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成増

【川越街道歩き 第2日目】下赤塚駅→白子宿→膝折宿→平林寺→野火止用水→JR新座駅



【2012年10月6日(土)川越街道 下練馬宿→白子宿】
前回の歩き旅から約1月半後、猛暑となった夏の余韻を残す10月最初の土曜日。東京辺りは朝から20℃を越えて、歩き旅には絶好の日和である。池袋駅で東武東上線に乗り換えて東武練馬駅で下車するつもりが、そんな陽気のせいか、電車に揺られながらぼーっとしていたら、東武練馬駅で降り損なってしまった。仕方なく次の下赤塚駅で降りて旧川越街道を下練馬宿方面へ向かい、前回歩き旅を終えた新大宮バイパス上まで来たところで踵を返し、次の白子宿を目指すことに。

下練馬宿を出た旧川越街道は北町3丁目で国道254号に合流、ビルが建ち並ぶ成増の街を通り抜けてゆく。成増って地名の由来が気になったので調べてみた。しばしばテレビ等で耳にする地名だし、何だか縁起が良い感じもするし。成増の発祥は江戸時代初期の明暦年間に赤塚村から分村し、成増村が成立したことにある。この地を開墾したのが田中左京成益という御仁で、その名の”成益”を取って村名とした説が有力らしい。読みさえあっていれば当て字も普通にOKだった江戸時代のこと、いつしか”成増”の字が定着したのだろう。

川越街道 成増


下赤塚駅
東武練馬駅から川越街道の歩き旅を再開するつもりが、乗り過ごしたため一駅先の下赤塚駅からのスタート。まずは駅南口のフレッシュネスバーガーで朝飯に。


旧川越街道 新大宮バイパス上
腹を満たしたところで歩き旅を再開。まずは下練馬宿方面へ街道を歩き、前回歩き終えた新大宮バイパス上まで後戻り。こういうとこ、律儀なんです。


神馬屋松原
北町3丁目の旧川越街道沿いにある神馬屋松原。明治8年(1875年)創業という老舗の和菓子屋である。ここの”いま坂どら焼”は結構有名なようなので、進物用の詰合せを購入。家に帰ってから食べてみたのだが、スタンダードな小倉餡をはじめ、栗や餅が入ったのやら、イチゴジャムが入ったもの等、バラエティに富んだどら焼きはどれも美味かった。

神馬屋松原
http://www.dora-yaki.com/


旧川越街道 北町3丁目
神馬屋松原付近の旧川越街道。かつては、だらだらと長い”いま坂”と称された坂道で、その坂上に神馬屋松原があり、旅人が一休みする店だったという。現在は歩いていても勾配を感じることのない平坦な道であるが…。


旧川越街道 北町3丁目
神馬屋松原から80m程進んだところで国道254号に合流。


地下鉄赤塚駅入口・赤塚壱番街
地下鉄赤塚駅入口。その横に騎馬武者の銅像を載せた石標が目に入る。これは何だ?


鎌倉古道の道標
鎌倉古道の道標。「至かまくら 至はやせ」と記され、道標前を通る小径が鎌倉古道らしい。左へ行けば鎌倉、右に進めば荒川を渡河する”早瀬の渡し”へ至る。


赤塚の鎌倉古道
赤塚に残る鎌倉古道。いざ鎌倉!と、多くの騎馬武者がこの道を通ったのだろうか。


国道254号 成増
成増を行く国道254号(川越街道)。


小治兵衛窪庚申尊
成増2丁目、マンションの一角に残る小治兵衛窪庚申尊。かつてこの辺りは赤塚村の一部で、小治兵衛久保の地名を称していたという。庚申塔は天明3年(1783年)建立。


