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鈴鹿峠越え

【2013年10月13日(日)旧東海道 土山宿→坂下宿 道中】
近江国と伊勢国の境、東海道を往来する旅人はこの境に横たわる鈴鹿山脈を越えねばならない。標高378mの鈴鹿峠越えである。古代の東海道は伊勢国の鈴鹿関から加太越えで伊賀へ抜けるルートだったが、平安時代の仁和2年(886年)鈴鹿峠越えの新道(伊勢大路・阿須波道)が開かれて以来、こちらが東海道の本道になった。鈴鹿峠の近江側はなだらかな直線状の坂道に対し、伊勢側は峻険な斜面に敷設された八町二十七曲がりと呼ばれるつづら折れの難路で、東の箱根・西の鈴鹿と並び称される峠越えの難所だった。また、鈴鹿峠一帯は山賊が出没することで知られ、旅人にとってはその恐怖に耐えながらの峠越えとなり、このことも難所と呼ばれた所以の一つなのだろう。峠付近には鏡のような岩肌を持っていたという鏡岩があり、山賊は峠を登ってくる旅人を岩肌に映し見ては襲っていたとの伝説も。鏡岩が”鬼の姿見”とも称される所以である。


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鈴鹿峠旧道出入口
国道1号を離れ、ここから鈴鹿峠旧道へ。


鈴鹿峠旧道
舗装された小路の鈴鹿峠旧道を登ろう。


鈴鹿峠旧道03
振り返って京方面を撮影。写真右は国道1号。


万人講常夜燈
舗装道の旧道を登って間もなく、峠付近で万人講常夜燈に迎えられる。江戸時代中期、四国の金比羅参りの講中が建立したもので、高さ5m44cmの巨大な石灯篭。地元の山中村や坂下宿、甲賀谷の人々三千人の奉仕により完成したという。


鈴鹿峠旧道
峠付近の旧道は未舗装路になり、それらしい雰囲気に。沿道に茶畑が広がる。


鈴鹿峠
特に苦労も無く鈴鹿峠に到着。


近江・伊勢境界碑
滋賀県と三重県の境にある近江・伊勢境界碑。ここから先はかつての伊勢国、三重県だ。


鈴鹿峠02
鈴鹿峠を三重県側に入り、滋賀県を名残惜しみつつ振り返って撮影。かつての峠付近は澤という立場で、松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋という6軒の茶屋があり甘酒が名物だったという。鈴鹿峠を往来する旅人は足を休めつつ、甘酒にほっと一息ついたことだろう。残念ながら往時の様子を窺い知ることはできないが、わずかに石垣等の遺構が残存している。


鈴鹿峠03
鈴鹿峠を三重県側に入ってすぐ、「鈴鹿峠」の解説板が立つ。ここから西に山中へ少し入ったところに田村神社旧跡と鏡岩がある。


田村神社旧跡
田村神社旧跡。かつて田村神社が鎮座していた場所だが、現在はその名を刻んだ石柱が立つのみ。鈴鹿峠の山賊を討伐したとの伝説がある坂上田村麻呂を祭神に祀っていた。


鈴鹿山の鏡岩
これが鈴鹿山の鏡岩。鏡とは程遠い岩肌である。現地の解説板によると「岩面の一部が青黒色の光沢を帯びている。これは鏡肌(スリッケンサイド)と呼ばれ、断層が生じる際に強大な摩擦力によって研磨され、平らな岩面が鏡のような光沢を帯びるようになったものをいう。」と書かれており、鏡岩の山賊伝説はあくまで伝説ということか。


鏡岩からの眺め
鏡岩からの眺め。三重県側の山麓が眼下に見渡せ、ここで山賊が襲う旅人の品定めをしていたのかもしれない。


鈴鹿峠
鏡岩から旧東海道に戻って。


鈴鹿峠旧道
八町二十七曲がりと言われた難所、三重県側の鈴鹿峠旧道を降ろう。


鈴鹿峠旧道
途中、茶屋跡と思われる石垣が見られる。


鈴鹿峠旧道にて
鈴鹿峠旧道にて。最近見かけなくなった気がするアゲハ蝶。
旅人に尋ねてみた どこまで行くのかと いつになれば終えるのかと 旅人は答えた 終わりなどないさ 終わらせることはできるけど♪
ポルノグラフティのお気に入りのフレーズが頭をよぎる。


