タブの木は伐られた
【成田街道歩き 第1日目】亀有駅→新宿の渡し跡→新宿→柴又→小岩市川渡し跡→八幡宿→本八幡駅
【2012年2月5日(日)成田街道 新宿】
会津西街道を歩き終えてから2週間後の日曜日、次の旧街道歩きのスタート地点へ向かうべく、北柏駅から常磐緩行線に乗り込み、程なく亀有駅に着いて下車。駅からは徒歩で旧水戸街道へ出て、中川橋を渡り新宿へ。ここから成田街道を歩き始める。何ゆえ成田街道を選んだのか。それは定期購読している『男はつらいよ 寅さんDVDマガジン』が最大の理由。DVDで寅さんの活躍ぶりを見ていたら久々に柴又へ行きたくなってしまい、それなら旧街道歩きのついでということで、柴又近辺を通る成田街道を選んだわけだ。
まずは水戸街道歩き以来の再訪となる新宿から記事に書こう。亀有から新宿へ行くには中川を渡らなければならず、その渡河地点には新宿の渡しと呼ばれる渡船場があった。現在はここに中川橋が架けられているのだが、2年ぶりに見た中川橋に少々違和感を感じた。それは橋の東詰にあったタブの木が無くなっているからだ。このタブの木、中川橋が架けられる以前から街道を往来する旅人の目印だったと云われ、近年まで地元住民に親しまれる新宿の語り部のような存在だった。その詳細は後述するが、残念でならない。
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・新宿


新宿の渡し跡(現 中川橋)。対岸の新宿側橋詰にあったタブの木が無くなり、何だか殺風景になったような感じ。

2006年撮影の中川橋。現橋は橋桁しかできていなく、旧橋の新宿側橋詰にタブの木が見える。

中川橋より新宿側を望む。一昨年、水戸街道歩きで訪れた際に同じようなアングルで撮影したものが下の写真。

2010年当時の中川橋東詰。在りし日のタブの木が確認できる。

中川橋より下流方面を望むと、タブの木の代わりにスカイツリーが聳えていた。

中川橋東詰のタブの木は中川橋の架け替え工事によって2011年2月にやむなく伐採。穂を採取して育てた苗木を植樹し、根元部分が往時を偲ぶモニュメントとして設置された。

中川橋旧橋と在りし日のタブの木(解説版より)。いつ頃撮影されたものか不明だが、樹勢旺盛なタブの木の様子がよくわかる。苗木が元の姿まで育つには、百年以上の歳月が必要だろう。

新宿の宿内を通って日枝神社へ。再訪の挨拶と成田街道歩きの安全を祈念して参拝。

中屋のせんべい。2年前と変わらぬ姿に嬉しくなって思わず店内へ。当然ながら煎餅を一袋買ってリュックに詰め込む。
中屋のせんべい
http://nakaya.main.jp/

金阿弥橋。僅か1mにも満たないこの橋に気付く人はほとんどいないだろう。しかし、ここが水戸街道と成田街道(佐倉道)の分岐点、新宿の追分である。

新宿追分から成田街道(佐倉道)を望む。成田街道は水戸街道を分岐してすぐに国道6号と交差している。近年まで写真左手に蕎麦屋があり、その建物脇に石橋供養道標が残されていたが、現在は”葛飾区郷土と天文の博物館”に移設保存されている。
葛飾区郷土と天文の博物館
http://www.museum.city.katsushika.lg.jp/index.php

2006年に同アングルで撮影した新宿追分。この時はまだ蕎麦屋と道標があった。

これが2006年当時の石橋供養道標。安永6年(1777年)の建立で、「右 なりたちば寺道 左 水戸街道」と刻まれる。安永2年(1773年)から5年をかけて、この地域の万人講・不動講・女中講の人々は27ヶ所の石橋を架け、その供養のために造らせたのがこの道標。その苦労に報いるためにも、できれば元の場所に戻してあげてほしい。

