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池鯉鮒宿

【旧東海道歩き 第12日目】名鉄知立駅→池鯉鮒宿→岡崎宿→名鉄岡崎公園前駅



【2015年4月4日(土)旧東海道 池鯉鮒宿】
桜前線が日本列島を北上する最中、各地から続々と届く桜満開の報せに触発され、昨年11月以来の約5ヶ月ぶりとなる4月最初の週末、久々に旧東海道を歩くことに。池鯉鮒から次に目指す岡崎は岡崎城を中心に発展した城下町、岡崎城址は岡崎公園として整備され、園内をはじめ周辺の乙川堤や伊賀川堤には約1000本のソメイヨシノが植えられ、”日本さくら名所100選”に選定の知る人ぞ知る桜の名所。4月1日より”岡崎の桜まつり”を開催しており、同月5日には家康行列が催行されるとの情報を得て、これは絶好の機会と、知立へ前日の金曜日入り。土曜日中に知立から岡崎間の旧東海道を歩き、日曜日に岡崎城下と家康行列をゆっくり見よう!見所満載の歩き旅となりそうだ。しかしながら東海地方週末の天気はあまりよくない予報、花散らしの雨が降らないことを祈りつつ…。

池鯉鮒宿は江戸日本橋から数えて39宿目、京都三条大橋からならば15宿目にあたる東海道の宿場町。池鯉鮒と書いて”ちりゅう”と読む。現在は”知立”で表記され読み方は変わらない。実は現在の”知立”の方が古くからの表記で、平安時代以前の書物や木簡に”智立”や”知立”の地名がみられ、古代よりこの地に鎮座する知立神社に地名の由来があるという。鎌倉時代以降に”智鯉鮒”の表記が現れ、江戸時代以降は”池鯉鮒”が一般的に使われるようになった。かつて慈眼寺(知立市山町桜馬場)裏手一帯に御手洗池という大池があり、知立神社に渡御する神輿を洗うために用いられる殺生禁断の池だった。そのため鯉や鮒が多くいて、”池鯉鮒”という表記が発生したという。同じ読みでありながら”知立”から”池鯉鮒”へ、いずれにしても難読地名でありながら、そう読めないことない。上手いこと当て字をしたものだ。

天保14年(1843年)当時の池鯉鮒宿人口1620人、家数292軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒。宿内は京方より西町・本町・中町・山町の4町に分かれ、宿場両端の出入口に見附を設けて、本町に本陣と脇本陣、中町に問屋場を置く。当初の本陣は峯家(杉屋本陣)、寛文2年(1662年)より永田家(永田本陣)が引き継ぎ明治まで代々務め、脇本陣は幕末に木綿屋が務めていた。西町と本町境から刈谷城下へ通じる刈谷道、中町から西尾城下へ通じる吉良(西尾)道、山町からは挙母城下へ通じる駒場(挙母)道が分岐し、交通の要衝だったことから元禄年間(1688年~1704年)には三河木綿の集散地となり木綿市が立って活況を見せた。更にその木綿を運ぶために用いる馬が取引されるようになり、遠くは信州・甲斐方面から馬が集まり馬市が立つようになった。毎年4月25日から5月5日まで池鯉鮒宿東外れの野で馬市が開かれ、歌川広重は「東海道五十三次之内 池鯉鮒」に「首夏馬市」の副題を付けてその光景を描く。名物は”芋川うどん”と”あんまき”。




藤田屋
歩き旅の前日に知立入り。ホテルへ向かう途中、国道1号沿いにある藤田屋に寄り、知立名物の大あんまきを購入。大あんまきは江戸時代から池鯉鮒宿を往来する旅人相手に売られ好評を得た。

藤田屋
http://www.anmaki.jp/index.html


藤田屋の大あんまき
ホテルで大あんまきを味見。大あんまきは薄く延ばしたホットケーキ生地で餡やカスタードを巻く。見た目に想像通りの美味しい和菓子。知立を訪れた際には是非とも賞味してほしい。


ホテルルートイン知立
ホテルルートイン知立で朝食を済ませて出発。ここの朝食はバイキング形式、お腹いっぱいに食べられて満足です。


御手洗児童公園
翌朝、まずはホテル近くにある池鯉鮒という地名の由来になった御手洗児童公園(御手洗池跡)に。御手洗池は池鯉鮒宿の東、慈眼寺裏手一帯にあった殺生禁断の大池で、そのため鯉や鮒が多くいたという。日照りの時には幣を奉納し、知立神社神宝の木製蛙を移して雨乞いをした。知立神社に渡御する神輿を洗う池だったことから御手洗池の名が付いたようだ。


御手洗児童公園の桜
御手洗児童公園に咲き誇る桜。御手洗池は明治28年(1895年)に埋め立てられ農地となり、現在は住宅地と化して完全に姿を消している。跡地の一角にあるこの小公園だけが「御手洗跡」の石碑を置き往時を偲ぶ。


御手洗児童公園の夜桜
御手洗児童公園の夜桜。


慈眼寺
慶安3年(1650年)創建の福聚山慈眼寺。馬頭観世音菩薩坐像を安置する観音堂があり、馬市の関係者から信仰を集めた。江戸時代に池鯉鮒宿東外れの野で開かれた馬市は、明治になってここ慈眼寺の境内に移り、後に馬から牛へ取引される家畜が変わったものの、鯖市も兼ねて開かれ賑わいをみせた。しかし時流には逆らえず、昭和18年(1943年)を最後に市が開かれることはなくなり、その長い歴史に幕を閉じる。


馬頭観世音菩薩及家畜市場碑
慈眼寺境内入口に立つ馬頭観世音菩薩及家畜市場碑。大正3年(1914年)建立。


池鯉鮒宿本町・中町境
池鯉鮒宿本町と中町の境にあたる交差点に移動。ここから西(京都)側の本町と西町を見ていこう。
直進方向が京方面の旧東海道、左方向が知立駅方面で、かつては尾張屋小路と呼ばれた。写真の交差点左角辺りが尾張屋小路の由来になった尾張屋跡、代々醸造業を営む豪商だった。


