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大津宿

【旧東海道歩き 第2日目】JR大津駅→大津宿→草津宿→草津第一ホテル



【2013年7月13日(土)旧東海道 大津宿→草津宿 道中】
平年より2週間程早い梅雨明けを迎えた近畿地方。それから間もない7月の3連休初日に大津宿から旧東海道歩きを再開することに。春夏秋冬、歩き旅をしている者にとって最も辛いのは雨や雪、寒さではない。猛烈な暑さにあると思う。容赦なく照りつける盛夏の陽射しは、水分と共に体力を著しく消耗させるうえ、足に故障を発生させるのもこの時期である。早い真夏の到来に少々慄きながらも、できうる限りの軽装に身を整えて東京駅から東海道新幹線に乗車し京都駅へ。京都駅からJRで大津駅に移動し、駅構内にある”トランドールⅡ”という喫茶店でそそくさと朝食を済ませた。さあ、大津宿から江戸へ向けて歩みを進めよう。

東海道は江戸日本橋から数えて53宿目、京都三条大橋からならば1宿目となる大津宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ東西16町51間(約1838m)・南北1里19間(約3962m)、人口14892人、家数3650軒、本陣2、脇本陣2、旅籠71軒。宿内からは西近江路(北国海道)が分岐し、琵琶湖の水運もあって物資集散地となり商業が発展、東海道53次中最大の人口を誇る宿場町として賑わった。名産品の一つに大津絵と呼ばれる民画があり、街道を往来する多くの旅人が土産に購入し、観賞用を兼ねた護符として家や店に飾ったのだという。軽妙なタッチで描かれる神仏や人物・鬼等の絵は親しみやすいうえにどことなくユーモラスで、多くの庶民に受け入れられた理由が伝わってくる。

旧東海道 大津宿

関連記事
大津宿(旧中山道歩きの記事)


大津宿本陣跡
国道161号(現近江路)沿いの大津宿本陣跡から旧東海道歩きを再開!


京町一丁目交差点
道路中央を走る京阪電鉄の列車を横目に見ながら京町一丁目交差点へ移動。前の記事に書いた通り、ここは旧東海道と旧近江路(北国海道)・小関越えの分岐点で、かつて高札場が置かれた札の辻。逢坂山を越えてきた旧東海道はここを鉤の手に南から東へ折れる。札の辻から逢坂山麓にかけての東海道筋は八町通と呼ばれ、本陣・脇本陣をはじめ多くの旅籠が軒を連ねる大津宿の中心部だった。


大津市道路元標
かつての札の辻は大津市の道の起点。


大津宿
札の辻から東へ延びる旧東海道は京町通の別称がある。


大津宿
東海道最大級の規模を誇った大津宿、町並みには今もその面影が残る。
露国皇太子遭難地の碑
路傍に露国皇太子遭難地の碑が立つ。明治24年(1891年)訪日したロシア皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)を、警備中の巡査津田三蔵が斬りつけた暗殺未遂事件の事件現場。


大津宿
大津宿を行く旧東海道(京町通)。


唯泉寺
京町に数多くある寺院の一つ、唯泉寺。


大津別院
真宗大谷派東本願寺の大津別院。江戸時代初期、大谷派本願寺(東本願寺)第12世の教如による建立。教如は父・顕如と共、織田信長に対して徹底抗戦(石山合戦)した人物。戦国系シュミレーションゲームでその名を知る人は多いだろう。本堂と書院は国の重要文化財に指定される。


滋賀県庁
旧東海道(京町通)と中央大通りの交差点、京町三丁目交差点から南に目を向けると、国会議事堂!?いや、滋賀県庁があった。パッと見、国会議事堂が頭をよぎったのは建築様式が同じせいなのかと調べてみたところ、映画「SP革命篇」で使われた国会議事堂のシーンはここ滋賀県庁がロケ地だという。なるほど、数か月前にテレビで見たのがイメージに残っていたのかもしれない。


