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白須賀宿

Tokaido32_Shirasuka.jpg
東海道五十三次之内白須賀 汐見阪
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「御油宿」より引用


【2016年2月20日(土)旧東海道 白須賀宿】
京方(西側)から境川を渡れば、間もなく白須賀宿の加宿、境宿新田(現 湖西市境宿)から白須賀宿に入る。当初の白須賀宿は潮見坂下の海岸部(現 元宿地区)にあったが、宝永4年(1707年)に発生した宝永地震の津波よって宿場が壊滅、潮見坂上の台地に移転し、元々あった境宿新田を加宿とした。この加宿境宿新田が猿ヶ馬場(猿が番場)と呼ばれた地で、茶店では名物かしわ餅が売られ、広重が浮世絵「東海道五十三次之内二川 猿ヶ馬場」の題材にした場所とされる。普通に考えれば猿ヶ馬場は白須賀であり、何ゆえ二川として副題にしたのか?この謎を解くヒントが万治年間(1658年~61年)刊行の東海道名所記にありそう。東海道名所記は白須賀宿移転前の刊行で、白須賀から潮見坂を上り二川宿へ向かう道中部分で猿ヶ馬場を次のように紹介している。「猿が馬場 柏餅ここの名物なり。あづきをつつみし餅 うらおもて柏葉にてつつみたる物也」。広重の浮世絵は白須賀で潮見坂を描いており、もし東海道名所記の一文を参考にしていれば、潮見坂より次宿二川側こ位置した猿ヶ馬場は、二川として扱っても流れとしては自然なのである。広重は二川宿と白須賀宿の間の荒涼とした丘陵地を背景に猿ヶ馬場の茶店を創作して描いたと考えてみてはいかがか。

東海道名所記(万治年間刊行)には白須賀を次のように紹介している。
「白須賀より二川へ二里六町、楽阿弥かたりけるは東国の俗語に、沙(すな)のあつまりて小高きをば、須賀といふなり。宮の渡しより佐屋にまはる。佐屋の入り口にも須賀といふ宿あり。蜂須賀などといふもおなじ。州といふ心なるべし。賀は詞の助字(たすけじ)なり。この道は、沖つしら波たかき所なれば、夜ぶかくひとりはゆくべからず。舞坂(まいざか)、あら井、白須賀、みな海ちかく漁師おほし。」
二川へ二里六町は移転前の位置、次に地名の由来を丁寧に書き、夜道の一人歩きを避けるよう注意を促す。舞坂・新居(荒井)・白須賀の宿場は海岸部にあっただけに漁師が多くいたようだ。白須賀宿は江戸日本橋から東海道五十三次を32宿目、京都三条大橋から22宿目、東海道を京方から来れば遠江国最初の宿場町。天保14年(1843年)当時、宿の町並み長さ東西 で14町19間(約1.6km)、人口と家数は加宿境宿新田を含めて2704人、613軒。本陣は大村庄左衛門家の1軒、脇本陣が三浦屋惣次郎家の1軒、旅籠屋27 軒。東から東町・橋町・伝馬町(東中町・西中町)・高見町・西町と続く町並み。名物は柏餅と蕎麦切。




静岡県道173号 湖西市白須賀
境川橋を渡って静岡県道173号を東へ。県道左横に少しだけ旧道が残る。


境宿西バス停
旧道にある境宿西バス停。


境宿旧道
左が境川橋方面の県道、右に旧道。


笠子神社入口
笠子神社入口。県道が通ったことで参道が分断している。


笠子神社石鳥居
参道に立つ石鳥居。


笠子神社社殿
笠子神社社殿。太古より海岸部に鎮座していたが、高波や津波の被害を受け2度の遷座を経て、元和2年(1615年)現在地へ遷座。古来より地域住民の産土神として崇敬を集める。


笠子神社狛犬台座
社殿の両狛犬台座には跡見家一統の名が刻まれている。


笠子神社秋葉山常夜灯
笠子神社の境内社前にある秋葉山常夜灯。文化10年(1813年)建立。


境宿新田京方入口
加宿境宿新田(現 湖西市境宿)京方入口。境宿新田は幕末に加宿扱いではなく、白須賀宿と合併していたと推測されている。


加宿境宿新田
古家屋が軒を連ねる加宿境宿新田。ここがかつて猿ヶ馬場と呼ばれた街村だが、残念ながら柏餅を売る店はない。


加宿境宿新田高札場跡
加宿境宿新田にある成林寺の前、旧東海道と谷川道の分岐点が高札場跡。


加宿境宿新田高札場跡
成林寺前より高札場跡と谷川道を望む。


谷川道道標
旧東海道・谷川道の分岐点に残る谷川道道標。谷川道は旧谷川村(明治11年中原町・雲谷町・原町が合併し成立、現在の豊橋市中原町・雲谷町・原町)を示す道標と思われる。