都築屋美廣
本町・中町境のすぐ西側、旧東海道沿いにある”都築屋美廣”。明治初期創業という老舗和菓子店。尾張屋跡の敷地一角か、若しくは右隣に位置していると思われる。


池鯉鮒宿本陣跡
池鯉鮒宿本陣跡。当初は峯家(杉屋本陣)、寛文2年(1662年)より永田家(永田本陣)が引き継ぎ本陣を務めた。敷地約2899坪、建屋300坪の立派な本陣屋敷だったが、現在は全く遺構を残していない。「明治天皇行在所聖蹟」と「池鯉鮒宿本陣跡」の碑が建てられ往時を偲ぶ。


知立市本町にて
本陣跡近くにてちょっと古めの市街図を発見。いとう温泉とは?気になるなあ…。


料亭岐阜屋
料亭岐阜屋。本陣跡から旧東海道を挟んで左斜め向かいにあたる。かつての脇本陣木綿屋はここから東側隣にかけてのどこかにあったと思われるが、脇本陣跡地を示すものが無くはっきりしない。脇本陣玄関が小松寺に移築され、地蔵堂に用いられている。


本町山車蔵
本町山車蔵。 知立神社の祭礼「知立まつり」は1年おきに本祭と間祭が開かれ、本祭の時にここ本町をはじめ、西町・山町・中新町・宝町から山車が繰り出される。


コーポいとう
ここが”いとう温泉”があるはずの場所だが、あるのは”コーポいとう”というアパート。調べてみたところ、平成20年(2008年)まで”いとう温泉”という店名の銭湯があったらしい。


旧東海道・刈谷道分岐点
本町と西町の境にあたる刈谷道分岐点。写真手前(京方)から左に曲がる道筋が旧東海道、直進が旧刈谷道である。右手前の沿道辺りに高札場が置かれていた。


知立古城・御殿跡
知立古城・御殿跡。知立神社の神官・永見氏が築いたとされる居館跡。桶狭間の戦いの直後、織田方に攻められ焼失。江戸時代初期には将軍休泊用の御殿が建てられていた。


了運寺
了運寺門前の旧東海道。細川こんにゃく店や恵比寿屋陶器店が旧宿場町らしい佇まい。


了運寺
西町の鉤の手角にある了運寺。知立神社の神宮寺の一つで元は天台宗、明応2年(1493年)現寺号に改め、浄土宗に改宗した。


小松屋本家
旧東海道から知立神社への参道口にある小松屋本家。明治中期に茶店を営み、元々あった焼き菓子で餡を包み客に出したところ、評判を呼び知立名物になったという。小松屋本家の”あんまき”にはその屋号が焼印されているのが特徴。あんまきを2つ購入し、早速ひとつだけ食す。どう表現したらよいのか、焼き菓子と餡の調和が絶妙で美味しい。

Chiryuppi便り(知立市観光協会サイト)
小松屋本家

http://www.chiryu-kanko.com/detail.html?id=25

知立神社南交差点
知立神社南交差点の南西角辺りは総持寺(玉泉坊)跡。元和2年(1616年)に創建。明治5年(1872年)廃寺となり、後の大正15年(1926年)西町新川に再建された。現在は境内にあった樹齢約250年とされる大イチョウを残すのみ。


知立神社多宝塔
知立神社境内へ。その境内に入ってまず目に留まるのがこの多宝塔。嘉祥3年(850年)円仁という僧が、知立神社の神宮寺を創建した際に多宝塔を建立したと伝わる。天文16年(1547年)兵火により神宮寺は焼失したが、永正6年(1509年)再建と伝わるこの多宝塔だけはその兵火を免れたという。幾多の修理を経ているのだろうが、築500年を超える神宮寺の建築を知る貴重な遺構。国の重要文化財に指定される。


知立神社石橋
神池に架かる石橋。渡った先に拝殿がある。19枚の石板を並べる太鼓橋で、享保17年(1732年)の建立。


知立神社神池
知立神社境内に水を湛える神池。江戸時代後期に刊行された”東海道名所図会”に「石橋は神籬(ひもろぎ)の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありなん」と紹介され、慈眼寺裏手一帯にあった御手洗池と同名だったのか、もしくは著者が混同したのか分からない。解説板に寄れば、片目の魚は身代りに娘を眼病から救ったとの言い伝えがあるという。片目の魚は全国に様々な伝説があり、神聖なものとして捉えられていたようで、池鯉鮒の池に棲む魚が殺生禁断とされた一因といえよう。


知立神社拝殿
知立神社拝殿。知立神社は池鯉鮒大明神とも称し、延喜式に記される三河国二の宮で、碧海郡六座の一つ。創祀は第12代の景行天皇の時代とされる筋金入りの古社。江戸時代には東海道三社の一つに数えられ、まむし除けや雨乞い、安産の神として信仰を集めた。


花菖蒲園
境内に隣接して設けられる花菖蒲園。明治神宮より特別下賜された60種余りの花菖蒲が植えられ、6月上旬に見頃を迎えるが、今時期は桜が主役をはっている。


総持寺
知立神社南交差点付近にあった総持寺は明治5年(1872年)廃寺となったが、大正13年(1924年)になり西町新川の地に再興、ここがその総持寺である。山門横に「徳川秀康之生母 於萬之方誕生地」と刻む石碑を置く。池鯉鮒宿は徳川家康の側室で結城秀康の母である於万の方(長勝院)の出生地と伝わる。


逢妻川と逢妻橋
池鯉鮒宿京方外れ、逢妻川に架かる逢妻橋。


旧東海道 知立市西町
逢妻川から池鯉鮒宿に向かって延びる旧東海道。ここから西町・本町を通り抜けて、本町・中町の境まで戻ろう。


都築屋美廣
再び都築屋美廣前に。カーテンが開けられ開店したもよう。写真直進方向が江戸方面の旧東海道、右折が尾張屋小路、左折が銭屋小路と呼ばれる細道だったが、現在は知立駅と国道1号を繋ぐ幹線道となっており、小路と呼ばれた面影はない。