鈴鹿峠旧道
石畳の階段道。近年に敷設のものか。


馬の水飲み鉢
平成4年(1992年)関町教育委員会により復元された馬の水飲み鉢。かつて往来する人馬のために水溜めが置かれていたことを偲ぶ。


鈴鹿峠の芭蕉句碑
鈴鹿峠旧道筋にある芭蕉句碑。ここは松尾芭蕉も歩いたであろう道、句を諳んじながら芭蕉に思いを馳せて。

ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山


鈴鹿峠旧道
鈴鹿峠旧道は国道1号横で平坦地に。東海道自然歩道の案内板等がある。


鈴鹿峠旧道
旧道は高架橋の国道1号と交差。


鈴鹿峠旧道
鈴鹿峠旧道。苔生す石畳に八町二十七曲がりの面影が色濃く残る。


鈴鹿峠灯籠坂
片山神社の鳥居が見えれば急坂の下りは終わり。この辺りの急坂は沿道に灯籠が並んでいたことから”灯篭坂”と呼ばれた。


片山神社
灯籠坂を降りきった所に片山神社の鳥居が立つ。鈴鹿峠江戸方方上り口にあたる。中山道や会津西街道の過酷な峠越えを経験した者にとっては少々物足りない感じ。


片山神社
鎌倉時代にこの地に鎮座したと伝わる片山神社。坂上田村麻呂の山賊退治のまつわる伝説の女性、鈴鹿御前を祀ったことに縁起があるとされ、江戸時代には”鈴鹿権現”等とも呼ばれた。そんな由緒ある神社なのだが、平成11年(1999年)神楽殿を残して焼失。現在も本殿が再建されることなく荒れた状態なのは残念の一言しかない。


片山神社
焼失を免れた神楽殿も崩落寸前の状況。何とかならないものか…。


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坂下宿

【2013年10月13日(日)旧東海道 坂下宿】
鈴鹿峠の南麓、その上り口に鎮座する片山神社から約2km江戸方寄りに坂下宿は位置する。その宿場名は鈴鹿峠越えの坂道下にあったことに由来。阪之下とも書かれる。元々は片山神社の江戸方一帯の狭隘地に宿場があったが、慶安3年(1650年)の大雨で大規模な土砂崩れや土石流が起きたのか、町は壊滅的な被害を被り人的損害も大きかったといい、翌年に町全体が東側の現在地へ移転した。東海道難所の一つ鈴鹿峠を控えることから、参勤交代に往来する大名の宿泊や休憩が多かったのだろう、3軒もの本陣と1軒の脇本陣が置かれていたのが特徴。一般の宿泊も多かったようで、宿場規模の割に旅籠の数が多い。

江戸日本橋から数えて48宿目、京都三条大橋からならば6宿目となる坂下宿。天保14年(1843年)当時の宿内町並5町56間(約647m)、人口564人、家数153軒、本陣は梅屋と大竹屋、松屋の3軒、脇本陣が小竹屋の1軒、旅籠48軒。名物は蕎麦切や鮎の鮨、櫛等。坂下宿から約3km江戸方の東海道筋、鈴鹿川の対岸に名所筆捨山を望む筆捨茶屋があり、歌川広重は「東海道五十三次之内 阪之下」の題でここを浮世絵に描いてる。


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坂下宿古町
片山神社から旧東海道を江戸方に向かって間もなく、ここ鈴鹿川源流の谷間が慶安3年(1650年)以前の坂下宿である。寛永14年(1637年)に寺社の他111軒の人家があったことが当時の検地帳から確認できるという。現在は古町という地名が残るのみで、家一軒すら見当たらない。


坂下宿古町
江戸時代末期の坂下宿家並図によれば古町にも数軒の民家があり、おそらくはその遺構なのだろう、土台の石垣が木立の中の所々に見られる。


坂下宿古町にて
鈴鹿川源流の畔に小屋。古町で唯一見られた建物。何なのか確認したところ↓


古町の石仏
小屋内には石仏が大事に安置されていた。


坂下宿古町
右手に鈴鹿川源流、山の斜面を開削して旧東海道は通されている。


坂下古町07
狭隘地を通り抜ければ国道1号の側道に合流。


荒井谷一里塚跡付近
旧東海道と国道1号の側道合流地点付近に荒井谷一里塚があったというが、国道敷設の際に撤去されたのだろう、その遺構はもちろんのこと、跡地を示すものすら無い。江戸日本橋から108里目(約424km)、京三条大橋からは17番目(実測で約71km地点)となる一里塚。


岩屋観音
万治年間(1658年~1660年)実参和尚が巨岩に穴を穿ち阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵を安置したという岩屋観音。御堂の横に清滝の水が落ち別名を清滝観音とも言う。葛飾北斎の錦絵”諸国滝廻り”全8図のうちの一つに取り上げられ、「東海道坂ノ下 清滝くわんおん」の画題で描かれている。


坂下宿
坂下宿に入って。京方出入口から鈴鹿峠方面を望む。


金蔵院跡
近隣で火事があり消防車やパトカーが停まる物々しい雰囲気。その消防車右奥に見える土台は金蔵院跡。別称を鈴鹿山護国寺と呼び、江戸時代初期には将軍家の御殿が置かれ、徳川家康や家光が休息に利用したとされる。慶安3年(1650年)の洪水後に古町より現在地へ移転したが、明治になって廃寺となり石垣だけが残されている。


坂下宿
坂下宿の町並み。


坂下宿
旧商家らしき民家の軒先からは放水ホースが。


中の橋
坂下宿の中央部、中乃橋。かつて中乃橋周辺には本陣や脇本陣が建ち並び宿場の中枢をなした。


小竹屋脇本陣跡
坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に

鈴鹿馬子唄に歌われた小竹屋脇本陣跡(写真右手)。”大竹小竹”の大竹とは本陣の大竹屋を指しており、本陣に宿をとるのは無理だが、せめて脇本陣の小竹屋には泊まってみたいという意が込められているという。