国道254号 成増交差点
国道254号成増交差点。


国道254号 成増
成増西歩道橋上より国道254号池袋方面を望む。国道は川越方面に向かって緩やかに下るが、旧道はここで下らずに写真左手上を通る側道となって残る。


新田坂
旧川越街道の新田坂。急勾配の坂を一気に下り、白子川の流れる低地へ降りる。


新田坂の地蔵 新田坂の石造物群
新田坂に残る地蔵と石造物群。地蔵の建立年は不明。写真手前の常夜灯は文政13年(1830年)建立で石尊大権(現)を刻む。”現”の字は破損しており読み取れないが、おそらくあったであろうの推測。奥に見える石板が文久3年(1863年)建立の馬頭観音。


八坂神社
坂下に鎮座する八坂神社。


新田坂
振り返って新田坂を望む。


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白子宿

【2012年10月6日(土)川越街道 白子宿】
お手々 つないで 野道を行けば
みんな かわいい 小鳥になって
歌をうたえば 靴が鳴る
晴れた み空に 靴が鳴る♪

日本人なら誰しも1度は歌ったことや耳にしたことがあるであろう”くつが鳴る”の歌詞である。作詞は清水かつらという童謡詩人で、この歌は大正8年(1919年)に発表。清水かつらはここ白子に居を構え、生涯を過ごしたという。下練馬宿から川越街道を西へ下って1里5町56間(約4.6km)、台地に挟まれた白子川の流れる低地に白子宿はある。そんな地形の恩恵であろう、昔は良質の湧水が豊富にあり、造酒や魚の養殖が盛んだったという。白子宿は江戸方の白子橋から下宿・中宿・上宿と続き、川越方上宿に大坂の上りが控える。江戸方下宿の白子川対岸には新田宿とよばれた町並みが新田坂にかけて続き、白子宿に付随する形で発達した。ここに”秀峰”という銘柄の清酒を醸造していた造り酒屋があり、街道を挟んだ向かいに清水かつらの居宅があったらしい。その造り酒屋は近年まで”秀峰”の店名で蕎麦屋に姿を変えて残っていたようだが、現在その跡地を訪れても見る影はない。

川越街道 白子宿


新田宿
新田坂から白子川にかけて続く新田宿の町並み。かつては街道沿いに清水かつらの居宅や”秀峰”の造り酒屋があった場所であるが、さすがは埼玉県境とは言っても東京23区内の練馬区、往時を物語る建物はほとんど残っていない。


白子橋
新田宿と白子宿下宿の境に架かる白子橋。


白子川
住宅街の合間を流れる白子川。昔は”くつが鳴る”に歌われるような長閑な風景が川沿いに広がっていたはず。しかし今や殺風景な用水路…。人間の都合に利した結果であろう。


白子橋
白子橋より新田宿方面を望む。


白子橋にて
白子橋の欄干に掲げられる”くつが鳴る”の歌詞。


白子宿下宿
白子川の西岸、白子宿下宿。写真は白子橋方向を望む。


白子宿下宿
街道は台地にぶつかった所で南方向へ鉤の手に曲折。台地へ向かって直進する道もあるが、相当な急勾配で滝坂と呼ばれている。曲がり角に見える空地には柏屋という老舗のうどん屋があったらしい。


滝坂
滝坂を上ってみよう。


滝坂の小島家湧水
滝坂にある小島家湧水。これだけ開発が進んでいるにも関わらず、湧水の水脈が残っていることには少々驚きだ。昔は滝のように湧水が流れ落ちていたらしく、坂名の由来になったらしい。


滝坂
滝坂上より白子宿方面を望む。


熊野神社
滝坂南側に鎮座する白子の鎮守、熊野神社。


熊野神社
明治9年(1876年)豊富な湧水を利用し、境内に日本初となる養魚場が造られた。


清龍寺不動院
熊野神社隣にある清龍寺不動院。徳川家康が出陣の際に必ず身に着けたという首掛けの不動明王立像を安置する。近くに湧水を落とす滝行の場があり、乃木大将が日露戦争旅順出陣の折にここで修行したと伝わる。


