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板橋宿と加賀藩下屋敷跡

【川越街道歩き 第1日目】新板橋駅→JR板橋駅→板橋宿→上板橋宿→下練馬宿→東武練馬駅



【2012年8月18日(土)川越街道 板橋宿】
川越街道の第一歩を踏み出すべく、5年ぶりに板橋宿を訪れた。まずは5年前と同様に、新選組隊長近藤勇の墓所を参拝するため、都営三田線の新板橋駅から徒歩でJR板橋駅へ移動。しかし、来訪を拒むかのように到着間近でゲリラ豪雨に襲われ、板橋駅前にある”カフェテラス ピコリーノ”に飛び込んだ。ここで朝食をとることにし、コーヒーを飲みながら天候の回復を待つこと30分程、雨は小康状態となったので、会計を済ませ近藤勇墓所へ。流山で捕縛された近藤勇は、板橋宿平尾の脇本陣・豊田家に幽閉され、付近の板橋刑場で斬首された。その御霊を弔うため、新選組の生き残りであった永倉新八(新選組二番隊隊長、後に杉村義衛へ改名)が、明治9年(1876年)斬首刑の後に胴体を埋めたとされる場所に供養塔を建てた。それが板橋駅前の近藤勇墓所である。

近藤勇墓所での参拝を終え、板橋宿内の旧中山道を歩いて川越街道との分岐点へ。川越街道に一歩を踏み出す前に板橋宿南東部一帯、約22万坪もの敷地を有していたという加賀藩下屋敷跡を散策することにした。加賀百万石と称された大藩の加賀藩前田家。藩祖は豊臣五大老の一人である前田利家、以来前田家が江戸期を通じて藩主を務めている。加賀藩の上屋敷は東大の敷地内に赤門が残る本郷、中屋敷は巣鴨御籠町(現 文京区本駒込6丁目辺り)、下屋敷が板橋(現 板橋区加賀周辺一帯)にあった。下屋敷のはじまりは延宝7年(1679年)、4代藩主前田綱紀が将軍徳川家綱から板橋の地に6万坪を拝領したことにあり、以来領地加増を繰り返して約22万坪もの敷地を有するようになったという。幕末になると加賀藩は下屋敷で石神井川の水流を利用して大砲を製造するようになり、その流れは明治期以降も引き継がれ、下屋敷の地に板橋火薬製造所が建造され軍工場として変貌を遂げてゆく。

川越街道 板橋宿


近藤勇墓所
5年ぶりの近藤勇墓所である。供養碑に手を合わせ、「ご無沙汰しております。遅ればせながら無事旧中山道を歩き通しました。」と報告。旧中山道を歩いていた頃のことが昨日のことのようによみがえり、懐かしい。

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新選組局長・近藤勇


旧中山道 板橋駅前付近
板橋駅横を通る旧中山道を歩いて。


板橋宿平尾追分
板橋宿の平尾追分へ。ここが旧中山道と川越街道の分岐点。旧中山道は旧街道の面影を残した小径であるが、川越街道は上に首都高が通る国道17号の幹線道路と化している。


板橋宿平尾追分
板橋宿の平尾追分。右は旧中山道、左に行けば川越街道。第一歩を踏み出す前に、板橋宿を久々に歩こう。


板橋宿にて02
ラッピーも健在なようで。

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板橋宿


板橋宿平尾追分
旧中山道・川越街道の分岐点にはかつて板橋警察署(明治6年建造)があった。その跡地に当時の様子を描く切り絵を載せた解説板が設置され、往時を偲ぶ。


板橋宿平尾脇本陣豊田家跡
板橋宿平尾脇本陣豊田家跡。板橋宿で問屋・脇本陣・平尾の名主を務めた家である。現在その敷地はマンションが建てられ往時の面影を見ることはできない。下総流山で捕えられた近藤勇が、処刑されるまでの間に幽閉されていたのが、ここ豊田家である。


板橋宿
板橋宿を行く旧中山道。銭湯の”花の湯”が雰囲気ある良い佇まい。


旧中山道仲宿交差点
旧中山道仲宿交差点。ここで旧中山道を離れ加賀藩下屋敷跡を散策することに。また旧中山道を歩く日がきっと来るだろう。その日まで!