旧東海道 常盤橋
旧東海道の常盤橋。


旧東海道 成覚寺前
成覚寺前を通る旧東海道。


常世川
常世川のを渡る。大津市内を流れて打出浜で琵琶湖に注ぐ小さな流れ。


常世川にて
常世川にて。「西は極楽 東は平安楽土 さかいを流れる常世川 常世(とこよ)川と読めば黄泉の国の川 三途川ともとれる 地蔵尊もおられ 往来の安全を見続けて」の立て看板。現世(うつしよ)に流れる常世の川か。なかなか気の利いた面白い説明書きだ。


平野神社
天智天皇7年(668年)、内大臣藤原鎌足の創建と伝わる平野神社。


旧東海道 石場
石場を行く旧東海道。石場という地名の由来は享保19年(1734年)刊行の『近江輿地誌略』に記される。「相伝中古、石工この地に多く在住して、この浜辺に石を積みおける故の名なり」と。なるほど。


石場踏切
石場踏切を渡って。


義仲寺
馬場一丁目にある義仲寺。旧中山道歩き以来の再訪。小さな境内の寺であるが、ここはなかなか興味深い。創建については不詳であるが、木曽義仲の側室巴御前が尼となり、義仲供養のため草庵を結んだことに由来があると伝わる。古くこの地は粟津ヶ原と言い、宇治川の戦い等で源範頼・義経に敗れ京を落ちた木曽義仲が討たれたのがこの地なのだ。鎌倉時代後期の文書に巴寺や木曽塚の名が見られるといい、巴御前が晩年を過ごした地がここだというのも真実に思えてくる。


義仲寺朝日堂
義仲寺本堂の朝日堂。本尊は木彫聖観世音菩薩。木曽義仲とその嫡男義高の木像を安置する。


木曽義仲公墓
この立派な宝篋印塔が木曽義仲公墓。木曽塚とも呼ばれる。

木曽の情 雪や生えぬく 春の草

元禄4年(1691年)ここ義仲寺の無名庵で松尾芭蕉が義仲公を偲んで詠んだ句である。芭蕉が木曽塚を眺めながらこの句を詠んだのかと思えば、実に感慨深い。


巴塚
木曽義仲側室の巴御前を弔う巴塚。晩年に尼となった巴御前はこの地で義仲の菩提を弔い、後に信州木曽に戻り90歳の生涯を閉じたと伝わる。


芭蕉翁墓
木曽塚の右にある松尾芭蕉の墓。義仲寺に度々滞在した芭蕉は、木曽義仲が大のお気に入りだったらしく、没後は義仲寺へ葬るよう遺言したという。芭蕉没年の元禄7年(1694年)に書かれた”芭蕉翁終焉記”に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままなことに感動。


義仲寺にて
義仲寺にて。


義仲寺翁堂
芭蕉翁座像を安置する翁堂。


四季花卉の図
翁堂の天井絵は伊藤若冲筆”四季花卉の図”。明和7年(1770年)の作。翁堂は安政3年(1856年)に類焼し2年後に再建。現在の天井絵は明治21年(1888年)穂積永機が復元製作し奉納したもの。


義仲寺


大津絵の絵葉書
この記事の最後に義仲寺で土産に買った大津絵の絵葉書を紹介。愛嬌ある鬼の顔が微笑ましい。江戸時代のゆるキャラといったところかな。


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膳所城下

【2013年7月13日(土)旧東海道 大津宿→草津宿 道中】

瀬田の唐橋 唐金擬宝珠 水に浮かぶは膳所の城

瀬田の唐橋、唐金擬宝珠(からかねぎぼし)と共に、この辺りの名所として庶民に謡われた膳所(ぜぜ)城。琵琶湖に突出する地(膳所崎)に本丸を置き、陸側に琵琶湖の水を利用して水掘を巡らせた縄張りは、湖水に浮かぶ水上の城に見えたという。江戸から京へ向けて旅する者は、夕日が照らす瀬田の唐橋を渡りながら珍しげに唐金擬宝珠を見て、粟津の松並木を歩きつつ風に揺れる松葉の先に広大な琵琶湖を眺める。そして琵琶湖に映える膳所城を望んだはずで、京を目前にして見る一際美しい風景に感慨ひとしおだったことだろう。もし江戸時代にタイムスリップできるなら、真っ先にこの地をを歩いてみたい。