清龍寺不動院にて
清龍寺不動院に掲げられる乃木大将の写真。


清龍寺不動院にて
桂太郎総理大臣の写真。「神龍山」の扁額を奉納したという。


開運洞窟巡り
清龍寺不動院にある開運洞窟巡り。本物の洞窟か否かは置いておいて、なかなかリアルなので洞窟内へ入ってみよう。


開運洞窟巡り
曲がりくねった洞窟が結構長く続く。狭くて暗いし、一人だと心細くなるほど。途中にお稲荷さんが祀られており、参拝をしながら出口へ向かうといった仕組み。開運を願わくば、是非ともお試しあれ。


白子宿中宿
清龍寺不動院から白子宿に戻って。白子宿中宿の町並み。


白子宿中宿
白子宿通り(旧川越街道)は埼玉県道109号新座和光線と交差する。この交差点辺りが中宿と上宿の境にあたるようだ。


白子宿中宿
交差点角にあるとみざわ薬局と和光白子郵便局が中宿本陣跡。白子宿は上宿・中宿・下宿それぞれに本陣が置かれ、持ち回りで務めていた。


白子宿上宿
白子宿上宿、大坂の上り。坂の途中に佐和屋の屋号で雑貨商を営んだ富澤家がある。宿場の面影を残す唯一の佇まいだ。


白子宿大坂
大坂より白子宿の中心部を望む。


白子宿大坂
白子宿大坂(大坂通り)。白子宿の川越方入口である。


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くらやみ坂とかせぎ坂

【2012年10月6日(土)川越街道 白子宿→膝折宿】
大坂を上りきって白子宿を抜けて間もなく、大坂通りと笹目通りの交差点を渡ると、くらやみ坂を下る。その坂名から察するに、昔は木々が鬱蒼と生い茂る暗がりの坂道だったのだろうが、現在その雰囲気は無い。成田街道歩きの際、佐倉に同名の坂が面影を残していたが、おそらくはそんな雰囲気だったのだろう。くらやみ坂を下りきって平坦な街道を進んで行くと、街道は埼玉県道109号に合流して東京外環自動車道を越え、和光市と朝霞市の境に一部残る旧道を通りつつ、幸町3丁目交差点先で再び県道を離れて旧道を進めば、”かせぎ坂”と呼ばれる下り坂に差し掛かる。かせぎ坂は”稼ぎ坂”と漢字に書かれ、急勾配なことから昔は荷車を押す駄賃稼ぎの人夫がいたという。

川越街道 和光市本町・朝霞市栄町・幸町


笹目通り・大坂通りの交差点
白子宿を出て大坂通り(旧川越街道)を進めば、程なくして笹目通りとの交差点を通過。雨が本降りとなってきたので交差点に架かる歩道橋下で少々雨宿り。この交差点から先、街道は”くらやみ坂”の下り道となる。


くらやみ坂
くらやみ坂を下る。


くらやみ坂
くらやみ坂下から坂上を望む。暗い曇天の空ながら暗闇の感じは無い。


代官屋敷・柳下家
くらやみ坂下にある代官屋敷・柳下家。門構えと重厚な主屋は威風堂々、かつて下新倉村の豪農で旗本酒井氏の代官を務めた威厳を留めている。


浅久保通り 和光市中央
和光市中央を行く浅久保通り(旧川越街道)。


浅久保通り 和光市中央
浅久保通りはここで埼玉県道109号新座和光線に交差、旧川越街道は左に曲がり県道を進む。


田村屋
その交差点角にある田村屋。昔は街道を往来する旅人相手に何らかの商売をしていたのだろうか。


第三小学校前歩道橋より
第三小学校前歩道橋より埼玉県道109号(旧川越街道)の川越方面を望む。歩道橋下は埼玉県道88号和光インター線との交差点で、更にその下を東京外環自動車道が通る。


