岡崎宿 松葉町・板屋町・田町・下肴町・材木町・横町・連尺町・籠田町
江戸日本橋から数えて38宿目、京都三条大橋からならば16宿目にあたる岡崎宿。岡崎藩5万石の藩庁岡崎城の城下町であり、東海道や足助(七里)街道、矢作川等が交わる水陸交通の要地で、宿場町は東海道五十三次の中でも屈指の規模を誇り繁栄した。その礎を築いたのが豊臣家家臣の田中吉政。天正18年(1590年)小田原征伐の後、徳川家康が関東に移封されると田中吉政が岡崎城へ入城、城郭を拡張整備すると共に菅生川(乙川)の南側を通っていた東海道を城下に引き入れ、今に残る近世城郭と城下町の原形が造られた。城下町の整備は田中吉政に代わり岡崎城へ入った本多康重に引き継がれ、東海道が城下東西から城の北側を複雑に曲がりながら囲繞する”二十七曲り”や、江戸時代に最長の矢作橋は康重時代に完成をみた。二十七曲りは外敵の侵入を容易にさせない防衛上の目的の他に、城下を通る東海道を長くすることで好適な商業地を多く確保する狙いがあり、岡崎城下の発展に大きく貢献した。
岡崎城下の旧東海道は京方から来れば矢作川左岸の八町村(現 八帖町)にはじまり、次の松葉町から松葉総門を入って板屋町、田町、下肴町、材木町、横町、連尺町を抜け、籠田町で籠田総門を出て伝馬町、両町、投町、欠村に至る約4.5kmの道程。この間に27ヶ所もの曲りが設けられていたわけだが、現在の”二十七曲り”の道筋は一部失われたり、はっきりしない部分もあり、道筋や曲りに諸説ある状況。地図に示すルートは現地の解説板や道標を参考にした。天保14年(1843年)当時の岡崎宿人口6494人、家数1565軒、本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠112軒。本陣は中根甚太郎(西本陣)、服部小八郎(東本陣)、大津屋勘助の3軒、脇本陣が鍵屋定七、山本屋丑五郎、桔梗屋半三郎の3軒。名物は前の記事に紹介した八丁味噌とあんかけ豆腐あわ雪。

旧松葉町西端、岡崎城総曲輪の京方(西側)出入口にあたる松葉総門跡。江戸方出入口の籠田総門と共に承応3年(1654年)の設置、番所を併設し通行者を改めた。門前に松葉川が流れ松葉橋が架けられていたが、現在は旧東海道と国道248号の交差点になっており、門をはじめ川や橋の痕跡は見られない。交差点南西角に「松葉総門跡」の石碑があるのみ。

板屋町(江戸方)より松葉総門跡を望む。交差点の向こう側は旧松葉町の町並み。城西に位置する松葉町・板屋町・田町の地は古く沼地で、田中吉政が城下建設の折、城北の天神山を削り沼地を埋立て町を造成したと伝わる。

二十七曲り板屋町角。西から北方面へ鉤の手に曲がる。

板屋町という地名は埋立地に板屋を建て町を造成したことに由来。文化年間(1804年~18年)頃から茶屋女を置く茶屋商売がはじまり、明治期以後は遊郭に発展、伝馬町と並ぶ繁華街だった。

板屋町の北側で旧東海道の道幅が急激に広がる。

板屋町から田町へ。旧東海道は国道1号を挟んで連続する鉤の手の道筋。

二十七曲り田町角。

二十七曲り田町角より北側、田町の家並み。町名は町造成時の地形を指すのか、沼田に由来するという。江戸時代に伝馬町と共に塩座が設けられ、塩の専売権を有していた。そのため塩問屋をはじめ塩仲買の商家が多くあったが、明治維新で塩座が廃止され、岡崎塩座は消滅した。

田町の旧東海道筋にある志貴小児科醫院。レトロ感たっぷりの佇まい。

田町の鉤の手跡。旧東海道はこの辺りで右折し、すぐに左折の道筋だったが、現在は民家が建ち消失している。

田町鉤の手跡付近東側に残る旧東海道の小路。

二十七曲り田町北角。

三清橋より伊賀川下流を望む。天守が建物に遮られていなければ岡崎城の撮影スポットなのだが…。

三清橋東詰、二十七曲り下肴町より田町角。

下肴町跡を流れる伊賀川。明治45年(1912年)より伊賀川の改修工事があり、現在の流路へ変更。東海道沿いに並んだ下肴町の町家は消失した。はじめ肴町と称したが、正保年間(1645年~48年)伝馬町近くに上肴町が成立、下肴町に改称する。両肴町は岡崎藩主より魚鳥類の専売権を認められ、魚商売の家が多くあった。

