苫前ベアーロード
今年の4月、秋田の八幡平クマ牧場で経営者のずさんな管理体制から6頭のヒグマが脱走し、2名の従業員が襲われて死亡、悲惨な事故だっただけに今だ記憶に新しい。脱走したヒグマは全頭射殺されたことはテレビや新聞の報道で知るところだが、一部週刊誌によるとヒグマはろくに餌を与えられておらすに飢えていたといい、解体したヒグマの胃袋から遺体の一部や衣服が出てきたともいう。そんな凄惨な事実を知ったらしい我が盟友のyangyiさんが、ある日唐突に質問をしてきた。
「クマが人間を食う話、知ってるか?」
話をよくよく聞いてみると、八幡平クマ牧場の事件を知ったyangyiさんはネットで人がヒグマに襲われた事件のことを調べたらしく、行き着いた所が三毛別羆(さんけべつひぐま)事件だったという。今度、北海道に行ったときに事件現場へ行って記事に書いてくれよと頼まれた。オッケー
とローラばりに軽い返事をした私、今年6月に機会は早くも訪れる。函館山散策の翌日、鉄路で実家のある旭川へ移動。明くる日に父親を案内人にして、三毛別羆事件の現場である苫前町へ向かう。そんな経緯あってこの記事を書くことになった。
旭川から北西へ直進距離で約80km、天売・焼尻島を望む日本海海岸に苫前町は位置する。子供の頃、度々海水浴に訪れた懐かしい場所だ。苫前の海岸から国道239号(霧立国道)を内陸へ5km程入った所に古丹別の町があり、ここから更に道道1049号を南下すること約18km、三渓(旧 三毛別)の六線沢と呼ばれる山間が羆事件現場である。古丹別から羆事件現場までの道道1049号はベアーロードと名付けられ、沿道の看板やシャッター等には可愛らしい熊さんのイラストが描かれる。

大正4年(1915年)12月、事件は三毛別開拓民の家が点在する三毛別・六線沢で起きた。冬眠に適当な穴を見つけられずその機を逸したヒグマは”穴持たず”と呼ばれ、厳冬期でも餌を求めて活動するという。山地は積雪に覆われ、川は氷結する12月の北海道、まともな餌にありつけるはずもない”穴もたず”は、空腹から狂暴化し、2日間にわたって六線沢の人家を襲った。死者7名(胎児1名を含む)、重傷者3名(後に後遺症で1名死亡)が殺傷された日本史上最悪といわれる獣害事件である。以下に苫前町郷土資料館とウィキ等より得た情報で事件概要を時系列に記し、当時の六線沢にあった開拓民家の位置を地図に示す。