しんばしや
中町と本町の境、中町側の交差点角に立派なホテルクラウンパレス知立の建物、その1階に”ファッションハウスしんばしや リリオ店”がり、「創業115年感謝セール」の貼紙が目に留まる。逆算すると西暦1900年の明治33年、外観からは想像できない老舗洋服店なのだ。


池鯉鮒宿問屋場跡
中町にあった池鯉鮒宿問屋場跡。現在は食品館美松というスーパーの敷地に。問屋場の建物は昭和46年(1971年)まで残っていたが、惜しくも取り壊されたらしい。玄関脇にあった嘉永年間(1848年~54年)建立の常夜灯が知立神社境内に移されている。


旧東海道 知立市中町
中町を行く旧東海道。江戸時代後期、中町は「本町の旦那、中町の衆」と称され、豪商や地主の資産家が多く住んでいた。


中町交差点
旧東海道から西尾城下を経て幡豆に至る旧吉良道(西尾道)の分岐点、中町交差点。愛知県道51号等が交わり六叉路を構成する。写真中央に八百勘、その左が江戸方面の旧東海道で右が旧吉良道。八百勘は明治元年(1868年)明治天皇東京行幸の際、池鯉鮒宿の宿舎割に屋号が見える八百屋だが、現在は店舗の1階部分が改装され廃業しているようだ。


中町交差点
中町交差点から知立駅方向の県道51号を望む。右斜め方向の道が京方面の旧東海道。左手前に”ゑびす屋”、その奥が山城屋茶舗で江戸時代に旅籠を営んだ商家。昭和初期に県道51号が開通、その際に東海道沿いから県道沿いの現在地へ移ったという。


称念寺
中町交差点付近、旧吉良道(愛知県道298号)沿いにある称念寺。本堂が改築の真っ只中。正和年間(1312年~17年)道性なる僧が草庵を結んだことに始まりがあるという。元は中町にあったが、宝永2年(1705年)池鯉鮒宿大火により焼失、享保6年(1721年)現在地へ移転し再建された。


新地公園と知立市図書館・歴史民俗資料館
旧東海道を離れ、ちょっと寄り道。知立市歴史民俗資料館へ。池鯉鮒宿に関する展示が多く、いくつか参考資料を手に入れられた。中でも「企画展 池鯉鮒宿今昔」のパンフレットは、宿内における町家の変遷が詳しく書かれており、大変参考になった。


中町交差点
中町交差点から旧東海道歩きを再開。


旧東海道 知立市中町02
”菓子のつちや”の先で中町から中山町に。山町と中町の間にあることから発生した地名。中山町の旧東海道沿いは江戸期に山町の一部だった。


旧東海道・駒場道分岐点
挙母城下へ通じた旧駒場道の分岐点。直進が江戸方面の旧東海道、左折の小路が旧駒場道。


旧東海道 知立市山町
山町を行く旧東海道。日本料理の魚茂本店や鰻料理の松井屋が街道を挟んで店を構える。


旧東海道 知立市山町
ここを左に曲がれば慈眼寺。知立市役所方面と国道1号を繋ぐルートの一部になっており、ここを曲がる車が多いこと。


池鯉鮒宿東の見附跡
知立水防倉庫のある辺りが東見附跡。ここが池鯉鮒宿の江戸方出入口。かつてはこの先から松並木の街道が延びていた。


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知立松並木と馬市跡

【2015年4月4日(土)旧東海道 池鯉鮒宿→岡崎宿 道中】
かつての東海道は池鯉鮒宿を出れば松に覆われる並木道、並木八丁(町)と呼ぶ見事な松並木は今も約500mに渡って残る。京都から旧東海道を歩いてきて初めて見る本格的な松並木だ。前記事にある慈眼寺のところで少々書いたが、江戸時代には池鯉鮒宿東外れの野で馬市が立ち、その光景を歌川広重は「東海道五十三次之内池鯉鮒 首夏馬市」の題を付け、野原に繋がれる数多くの馬と、談合松の下に集まり商談する人々を浮世絵に描く。東海道名所図会でも「毎年四月二十五日より始て五月五日に終る。駅の東の野に駒をつなぐ事四五百にも及べり。」と馬市を紹介し、その様子を絵に見ることができる。池鯉鮒宿東外れの松並木両外側に見られる側道は、売買する馬を繋ぐために設けられたもので、今に往時を偲べよう。馬市が開かれている期間中は近隣諸国から集まった馬がここに並び、池鯉鮒宿は馬市の関係者で大いに賑わったといい、当地を治めていた刈谷藩は池鯉鮒宿山町に馬市番所を置き監督にあたった。



保永堂版「東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市」
保永堂版「東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市」(馬市之趾碑設置の解説板より)


旧東海道 知立市山町北引馬野
池鯉鮒宿を出て間もなく、名鉄三河線の踏切を渡り。


旧東海道 知立市山町北引馬野
旧東海道は国道1号に合流。道の先に松並木が見え始める。


知立松並木
松並木の京方入口、石仏に迎えられ。この石仏は近年のもので、昭和36年(1961年)岡崎市能見町の蜂澤佳行さんにより建立。


国道1号 知立市山町御林
国道1号は見事な松並木の道。


馬市之趾碑
馬市之趾碑と万葉の歌碑。この松並木の西側に引馬野の地名があり、大宝2年(702年)持統天皇が三河行幸の折、lこの辺りを題材に詠んだとされる歌が万葉の歌碑に刻まれる。

