白須賀宿

東海道五十三次之内白須賀 汐見阪
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「御油宿」より引用
【2016年2月20日(土)旧東海道 白須賀宿】
京方(西側)から境川を渡れば、間もなく白須賀宿の加宿、境宿新田(現 湖西市境宿)から白須賀宿に入る。当初の白須賀宿は潮見坂下の海岸部(現 元宿地区)にあったが、宝永4年(1707年)に発生した宝永地震の津波よって宿場が壊滅、潮見坂上の台地に移転し、元々あった境宿新田を加宿とした。この加宿境宿新田が猿ヶ馬場(猿が番場)と呼ばれた地で、茶店では名物かしわ餅が売られ、広重が浮世絵「東海道五十三次之内二川 猿ヶ馬場」の題材にした場所とされる。普通に考えれば猿ヶ馬場は白須賀であり、何ゆえ二川として副題にしたのか?この謎を解くヒントが万治年間(1658年~61年)刊行の東海道名所記にありそう。東海道名所記は白須賀宿移転前の刊行で、白須賀から潮見坂を上り二川宿へ向かう道中部分で猿ヶ馬場を次のように紹介している。「猿が馬場 柏餅ここの名物なり。あづきをつつみし餅 うらおもて柏葉にてつつみたる物也」。広重の浮世絵は白須賀で潮見坂を描いており、もし東海道名所記の一文を参考にしていれば、潮見坂より次宿二川側こ位置した猿ヶ馬場は、二川として扱っても流れとしては自然なのである。広重は二川宿と白須賀宿の間の荒涼とした丘陵地を背景に猿ヶ馬場の茶店を創作して描いたと考えてみてはいかがか。
東海道名所記(万治年間刊行)には白須賀を次のように紹介している。
「白須賀より二川へ二里六町、楽阿弥かたりけるは東国の俗語に、沙(すな)のあつまりて小高きをば、須賀といふなり。宮の渡しより佐屋にまはる。佐屋の入り口にも須賀といふ宿あり。蜂須賀などといふもおなじ。州といふ心なるべし。賀は詞の助字(たすけじ)なり。この道は、沖つしら波たかき所なれば、夜ぶかくひとりはゆくべからず。舞坂(まいざか)、あら井、白須賀、みな海ちかく漁師おほし。」
二川へ二里六町は移転前の位置、次に地名の由来を丁寧に書き、夜道の一人歩きを避けるよう注意を促す。舞坂・新居(荒井)・白須賀の宿場は海岸部にあっただけに漁師が多くいたようだ。白須賀宿は江戸日本橋から東海道五十三次を32宿目、京都三条大橋から22宿目、東海道を京方から来れば遠江国最初の宿場町。天保14年(1843年)当時、宿の町並み長さ東西 で14町19間(約1.6km)、人口と家数は加宿境宿新田を含めて2704人、613軒。本陣は大村庄左衛門家の1軒、脇本陣が三浦屋惣次郎家の1軒、旅籠屋27 軒。東から東町・橋町・伝馬町(東中町・西中町)・高見町・西町と続く町並み。名物は柏餅と蕎麦切。

境川橋を渡って静岡県道173号を東へ。県道左横に少しだけ旧道が残る。

旧道にある境宿西バス停。

左が境川橋方面の県道、右に旧道。

笠子神社入口。県道が通ったことで参道が分断している。

参道に立つ石鳥居。

笠子神社社殿。太古より海岸部に鎮座していたが、高波や津波の被害を受け2度の遷座を経て、元和2年(1615年)現在地へ遷座。古来より地域住民の産土神として崇敬を集める。