慶長5年(1600年)大津で関ヶ原合戦における局地戦(大津城の戦い)があり、東軍方の京極高次が守備する大津城は西軍方毛利元康率いる大軍に包囲攻撃され、更に城西側の長等山から大砲を撃ち込まれたことで落城。城を守備する上での地理的なマイナス要因が露呈し、関ヶ原合戦の翌年に廃城となり新たに膳所城を築城。縄張りは築城の名手といわれた藤堂高虎によるもの。当初は西の陸側から湖に向かって二の丸・本丸という配置だったが、寛文2年(1662年)の大地震によって大きな被害を受け、当初の本丸と二の丸を合わせて新たな本丸とし、その南側に二の丸を配置する改修がなされた。

膳所城の築城に伴って膳所藩が立藩。初代藩主を戸田一西(とだかずあき)が務めて以来、本多・菅沼・石川家と譜代大名で交代、慶安4年(1651年)本多俊次の再任以降は代々本多家が世襲し、本多家膳所藩第14代藩主本多康穣(やすしげ)の時に廃藩置県を迎えた。明治3年(1870年)膳所城は取り壊され、天守閣や櫓をはじめ大部分の建物が破却になったが、払い下げらた城門等の遺構が大津市や草津市内の神社等に散りぢりとなって残存している。

旧東海道 膳所城下


膳所城北総門跡
膳所城北総門跡から城内へ。


旧東海道 西の庄
膳所城下、西の庄を行く旧東海道。


石坐神社
石坐(いわい)神社。創建年不詳。延喜式に近江国滋賀郡八社の一に数えられていた。海津見神(わたつみのかみ)を主神に天智天皇・弘文天皇・伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)・豊玉比古命(とよたまひこのみこと)、彦坐王命(ひこいますおうのみこと)を祭神に祀る。社殿は鎌倉時代の文永3年(1266年)建立ということが棟札の写しからわかったという。


相模川
旧東海道は木下町で相模川を渡る。江戸期以前は膳所城の辺りで琵琶湖に流れ込んでいたが、膳所城の築城に伴い流路が変更された。


響忍寺
響忍寺(こうにんじ)の長屋門前、旧東海道は鍵の手に曲がる。写真奥から左折する道が旧東海道。響忍寺は江戸時代中期、膳所藩家老村松八郎右衛門の屋敷跡に再建。寺院らしくない風格ある長屋門は家老屋敷の遺構である。


響忍寺
響忍寺前でゲリラ豪雨に見舞われ…。瞬く間にこんな状況。


旧東海道 木下町
傘が全く役に立たない土砂降り。こうなってしまったら雨宿りするしかない。


和田神社
頭上で雷鳴と共に閃光が走る。和田神社社務所の軒先を借り、土砂降りの境内を眺めながらしばし避難。


和田神社
木下町に鎮座する和田神社。本殿は石坐神社と同じく鎌倉時代の建築。


和田神社のいちょう
和田神社のいちょう。樹高約24m、推定樹齢600~650年という滋賀県下随一の巨木。琵琶湖上から和田の浜の目標樹だったと云われる。


和田神社のいちょう
和田神社のいちょうには関ヶ原合戦で敗れた石田三成が京への護送中、小休止の際に縛られたとの伝説がある。雨音だけが耳に残る静かな境内、いちょうの前に立つと石田三成の無念の思いが伝わってくるかのよう。


旧東海道 丸の内町
雨が小康状態となり和田神社を後に。木下町から丸の内町へ入る。


縁心寺
丸の内町にある縁心寺。慶長7年(1602年)戸田家膳所藩初代藩主の戸田一西による創建。もとは栄泉寺といい、当時の膳所や大津では珍しい瓦葺の寺院だったことから、瓦寺と通称された。膳所藩主本多家の菩提寺。


