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岡崎宿 松葉町・板屋町・田町・下肴町・材木町・横町・連尺町・籠田町

江戸日本橋から数えて38宿目、京都三条大橋からならば16宿目にあたる岡崎宿。岡崎藩5万石の藩庁岡崎城の城下町であり、東海道や足助(七里)街道、矢作川等が交わる水陸交通の要地で、宿場町は東海道五十三次の中でも屈指の規模を誇り繁栄した。その礎を築いたのが豊臣家家臣の田中吉政。天正18年(1590年)小田原征伐の後、徳川家康が関東に移封されると田中吉政が岡崎城へ入城、城郭を拡張整備すると共に菅生川(乙川)の南側を通っていた東海道を城下に引き入れ、今に残る近世城郭と城下町の原形が造られた。城下町の整備は田中吉政に代わり岡崎城へ入った本多康重に引き継がれ、東海道が城下東西から城の北側を複雑に曲がりながら囲繞する”二十七曲り”や、江戸時代に最長の矢作橋は康重時代に完成をみた。二十七曲りは外敵の侵入を容易にさせない防衛上の目的の他に、城下を通る東海道を長くすることで好適な商業地を多く確保する狙いがあり、岡崎城下の発展に大きく貢献した。

岡崎城下の旧東海道は京方から来れば矢作川左岸の八町村(現 八帖町)にはじまり、次の松葉町から松葉総門を入って板屋町、田町、下肴町、材木町、横町、連尺町を抜け、籠田町で籠田総門を出て伝馬町、両町、投町、欠村に至る約4.5kmの道程。この間に27ヶ所もの曲りが設けられていたわけだが、現在の”二十七曲り”の道筋は一部失われたり、はっきりしない部分もあり、道筋や曲りに諸説ある状況。地図に示すルートは現地の解説板や道標を参考にした。天保14年(1843年)当時の岡崎宿人口6494人、家数1565軒、本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠112軒。本陣は中根甚太郎(西本陣)、服部小八郎(東本陣)、大津屋勘助の3軒、脇本陣が鍵屋定七、山本屋丑五郎、桔梗屋半三郎の3軒。名物は前の記事に紹介した八丁味噌とあんかけ豆腐あわ雪。




松葉総門跡
旧松葉町西端、岡崎城総曲輪の京方(西側)出入口にあたる松葉総門跡。江戸方出入口の籠田総門と共に承応3年(1654年)の設置、番所を併設し通行者を改めた。門前に松葉川が流れ松葉橋が架けられていたが、現在は旧東海道と国道248号の交差点になっており、門をはじめ川や橋の痕跡は見られない。交差点南西角に「松葉総門跡」の石碑があるのみ。


松葉総門跡
板屋町(江戸方)より松葉総門跡を望む。交差点の向こう側は旧松葉町の町並み。城西に位置する松葉町・板屋町・田町の地は古く沼地で、田中吉政が城下建設の折、城北の天神山を削り沼地を埋立て町を造成したと伝わる。


二十七曲り板屋町角
二十七曲り板屋町角。西から北方面へ鉤の手に曲がる。


旧東海道 板屋町
板屋町という地名は埋立地に板屋を建て町を造成したことに由来。文化年間(1804年~18年)頃から茶屋女を置く茶屋商売がはじまり、明治期以後は遊郭に発展、伝馬町と並ぶ繁華街だった。


旧東海道 板屋町
板屋町の北側で旧東海道の道幅が急激に広がる。


国道1号 田町
板屋町から田町へ。旧東海道は国道1号を挟んで連続する鉤の手の道筋。


二十七曲り田町
二十七曲り田町角。


旧東海道 田町
二十七曲り田町角より北側、田町の家並み。町名は町造成時の地形を指すのか、沼田に由来するという。江戸時代に伝馬町と共に塩座が設けられ、塩の専売権を有していた。そのため塩問屋をはじめ塩仲買の商家が多くあったが、明治維新で塩座が廃止され、岡崎塩座は消滅した。


志貴小児科醫院
田町の旧東海道筋にある志貴小児科醫院。レトロ感たっぷりの佇まい。


旧東海道 田町
田町の鉤の手跡。旧東海道はこの辺りで右折し、すぐに左折の道筋だったが、現在は民家が建ち消失している。


国道1号 田町
田町鉤の手跡付近東側に残る旧東海道の小路。


二十七曲り田町北角
二十七曲り田町北角。


三清橋より伊賀川下流を望む
三清橋より伊賀川下流を望む。天守が建物に遮られていなければ岡崎城の撮影スポットなのだが…。


二十七曲り下肴町より田町角
三清橋東詰、二十七曲り下肴町より田町角。


下肴町跡(伊賀川)
下肴町跡を流れる伊賀川。明治45年(1912年)より伊賀川の改修工事があり、現在の流路へ変更。東海道沿いに並んだ下肴町の町家は消失した。はじめ肴町と称したが、正保年間(1645年~48年)伝馬町近くに上肴町が成立、下肴町に改称する。両肴町は岡崎藩主より魚鳥類の専売権を認められ、魚商売の家が多くあった。