引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに


馬市之趾碑と松並木
馬市之趾碑と松並木。この碑が置かれている松並木の側道は、取引される馬を繋ぐために設けられた。


明治用水西井筋
松並木の側道を流れる明治用水西井筋から水を引き設けられた小公園。本来の用水路は暗渠と化し、この側道下を流れている。


明治用水西井筋にて
水路でアメンボに目が留まり。少々様子がおかしいなあと、よくよく観察してみれば交尾中のよう。アメンボの交尾は初めて見た。もうすぐ春ですねぇ…。


明治用水西井筋
この小川と遊歩道下には明治用水西井筋(山屋敷用水)の本流となるパイプが埋設され、ここから北方向一帯、逢妻男川までの水田に水を送っている。開削は明治15年(1882年)、水路の延長は1.2kmで、荒れ地の新田開発に大きな役割を果たした。


明治用水西井筋
水面には花筏が。やはり春を感じますな。


明治用水西井筋
一足早く咲き始める杜若(かきつばた)も。本格的な開花時期は5月になってから。


旧東海道 知立市新田北
新田北交差点より江戸方の旧東海道を望む。この交差点を境に松並木が途絶える。


元禄の道標
新田北交差点付近に残る元禄12年(1699年)建立の道標。「従是五丁北八橋業平作観音在」と刻み、在原業平ゆかりの無量寿寺(知立市八橋町)へ道案内する。無量寿寺がある八橋は東海道開通以前に鎌倉街道が通っていた地で、平安の昔から杜若(かきつばた)が群生する景勝地。在原業平が当地を訪れ”かきつばた”を折句して詠んだ歌は伊勢物語に収められ、この歌に惹かれて多くの旅人が足を延ばしたようだ。


旧東海道・見返弘法大師道の分岐点
元禄の道標より旧東海道を江戸方へ向かって約70m、見返弘法大師道の分岐点があり道標が残る。


見返弘法大師道道標
見返弘法大師道道標。建立年不明。道標に刻む「見返弘法大師」とは、弘法大師が彫った自身の座像三体の一つ「見返弘法大師」を安置する弘法山遍照院(知立市弘法町)を指す。

弘法山遍照院
http://henjoin.com/


見返弘法大師道
弘法山遍照院に向かって延びる見返弘法大師道。現在は道半ばで途切れてしまっている。


旧東海道 知立市牛田町
西教寺横を行く旧東海道。江戸期に牛田村の町家が街道沿いに並び、牛田大豆煎という茶の一種を出す茶屋があって名物に。牛田村は東組と西組に村内を分け、それぞれに庄屋があった。


西教寺
牛田町西屋敷にある西教寺。寛政2年(1461年)本願寺蓮如の教化により三井氏が創建。付近の旧東海道沿いに家康が鎧をかけたと伝わる”鎧かけの松”があったが、昭和30年(1955年)頃に枯死したという。


両口屋本舗
牛田町西端の旧東海道沿いにある両口屋本舗。店の窓に大きく掲げる”いちご餅”が目に留まり、たまらず店内へ。


旧東海道 牛田町・来迎寺町境
牛田町と来迎寺町の境をなす交差点。ここから少し南へ行った所に牛田八幡社と泉蔵寺がある。


牛田八幡社
誉田別尊(ほむたわけのみこと、応神天皇)を祭神に祀る牛田八幡社。建久年間(1190年~99年)源頼朝の目代(後の代官)が、ここから南方の猿渡川南岸、湯山の地に城を築いた折、鎌倉の鶴岡八幡宮から祭神を分霊し祀ったことに起源があるという。


牛田八幡社にて
牛田八幡社の境内で先ほど購入した”いちご餅”を開封。


いちご餅
イチゴを羽二重餅で包んだシンプルな和菓子。餡が入っていない”いちご大福”と表現するのが的確。イチゴの甘酸っぱさと羽二重餅の軽やかな甘みがマッチ、甘いものが苦手な人にも受け入れられるだろう。食べやすいうえに美味しく、6個入りだったがあっという間に平らげてしまった。


泉蔵寺
牛田八幡社に隣接してある泉蔵寺。赤穂浪士四十七士の一人、吉田忠左衛門と妻りんの墓があるのだが、その場所がわからず未確認…。


来迎寺松並木
牛田町と来迎寺町の間に少しだけ残る松並木。その東端に来迎寺一里塚が原形を留めて両塚を残す。


来迎寺一里塚
良好な状態で両塚の遺構を残す来迎寺一里塚。往時は松並木の中にある一里塚だったが、現在は両塚を来迎寺町公民館が隔てている。この状況下でよくぞ撤去されずに残ったものだ。


来迎寺一里塚
来迎寺一里塚は江戸日本橋から84里目(約330km)、京三条大橋からは34番目(実測で約173km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚。


来迎寺
来迎寺という地名の由来になった来迎寺。この寺一帯は室町期に今崎城があったと伝わる場所で、境内に「今崎城阯」と刻む石碑が建てられている。


古城塚(さむらい塚)
来迎寺付近にある古城塚(さむらい塚)。永禄3年(1560年)織田方の今崎城が今川勢に攻められ落城、戦死者を埋葬するために築かれたものと伝わる。


元禄の道標
知立市来迎寺町広海道に残る八橋無量寿寺への道標2基。元禄9年(1696年)建立。


元禄の道標
「従是四丁半北八橋業平観音有」と刻む。


御鍬神社
来迎寺村の村社、御鍬神社。伊勢より勧請された御鍬神(豊受比売命、とようけひめのみこと)を祭神に祀る。明和年間(1764年~71年)に社殿を造営、明治5年(1872年)村社に列格する。