[大正4年11月初旬]
池田富蔵宅に巨大なヒグマが出現。被害は家にあったトウモロコシのみ。
[11月20日]
ヒグマが池田富蔵宅に再び現れる。ヒグマを仕留めようと富蔵は二人のマタギを呼び寄せて待ち伏せする。
[11月30日]
ヒグマが三度現れ、富蔵とマタギ二人はヒグマを射撃したが、仕留めるには至らず。
[12月9日]
太田三郎(42)宅にて主人・三郎と同家の寄宿人・通称オドこと長松要吉(59)の留守中、家にいた内縁の妻・阿部マユ(34)と預かり児・蓮見幹雄(6)をヒグマが襲う。オドが帰宅し幹雄の死体を発見、マユはヒグマに戸外へ引き摺り出され行方不明に。
[12月10日]
早朝、斉藤石五郎(42)は事件報告に古丹別の警察と苫前村役場へ、明景安太郎が幹雄の実家(力昼村)と石五郎の子を預かる親類宅(鬼鹿村)へ向けてそれぞれ発つ。30名程で阿部マユの捜索隊を結成、太田三郎宅付近の山中でマユの遺体を発見する。この時、遺体を奪還しようとヒグマが現れたが、銃の手入れが悪く一挺の銃が発砲したのみでヒグマは逃走。その夜、太田三郎宅にて通夜が行われる中、遺体奪還にヒグマが再度襲来するも、必死の抵抗で人的被害はなくヒグマは逃走した。
ヒグマは明景安太郎(40)宅へ向かい襲撃。明景家の三男・金蔵(3)をはじめ、ここに避難していた斉藤石五郎の妻タケ(34)と四男の春義(3)を殺害。タケの胎児は腹から引き摺れ出され、発見から1時間後に死亡した。明景安太郎の妻・ヤヨ(34)と四男・梅吉(1)、斉藤石五郎の三男・巌(6)、家番をしていたオドが重傷。巌の負った傷は深く20分後に死亡した。
深夜、明景安太郎が鬼鹿村温根に住む山本兵吉へ加勢を要請。兵吉は若い頃に鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄」の異名を持つ伝説のマタギである。
[12月11日]
六線沢の全住民が三毛別分教場に避難。重傷者は辻橋蔵宅に収容。
[12月12日]
羽幌分署長・菅警部を隊長にヒグマ討伐隊を組織、三毛別村村長・大川與三吉宅を本部とする。人的被害の拡大抑止のため、下流域にヒグマが侵入しないよう氷橋(現 射止橋)周辺の三毛別川右岸を防衛線として警備。
夜から明朝にかけ、明景安太郎宅で犠牲者の遺体をおとりに待ち伏せするも、ヒグマは警戒心から家に近づかず作戦失敗。
[12月13日]
山本兵吉が鬼鹿村より三毛別村へ入る。
旭川から陸軍第7師団歩兵第28連隊の将兵30名が出動。
夕暮れ時、ヒグマが六線沢に現れ、中川孫一・数馬アサノ・松田林治・松村長助・中川長一・吉川輝吉・辻橋蔵・松浦東三郎の8戸がヒグマの侵入を受ける。
夜、防衛線としていた氷橋付近の三毛別川左岸にヒグマが出没。一斉射撃を加えたが仕留めるには至らず。
[12月14日]
明朝、昨夜のヒグマ出没地点を捜索したところ足跡と血痕を発見。これを頼りに討伐隊は追跡を開始。いち早く追跡に山へ入っていた山本兵吉は山麓の討伐隊に気を取られるヒグマを発見。風下から気配を殺してヒグマに近づき、二発の銃弾で仕留めた。一発目はヒグマの心臓、二発目は眉間と確実に急所を弾丸は貫いていたという。
仕留めたヒグマは年齢7~8歳の雄で体長二・七メートル、体重三四〇キロ。黒褐色に金毛が混じり、胸のあたりに袈裟がけの白斑があったと云われる。ヒグマの死体を三毛別まで運んでくる途次、天候が急変し猛吹雪となった。ヒグマを仕留めた後には強風が吹き荒れるという。羆風(くまかぜ)や羆嵐(くまあらし)と呼ばれる。
事件後、六線沢から開拓農家は次々に去り、翌年暮れには辻家が残るだけになったという。

まずは苫前町郷土資料館へ。三毛別羆事件についての資料・展示が豊富で事前学習にはもってこい。

資料館展示室。三毛別羆事件をはじめ苫前の歴史を今に伝える資料館だ。

展示に見入る案内人の父親。

圧倒的にヒグマに関する展示が多い。

三毛別羆事件を再現する実物大の展示。大人の男性(長松要吉ことオドか?)がいることから、おそらく明景宅をヒグマが襲ったときの再現だろう。

日本最大のヒグマ”北海太郎”の剥製。和55年5月6日、羽幌町内築別の通称シラカバ沢で射止めれれる。推定年齢18歳の雄で体長二・四メートル、体重五〇〇キロ。仕留めたのは辻優一氏と大川高義氏である。高義氏の父は102頭のヒグマを射止めた熊討ち名人・大川春義氏で、三毛別羆事件当時の三毛別村村長・大川與三吉のご子息である。事件当時7歳だった。