伊賀川左岸、魚町に鎮座する白山神社。

白山神社の大椋。岡崎市ふるさとの名木に指定。

柿田橋より旧東海道下肴町跡の伊賀川を望む。

柿田橋東、材木町西端の旧東海道(材木通り)。

材木町に残る唐弓弦の旧商家。唐弓弦とは江戸時代に使われた綿打ちの道具。岡崎には三河木綿に関連する職人や商人が多くいて重宝された。1枚板に「唐弓弦」と彫られた当時の看板を今も掲げる。

二十七曲り材木町角。材木町の地は田中吉政が城下建設の折、伐り出した材木を積み置いた場所で、町名の由来になったとされる。江戸期を通して鍛冶職人や指物職人等が多く住む職人町だった。

材木町1丁目交差点。旧東海道は写真左から正面のマンション(藤和シティホームズ岡崎公園)敷地を通り、右斜め奥に通じていた。

二十七曲り材木町口木戸前。旧道消失方向を望む。

材木町口木戸前より南方向。ここから旧東海道筋東側が旧横町の町域と思われる。角川日本地名大辞典によれば、「横町は岡崎城の北東、外郭内の東海道往還筋に面し、連尺町に交差して南北に通じる。南端は城内の横町口木戸で限り、北は信濃見附門で限る。(中略)町の中央から南へ斜めに連尺町へ出る通りを茅町と称し、三角屋敷と呼んだ。岡崎城の大手門に近く、徳川家康在城の頃は当町南端は武士の屋敷地であった。」とあり、手掛かりはこれくらい。南北に細長い町域を持っていたようだが、大正6年(1917年)連尺町・康生町・本町に組み込まれ横町の地名は消滅した。地図に示す旧横町は辞典の説明を基に想像で作成、大きく外れていることはないだろう。

二十七曲り岡崎城対面所前角。

岡崎城対面所前角より本町1丁目交差点を望む。この交差点南西角、ショッピングセンター”岡崎シビコ”(写真右)が建つ場所は、岡崎藩藩校の允文館・允武館跡。明治2年(1869年)藩主本多忠直が開設。明治4年(1871年)廃藩置県による岡崎藩廃藩に伴い、僅か2年余りで藩校閉鎖となった。

連尺通1丁目交差点付近の旧東海道。連尺町は岡崎城下で最も古くからある町。享禄年間(1528年~31年)徳川家康の祖父松平清康が菅生川南岸明大寺にあった岡崎城を廃し、龍頭山砦を拡張して新たに岡崎城を築城。この時に開かれた町家が連尺町の起源で、はじめ大殿町と称したという。

江戸時代後期の連尺町は荒物商や木綿商・古着商をはじめ、様々な店が軒を連ねる商人町。明治から大正期にかけて呉服商が急増、千賀呉服店や山沢屋をはじめとする大店が建ち、さながら呉服町の様相だったとか。現在も数軒の呉服屋が見られるが、千賀呉服店や山沢屋は見当たらない。しかし、コンビニエンス”TACMATE”(写真右手前の商店)にセンガの文字が!ここが旧千賀呉服店なのかも。

コンビニエンス”TACMATE”の店先に「此処店便利店 大島屋」の木製看板があり、老舗の店であることは確かなようだ。呉服屋から食品や日用品を扱う店に転業したのだろうか。ちなみに山沢屋の場所はわからない。

二十七曲り籠田町より連尺町角。大竹屋呉服店辺りが連尺町東端、ここで旧東海道は西から南へ鉤の手に曲がり籠田町に入る。

籠田町の旧東海道は籠田公園になり消失。現在はハトが闊歩している。

連尺町角より籠田総門にかけての東海道筋に籠田町の町家が並んでいたが、昭和20年(1945年)の空襲で全焼、土地区画が整理され、現在旧道跡は籠田公園と広い中央分離帯を持つ幅広な道となって面影を留めていない。江戸末期には雛店や玩具屋が多くあったという。

籠田公園前、旧東海道跡の中央分離帯にある田中吉政像。今に見る城下町岡崎の礎を築いた人。岡崎城主の時は豊臣家家臣だったが、関ヶ原合戦で徳川方の東軍に与し、合戦後に逃亡中の西軍石田三成を捕える勲功を挙げ、筑後一国柳川城32万石を与えられた。