法安寺
中乃橋の北側にある法安寺。この寺の庫裡玄関は松屋本陣の門を移築したもので、坂下宿本陣の唯一残る貴重な遺構。


梅屋本陣跡
坂下宿にあった本陣3軒のうちの一つ、梅屋本陣跡(写真右手)。写真を見ての通り、現在は本陣の様子を想像するには難しい。


大竹屋本陣跡
坂の下では大竹小竹…の、大竹屋本陣跡。庶民が憧れた本陣も今は…。


前田屋
前田屋製菓。江戸時代に坂下宿のお隣、関宿の名物だった団子餅”志ら玉”を復活させて製造販売する。こし餡をくるむ白の生地に、赤・黄・緑の飾り玉をのせる可愛らしい見た目の”志ら玉”は、東海道を往来する旅人に親しまれた。関宿に販売店があるのでそちらで購入しよう。


坂下集会所
松屋本陣跡に建つ坂下集会所。


松屋本陣跡
松屋本陣跡碑。法安寺の庫裡玄関となった門はかつてここら辺にあったはず。


坂下宿
坂下宿東側の町並み。


河原谷橋
坂下宿江戸方入口に架かる河原谷橋。


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筆捨茶屋

【2013年10月13日(日)旧東海道 坂下宿→関宿 道中】
坂下宿から旧東海道を江戸方に向かって約3km、鈴鹿川の対岸に名勝筆捨山を望む立場があった。その名を筆捨茶屋や藤の茶屋とも言い、4軒の茶屋があったことから四軒茶屋とも呼称される。筆捨山は標高289m、山腹に奇岩がむき出しに表れ、元々の名を岩根山と称す。室町期の絵師狩野元信がこの山を描こうと筆を執ったが、翌日に雲や霞がたちこめて景観が目まぐるしく変わってしまい、筆を投げ捨てたとの逸話から”筆捨山”の名が付いたと伝わる。そんな筆捨山を眼前に望める筆捨茶屋、東海道を往来する旅人は足を休めつつ奇岩の横たわる山容を眺めて楽しんだという。歌川広重の浮世絵「東海道五十三次之内 阪之下」をはじめ、伊勢参宮名所図会等にここが描かれ、往時の様子を今に見ることができる。


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旧東海道 関町沓掛
旧東海道、鈴鹿峠自然の家付近。東海道53次の宿場名を記した木柱が沿道に並ぶ。


鈴鹿峠自然の家
鈴鹿峠自然の家。昭和13年(1938年)坂下尋常高等小学校の校舎として建てられたもので、昭和54年(1979年)に廃校となり、現在は宿泊研修施設として活用されている。松下奈緒主演のテレビドラマ「二十四の瞳」の撮影に使われたとか。


三子山
鈴鹿峠自然の家付近の旧東海道より三子山を望む。東海道における峠越えの二大難所、西の鈴鹿に三子山、東の箱根には二子山があると、ここにおられた正調鈴鹿馬子唄保存会の鵜飼さんに話を伺いました。


鈴鹿馬子唄会館
鈴鹿馬子唄会館。鈴鹿馬子唄や坂下宿についての資料を展示している。


大竹屋本陣平面図
鈴鹿馬子唄会館に展示されていた大竹屋本陣平面図。あの農地と化してしまった場所に、こんな大きく立派な屋敷があったわけだ。坂下宿を訪ねる前に立ち寄りたかった。


沓掛集落
沓掛集落を行く旧東海道。


沓掛集落
”沓掛”は近畿以東の各地に見られる地名。中でも中山道碓氷峠の西側にあった沓掛宿は有名。沓とは旅人や馬の草鞋を指し、旅の道中で履き替えた草鞋を神社や寺の枝木等に掛け、旅の安全を祈願する風習に地名の由来がある。


坂下簡易郵便局
坂下簡易郵便局。


超泉寺
超泉寺。沓掛地区の神社仏閣は他に見当たらず、旅人が草鞋を掛けて旅の安全を祈願したのはここなのだろう。


関町沓掛の旧東海道路傍にて
沓掛の集落を抜けて間もなく、路傍に佇む人が…。遠目には生身の人間がしゃがんで何かの作業をしているように見えた。古の旅人か馬子なのか、この木像の意味しているところが不明。腕組みの上には幾らかのお賽銭が置かれており、お地蔵さんのような存在になっている。


楢の木集落
旧市瀬村の枝郷、楢の木集落。


楢の木集落
楢の木集落を抜ければ国道1号に合流。


弁天一里塚跡
弁天一里塚跡。弁天橋西側に”一里塚址”の石碑があるのみで両塚とも残存せず。江戸日本橋から107里目(約420km)、京三条大橋からは18番目(実測で約75km地点)となる。