白山神社
伊賀川左岸、魚町に鎮座する白山神社。


白山神社の大椋
白山神社の大椋。岡崎市ふるさとの名木に指定。


下肴町跡(伊賀川)
柿田橋より旧東海道下肴町跡の伊賀川を望む。


旧東海道 材木町
柿田橋東、材木町西端の旧東海道(材木通り)。


唐弓弦の旧商家
材木町に残る唐弓弦の旧商家。唐弓弦とは江戸時代に使われた綿打ちの道具。岡崎には三河木綿に関連する職人や商人が多くいて重宝された。1枚板に「唐弓弦」と彫られた当時の看板を今も掲げる。


二十七曲り材木町角
二十七曲り材木町角。材木町の地は田中吉政が城下建設の折、伐り出した材木を積み置いた場所で、町名の由来になったとされる。江戸期を通して鍛冶職人や指物職人等が多く住む職人町だった。


材木町1丁目交差点
材木町1丁目交差点。旧東海道は写真左から正面のマンション(藤和シティホームズ岡崎公園)敷地を通り、右斜め奥に通じていた。


二十七曲り材木町口木戸前
二十七曲り材木町口木戸前。旧道消失方向を望む。


旧東海道 旧横町
材木町口木戸前より南方向。ここから旧東海道筋東側が旧横町の町域と思われる。角川日本地名大辞典によれば、「横町は岡崎城の北東、外郭内の東海道往還筋に面し、連尺町に交差して南北に通じる。南端は城内の横町口木戸で限り、北は信濃見附門で限る。(中略)町の中央から南へ斜めに連尺町へ出る通りを茅町と称し、三角屋敷と呼んだ。岡崎城の大手門に近く、徳川家康在城の頃は当町南端は武士の屋敷地であった。」とあり、手掛かりはこれくらい。南北に細長い町域を持っていたようだが、大正6年(1917年)連尺町・康生町・本町に組み込まれ横町の地名は消滅した。地図に示す旧横町は辞典の説明を基に想像で作成、大きく外れていることはないだろう。


二十七曲り岡崎城対面所前角
二十七曲り岡崎城対面所前角。


岡崎城対面所前角
岡崎城対面所前角より本町1丁目交差点を望む。この交差点南西角、ショッピングセンター”岡崎シビコ”(写真右)が建つ場所は、岡崎藩藩校の允文館・允武館跡。明治2年(1869年)藩主本多忠直が開設。明治4年(1871年)廃藩置県による岡崎藩廃藩に伴い、僅か2年余りで藩校閉鎖となった。


旧東海道 連尺通
連尺通1丁目交差点付近の旧東海道。連尺町は岡崎城下で最も古くからある町。享禄年間(1528年~31年)徳川家康の祖父松平清康が菅生川南岸明大寺にあった岡崎城を廃し、龍頭山砦を拡張して新たに岡崎城を築城。この時に開かれた町家が連尺町の起源で、はじめ大殿町と称したという。


旧東海道 連尺通
江戸時代後期の連尺町は荒物商や木綿商・古着商をはじめ、様々な店が軒を連ねる商人町。明治から大正期にかけて呉服商が急増、千賀呉服店や山沢屋をはじめとする大店が建ち、さながら呉服町の様相だったとか。現在も数軒の呉服屋が見られるが、千賀呉服店や山沢屋は見当たらない。しかし、コンビニエンス”TACMATE”(写真右手前の商店)にセンガの文字が!ここが旧千賀呉服店なのかも。


旧大島屋
コンビニエンス”TACMATE”の店先に「此処店便利店 大島屋」の木製看板があり、老舗の店であることは確かなようだ。呉服屋から食品や日用品を扱う店に転業したのだろうか。ちなみに山沢屋の場所はわからない。


二十七曲り籠田町より連尺町角
二十七曲り籠田町より連尺町角。大竹屋呉服店辺りが連尺町東端、ここで旧東海道は西から南へ鉤の手に曲がり籠田町に入る。


籠田公園
籠田町の旧東海道は籠田公園になり消失。現在はハトが闊歩している。


旧東海道 籠田町
連尺町角より籠田総門にかけての東海道筋に籠田町の町家が並んでいたが、昭和20年(1945年)の空襲で全焼、土地区画が整理され、現在旧道跡は籠田公園と広い中央分離帯を持つ幅広な道となって面影を留めていない。江戸末期には雛店や玩具屋が多くあったという。


田中吉政像
籠田公園前、旧東海道跡の中央分離帯にある田中吉政像。今に見る城下町岡崎の礎を築いた人。岡崎城主の時は豊臣家家臣だったが、関ヶ原合戦で徳川方の東軍に与し、合戦後に逃亡中の西軍石田三成を捕える勲功を挙げ、筑後一国柳川城32万石を与えられた。


籠田総門跡
籠田総門跡。中央分離帯に総門を模したモニュメントを置く。


籠田総門跡
写真右の青いビル辺りで旧東海道はクランク状に曲折し、手前道上辺りで籠田総門に入っていたようだ。現在は籠田総門をはじめ、クランク状の曲折や南北に延びていた外堀の形跡は全く残っていない。籠田総門は岡崎城総曲輪の江戸方(東側)出入口にあたり、籠田町と伝馬町の境をなした。松葉総門と同じく承応3年(1654年)の設置。


撮影日:2015年4月5日(日)
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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

