fc2ブログ

ウサギの神社

岸町付近の旧中山道
焼米坂上から住宅地の中を歩き田島通りを越えると、住所は岸町に変わる。この辺りには古い商家も散見される。調(つき)神社まで来ると、この先は浦和宿の町並みだ。

調神社の狛うさぎ
地元では「つきのみや」とも呼ばれるこの神社は面白い。神社には付き物の鳥居が無く、しかも狛犬ならぬ狛うさぎが出迎えてくれる。調神社は平安時代からの古社で、武蔵国の調(年貢のこと)がここに集められていたことからその名がついた。調はここから東山道を経て京の都へ運ばれていたのであるが、その出し入れに鳥居があると邪魔だったことから、ここには鳥居が設置されず現在に至ったようである。

また調と月が同じ読みであったことから月待信仰と結び付けられ、月神の使者である兎がここでは狛犬の代わりを果たしている。彫刻等境内のいたるところに兎が見られる。
私的には調とツキが同じ読みなので、ギャンブラーにはお勧めのスポットなのではないかと思うが・・・いかが。
旧街道の情緒漂う青山茶舗
調神社からちょっと先に青山茶舗というお茶やさん。この建物は明治期に建てられ築百年以上の歴史を誇る。旧街道の情緒をのこす貴重なたたずまいである。この他にも調神社付近には古い商家が数軒のこる。

ようやく浦和宿に到着した。体は恐ろしいくらいに食べ物を欲している。
県庁通り交差点付近の「梅玉」という手打ち蕎麦屋に入り、「鴨南そば」を注文する。
間もなく出ててきたそばを早速腹に流し込み鴨肉に食らいつく。
「うまい・・・(涙)」
当然のごとく、つゆまで一気に飲み干し完食。ここもおいしい蕎麦屋さんでした。
店を出るとあたりはすっかり薄暗くなっていた。
夕闇せまる浦和宿
17時、本陣跡に到着。JR浦和駅から帰途につく。
踏破距離約14.5km(板橋宿本陣跡→浦和宿本陣跡) 延距離25km 残り509km
まだまだ先は長い・・・

テーマ : 旧街道の徒歩紀行
ジャンル : 旅行

浦和宿

【第3日目】1月21日(日)浦和宿→大宮宿→上尾宿



ところどころに雲がかかるものの天気は晴れ。それほど寒さも感じない絶好のウォーキング日和。
JR浦和駅から「さくらそう通り」を歩き旧中山道へ向かう。
途中のベローチェで朝食と軽く一服。11時ちょっと前、ここから旧中山道に歩みを戻す。

浦和宿は江戸から3番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口1230人、家数273軒。本陣1、脇本陣3、旅籠15軒の小さな宿場。現在その面影はほとんど失われてしまい、すっかり近代化された都市となっている。宿場内には近年「中山道浦和宿」の石標が建てられ往時を偲ぶ。
そして記憶にも新しい平成13年(2001年)には、ここ浦和市と大宮市、与野市が合併し、新生さいたま市として100万都市が誕生した。
玉蔵院の山門
さくらそう通りから旧中山道を少し先へ進むと左手に門前通り。この通りの向こうには玉蔵院の山門が見える。雑居ビルの谷間に見える山門はひときわ異彩を放っている。
玉蔵院は平安時代創建といわれる古刹で、弘法大師が開山したと伝わる。ここに安置される木造地蔵菩薩立像は平安時代の作とみられ秘仏。県指定の有形文化財である。

仲町交差点すぐ先の左手にある公園が本陣跡。浦和宿の本陣・問屋は代々星野家が努めた。ここには本陣跡の説明板と「明治天皇行在所址」の大きな石碑が建っている。
慈恵稲荷
本陣跡から旧中山道を200m程先へ進むと慈恵稲荷がある。この社頭では戦国時代から昭和の初期頃まで毎月二の日と七の日、月に6度の市が開かれていた。そこでは穀類等の農産物や木綿、布等の生活必需品が取引された。
市場通り
慈恵稲荷の手前、常盤公園と旧中山道を結ぶ道は「市場通り」と名付けられ、路傍にはおばちゃんが大根を片手に農産物を売る姿が、往時を偲ぶモニュメントとして置かれている。
余談だがこのおばちゃんがベンガルによく似ている。もしかしてモデルなのか?何て思ってしまったのは、私だけだろうか・・・