弁天橋
弁天橋の東側(写真橋向こう)には新茶屋と呼ばれる立場があったが、国道敷設による道路拡張で消失したのだろう、遺構は全く見当たらない。


弁天橋と鈴鹿川
弁天橋と鈴鹿川。橋の下はちょっとした渓谷美。その昔、橋の袂に弁天様が祀られていたので弁天橋の名が付いたという。


旧東海道 関町市瀬
鈴鹿川の峡谷に通される国道1号。旧東海道の道筋を踏襲しており、昔は結構な難所だったと思われる。


鈴鹿川
谷底を流れる鈴鹿川。


筆捨茶屋(藤の茶屋)跡
筆捨茶屋(藤の茶屋)の集落へ。


筆捨茶屋(藤の茶屋)跡
筆捨茶屋跡を江戸方から望む。筆捨茶屋跡の旧道は国道を挟んで西側と北側に残っている。写真右の小路は筆捨茶屋西側の旧道。


筆捨茶屋(藤の茶屋)跡
旧道沿いに数軒の民家が並ぶ西側の筆捨茶屋跡。


筆捨茶屋(藤の茶屋)跡
筆捨茶屋跡を行く旧東海道。現在は民家の敷地に阻まれ通行できず。


筆捨山02
筆捨茶屋跡の集落裏手より筆捨山を望む。大部分が木々に覆われてしまっているが、奇岩の一部が望める。


鈴鹿川
筆捨山の麓を流れる鈴鹿川。古く鈴鹿川上流部は八十瀬(やそせ)川と呼ばれた。


筆捨茶屋(藤の茶屋)跡
筆捨茶屋跡東側の旧道。その入口には亀山市教育委員会による解説板が設置される。


伊勢参宮名所図会 筆捨山
現地設置の解説板より「伊勢参宮名所図会 筆捨山」。今も昔の様相が残っていることを実感。


筆捨山
筆捨橋より筆捨山の岩峰を望む。


旧東海道 関町市瀬
筆捨山を背にして国道1号を東へ。


旧東海道 関町市瀬
市瀬集落京方出入口の旧道。


市瀬集落
市瀬集落を行く旧東海道。


市瀬公民館
市瀬公民館の先で市瀬集落の旧道は国道1号によって分断。


西願寺
市瀬集落の中央部にある西願寺。


市瀬集落
市瀬集落の旧道は江戸方外れ(写真の旧道奥)で鈴鹿川を渡っていたが、現在は橋が架けられておらず行き止まり。集落途中で左折する新道を進み市瀬橋で鈴鹿川を渡ろう。


市瀬橋
市瀬橋上で振り返って。


鈴鹿川
市瀬橋より鈴鹿川下流を望む。昔は市瀬橋より鈴鹿川下流約50m辺り、”はねかけ橋”と呼ばれる橋が架けられていたらしい。江戸時代の狂言師大田南畝(蜀山人)が書いた旅行記「改元紀行」にその名が見える。


国道1号 関町市瀬
旧東海道は国道1号に合流し関宿へ向かう。


転石
国道1号に合流して間もなく、国道沿いの駐車場内にある転石(ころびいし)。その昔に山の上から転げ落ちてきたという大石、夜な夜な不気味な音をたてたり、何度除けても街道へ転び出てきたとか。弘法大師の供養によって大人しくなったとの伝説が残っている。


国道1号 関西口バス停
国道1号沿いの関西口バス停。この先で関宿に入る。


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関宿

【2013年10月13日(日)旧東海道 関宿】
古代三関の一つ、鈴鹿関に地名の由来がある関宿。鈴鹿関のはっきりとした位置や規模はわかっていないが、近年に鈴鹿関の西側面にあたる西城壁跡(観音山南麓)の遺構が発見され、現在も発掘調査が続けられている。その鈴鹿関跡と推定される地にあるのが関宿。今も江戸時代に往来する旅人で賑わった宿場町の景観を色濃く残している。それもそのはず、旧関宿一帯は東海道で唯一の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定される旧宿場なのだ。以前の旧街道歩きで訪れた中山道の奈良井宿や妻籠宿、会津西街道の大内宿も同指定を受ける旧宿場町だったが、いずれも負けず劣らずの往時を彷彿させる町並みは、多くの観光客を呼んで賑わっていた。しかしながら、ここ関宿は周辺に伊勢や京都・奈良等、日本を代表する観光地が多くあるせいか、意外に観光客が少ない。人もまばらな夕闇迫る旧宿場の町並みに身を置いてみれば、静寂の中に往時の賑わいを感じるのである。

江戸日本橋から数えて47宿目、京都三条大橋からならば7宿目となる関宿。天保14年(1843年)当時の宿内町並15町13間(約1.7km)、人口1942人、家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠42軒。本陣は江戸時代前期に滝・伊藤・川北の3本陣家があったが、後に伊藤・川北家の2本陣に。脇本陣は原(馬屋)・荻野(荻屋)・西尾(鶴屋)家が交代で就役した。新所村・中町・木崎村の関宿3町で成り立ち、宿場中枢部の中町は一番町から六番町の6町で構成。宿場京方端の西の追分で大和街道、江戸方端の東の追分で伊勢別街道が分岐する。名物は餅菓子の関の戸や地蔵餅の他、南禅寺豆腐、竹火縄等。歌川広重は「東海道五十三次之内 関」の題で、まだ明けやらぬ薄暗い早朝、大名一行が出立の準備をする本陣での様子を浮世絵に描く。


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関ロッジ出入口
国道1号から関ロッジ出入口のゲートを潜り抜けて。