板谷公園
加賀藩下屋敷跡にある板谷公園。昭和12年(1937年)東京市板谷公園として開園、板橋区内で最も古い公園だという。公園になる前は板谷商船の土地だったことから板谷公園の名が付けられたようだ。当時の標識が今も残っている。


加賀前田家下屋敷跡
加賀公園に建てられる”板橋区史跡 加賀前田家下屋敷跡”の石標。近隣には加賀の地名をはじめ、金沢橋や加賀橋等、加賀藩に因む名が見られる。


加賀公園・弾道検査管の標的
加賀公園内にある弾道検査管の標的。板橋火薬製造所だった時代の遺構である。この辺りは火薬の種類や量を変えて弾丸の速度等を測定する観測所跡で、これは実験用の弾丸が撃ち込まれた標的である。昭和15年(1940年)板橋火薬工場は東京第二陸軍兵廠に改組、火薬の製造・研究は引き続き行われたが、太平洋戦争の終戦によって解体される運命を辿る。


石神井川と加賀公園の築山
石神井川と加賀公園の築山。加賀藩下屋敷の唯一残る遺構がこの築山である。当時の下屋敷は約22万坪にも及ぶ広大な敷地に、石神井川と千川用水かた配水した大池を置き、築山や立石、滝等を各所に配する池泉回遊式庭園だったという。幕末、園遊会に招かれた会津藩主松平容保は「まるで桃源郷のようだ」と表現したらしい。


加賀公園の築山
築山を登ってみることに。昔はてっぺんから素晴らしい庭園が望めたんだろうな…。


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遊座大山・ハッピーロード大山

【2012年8月18日(土)川越街道 板橋宿→上板橋宿】
平尾追分から川越街道を歩き始めよう。板橋宿から上板橋宿までの距離は僅か約2km。首都高を上に見ながらを歩いて間もなく、川越街道は国道17号を左の四ツ又通りに分岐、四ツ又交差点を経て山手通りを渡り、遊座大山商店街、ハッピーロード大山へと、短い道中でありながら目まぐるしく道の名と姿を変えてゆく。ちなみに、四つ又交差点の”四つ又”という名は、かつて川越街道と高田道(板橋宿仲宿から雑司ヶ谷・高田へ至る古道)が交差する四差路だったことによる。

川越街道 大山


国道17号 板橋
平尾追分から国道17号を歩きはじめ。


国道17号 板橋
ここで国道17号を左に分かれ、四ツ又通りへ。


四ツ又交差点
四ツ又交差点。かつて川越街道と高田道が交差する十字路をなした場所。写真手前から奥へ延びる道が旧高田道である。明治初期の地図を見ると、周辺一帯は畑が広がっていたようだが、それを想像するのは難しい。


遊座大山商店街入口
山手通りを渡って遊座大山商店街に入る。ここで街道は往時の道幅であろう小路になってしまう。


遊座大山商店街
道沿いは近代的な店が並ぶが、道幅に旧街道の雰囲気を残す。


遊座大山商店街
商店街の中に一際目立つ近代的な建物は板橋区立文化会館。


遊座大山商店街
東武東上線の踏切を渡った先から街道はアーケードに。踏切の手前までが遊座大山、その先がハッピーロード大山の商店街となる。


ハッピーロード大山
晴雨兼用のこの道がかつての川越街道だったことを、歩いている人はどれだけ知っているのだろう。


ハッピーロード大山
アーケードの出口が見えてきた。


ハッピーロード大山
ハッピーロード大山を出て振り返り。旧街道がどんな姿に変貌しようとも、その道筋が残っていることがすばらしい。


大山福地蔵尊
ハッピーロードの西側出入口付近にある地蔵堂。大山福地蔵尊を安置する。江戸時代後期、この辺りにお福さんという御仁がおり、川越街道往来の道半ばで息絶えた人馬を手厚く葬っていたという。それを見ていた恩田家の祖先が、お福さんが亡くなられた後、その善行を敬って福地蔵尊を建立したと伝わる。お福さん亡き後、代わって街道を往来する旅人を見守り続けたのだろう。今も地元の方々に愛される大山副地蔵尊なのである。