御鍬神社
御鍬神社の拝殿は明治6年(1873年)、本殿が大正3年(1914年)の建築。


来迎寺公園玉乃井
来迎寺公園に残る玉乃井。井戸跡のようだが所縁が不明。


猿渡川橋
猿渡川橋を渡り知立市から安城市へ。


猿渡川
弘法大師が名付けたと伝わる猿渡川。


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雲竜の松

【2015年4月4日(土)旧東海道 池鯉鮒宿→岡崎宿 道中】
猿渡川橋を渡って知立市から安城市へ。かつての東海道は猿渡川から松並木の街道を進んで今村の町家を通り抜け、立場が置かれた大浜茶屋村・宇頭茶屋村を経て尾崎村、宇頭村、暮戸村の町家を過ぎれば、矢作川西岸に位置する矢作村に辿り着く。矢作川に架かる矢作(矢矧)橋を渡れば岡崎城下である。現在、猿渡川から矢作川にかけての旧東海道は所々に松並木が残っていたり近年に植樹されたりして、往時の様子を感じながら歩けて楽しい。そんな中に特筆すべきは旧大浜茶屋村の永安寺境内に立つ雲竜の松。樹齢300年超えとされる雲竜の松は、力強い幹を周囲に伸ばす見事な枝ぶりの松で、私は1本の松を見てこれほどの感動を覚えたことはない。愛知県の天然記念物に指定されているが、国指定でもよいのではないかと思ったほど。近くに訪れた際は是非とも見て触れて、その生命力を感じてほしい。




旧東海道 安城市今本町石田
猿渡川橋から旧東海道を東へ。松の下に咲くタンポポの小さな黄色が春の気分へいざなう。


旧東海道 安城市今本町石田
今本町の旧東海道筋は所々に松並木を残す。


旧東海道 安城市里町大道寺
片側だけの松並木だが往時の東海道が感じさせる。


淺賀井(製)本社工場
淺賀井(製)本社工場前の松並木が今本町の松並木東端。この先で松並木が途切れ旧今村の町家が並んだ。


旧東海道 今本町8丁目交差点
今本町8丁目交差点付近の旧東海道。今村は江戸時代に池鯉鮒宿の定助郷村だった。


里町4丁目西交差点
里町4丁目西交差点から旧東海道筋南側だけに松並木が現れる。これは北側沿いに野池村の町家が並んだ名残。


青麻神社と地蔵堂
青麻神社と地蔵堂。


青麻神社
青麻神社の鳥居左隣に力士像。これは江戸末期から明治初期にかけて活躍した江戸力士、五代目・清見潟又市の石像。天保9年(1838年)三河国碧海郡前浜新田(現 碧南市前浜町)に生まれ本名を榊原幸吉、20歳で江戸相撲に入門し47歳まで現役を続けた。最高位は前頭筆頭、立ち合い時に相撲場外にまで届くほどの奇声を発する名物力士だった。


旧東海道 安城市東栄町野池
東栄町野池を行く旧東海道。


旧東海道松並木にて
旧東海道松並木にて。薬剤を注射した記録紙が松を保護する人々の努力を物語ろう。大変なことだろうが、これからも松並木を育て守ってほしいと願うばかりだ。


旧東海道 安城市東栄町
東栄町の松並木。写真右手前の松は斜めに生えているため、幹に大型車が接触した形跡が。接触部分に虎柄の防護シートが巻かれている。


日吉神社
浜屋町に鎮座する日吉神社。


明治川神社交差点
旧大浜茶屋村の京方端にあたる明治川神社交差点。ここから明治川神社の参道が延びている。


明治用水碑
明治川神社交差点に立つ明治用水碑と明治川神社の鳥居。開渠と通水百年を記念する石碑2基が立つ。


明治川神社参道
明治川神社参道。


明治川神社
明治川神社神池と石橋。明治川神社は明治18年(1885年)建立。明治用水建設の功労者、都築弥厚、伊豫田与八郎、岡本兵松を祭神に祀る。境内に明治用水から水を引く神池があり、ここに架かる石橋の明治川橋は昭和2年(1927年)の改築。


明治川神社参道
明治川神社を参拝し参道を戻って。


明治用水桜並木
明治川神社付近の明治用水。水路が暗渠化し桜並木の遊歩道が整備される。


浜屋バス停
浜屋バス停付近の旧東海道。かつて大浜茶屋村の町家が並んだ場所である。池鯉鮒宿と岡崎宿の中間に位置する大浜茶屋村は立場が置かれ、天保14年(1843年)には炒豆茶屋7軒、作間茶屋(農閑期に営む茶屋)6軒をはじめ、荒物屋、油屋、居酒屋等の店があった。蕎麦切りが名物。東隣の宇頭茶屋村との境で大浜湊(現 碧南市浜寺町)へ通じる大浜道、挙母・足助に通じる挙母道が分岐し、三河湾から遠く信州方面へ塩を運ぶために使われた。


永安寺・雲竜の松
旧大浜茶屋村の中心にある永安寺。


永安寺本堂
永安寺は大浜茶屋村の庄屋、柴田助太夫の霊を祀る。柴田助太夫は延宝5年(1677年)助郷役の免除を願い出て、領主の怒りに触れ刑死したと伝わり、この事件があったためか後に助郷役は一貫して免除された。その遺徳を称えて村民が草庵を結んだことに永安寺のはじまりがあり、寺地は柴田助太夫の屋敷跡とも伝わる。


永安寺・雲竜の松
永安寺境内で地を這うように幹を延ばす雲竜の松。


永安寺・雲竜の松
池鯉鮒宿と岡崎宿間は松並木や来迎寺一里塚等、これはと思う見所が多い中、この雲竜の松は度肝を抜かれる程の素晴らしい生えっぷり。これほどの松はそうそうお目にかかれない。


永安寺・雲竜の松
雲竜の松は柴田助太夫の屋敷にあったものなのか、永安寺建立時の植樹なのか不明だが、樹齢300年程と推定されている。幹が横に延びているため多くの支柱が立ち、管理するのも相当大変だろう。現在永安寺は無住の寺となっており、近隣の方がこの松を管理しているようだ。敬意を払いたい。


旧東海道 宇頭茶屋町
浜屋町(旧大浜茶屋村)の東隣、宇頭茶屋町へ。東海道筋に多くの茶屋があった宇頭茶屋は、江戸期を通して大浜茶屋とは隣接していながら藩領が違い、はじめ岡崎藩領に属し、宝暦13年(1763年)から幕府直轄、明和7年(1770年)に再び岡崎藩領に戻った。安政7年(1860年)には大浜茶屋と宇頭茶屋の間で茶屋営業をめぐり争論が起こっている。