テーマ : 旧街道の徒歩紀行
ジャンル : 旅行

一本杉の仇討ち

笹岡稲荷の社殿では猫がのんびりとお昼ね中
浦和宿の繁華な街並みも仲町交差点から先は落ち着きを取り戻す。
浦和橋でJR線を跨ぐ。眼下には宇都宮線や高崎線のオレンジとグリーンラインの車両がひっきりなしに行き交う。橋を渡ったすぐ横の赤い鳥居が笹岡稲荷神社。

中山道遊々通りと名付けられたこの道をJR線に沿って北上する。
歩道が広く歩きやすい道が続くが、JR北浦和駅前の生鮮館パワフルの前で、買い物客の放置自転車の束で通行困難に陥る。
北浦和のレディア像
自転車と人を掻き分け先へ進むと、路傍に浦和レッズのマスコットキャラクターのレディア像がお目見えする。このレディアの顔(耳)を3回、鼻を2回なでると、浦和レッズに勝利をもたらし、あなたの願い事が叶うという。早速やってみる。今年の千葉ロッテの優勝が私の願望であるが・・・さていかに。

ごく普通の郊外の街並みの中を坦々と先へ進む。住所は針ヶ谷に変わる。
大原陸橋(東)交差点を過ぎると、第一生命ビル前の歩道に若い杉の木が植えられ、その傍らに「一本杉」の標石。普通に歩いているとうっかり見過ごしてしまうほどの小さな石碑だ。
路傍にひっそりと建つ一本杉の標石
ここは文久4年(1864年)1月、水戸藩士・宮本鹿太郎らが父の仇であった讃岐丸亀藩の河西祐之助を討ち取った場所で、かつては大きな杉の木がそびえ立っていた。この仇討ちに至った前後関係はよくわからないが、日本で最後の仇討ちという。

この年の時代背景は新選組がその名をとどろかせることになった「池田屋事件」が起きた幕末の動乱期である。この時期の水戸藩は保守派と改革派の抗争で統率がとれなくなり、多くの過激派浪士を生み、桜田門外の変や天狗党の乱などを起こすに至った。

水戸藩の宮本姓では尊攘過激派で浪士組結成前の清河八郎と接触のあった宮本辰之助の名が見えるが、鹿太郎はこの人物の流れのなのだろうか。いずれにしても鹿太郎が保守派、改革派のどちらだったのか、その後の生き様を知る由もないが、幕末の大きなうねりの中で一藩士として奉公し、明治維新を迎えたのであろうか。

与野駅の駅前通りと交差する道の真ん中に大きなケヤキの古木がある。車の往来を妨げるかのように立つこのケヤキは、一里塚と一里塚の中間点に置かれた半里塚の跡だという。

この辺りは相模富士、信濃浅間、甲斐、武蔵、下野日光、上州伊香保の山々が見渡せ、六国見と呼ばれる名所だった。

テーマ : 旧街道の徒歩紀行
ジャンル : 旅行

新都心をさまよう人魂

ケヤキ並木の向こうはさいたま新都心
左前方にさいたま新都心のビル群が見えはじめると、旧中山道はケヤキの並木道となる。今は冬枯れしてしまっているが、新緑の頃には見事な並木道となることであろう。

ケヤキ並木を抜けると、さいたま新都心である。
近未来的な街並みの中を行く旧中山道にひときわ目をひく祠がある。中には石造物が二体並び安置されている。「高台橋のお女郎地蔵」と「火の玉不動」である。
高台橋のお女郎地蔵と火の玉不動
昔、柳屋という大宮宿の旅籠に千鳥、都鳥という女郎(遊女)姉妹がおり、街道筋でも評判の美人姉妹であった。二人は親に捨てられ、そして借金を残したまま養親にも先立たれてしまい、その返済のために女郎としてこの柳屋に身を置いた。

一夜を供にしたいと訪れる男も多く旅籠は随分と繁盛した。
そんな荒んだ人生を送ってきた千鳥と都鳥であったが、いつしか千鳥が大宮宿の材木屋の若旦那と恋に落ちた。いずれは夫婦にと契りを交わした二人であったが、幸せはそう長くは続かなかった。