旧東海道 関町新所
旧東海道を関宿へ向かう。


関宿西の追分
関宿の京方出入口、西の追分。東海道から伊賀・奈良方面へ通じる大和街道が分岐する。写真奥方向が江戸方の旧東海道で、右に分岐するのが旧大和街道。


西の追分の題目塔道標
西の追分に残る題目塔道標。元禄年間(1688年~1704年)の建立という。「南無妙法蓮華経」の下に「ひたりハいか やまとみち」と刻まれる。


旧大和街道
旧大和街道から西の追分を望む。大和街道は加太越えとも呼ばれる峠越えの山道。本能寺の変の際、堺から京都へ向かう途次にあった徳川家康は、その報せを聞き僅かな供を連れて畿内を脱出、本国の三河へ帰還した。世に言う”神君伊賀越え”である。その逃避行に通ったとされるのが加太越えの大和街道。この小路を悲壮な面持ちで家康が通ったと思えば、ただの小路も違って見えてくるのだ。


関宿西の追分休憩施設
西の追分休憩施設。裏庭に井戸が残っており、古民家を改装したものか。


関宿西の追分休憩施設
西の追分休憩施設でひと休み…、と思ったが、16時半に閉めてしまうとのことで、そそくさと退散。


南禅寺井口家
西の追分付近にある井口家。かつては南禅寺の屋号で豆腐料理を名物とする料亭だった。現在に残る建物は文久年間(1861年~1863年)の建築と伝わる。関宿の名物とされた南禅寺豆腐とは、ここの豆腐料理を指すのだろう。


観音山公園道
観音院の境内隅に”観音山公園道”の道標。ここから北へ分岐する道は観音山へ通じる。


観音院
観音院。古くは関西山福聚寺と称し、平安時代初期の開創と伝わる。戦国時代末期に本尊一体を残してすべてを焼失、後に再興され、寛文年間(1661年~1673年)観音院に改称した。


関宿新所
関宿新所の町並み。


関宿新所
関宿新所の町並み。


福生山長徳寺
新所の中心にある福生山長徳寺。


関宿新所
新所には関宿の名産竹火縄を作る火縄屋が数十軒あった。火縄は火縄銃をはじめ、煙草の着火にも用いられたため、庶民からの需要も多かった。関宿には旅人相手の火縄売りも多くいたようだ。


松葉屋田中家
松葉屋田中家(写真左手前)。昔は火縄屋を営んでいた。”播州林田御用火縄所”と書かれた看板が残っているという。


会津屋
地蔵院前にあるお食事処”会津屋”。「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われた程、往時は鶴屋・玉屋と並ぶ大旅籠の一つだった。女性でありながら父の仇討を果たした”関の小万”は、会津屋の前身山田屋で育てられた伝わる。


地蔵院本堂
関の地蔵こと地蔵院。寺号を宝蔵寺と称す。本堂・愛染堂・鐘楼の3棟が国の需要文化財に指定。天平13年(741年)行基の開創と伝わり、本尊の地蔵菩薩は日本最古と云う。古くから庶民の信仰を集め、中世に地蔵院を中心に門前町を形成、関地蔵と呼称された。門前町関地蔵は後に東海道の宿場町として発展してゆく。


片岡かじや
片岡かじや(写真右手前)。明治末期より打刃物や鍬・鋤等、農具専門の鍛冶屋を営んだ。


関宿中町
関宿中町の町並み。


志ら玉屋
志ら玉屋。坂下宿にあった前田屋製菓の直営販売店。関宿名物の”志ら玉”を購入、味見は後のお楽しみに。

関宿名物 志ら玉
http://www.maedayaseika.com/


福蔵寺
旧東海道より延びる福蔵寺参道。参道東側(写真右手)に原脇本陣跡(現 ぜにや)。福蔵寺は織田信長の三男、信孝の菩提寺。


織田信孝公墓
福蔵寺境内にある織田信孝公の墓。福蔵寺は本能寺で憤死した織田信長の冥福を祈るため、信孝の命により建立。天正11年(1583年)信孝は羽柴秀吉との後継争いに敗れ自害、家臣が首を福蔵寺に葬ったという。この墓は信孝の墓石が不詳のため、四百年忌に建立したもの。


関の小万の墓
福蔵寺には”関の小万”の墓も。


福蔵寺裏門
福蔵寺裏門は荻屋脇本陣から移築したもの。


関宿高札場
関郵便局の敷地に立つ復元高札。関郵便局の敷地は江戸時代初期に御茶屋御殿と呼ばれ、本陣の役割を担う施設があったが、宿駅の整備により本陣が確立すると、代わって亀山藩の番所等が置かれた。江戸時代の数々の絵図から御茶屋御殿跡の街道に面した位置に高札場があったことがわかり、忠実に場所を特定して復元したとのこと。高札も本物と見紛う出来で、すばらしい。