社殿の両狛犬台座には跡見家一統の名が刻まれている。

笠子神社の境内社前にある秋葉山常夜灯。文化10年(1813年)建立。

加宿境宿新田(現 湖西市境宿)京方入口。境宿新田は幕末に加宿扱いではなく、白須賀宿と合併していたと推測されている。

古家屋が軒を連ねる加宿境宿新田。ここがかつて猿ヶ馬場と呼ばれた街村だが、残念ながら柏餅を売る店はない。

加宿境宿新田にある成林寺の前、旧東海道と谷川道の分岐点が高札場跡。

成林寺前より高札場跡と谷川道を望む。

旧東海道・谷川道の分岐点に残る谷川道道標。谷川道は旧谷川村(明治11年中原町・雲谷町・原町が合併し成立、現在の豊橋市中原町・雲谷町・原町)を示す道標と思われる。

久松山成林寺。法華宗陣門流。

成林寺境内には境宿村開祖藤又右衛門・久兵衛之碑が建つ。昭和7年(1932年)建立。

古家屋が連なる加宿境宿新田の町並み。

玄齋堂の旧屋号板を掲げる跡見家。笠子神社の狛犬台座に一統の名を刻んでいたあの跡見家であろう。跡見家は代々医者として玄齋堂の名で呼び親しまれた。境宿村に生まれた跡見玄山(1834~1889)は華岡青洲に師事して麻酔手術の外科医療を学び、更に緒方洪庵の門下に入り蘭方の内科外科を学んだ。安政6年(1859年)に帰郷して境宿に開業した。

加宿境宿新田と白須賀宿の境に設けられた火除け地跡。火事による類焼をくい止めるために設けた場所で、間口2間(約3.6m)奥行4間半(8.2m)の敷地に火に強い10本程の槙が一列に並べて植えた。これを火防樹と呼ぶ。宿内には3地点の火除け地に、6列の火防樹があったという。

白須賀宿の京方端付近、旧東海道沿いにある庚申堂。天和元年(1681年)建立、天保12年(1841年)に再建。

見ざる聞かざる言わざる。ん…!?一匹多い。

白須賀宿内にある数少ない商店の一つ、深田商店。自販機だけが営業していた。

白須賀宿の町並み。

民家の庭に残る火防樹。

火防樹に立つ「白須賀宿の火防」解説板。

街道筋に店を構える寝具・衣料品店”ファミリーファッションわたや”。

白須賀宿内に鎮座する神明宮。

白須賀交番前交差点北角、夏目甕麿(なつめみかまろ)邸跡・加納諸平(かのうもろひら)生誕地。夏目甕麿は、白須賀で酒造業を営む家に生まれ、国学を内山真龍(うちやままたつ)に学び、後に本居宣長の門人となった江戸後期に活躍した国学者。文政5年(1822年)没。加納諸平は甕麿の長子で父と同じく国学者で、本居大平のもとに奇遇、加納家の養子となり後に紀州藩の国学所総裁となった。安政3年(1856年)没。

脇本陣三浦屋惣次郎家跡。「脇本陣跡」の碑があるのみ。

大村庄左衛門家本陣跡。左手前”白須賀美容室”が脇本陣と本陣の間にあった境屋又兵衛家跡、その隣り奥が本陣跡で現在は大きな庭を持つ個人住宅、敷地南西角に「本陣跡」碑と解説板が立つ。

本陣前より宿場京方を望む。

古い建物を残す太田サイクル店。ここは江戸末期に鍵屋惣左衛門家。

湖西市内唯一の真宗本願寺派、潮見寺。正保元年(1644年)誓念が元宿の悪止山に念仏道場を創建したことに始まる。宝永4年(1707年)津波の被害に遭って宿場と共に現在地へ移転。明治6年(1873年)潮見寺を校舎として現在の白須賀小学校の前身、白須賀学校が開設された。

連続して道が直角に曲げられる曲尺手(かねんて)。先を見通せないようにする軍事防衛の目的で設けられたが、太平の江戸時代では大名行列が道中でかち合わないようにする役割を持っていたという。

曲尺手の東側から鷲津停車場往還が分かれる。分岐点に明治45年(1912年)建立の鷲津停車場往還道標が残る。

鷲津停車場往還道標。鷲津停車場(現 JR鷲津駅)に至る道を示す。

曲尺手の先、上り坂に軒を連ねる古民家。

白須賀宿が津波に襲われた宝永4年(1707年)の翌年、宿場と共に現在地へ移転したと伝わる。質素な本堂ながらも立派な閻魔大王像を安置する。白須賀で鐘楼と釣鐘があるのはこの寺だけだという。

十王堂に安置する閻魔大王像。

古い民家が途切れた辺りが宿場江戸方出入口だろう。

白須賀宿を後に。宿場東端から緩やかに道が曲げられているが、東海道は直進して潮見坂に向かっていた。

スポンサーサイト