水戸佐倉道分間延絵図より新宿を抜粋。金阿弥橋や石橋供養道標が確認できる。水戸佐倉道分間延絵図は寛政年間(1789年~1801年)幕府の道中奉行により制作、文化3年(1806年)に完成した。道中奉行の支配下にあった千住宿から松戸宿(水戸道)、八幡宿(佐倉道)までの道中が描かれている。
【2012年2月5日(日)成田街道 新宿】
会津西街道を歩き終えてから2週間後の日曜日、次の旧街道歩きのスタート地点へ向かうべく、北柏駅から常磐緩行線に乗り込み、程なく亀有駅に着いて下車。駅からは徒歩で旧水戸街道へ出て、中川橋を渡り新宿へ。ここから成田街道を歩き始める。何ゆえ成田街道を選んだのか。それは定期購読している『男はつらいよ 寅さんDVDマガジン』が最大の理由。DVDで寅さんの活躍ぶりを見ていたら久々に柴又へ行きたくなってしまい、それなら旧街道歩きのついでということで、柴又近辺を通る成田街道を選んだわけだ。
まずは水戸街道歩き以来の再訪となる新宿から記事に書こう。亀有から新宿へ行くには中川を渡らなければならず、その渡河地点には新宿の渡しと呼ばれる渡船場があった。現在はここに中川橋が架けられているのだが、2年ぶりに見た中川橋に少々違和感を感じた。それは橋の東詰にあったタブの木が無くなっているからだ。このタブの木、中川橋が架けられる以前から街道を往来する旅人の目印だったと云われ、近年まで地元住民に親しまれる新宿の語り部のような存在だった。その詳細は後述するが、残念でならない。
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新宿の渡し跡(現 中川橋)。対岸の新宿側橋詰にあったタブの木が無くなり、何だか殺風景になったような感じ。

2006年撮影の中川橋。現橋は橋桁しかできていなく、旧橋の新宿側橋詰にタブの木が見える。

中川橋より新宿側を望む。一昨年、水戸街道歩きで訪れた際に同じようなアングルで撮影したものが下の写真。

2010年当時の中川橋東詰。在りし日のタブの木が確認できる。

中川橋より下流方面を望むと、タブの木の代わりにスカイツリーが聳えていた。

中川橋東詰のタブの木は中川橋の架け替え工事によって2011年2月にやむなく伐採。穂を採取して育てた苗木を植樹し、根元部分が往時を偲ぶモニュメントとして設置された。

中川橋旧橋と在りし日のタブの木(解説版より)。いつ頃撮影されたものか不明だが、樹勢旺盛なタブの木の様子がよくわかる。苗木が元の姿まで育つには、百年以上の歳月が必要だろう。

新宿の宿内を通って日枝神社へ。再訪の挨拶と成田街道歩きの安全を祈念して参拝。

中屋のせんべい。2年前と変わらぬ姿に嬉しくなって思わず店内へ。当然ながら煎餅を一袋買ってリュックに詰め込む。
中屋のせんべい
http://nakaya.main.jp/

金阿弥橋。僅か1mにも満たないこの橋に気付く人はほとんどいないだろう。しかし、ここが水戸街道と成田街道(佐倉道)の分岐点、新宿の追分である。

新宿追分から成田街道(佐倉道)を望む。成田街道は水戸街道を分岐してすぐに国道6号と交差している。近年まで写真左手に蕎麦屋があり、その建物脇に石橋供養道標が残されていたが、現在は”葛飾区郷土と天文の博物館”に移設保存されている。
葛飾区郷土と天文の博物館
http://www.museum.city.katsushika.lg.jp/index.php

2006年に同アングルで撮影した新宿追分。この時はまだ蕎麦屋と道標があった。

これが2006年当時の石橋供養道標。安永6年(1777年)の建立で、「右 なりたちば寺道 左 水戸街道」と刻まれる。安永2年(1773年)から5年をかけて、この地域の万人講・不動講・女中講の人々は27ヶ所の石橋を架け、その供養のために造らせたのがこの道標。その苦労に報いるためにも、できれば元の場所に戻してあげてほしい。

水戸佐倉道分間延絵図より新宿を抜粋。金阿弥橋や石橋供養道標が確認できる。水戸佐倉道分間延絵図は寛政年間(1789年~1801年)幕府の道中奉行により制作、文化3年(1806年)に完成した。道中奉行の支配下にあった千住宿から松戸宿(水戸道)、八幡宿(佐倉道)までの道中が描かれている。

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