岡崎宿 伝馬町・両町・投町

岡崎城総曲輪の江戸方(東側)出入口、籠田総門から伝馬町へ。伝馬町の成立は慶長14年(1609年)、その町名が示す通り伝馬継立を目的に形成された町で、本陣・脇本陣や問屋場をはじめ旅籠屋等、様々な商家が軒を連ねた岡崎宿の中心、岡崎城下にあって最も賑わいをみせ、享和2年(1802年)の書上によれば112軒もの旅籠屋を数えた。町は西から上之切・中之切・下之切に分け称し、上之切南側には御馳走屋敷を置き朝鮮通信使やお茶坪道中等が休泊に利用、下之切には塩座商人国分家の屋敷があった。本陣ははじめ浜島家と中根家(西本陣)が務め、享保年間(1716年~35年)頃に浜島家が衰退し代わって磯谷家、享和年間(1801年~04年)より服部家(東本陣)が継ぐ。中根家は江戸期を通して本陣を務め、文政5年(1822年)新たに大津屋を本陣に加え、江戸時代末期の岡崎宿には3軒もの本陣が置かれた。これら本陣や旅籠屋に魚鳥類を供給していたのが上肴町、魚鳥類の専売権を有する肴町(旧下肴町、現岡崎市魚町)より分かれ成立した町で、伝馬町上之切から北側、誓願門前にかけて町域を持っていた。




旧東海道 籠田総門付近
籠田総門跡付近、旧伝馬町(現 伝馬通1丁目)を行く旧東海道。伝馬町には江戸中期頃から飯盛女を置く旅籠が増え、「岡崎女郎衆、岡崎女郎衆、岡崎女郎衆はよい女郎衆♪」と流行り歌になるほど有名な花街を形成していた。


岡崎信用金庫資料館
岡崎信用金庫資料館。大正6年(1917年)岡崎銀行本店として建造、赤レンガが印象的な西洋建築で、建築当時は異彩を放つ存在だったのだろう。現在は資料館となり貨幣に関する展示コーナーを設ける。国の登録有形文化財。


誓願寺参道
旧東海道から誓願寺へ延びる小路。この先は上肴町の町家が並んだ。


旧東海道・吉良道分岐点
旧東海道・吉良道の分岐点。交差点の左折が旧東海道、右折は旧吉良道で西尾城下や吉良(現 西尾市吉良町)方面へ通じていた。


東海道・吉良道道標
旧東海道・吉良道の分岐点に立つ道標。明治2年(1869年)建立.。道標3面に「東京みち」「西京いせ道」「きらみち」と刻む。


二十七曲り 西本陣前角
二十七曲り西本陣前角。写真奥のミニストップが中根甚太郎家(西本陣)跡。旧東海道は手前から交差点右折のルート。


岡崎宿西本陣・岡崎グランド劇場跡
中根甚太郎本陣(西本陣)跡。現在はミニストップになっているが、以前は岡崎グランド劇場という映画館だったらしい。


永田屋精肉問屋
新しい建物が並ぶ伝馬町にあって宿場時代を偲ぶ貴重な一軒、永田屋精肉問屋と旧紙問屋糸屋惣七郎(永田屋左隣)。永田屋は明治23年(1890年)創業、大正期に現在地へ移転。左隣の旧紙問屋糸屋惣七郎は近年に廃業したらしい。


伝馬通り
岡崎宿の中心だった伝馬通り沿いは昭和20年(1945年)の空襲でほぼ焼失、奇跡的に焼失を免れた永田屋と旧紙問屋糸屋惣七郎(写真左手前)、漢方薬店の大黒屋(写真右手前)ぐらいが歴史を感じさせる佇まい。写真右奥の市川メガネが脇本陣鍵屋定七跡。


家康行列
伝馬通りで家康行列を見物することに。遠くに行列の先頭が見えてきた。


家康行列
西本陣跡前を行く家康行列の先頭。後ろに続く高級車には徳川宗家や徳川四天王家末裔の当主が乗車。


家康行列03
岡崎市と親善都市を提携する関係で、はるばる沖縄県石垣市から参加の一団。ミス八重山の二人が沿道に笑顔をふりまく。


家康行列
おかざきPR隊。車上には”オカザえもん”とお笑い芸人”はんにゃ”の二人。


家康行列
テレビで何度か見た”オカザえもん”。インパクトのある奇怪なゆるキャラだけに知る人は多い。船橋市のふなっしーと同じく地元自治体の非公認キャラクターだが、岡崎市の認知度向上に貢献していることは間違いない。


家康行列
グレート家康公「葵」武将隊。


家康行列
子供たちに曳かれる龍城神社の東照宮神輿。


家康行列
忍者に扮した多国籍な一団。


家康行列
行列に参加する忍者に貰った折り紙の手裏剣。記念にします。有難う!