成林寺
久松山成林寺。法華宗陣門流。


境宿村開祖藤又右衛門・久兵衛之碑
成林寺境内には境宿村開祖藤又右衛門・久兵衛之碑が建つ。昭和7年(1932年)建立。


加宿境宿新田
古家屋が連なる加宿境宿新田の町並み。


玄齋堂
玄齋堂の旧屋号板を掲げる跡見家。笠子神社の狛犬台座に一統の名を刻んでいたあの跡見家であろう。跡見家は代々医者として玄齋堂の名で呼び親しまれた。境宿村に生まれた跡見玄山(1834~1889)は華岡青洲に師事して麻酔手術の外科医療を学び、更に緒方洪庵の門下に入り蘭方の内科外科を学んだ。安政6年(1859年)に帰郷して境宿に開業した。


火除け地跡
加宿境宿新田と白須賀宿の境に設けられた火除け地跡。火事による類焼をくい止めるために設けた場所で、間口2間(約3.6m)奥行4間半(8.2m)の敷地に火に強い10本程の槙が一列に並べて植えた。これを火防樹と呼ぶ。宿内には3地点の火除け地に、6列の火防樹があったという。


庚申堂
白須賀宿の京方端付近、旧東海道沿いにある庚申堂。天和元年(1681年)建立、天保12年(1841年)に再建。


庚申堂
見ざる聞かざる言わざる。ん…!?一匹多い。


深田商店
白須賀宿内にある数少ない商店の一つ、深田商店。自販機だけが営業していた。


白須賀宿
白須賀宿の町並み。


火防樹
民家の庭に残る火防樹。


「白須賀宿の火防」解説板
火防樹に立つ「白須賀宿の火防」解説板。


ファミリーファッションわたや
街道筋に店を構える寝具・衣料品店”ファミリーファッションわたや”。


神明宮
白須賀宿内に鎮座する神明宮。


夏目甕麿邸跡
白須賀交番前交差点北角、夏目甕麿(なつめみかまろ)邸跡・加納諸平(かのうもろひら)生誕地。夏目甕麿は、白須賀で酒造業を営む家に生まれ、国学を内山真龍(うちやままたつ)に学び、後に本居宣長の門人となった江戸後期に活躍した国学者。文政5年(1822年)没。加納諸平は甕麿の長子で父と同じく国学者で、本居大平のもとに奇遇、加納家の養子となり後に紀州藩の国学所総裁となった。安政3年(1856年)没。


白須賀宿脇本陣跡
脇本陣三浦屋惣次郎家跡。「脇本陣跡」の碑があるのみ。


白須賀宿本陣跡
大村庄左衛門家本陣跡。左手前”白須賀美容室”が脇本陣と本陣の間にあった境屋又兵衛家跡、その隣り奥が本陣跡で現在は大きな庭を持つ個人住宅、敷地南西角に「本陣跡」碑と解説板が立つ。


白須賀宿
本陣前より宿場京方を望む。


太田サイクル店(鍵屋跡)
古い建物を残す太田サイクル店。ここは江戸末期に鍵屋惣左衛門家。


潮見寺
湖西市内唯一の真宗本願寺派、潮見寺。正保元年(1644年)誓念が元宿の悪止山に念仏道場を創建したことに始まる。宝永4年(1707年)津波の被害に遭って宿場と共に現在地へ移転。明治6年(1873年)潮見寺を校舎として現在の白須賀小学校の前身、白須賀学校が開設された。


曲尺手
連続して道が直角に曲げられる曲尺手(かねんて)。先を見通せないようにする軍事防衛の目的で設けられたが、太平の江戸時代では大名行列が道中でかち合わないようにする役割を持っていたという。


鷲津停車場往還道標
曲尺手の東側から鷲津停車場往還が分かれる。分岐点に明治45年(1912年)建立の鷲津停車場往還道標が残る。


鷲津停車場往還道標
鷲津停車場往還道標。鷲津停車場(現 JR鷲津駅)に至る道を示す。


白須賀宿
曲尺手の先、上り坂に軒を連ねる古民家。


十王堂
白須賀宿が津波に襲われた宝永4年(1707年)の翌年、宿場と共に現在地へ移転したと伝わる。質素な本堂ながらも立派な閻魔大王像を安置する。白須賀で鐘楼と釣鐘があるのはこの寺だけだという。