山本兵吉の肖像写真。兵吉は日露戦争に従軍、兵役を終えた後も常に軍帽を被り、深酒しては喧嘩騒ぎを起こす粗暴な男だったというが、写真の柔和な笑顔を見る限りそんな印象は受けない。小説「羆嵐」の創作による人物像なのかもしれない。熊撃ちの腕は一級品で、生涯に射止めたヒグマは300~400頭とも伝わる。戦利品のロシア製ライフルを熊撃ちに愛用したといい、この写真に見えるライフルはそれだろうか。左手に小熊を抱えているのが、いかにも伝説のマタギらしい。

事前学習を終えて、まずは空腹を満たすべく”道の駅・風Wとままえ”へ。
北海道・北の道の駅 風Wとままえ
http://www.hokkaido-michinoeki.jp/data/94/each.htm

道の駅内にあるレストラン風夢で苫前産の甘えび丼を食らう。どうですか、このプリッぷりの新鮮な甘えび。美味そうでしょ。

苫前港を望む。さっき食べた苫前産の甘えびは、きっとここで荷揚げされたんだろう。

苫前の風車群と海岸。

苫前市街から古丹別へ移動。ここが国道239号(霧立国道)から道道1049号(ベアーロード)が分岐点する交差点。写真奥に延びる道がベアーロード。

ベアーロード起点に立つ案内看板。

古丹別の町並み。かつては羽幌線(昭和62年廃止)が通り、林業によって賑わったのも今は昔。道道沿いに店が軒を連ねるが、シャッターを閉めた店が多い。

車窓から。九重地区のベアーロードを行く。北海道らしい直線道。

三渓(旧三毛別)の集落。数軒の家と三渓へき地保健福祉館、旧三渓小学校の体育館が残るのみ。かつて林業と農業で栄えた集落も今や昔。

旧町立三渓小学校。明治40年(1907年)三毛別御料特別教育所として開校し、昭和22年(1947年)三渓小学校に改称。長らく三渓(旧三毛別)地区に住む子供たちの学び舎だったが、平成2年(1990年)に廃校となり、80年以上に渡る歴史に幕を下した。廃校時の在校児童は僅か4名だったという。現在は入口の門柱と体育館、旧校舎の一部らしき建物が残る。

旧体育館に掲げられる三渓小学校の校歌。
朝夕仰ぐ 山脈に
大きな希望 わきあがる
みのりの沃野 先人の
労苦をここに しのびつつ
ともに学ばん この窓に
山野を駆け巡る子供たちが目に浮かぶ北海道の開拓地らしい歌詞だ。今、この校歌を歌える方はどれくらいおられるのだろうか。

三渓地区に鎮座する三渓神社。

境内にある熊害慰霊碑の碑文を神妙な面持ちで読む父親。熊害慰霊碑は大川春義氏により建立、羆事件の犠牲者7人の名を刻む。阿部マユは太田姓になっており、事件後に太田三郎が正妻としたのだろうか。大川春義氏は羆事件当時7歳の少年だったが、惨事を目の当たりにして熊退治を志し、21歳にして狩猟の免許を得て熊撃ちになった。羆事件から62年後の昭和52年(1977年)、目標としていた100頭目のヒグマを仕留めて一生の悲願を成就、熊害慰霊碑を建立したという。

三渓の集落を後にして。

ルペシュペナイ川と三毛別川合流地点の少し下流、討伐隊がヒグマに一斉射撃を加え傷を負わせた旧氷橋付近。現在はその故事にちなみ射止橋という名の橋が架かる。氷橋とは木材で作った骨組みに、枝葉を敷き詰めて雪で覆い、水をかけ凍結させて路面を作る冬季限定の仮橋のこと。馬ぞりの通行にも十分に耐える頑丈なものだったらしい。

事件当時、ヒグマ討伐本部が置かれた三毛別村村長・大川與三吉宅跡。射止橋付近、三毛別川の右岸辺り。家は跡形も無く、田んぼが広がる。

射止橋より三毛別川の下流方向を望む。写真の左岸辺りが討伐隊によるヒグマ被弾地点と思われる。

三毛別川左岸、射止橋の袂に建つ倉庫小屋。射止橋の由来が書かれている。ここが六線沢の最下流(北端)部で入口、松浦東三郎宅跡付近にあたる。

吉川輝吉宅跡付近、ルペシュペナイ川に架かる浪華(なにわ)橋。何ゆえ”なにわ”なのだろうと調べてみたら、羆事件から31年後の昭和21年(1946年)、難波開拓団と称する6軒が荒地と化した六線沢に入植したらしい。この橋の名の所以だろう。