家康行列
毛槍を持ち大名行列のような一団、いよいよ武者行列のお出ましか。


家康行列
これから勇壮になるのだろう少年武者の行列。


家康行列
於代の方を先頭に亀姫や築山御前、千姫の舞台車が通過。肝心の女性陣は悪天候のためバス移動。


家康行列
薙刀を持った少女隊が後に続く。


家康行列
法螺貝を吹く隊列。武者行列らしくなってきた。


家康行列
いよいよ現れた武者行列の本隊、まずは岡崎三郎信康。徳川家康の嫡男に生まれたが、織田信長に武田家内通を疑われ自刃した悲運の武将。


家康行列
次に登場は徳川四天王の一将、井伊直政が率いる赤備え。


家康行列
井伊直政は「井伊の赤鬼」と称された勇猛果敢な豪傑。兜はまさしく鬼の角だ。


家康行列
続いて本多忠勝の隊列。


家康行列
鹿角脇立兜をかぶる馬上の人は徳川四天王の一将、本多忠勝。名槍”蜻蛉切(とんぼきり)”を手に戦国時代を戦い抜いた猛将である。


家康行列
松平元信の隊列。家康元服時の名が元信、少年期の家康である。


家康行列
次に登場は松平元康。家康が正室の築山殿を娶った青年期にあたり、”元”の字は今川義元の名から一字を与えられたもの。桶狭間の合戦を迎えた時の名である。金箔の甲冑を身に着けた武将が元康。


家康行列
松平元康の次に家康。桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後、今川家を離れて改めた名が家康である。


家康行列
いよいよ大御所の登場、徳川家康の隊列。


家康行列
風格を感じさせる徳川家康。さすが300年にも及ぶ徳川の世を築いた偉人。


家康行列
家康に続くのは榊原康政の隊列。


家康行列
徳川四天王の一将、榊原康政。武勇では本多忠勝に劣るが、指揮官としての能力は忠勝より高く、井伊直政に匹敵したという。何となく徳川四天王にあっては地味な印象だが、家康を支えた知勇兼備の武将と言えよう。


家康行列
家康行列の殿(しんがり)は、酒井忠次の隊列。


家康行列
酒井忠次は徳川四天王にあって最年長、徳川家康より一回りを超える年上の武将。今川家の人質だった幼少期の家康に仕え、晩年まで家康を支えた功臣。徳川四天王の筆頭格と言われる。


岡崎宿東本陣跡
家康行列を見送り岡崎宿の散策を再開。伝馬交差点北東角の花一生花店(写真右手)が服部小八郎家(東本陣)跡、南西角に天明2年(1782年)創業の備前屋藤右衛門(写真左奥)。備前屋で製造販売する”あわ雪”は、岡崎宿投町の茶屋で売られた名物、あんかけ豆腐あわ雪を偲び、三代目藤右衛門が創作。新製品の”あわ雪豆腐”は当時のあわ雪を豆乳菓子で再現している。

備前屋
http://www.bizenya.co.jp/index.htm


二十七曲り 両町より伝馬町角
二十七曲り両町より伝馬町角。両町に入り旧東海道は伝馬通りからファミマ裏の道に右折する。


二十七曲り 両町より伝馬町角
両町に入って2つ目の鉤の手。旧東海道は写真手前から左折。


旧東海道 両町
両町を行く旧東海道。両町は当初東海道の北側だけに町家を並べたが、慶長12年(1607年)矢作川氾濫で壊滅的被害を受けた八町村の住民が移住し、南側にも人家を並べたことから両町の名が付いたとされる。


旧東海道 両町
両町3丁目交差点を境に両町から若宮町へ。


根石寺
根石寺(旧根石原観音堂)。本尊の聖観世音菩薩は和銅年間(708年~15年)悪病退散を祈願するため行基が作製したと伝わる。徳川家康の嫡男、岡崎三郎信康が初陣の折にこの観音像に祈願し、見事に軍功を挙げたと云う。


旧東海道 岡崎市若宮町
若宮町、岡崎げんき館の南側を行く旧東海道。


旧東海道 岡崎市若宮町02
岡崎宿東(江戸方)端の旧東海道筋は江戸時代に投(なぐり)町と称した地域、大正6年(1917年)若宮町へ改称され、現在は地名にその痕跡を残していない。投町には茶屋が多くあり、ここで食せるあんかけ豆腐”あわ雪”は岡崎宿の名物だった。


二十七曲り 欠町より投町角
岡崎げんき館の南東角。「二十七曲り欠町より投町角 岡崎宿東入口」と刻む道標の他に岡崎城下二十七曲りの説明を刻む石標を置く。


岡崎宿東入口
旧投町と旧欠村の境に設けられる冠木門のモニュメント。岡崎宿の江戸方(東側)出入口にあたる。つまり江戸方から東海道を来れば、ここが一つ目の曲り角になるのだろうが、地図で曲り角を数える限りどうしても27にならない。何故なのか、謎である。


撮影日:2015年4月5日(日)
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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

岡崎城址

岡崎城下散策の最後は岡崎城址を見学しよう。近世岡崎城の起源は15世紀前半の室町時代中期、当時の岡崎城(明大寺城)は菅生川南岸明大寺の地にあり、享徳年間(1452年~55年)その支城として龍頭山に築かれた砦がはじまり。享禄4年(1531年)徳川家康の祖父松平清康がこの砦を拡張して新たに岡崎城を築城、明大寺の旧岡崎城はこの時に廃される。それから11年後の天文11年(1542年)、徳川家康は松平広忠の嫡男としてここで産声を上げ、竹千代の幼名がつけられた。後に岡崎城は今川家の支配下となり、竹千代は織田家や今川家を人質として流転、今川家の人質時代に元服して名を元信、更に今川義元の姪瀬名姫(築山御前)を娶り元康に名を改めた。そして永禄3年(1560年)織田と今川の間で桶狭間の戦いが勃発し、織田信長の奇襲により今川義元が討死、今川方の元康は混乱に乗じて父祖伝来の岡崎城を取り戻し、松平家の再興を図ることになる。

