宗吾参道①
佐倉宗吾という名をご存じだろうか。この御仁、江戸時代前期の公津村(承応2年に台方・下方・江弁須・大袋・飯仲の5か村へ分村し消滅)名主で、正式な名を木内惣五郎という。佐倉宗吾は佐倉藩領の苛政に苦しむ農民を代表し、承応元年(1652年 *承応2年との説も)四代将軍徳川家綱に農民の窮状を伝えるべく直訴。当時は将軍への直訴は死罪とされ、翌年の夏に佐倉宗吾は磔、四人の子供らも打首になったという。福沢諭吉は「学問のすゝめ」にこう書いている。「余輩の聞く所にて、人民の権義を主張し、正理を唱て政府に迫り、その命を棄てて終をよくし、世界中に対して恥ることなかるべき者は、古来唯一名の佐倉宗五郎あるのみ」と。
宗吾の命を賭した訴えで佐倉藩領の苛政は改められたといい、当時の佐倉藩主堀田正信は後の万治3年(1660年)、幕政批判と無断で佐倉へ帰城した罪から改易となった。磔柱を背負った血まみれの宗吾が度々佐倉城に現れ、その怨念が藩主を改易に追い込んだのだと、庶民は口々に噂したという。千葉県民なら宗吾霊堂の名をを知っている方も多いと思うが、ここに祀られるているのが佐倉宗吾その人であり、境内には宗吾とその子供たちの墓が建つ。
明治初期に作成された関東平野迅速測図を見ると、成田街道を分岐して宗吾霊堂へ至る主な参道入口は四つあることがわかり、その分岐点は酒々井町上岩橋と伊篠の松並木跡付近に2ヶ所、成田市並木町にある。旧参道を下記地図に示してみたので参照してほしい。今回は成田市並木町の一本松跡から旧参道を歩いて宗吾霊堂を参拝し、下岩橋・柏木を経て上岩橋で成田街道に至る旧参道を辿ってみたい。


成田街道、一本松跡交差点に再び立つ。ここから旧宗吾参道を辿ってみよう。

参道は日赤成田病院前交差点で国道464号に合流。宗吾霊堂まで1.5kmの道路標識がある。

公津の杜を行く国道464号。旧参道は左手新興住宅地の中に消失する。

大袋尋常小学校跡。国道沿いに記念碑が建てられている。明治25年(1892年)開校、大正7年(1918年)公津村尋常高等小学校の開校に伴い廃校になった。

公津の杜近隣公園。近隣住民の憩いの場であろう。しかしながら水辺の涼も空しい炎天の7月、さすがに人影は少ない。

公津の杜近隣公園の北側、国道下の民家敷地内から新興住宅地に消えた旧参道が姿を現す。

谷津地の田園地帯を延びる旧参道。

旧参道は国道464号に合流して上り坂に。

坂を上りきった所で旧参道は国道から分岐。写真左に分岐する小径が旧参道。

宗吾霊堂付近の旧参道。

旧参道を歩いて程なく、再び国道464号に合流すると宗吾霊堂に着く。

宗吾霊堂入口付近にある佐倉屋旅館。建物は近代的だが老舗な感じがする。

宗吾霊堂入口。

宗吾霊堂境内参道。大山門前につつましく土産物屋が並ぶ。

宗吾父子の御墓。命を賭して世を正そうとした佐倉宗吾、約360年を経た現在もその功績が語り継がれているのがせめてもの救い。ただただ、合掌。

宗吾霊堂本堂。正式名は鳴鐘山東勝寺、平安時代に征夷大将軍の坂上田村麻呂が、房総平定時に戦没者供養のために建立したと伝わる古刹。木内惣五郎の刑死後、当時の住職が遺体を埋葬し墓を建立。百回忌にあたる宝暦2年(1752年)佐倉藩主堀田正亮は宗吾道閑居士の法号を諡号し、以来惣五郎は宗吾様と呼ばれるようになったという。

宗吾霊堂本堂。

宗吾霊堂本堂内部。御本尊に祀るのは宗吾様である。

本堂裏手にある宗吾御一代記館。

館内には佐倉宗吾が将軍に直訴し刑死に至った経緯を、13場面に分け実物大の人形で再現する。写真は”第十二景 悲しみのおしおき場”。公津ヶ原刑場で死刑を待つ宗吾と子供たちである。

昭和10年(1935年)開館。佐倉宗吾の遺品や関係文書をはじめ、寺宝等を展示する。

宗吾霊堂宝殿にて。宗吾が着用していた裃。

門前にある甚兵衛そばで遅めの昼食に。甚兵衛とは宗吾が裏街道を通って江戸へ向かう途次、印旛沼を渡した渡守である。後々この一事が藩に露見すれば自身に罪が及ぶことを恐れず、宗吾を舟に乗せた義侠の人なのだ。

