鈴鹿峠越え
【2013年10月13日(日)旧東海道 土山宿→坂下宿 道中】
近江国と伊勢国の境、東海道を往来する旅人はこの境に横たわる鈴鹿山脈を越えねばならない。標高378mの鈴鹿峠越えである。古代の東海道は伊勢国の鈴鹿関から加太越えで伊賀へ抜けるルートだったが、平安時代の仁和2年(886年)鈴鹿峠越えの新道(伊勢大路・阿須波道)が開かれて以来、こちらが東海道の本道になった。鈴鹿峠の近江側はなだらかな直線状の坂道に対し、伊勢側は峻険な斜面に敷設された八町二十七曲がりと呼ばれるつづら折れの難路で、東の箱根・西の鈴鹿と並び称される峠越えの難所だった。また、鈴鹿峠一帯は山賊が出没することで知られ、旅人にとってはその恐怖に耐えながらの峠越えとなり、このことも難所と呼ばれた所以の一つなのだろう。峠付近には鏡のような岩肌を持っていたという鏡岩があり、山賊は峠を登ってくる旅人を岩肌に映し見ては襲っていたとの伝説も。鏡岩が”鬼の姿見”とも称される所以である。
より大きな地図で 鈴鹿峠越え を表示

国道1号を離れ、ここから鈴鹿峠旧道へ。

舗装された小路の鈴鹿峠旧道を登ろう。

振り返って京方面を撮影。写真右は国道1号。

舗装道の旧道を登って間もなく、峠付近で万人講常夜燈に迎えられる。江戸時代中期、四国の金比羅参りの講中が建立したもので、高さ5m44cmの巨大な石灯篭。地元の山中村や坂下宿、甲賀谷の人々三千人の奉仕により完成したという。

峠付近の旧道は未舗装路になり、それらしい雰囲気に。沿道に茶畑が広がる。

特に苦労も無く鈴鹿峠に到着。

滋賀県と三重県の境にある近江・伊勢境界碑。ここから先はかつての伊勢国、三重県だ。

鈴鹿峠を三重県側に入り、滋賀県を名残惜しみつつ振り返って撮影。かつての峠付近は澤という立場で、松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋という6軒の茶屋があり甘酒が名物だったという。鈴鹿峠を往来する旅人は足を休めつつ、甘酒にほっと一息ついたことだろう。残念ながら往時の様子を窺い知ることはできないが、わずかに石垣等の遺構が残存している。

鈴鹿峠を三重県側に入ってすぐ、「鈴鹿峠」の解説板が立つ。ここから西に山中へ少し入ったところに田村神社旧跡と鏡岩がある。

田村神社旧跡。かつて田村神社が鎮座していた場所だが、現在はその名を刻んだ石柱が立つのみ。鈴鹿峠の山賊を討伐したとの伝説がある坂上田村麻呂を祭神に祀っていた。

これが鈴鹿山の鏡岩。鏡とは程遠い岩肌である。現地の解説板によると「岩面の一部が青黒色の光沢を帯びている。これは鏡肌(スリッケンサイド)と呼ばれ、断層が生じる際に強大な摩擦力によって研磨され、平らな岩面が鏡のような光沢を帯びるようになったものをいう。」と書かれており、鏡岩の山賊伝説はあくまで伝説ということか。

鏡岩からの眺め。三重県側の山麓が眼下に見渡せ、ここで山賊が襲う旅人の品定めをしていたのかもしれない。

鏡岩から旧東海道に戻って。

八町二十七曲がりと言われた難所、三重県側の鈴鹿峠旧道を降ろう。

途中、茶屋跡と思われる石垣が見られる。

鈴鹿峠旧道にて。最近見かけなくなった気がするアゲハ蝶。
旅人に尋ねてみた どこまで行くのかと いつになれば終えるのかと 旅人は答えた 終わりなどないさ 終わらせることはできるけど♪
ポルノグラフティのお気に入りのフレーズが頭をよぎる。

石畳の階段道。近年に敷設のものか。

平成4年(1992年)関町教育委員会により復元された馬の水飲み鉢。かつて往来する人馬のために水溜めが置かれていたことを偲ぶ。

鈴鹿峠旧道筋にある芭蕉句碑。ここは松尾芭蕉も歩いたであろう道、句を諳んじながら芭蕉に思いを馳せて。
ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山

鈴鹿峠旧道は国道1号横で平坦地に。東海道自然歩道の案内板等がある。

旧道は高架橋の国道1号と交差。

鈴鹿峠旧道。苔生す石畳に八町二十七曲がりの面影が色濃く残る。

片山神社の鳥居が見えれば急坂の下りは終わり。この辺りの急坂は沿道に灯籠が並んでいたことから”灯篭坂”と呼ばれた。

灯籠坂を降りきった所に片山神社の鳥居が立つ。鈴鹿峠江戸方方上り口にあたる。中山道や会津西街道の過酷な峠越えを経験した者にとっては少々物足りない感じ。

鎌倉時代にこの地に鎮座したと伝わる片山神社。坂上田村麻呂の山賊退治のまつわる伝説の女性、鈴鹿御前を祀ったことに縁起があるとされ、江戸時代には”鈴鹿権現”等とも呼ばれた。そんな由緒ある神社なのだが、平成11年(1999年)神楽殿を残して焼失。現在も本殿が再建されることなく荒れた状態なのは残念の一言しかない。