元康は織田信長と清州同盟を結び、名にある”元”の字を捨てて家康に改名し今川家から決別。三河国や遠江国にその版図を広げ、松平氏から徳川氏に改姓、元亀元年(1570年)家康は本拠を岡崎城から浜松城に移す。岡崎城には家康の嫡男信康が入城、信康自刃後は重臣の石川数正、本多重次を城代とした。天正18年(1590年)家康が関東へ移封されると、豊臣家家臣の田中吉政が入城、吉政は城郭の拡張をはじめ、菅生川の南側を通っていた東海道を城下に引き入れ城下町を造成、惣構えの堀(田中堀)を巡らせて岡崎城を近世城郭に整備した。慶長6年(1602年)初代岡崎藩主として本多康重が入城、2代康紀の時に城の大修築があり、元和3年(1617年)天守が完成する。以来本多家から水野家、松平(松井)家、本多家と譜代大名が城主を務め明治を迎えた。明治初期の廃城令で岡崎城の建物は全て撤去、現在は本丸や曲輪の遺構が城址公園として整備され、石垣や堀、井戸跡等が残る。昭和34年(1959年)復元天守が完成した。




乙川堤の桜並木
吹矢橋北詰付近より再び乙川堤を歩いて岡崎城址へ向かう。その桜並木入口には寛政6年建立の「南無阿弥陀佛」、昭和8年建立の「南無妙法蓮華経」と刻む題目碑を置く。ここにある由来は不明。


乙川堤の桜並木
乙川堤の菜の花と桜並木。


岡崎城天守
岡崎城本丸跡北西隅に建つ岡崎城天守。


桜茶屋
本丸の東隣、隠居曲輪跡にある桜茶屋。味噌ラーメンや田楽、串カツ等、八丁味噌を使った料理をはじめ、みたらし団子や五平餅を味わえる。岡崎城址散策の休憩にはもってこいの店。


龍城堀
本丸南側に残る水堀、龍城堀。


神橋
龍城堀に架かる神橋。


岡崎城菅生曲輪跡
菅生曲輪跡より東曲輪跡を望む。平成22年(2010年)城壁と東隅櫓が復元された。菅生曲輪跡の広場には”よいとこさ岡崎 一天涛快グランプリ”の舞台が祭りの後の寂しさ…。


郷土料理いちかわ
桜茶屋と同じく隠居曲輪跡にある郷土料理いちかわ。八丁味噌料理と甘味で観光客をもてなす。こちらも岡崎城散策の際には一息つけたい店。昭和2年(1927年)創業。


岡崎城天守と空堀
隠居曲輪跡より岡崎城天守を望む。


岡崎城本丸と持仏堂曲輪を隔てる空堀
岡崎城本丸と持仏堂曲輪を隔てる空堀。築城者(西郷清海入道稠頼)から名を取り清海堀と呼ぶ。良好な状態で遺構を残す。


岡崎城天守
持仏堂曲輪跡より岡崎城天守を望む。家康公と竹千代の座像が城の裏手を守っている。


八千代本店
持仏堂曲輪跡にある八千代本店。ここでは八丁味噌を使った田楽を味わえる。岡崎城址には八丁味噌に関する飲食店が多い。


からくり時計塔
二の丸跡にあるからくり時計塔。30分に一回、凛々しい表情の家康が能を舞う。


からくり時計塔
からくり時計の後半は家康の表情が一変、満面の笑顔に。


からくり時計塔
家康が舞う能が終わり、からくり時計は通常の状態に戻る。時計を見れば17時過ぎ、時間が経つのが早い。


本多平八郎忠勝公像
からくり時計の近く、本多平八郎忠勝公像。


徳川家康公像
そして二の丸跡に置く徳川家康公像。250年以上続いた江戸の世の礎を築いた人物、岡崎城天守を背景に貫禄を漂わす。


二の丸御殿井戸
二の丸御殿井戸跡。江戸時代に使われた石組井戸で平成19年度の発掘調査で発見された。


岡崎城東曲輪跡
東曲輪跡。現在は駐車場になっているが、東隅櫓が平成22年(2010年)に復元、往時の岡崎城を偲ぶ。


岡崎公園の電話ボックス
さすがは神君出生の城跡、電話ボックスまでもゴージャス。


岡崎城大手門
岡崎公園入口に建つ岡崎城大手門。江戸時代の大手門は現在地ではなく、ここより北東約150mの浄瑠璃寺付近にあった。


岡崎城三の丸跡
東曲輪跡の北側、三の丸跡。完全に市街地化し、城跡の雰囲気はない。


浄瑠璃寺
せっかくなので大手門跡を見ておこうと浄瑠璃寺へ、


岡崎城大手門跡
岡崎城大手門跡。写真右手が浄瑠璃寺、その左奥交差点辺りが大手門跡。


三河武士のやかた家康館
大手門跡を確認してから岡崎公園へ戻り、二の丸跡にある三河武士のやかた家康館へ。普段なら閉館している18時前、しかし桜まつりの期間中は21時まで開館していてラッキー。


三河武士のやかた家康館02
戦国無双の刀剣展を開催中、じっくりと見学しよう。戦国無双は戦国時代の武将が暴れ回る人気のアクションゲーム。キャラクターの武将が使う刀剣類を現代の刀匠が忠実に再現し展示する。