中川孫一宅跡。一面に田んぼが広がるのみで、建物跡らしき遺構は見られない。

三毛別羆事件復元現地へ。

事件当時の開拓民が住んだ家と、惨劇を起こした実寸大と思われるヒグマを復元展示。家と呼ぶよりはほったて小屋と表現した方が正確な感じ。当時の厳冬期は氷点下30度位はざらにあっただろうから、こんな粗末な家で寒さを凌いでいた当時の開拓民の労苦は想像に絶する。現代人にとっては到底信じ難い事実なのだ。

ヒグマの体長は二・七メートルだったというから、作り物とはいえ実物大を目の当たりにすると、その大きさには驚愕する以前に恐怖さえ覚える。身長171センチの私と比較するとこの通り、できれば”ハマの羆”の異名を持つyangyiさんと比較したいところ。こんな化け物が突然目の前に現れたら、確実に死を覚悟するだろう。

復元開拓民家の内部にて。来訪者向けに感想ノートが置かれ、ここを訪れた方々の様々な思いが綴られる。

三毛別羆事件復元現地にて。

ヒグマに注意しつつ、三毛別羆事件復元現地よりもう少し奥へ入ってみよう。

道の横を流れるルペシュペナイ川。

この道の向こうに六線沢最奥に居を構えた開拓民、金子富蔵宅があった。

ヒグマに出くわしてはたまらんと、急ぎ足で復元現地に戻る。車が見えて一安心。
三毛別羆事件の一部始終は小説やテレビ等に取り上げられ、ネット上でもウィキペディアをはじめ、ホームページやブログに書かれており、その事件について知る方も多いだろう。私は以前に吉村昭著の小説「羆嵐」を読み、その凄惨な事実を知って苫前町三渓を訪れ、六線沢の事件復元現地を見学したことがある。そんなことも忘れかけていた今年6月、偶然にもyangyiさんの一言で再訪することになり、この記事を書くに至った。三渓の地を二度訪れた私であるが、実際の事件現場となった太田三郎宅跡や明景安太郎跡は確認できていない。いつの日か自慢のバイクで三毛別羆事件現場に訪れるであろうyangyiさんからの後報を待ちたい。
撮影日:2012年6月15日(金)
「クマが人間を食う話、知ってるか?」
話をよくよく聞いてみると、八幡平クマ牧場の事件を知ったyangyiさんはネットで人がヒグマに襲われた事件のことを調べたらしく、行き着いた所が三毛別羆(さんけべつひぐま)事件だったという。今度、北海道に行ったときに事件現場へ行って記事に書いてくれよと頼まれた。オッケー

旭川から北西へ直進距離で約80km、天売・焼尻島を望む日本海海岸に苫前町は位置する。子供の頃、度々海水浴に訪れた懐かしい場所だ。苫前の海岸から国道239号(霧立国道)を内陸へ5km程入った所に古丹別の町があり、ここから更に道道1049号を南下すること約18km、三渓(旧 三毛別)の六線沢と呼ばれる山間が羆事件現場である。古丹別から羆事件現場までの道道1049号はベアーロードと名付けられ、沿道の看板やシャッター等には可愛らしい熊さんのイラストが描かれる。

大正4年(1915年)12月、事件は三毛別開拓民の家が点在する三毛別・六線沢で起きた。冬眠に適当な穴を見つけられずその機を逸したヒグマは”穴持たず”と呼ばれ、厳冬期でも餌を求めて活動するという。山地は積雪に覆われ、川は氷結する12月の北海道、まともな餌にありつけるはずもない”穴もたず”は、空腹から狂暴化し、2日間にわたって六線沢の人家を襲った。死者7名(胎児1名を含む)、重傷者3名(後に後遺症で1名死亡)が殺傷された日本史上最悪といわれる獣害事件である。以下に苫前町郷土資料館とウィキ等より得た情報で事件概要を時系列に記し、当時の六線沢にあった開拓民家の位置を地図に示す。