旧東海道 本丸町
城下の中心部、本丸町の旧東海道。写真直進方向が江戸方の旧東海道、左折した先に膳所城、右折すれば
膳所神社がある。


膳所神社表門
膳所神社表門。構造形式は切妻造の脇戸付薬医門。明治3年(1870年)膳所城取り壊しの際、旧膳所城本丸大手門を移築したもの。


立葵紋
城門屋根の軒丸瓦には膳所藩主本多家の立葵紋が見られる。


膳所神社
古社の風格が漂う膳所神社。膳所の地名は天智天皇による大津京遷都の時、この辺りが朝廷の食膳に供する魚介類調達の場、御厨(みくりや)の地に定められことに由来。天武天皇の時代に大和国から食物の神・豊受比売命(とようけひめのみこと)を勧請し祀ったのが膳所神社の始まりとされる。


旧東海道 本丸町
本丸町を行く旧東海道。


大養寺
本丸町にある大養寺。響忍寺と同じく風格ある長屋門が入口に建つ。やはり武家屋敷の表門として使われていたもので、響忍寺長屋門と共に”膳所の六門”の一つに数えられる。


旧東海道 本丸町
生暖かい風と冷たい風が交互に頬を撫で始めて間もなく、再びゲリラ豪雨に…。


中ノ庄駅
京阪電鉄の中ノ庄駅に一時避難。


旧東海道 中庄
雨の勢いがやや弱まったところで歩行再開。旧東海道は中ノ庄駅付近で鍵の手に曲がる。写真左(京方)から奥方向の道筋が旧東海道。


奥村歯科
奥村歯科の前で再び旧東海道は鍵の手に曲げれらている。城下町の旧街道らしい道筋。
ここで膳所城址散策のため旧東海道を離れることに。


大津市生涯学習センター
大津市生涯学習センター1階に入っているレストラン昴で昼食タイム。


レストラン昴にて
うな丼を注文。鰻の量に少々不満ながらも、980円なら贅沢は言えない。


膳所城跡公園
膳所城跡公園に整備される膳所城址。本丸跡入口には城門が置かれてらしい雰囲気を醸し出すが、写真に見える城門や水堀、城壁は模擬復元であり、遺構がほとんど残っていないのが現状。


膳所城本丸跡
膳所城本丸跡。本丸の周囲には四層構造の天守閣をはじめ櫓や城壁が築かれていたが、今は何も残っていない。


膳所城本丸跡
本丸跡より琵琶湖を横断する近江大橋を望む。湖岸には石垣に使われていたものだろうか、大きな石がごろごろしている。


膳所城本丸跡より二の丸跡を望む
本丸跡より二の丸跡を望む。櫓風の建物は膳所浄水場の建物。


膳所城址
二の丸跡より本丸跡を望む。


近江大橋と三上山
近江大橋の向こうに望むは三上山(近江富士)。


篠津神社表門
膳所城址から旧東海道に戻り篠津神社へ。ここの表門も膳所城の旧城門(北大手門)。脇戸付高麗門で軒丸瓦には膳所神社表門と同じく立葵紋が見られる。


篠津神社
中庄1丁目に鎮座する篠津神社。創建年代は不詳ながら康正2年(1456年)銘の棟札が見つかっており、石坐神社や和田神社と同等の古社であることは佇まいからも感じ取れる。


瓦ヶ浜駅
京阪電鉄瓦ヶ浜駅の横を通る旧東海道。瓦ヶ浜の名は付近の篠津川河口に瓦の焼き場があったことに由来し、ここで焼かれる瓦は主に町家で使われたという。


若宮八幡神社表門
杉浦町に鎮座する若宮八幡神社。表門は膳所城の犬走門を移築したもの。篠津神社の表門と同じく高麗門形式の城門で、屋根の軒丸瓦にはやはり立葵紋が見られる。