村正銘三角槍
まずは村正銘の三角槍、室町時代の作。村正は初代を右衛門尉といい、文明期(1471年~86年)から永正期(1504年~20年)にかけて作刀。伊勢国桑名に移住して千子派と称す刀工集団を興したといわれる。村正銘の刀は”妖刀村正”と俗称し、徳川家に仇をなす刀として知られる。


真田幸村 十文字槍
戦国無双の真田幸村が持つ武器、十文字槍。現代の刀匠が再現。真田幸村は来年の大河ドラマ「真田丸」の主人公、最期まで徳川家に盾突いた戦国武将で、その生き様に共感を覚える人は江戸時代から多くいた。


真田信之 直刀(双刃刀)
戦国無双の真田信之が持つ直刀(双刃刀)。真田信之は幸村の兄、関ヶ原合戦で石田三成方の西軍に付く父昌幸・弟幸村と袂を別ち、家康方の東軍に付いた。どちらが勝っても真田家が生き残る昌幸の戦略だったとされる。


和泉守兼定銘の刀
戦国無双武田信玄のパネル前には和泉守兼定作銘の刀。室町時代後期の作。和泉守兼定は美濃国関(現 岐阜県関市)で初代兼定の養子となり、後に美濃国随一とまで言われた刀匠。明応2年(1493年)から大永6年(1526年)にかけての作刀が残る。


戦国無双武将パネル
戦国無双武将パネル。これらのキャラクターに馴染み深いゲーマーも多いことだろう。私もその一人。


戦国無双武将パネル
戦国無双の武将はもちろんのこと、女性陣も強そう。


岡崎城天守
岡崎城址散策の最後は天守に。こちらも”三河武士のやかた家康館”と同じく、桜まつり期間中は開館時間を延長。ライトアップされた夜桜を天守から眺められる粋な計らい。


岡崎城天守
岡崎城天守は2階から4階まで岡崎城と城下町、岡崎藩に関する史料を展示。ここ最上階の5階は岡崎市街を一望する展望台。床面には城の古絵図を展示する面白い趣向。


岡崎城天守より城下を望む
天守展望台よりライトアップされた岡崎公園の夜桜を眼下に一望。終日降り続いた雨のせいで桜花は散り、花見客もまばらに。これにて岡崎城下の散策はお終い。


撮影日:2015年4月5日(日)
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大岡越前の領地を通って

【旧東海道歩き 第13日目】東岡崎駅→岡崎宿→藤川宿→藤川駅



【2015年5月23日(土)旧東海道 岡崎宿→藤川宿】
岡崎の桜まつりからひと月半過ぎた5月の土曜日、再び岡崎に。満開に咲き誇った桜も青々とした葉桜に変わる新緑の季節、岡崎宿から次の藤川宿まで歩こう。旧投町(現 岡崎市若宮町)で岡崎宿江戸方(東側)出入口を出た旧東海道は、”かけの郷”と呼ばれた立場の旧欠村(現 岡崎市欠町)から旧大平村(現 岡崎市大平町)を経て乙川を渡る。岡崎宿の東側に位置する大平村は寛延元年(1748年)東大平村と西大平村に分かれ、東大平村が幕府領、西大平村は西大平藩の藩領となり陣屋が置かれた。西大平藩の初代藩主は江戸南町奉行、大岡越前守忠相。”大岡裁き”と称される時代劇でも馴染みの名奉行である。旗本格の奉行職にすぎない忠相が、異例の1万石を有する大名になったのは晩年72歳の時、それから僅か3年で忠相は没したが、明治の廃藩置県を迎えるまで7代にわたり大岡家が西大平藩主を務めた。




みかちゃんのえさ
東岡崎駅から岡崎宿江戸方(東側)出入口に向かう途中、明代橋南袂に”みかちゃんのえさ”なる自販機が。せっかくなので50円を投入して購入。みかちゃんとは一体なに?


乙川のみかちゃん
”みかちゃんのえさ”を乙川に巻いてみたところ、どこからともなく立派な鯉が集まりはじめ…。


乙川のみかちゃん
川面のエサをめぐってえらい騒ぎに…。この鯉たちの愛称が”みかちゃん”らしい。


乙川
みかちゃんに別れを告げ、乙川河畔を歩いて東進。吹矢橋付近から乙川下流を望む。


乙川のミドリガメ
川面に突き出た流木をよくよく見てみれば、孤高のミドリガメが天を仰ぐ。


旧額田郡公会堂
旧東海道歩きの再開前に岡崎市郷土館の旧額田郡公会堂・物産陳列所を見学。こちらは旧額田郡公会堂で大正2年(1913年)の竣工。西洋建築の様式を取り入れた大正ロマンを感じさせる建物だ。老朽化が進み平成22年に一般公開を中止しており、残念ながら内部の見学はできない。


物産陳列所
旧額田郡公会堂に併設する旧物産陳列所。旧額田郡公会堂と同年の竣工。郡立公会堂・物産陳列所が揃って現存している例は数少なく、貴重な建築遺構だという。共に国の重要文化財に指定。