十王堂
十王堂に安置する閻魔大王像。


白須賀宿江戸方出入口
古い民家が途切れた辺りが宿場江戸方出入口だろう。


白須賀宿江戸方出入口
白須賀宿を後に。宿場東端から緩やかに道が曲げられているが、東海道は直進して潮見坂に向かっていた。


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潮見坂

いまははや 願い満ちぬる 潮見坂 心惹かれし 富士を眺めて

京都から旧東海道を歩いてきて初めて太平洋の大海原を見る。潮見坂だ。空気が澄んだ好天の日には坂上から富士山も眺められるという。古くから景勝地として知られ、室町幕府6代将軍足利義教は富士遊覧の旅の途次、冒頭の歌を詠んだ。戦国時代の天正10年(1582年)、甲州征伐を終えて安土へ帰る途次の織田信長を、徳川家康は潮見坂上に茶室を設けて歓待したと伝わる。江戸時代の万治年間(1658年~61年)刊行の東海道名所記は潮見坂を次のように紹介。
「潮見坂は町はつれ也 ここより富士山みゆ 又此坂にのぼれば うみのおもて まなこのまえにある故に潮見坂といふ 濱邊乃千鳥のこえかすかにきこえければ楽阿弥 潮見坂 汐のみちひ 濱千鳥 こえさたまらす 遠近に聞」
*原文中の変体仮名は平仮名に変換

明治元年(1868年)潮見坂は江戸へ行幸する明治天皇の休憩所ともなり、大正13年(1924年)坂上に「明治天皇御遺蹟地記念碑」の石柱を建てて潮見坂公園が造られたが、そんな景勝地も時代の趨勢に抗うことはできず、現在は公園跡地は白須賀中学校の敷地と化し、旧東海道の道筋と共に消失している。




潮見坂上
白須賀宿を出た旧東海道は潮見坂に向かって直進していたが、現在は畑地と白須賀小学校・中学校の敷地と化して消失。現在は南側に迂回して新道が通されている。


白須賀小学校
旧東海道上に建つ白須賀小学校校舎。


潮見坂上の石碑群
潮見坂上の石碑群。「明治天皇御遺蹟地記念碑」をはじめ、夏目甕麿(なつめみかまろ)や加納諸平(かのうもろひら)らの顕彰碑、忠魂碑を建てる。


潮見坂上より
潮見坂上より太平洋(遠州灘)を望む。


潮見坂公園跡
潮見坂公園碑。大正13年(1924年)に造られた潮見坂公園だが、今は白須賀中学校の敷地に。この公園碑と明治天皇御遺蹟地記念碑等が往時を偲ぶ。


旧東海道 潮見坂上
潮見坂上より京方、潮見坂公園跡の白須賀中学校を望む。旧東海道は正面の中学校敷地に消失、現道は左に迂回している。


おんやど白須賀
潮見坂の下り口、旧東海道沿いにある”おんやど白須賀”。白須賀の歴史や文化を発信すると共に、旧東海道を散策する人々に交流や休憩場所を提供。施設内の展示は潮見坂や白須賀宿に関するものが多い。


おんやど白須賀にて
”おんやど白須賀”には東海道中膝栗毛をモチーフにした模型を展示。写真は猿ヶ馬場の名物かしわ餅を売る茶屋を再現している。


おんやど白須賀にて
こちらは潮見坂上にある袈裟切り地蔵(右から2体目)。強風に雨と、あまりの悪天候のため実物を見過ごしてしまったが、袈裟切り地蔵にはこんな伝承が。
その昔、白須賀に泊まっていた侍が潮見坂に化け物が出るとの噂を聞き、これを退治するため夜更けに潮見坂へ出かけたところ、噂の化け物に遭遇して刀を抜き一太刀、見事に退治したという。翌朝に町の人々がその現場を見に行ったところ、6体ある地蔵のうち1体が袈裟懸けに切られており、実は地蔵が化けていたとのオチ。普段は有り難いお地蔵さんも、中には人を驚かせて楽しむ茶目っ気たっぷりなのもいたわけだ。今も袈裟切り地蔵は現存しているが、触ると祟りがあるらしいのでご注意を。静かに拝んで帰りましょう。


おんやど白須賀より富士山を望む
”おんやど白須賀”より富士山方向を望む。条件が整えば写真正面の民家の間に富士山が望めるらしい。


潮見坂
”おんやど白須賀”の先、旧東海道は潮見坂の下りに。


潮見坂
潮見坂より遠州灘を望む。


潮見坂
潮見坂旧道。


潮見坂
潮見坂の途中から左に分かれる道は蔵法寺へ通じる脇道。かつてこの脇道筋に”うないの松”という大松があり、歌人の久内和光が歌を詠んでる。現在は切り株が残り、久内和光の歌碑が建てられているようだが、、袈裟切り地蔵と同じく悪天候のため見過ごす。