籠田総門跡。中央分離帯に総門を模したモニュメントを置く。

写真右の青いビル辺りで旧東海道はクランク状に曲折し、手前道上辺りで籠田総門に入っていたようだ。現在は籠田総門をはじめ、クランク状の曲折や南北に延びていた外堀の形跡は全く残っていない。籠田総門は岡崎城総曲輪の江戸方(東側)出入口にあたり、籠田町と伝馬町の境をなした。松葉総門と同じく承応3年(1654年)の設置。
撮影日:2015年4月5日(日)
岡崎城下の旧東海道は京方から来れば矢作川左岸の八町村(現 八帖町)にはじまり、次の松葉町から松葉総門を入って板屋町、田町、下肴町、材木町、横町、連尺町を抜け、籠田町で籠田総門を出て伝馬町、両町、投町、欠村に至る約4.5kmの道程。この間に27ヶ所もの曲りが設けられていたわけだが、現在の”二十七曲り”の道筋は一部失われたり、はっきりしない部分もあり、道筋や曲りに諸説ある状況。地図に示すルートは現地の解説板や道標を参考にした。天保14年(1843年)当時の岡崎宿人口6494人、家数1565軒、本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠112軒。本陣は中根甚太郎(西本陣)、服部小八郎(東本陣)、大津屋勘助の3軒、脇本陣が鍵屋定七、山本屋丑五郎、桔梗屋半三郎の3軒。名物は前の記事に紹介した八丁味噌とあんかけ豆腐あわ雪。

旧松葉町西端、岡崎城総曲輪の京方(西側)出入口にあたる松葉総門跡。江戸方出入口の籠田総門と共に承応3年(1654年)の設置、番所を併設し通行者を改めた。門前に松葉川が流れ松葉橋が架けられていたが、現在は旧東海道と国道248号の交差点になっており、門をはじめ川や橋の痕跡は見られない。交差点南西角に「松葉総門跡」の石碑があるのみ。

板屋町(江戸方)より松葉総門跡を望む。交差点の向こう側は旧松葉町の町並み。城西に位置する松葉町・板屋町・田町の地は古く沼地で、田中吉政が城下建設の折、城北の天神山を削り沼地を埋立て町を造成したと伝わる。

二十七曲り板屋町角。西から北方面へ鉤の手に曲がる。

板屋町という地名は埋立地に板屋を建て町を造成したことに由来。文化年間(1804年~18年)頃から茶屋女を置く茶屋商売がはじまり、明治期以後は遊郭に発展、伝馬町と並ぶ繁華街だった。

板屋町の北側で旧東海道の道幅が急激に広がる。

板屋町から田町へ。旧東海道は国道1号を挟んで連続する鉤の手の道筋。

二十七曲り田町角。

二十七曲り田町角より北側、田町の家並み。町名は町造成時の地形を指すのか、沼田に由来するという。江戸時代に伝馬町と共に塩座が設けられ、塩の専売権を有していた。そのため塩問屋をはじめ塩仲買の商家が多くあったが、明治維新で塩座が廃止され、岡崎塩座は消滅した。

田町の旧東海道筋にある志貴小児科醫院。レトロ感たっぷりの佇まい。

田町の鉤の手跡。旧東海道はこの辺りで右折し、すぐに左折の道筋だったが、現在は民家が建ち消失している。

田町鉤の手跡付近東側に残る旧東海道の小路。

二十七曲り田町北角。

三清橋より伊賀川下流を望む。天守が建物に遮られていなければ岡崎城の撮影スポットなのだが…。

三清橋東詰、二十七曲り下肴町より田町角。

下肴町跡を流れる伊賀川。明治45年(1912年)より伊賀川の改修工事があり、現在の流路へ変更。東海道沿いに並んだ下肴町の町家は消失した。はじめ肴町と称したが、正保年間(1645年~48年)伝馬町近くに上肴町が成立、下肴町に改称する。両肴町は岡崎藩主より魚鳥類の専売権を認められ、魚商売の家が多くあった。

伊賀川左岸、魚町に鎮座する白山神社。

白山神社の大椋。岡崎市ふるさとの名木に指定。

柿田橋より旧東海道下肴町跡の伊賀川を望む。

柿田橋東、材木町西端の旧東海道(材木通り)。

材木町に残る唐弓弦の旧商家。唐弓弦とは江戸時代に使われた綿打ちの道具。岡崎には三河木綿に関連する職人や商人が多くいて重宝された。1枚板に「唐弓弦」と彫られた当時の看板を今も掲げる。