内外神明社
宇頭茶屋町に鎮座する内外神明社。


妙教寺
宇頭茶屋町の法喜山妙教寺。法華宗陣門流.。


宇頭茶屋交差点
旧東海道と愛知県道76号が交差する宇頭茶屋交差点。この辺りは旧宇頭茶屋村と旧尾崎村の間に位置し、かつては松並木の街道だった。


宇頭茶屋交差点の小堂
宇頭茶屋交差点にある小堂。ピンクの桜と小堂、絵になります。


尾崎一里塚跡
旧尾崎村の京方外れにある尾崎一里塚跡。江戸日本橋から83里目(約326km)、京三条大橋からは35番目(実測で約178km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚。両塚とも現存しておらず、「東海道一里塚跡」の碑がその場所を示すのみ。


熊野神社
尾崎一里塚跡付近に鎮座する熊野神社。鎌倉街道が北西約3km地点の不乗森神社(安城市里町森)から証文山の東を通り熊野神社に達していたと伝わり、ここで北西方向から南へ曲がっていたので境内の森を”踏分の森”と呼ぶ。熊野神社から先の鎌倉街道は南東方向の西別所町・山崎町・岡崎市新堀町方面へ通じたいた。


伝鎌倉街道
熊野神社境内西側、鎌倉街道と伝わる小路。


旧東海道 安城市尾崎町
熊野神社東側の旧東海道筋は旧尾崎村の町家が並んだ。


旧東海道 安城市尾崎町
尾崎町の松並木。


旧東海道 安城市尾崎町
松並木が途切れたところで国道1号に合流。


国道1号 宇頭町交差点
安城市から岡崎市へ。宇頭町交差点先の国道1号沿いは旧宇頭村の町家が並んでいたが、現在は国道1号が旧道を貫き、往時の面影は見られない。


和志王山薬王寺
宇頭北町の国道1号沿いにある和志王山薬王寺。奈良時代の創建と伝わり、薬師瑠璃光如来を本尊とする。寺伝によれば、本尊は豊阿弥長者が念持仏としていた尊像で、後に行基を開祖としてこの尊像を納め薬王寺が創建されたと云う。戦国時代の天文18年(1549年)織田信長の父信秀と、今川・松平家の間で安祥城を巡って合戦があり、この時に薬王寺は焼失、長者の子孫も絶えた。江戸時代初期に豊阿弥長者らの墓をこの地に移そうとした際、土中より首に銭を掛けた尊像を掘り出し、薬王寺が再興されたと伝わる。


聖善寺
国道1号を挟んで薬王寺の向かいに聖善寺を見る。慶長4年(1597年)作の木造孝養太子像と樹齢400年とされる枝垂桜があり、共に岡崎市指定文化財。枝垂桜は見頃を迎えていたのだろうが、国道を渡ることができず花見を諦めることに。国道に分断された薬王寺と聖善寺、近いようで遠いのだ。


鹿乗川
鹿乗川を渡って。川名の由来は足利尊氏が矢作川の増水で立ち往生していたところ、そこに現れた三頭の鹿の導きによって渡河できたという故事によるのが通説らしい。この”三鹿の渡し”の故事は、桶狭間合戦で織田信長により今川義元が討たれた後、大高城から岡崎城へ撤退する徳川家康が増水した矢作川に阻まれ、三頭の鹿が現れて家康を浅瀬に導き渡河させたとの伝説もある。


国道1号 鹿乗橋東交差点
鹿乗橋東交差点。現在は国道1号と化すが、昔は松並木の東海道だった。


国道1号 暮戸バス停
国道1号沿いの暮戸バス停。かつて暮戸村の町家が東海道筋に並んでいたが、西隣の宇頭村と同様に旧東海道を国道1号が貫いたため、往時の面影は見られない。


暮戸教会
国道1号沿いにある暮戸教会。ここは江戸時代後期に西三河における真宗大谷派の拠点、旧暮戸会所である。明治4年(1871年)廃仏毀釈に反対する真宗大谷派の石川台嶺を中心にする三河護法会は、廃仏希釈に同意を示した二ヶ寺の糾弾と菊間藩への談判を目的に暮戸会所で決起して大浜へ向かう。談判は決着を見ず、苛立った僧侶や門徒は暴徒化し、菊間藩役人の藤岡薫を殺害、翌日に騒動に加わった僧や門徒は捕えられ、後に裁判を経て台嶺と実行犯とされる榊原喜代七が死刑となった。この事件を大浜騒動(菊間藩事件)と呼ぶ。


暮戸神社
暮戸神社。由緒書が無く祭神や由緒が不明。


旧東海道 岡崎市矢作町
矢作町へ入り矢作町猫田交差点付近で国道1号の喧騒を離れる。旧矢作村は宝暦年間(1751年~63年)に東矢作村と西矢作村に分かれたといい、明治11年(1878年)合併して矢作村に改められた。


竊樹社
矢作町四区の氏神様、竊樹(ひそこ)社。祭神は加茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)と御気津神(みけつかみ)。旧西矢作村の地に鎮座する。江戸期に上加茂大明神、明治になって加茂社に改め、大正期に竊樹社の祭神御気津神を合祀し現社名に改められた。


旧東海道 岡崎市矢作町
風格ある店構えの高岡屋呉服店。矢作町で古くから呉服商を営んでいるのだろう。


誓願寺十王堂
誓願寺十王堂。寿永3年(1184年)矢作の里に住む兼高長者の娘、浄瑠璃姫を弔うために再建されたと伝わる。源義経が藤原秀衡を頼り奥州へ向かう途次、兼高長者の屋敷に宿をとり、義経と浄瑠璃姫は出会い恋に落ちる。姫に名笛「薄墨」を形見に授け義経は奥州へと帰らぬ旅立ちに。姫は恋慕のあまり悲嘆にくれ、ついに菅生川(乙川)へ身を投じてしまう。十王堂には名笛「薄墨」と姫の鏡を安置する。