潮見坂
草木で鬱蒼とした薄暗い潮見坂を下る。


潮見坂
潮見坂旧道。


潮見坂08
坂下より潮見坂を望む。


潮見坂下
潮見坂下の町並み。潮見坂(写真奥)を下りきると旧東海道はここで折れ曲がり東進(写真右方向)。この辺りから江戸方への旧東海道筋が宝永4年(1707年)以前の白須賀宿があった場所で、元宿の地名で通称されている。


白須賀元宿
元宿地区に延びる旧東海道。


蔵法寺
潮見観音こと蔵法寺。その昔、門前の海中から現れたと伝わる聖観音像を祀る。遠州灘を行き交う船は必ず帆を下げ海上から観音様を拝んだといい、”帆下げ観音”とも呼ぶ。


白須賀元宿
宝永4年(1707年)の津波で壊滅した元宿。宿場が坂上に移転した後に街村を復興、元白須賀と称して立場となっている。


内宮神明神社
元宿に鎮座する内宮神明神社。


白須賀元宿
元宿の町並み。


一里塚・高札建場跡
元宿一里塚跡と高札建場跡の解説板。ここら辺りでは高札場のことを”高札建場”とか、単に”建場”と呼んだらしい。白須賀の高札場は元宿のここと東長谷、加宿境宿新田に設置されていた。
一里塚・高札場跡
元宿(白須賀)一里塚は江戸日本橋から70里目(約275km)、京三条大橋からは48番目(実測で約234km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。両塚とも現存せず。


元宿鉤の手
元宿の江戸方(東側)端付近の旧東海道。写真は江戸方を望み、旧東海道はこの先で右折。かつての東海道は元宿の江戸方出入口付近で連続する鉤の手に曲げられていた。


元宿鉤の手
元宿東外れの鉤の手。ここを新居宿方面に曲がった先で旧道は消失している。

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新居関所

浜名湖南西岸に町家を広げた新居宿。東隣の舞阪宿との間に浜名湖が隔たり、東海道の往来は渡し船(今切の渡し)によるものだった。その新居宿側の渡船場に設けられたのが新居関所、幕府は今切関所という名を用いた。「入り鉄砲に出女」と言われた当時の関所の中でも、新居関所は特に女性の出入りを厳しく取り締まったといわれる。地元の方に聞いた話によると、江戸時代には新居関所があったため、浜名湖を挟んで東側と西側の住民での婚姻は稀だったらしい。その厳しい取り締まりを逃れようと、女性の旅人は新居関所を避けて浜名湖北側の陸路(本坂道)を通ることが多く、この脇道が”姫街道”と通称されるのはそのためである。

新居関所は江戸初期から中期にかけて度重なる高潮や津波の被害に遭って2度移転している。初めて新居関所が設置されたのは慶長5年(1600年)とされ、その場所は浜名湖西岸に突き出た半島状の先端。近くには将軍休泊用の新居御殿が設けられていた。延宝8年(1680年)と元禄12年(1699年)に暴風雨や高潮の被害を受けたことを契機に、元禄14年(1701年)関所が約650m西北の藤十郎山の地へ移転し、これに伴い新居宿の城町も移転。それから6年後の宝永4年(1707年)東海沖を震源とする宝永地震が発生、津波によって新居宿をはじめ関所が壊滅し、宿場のあった半島は2ヶ所で分断、更なる移転を余儀なくされる。翌年には現在地に関所を移転、新居宿も全町移転を完了した。この新しい新居宿と関所は明治維新まで続くことになる。当初の関所と城町跡は大元屋敷、宝永移転前の関所跡と西町・中町・城町跡は中屋敷と通称する。




新居町駅
新居町駅から関所へGO!


食堂大黒屋
新居宿駅付近にある食堂大黒屋。浜名湖といえば、やっぱり鰻でしょ。時間が無いので食べたい気持ちを抑えて通り過ぎ…。


浜名橋
浜名川河口部に架かる浜名橋。室町時代中期、今切の出現以前の浜名川は、浜名湖から橋本駅(近世東海道新居宿の前身、現新居町浜名の橋本地区)の南側を通って遠州灘へ流れ込み、東海道は橋本駅から浜名川に架かる浜名橋を渡って東へ延びていた。浜名橋が初めて架橋されたのが貞観4年(862年)とされ、現在の浜名橋より約1.5km上流辺りと思われる。海と浜名湖が繋がってから浜名川の流れは逆転、その大義を失い現在は細々とした流路を残すのみ。


浜名橋
国道301号が通る現在の浜名橋。新居関所から舞坂宿まで、国道301号・1号のルートが今切渡船の航路を踏襲している。


芸妓置き屋 寶屋跡
新居関所の南側、味楽酒房”豊千”がある場所は芸妓置き屋の寶屋跡。明治・大正期の新居には多くの芸妓置き屋があったが、現在は小松楼の1軒だけが当時の建物を残す。