焼失を免れた神楽殿も崩落寸前の状況。何とかならないものか…。
近江国と伊勢国の境、東海道を往来する旅人はこの境に横たわる鈴鹿山脈を越えねばならない。標高378mの鈴鹿峠越えである。古代の東海道は伊勢国の鈴鹿関から加太越えで伊賀へ抜けるルートだったが、平安時代の仁和2年(886年)鈴鹿峠越えの新道(伊勢大路・阿須波道)が開かれて以来、こちらが東海道の本道になった。鈴鹿峠の近江側はなだらかな直線状の坂道に対し、伊勢側は峻険な斜面に敷設された八町二十七曲がりと呼ばれるつづら折れの難路で、東の箱根・西の鈴鹿と並び称される峠越えの難所だった。また、鈴鹿峠一帯は山賊が出没することで知られ、旅人にとってはその恐怖に耐えながらの峠越えとなり、このことも難所と呼ばれた所以の一つなのだろう。峠付近には鏡のような岩肌を持っていたという鏡岩があり、山賊は峠を登ってくる旅人を岩肌に映し見ては襲っていたとの伝説も。鏡岩が”鬼の姿見”とも称される所以である。
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国道1号を離れ、ここから鈴鹿峠旧道へ。

舗装された小路の鈴鹿峠旧道を登ろう。

振り返って京方面を撮影。写真右は国道1号。

舗装道の旧道を登って間もなく、峠付近で万人講常夜燈に迎えられる。江戸時代中期、四国の金比羅参りの講中が建立したもので、高さ5m44cmの巨大な石灯篭。地元の山中村や坂下宿、甲賀谷の人々三千人の奉仕により完成したという。

峠付近の旧道は未舗装路になり、それらしい雰囲気に。沿道に茶畑が広がる。

特に苦労も無く鈴鹿峠に到着。

滋賀県と三重県の境にある近江・伊勢境界碑。ここから先はかつての伊勢国、三重県だ。

鈴鹿峠を三重県側に入り、滋賀県を名残惜しみつつ振り返って撮影。かつての峠付近は澤という立場で、松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋という6軒の茶屋があり甘酒が名物だったという。鈴鹿峠を往来する旅人は足を休めつつ、甘酒にほっと一息ついたことだろう。残念ながら往時の様子を窺い知ることはできないが、わずかに石垣等の遺構が残存している。

鈴鹿峠を三重県側に入ってすぐ、「鈴鹿峠」の解説板が立つ。ここから西に山中へ少し入ったところに田村神社旧跡と鏡岩がある。

田村神社旧跡。かつて田村神社が鎮座していた場所だが、現在はその名を刻んだ石柱が立つのみ。鈴鹿峠の山賊を討伐したとの伝説がある坂上田村麻呂を祭神に祀っていた。

これが鈴鹿山の鏡岩。鏡とは程遠い岩肌である。現地の解説板によると「岩面の一部が青黒色の光沢を帯びている。これは鏡肌(スリッケンサイド)と呼ばれ、断層が生じる際に強大な摩擦力によって研磨され、平らな岩面が鏡のような光沢を帯びるようになったものをいう。」と書かれており、鏡岩の山賊伝説はあくまで伝説ということか。

鏡岩からの眺め。三重県側の山麓が眼下に見渡せ、ここで山賊が襲う旅人の品定めをしていたのかもしれない。

鏡岩から旧東海道に戻って。

八町二十七曲がりと言われた難所、三重県側の鈴鹿峠旧道を降ろう。

途中、茶屋跡と思われる石垣が見られる。

鈴鹿峠旧道にて。最近見かけなくなった気がするアゲハ蝶。
旅人に尋ねてみた どこまで行くのかと いつになれば終えるのかと 旅人は答えた 終わりなどないさ 終わらせることはできるけど♪
ポルノグラフティのお気に入りのフレーズが頭をよぎる。

石畳の階段道。近年に敷設のものか。

平成4年(1992年)関町教育委員会により復元された馬の水飲み鉢。かつて往来する人馬のために水溜めが置かれていたことを偲ぶ。

鈴鹿峠旧道筋にある芭蕉句碑。ここは松尾芭蕉も歩いたであろう道、句を諳んじながら芭蕉に思いを馳せて。
ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山

鈴鹿峠旧道は国道1号横で平坦地に。東海道自然歩道の案内板等がある。

旧道は高架橋の国道1号と交差。

鈴鹿峠旧道。苔生す石畳に八町二十七曲がりの面影が色濃く残る。

片山神社の鳥居が見えれば急坂の下りは終わり。この辺りの急坂は沿道に灯籠が並んでいたことから”灯篭坂”と呼ばれた。

灯籠坂を降りきった所に片山神社の鳥居が立つ。鈴鹿峠江戸方方上り口にあたる。中山道や会津西街道の過酷な峠越えを経験した者にとっては少々物足りない感じ。

鎌倉時代にこの地に鎮座したと伝わる片山神社。坂上田村麻呂の山賊退治のまつわる伝説の女性、鈴鹿御前を祀ったことに縁起があるとされ、江戸時代には”鈴鹿権現”等とも呼ばれた。そんな由緒ある神社なのだが、平成11年(1999年)神楽殿を残して焼失。現在も本殿が再建されることなく荒れた状態なのは残念の一言しかない。

焼失を免れた神楽殿も崩落寸前の状況。何とかならないものか…。

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