若宮八幡神社
飛鳥時代の創祀と伝わる若宮八幡神社。天智天皇ゆかりと云われる古社。


宮町踏切
宮町踏切で京阪電鉄石山坂本線を渡る。


旧東海道 御殿浜
旧東海道の膳所城下江戸方入口、勢多口総門跡付近に残る枡形の道筋。


膳所城勢多口総門跡
膳所城勢多口総門跡。遺構は残っていないが、小さな石碑(下写真)が建てられ往時を偲ぶ。


膳所城勢多口総門跡碑
膳所城勢多口総門跡碑。膳所城下を出て瀬田の唐橋へ向かおう。


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粟津晴嵐と瀬田夕照

【2013年7月13日(土)旧東海道 大津宿→草津宿 道中】
膳所城下を抜けた旧東海道は粟津ヶ原と呼ばれた松原の地を進み瀬田の唐橋に差し掛かる。かつての粟津ヶ原は琵琶湖岸を通る東海道の沿道に松が並び、その枝葉が風にざわめく向こうには琵琶湖や比叡山を望み大層美しい風景を見せたという。その景観は歌川広重により”粟津晴嵐(あわつのせいらん)”の題名で浮世絵に描かれる。そして粟津ヶ原の松並木を過ぎれば瀬田の唐橋。最初の架橋年代は不詳だが日本書紀にも書かれている程の歴史ある古橋で、畿内と東国を結ぶ要所なうえに京を防衛する上での最重要地にあたり、古代より中世にかけて度々合戦の舞台になった。「唐橋を制する者は天下を制する」とまで言われた所以であろう。また、瀬田の唐橋は欄干に唐金擬宝珠を付ける橋の作りが美しく、日本三名橋・三古橋の一つとされ名橋としての一面もあった。歌川広重が描く”瀬田夕照(せたのせきしょう)”の浮世絵で知られ、”粟津晴嵐”と共に近江八景の一つに数えられる。

旧東海道 晴嵐・粟津町・唐橋町・松原・瀬田

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瀬田の唐橋(旧中山道歩きの記事)
粟津の晴嵐(旧中山道歩きの記事)


粟津の松並木跡
粟津晴嵐の地を行く旧東海道。


粟津の松並木跡
かつての美しい松並木も今は昔、沿道に数本の松が残るのみ。


近江八景 粟津晴嵐
広重画「近江八景 粟津晴嵐」(草津宿街道交流館の手摺り浮世絵より)。東海道の松並木に膳所城、そして琵琶湖の彼方に比叡山を望み、往時の様子が偲ばれる。


ルネサス滋賀工場
松原が広がっていた粟津ヶ原の地はルネサス滋賀工場の敷地に。


旧東海道 晴嵐
晴嵐1丁目の旧東海道。東海道本線のガード下を潜って。


晴嵐商店街
かつての松並木は消え失せ、沿道には晴嵐商店街の店舗が並ぶ。


明治天皇鳥居川御小休所碑
鳥居川交差点手前、明治天皇鳥居川御小休所碑がある。ここは旅籠松屋の跡地で、明治11年(1878年)明治天皇が東海・北陸の御巡幸の折に小休止した。


鳥居川交差点
鳥居川交差点。瀬田の唐橋に向かって車は渋滞。


唐橋西詰交差点
唐橋西詰交差点。


瀬田の唐橋
瀬田川に架かる瀬田の唐橋。織田信長によって唐橋が架け替えられた時、中ノ島を挟んで大橋と小橋を架ける現在の形になったと伝わる。


鳥居川水位観測所
瀬田の唐橋付近に設置される鳥居川観測所。瀬田川なのに鳥居川とあるのは、この辺りの地名”鳥居川”から名付けられたため。明治7年(1874年)オランダ人技師エッセルの指導により開設、琵琶湖の水位観測がここで始められた。


瀬田の唐橋
昭和54年(1979年)瀬田の唐橋は擬宝珠を受け継いで木造からコンクリート製の橋に架け替えられた。


近江八景 瀬田夕照
広重画「近江八景 瀬田夕照」(草津宿街道交流館の手摺り浮世絵より)。夕日に照らされる瀬田の唐橋、下を流れる瀬田川には川舟が行き交い、遠く三上山(近江富士)を望む美しい風景が描かれる。