関宿中町
中町より地蔵院を望む。鈴鹿の山々をバックに地蔵院と軒を連ねる町家、関宿らしい景観。


関宿中町
関宿中町の町並み。


深川屋服部家
深川屋服部家。寛永年間(1624年~1645年)深川屋の初代が考案した餅菓子”関の戸”を370余年にわたり作り続ける老舗。


深川屋
関宿の名物の一つ、関の戸を購入。

東海道関宿銘菓 関の戸|深川屋
http://www.sekinoto.com/


旅人宿石垣屋と玉屋歴史資料館
旅人宿石垣屋(写真右手前)と玉屋歴史資料館(写真右奥)。石垣屋の向かい、深川屋の隣(現 佐野新聞店辺り)に荻屋脇本陣があった。旅人宿石垣屋は旧商家を利用した安宿(ゲストハウス)で、現代の木賃宿といったところか。そして関宿を代表する大旅籠の玉屋は歴史資料館として内部を公開。後日に改めて見学しよう。


橋爪家
写真右手前、手摺付二階主入りの建築は江戸期に両替商を営んだ橋爪家。大坂の鴻池家と並び称され、江戸にも出店を持っていたというから、当時は相当な豪商だったようだ。江戸末期には芸妓の置屋として繁盛した。


旧伊藤本陣
中町の中心部(旧三番町)にある旧伊藤本陣。現在は本陣の店部分(家族の居住部分と大名宿泊時の道具置場)だけが残っている。


川北本陣跡
伊藤本陣と同じく中町の三番町にあった川北本陣跡。現在本陣の建物は残っていないが、本陣門だけが延命寺に移築され現存する。東隣に問屋場が置かれていた。


関宿問屋場跡
川北本陣跡の東隣、問屋場跡。当初、関宿の問屋は滝・伊藤・川北の本陣家が1年毎に交代で務めていた。後に宿内の有力者2名を選び半月毎の交代制となったが、元禄年間(1688年~1704年)以降は川北家が勢力を延ばし問屋役の任に就いた。


関宿問屋場跡
問屋場跡の山車倉。関宿の山車は最盛期に16基あったが、現在は4基の山車と4ヶ所の山車倉がある。精一杯やれる程度を表す「関の山」という言葉の語源は、関宿の狭い路地で華美を競い練り歩いた山車にあるという。


旧鶴屋脇本陣波多野家
旧鶴屋脇本陣波多野家(写真右手前)。この辺りは中町の旧四番町にあたり、かつて西尾吉兵衛家が鶴屋の屋号で脇本陣を務めたのがここ。平素は一般人を宿泊させる旅籠たっだ。


岩田商店
岩田商店の店構えもさることながら、レトロな看板かいい。創業は比較的新しく昭和30年(1955年)、地元産の自然薯を使った”福天むすび”や”福とんむすび”が名物だとか。


百五銀行
百五銀行関支店。関にあっては銀行もこの通り。


雲林院家かいうん楼と青果物商遊快亭
写真左手前が雲林院家の旧開雲楼、その隣に鮮魚青果物商遊快亭(旧松鶴楼)。共に昔は芸妓置店で、旅籠の飯盛女を置いていたところ。今風に言えば、温泉宿のコンパニオン派遣業といったところか。今も昔も男が求める需要は変わらぬわけで…。


御馳走場跡
旧開雲楼前にある御馳走場跡。関宿に出入する大名一行を宿役人らが出迎え見送った場所で、宿内には4ヶ所の御馳走場があった。


関宿木崎
夕闇に沈みゆく関宿木崎の町並み。


関宿東の追分
関宿の江戸方方出入口、東の追分。旧東海道から伊勢別街道が分岐する。大鳥居の向こうが伊勢神宮へ通じる伊勢別街道。関宿内を歩ききったここで本日の旅は終い!


JR関駅
JR関駅から帰途につく。


志ら玉
JR関西本線名古屋行きの車内にて。これが志ら玉です♪


【旧東海道歩き 第6日目】田村神社停留所→鈴鹿峠→坂下宿→関宿→JR関駅 歩行距離約18km
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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

旅籠玉屋歴史資料館・関まちなみ資料館

前回の旧東海道歩きから年も明けて約5ヶ月後の2014年3月8日(土)、冬蘢りしていた虫が這い出てくる啓蟄の季節を迎え、久々に立った関宿は一足早い春の風が吹く。少しでも先に進みたい欲求を抑え、次の亀山宿への旧東海道歩きは翌日とし、関宿と亀山宿の間にある”ホテルルートイン亀山第2インター”に宿の予約を入れた。この日はちょうど「東海道のおひなさまin亀山宿・関宿」の開催期間で、関宿内の各家々で雛飾りを展示しており、旅籠玉屋歴史資料館・まちなみ資料館と併せて見学に時間を充てることとしたい。

旅籠玉屋は会津屋・玉屋と並ぶ関宿の大旅籠の一つ。江戸時代末期建築の主屋をはじめ、離れ・土蔵・納屋の建物が残り、現在は資料館として内部公開する。宿泊者に供した食器や食膳類、寝具等を展示しており、江戸時代の旅籠の様子を目で見て知り、感じることができる貴重な旅籠遺構である。そして他方、まちなみ資料館は文政8年(1825年)の火事後の再建と推定される江戸時代末期の町家。関宿における町家の典型を今に伝える。日本の街道史を勉強したいのであれば、必ず訪れておきたい場所だ。


