函館山
時は少々遡る。成田街道歩きの記事を書き終えたところで、今年6月に旅した函館のことを書こう。私は函館の特異な地形と和洋の新旧建築が入り混じった町並みが好きで、年に数回は訪れている。戊辰戦争最後の舞台にもなった場所で、歴史の浅い北海道にあって幕末史を垣間見れる町でもある。標高334mの函館山から望む夜景は広く知られ、100万ドルの夜景と称えられる程に素晴らしいものだ。私も函館山には過去に数回登っているが、山頂へはバスかロープウェイでしか行ったことがない。そこで少々血が騒いだ。歩いて登れんのかと…。観光案内所等で尋ねればすぐにわかることだろうが、それでは面白くない。函館駅に降り立った私は、ただひたすら函館山を目指して歩いた。


豊川町の赤レンガ倉庫群付近より函館山を望む。函館山の頂を目指して歩こう。

まずは豊川稲荷神社で大願成就?を祈願。豊川稲荷神社は文久年間(1861年~1864年)の創建。当時この辺りは新築島と称していたが、この神社が鎮座して豊川町という地名になった。

せっかくなので赤レンガ倉庫群に寄り道。

赤レンガ倉庫群と函館山。幕末から函館は横浜・長崎と共に国際貿易港として発展、明治40年頃に建築された赤レンガ倉庫群が往時の面影を留める。現在はベイエリアとして赤レンガ造りの飲食店や土産物屋が並ぶ函館有数の観光スポットだ。

数多くある函館山山麓の坂道。とりあえず八幡坂から函館山方向へ上ってみよう。

八幡坂より函館湾を望む。

八幡坂上にある遺愛幼稚園。明治28年(1895年)遺愛女学校併設の幼稚園として開設された。明治40年(1907年)の大火で類焼し、現在の建物は大正2年(1913年)に再建されたもの。

遺愛幼稚園の隣、ハリストス正教会。安政6年(1859年)初代ロシア領事館の付属聖堂として建立、明治40年(1907年)遺愛幼稚園と同じく大火によって類焼し、大正5年(1916年)に再建された。ロシア風ビザンチン様式という建築らしい。

ハリストス正教会と函館山。教会内部は一般公開されており、恐縮しつつ内部見学。内部の撮影は禁止なので写真は無いが、厳かな雰囲気がとにかく凄い。詳しくはこちらで↓
函館ハリストス正教会

こちらはカトリック元町教会。元町は教会がとにかく多い。この教会は安政6年(1859年)に仮聖堂が建てられたことに始まり、以後3度の大火で類焼。現在の建物は大正13年(1924年)ゴシックスタイルの耐火建築で再建されたもの。

二十間坂。道幅二十間(約36メートル)に坂名の由来がある。函館は大火が多く発生したため、防火のために道幅を広くしたという。

ニ十間坂沿いにある東本願寺函館別院。元町の教会群の中にあって異端な感じ。始まりは松前専念寺の一寺として木古内にあり、宝永7年(1710年)函館(函館市弥生町、現在の弥生小学校付近)へ移転。安政5年(1858年)本願寺箱館御坊と改名し、明治9年(1876年)本願寺別院となった。明治12年(1879年)の大火で焼失、現在地に移された。現在の建物は大正4年(1915年)の建築で、現存する鉄筋コンクリート造りの寺院としては日本最古という。

二十間坂上にある女神像。少々違和感があったので調べてみるとこの女神像、平成22年(2010年)マルキタ北村水産が店頭に設置したもので、周辺の景観にそぐわないと地元住民から苦情が多数寄せられ、市の行政指導もあって店の屋上に撤去されていたらしい。何ゆえ再び降臨できたのか…。

カトリック元町教会と東本願寺函館別院の間を通る大三坂。その昔、坂の入口に大三という屋号の宿があったことに坂名の由来がある。

大三坂上から小径の坂道を登り函館市街を望む。この小径の坂道は”チャチャ登り”と呼ばれ、”チャチャ”とはアイヌ語でお爺さんの意味。急坂なために前屈みで腰を曲げて登る様が老人のようだったことから、そう名付けられたという。

”チャチャ登り”坂上より函館山山頂を望む。函館山へ近づくにはこの辺りが限界。近いようで遠い函館山、元町辺りから徒歩で登る術はなさそうだ。

”チャチャ登り”から函館山登山口へ移動。登山道と言ってもアスファルトに舗装された車が登るための道。ここから観光バスが通り抜ける横を登る気にもなれず…。まずは登山口に鎮座する函館護国神社を参拝しつつ、どうするか考えよう。