下頭橋通り(旧川越街道)
ハッピーロード大山を出て間もなく、国道254号の日大病院入口交差点から下頭橋通り(旧川越街道)"へ。この先は上板橋宿の町並み。


轡神社
上板橋宿入口から北へ街道を外れて寄り道。轡(くつわ)神社という珍しい名の神社があり、ちょっと気になって参拝することに。元々は轡権現社と称し、この地を訪れた徳川家康が乗馬に用いた轡、或いは馬蹄を祀ったことに社名の由来があると云う。江戸時代には百日咳に霊験あらたかな神社として広く信仰を集めた。


轡神社
扉が開放されていたので内部を少々拝見。百日咳を患ってはいないが、これからも健康で安全に歩き続けられるよう祈願する。ワクチンが無かった江戸時代、百日咳が流行し、罹患者は重症化して死に至ることも多々あったらしい。百日咳を患えば、神にすがるしかない恐怖の難病だったのだ。当たり前のように享受している現代医療に感謝したい。


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上板橋宿

【2012年8月18日(土)川越街道 上板橋宿】
上板橋宿は江戸方より下宿・中宿・上宿に分かれ、本陣は置かれず、その代役で問屋場を務めた名主・河原与右衛門家の屋敷が中宿にあった。伊能忠敬測量の大日本沿海実測録によると板橋平尾追分より上板橋宿までの距離20町41間(約2.3km)、ルートラボで平尾追分から上板橋中宿までの距離を測定しても約2.3kmで、完全に一致する。宿場の町並み6町40間(約730m)、江戸時代後期には約90軒の家が軒を連ね、江戸四宿の中山道板橋宿と比すれば、それほど大きな宿場町ではなかったようである。豐敬稲荷神社の境内にある板橋区教育委員会設置の上板橋宿概要図を見てみると、名主屋敷や高札場をはじめ、お代官と呼ばれた醍醐宅が中宿にあり、その中心をなしていたことがわかる。江戸方入口に馬継ぎ場の表記があり、ここがどういった役割の場所だったのか少々疑問に思った。問屋場を兼ねた名主宅とは少々離れているが、荷継ぎの馬を管理していたのだろうか。

川越街道 上板橋宿


日大病院入口交差点
日大病院入口交差点。ここで国道254号から下頭橋通り(旧川越街道)が分岐。上板橋宿の江戸方入口である。


上板橋・下宿
上板橋宿・下宿の町並み。写真は板橋宿方面を望んでおり、かつては左手街道沿いに馬継ぎ場や”はくらく”という屋号の大野家があったはずだが、残念ながら場所が特定できない。


上板橋・下宿
上板橋宿・下宿より川越方面を望む。写真左手に”かがい”の屋号・大村家、右手に”かぎや”の屋号・栗原家があった辺りだが、やはり正確な場所がわからない。


豊敬稲荷神社
下宿と中宿の境に鎮座する豊敬稲荷神社。


上板橋宿概要図
豊敬稲荷神社の境内に設置される上板橋宿概要図。宿内を散策する上での手掛かりは、この概要図だけ。せめてこの概要図に記される旧家跡に簡単な解説板を設置して頂けると、結構楽しめると思うんだが…。


三春屋
中宿の街道沿いに残る古い家。概要図から推測するに、おそらく旧美春屋の建物だろう。


三春屋
三春屋は昔、米穀商を営むごく普通の商家だった。昭和初期、この店の名を世に知らしめる事件が起こる。大正末期から昭和初期にかけて”説教強盗”と呼ばれ、世を騒がせた妻木松吉がこの家に侵入したのだ。妻木松吉は西巣鴨に住む左官で、金策に困り果てた挙句、新宿・池袋・板橋にかけて民家に侵入しては盗みを繰り返した強盗犯である。しかし、強盗とは言っても人を傷つけるようなことはしなかったようで、それどころか盗みに侵入した折、その家人に戸締りの甘さや番犬を飼うように等、泥棒除けの対策を講じていたらしい。説教強盗と名付けられた所以である。ここ三春屋に侵入した際、米粉に手を付け、その手でガラス戸を触ってしまったようで、その指紋が証拠となり逮捕の決め手になったという。犯罪者には違いないけど、どこか憎めない感じがしてしまう。


飯島鳶工業
旧三春屋から弥生小学校入口交差点を挟んで斜向かい、飯島鳶工業という店舗があり、軒先に「距 日本橋二里二十五町三十三間」と書かれた木板が置かれている。それがこれ↓


飯島鳶工業の軒先にて
これについては中山高安氏の”街道を歩く⑤ 川越街道”に書かれており、2里25町33間(約10.6km)は日本橋から板橋宿内の石神井川に架かる板橋までと同距離であるらしい。中山高安氏は何故ここにあるのか、家の方に話を聞いており、それによると元々は板橋にあったもので、新しいものに替えるときに貰ってきたものだという。


万福寺
上板橋宿唯一の寺院である万福寺。本尊は薬師如来。文政6年(1823年)の古文書に「無住、西光寺兼帯」と記され、旅僧の仮宿等になっていたと云われる。同宗派の西光寺(板橋区大谷口)が管理する無住職の堂宇だったのだろう。現在もその流れを汲み続けているようで、本堂らしき建物も民家と見紛うような質素さである。


上板橋・中宿
上板橋宿・中宿の町並み。往時は川越街道を往来する旅人や商人で賑わったであろう場所であるが、今では行き交う人も少なく、お隣の遊座大山やハッピーロード大山の商店街に賑わいは移っている。


上板橋・中宿
豊敬稲荷神社からここ中板橋駅入口交差点辺りまでが、かつての中宿だろう。この交差点周辺に名主屋敷や代官屋敷があったはず。しかし、その跡地がどこなのか特定できない。


上板橋・上宿
上板橋宿川越方の上宿。中板橋駅入口交差点辺りから下頭橋にかけての町並みが、かつての上宿だろう。上板橋宿概要図を見るに、宿世話役の栗原佐左エ門宅が中宿と上宿の境にあったようだ。


下頭橋
石神井川に架かる下頭橋より宿場方向を望む。ここが上板橋宿川越方入口。下頭橋は寛政10年(1798年)近隣村々の協力を得て石橋に架け替えられた。橋名の由来については板橋区教育委員会設置の解説板から引用する。「旅僧が地面に突き刺した榎の枝が芽を吹き、やがて大木に成長したという逆榎がこの地にあった」「川越城主が江戸に出府の際、江戸屋敷の家臣がここまで来て頭を下げて出迎えた」「橋の袂で旅人から喜捨を受けていた六蔵の金を元に石橋に架け替えられた」と、諸説あるらしい。六蔵の道徳を讃えて建立された六蔵祠が下頭橋東袂にあり、3つ目の説が有力なように思えるが、それなら六蔵橋と名付けるのが自然なような気もする。


石神井川
上板橋宿の北辺から西端にかけて流れる石神井川。

六蔵祠
下頭橋東袂にある六蔵祠。下頭橋が石橋に架け替えられた時に建立された”他力善根供養”の石碑が境内に残る。


下頭橋
下頭橋を渡って先へ。写真奥に延びる道が川越方面へ向かう街道。


下頭橋通り(旧川越街道)
下頭橋西側に残る旧道の道筋。下頭橋通り(旧川越街道)の道路標識が路傍に立つ。


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川越街道の五本けやき

【2012年8月18日(土)川越街道 上板橋宿→下練馬宿】
国道254号と環七通りが交差する板橋中央陸橋下で下頭橋通り(旧川越街道)は国道に合流。その交差点から国道を川越方面へ進むこと約1.5km、中央分離帯に五本のケヤキが聳え立つ。世に知られる”川越街道の五本けやき”である。昭和初期、新川越街道(現 国道254号)敷設工事の際、上板橋村村長・飯島弥十郎家の屋敷林が道路用地に計画され、屋敷林の一角にあったけやき林を残す条件で用地提供を承諾したという。新川越街道は伐り倒される予定だったこのけやき林を避けて通され、今や車が激しく往来する国道の中央分離帯に、5本のけやきが聳え立つ所以である。