[大正4年11月初旬]
池田富蔵宅に巨大なヒグマが出現。被害は家にあったトウモロコシのみ。
[11月20日]
ヒグマが池田富蔵宅に再び現れる。ヒグマを仕留めようと富蔵は二人のマタギを呼び寄せて待ち伏せする。
[11月30日]
ヒグマが三度現れ、富蔵とマタギ二人はヒグマを射撃したが、仕留めるには至らず。
[12月9日]
太田三郎(42)宅にて主人・三郎と同家の寄宿人・通称オドこと長松要吉(59)の留守中、家にいた内縁の妻・阿部マユ(34)と預かり児・蓮見幹雄(6)をヒグマが襲う。オドが帰宅し幹雄の死体を発見、マユはヒグマに戸外へ引き摺り出され行方不明に。
[12月10日]
早朝、斉藤石五郎(42)は事件報告に古丹別の警察と苫前村役場へ、明景安太郎が幹雄の実家(力昼村)と石五郎の子を預かる親類宅(鬼鹿村)へ向けてそれぞれ発つ。30名程で阿部マユの捜索隊を結成、太田三郎宅付近の山中でマユの遺体を発見する。この時、遺体を奪還しようとヒグマが現れたが、銃の手入れが悪く一挺の銃が発砲したのみでヒグマは逃走。その夜、太田三郎宅にて通夜が行われる中、遺体奪還にヒグマが再度襲来するも、必死の抵抗で人的被害はなくヒグマは逃走した。
ヒグマは明景安太郎(40)宅へ向かい襲撃。明景家の三男・金蔵(3)をはじめ、ここに避難していた斉藤石五郎の妻タケ(34)と四男の春義(3)を殺害。タケの胎児は腹から引き摺れ出され、発見から1時間後に死亡した。明景安太郎の妻・ヤヨ(34)と四男・梅吉(1)、斉藤石五郎の三男・巌(6)、家番をしていたオドが重傷。巌の負った傷は深く20分後に死亡した。
深夜、明景安太郎が鬼鹿村温根に住む山本兵吉へ加勢を要請。兵吉は若い頃に鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄」の異名を持つ伝説のマタギである。
[12月11日]
六線沢の全住民が三毛別分教場に避難。重傷者は辻橋蔵宅に収容。
[12月12日]
羽幌分署長・菅警部を隊長にヒグマ討伐隊を組織、三毛別村村長・大川與三吉宅を本部とする。人的被害の拡大抑止のため、下流域にヒグマが侵入しないよう氷橋(現 射止橋)周辺の三毛別川右岸を防衛線として警備。
夜から明朝にかけ、明景安太郎宅で犠牲者の遺体をおとりに待ち伏せするも、ヒグマは警戒心から家に近づかず作戦失敗。
[12月13日]
山本兵吉が鬼鹿村より三毛別村へ入る。
旭川から陸軍第7師団歩兵第28連隊の将兵30名が出動。
夕暮れ時、ヒグマが六線沢に現れ、中川孫一・数馬アサノ・松田林治・松村長助・中川長一・吉川輝吉・辻橋蔵・松浦東三郎の8戸がヒグマの侵入を受ける。
夜、防衛線としていた氷橋付近の三毛別川左岸にヒグマが出没。一斉射撃を加えたが仕留めるには至らず。
[12月14日]
明朝、昨夜のヒグマ出没地点を捜索したところ足跡と血痕を発見。これを頼りに討伐隊は追跡を開始。いち早く追跡に山へ入っていた山本兵吉は山麓の討伐隊に気を取られるヒグマを発見。風下から気配を殺してヒグマに近づき、二発の銃弾で仕留めた。一発目はヒグマの心臓、二発目は眉間と確実に急所を弾丸は貫いていたという。
仕留めたヒグマは年齢7~8歳の雄で体長二・七メートル、体重三四〇キロ。黒褐色に金毛が混じり、胸のあたりに袈裟がけの白斑があったと云われる。ヒグマの死体を三毛別まで運んでくる途次、天候が急変し猛吹雪となった。ヒグマを仕留めた後には強風が吹き荒れるという。羆風(くまかぜ)や羆嵐(くまあらし)と呼ばれる。
事件後、六線沢から開拓農家は次々に去り、翌年暮れには辻家が残るだけになったという。