和光市本町の旧道
本町小学校前交差点の少し先、県道から旧道が右手に分かれる。


朝霞市栄町の旧道
旧道の途中で和光市から朝霞市へ入る。


朝霞市栄町の旧道
安藤歯科インプラント矯正センター(写真奥中央の建物)の所で、再び県道109号に合流。


埼玉県道109号 朝霞市栄町
朝霞市栄町を行く埼玉県道109号(旧川越街道)。


朝霞中央公園入口交差点
朝霞中央公園入口交差点。ここで朝霞市栄町から幸町へ。


埼玉県道109号 朝霞市幸町
幸町3丁目交差点の少し先、県道から右直進方向に旧道が分岐し、かせぎ坂へ向かう。


かせぎ坂
かせぎ坂の旧道。往時の面影を残す急勾配な下り。


膝折不動尊
坂の途中にある膝折不動尊。見た目に新しい石仏が安置されている。由来などについては特に解説も無く、不明。


かせぎ坂
路面に残る車体の擦り痕を見ての通り、今もって急勾配な”かせぎ坂”である。


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膝折宿

謹賀新年
明けましておめでとうございます。
旧年中は年の初めに会津西街道歩きを完結し、成田街道と現在慌てて記事に書いている川越街道を歩き通しました。このブログを見てコメントを頂いた方々には、この場を借りて感謝申し上げます。振り返ると歩いた距離こそ短かったですが、得るべき事の多い旅だったと思います。今年は遠出をして宿場町をしっかり堪能できる旧街道を歩きたい所存。その街道の行く先は…。
本年もよろしくお願いします。



【2012年10月6日(土)川越街道 膝折宿】
大日本沿海実測録によると白子宿より膝折宿までの距離1里3町11間(約4.3km)、かせぎ坂を下りきった先、黒目川の流れる低地に膝折宿はある。”膝折”とは実に珍しく興味深い地名、早速調べてみることに。その由来は小栗小次郎なる武士が名馬鬼鹿毛で逃れる最中、鬼鹿毛がこの地で膝を折り死んだことにあるという。競馬に詳しい方はご存知だろうが、馬にとって足の故障は致命傷、しかも膝ともなれば尚更である。膝折は室町時代中期には町を形成。脚籠(きょうけ)と呼ばれる椀を固定するための脚付き竹籠が特産品で、4・9のつく日に六斎市が立ったと、「廻国雑記」(1487年頃成立の紀行文、道興准后の著)に記される。江戸時代になって川越街道の重要性が増し、街道沿いに町家が移って本陣・脇本陣が置かれ、宿駅として整備された。

川越街道 膝折宿


膝折宿
かせぎ坂を下りきった所から膝折宿の始まり。宿内を歩こう。


膝折宿旧脇本陣・村田屋
早速右手に現れる寄棟屋根の古い建物。屋根はトタン葺きであるが、昔は茅葺だったのだろう。この家が脇本陣を努めた旅籠村田屋。


旧本陣牛山家
膝折郵便局の場所が旧本陣牛山家。


膝折宿
膝折2丁目交差点付近。宿場の面影は残っていない。


膝折宿
五差路の膝折1丁目交差点で旧道は左折。


増田屋旅館
膝折1丁目交差点を左に曲がってすぐ、旧道沿いにある増田屋旅館。かつては旅籠だったのだろうか。近年まで看板を出し営業を続けていたが、現在はその看板も撤去され廃業してしまったようだ。


膝折宿
旧道は黒目川に架かる大橋に向かって延びる。


大橋
黒目川に架かる大橋。


黒目川
大橋より黒目川下流方向を望む。


たびやの坂・かごやの坂
旧道は二又に分かれ上り坂に。左がたびやの坂、右がかごやの坂。それぞれ坂の途中に足袋屋や駕籠屋があったのでそう呼ばれたという。最も古い道は左のたびやの坂。かごやの坂は明治初期の関東平野迅速測図に見られないことから、明治期以降に通されたことがわかる。昭和初期に膝折1丁目交差点から直進する新道(現 埼玉県道109号)が敷設され、こちらは坂上に合同貨物自動車会社があったことから”合同の坂”と呼ばれたという。


