現在は入口の門柱と体育館、旧校舎の一部らしき建物が残る。


旧体育館に掲げられる三渓小学校校歌
旧体育館に掲げられる三渓小学校の校歌。

朝夕仰ぐ 山脈に
大きな希望 わきあがる
みのりの沃野 先人の
労苦をここに しのびつつ
ともに学ばん この窓に

山野を駆け巡る子供たちが目に浮かぶ北海道の開拓地らしい歌詞だ。今、この校歌を歌える方はどれくらいおられるのだろうか。


三渓神社
三渓地区に鎮座する三渓神社。


熊害慰霊碑
境内にある熊害慰霊碑の碑文を神妙な面持ちで読む父親。熊害慰霊碑は大川春義氏により建立、羆事件の犠牲者7人の名を刻む。阿部マユは太田姓になっており、事件後に太田三郎が正妻としたのだろうか。大川春義氏は羆事件当時7歳の少年だったが、惨事を目の当たりにして熊退治を志し、21歳にして狩猟の免許を得て熊撃ちになった。羆事件から62年後の昭和52年(1977年)、目標としていた100頭目のヒグマを仕留めて一生の悲願を成就、熊害慰霊碑を建立したという。


三渓の集落
三渓の集落を後にして。


射止橋
ルペシュペナイ川と三毛別川合流地点の少し下流、討伐隊がヒグマに一斉射撃を加え傷を負わせた旧氷橋付近。現在はその故事にちなみ射止橋という名の橋が架かる。氷橋とは木材で作った骨組みに、枝葉を敷き詰めて雪で覆い、水をかけ凍結させて路面を作る冬季限定の仮橋のこと。馬ぞりの通行にも十分に耐える頑丈なものだったらしい。


ヒグマ討伐本部・大川與三吉宅跡
事件当時、ヒグマ討伐本部が置かれた三毛別村村長・大川與三吉宅跡。射止橋付近、三毛別川の右岸辺り。家は跡形も無く、田んぼが広がる。


三毛別川
射止橋より三毛別川の下流方向を望む。写真の左岸辺りが討伐隊によるヒグマ被弾地点と思われる。


松浦東三郎宅跡付近
三毛別川左岸、射止橋の袂に建つ倉庫小屋。射止橋の由来が書かれている。ここが六線沢の最下流(北端)部で入口、松浦東三郎宅跡付近にあたる。


浪華橋
吉川輝吉宅跡付近、ルペシュペナイ川に架かる浪華(なにわ)橋。何ゆえ”なにわ”なのだろうと調べてみたら、羆事件から31年後の昭和21年(1946年)、難波開拓団と称する6軒が荒地と化した六線沢に入植したらしい。この橋の名の所以だろう。


中川孫一宅跡
中川孫一宅跡。一面に田んぼが広がるのみで、建物跡らしき遺構は見られない。


三毛別羆事件復元現地
三毛別羆事件復元現地へ。


三毛別羆事件復元現地
事件当時の開拓民が住んだ家と、惨劇を起こした実寸大と思われるヒグマを復元展示。家と呼ぶよりはほったて小屋と表現した方が正確な感じ。当時の厳冬期は氷点下30度位はざらにあっただろうから、こんな粗末な家で寒さを凌いでいた当時の開拓民の労苦は想像に絶する。現代人にとっては到底信じ難い事実なのだ。


三毛別羆事件復元現地
ヒグマの体長は二・七メートルだったというから、作り物とはいえ実物大を目の当たりにすると、その大きさには驚愕する以前に恐怖さえ覚える。身長171センチの私と比較するとこの通り、できれば”ハマの羆”の異名を持つyangyiさんと比較したいところ。こんな化け物が突然目の前に現れたら、確実に死を覚悟するだろう。