新居関所入口
入館受付から新居関所へ入ろう。


新居関所
現存する関所建物は安政2年(1855年)から5年かけて建て替えられたもの。


新居関所渡船場
今切渡しの渡船場。往時の関所東側は浜名湖の湖岸だった。渡船場と水辺を復元し往時を偲ぶ。


新居関所と大御門
新居関所と大御門。新居宿から東の舞坂宿へ向かう旅人は大御門を潜り抜けて関所へ入り、ここで取り調べを受けて今切渡しの渡船場から乗船した。また、今切湊へ出入りする船の取り調べもここで行われていた。


荷物石と関所の石樋
敷地内に展示する荷物石と関所の石樋。荷物石(写真左手前)は旅人が取り調べを受けている間に荷物を置いた石、面番所の西側に並んで置かれていた。石樋は関所の排水溝出口に設置されていたもので、カモの口ばしのように石垣から突き出ていたので、”鴨の嘴(くちばし)”や”鴨の口”と呼ばれた。


新居関所
威厳と格式を備える新居関所。


新居関所書院
関所建物の北東奥に設けられた書院。現在は関所建物内の見学入口となっているが、現役時代は公式な対面所として用いられたという。


関所面番所
関所面番所。読んで字の如く、ここで関所役人と往来する旅人が面を合わせた。関所役人の人形が据えられ往時を再現、開所時は写真左の障子襖を開けて往来の旅人を取り調べたのだろう。


関所面番所
関所役人はイケメン揃い。


新居関所
関所面番所の表側。ここで往来の旅人は跪き、関所役人の吟味を受けたのだろう。


足軽勝手
関所建物の北西奥に設ける足軽勝手。関所役人のうち足軽階級の人々が休憩所に使った。


あらため女
足軽勝手に据える”改め女”の人形。”改め女”とは、関所を往来する女を取り調べた人のことで、衣類を脱がせ違法な品を隠し持っていないかを調べた。往時は足軽長屋の西側に女改長屋を設け、そこで関所役人の妻や母親が女改めを務めたという。女改長屋は現存していない。


新居関所史料館
関所見学後は新居関所史料館で関所の歴史について学ぼう。


新居関所大御門
新居宿江戸方出入口となる新居関所の大御門。京方へ向かう旅人はここを通り抜けて安堵し、江戸方へ向かう旅人はここで気を引き締めたことだろう。


新居関所大御門
大御門と新居関所。


新居宿泉町
関所から新居宿へ。続きは次の記事に。


撮影日:2016年4月2日(土)
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テーマ : 街道の旅
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旅籠紀伊国屋と芸妓置屋小松楼

新居宿には関所もさることながら、旅籠と芸妓置屋の建物が現存している。紀伊国屋と小松楼だ。紀伊国屋は宝永期の新居全町移転前より新居宿で営業を続けてきた旅籠、創業者は紀州出身で江戸初期に新居へ移り住み、はじめは茶屋を営んだという。後に旅籠へ転業して代々疋田弥左衛門を名のり、元禄16年(1703年)徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿に指定、正徳6年(1716年)紀伊国屋の屋号を掲げ、昭和30年代に廃業するまでの約250年にわたり旅館業を営んだ。今に残る建物は明治7年(1874年)大火後に再建されたもので、この時2階建てに建て替えられた。現在は旅籠紀伊国屋資料館として内部を一般公開する。

明治末期から新居町は歓楽街としての様相を示した。大正・昭和初期にかけて俵町・船町界隈には芸妓置屋が次々と開業し、最盛期には芸妓置屋が11軒、80人もの芸妓を抱えていたという。そんな時流にのり小松楼は大正期に松井米吉が紀伊国屋の南側にあった平屋を俵町へ移築、2階部分を増築して小料理屋を兼ね芸妓置屋を開業した。人気の芸妓を抱えていたのだろうか、新居で一二を争うまでに繁盛し、最盛期には12、3人の芸妓を抱えていたという。多くの男衆を楽しませてきた芸妓置屋も、時代の流れに抗うことはできず、今や新居の地に芸妓置屋は存在しない。しかし、この小松楼の1軒だけが建物を残し往時を偲ぶ。現在は国の登録有形文化財に指定され、”小松楼まちづくり交流館”として地域住民や旅行客の交流拠点に活用されている。かつての芸妓置屋を見学できる所はそうそう無いだろう、新居を訪れた際には是非とも立ち寄ってほしい。