たびやの坂の庚申塔
たびやの坂とかごやの坂の分岐点にある庚申塔。上部が白くペイントされてしまっているのは、心無き者の仕業か。元文元年(1736年)建立。


たびやの坂
たびやの坂を上る。結構な急坂だ。


たびやの坂05
たびやの坂上から坂下を望む。


旧川越街道 朝霞市・新座市境
たびやの坂を上りきると旧道は朝霞市から新座市へ入る。直進の細い路地が旧道、その入口が市境となっている。


旧川越街道 野火止下付近
旧道は野火止下交差点手前で埼玉県道109号に合流。


横町の六地蔵
野火止下交差点付近に並ぶ横町の六地蔵。享保17年(1732年)建立。両隣に正徳4年(1714年)銘の地蔵菩薩と宝暦6年(1756年)銘の庚申塔がある。いずれも江戸中期の作ながら保存状態が非常によい。風雨に晒されず大切に守られてきた証だろう。当時から同じ場所にあるならば、この先は鬱蒼と茂る武蔵野の原生林を行く野火止の地、旅人にとっては目印になり、道中の無事をも祈ったことだろう。


野火止大門交差点
日が暮れてきた。野火止大門交差点を左折し、どうしても行きたかった平林寺へ急ぐ。


平林寺
が…、時すでに遅し。閉門時間の16時半を30分程過ぎており入場できず。骨ならぬ、膝折り損のくだびれ儲けとはこのことだ。平林寺は次の歩き旅に機会を得よう。


新座市役所にて
新座市役所にて。カラスが鳴くからかーえろっと。


【川越街道歩き 第2日目】下赤塚駅→白子宿→膝折宿→平林寺→野火止用水→JR新座駅 歩行距離約15km
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野火止用水と平林寺

【川越街道歩き 第3日目】JR新座駅→平林寺→大和田宿→大井宿→ふじみ野駅



【2012年11月10日(土)川越街道 大和田宿】
天気は快晴、お出かけ日和の11月の土曜日。JR新座駅に降り立ち、野火止用水を散策しながら前回の歩き旅で訪ねることができなかった平林寺へ向かう。野火止は読んで字の如く、この地で野火を止めたという意であることに間違いなさそうだが、その理由については諸説ある。

「昔、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率てゆく程に、盗人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらのなかにおきて逃げにけり。道くる人、この野は盗人あなり とて火つけむとす。女わびて、武蔵野は 今日はな焼きそ 若草の つまもこもれり われもこもれり とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率てけり。」
一つは伊勢物語の第12段。男とは在原業平で、とある豪族の娘と駆け落ちし武蔵野の草むらに身を潜めていた。国守の追っ手が野を焼いて探そうとしたところ、娘は互いの身を案じ歌を詠んで火をつけるのを止めさせたというものだ。平林寺境内に業平塚と伝わる土盛りが残る。

もう一つは平林寺境内に残る野火止塚(九十九塚)によるもの。これは一里塚に比して一回りも二回りも大きな塚で、現地解説板によると和名抄に見る火田狩猟(野に火を放ち獲物を追い出す狩猟)の野火を見張ったものか、焼畑耕法による火勢を見張ったものか定かではないが、いずれにしても野火の見張台との説が有力だという。中世以前の武蔵野は焼畑耕法が盛んに行われていたため一面萱原だったといい、更に関東ローム層の乾燥した土壌は草木の燃え広がりを早めただろうから、焼畑は武蔵野にあって効率的で生産性の高い農法と言える。そう考えると、野火止の名の由来はここら辺りにあるような気がする。