三毛別羆事件復元現地
復元開拓民家の内部にて。来訪者向けに感想ノートが置かれ、ここを訪れた方々の様々な思いが綴られる。


三毛別羆事件復元現地
三毛別羆事件復元現地にて。


道道1049号・六線沢
ヒグマに注意しつつ、三毛別羆事件復元現地よりもう少し奥へ入ってみよう。


ルペシュペナイ川
道の横を流れるルペシュペナイ川。


道道1049号・六線沢
この道の向こうに六線沢最奥に居を構えた開拓民、金子富蔵宅があった。


道道1049号・六線沢
ヒグマに出くわしてはたまらんと、急ぎ足で復元現地に戻る。車が見えて一安心。


三毛別羆事件の一部始終は小説やテレビ等に取り上げられ、ネット上でもウィキペディアをはじめ、ホームページやブログに書かれており、その事件について知る方も多いだろう。私は以前に吉村昭著の小説「羆嵐」を読み、その凄惨な事実を知って苫前町三渓を訪れ、六線沢の事件復元現地を見学したことがある。そんなことも忘れかけていた今年6月、偶然にもyangyiさんの一言で再訪することになり、この記事を書くに至った。三渓の地を二度訪れた私であるが、実際の事件現場となった太田三郎宅跡や明景安太郎跡は確認できていない。いつの日か自慢のバイクで三毛別羆事件現場に訪れるであろうyangyiさんからの後報を待ちたい。

撮影日:2012年6月15日(金)
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テーマ : 北海道
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青い池

川越街道の記事を書き終えところで我が故郷、北海道の新たな名所のについて記事に書いておこう。訪ねたのは去年の8月。場所は旭川市の南隣、丘の写真の撮影地で有名な美瑛町。大雪山十勝岳北西側山麓にある白金温泉近くの美瑛川畔に青い池という池がある。美瑛町在住の写真家ケント白石氏の撮影した写真が、アップル社Mac OSの壁紙に採用されて一躍有名になった。絵に描いたようなウォーターブルーの水面は、池に立つ枯れ木と相まって神秘的と表現すべきか、むしろ幻想的と言った方が適当なのか、とにかくすばらしい景観を見せてくれる。白金温泉から流れ出す温泉成分が美瑛川に混じり、美しいウォーターブルーの水を湛える青い池を作り出したらしい。

白金温泉


青い池
道道966号(白樺街道)沿いの駐車場に車を停め、砂利道を歩いて青い池へ。


青い池
ウォーターブルーの水を湛える青い池。なるほど、確かに青い。


青い池
青い池は火山泥流を防ぐ目的で造られた堰堤によって温泉成分の混じった美瑛川の水が溜まり、自生していた木々が立ち枯れてできた偶然の産物。


青い池
ウォーターブルーとスカイブルーコラボが美しい。


青い池
青い池にて。


青い池
離陸準備完了、とんぼ行きまーす!!


白金温泉
青い池から美瑛川を遡って2km程にある白金温泉へ。


白金温泉
駐車場に車を停めて。


大雪山白金観光ホテル
大雪山白金観光ホテルで昼食に。日帰り入浴に昼食が付いて1300円と超お得な日帰りご入浴プランを利用。おススメ!!


大雪山白金観光ホテルにて
値段からあまり期待していなかった昼食だが、想像以上の内容に驚いた。すばらしいの一言!


白ひげの滝
昼食と入浴を終えたところで温泉街にある白ひげの滝を見物に。ここが青い池の発生源とも言うべき場所だろう。滝壺の辺りが青みがかっている。


十勝岳
白金温泉から十勝岳の雄大な姿を望む。


白金模範牧場
せっかくなので、白金温泉近くの白金模範牧場を見学に。


白金模範牧場
白金模範牧場にて。


白金模範牧場
大雪山十勝岳をバックにする広大な牧場は、いかにも北海道って感じでいいね!ただし、ウシアブがブンブン飛んでいて注意が必要。この写真を撮っている時に右手首を思いっきり噛まれ、痛いわ腫れるわで散々な目に…。


北海道旅行の際には白金温泉に立ち寄ってみては。お終い。
撮影日:2012年8月25日(土)

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しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
千葉県在住。

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東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

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