旅籠紀伊国屋
旅籠紀伊国屋と新居宿旧泉町の町並み。


旅籠紀伊国屋
宿場町に相応しい佇まいを残す旅籠紀伊国屋。


旅籠紀伊国屋
旅籠紀伊国屋の建物内入口部分、店の間。


旅籠紀伊国屋
主屋1階奥に上の間と次の間が並ぶ。


旅籠紀伊国屋の夕食
紀伊国屋の夕食。秘伝のたれを用いた鰻の蒲焼は東海道筋でも評判の一品だった。新居の鰻の蒲焼は関東風の背開き、豊橋より以西は腹開きだったらしい。


旅籠紀伊国屋・たたき土間と台所
客をもてなす食事を作ったのがここ、たたき土間と台所。


旅籠紀伊国屋・風呂場
風呂場はいかにも旅籠らしい雰囲気、時代劇に迷い込んだよう。


旅籠紀伊国屋・風呂場
時代劇の風呂場と言えば、やっぱ”かげろうお銀”でしょ。


旅籠紀伊国屋・中庭
主屋西側に設けらる庭。これを眺めながら一献、旅の疲れも癒されよう。


旅籠紀伊国屋・奥座敷と次の間
主屋最奥部、奥座敷と次の間。


水琴窟
奥座敷の縁側に据える水琴窟。これは地中に甕を埋め、そこに滴り落ちる水の反響音を竹筒で聞く仕組み。琴の音色のように聞こえることから水琴窟と呼ばれる。江戸時代の庭師によって考案された技法。百聞は一見に如かず、是非とも耳を澄ませて聴いてみてほしい。


旅籠紀伊国屋の蔵
紀伊国屋敷地の裏手にある板張りの蔵。


旅籠紀伊国屋
階段を上がって2階へ。小松楼の2階部分は大正期に芸妓置屋を開業するにあたり増築された。


旅籠紀伊国屋二階・客の間
旅籠紀伊国屋の2階、客の間。


旅籠紀伊国屋二階・客の間
2階の客の間は広々とした感じ。


旅籠紀伊国屋裏口
旅籠紀伊国屋を裏口から出て。次は小松楼へ。


俵町往還
俵町を縦断する俵町往還。


小松楼0
俵町往還筋に建つ小松楼。置屋の看板は昭和33年(1958年)まで、戦前に芸妓抱えはやめたという。建物前には俵町の秋葉山常夜灯があり、旧芸妓置屋の佇まいにひと花添える。


小松楼
小松楼の1階座敷。1階の建物は明治38年(1905年)の建築、大正期に移築された建物なのだろう。


小松楼
階段を上がって2階客間のお座敷へ。


小松楼
2階部分は大正期に芸妓置屋となって増築された。


小松楼
2階に設ける三間続きの座敷。写真手前が上座、最奥で芸妓が歌や舞踊を披露したという。当時の芸者遊びがどんなものだったのか、今となっては体験することは難しいが、その場に居れば想像もしやすく興味深い。


小松楼
小松楼の古写真集。


てまりさん
写真集中央に据えるのが”てまり”さん。昭和10年(1935年)頃に新居町ナンバーワンの芸妓だったという。仮に当時20歳として存命ならば、金さん銀さん級の100歳。この写真を撮影した後、どんな人生を辿られたのかに興味が湧く。


小松楼
小松楼2階の特別室。主に常連客等をもてなす部屋だったらしい。ここでどんなドラマがあったのか、今や知ることはできないが、ここで芸者遊びに興じてみたいと思うのは私だけではないはず。


小松楼
客座敷の障子襖には小松楼のロゴ入りガラスをはめる。


小松楼
廊下壁には客座敷から漏れる光で小松楼のロゴが浮かび上がる粋な計らい。


小松楼
小松楼2階から俵町往還を眼下に。ここに生きた芸妓さんたちは、どんな思いで今の風景を眺めることだろう。


撮影日:2016年4月2日(土)
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新居宿

Tokaido31_Arai.jpg
東海道五十三次之内 荒井 渡舟ノ図
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「新居宿」より引用


【2016年4月2日(土)旧東海道 新居宿】
まずは江戸時代の東海道名所記(万治年間刊行)より新居宿部分を抜粋して紹介。
「舟やうやうつきけれは 楽阿弥も男ものり手ミなミなあがらぬ。ここハ関所なり。女には手判のせんさくあり。其外鉄砲をあらためらる。楽阿弥かたりけるハ 此宿はづれの右の方に濵名のはしの跡あり 拾遺和歌集兼昌が歌ふ
汐みてる ほどに行きかふ 旅人や 濱名の橋と 名付初けむ
又続古今集正村朝臣の歌に
高師山 夕こえ暮て 麓なる はまなのはしを 月と見る哉
松山につづきて高師山あり。濵名納豆といふはここより初まれるにや 橋もとこれ濵名の橋もとなるべしといふ
男聞て歌よむ
遠江 はま名のはしは 名のミして 納豆バかりぞ 世にのこりける 」
*原文中の変体仮名は平仮名に変換