より大きな地図で 旅籠玉屋資料館・関まちなみ資料館 を表示


JR関駅
約5カ月ぶりでJR関駅に降り立つ。年を重ねるにつれ、時が流れるのは早い。


地蔵院
境内が青空マーケットに開放されていた地蔵院。三重オーガニックマーケットという催しで、毎月第二土曜日に開かれているとのこと。昔から宿場町といえば定期市だものね。


会津屋
地蔵院前の会津屋で昼飯に。

会津屋
http://www16.ocn.ne.jp/~aizuya/index.html

会津屋
さすが、かつての大旅籠。外見に違わず店内もらしい雰囲気が漂う。


お薦め定食
山菜おこわと街道そばをメインに、煮物や佃煮類等の他にデザートまで付く”お薦め定食”を頂く。味も腹も満足な昼飯となりました。


志ら玉屋
再び”志ら玉屋”に。


志ら玉屋
志ら玉屋の店内奥には慎ましく雛人形が。


ナガオ薬局
ふと目に留まったナガオ薬局。この店構えにレトロな看板が絶妙のバランス。素晴らしい。


旧落合家
「おひなさま展示中」の看板に誘われ旧落合家へ。


旧落合家の吊るし飾り
まずは旧落合家の吊るし飾り。


旧落合家の雛飾り
そして、旧落合家の見事な雛飾り。手前には雛人形たちが関の山車を曳く。


階段ひな飾り
こんな所にも!旧落合家の階段雛飾り。


関宿高札場
旧落合家を出て関宿高札場へ。高札には何が書いてあるんでしょうか。


関郵便局
関宿郵便局。ひっそりと顔出し看板が置かれているが、誰も寄り付いてません。


深川屋
深川屋でまたしても関の戸を購入。一度食べたら当然の行為。


旅籠玉屋店の間
本日最大の目的、深川屋の向かいにある旅籠玉屋歴史資料館へ。旅籠玉屋の店の間から深川屋を眺め。


旅籠玉屋帳場
帳場で番頭さんに迎えらる。ここ玉屋に泊まった旅人は、番頭さんからどんな言葉をかけられたのだろうか。柔和な表情を見ていると、色々な想像がかきたてられる。


旅籠玉屋土間
旅籠玉屋土間。炊事場には竈の上に大釜や大鍋が置かれ、多くの客の食事を用意する料理人や賄いが忙しく動き回っていたのだろう。そんな様子が目に浮かぶ。


旅籠玉屋中庭
表側の店の間や帳場、座敷と離れを隔てる中庭。


旅籠玉屋離れ
建物1階の奥、貴賓室を兼ねた離れ。どんな御方がここで休憩し、はたまた宿泊されたのだろうか。


旅籠玉屋裏庭
離れに隣接する裏庭。縁側に腰を掛けてのんびり眺めたい。


旅籠玉屋井戸端
建物から外に出て井戸端へ。仕事の合間にどんな会議がここで開かれたのでしょう。


旅籠玉屋土蔵
旅籠玉屋の最奥に土蔵が構える。


旅籠玉屋二階客室
旅籠玉屋二階客室。絵に描いたような煎餅布団…。寝心地はいかがなものか。


関の竹火縄
旅籠玉屋歴史資料館に展示されていた関の名産品の一つ、竹火縄。江戸時代、関宿には松葉屋等数十軒の火縄屋があり盛んに生産された。煙草に火を付けるために重宝され、往来の旅人相手によく売れたようだ。明治期にマッチが登場して竹火縄は姿を消し、現在は全く生産されていない。


旅籠玉屋歴史資料館と石垣屋
旅籠玉屋歴史資料館を後に。


旧両替商橋爪家
旧両替商の橋爪家でも雛飾りを展示していたので見学しよう。


橋爪家の雛飾り
橋爪家の雛飾り。江戸・大正・昭和と現代の平成、4時代の雛飾りを展示。中でも目を引くのは江戸時代のもの。御殿飾りという形式で、江戸時代末期から昭和初期にかけ関西で主流の飾りつけだった。


旧伊藤本陣
旧伊藤本陣。


眺関亭
関宿の町並みを一望できる眺関亭。江戸時代末期に橋爪屋十兵衛家があった場所で、安政6年(1859年)建築の主屋は平成3年(1991年)に取り壊された。


百六里庭・眺関亭
橋爪屋十兵衛家跡は百六里庭と名付けられた小公園になり、旧東海道に面して眺関亭が建てられている。


関宿の町並み
眺関亭より関宿の町並み。


川北本陣跡
川北本陣跡。


関宿中町にて
小社殿を載せるリヤカーと、羽織袴を着た人たち。何かの行事中のよう。

追記
写真は伊勢太神楽の巡行に遭遇したもの。伊勢太神楽とは、囃子を奏でながら獅子舞を披露して各戸を回り、伊勢神宮のお札を配る600年前から続く伝統芸能。この巡行に遭遇できたのは極めて幸運だったようで、 もっと詳しく見ておくべきたったと後悔。”びわこおおなまけ”さん、貴重な情報を頂き有難うございました。
[2014年5月25日追記]



中町三番町山車倉
中町三番町山車倉の前にリヤカーが取り残され…。羽織袴の人たちはどこへ行ってしまったのでしょう?