時の大盗賊、神道徳次郎に見初められてしまうのである。徳次郎はどうしても千鳥を身受けしたいと柳屋の主人に詰め寄るが、千鳥と若旦那の関係を知っていた主人は、曖昧な返事を繰り返し先延ばしにした。
ついに怒った徳次郎は嫌がらせを繰り返した挙句、宿に火をつけると脅す。
開発が進むさいたま新都心
そのことを知った千鳥は愛する若旦那を裏切ることもできず、かといって世話になった主人に迷惑をかけることもできず、ついには思いあまって高台橋から身を投げてしまう。
以来ここでは人魂が飛ぶようになり、千鳥を哀れんだ近所の人々によって、その霊魂を慰めるため地蔵が置かれた。これがお女郎地蔵である。

高台橋で千鳥の人魂が飛ぶ話は有名になり、ある男がその正体を突き止めようと、闇夜のある日、ついに人魂を見つけ切りつけた。すると人魂は悲鳴をあげ、鬼の形相をした不動明王が現れた。そしてこの一太刀で剣を切り落とされてしまったと言い残し、闇夜に消えた。

翌日、男が高台橋に行ってみると石の不動明王があり、その手には剣を持っていなかったという。以来この不動様は火の玉不動と呼ばれるようになった。

ここから南側に用水路があり旧中山道は高台橋でここを渡る。といっても橋も用水路も現在は全く気づかない暗渠と化している。

この変わり果ててしまった新都心で、千鳥の魂はどこをさまよっているのだろうか・・・
ちなみにさいたま新都心駅のホーム側からわずかにレンガ造りのモダンな高台橋を見ることができる。
さいたま副都心駅の旧中山道
さいたま新都心駅とコクーン新都心を結ぶ連絡通路の下を抜け、さいたまスーパーアリーナへ続く歩道橋をくぐると、近未来都市の景観は突然現代の住宅地へと変わる。

テーマ : 旧街道の徒歩紀行
ジャンル : 旅行

大宮宿

氷川神社一の鳥居、直進する道が旧中山道
さいたまスーパーアリーナの歩道橋から100m程先へ進む。旧中山道から右斜めに分かれる道が大宮氷川神社の参道で、ここには「武蔵国一宮」の石標と一の鳥居が建つ。鳥居から先に続く並木道が氷川神社の参道で、境内まで約2kmもある。古中山道(東山道)はこの参道を通っていたが、寛永5年(1628年)に一の鳥居から直進する現在の道筋に付け替えられた。

今回はここを直進し、旧中山道の道筋を辿る。吉敷町交差点を過ぎる。ガイドブックによるとこの辺りの右手には塩地蔵があるはずだが、どこにあるのかわからない。路傍で休んでいたご老婦に、「この辺りに塩地蔵があると聞いたんですが・・・知りませんか?」と尋ねたところ「知らんなぁ・・・」のつれない返事。どうも気付かずに通り過ぎてしまったようだ。
大宮宿の街並み
残念ながらお目にかかれなかったが、塩地蔵にはこんな由来がある。
二人の娘と旅していた浪人が大宮宿で急病にかかってしまい、手を尽くしたが一向に良くならない。ある日娘の枕元に地蔵が立ち塩断ちするよう告げたという。娘たちはお告げを守り、塩を断って地蔵に祈ったところ父は全快した。喜んだ父娘は塩をたくさん奉納した。以来この地蔵は塩地蔵と呼ばれ、塩を供えて念ずれはご利益があるという。

人通りが増え始める。車の通行も激しい。大宮宿に到着である。
大宮南銀座には古い商家も僅かに残る
仲町1丁目の南銀座付近には古い建物が数軒のこるが、かつては宿場であったことを気付かせてくれるものは無い。現在は高島屋やロフト等の大きなビルが建ち、林立する雑居ビルには様々な店が入る。
大宮の市街地を貫く旧街道も人と車でごった返す。大宮は交通の要衝であるとともに商業都市として発展しつづけている。

大宮宿は江戸から4番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口1508人、家数319軒。本陣1、脇本陣9、旅籠25軒。脇本陣が9軒と非常に多いのが特徴。もともとは氷川神社の門前町として人が集まり、後に中山道の宿場町として発展した。大宮の名も氷川神社が由来である。
一番街周辺が宿場の中心
高島屋が建っている場所が脇本陣北沢家の跡で、その先住吉通りの角、大和証券がある辺りが本陣山崎家跡である。現在ここに来ても案内板も標識も全く無く。そんな歴史があることに気付くことはない。

テーマ : 旧街道の徒歩紀行
ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

カレンダー
02 | 2024/03 | 04
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -
高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
最近の記事
カテゴリー
最近のコメント
データ取得中...
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

お気に入りブログ
ブログ内検索
QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター