延暦寺は今から約1200年前、伝教大師最澄が比叡山に一乗止観院という寺院を開山したことにはじまりがある。その場所は根本中堂の地とされ、小規模ながも薬師堂・文殊堂・経蔵の伽藍を有する寺院だったという。”鳴くよウグイス平安京”こと延暦13年(794年)、桓武天皇によって長岡京から平安京へ遷都が行われると、京の鬼門(北東)に位置する比叡山は国家鎮護の場として重要な役割を担うことになり、弘仁14年(824年)平安京遷都時の年号”延暦”という寺号を朝廷から賜った。最澄が没してから2年後のことである。以来、延暦寺は高僧が集う場となり、鎌倉時代には法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった誰もがその名を1度は聞いたことがあるであろう祖師方が修行した。
比叡山延暦寺と聞いて私がまず頭に思い浮かぶのは強訴と焼き討ち。昨年放映されたNHK大河ドラマ”平清盛”で、延暦寺天台座主の明雲を中心に僧兵らが決起し、日吉大社の神輿を担いで比叡山を駆け降り朝廷へ強訴するシーンは、迫力あって非常に印象に残っている。院政によって50年以上も治天の君として権力を振りかざした白河法皇さえも「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの。」と言って嘆いたという。山法師とは叡山の僧兵のこと、つまり賀茂川の水害、サイコロの出目と同じように叡山の僧兵だけは思いのままにならないということである。延暦寺の強訴は平安時代から室町時代にかけて盛んに行われたが、これに終止符を打たせたのが織田信長による討伐、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちである。
信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康によって延暦寺は再興が図られる。今に見る延暦寺の伽藍は室町末期以降の再興によるもので、現在の総本堂根本中堂は江戸幕府三代将軍徳川家光の命によって再建がはじまり、寛永19年(1642年)に竣工した。比叡山延暦寺は大きく東塔・西塔・横川の三地域に分けられ、中でも総本堂である国宝の根本中堂をはじめ、阿弥陀堂・戒壇院・大講堂等の重要な堂宇を持つ東塔がその中心をなす。根本中堂に祀られる御本尊秘仏薬師如来の宝前に灯される”不滅の法灯”は、最澄が生きた時代から現在に至る約1200年間、毎日菜種油を注ぎ続けられて消えることなく燃え続けていることからそうそう呼ばれる。本当のところ、信長による焼き討ちによって”不滅の法灯”は途絶えてしまったが、後に山形市の立石寺(通称を山寺)に分灯していた法灯を戻し、現在に守り継いでいるという。”油断大敵”の語源は”不滅の法灯”にあるとの説も。


”史蹟延暦寺境内”の石碑を横に見ながら、いざ!延暦寺境内へ。

ここが西塔と東塔への分かれ道。直進方向は東塔、左折方向が西塔へ至る。まずは東塔へ向かう。

東塔入口付近に湧く霊水、弁慶水。源義経に仕える前は比叡山の僧だったと伝わる武蔵坊弁慶が、千日に渡って千手堂(山王院堂)への参篭を続けたという。その際、仏前に供える水を汲んだのがここの湧き水だったと伝わることから弁慶水と名付けられている。

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阿弥陀仏坐像を本尊に祀る阿弥陀堂。昭和12年(1937年)比叡山開創千百五十年を記念して建立された。その奥に並ぶ多宝塔は東塔。織田信長による比叡山焼き討ちで灰燼に帰した東塔を、昭和55年(1980年)佐川急便グループ創業者佐川清氏の寄進で鎌倉古絵図を参考に再建した。

延宝6年(1678年)に復興建立されたと伝わる戒壇院。明治34年(1901年)国の重要文化財に指定。木部に丹色や黒色を施しており、色褪せた装いは地味ながら風格を漂わせている。

天台座主第一世義真和尚による建立で、叡山に修行する僧侶の学問研鑽の場となった大講堂。現在の建物は昭和31年(1956年)旧堂焼失後、山麓の坂本より移築された。吉川英治の小説”新平家物語”には、鐘の音を合図に強訴する僧兵が集う場として描かれている。

いよいよ、延暦寺総本堂の根本中堂へ。

国宝に指定される根本中堂。御本尊秘仏薬師如来を本尊に祀り、その宝前に”不滅の法灯”が灯り続ける。内部は撮影禁止なので、写真はここまで。多くの参拝者や観光客が見学に訪れていた。

根本中堂門前の尾根上にある文殊楼。楼上に文殊菩薩を安置する。寛永期に根本中堂と共に再建されたが、寛文8年(1668年)に焼失、同年に再建されたものが現在の建物である。文殊楼は内部公開しており、急階段を上って文殊菩薩を安置する楼上へ入ることができる。

東塔と西塔への分かれ道まで戻り、奥比叡ドライブウエイ上に架かる橋を渡って西塔へ向かおう。橋のすぐ先にある建物は山王院堂。千手観音を祀ることから千手堂や千住院の名も。比叡山に修行する弁慶が千日参篭を続けたという御堂はここのことであろう。

西塔参道のとても長ーい石段を下りてゆく。帰りにここを登らなければならないと思うと、少々へこむ。

石段を下り切ったところにある浄土院。伝教大師最澄の廟所。弟子であった慈覚大師円仁が仁寿4年(854年)ここに中国五合山竹林院を模して廟所を建立、最澄の遺骸を祀った。以来、この廟所を守る僧侶は侍眞と呼ばれて代々引き継がれ、厳しい戒律のもとに12年間山を下りず籠山修行に励み、伝教大師に仕えるように生活しているという。

参道を進んで西塔の中心部へ。

”親鸞聖人ご修行の地”碑がある聖光院跡。その奥が西塔南谷南上坊(後の真蔵院)跡で”真盛上人修学之地”碑が置かれている。

常行堂と法華堂。二つの御堂は唐破風造の廊下で繋がれ、両堂を合わせて”にない堂”と称される。共に文禄4年(1595年)の建築で、常行堂は阿弥陀如来、法華堂が普賢菩薩を本尊とする。昭和30年(1955年)”にない堂”は国の重要文化財に指定された。

西塔の本堂にあたる釈迦堂。別名を転法輪堂と言う。釈迦如来を本尊に祀る。現在の御堂は織田信長による焼き討ちの後、文禄4年(1595年)豊臣秀吉の命により、園城寺弥勒堂(金堂)を移したもの。貞和3年(1347年)頃の建立といわれ、比叡山の伽藍の中で最古の建築。明治33年(1900年)国の重要文化財に指定された。
撮影日:2013年5月18日(土)
テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行