東海道名所記が書かれた万治年間(1658年~61年)の新居宿は中屋敷に西町・中町、大元屋敷に城町・関所があった草創期の宿駅。今に見る関所と宿場とは所在地が異なっていた。名所記は今切渡船と関所について書き、浜名の橋を歌枕に詠んだ和歌をいくつか紹介している。拾遺和歌集兼昌とは平安時代の歌人平兼盛のことで、おそらく筆者は同時代の歌人源兼昌と混同しているのだろう。続古今集正村朝臣とは鎌倉時代執権北条氏の一門北条政村を指す。文中にある高師山は浜名の橋と共に古くから歌枕に詠まれ、東海道名所記(寛政9年刊行)では次のように説明する。
「高志或ハ高石と書す 遠江記二云 白菅より続きて北山までの間をいふ 又或カ云 高師山は今天神祠より白須賀の辺まで続きし山をいふ 海邊の眺望旅中の奇観なり」
これによれば高師山は新居から西へ海岸沿いに続く山を指すようで、白砂の海岸と緑の山々が左右に延々と続く景色は、奇観と表現されるように他では見られない珍しい眺めだったと想像できよう。江戸時代には浜名の橋こそ無くなっていたが、往時を偲ぶに十分な景観が残されていたはず。しかし東海道名所記にある男が、浜名の橋は僅かに名が残るのみで、今では浜名納豆の方が有名であると歌に詠んでいるのが面白い。

江戸日本橋から東海道五十三次を31宿目、京都三条大橋から23宿目となる新居宿、古くは「荒井」とも書かれる。ここから江戸方隣りの舞坂宿へは今切の渡しによる渡船で浜名湖を渡り、その新居側渡船場に新居関所を置き通行人を取り締まった。関所は江戸初期から中期にかけて度重なる高潮や津波の被害に遭って2度移転しており、その度に今切渡船の距離が延びている。その辺りの経緯は「新居関所」の記事に詳述したので参照を。
天保14年(1843年)当時、新居宿の町並み長さ東西2町37間(約285m)・南北6町55間(約755m)、加宿分町並み7町50間(約855m)。人口と家数は加宿橋本村を含めて3474人、797軒。本陣は疋田弥五助家・飯田武兵衛家・疋田八郎兵衛家の3軒、脇本陣なし、旅籠屋26 軒。東から泉町・中町・高見町・西町と続く町並み。名物は鰻蒲焼、浜名納豆に鰹塩辛。広重は「東海道五十三次之内荒井 渡舟ノ図」の題を付け、新居宿と関所を背景に今切の渡しを数艘の船が往来する様子を描く。浮世絵最奥に見える山並みが中世以前に高師山とされた山並みだろう。




新居宿泉町
旅籠紀伊国屋と芸妓置屋小松楼の見学を終えた。さてさて、紀伊国屋から新居宿を散策しよう。


旅籠尾張屋平吉跡
紀伊国屋向かい、旅籠尾張屋平吉跡。江戸中期の国学者鱸有飛(すずきありとび)、有鷹(ありたか)父子の生家。非常に珍しい鱸姓であるが、今も新居に見られるという。


旅籠万屋五兵衛跡
紀伊国屋の西側4軒目にあった旅籠万屋五兵衛跡(写真左手前)。江戸時代にここの主、筒山五兵衛が所有していた船が難破し無人島に漂着、それから21年後になって水夫三人が無事帰郷したという。


旅籠伊勢屋長吉跡
旅籠万屋跡の左隣、旅籠伊勢屋長吉跡。今は金松酒店に。


八百屋喜三跡
新居宿旧泉町の中心部、伊勢屋の西隣り2軒目にあった八百屋喜三跡。旅籠屋から質屋、そして八百屋に生業を転じた。写真突き当りが飯田武兵衛本陣跡で、右が疋田弥五助家本陣跡。


旅籠高須屋弥太郎跡
八百屋の西隣りにあった旅籠高須屋弥太郎跡。ここの先祖が江戸時代初期にこの地で新田を開発、宝永の新居宿全町移転前まで弥太郎新田と呼ばれた。


井桁屋清太郎跡
高須屋向かい、堀部商店の場所が井桁屋清太郎跡。慶応3年(1867年)飯田武兵衛本陣に続いて井桁屋に”お札降り”があり、”ええじゃないか騒動”が遠州以東へ伝播していったという。