黒目川と柳瀬川に挟まれる野火止台地は、武蔵野にあって例外なく水が乏しく、人の居住を拒む未開の地であったが、江戸時代になって大きく変遷する。承応2年(1653年)川越藩主松平信綱は玉川上水(多摩川の水を羽村取水口から江戸の四谷大木戸まで引く上水道)開削の総奉行を務める最中、野火止台地の開発に着手し、開拓農家54、5戸を入植させる。僅か8ヶ月の短期間で玉川上水は完成。総奉行を務めあげた川越藩主松平信綱は、その功により玉川上水を分水する許可を得て、承応4年(1655年)領内の野火止台地へ上水を送る全長約24kmの野火止用水を完成させる。飲料水や生活用水が確保できることで野火止台地の人と土壌は潤い開発が進んだ。

その野火止台地にあるのが平林寺。正式名は金鳳山平林禅寺、臨済宗妙心寺派の禅刹で大河内松平家の祖廟。南北朝時代に武蔵国騎西郡渋江郷金重村(現 浦和市岩槻区)に建立され、江戸時代初期の寛文3年(1663年)松平信綱の長男輝綱により現在地へ移転。この時に野火止用水を西堀で分水し、平林寺境内地を通す平林寺堀が造られた。平林寺は現在も13万坪(東京ドーム約9個分)もの広大な境内地を持ち、境内林は開発が進む武蔵野の原形を残す貴重な雑木林で、国指定天然記念物。松平信綱夫妻の墓をはじめとする大河内松平家歴代の墓がある。

川越街道 平林寺


野火止用水公園
新座駅より野火止用水公園を歩いて平林寺方面へ。


野火止用水
平林寺境内西辺を流れる野火止用水の本流。この用水は多摩郡小川村(現 東京都小平市)で玉川上水から分流し、ここ野火止台地を通って新河岸川に至る。


野火止用水にて
用水路を覗くと大きな鯉が。水質が良い証拠だ。野火止用水は昭和24年(1949年)頃から生活排水が流入するようになって水質が悪化しはじめ、昭和48年(1973年)ついに玉川上水からの取水が停止され、事実上の下水となってしまう。当然の流れで臭い物には蓋がされ暗渠化が進む。昭和49年(1974年)周辺住民に野火止用水復活の機運が高まり、東京都が歴史環境保全地域に指定したことが転換となる。周辺自治体が協力して野火止用水の復元事業を進め、昭和59年(1984年)野火止用水に清流が蘇った。


伊豆殿橋
平林寺境内南西角、野火止用水に架かる伊豆殿橋。野火止用水の開通は野火止台地の深刻な水不足を解消、開拓農民の生活は改善され、川越藩主松平信綱に大変感謝したという。そのため野火止用水は信綱の官名伊豆守から名をとり、別名を伊豆殿堀とも呼ぶ。


平林寺堀
野火止用水の支流は菅沢北野堀・平林寺堀・陣屋堀の3本があり、更に末端で樹枝状に分かれていた。写真は平林寺境内に通水する平林寺堀。近年になって復元整備された。


平林寺総門
平林寺入口の総門。拝観料500円を支払い、平林寺境内へ入ろう。


平林寺山門
楼上に釈迦三尊佛、左右に十六羅漢像を安置する山門。平林寺が野火止に移転した寛文3年(1663年)の創建。


平林寺山門
山門の十六羅漢像。鬼気迫る表情に圧倒される。


平林寺佛殿
山門を潜り抜けた先にある佛殿。山門と同じく寛文3年(1663年)創建。


平林寺本堂
佛殿の更なる奥に中門があり本堂が建つ。本堂は明治13年(1880年)再建、釈迦牟尼佛を本尊とする。平林寺は入口の総門から山門・佛殿・中門・本堂へと伽藍が一直線に並び、禅宗様式の特色をよく表しているという。