瀬田の唐橋
5年前(2008年)の旧中山道歩きの際に撮影した瀬田の唐橋。ちょうど夕闇が迫る頃で、いい感じに撮れたお気に入りの1枚。


瀬田川
橋上より瀬田川上流(琵琶湖方面)を望む。琵琶湖から流れ出る唯一の川であり、京都府では宇治川、大阪府で淀川と名を変えて大阪湾に注ぐ。


唐橋東詰
唐橋東詰。


瀬田の唐橋にて
瀬田の唐橋は藤原(俵藤太)秀郷の大ムカデ退治の伝説地としても知られる。


瀬田代官屋敷跡
膳所藩瀬田代官屋敷跡(写真左手前)。現在に残る建物は明治以降に民家として建築されたものだが、代官屋敷の流れを汲んでいるらしく、江戸時代中期の狩野派絵師による襖絵等が残っているという。近年まで医院として使われていたようだが、廃業して空き家になっている様子。取り壊しの話が出たのか、保存活動を案内する貼り紙が。何とか上手く活用して残してほしいものだ。


神領交差点
神領交差点より唐橋方面の旧東海道を望む。


建部大社01
唐橋東詰より約500m東、神領に鎮座する近江国一の宮・建部大社。祭神は日本武尊。景行天皇46年(116年)神崎郡建部郷(現 東近江市五個荘伊野部町)に日本武尊の神霊を祀ったことに創祀があり、天武天皇4年(675年)近江国府があった現在地に遷座したと伝わる。源頼朝が伊豆へ配流される折に源氏再興を祈願、宿願叶って建久元年(1190年)上洛の際に再びここを訪れ、幾多の神宝と神領を寄進し深く感謝したという。


建部大社神門
建部大社境内入口の神門。時間は18時、拝観時間外に来てしまい門は固く閉じられていた。参拝できず残念。


建部大社にて
建部大社にて。


建部大社手水舎
せめて手水舎で身だけでも清めさせていただこう。


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月輪立場跡

【2013年7月13日(土)旧東海道 大津宿→草津宿 道中】
日が暮れ始めた。駆け足で草津宿へ急ごう。瀬田の唐橋から草津宿迄旧東海道の道程は約8km、唐橋東詰より江戸方へ約700mの檜山神社付近で芦浦道が分岐し、そこから草津宿迄の道中には2基(一里塚一里山一丁目交差点付近と野路6丁目)の一里塚、下月輪池の畔には立場が置かれ茶屋等の店が軒を連ねていた。下月輪池に隣接する山ノ神池と南西外れにある月輪大池を総称して月輪池と呼ぶ。月輪という名は水面に映った美しい月の姿から名づけられたとの一説があり、東海道中の風光明媚なちょっとした名所だったのだろう。往来の旅人が月輪池を眺めながら茶を一杯、そんな光景が目に浮かぶ。

旧東海道 大江・一里山・月輪・南笠東・野路・草津

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月輪池と大萱一里塚跡(旧中山道歩きの記事)


芦浦道分岐点
旧東海道の芦浦道分岐点。芦浦道はここ大江2丁目から琵琶湖東岸を芦浦(現 草津市芦浦町)へ至る通る約11kmの道程で、周辺住民の生活道や芦浦観音寺への参詣道として利用された。写真左折が芦浦道、少し先の右折が旧東海道。


旧芦浦街道道標
分岐点に立つ旧芦浦街道の道標。昭和55年(1980年)建立。


浄光寺
浄光寺前を行く旧東海道。


旧東海道 大江
路傍に旧東海道と書かれた現代の道標。こういった配慮は有難い。


旧東海道 大江
鉤の手に曲げられる大江の旧東海道。写真奥(京都方)から来て右折の道筋が旧東海道。


旧東海道 大江
大江の旧東海道。振り返って大津方面を望むと、遠く音羽山(おとわやま)の山稜が。


野神社旧蹟(大江東自治会館)
大江4丁目、旧東海道を少し東に外れた所にある野神社旧蹟(大江東自治会館)。平安時代の歌人で中古三十六歌仙の一人、大江千里(おおえのちさと)の住居跡と伝わる場所。大江千里は地元の村人から”ちりんさん”と呼び親しまれたという。