まずは苫前町郷土資料館へ。三毛別羆事件についての資料・展示が豊富で事前学習にはもってこい。

資料館展示室。三毛別羆事件をはじめ苫前の歴史を今に伝える資料館だ。

展示に見入る案内人の父親。

圧倒的にヒグマに関する展示が多い。

三毛別羆事件を再現する実物大の展示。大人の男性(長松要吉ことオドか?)がいることから、おそらく明景宅をヒグマが襲ったときの再現だろう。

日本最大のヒグマ”北海太郎”の剥製。和55年5月6日、羽幌町内築別の通称シラカバ沢で射止めれれる。推定年齢18歳の雄で体長二・四メートル、体重五〇〇キロ。仕留めたのは辻優一氏と大川高義氏である。高義氏の父は102頭のヒグマを射止めた熊討ち名人・大川春義氏で、三毛別羆事件当時の三毛別村村長・大川與三吉のご子息である。事件当時7歳だった。

山本兵吉の肖像写真。兵吉は日露戦争に従軍、兵役を終えた後も常に軍帽を被り、深酒しては喧嘩騒ぎを起こす粗暴な男だったというが、写真の柔和な笑顔を見る限りそんな印象は受けない。小説「羆嵐」の創作による人物像なのかもしれない。熊撃ちの腕は一級品で、生涯に射止めたヒグマは300~400頭とも伝わる。戦利品のロシア製ライフルを熊撃ちに愛用したといい、この写真に見えるライフルはそれだろうか。左手に小熊を抱えているのが、いかにも伝説のマタギらしい。

事前学習を終えて、まずは空腹を満たすべく”道の駅・風Wとままえ”へ。
北海道・北の道の駅 風Wとままえ
http://www.hokkaido-michinoeki.jp/data/94/each.htm

道の駅内にあるレストラン風夢で苫前産の甘えび丼を食らう。どうですか、このプリッぷりの新鮮な甘えび。美味そうでしょ。

苫前港を望む。さっき食べた苫前産の甘えびは、きっとここで荷揚げされたんだろう。

苫前の風車群と海岸。

苫前市街から古丹別へ移動。ここが国道239号(霧立国道)から道道1049号(ベアーロード)が分岐点する交差点。写真奥に延びる道がベアーロード。

ベアーロード起点に立つ案内看板。

古丹別の町並み。かつては羽幌線(昭和62年廃止)が通り、林業によって賑わったのも今は昔。道道沿いに店が軒を連ねるが、シャッターを閉めた店が多い。

車窓から。九重地区のベアーロードを行く。北海道らしい直線道。

三渓(旧三毛別)の集落。数軒の家と三渓へき地保健福祉館、旧三渓小学校の体育館が残るのみ。かつて林業と農業で栄えた集落も今や昔。

旧町立三渓小学校。明治40年(1907年)三毛別御料特別教育所として開校し、昭和22年(1947年)三渓小学校に改称。長らく三渓(旧三毛別)地区に住む子供たちの学び舎だったが、平成2年(1990年)に廃校となり、80年以上に渡る歴史に幕を下した。廃校時の在校児童は僅か4名だったという。現在は入口の門柱と体育館、旧校舎の一部らしき建物が残る。

旧体育館に掲げられる三渓小学校の校歌。
朝夕仰ぐ 山脈に
大きな希望 わきあがる
みのりの沃野 先人の
労苦をここに しのびつつ
ともに学ばん この窓に
山野を駆け巡る子供たちが目に浮かぶ北海道の開拓地らしい歌詞だ。今、この校歌を歌える方はどれくらいおられるのだろうか。