旧鶴屋脇本陣波多野家
旧鶴屋脇本陣波多野家。


関まちなみ資料館
そして本日第二の目的地、関まちなみ資料館へ。


関まちなみ資料館
関まちなみ資料館は、文久年間(1861年~1864年)に書かれたという「宿内軒別書上帳」により、別所屋勝次郎の商家があった場所とわかり、今に残る建物は文久年間まで遡ることができるという。昭和60年(1985年)に持ち主の別所マサ氏より買い受けて昔日の姿に復元、資料館として一般公開する。


関まちなみ資料館
主屋の表から三列に部屋をとるのは関宿の町家に見られる典型。


関まちなみ資料館
関まちなみ資料館1階の様子。


明治の自転車
関まちなみ資料館に展示する明治の自転車。走った方が速そうだが、当時は画期的な乗り物だったのだろう。まともなサドルもなく、長時間の運転も無理な感じ。これが自転車の原型なのだ。


関まちなみ資料館
二階には町並みの変遷を一目に見れる繋ぎ合わせ写真を展示。


瑞光寺
関まちなみ資料館から近くの瑞光寺へ移動。境内にある権現柿は、徳川家康が立ち寄った折に柿を賞味したと伝わる柿の木。


延命寺山門
延命寺の山門を見学に。この門は明治5年(1872年)に川北本陣から移築された。川北本陣唯一の遺構。


川北本陣旧状(昭和初期)
関まちなみ資料館に展示されていた昭和初期の旧川北本陣。


関神社
関宿木崎の北側に鎮座する関神社に参拝。


関神社境内にて
関神社境内にて。春の訪れを感じます。


関神社にて
せっかくなので今年初めてのおみくじを引く。結果は良くも悪くも吉。「神仏を信じ 人の言に惑わされず 又独断におちいらなければ 幸せ極まりなし」。なるほど…。


関宿木崎
関宿の東(江戸)側、木崎の町並み。


長谷屋伊三郎
江戸時代に木賃宿だった長谷屋伊三郎。戦後まで旅館業を続けていたという。


木崎の町家にて
木崎の町家にて。


東の追分古写真
関宿の江戸方出入口、東海道より伊勢別街道が分岐する東の追分。写真は関まちなみ資料館展示の古写真。撮影年代不明。祖母と孫らの記念撮影といったところか。常夜燈に寄りかかる悪ガキ風の男児二人は、写真撮影されることに照れがあるのか、遠くから好奇心に満ちた視線をカメラに注ぐ。古写真は色々と想像をかきたてて面白い。伊勢別街道の入口に立つ大鳥居は、伊勢神宮を遥拝するためのもので、20年に1度の伊勢神宮式年遷宮に伴い、内宮宇治橋南詰の鳥居が移されてくる。


関宿東の追分
現在の東の追分。上の古写真と同アングルで撮影してみた。古写真には常夜灯と鳥居の間に道標らしき石柱が見えるが、現在は無い。常夜燈土台の石垣や玉垣(石の柵)に改修が見られるものの、常夜燈本体はほぼ原形を留めている。悪ガキ風男児二人は常夜燈に寄りかかり、安堵の表情を浮かべていることだろう。

今に見る大鳥居は平成7年(1995年)に移築されたもの。昨年10月に伊勢神宮式年遷宮の遷御の儀が行われ、大きな話題となったことは記憶に新しい。この大鳥居も来年(平成27年)中には建て替え予定とのこと。


伊勢別街道
東の追分より伊勢別街道を望む。


関一里塚跡
常夜燈裏に「一里塚址」の石碑がある。関一里塚跡で両塚とも現存せず。江戸日本橋から106里目(約416km)、京三条大橋からは19番目(実測で約79km地点)となる一里塚。


旧東海道 関町小野
関宿を抜けて。本日の宿泊先、ホテルルートイン第2亀山インターまで少しだけ歩く。


関の小万のもたれ松
関宿の東外れ、旧東海道沿いに立つ”関の小万のもたれ松”。小万について概要を少々。

江戸時代中期、九州久留米藩に牧藤左衛門という藩士がおり、遺恨あって同輩の小林軍太夫という者に殺された。藤左衛門の妻は身重の体だったが、仇討ちを志して旅に出る。鈴鹿峠を越え関宿に着いたところで行き倒れとなり、山田屋(現 会津屋)に保護されたが、女子を生んで後に病没。この女子が小万。成長した小万は母の遺志を継ぎ、亀山城下で三年程武術を修行、天明3年(1783年)見事に仇敵小林軍太夫を討ち果たす。この一事によって”関の小万”の名は世間に知れ渡った。”小万のもたれ松”は、亀山城下通いの小万が、若者の戯れを避けるため、ここの松にもたれ姿を隠していたとの言い伝えから。


小野川
小野川を渡り。


旧東海道 小野町
鈴鹿川左岸の土手上を行く。


ホテルルートイン第2亀山インター
本日の宿泊先、ホテルルートイン第2亀山インターに到着。明日は亀山宿を経て庄野宿まで歩く予定、大浴場でのんびり湯につかり、体を休めることにしよう。


撮影日:2014年3月8日(土)
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
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7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
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18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
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鶴ヶ城
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2008年10月13日(月)
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京都三条大橋

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