旧東海道 一里山
一里山を行く旧東海道。


月輪池(大萱)一里塚跡
江戸日本橋から120里、京三条大橋からは5つ目となる月輪池(大萱)一里塚跡。一里山一丁目交差点角に一里塚址碑と解説板が設置される。遺構は残っていない。


一里山橋
一里山橋で長沢川を渡る。


月輪池
ここが下月輪池。水面に月が映ることもなく、一見するとごく普通の溜め池。しかし、歴史や所以を知ったうえであれば、少し違った景観が見えてくるというものだ。


月輪東海道立場跡碑
下月輪池畔に設置される”月輪東海道立場跡”碑。


旧東海道 月輪
下月輪池で完全な日没に。夜陰に乗じてという訳ではないが、ひたひたと旧東海道を東へ。


弁天池
旧東海道は弁天池の畔を通って。池中の弁天島には江戸時代の大盗賊日本左衛門が隠れたとの伝説が残る。


野路の玉川
弁天池から旧東海道を東へ400m程、小公園に整備された野路の玉川がある。玉のように湧く水が小川となって流れていたことからその名が付けられたという。萩の名所だったことから萩の玉川とも呼ぶ。日本六玉川の一つで、平安時代末期から歌所として知られた。


野路一里塚跡
野路一里塚跡。一里塚は旧東海道の道筋と共に消失、その跡地は小公園として整備されている。江戸日本橋から119里、京三条大橋からは6つ目となる一里塚。


草津宿
矢倉橋を渡り一気に草津宿へ。


東海道・中山道の追分道標
東海道・中山道の追分道標。草津宿散策は明日にゆっくりと。


夢大路(旧中山道)
夢大路(旧中山道)をとぼとぼ歩いて宿泊先の草津第一ホテルへ。


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草津宿

【旧東海道歩き 第3日目】草津第一ホテル→草津宿→石部宿→JR石部駅



【2013年7月14日(日)旧東海道 草津宿】
宿泊先の草津第一ホテルで朝食を済ませ、7時半頃に出発。まずは”本家うばがもちや”の本店に立ち寄り、草津名物”姥が餅”を購入し、本日のスタート地点となる草津宿へ向かう。前日同様に大気の状態が不安定、晴れ間があるものの草津宿本陣に来たところで突然雨が降り出す。前途多難な1日を予感しつつ、旧東海道歩きの再開する。まずは草津宿街道交流館と草津宿本陣を見学することに。

東海道は江戸日本橋から数えて52宿目、京都三条大橋からならば2宿目となる草津宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ南北7町15間半(約792m)・東西4町38間(約505m)、人口2351人、家数586軒、本陣は田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣の2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒。立木神社が京方入口、ここから宮町・六町目~一町目と町並みが続き、高札場を置く草津追分で中山道が分岐、東へ鉤の手に曲げられた東海道沿道に西横町・東横町の町割り。宿京方外れには矢倉立場があり、「急がば回れ」の語源と伝わる琵琶湖渡船の矢橋渡しへ至る矢橋道が分岐していた。

旧東海道 草津宿


草津第一ホテル
草津第一ホテルを出発!


本家うばがもちや本店
開店直後の”本家うばがもちや”本店に立ち寄る。織田信長により滅亡する六角義賢が臨終の際、曾孫を乳母に後事を託し、曾孫を連れて郷里に帰った乳母は、餅を作り商いをして養育費を稼いだという。いつしかその餅は”姥(乳母)が餅”と呼ばれるようになったと伝わる。江戸時代には矢倉立場に店があったが、現在は国道1号線沿いに本店を構えている。

お菓子処 うばがもちや
http://www.nanyouken.co.jp/ubagamochiya/


うばがもち
うばがもち”を購入。さて味見といきたいところだが、朝食後だし家に帰ってからにしよう。


草津追分
本日の旧東海道歩きのスタート地点、草津追分へ移動。左直進方向は旧中山道、右折が旧東海道である。旧中山道上は天井川の草津川、現在は隧道が通っているが昔はここをよじ登って川を渡っていた。