飯田武兵衛本陣跡
泉町交差点、旧東海道(国道301号)の突き当りに飯田武兵衛本陣跡(写真正面右)と旅籠伊勢屋忠右衛門跡(写真正面左)。飯田本陣は明治元年(1868年)と翌年、明治11年(1878年)に明治天皇行幸の行在所として利用された。向かって右隣に寺道の入口。


疋田八郎兵衛本陣跡
旅籠伊勢屋忠右衛門跡の左隣り、疋田八郎兵衛本陣跡。


新居宿旧泉町・旧中町境
泉町交差点から南へ延びる旧東海道。すぐ先、タカスペット店(写真右手、濃いピンクのシート屋根)が寄馬跡で、旧泉町と旧中町の境にあたる。


旧泉町・旧中町境の用水路跡


かつては写真手前から奥に向かって用水路が流れ、泉町・中町境をなした。写真突き当りが寄馬跡のタカスペット店で、その前を通るのが旧東海道。


寄馬跡
寄馬跡(現 タカスペット店)。大名行列等の大きな通行があると、宿場で常備する人足と馬だけでは賄いきれず、近在の村(助郷村)から人馬を提供させて不足を補った。助郷制度という。ここはその助郷村から提供された人馬の溜り場になったところ。


新居宿旧中町
新居宿旧中町の町並み。


かきこや
旧中町東海道筋にあるスーパーマーケット”かきこや”。


いさごや
昭和10年(1935年)創業の”いさごや”。どら焼きにオリジナルの焼印を入れてくれる”ロゴどら”が評判の和菓子店。


新居宿旧中町と旧高見町境
新居宿旧中町と旧高見町境付近。かつては横断歩道辺りに水路が横切り、彦十郎前橋という板橋が架けられていた。橋名の由来は中町の彦十郎家前にあったため。


旧高見町の神社
旧高見町東海道筋から神社参道が延びる。


旧高見町の神社
参道入口に神社名を記している板があるが、”田社”しか読み取れない。


旧高見町の神社
参道の先には荒れた境内と小社がある。ここが如何なる神社で、どういった経緯で今に至るのか知りたいところ。地元の方に聞くしかないだろうが、その当てもないので参拝してやむなく退散。


パブスナック思案橋
旧高見町・旧西町の境に流れていた水路跡。かつては写真手前から奥が水路、横切る道が旧東海道で思案橋という板橋が架けられていた。その橋跡北袂にあるのが、その名もパブスナック思案橋。場末のスナック感たっぷりの店構えと店名にそそられ、その扉を開けたい衝動にかられるが、飲み始めるには時間が少々早いうえ店も開店前な感じ。後日改めて来る機会が作れればと思案の末に結論。ここに来れば思案橋の由来について聞くことができるかも。


鷲栖院参道
思案橋跡近く、鷲栖院(じゅせいいん)に続く参道。


鷲栖院本堂
鷲栖院本堂。正保4年(1647年)から明暦3年(1657年)まで関所奉行を務めた佐橋甚兵衛の墓がある。


若宮八幡宮参道
旧西町西側の愛宕山山麓に鎮座する若宮八幡宮。参道が愛宕山展望台登り口となっている。せっかくなので登ってみよう。


若宮八幡宮参道石段
参道石段から旧西町を望む。


猿田彦神社
若宮八幡宮境内、猿田彦神社の横に登山道、愛宕山山頂へ続く。


愛宕山大権現
山頂に鎮座する愛宕山大権現。


子持ち観音像
山頂から新居の町に向いて立つ子持ち観音像。


頼朝の歌碑
山頂には頼朝の歌碑も。
「都よりあづまへかへり下りて後、前大僧正慈鎮のもとへよみてつかわしける歌の中に 前右大将頼朝」
かへる波 君にとのみぞ ことづてし 濵名の橋の 夕ぐれの空


愛宕山展望台より
展望台より新居町を眺望。写真下に見える屋根は愛宕山大権現。


弁天島遠望
今切渡し跡、高層ビル群が並ぶ弁天島を遠望。江戸時代に今切渡しの航路を波除けするため、数万本の杭が打ち込まれたという。これに砂が堆積して砂洲を形成、今に見る弁天島のはじまりである。


新居一里塚跡
愛宕山を下山して旧西町から新居宿散策を再開。ここが旧西町にあった新居一里塚跡。江戸日本橋から69里目(約271km)、京三条大橋からは49番目(実測で約238km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚で、両塚とも現存せず。跡地に解説板を設置する。


棒鼻跡
加宿橋本村との境、新居宿京方出入口の棒鼻跡。


棒鼻跡
棒鼻跡には花壇が設けられ旅人を出迎える。


平太郎のたい焼きとたこ焼き
前回同様平太郎に立ち寄り、たこ焼きとたい焼きを買い食い。ここで宿内を戻り寺道を歩いてみよう。

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ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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