函館護国神社。箱館戦争終結後に新政府方の戦没者を祀る招魂場として設けられたのがはじまり。

函館護国神社の新政府軍戦没者墓地。墓碑には薩藩をはじめ弘前・大野藩・備後福山藩等の文字が多く見られる。

日本のために日本人同士で戦い、函館に散った兵士たちは、今の日本を見て何を思うのだろう。多くの犠牲があって日本の平和が築かれていることを忘れてはならない。

人間諦めが肝心。函館山へ歩いて登るのは困難と判断、潔く往復チケットを買ってロープウェイに乗車。函館山山頂の展望台へ来てしまった…。つづく。
撮影日:2012年6月13日(水)


豊川町の赤レンガ倉庫群付近より函館山を望む。函館山の頂を目指して歩こう。

まずは豊川稲荷神社で大願成就?を祈願。豊川稲荷神社は文久年間(1861年~1864年)の創建。当時この辺りは新築島と称していたが、この神社が鎮座して豊川町という地名になった。

せっかくなので赤レンガ倉庫群に寄り道。

赤レンガ倉庫群と函館山。幕末から函館は横浜・長崎と共に国際貿易港として発展、明治40年頃に建築された赤レンガ倉庫群が往時の面影を留める。現在はベイエリアとして赤レンガ造りの飲食店や土産物屋が並ぶ函館有数の観光スポットだ。

数多くある函館山山麓の坂道。とりあえず八幡坂から函館山方向へ上ってみよう。

八幡坂より函館湾を望む。

八幡坂上にある遺愛幼稚園。明治28年(1895年)遺愛女学校併設の幼稚園として開設された。明治40年(1907年)の大火で類焼し、現在の建物は大正2年(1913年)に再建されたもの。

遺愛幼稚園の隣、ハリストス正教会。安政6年(1859年)初代ロシア領事館の付属聖堂として建立、明治40年(1907年)遺愛幼稚園と同じく大火によって類焼し、大正5年(1916年)に再建された。ロシア風ビザンチン様式という建築らしい。

ハリストス正教会と函館山。教会内部は一般公開されており、恐縮しつつ内部見学。内部の撮影は禁止なので写真は無いが、厳かな雰囲気がとにかく凄い。詳しくはこちらで↓
函館ハリストス正教会

こちらはカトリック元町教会。元町は教会がとにかく多い。この教会は安政6年(1859年)に仮聖堂が建てられたことに始まり、以後3度の大火で類焼。現在の建物は大正13年(1924年)ゴシックスタイルの耐火建築で再建されたもの。

二十間坂。道幅二十間(約36メートル)に坂名の由来がある。函館は大火が多く発生したため、防火のために道幅を広くしたという。

ニ十間坂沿いにある東本願寺函館別院。元町の教会群の中にあって異端な感じ。始まりは松前専念寺の一寺として木古内にあり、宝永7年(1710年)函館(函館市弥生町、現在の弥生小学校付近)へ移転。安政5年(1858年)本願寺箱館御坊と改名し、明治9年(1876年)本願寺別院となった。明治12年(1879年)の大火で焼失、現在地に移された。現在の建物は大正4年(1915年)の建築で、現存する鉄筋コンクリート造りの寺院としては日本最古という。

二十間坂上にある女神像。少々違和感があったので調べてみるとこの女神像、平成22年(2010年)マルキタ北村水産が店頭に設置したもので、周辺の景観にそぐわないと地元住民から苦情が多数寄せられ、市の行政指導もあって店の屋上に撤去されていたらしい。何ゆえ再び降臨できたのか…。

カトリック元町教会と東本願寺函館別院の間を通る大三坂。その昔、坂の入口に大三という屋号の宿があったことに坂名の由来がある。

大三坂上から小径の坂道を登り函館市街を望む。この小径の坂道は”チャチャ登り”と呼ばれ、”チャチャ”とはアイヌ語でお爺さんの意味。急坂なために前屈みで腰を曲げて登る様が老人のようだったことから、そう名付けられたという。

”チャチャ登り”坂上より函館山山頂を望む。函館山へ近づくにはこの辺りが限界。近いようで遠い函館山、元町辺りから徒歩で登る術はなさそうだ。

”チャチャ登り”から函館山登山口へ移動。登山道と言ってもアスファルトに舗装された車が登るための道。ここから観光バスが通り抜ける横を登る気にもなれず…。まずは登山口に鎮座する函館護国神社を参拝しつつ、どうするか考えよう。

函館護国神社。箱館戦争終結後に新政府方の戦没者を祀る招魂場として設けられたのがはじまり。

函館護国神社の新政府軍戦没者墓地。墓碑には薩藩をはじめ弘前・大野藩・備後福山藩等の文字が多く見られる。

日本のために日本人同士で戦い、函館に散った兵士たちは、今の日本を見て何を思うのだろう。多くの犠牲があって日本の平和が築かれていることを忘れてはならない。

人間諦めが肝心。函館山へ歩いて登るのは困難と判断、潔く往復チケットを買ってロープウェイに乗車。函館山山頂の展望台へ来てしまった…。つづく。
撮影日:2012年6月13日(水)

スポンサーサイト