二十七曲り材木町角。材木町の地は田中吉政が城下建設の折、伐り出した材木を積み置いた場所で、町名の由来になったとされる。江戸期を通して鍛冶職人や指物職人等が多く住む職人町だった。

材木町1丁目交差点。旧東海道は写真左から正面のマンション(藤和シティホームズ岡崎公園)敷地を通り、右斜め奥に通じていた。

二十七曲り材木町口木戸前。旧道消失方向を望む。

材木町口木戸前より南方向。ここから旧東海道筋東側が旧横町の町域と思われる。角川日本地名大辞典によれば、「横町は岡崎城の北東、外郭内の東海道往還筋に面し、連尺町に交差して南北に通じる。南端は城内の横町口木戸で限り、北は信濃見附門で限る。(中略)町の中央から南へ斜めに連尺町へ出る通りを茅町と称し、三角屋敷と呼んだ。岡崎城の大手門に近く、徳川家康在城の頃は当町南端は武士の屋敷地であった。」とあり、手掛かりはこれくらい。南北に細長い町域を持っていたようだが、大正6年(1917年)連尺町・康生町・本町に組み込まれ横町の地名は消滅した。地図に示す旧横町は辞典の説明を基に想像で作成、大きく外れていることはないだろう。

二十七曲り岡崎城対面所前角。

岡崎城対面所前角より本町1丁目交差点を望む。この交差点南西角、ショッピングセンター”岡崎シビコ”(写真右)が建つ場所は、岡崎藩藩校の允文館・允武館跡。明治2年(1869年)藩主本多忠直が開設。明治4年(1871年)廃藩置県による岡崎藩廃藩に伴い、僅か2年余りで藩校閉鎖となった。

連尺通1丁目交差点付近の旧東海道。連尺町は岡崎城下で最も古くからある町。享禄年間(1528年~31年)徳川家康の祖父松平清康が菅生川南岸明大寺にあった岡崎城を廃し、龍頭山砦を拡張して新たに岡崎城を築城。この時に開かれた町家が連尺町の起源で、はじめ大殿町と称したという。

江戸時代後期の連尺町は荒物商や木綿商・古着商をはじめ、様々な店が軒を連ねる商人町。明治から大正期にかけて呉服商が急増、千賀呉服店や山沢屋をはじめとする大店が建ち、さながら呉服町の様相だったとか。現在も数軒の呉服屋が見られるが、千賀呉服店や山沢屋は見当たらない。しかし、コンビニエンス”TACMATE”(写真右手前の商店)にセンガの文字が!ここが旧千賀呉服店なのかも。

コンビニエンス”TACMATE”の店先に「此処店便利店 大島屋」の木製看板があり、老舗の店であることは確かなようだ。呉服屋から食品や日用品を扱う店に転業したのだろうか。ちなみに山沢屋の場所はわからない。

二十七曲り籠田町より連尺町角。大竹屋呉服店辺りが連尺町東端、ここで旧東海道は西から南へ鉤の手に曲がり籠田町に入る。

籠田町の旧東海道は籠田公園になり消失。現在はハトが闊歩している。

連尺町角より籠田総門にかけての東海道筋に籠田町の町家が並んでいたが、昭和20年(1945年)の空襲で全焼、土地区画が整理され、現在旧道跡は籠田公園と広い中央分離帯を持つ幅広な道となって面影を留めていない。江戸末期には雛店や玩具屋が多くあったという。

籠田公園前、旧東海道跡の中央分離帯にある田中吉政像。今に見る城下町岡崎の礎を築いた人。岡崎城主の時は豊臣家家臣だったが、関ヶ原合戦で徳川方の東軍に与し、合戦後に逃亡中の西軍石田三成を捕える勲功を挙げ、筑後一国柳川城32万石を与えられた。

籠田総門跡。中央分離帯に総門を模したモニュメントを置く。

写真右の青いビル辺りで旧東海道はクランク状に曲折し、手前道上辺りで籠田総門に入っていたようだ。現在は籠田総門をはじめ、クランク状の曲折や南北に延びていた外堀の形跡は全く残っていない。籠田総門は岡崎城総曲輪の江戸方(東側)出入口にあたり、籠田町と伝馬町の境をなした。松葉総門と同じく承応3年(1654年)の設置。
撮影日:2015年4月5日(日)