三渓地区に鎮座する三渓神社。

境内にある熊害慰霊碑の碑文を神妙な面持ちで読む父親。熊害慰霊碑は大川春義氏により建立、羆事件の犠牲者7人の名を刻む。阿部マユは太田姓になっており、事件後に太田三郎が正妻としたのだろうか。大川春義氏は羆事件当時7歳の少年だったが、惨事を目の当たりにして熊退治を志し、21歳にして狩猟の免許を得て熊撃ちになった。羆事件から62年後の昭和52年(1977年)、目標としていた100頭目のヒグマを仕留めて一生の悲願を成就、熊害慰霊碑を建立したという。

三渓の集落を後にして。

ルペシュペナイ川と三毛別川合流地点の少し下流、討伐隊がヒグマに一斉射撃を加え傷を負わせた旧氷橋付近。現在はその故事にちなみ射止橋という名の橋が架かる。氷橋とは木材で作った骨組みに、枝葉を敷き詰めて雪で覆い、水をかけ凍結させて路面を作る冬季限定の仮橋のこと。馬ぞりの通行にも十分に耐える頑丈なものだったらしい。

事件当時、ヒグマ討伐本部が置かれた三毛別村村長・大川與三吉宅跡。射止橋付近、三毛別川の右岸辺り。家は跡形も無く、田んぼが広がる。

射止橋より三毛別川の下流方向を望む。写真の左岸辺りが討伐隊によるヒグマ被弾地点と思われる。

三毛別川左岸、射止橋の袂に建つ倉庫小屋。射止橋の由来が書かれている。ここが六線沢の最下流(北端)部で入口、松浦東三郎宅跡付近にあたる。

吉川輝吉宅跡付近、ルペシュペナイ川に架かる浪華(なにわ)橋。何ゆえ”なにわ”なのだろうと調べてみたら、羆事件から31年後の昭和21年(1946年)、難波開拓団と称する6軒が荒地と化した六線沢に入植したらしい。この橋の名の所以だろう。

中川孫一宅跡。一面に田んぼが広がるのみで、建物跡らしき遺構は見られない。

三毛別羆事件復元現地へ。

事件当時の開拓民が住んだ家と、惨劇を起こした実寸大と思われるヒグマを復元展示。家と呼ぶよりはほったて小屋と表現した方が正確な感じ。当時の厳冬期は氷点下30度位はざらにあっただろうから、こんな粗末な家で寒さを凌いでいた当時の開拓民の労苦は想像に絶する。現代人にとっては到底信じ難い事実なのだ。

ヒグマの体長は二・七メートルだったというから、作り物とはいえ実物大を目の当たりにすると、その大きさには驚愕する以前に恐怖さえ覚える。身長171センチの私と比較するとこの通り、できれば”ハマの羆”の異名を持つyangyiさんと比較したいところ。こんな化け物が突然目の前に現れたら、確実に死を覚悟するだろう。

復元開拓民家の内部にて。来訪者向けに感想ノートが置かれ、ここを訪れた方々の様々な思いが綴られる。

三毛別羆事件復元現地にて。

ヒグマに注意しつつ、三毛別羆事件復元現地よりもう少し奥へ入ってみよう。

道の横を流れるルペシュペナイ川。

この道の向こうに六線沢最奥に居を構えた開拓民、金子富蔵宅があった。

ヒグマに出くわしてはたまらんと、急ぎ足で復元現地に戻る。車が見えて一安心。
三毛別羆事件の一部始終は小説やテレビ等に取り上げられ、ネット上でもウィキペディアをはじめ、ホームページやブログに書かれており、その事件について知る方も多いだろう。私は以前に吉村昭著の小説「羆嵐」を読み、その凄惨な事実を知って苫前町三渓を訪れ、六線沢の事件復元現地を見学したことがある。そんなことも忘れかけていた今年6月、偶然にもyangyiさんの一言で再訪することになり、この記事を書くに至った。三渓の地を二度訪れた私であるが、実際の事件現場となった太田三郎宅跡や明景安太郎跡は確認できていない。いつの日か自慢のバイクで三毛別羆事件現場に訪れるであろうyangyiさんからの後報を待ちたい。
撮影日:2012年6月15日(金)

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