国道1号 岡崎市矢作町
旧東海道の南側を通る現在の東海道(国道1号)。さすがの交通量。


弥五騰社
旧東矢作村に鎮座する弥五騰(やごと)社。矢作町三区の氏神様。正平元年(1346年)、堀田弥五郎正泰が武内大臣・平定経を祀り左太彦宮を建立したことに始まり、願主の名から弥五郎殿と通称された。明治になって地内の八王子社と諏訪社を合祀し、現社名に改められた。


近江屋本舗
矢作町にある老舗和菓子店の近江屋本舗。店の明かりが暗がりの旧東海道を照らす。明治44年(1911年)創業。閉店時間の19時を過ぎていたため立ち寄れず。


勝蓮寺
旧東海道の突き当り、矢作川右岸にある勝蓮寺。真宗大谷派。所蔵する古文書には宗祖親鸞の来訪が記されているという。徳川家康の嫡男、信康と深く関係し、信康唯一とされる肖像画を所蔵する。信康は義父織田信長より武田家内通の嫌疑をかけられ、家康の命により自刃。21歳という若さだった。


矢作一里塚跡(推定)
勝蓮寺門前にあったとされる矢作一里塚跡。江戸日本橋から82里目(約322km)、京三条大橋からは36番目(実測で約182km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚。旧東海道は矢作川に突き当たって鉤の手に下流方向へ曲げられており、この曲り角辺りに一里塚があったと推測されるが、跡地を示すものが無いため場所が特定できない。


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岡崎の夜桜

【2015年4月4日(土)旧東海道 岡崎宿】
矢作橋を渡って岡崎城下へ。岡崎は桜まつりの真っ最中、岡崎城址の岡崎公園と伊賀川堤、乙川(菅生川)堤には約1000本のソメイヨシノが咲き誇る。乙川河川敷には多くの露店が並び、街は春の訪れを歓迎すべく多くの花見客で賑わう。照明に浮かび上がる夜桜は東海随一とも言われ、”日本さくら名所100選”に選定。今年は4月1日(水)から”岡崎の桜まつり”が開催され、訪れたのが開催最初の土曜日。想像通りに岡崎公園一帯は花見客でごった返し、周辺道路は臨時駐車場への駐車待ちで渋滞する。そんな最中に訪れた岡崎の夜桜、とくとご覧あれ。




矢作橋
矢作川に架かる国道1号の矢作橋を渡って岡崎城下へ。


旧東海道 岡崎市八帖町
八丁味噌の発祥地、八帖町を通り抜けて。


岡崎城と夜桜
伊賀川に架かる竹千代橋から岡崎城天守閣を望む。


岡崎城と夜桜
夜桜に浮かぶ岡崎城天守閣。その桜の下には多くの花見客。贅沢なロケーションで花見ができて羨ましい。


岡崎の夜桜
岡崎公園内は露店が並び、行き交う人でいっぱい。


岡崎城龍城堀
岡崎城の龍城堀と夜桜。


岡崎城天守閣
岡崎城天守閣。


龍城神社
天守閣に隣接する龍城神社。すっかり日が暮れた夜8時、正月でも祭礼日でもないのに参拝客で行列が…。


伊賀川
伊賀川堤の桜並木。


伊賀川
伊賀川の水面には桜の花びらが敷き詰められる。ここで一句。

春の夜に はかなき桜の 花筏


乙川(菅生川)河川敷
乙川(菅生川)河川敷ではパフォーマーが火を噴く。岡崎城下はサタデー・ナイト・フィーバー!


逆さ岡崎城天守閣
乙川(菅生川)に映る逆さ岡崎城。ライトアップされる夜桜と岡崎城天守閣、さくら祭りの期間中だけに見られる景観だ。


【旧東海道歩き 第12日目】名鉄知立駅→池鯉鮒宿→岡崎宿→名鉄岡崎公園前駅 歩行距離約21km

毎年ながら満開に咲くソメイヨシノを花見して、日本に生まれて良かったとつくづく思いつつ。夜桜見物を終えて本日の宿泊先、スーパーホテル岡崎へ。
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八丁味噌

池鯉鮒宿から岡崎城下へ辿り着き夜桜見物を楽しんだ翌日、じっくりと岡崎城址と城下を巡ることに。この日は”岡崎の桜まつり”の最大のイベント、家康行列が催行される。しかしながら雨雲が垂れ込めるあいにくの空模様、雨天中止なんてことにならないことを心配しつつ、宿泊先のスーパーホテル岡崎を出発し、乙川堤の桜並木を花見しながら、岡崎城下京方(西側)外れの矢作橋まで移動。ここから城下の旧東海道を辿りながら途中で家康行列を見つつ、岡崎城下江戸方(東側)端の旧投町(なぐりまち、現 岡崎市若宮町)まで散策する予定を立て、最後に岡崎城天守閣へ登城することに。

岡崎城下の旧東海道は”二十七曲り”と呼ばれ、京方から来れば八町村(現 八帖町)の矢作橋東詰にある鉤の手を最初に、城下江戸方(東側)端の欠町へ至る約4.5kmの道程に27ヶ所もの曲りが設けられていた。敵の侵入を容易にさせない防衛上の理由からとされる。その東海道二十七曲りの京方(西側)入口にあたる八町村は、岡崎城から西へ8町(約870m)の位置にあることが地名の由来。江戸時代には東海道沿いに町家が並んで町場を形成、太田家・早川家が江戸初期より八丁味噌の製造をはじめ、江戸中期以降には生産量を増大させて江戸等へ販路を拡大、全国にその名を知らしめた。現在は名古屋名物”味噌カツ”に欠かせない八丁味噌の発祥地として、”まるや”と”カクキュー”の2軒が今も江戸時代からの伝統製法を守り、味噌の製造を続けている。