平林寺境内にて
カマキリを捕獲!しっかりカメラ目線。


平林寺境内にて
こんな勇ましいポーズまで。サービス精神旺盛な可愛い奴だ。秋も深まりそう寿命は長くないだろうけど、頑張って長生きしろよ。


放生池
主要な伽藍の見学を終えて広大な平林寺境内を巡ってみよう。まずは山門南側にある放生池。池中央の中の島に弁財天が祀られる。この池も野火止用水の恩恵だろうか。


増田長盛の墓
豊臣五奉行の一人、増田長盛の墓。五奉行まで登りつめた御方なのに、墓石は小さく質素である。元々は野火止移転前の平林寺にあったが、明治期になってここへ移されたという。長盛は関ヶ原の戦いで西軍石田方に加担した罪を問われ高野山へ出家、後に岩槻城主高石氏預かりの身となった。大坂夏の陣で長男盛次が豊臣方に与したため、その責任をとって自害、平林寺に葬られた。墓が質素なのは、二代に渡って徳川家へ反旗を翻した故だろうか。


見性院の供養塔
増田長盛墓の隣にある見性院の供養塔。長盛の墓に比して大きく立派である。見性院は武田信玄の娘で、穴山梅雪の正室。穴山氏断絶後は家康に保護され、二代将軍秀忠が侍女に生ませた子、幸松(後の保科正之、会津藩藩祖)を養育した。


平林寺堀
境内に残る平林寺堀。残念ながら水は流れておらず、堀跡と言った方が正確かも。いったい、放生池の水源はどこにあるのか疑問だ…。


松平信綱夫妻の墓
松平信綱夫妻の墓。さすがは川越藩主で老中を努め、知恵伊豆と称された名君らしい立派なものだ。


もみじ山
平林寺境内の南西側一帯はもみじ山と呼ばれる紅葉の名勝。


もみじ山にて
まだ葉は青く、11月中旬ながら時期尚早だったよう。


野火止塚
これが野火止塚(九十九塚)。野火止という地名の由来を今に伝える貴重な遺構だ。新編武蔵風土記稿(1830年完成の武蔵国地誌)に伊勢物語(平安前期成立の歌物語)や廻国雑記(1487年頃成立の紀行文、道興准后の著)から引用し、野火止塚についての記述がある。興味のある方は調べてみると面白いと思う。


業平塚
野火止塚の近くにある業平塚。野火止塚と同じ目的で造られたらしいが、物好きな人が伊勢物語から業平塚と名付け、塚上に「むさし野に かたり伝えし在原の その名を偲ぶ 露の古塚」という歌碑を置いたと、江戸名所図会(江戸の名所を紹介した地誌、天保年間刊行)に紹介されている。現在は侵食が著しいのか、小ぢんまりとした土盛りと塚上に業平塚と刻んだ石碑があるだけで、江戸名所図会に紹介される歌碑は残っていない。


平林寺境内林02
武蔵野の面影を留める平林寺境内林。


平林寺塔所
平林寺歴代住職の墓が並ぶ塔所(たっしょ)。


平林寺境内にて
さて、そろそろ境内を出よう。


平林寺境内にて
出口付近ではいい感じに色付く紅葉もちらほら見られた。これにて平林寺境内の散策は終い。


睡足軒の森
総門を出て睡足軒の森へ。国指定天然記念物平林寺境内林の一部にあたり、それ程広くは無いがここでも古の武蔵野を感じることができる。元々は”電力王”とも”電力の鬼”とも称され、電気事業の草創期に活躍した実業家松永安左エ門の屋敷地で、睡足軒は飛騨高山辺りの民家を移築させて草庵としたもの。松永安左エ門は茶に造詣が深く、耳庵を号する茶人でもあった。没後に屋敷地は菩提寺の平林寺へ譲られ、睡足軒は寮舎として利用された。現在は平林寺から新座市へ無償貸与され、一般公開・利用されている。


ムラサキシキブ
睡足軒の森にて。秋に紫色の実をつけるムラサキシキブ。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
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【成田街道 旅の報告】
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下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
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水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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