川越街道 上板橋


下頭橋通り(旧川越街道)
下頭橋通り(旧川越街道)は板橋中央陸橋下で国道254号に合流。


板橋中央陸橋交差点
板橋中央陸橋交差点角に長命寺(写真左奥)がある。この地は”お東山”と呼ばれ、室町時代に板橋城が築かれた場所と伝わる。その周辺一帯は住宅やマンション、ビル店舗が密集して少々わかり難くなっているが、長命寺や上板橋小学校は小高い丘の上にあり、その東辺から南辺にかけて石神井川が流れることから、400年以上前に城があったのだと言われれば、そうだったのかなと思う程度の状態。そんな現況なので大規模に発掘調査もできないようで、あくまで伝承地なのである。


長命寺
板橋城の跡地と比定される長命寺。「新編武蔵風土記稿」や現存する過去帳から、江戸時代前期には創建されていたと推定される。つまり、板橋城は秀吉の小田原征伐によって滅亡した北条方板橋氏の居城であり、板橋城の比定地がここで正解なら、廃城後にその城郭を利用して長命寺が創建されたということなのか。


国道254号 東山町
東山町の国道254号。東山町は古くからの呼び名”お東山”の名残なのだろう。写真右手一帯が板橋城址と伝わる場所である。


国道254号 上板橋
上板橋一丁目バス停付近で国道から旧道が分岐する(写真中央の小路)。いったんここは通り過ぎて”五本けやき”を見に行こう。


川越街道の五本けやき
国道254号の中央分離帯に聳える五本けやき。車だと街路樹程度に見ながら通り過ぎてしまうだろうが、旧上板橋村村長・飯島弥十郎家の屋敷地を通行している、いやいや、させていただいていることに感謝しなければならない場所だ。先祖代々引き継がれた思い出深い屋敷林を、きっと無念の思いで道路地に提供したのだから。


川越街道の五本けやき
川越街道の五本けやき。昭和45年(1970年)地元有志によって保存会が結成され、その保護に努めているという。板橋区内の幹線道路中央にあって、これらの木々を保存していくことは大変な事だろう。


川越街道旧道 上板橋
五本けやきを見て国道を戻り旧道へ。写真は旧道へ入ってすぐ、国道との分岐点方向を撮影。左手のタバコ屋がレトロな感じでいいね。


上板南口銀座
上板南口銀座のアーケードを潜り抜けて。


上板南口銀座
上板南口銀座商店街。


子育て地蔵
上板南口銀座商店街に安置される子育て地蔵。


子育て地蔵
子育て地蔵は元々、栗原堰の一本橋(現 板橋区桜川1丁目5番地)付近にあり、明治初年に”ガッカラ坂”と呼ばれる現在の板橋区上板橋の街道沿いに移されたと云う。大正期には川越街道と上板橋駅を結ぶ道の交差点角にあったが、地蔵は放置に近い状態で倒れていたらしい。そんな状態を見かねた宝田豆腐店の店主が、店舗に隣接した現在地へ移し祀った。昭和10年頃には子育て地蔵の講が結成され、大切に守られて現在に至っている。


上板南口銀座
上板南口銀座の西側アーケードを潜り抜ければ、程なくして板橋区から練馬区へ。


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下練馬宿

【2012年8月18日(土)川越街道 下練馬宿】
上板橋宿から川越街道を西へ下って25町37間(約2.8km)、下練馬宿に着く。下練馬宿は江戸方より下宿・中宿・上宿に分かれ、隣の上板橋宿と同じ町構成。本陣は中宿の木下家(後に上宿の大木家に交代する)が務め、その街道を挟んだ向かいに問屋場があり、木下家東隣の内田家が脇本陣を務めた。現在、本陣跡地は1Fに”新鮮大売 ユータカラヤ”のスーパーが入るアパートに化し、その東側に脇本陣内田家の末裔の方が経営されているのだろう内田葬儀社がある。宿内からは山岳信仰で名高い相州大山へ至る大山道が分岐していたが、その分岐点は近年になって環八通りが敷設されたため消失。しかしながら、分岐点にあった宝暦3年(1753年)建立の道標が、現在も少しだけ位置をずらして環八通り上の旧道路傍に残っている。