岡崎宿東出入口 冠木門モニュメント
岡崎宿江戸方(東側)出入口の冠木門モニュメント。ここから次の藤川宿に向けて旧東海道歩きを再開。


旧東海道 岡崎市欠町
旧欠村(現 岡崎市欠町)を行く旧東海道。路傍に秋葉山常夜燈が残る。


欠町の常夜燈
欠町の秋葉山常夜燈。文政13年(1830年)建立。


法光寺
法光寺門前の坂道を下って。


旧東海道 岡崎市欠町
坂道を下りきったところで旧東海道は国道1号に並行。


旧東海道 岡崎市欠町
筋違橋で更沙川を渡河し岡崎市欠町から大平町へ。昔は筋違橋付近に「従是西岡崎領」と刻む領界石が置かれていた。


大平町の松並木
大平町に入って間もなく、旧東海道筋に松並木が現れる。


大平町の松並木
松並木の下には立派な松ぼっくりがあちこちに。


松ぼっくり
さすがは長い歴史のある松から落ちた松ぼっくり。サイズ、形とも申し分ない。これらを集めて伊勢湾で獲れた蛤を焼いてみたい。


大平町の松並木
岡崎インター西交差点付近、旧東海道松並木。松が若く、近年に植樹復元されたのだろう。


岡崎インター西交差点
国道1号と愛知県道26号が立体交差する岡崎インター西交差点。


大平町の松並木
更沙川と松並木。右手に旧東海道が通る。


旧東海道 岡崎インター
岡崎インターにより旧東海道は消失。ここは右側にインター下を潜り抜ける歩道を進む。


旧東海道 岡崎市大平町
インター下を潜り抜けると左横にホテル伍萬石と旧東海道が現れる。


ホテル伍萬石
ホテル伍萬石の天守。岡崎藩5万石の藩庁岡崎城をイメージしたラブホのよう。


大平八幡宮
大平八幡宮参道入口。更沙川改修記念碑があり、更沙川を渡った先に一の鳥居。


大平八幡宮
大平八幡宮は創立年代不詳、安永6年(1777年)現在地より南西に位置する八ツ幡の地より遷座、明治5年(1872年)村社に列せられ、明治42年(1909年)白山社、御鍬社、日枝社を合祀した。


ヒオドシチョウ
境内で羽を休めるヒオドシチョウ。


大平天満宮の絵馬
大平八幡宮にて。


旧東海道 岡崎市大平町
旧大平村(現 岡崎市大平町)西側出入口付近。


大平一里塚
江戸日本橋から80里目(約314km)、京三条大橋からは38番目(実測で約189km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる大平一里塚。現存する南塚上には榎の大木があったが昭和20年(1945年)の台風で倒木、2代目が立派に育っている。北塚は昭和3年(1928年)道路改修により撤去。


大平町の秋葉山常夜燈
南塚の対面、北塚跡には秋葉山常夜燈と地蔵堂がある。


専光寺
上野山専光寺。


旧東海道 岡崎市大平町
旧東海道沿いの岡崎大平郵便局から東側一帯は西大平藩陣屋跡。初代藩主の大岡越前守忠相は江戸に居住する定府大名のため、藩領である西大平の地に訪れることは無かった。


西大平藩陣屋跡
陣屋跡の西側面、白壁を両脇に従える立派な高麗門が建つ。


西大平藩陣屋跡
陣屋跡内は庭園に整備され、西大平陣屋に関する解説板を置く。


西大平藩陣屋跡
西大平藩陣屋の井戸跡。


西大平藩陣屋跡
陣屋跡に鎮座する大岡稲荷社。西大平藩の初代藩主、大岡越前守忠相は豊川稲荷本尊の”吒枳尼真天(だきにしんてん)”を厚く信仰、江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷より分霊して赤坂稲荷を祀り、ここ西大平陣屋にも大岡稲荷を建立した。現社殿は平成14年(2002年)に再築。


男川西小学校交差点
陣屋跡より少し東に進んだ所、男川西小学校交差点。ここは旧東海道と旧作手道の分岐点。右方向が旧東海道、左方向が旧作手道。


作手道道標
旧東海道・作手道の分岐点に残る道標。


作手道
旧東海道を分かれた作手道。この道を行けば江戸時代初期に作手藩の藩領だった旧作手村(現 愛知県新城市作手)に至る。


大橋商店
旧作手道沿いにある大橋商店にて。


大平町の秋葉山常夜燈
大平上町公民館横に建つ秋葉山常夜燈。 弘化4年(1847年)建立。


薬師寺
大平町東交差点北東角にある東光山薬師寺。


大平町東交差点
大平町東交差点で旧東海道と国道1号が交差。


旧東海道 岡崎市大平町
国道1号から東へ延びる旧東海道。


つぢや呉服店
大平町市木の旧東海道筋にある”つぢや呉服店”。老舗を感じさせる店構え。


八百兼商店
看板建築の裏に旧商家の佇まいを残す八百兼商店。


旧東海道 岡崎市大平町
旧大平村(現 岡崎市大平町)の東端付近、この先に乙川が流れる。


旧東海道 岡崎市大平町07
乙川に向かう旧東海道。


大平橋跡
旧東海道の乙川渡河地点に架かっていた大平橋跡。当初は土橋であったが、元禄9年(1696年)に49間(約89m)の板橋に架け替えられた。現在は旧橋より上流部に国道1号の大平橋が架橋され、旧東海道の大平橋は無い。


乙川川岸にて
乙川対岸にサラブレッドらしき動物が…。野良馬!?