乙川堤の桜並木
乙川堤の桜並木を見ながら矢作橋へ向かおう。


乙川堤の桜並木
雨粒が跳ねる水面をカモがスイスイと。


乙川堤の桜並木
乙川堤の桜並木。桜まつりが始まったばかりなのに、今日の雨は花落としの雨となりそう。


乙川河川敷
岡崎公園南側辺りの乙川河川敷。


乙川河川敷
河川敷には多くの露店が並び、これから訪れる花見客を待つ。


岡崎城天守と桜
岡崎城天守閣。


矢作(矢矧)橋跡
矢作橋より矢作川下流方向を望む。江戸時代に架けられていた矢作(矢矧)橋は東海道一の長橋、現在の矢作橋より少し下流側に架けられていた。日吉丸(豊臣秀吉の幼名)と蜂須賀小六が出会った場所として知られるが、矢作橋の架橋は慶長6年(1601年)とされ、秀吉と小六が出会った頃には橋が無かったとも…。歌川広重は「東海道五十三次之内岡崎 矢矧之橋」の題を付け、大名行列が矢作橋を渡り岡崎城下へ向かう様子を浮世絵に描く。


Tokaido38_Okazaki.jpg
東海道五十三次之内岡崎 矢矧之橋
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「岡崎宿」より引用


矢作(矢矧)橋跡
広重はこの辺りからの風景を描いたのだろう。現在は旧道架橋地点に橋が無いため同じ構図にならず、悪天候のためか背景に描く山も確認できない。対岸に岡崎城の天守が何とか見えているのが救い。


矢作川と岡崎城
岡崎城天守をズーム撮影。左右に高い建物があり目立たないが、ここから天守が見えるのは素晴らしい。浮世絵の景観を保つため、建造物の高さを制限しているのだろうか。


矢作(矢矧)橋跡東詰
旧矢作(矢矧)橋の架橋地点が特定できないが、この辺りが旧橋の東詰と思われる。


旧東海道 岡崎市八帖町
矢作川左岸に残る八帖町の旧東海道。


旧東海道 岡崎市八帖町
京方(西側)から歩いてきて、旧矢作(矢矧)橋跡東詰の屈曲を一つ目とすると、ここは2つ目の曲り。その曲り角には「右 西京」「左 江戸」と刻む真新しい道標が設置される。


旧東海道 岡崎市八帖町
八丁味噌の郷を行く旧東海道。


八丁蔵通り
旧東海道からカクキュー裏手を北へ延びる八丁蔵通り。


純情きらり手形の道
八丁蔵通り入口にある宮﨑あおいさんの手形。ここ八丁蔵通りや味噌蔵等はNHK連続テレビ小説「純情きらり」のロケ地で、各所に出演者の手形が設置されている。


八丁蔵通り
八丁蔵通り。


光圓寺
八丁蔵通り沿いにある真宗大谷派、光圓寺。


八丁蔵通り
八丁蔵通りと光圓寺の桜。ドラマに使われたことが頷けるロケーション。


まるや八丁味噌
せっかくここまで来たので、八丁味噌製造元の一軒、”まるや八丁味噌”の工場を見学しよう。工場見学時間まで受付の建物内で待機、他に見学者が現れず、説明員の方に同行するのは私一人だけ。申し訳なく思いつつも、じっくりと味噌蔵を見学できてよかった。


まるや八丁味噌
まるやの味噌蔵。八丁味噌は蒸した大豆に麹カビをつけ、塩と水を加えて木桶に仕込む。木桶の蓋に重石を積み上げ、ニ夏二冬(約2年)もの熟成期間をおいて八丁味噌ができる。


まるや八丁味噌
味噌桶の蓋上に積まれる重石は、石積み職人の手により積み上げられている。


日吉丸石投の井戸
日吉丸石投の井戸。日吉丸とは豊臣秀吉の幼名。少年時代の秀吉が味噌の匂いに誘われてここに忍び込み、職人らに見つかってこの井戸に石を投じ、あたかも井戸に落ちたかのように見せかけ逃げたという。


まるや八丁味噌
まるやの北蔵は最も古く、江戸時代の建築。


まるや八丁味噌
まるやは幕府御用達の味噌醸造元で、北蔵の屋根瓦には三つ葉葵紋が見られる。


まるや八丁味噌
北蔵は「純情きらり」のロケ地。ドラマ撮影時の写真が壁に掲げられている。


まるや八丁味噌
まるや北蔵の内部。昔は味噌桶を竹の箍(たが)で締めていたが、現在は竹の箍を作る職人がいなくなり、代わりにワイヤーを巻いているのだという。北蔵の味噌桶には竹の箍が巻かれているようにみえるが、実は「純情きらり」の撮影時にNHKスタッフがワイヤーに被せた偽物とのこと。


まるや八丁味噌
工場内の売店で限定生産の”三河産大豆と神水仕込みの八丁味噌”と、江戸時代に家康も食していたという粒が残ったままの八丁味噌を購入して工場を後に。たまに異業種の工場見学をしてみるのも色々と興味がそそられ楽しいものだ。詳しくは”まるや八丁味噌”のホームページで↓

まるや八丁味噌
http://www.8miso.co.jp/index.html


早川橋
愛知環状鉄道線の高架橋下、旧東海道早川橋から京方を望む。左に行けば”まるや八丁味噌”、右が”カクキュー”。まるやの次はカクキューへ。


カクキュー
八丁味噌のもう1軒、カクキュー。こちらは代々当主が早川久右衞門を名のる八丁味噌の製造元で、江戸時代初期の創業。宮内庁御用達。


カクキュー
カクキューの工場内。明治40年建築の味噌蔵を改築し、史料館として一般公開している。時間の都合上、今回はこちらの工場見学ができなかったが、併設する売店で手に入れたかった”家康ラーメン”を購入。


カクキュー
国道1号よりカクキュー工場内を撮影。味噌桶に積まれるのだろう重石が。今年の仕込みに使われるのだろうか。岡崎近郊に訪れた際には是非とも八丁味噌の工場を見学してほしい。普段何気なしに食している味噌が、どれだけの手間ひまをかけて作られているのか実感できるだろう。

カクキュー
http://www.kakukyu.jp/


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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