川越街道 下練馬宿


北一商店街
板橋区から練馬区へ。街道筋は北一商店街となり人の往来が多くなってきた。下練馬宿江戸方の入口である。


下練馬宿江戸方入口の庚申塔
下練馬宿江戸方入口、五差路の交差点角に残る庚申塔。


下練馬宿
下練馬宿・下宿の町並み。


下練馬宿
下練馬宿には老舗らしい店が所々に見られる。


大山道道標・東高野山道標
環八通り上の街道沿いにある大山道道標と東高野山道標。元々は現在地より8m程東側、川越街道と大山道・東高野山道の分岐点にあったが、環八通りの建設に伴い移された。それぞれの道標は相州大山と東高野山長命寺(現 練馬区高野台3丁目)に至る道であることを示している。


大山道道標・東高野山道標
大山道道標と東高野山道標。大山道道標は宝暦3年(1753年)下練馬講中四拾八人によって建立。正面に「従是大山道」と刻まれ、上に不動明王像を載せる。その隣の小さめの石塔が東高野山道標で、正面に「左東高野山道」と刻む。


大山道道標・東高野山道標
現地解説板より平成8年(1996年)頃の大山道道標・東高野山道標の写真。現在は旧道の分岐点と共に写真に見える不動寝具店も無くなっているが、道標だけが少しだけ位置をずらして残っているのがせめてもの救い。昔の道標はその場所にあってこそ歴史的価値があると思うので、博物館等に移されなくて良かった。


下練馬宿
下練馬宿・中宿の町並み。右手前に見える久富不動産の奥隣りが内田葬儀社で、かつての旧脇本陣内田家の家と思われる。その更に奥が本陣の木下家跡地。


下練馬宿
下練馬宿・中宿の浅間神社前を行く川越街道。


浅間神社
中宿に鎮座する浅間神社。境内にある富士塚は、最初の築造が江戸時代と推定されている。旧街道を歩いていると、しばしば見かけてきた富士塚。昔も今と変わらず、日本人にとって富士山は特別な存在なのだ。現代と違って行きたくても富士山なんぞへ容易に行けなかった時代のこと、仮の富士山を築き登山をシミュレートしていたわけである。


富士塚
これが、浅間神社の富士塚。現在も地元有志によって7月1日に山開きが行われているらしい。


富士塚より浅間神社境内を望む
せっかくなので富士塚を登ってみた。写真は頂上からの眺め。


清性寺御堂と白狐稲荷
浅間神社裏手の清性寺御堂と白狐稲荷。清性寺は新編武蔵風土記稿によると「金乗院末、下三ヶ寺並に同じ、神明山観音院と号す。本尊不動は弘法の作、長さ一尺二寸立像なり。法流開山快遍宝暦八年二月二十七日化す。」とあり、江戸時代初期以前の創建と推定され、明治初期には広い境内地に鐘楼もあったという。明治維新期の廃仏毀釈によって近隣寺社と共に金乗院へ統合され、後は廃寺となった。近年になり本尊不動が火災に遭い、全体が焦げて一部焼失したが、寺跡に御堂と白狐稲荷(豊臣秀吉の守り神と伝わる霊石を祀る)等を再建し、本尊の保存に努められている。


北町観音堂
下練馬宿・上宿の北町観音堂。街道から東武練馬駅方向へ分かれるY字路の分岐点にある。この観音堂には天和2年(1682年)銘の北町聖観音座像や天和3年(1683年)銘の仁王像を安置する。江戸時代からこの地にあったらしく、当時の紀行文に記述が見られるという。


北町の仁王像
北町の仁王像。小ぶりな石造仁王像であるが、その迫力は伝わってくる。


北町聖観音座像
北町聖観音座像。実に仏頂面と言っては失礼か、いい表情をしている観音様である。拝顔しているけで、思わぬ時間を費やしてしまった。


北町観音堂の石仏群
北町観音堂の石仏群。古そうな馬頭観音や庚申塔が聖観音を守るかのように並ぶ。


旧川越街道 聖徳病院前
下練馬宿川越方外れ、聖徳病院前を行く旧川越街道。商店街の雰囲気は無くなる。


旧川越街道 新大宮バイパス上
新大宮バイパス上まで来たところで日が暮れた。本日の歩き旅はここで終い。


【川越街道歩き 第1日目】新板橋駅→JR板橋駅→板橋宿→上板橋宿→下練馬宿→東武練馬駅 歩行距離約15km
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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