大平橋跡西詰
大平橋跡西詰辺り。小屋の中では。


乙川川岸のポニー
白馬のポニーが一心不乱に草を食べてました。


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藤川の松並木

【2015年5月23日(土)旧東海道 岡崎宿→藤川宿】
乙川を越えた旧東海道は長閑な畑地帯を南進、山綱川を高橋で渡って旧生田村(現 岡崎市美合町)を抜け、続けて竜泉寺川を渡河、国道1号に合流し神馬崎(かんばさき)立場の町家が並んだ旧岡村(現 岡崎市岡町)に至る。ここを過ぎれば藤川の松並木、藤川宿西側の旧東海道筋約1kmに渡って残るクロマツの並木で、知立松並木に負けじ劣らずの景観は往時の東海道を偲ぶ。この道中を横切る山綱川と竜泉寺川(生田川)の両河川流域は岡崎ゲンジボタルの発生地で、六月上旬の羽化最盛期には夜陰に蛍光を点すホタルが飛び交う美しい景観が見られたという。松並木にゲンジボタル、岡崎宿と藤川宿の道中には旅人を楽しませる要素が大いにあったのだが、農工業の廃液や都市化の影響で著しくホタルが減少し、残念ながら今や昔の話。しかしながら地元保存会によりホタルの養殖・河川の美化活動が行われており、乙川上流部の河合地区で岡崎ゲンジボタルの光を見ることができる。




国道1号・大平橋
現在は旧東海道ルートの大平橋が無いため、国道1号の大平橋で乙川を渡河しよう。


乙川川岸にて
旧大平橋西詰から対岸に見えていた馬。足が短く腹回りがぼってりしており、競馬場で見るサラブレッドとは印象が違う。違う品種なのかもしれない。


乙川川岸にて
もくもくとエサを食べる乙川川岸の馬。野良馬な訳は無く、簡易な馬具を装着しておりペットとして飼われているのだろうか。


旧東海道 大平橋跡東詰付近
旧大平橋から東へ延びる旧東海道。松並木の名残を思わせる一本松が路傍に立つ。


高橋
山綱川に架かる高橋。


山綱川
かつては岡崎ゲンジボタルが飛び交っていたはずの山綱川。今でもその雰囲気があるのだが、都市化と水質が悪くなったことでホタルは著しく減少したとか…。現在は乙川上流部の河合地区で岡崎ゲンジボタルを見るしかない。


岡崎源氏蛍発生地碑
国道1号の”ほたる橋”南詰にある岡崎源氏蛍発生地碑。この辺りに岡崎ゲンジボタルが群生していたことを今に伝える。同所に
”嘉右衛門の宿”碑と芭蕉句碑が立つ。


旧東海道 岡崎市美合町
旧生田村(現 岡崎市美合町北屋敷)を行く旧東海道。


旧東海道 岡崎市美合町
家並みが続く旧東海道の先に松並木が見えて。


美合新町の松並木
美合新町交差点付近の松並木。


美合新町の松並木
美合新町の松並木。


美合新町の松並木
美合新町の松並木と路傍に咲く黄色い花。後で知ったことだが、この花は特定外来生物に指定されるオオキンケイギクらしい。繁殖力が強く在来種の生態系に重大な影響を及ぼすことから栽培や販売が禁じられており、持ち帰って庭などに植えることは法律違反で罰せられるので要注意。


三国志本店
美合新町の旧東海道沿いにある三国志という中華料理店で遅めの昼飯に。


タンツー麺&チャーハンセット
タンツーメンと炒飯のセットを美味しく頂き。


坂下橋
竜泉寺川を坂下橋で渡河。橋を渡った先で国道1号に合流する。


岡町神馬崎交差点
国道1号の岡町神馬崎交差点。かつて旧岡村の神馬崎立場が置かれ茶屋等が並んだ場所だが、現在は国道1号が旧道を貫いたため往時の面影を留めていない。


阿弥陀寺
国道1号沿い、岡町神馬崎交差点付近にある阿弥陀寺。神馬崎立場の数少ない名残のひとつ。


国道1号 岡崎市藤川町
藤川町西交差点付近の国道1号。信号から右に分かれる旧東海道は松並木の道に。


藤川の松並木
藤川松並木の京方入口。


藤川の松並木
クロマツの並木が続くすばらしい道。


藤川の松並木
藤川の松並木。


藤川の松並木
旧街道には松並木が良く似合う。


藤川の松並木
松並木の途中で名鉄名古屋本線の踏切を渡る。


吉良道・旧東海道分岐点
旧東海道と吉良道の分岐点。写真左方向の道は西尾城下や吉良(現 西尾市吉良町)方面へ通じ、池鯉鮒宿からここ藤川の間にいくつかあった吉良道のひとつ。文化11年(1814年)建立の道標が残る。


吉良道道標
文化11年(1814年)建立の吉良道道標。正面に「西尾 平坂 土呂 吉良道」と刻む。やはり道標は元の場所にあってこそ価値があることを実感。


吉良道追分の石仏
旧東海道・吉良道の分岐点に残る石仏。


藤川の松並木
吉良道追分から藤川宿へ延びる旧東海道。


藤川の松並木
藤川松並木の江戸方入口、ここで松並木が途切れ藤川の家並みに。


藤川一里塚跡
藤川宿の京方外れにある藤川一里塚跡。江戸日本橋から79里目(約310km)、京三条大橋からは39番目(実測で約193km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる。両塚とも現存せず、南塚跡に解説板が立つ。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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