草津追分道標
東海道と中山道の分岐点にある草津追分道標。文化13年(1816年)の建立。高さ一丈四尺七寸(4.45m)、「右 東海道いせみち 左 中仙道美のぢ」と刻まれる。大燈籠を載せる立派な道標だ。


名所図会に見る渡し場の風景
名所図会に見る渡し場の風景。隧道入口横に解説付でこの絵図が掲げられ、昔の草津追分はこんなんだったんだと、往時に思いを馳せらせるのも面白い。草津追分に道標と高札が並び、追分から草津川渡しに向かう中山道の様子がよくわかる。


田中七左衛門本陣本陣
旧一町目西側、田中七左衛門本陣前を行く旧東海道。


田中七左衛門本陣本陣
田中七左衛門本陣は草津宿に置かれた2軒の本陣のうちの一つで、現存するのはこちらだけ。国指定史跡の貴重な遺構である。内部公開しているが、まだ開館前なので後ほど。


草津宿
草津宿旧二町目・一町目の町並み。”ベーカリー&カフェ 脇本陣”等、古風な店舗が並び旧宿場の雰囲気漂う。


くさつ夢本陣
旧二町目東側にあった田中九蔵本陣跡。明治期に跡継ぎが絶えて建物は取り壊されたとのこと。現在その跡地には草津市まちなか交流施設”くさつ夢本陣”、隣接してプリマヴィラ本陣というマンションが建ち、名に本陣の名残を留めている。


草津宿街道交流館
草津宿街道交流館を見学しよう。

草津宿 ~東海道と中山道が出会うまち~
http://www.kusatsujuku.jp/


草津宿街道交流館
街道交流館には草津宿や街道関係の興味深い展示が多い。草津宿に訪れた際には是非とも立ち寄ってほしい。


草津宿模型
展示の中でも特に興味深く見学したのが、この江戸時代の草津宿を再現した模型。当時の町並みがよくわかり、草津宿散策を一層面白くしてくれる。


うばがもち(復元)
明治2年に描かれた”うばがもち”の絵を基に復元した模型。現代のうばがもち(下写真)より一回り大きく、形も少々違う。


うばがもち02
現代のうばがもち。乳母にかけて乳房をイメージしているらしい。


草津宿街道交流館にて
草津宿街道交流館にて。浮世絵摺りを体験。まあまあの出来かな。


草津宿本陣
次は草津宿(田中七左衛門)本陣を見学に。旧中山道歩きの時以来の再訪。


草津宿本陣
表門を潜り抜けて本陣敷地内へ。


草津宿本陣
玄関広間から奥の上段の間へ通ずる畳廊下。


草津宿本陣
本陣主屋の奥には庭園が配される。


草津宿本陣台所土間
草津宿本陣台所土間。短時間に多くの食事を準備するためだろう、五連式の竈が二基設置されている。多くの賄いが忙しく働いていた様子が目に浮かぶ。


草津宿本陣
見学を終えて本陣を後に。時間は11時ちょっと前、朝方に比べ人通りが多くなった。


草津追分
さあ、草津追分から旧東海道を歩き始めよう。


草津宿旧西横町
草津宿旧西横町より追分方向を望む。


草津宿旧東横町
草津宿旧東横町の町並み。


草津宿旧東横町
草津宿江戸方入口より旧東横町を望む。江戸方から来ると草津川を渡ってここから草津宿に入る。


草津宿模型
草津宿街道交流館に展示の草津宿模型より。江戸時代の草津宿江戸方入口はこんな様子だった。


草津宿江戸方入口の道標
草津宿江戸方入口、路傍に残る火袋付石造道標。草津追分の道標と同じ作りで、建立年も同じく文化13年(1816年)。「右 金勝寺志がらき道」「左 東海道いせ道」と刻む。 


草津川橋
草津川の渡し場跡に架かる草津川橋。


草津川
水の流れが無い草津川。平成14年(2002年)草津川放水路が開削され、下流域の旧河道は廃川に。いずれ堤防や橋梁は撤去されてしまうのだろうか。


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ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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