甚兵衛そば2枚を平らげ。

宗吾霊堂入口付近にて。”甚兵衛渡し”という演歌があるらしい。どんな曲なんだろ。

門前付近の又兵衛という店でざっこの佃煮を購入。

後日談。ざっこの佃煮はビールのつまみとなりました♪
撮影日:2012年7月16日(月)
宗吾の命を賭した訴えで佐倉藩領の苛政は改められたといい、当時の佐倉藩主堀田正信は後の万治3年(1660年)、幕政批判と無断で佐倉へ帰城した罪から改易となった。磔柱を背負った血まみれの宗吾が度々佐倉城に現れ、その怨念が藩主を改易に追い込んだのだと、庶民は口々に噂したという。千葉県民なら宗吾霊堂の名をを知っている方も多いと思うが、ここに祀られるているのが佐倉宗吾その人であり、境内には宗吾とその子供たちの墓が建つ。
明治初期に作成された関東平野迅速測図を見ると、成田街道を分岐して宗吾霊堂へ至る主な参道入口は四つあることがわかり、その分岐点は酒々井町上岩橋と伊篠の松並木跡付近に2ヶ所、成田市並木町にある。旧参道を下記地図に示してみたので参照してほしい。今回は成田市並木町の一本松跡から旧参道を歩いて宗吾霊堂を参拝し、下岩橋・柏木を経て上岩橋で成田街道に至る旧参道を辿ってみたい。


成田街道、一本松跡交差点に再び立つ。ここから旧宗吾参道を辿ってみよう。

参道は日赤成田病院前交差点で国道464号に合流。宗吾霊堂まで1.5kmの道路標識がある。

公津の杜を行く国道464号。旧参道は左手新興住宅地の中に消失する。

大袋尋常小学校跡。国道沿いに記念碑が建てられている。明治25年(1892年)開校、大正7年(1918年)公津村尋常高等小学校の開校に伴い廃校になった。

公津の杜近隣公園。近隣住民の憩いの場であろう。しかしながら水辺の涼も空しい炎天の7月、さすがに人影は少ない。

公津の杜近隣公園の北側、国道下の民家敷地内から新興住宅地に消えた旧参道が姿を現す。

谷津地の田園地帯を延びる旧参道。

旧参道は国道464号に合流して上り坂に。

坂を上りきった所で旧参道は国道から分岐。写真左に分岐する小径が旧参道。

宗吾霊堂付近の旧参道。

旧参道を歩いて程なく、再び国道464号に合流すると宗吾霊堂に着く。

宗吾霊堂入口付近にある佐倉屋旅館。建物は近代的だが老舗な感じがする。

宗吾霊堂入口。

宗吾霊堂境内参道。大山門前につつましく土産物屋が並ぶ。

宗吾父子の御墓。命を賭して世を正そうとした佐倉宗吾、約360年を経た現在もその功績が語り継がれているのがせめてもの救い。ただただ、合掌。

宗吾霊堂本堂。正式名は鳴鐘山東勝寺、平安時代に征夷大将軍の坂上田村麻呂が、房総平定時に戦没者供養のために建立したと伝わる古刹。木内惣五郎の刑死後、当時の住職が遺体を埋葬し墓を建立。百回忌にあたる宝暦2年(1752年)佐倉藩主堀田正亮は宗吾道閑居士の法号を諡号し、以来惣五郎は宗吾様と呼ばれるようになったという。

宗吾霊堂本堂。

宗吾霊堂本堂内部。御本尊に祀るのは宗吾様である。

本堂裏手にある宗吾御一代記館。

館内には佐倉宗吾が将軍に直訴し刑死に至った経緯を、13場面に分け実物大の人形で再現する。写真は”第十二景 悲しみのおしおき場”。公津ヶ原刑場で死刑を待つ宗吾と子供たちである。

昭和10年(1935年)開館。佐倉宗吾の遺品や関係文書をはじめ、寺宝等を展示する。

宗吾霊堂宝殿にて。宗吾が着用していた裃。

門前にある甚兵衛そばで遅めの昼食に。甚兵衛とは宗吾が裏街道を通って江戸へ向かう途次、印旛沼を渡した渡守である。後々この一事が藩に露見すれば自身に罪が及ぶことを恐れず、宗吾を舟に乗せた義侠の人なのだ。

甚兵衛そば2枚を平らげ。

宗吾霊堂入口付近にて。”甚兵衛渡し”という演歌があるらしい。どんな曲なんだろ。

門前付近の又兵衛という店でざっこの佃煮を購入。

後日談。ざっこの佃煮はビールのつまみとなりました♪
撮影日:2012年7月16日(月)

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