信州上田城の夜桜
以前から浜松城の次は上田城に行こうと決めていた。今年の大河ドラマ”真田丸”を見ている方に説明は不要と思うが、浜松城は徳川家康が元亀元年(1570年)から天正14年(1586年)までの居城、上田城は真田昌幸が天正11年(1583年)から慶長6年(1601年)まで居城としており、徳川と真田が家を守るため、互いに深謀遠慮をもって敵味方となり戦国の世を生き抜いた時代に本拠としていた両城である。上田城下では天正13年(1585年)に第一次上田合戦、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦直前に第二次上田合戦があり、真田昌幸はいずれも徳川を退けている。上田城は真田が天下にその名を知らしめた城、今年は大河ドラマの主要な舞台であり、城址に設ける大河ドラマ館には連日多くの観光客が押し寄せている。いつ行くの?今でしょ!ちょっと古いか…。

上野駅から長野新幹線に乗車して約1時間半、上田駅に到着。さすがは真田が本拠とした地、駅舎に飾る六文銭に目が引かれる。

まずは上田駅から城とは逆の南東方向へ。城下南東端辺り、科野大宮社から旧北国街道を歩き城下を散策しよう。

科野大宮社と旧北国街道。ここ境内前の街道筋に上田宿東入口となる木戸と番所を設けていた。

旧常田村(現 上田市常田2丁目)を行く旧北国街道。正面に虚空蔵山を望む。上田城下南東端にあたる常田(ときだ)の地は城下囲八邑の一村。鎌倉時代に常田庄と呼ばれ、真田昌幸が上田城築城後に屋敷割をして町を形成した。

常田にある毘沙門堂。岩門の大日堂で寺子屋を開いていた活文禅師が、文政12年(1829年)ここへ移り寺子屋を続け生涯を終えた。活文禅師に教えを受けた一人に佐久間象山がいるという。

旧北国街道は長野県道79号で突き当り丁字路を右折。県道沿いに続く横町(現 上田市中央2丁目)の町並み。

横町と常田町の境にある日輪寺。真田家の祖先、海野幸義によって天文14年(1545年)建立された。

海堂山宗吽寺。日輪寺の北隣にある。上田藩主千石氏と松平氏の祈願所だった。

宗吽寺境内の石幢。陰刻銘より南北朝時代の作とわかっているが、月形の窓は後世の改変。台石も後世に補われたもの。

横町の旧北国街道(長野県道79号)。横町という町名は海野町から南に折れた街道筋に町家を並べたことから。海野町が発展するにつれ町家が増加し、横町に町家が形成されるに至った。横町と北側の鍛冶町に寺が多くあるのは、城下町防備のためだといわれる。

横町交差点を西に曲がれば海野町(現 上田市中央2丁目)。真田昌幸が上田城築城の際、海野郷(現 東御市本海野)より住民を移住させて形成した商人町。原町寄りの南側に上田宿本陣柳沢太郎兵衛家があった。

商店街の一角にある海野町の市神、高市神社。海野町では当初1・6の日に六斎市を開いたが、享保9年(1724年)3・5の日に変えられた。市神は市商いの繁盛を祈願して祀られた。

高市神社に祀る運の石。ご神体の代わりに九度山(真田昌幸と信繁の配流地)から移した神石で、これを撫でれば良運を授かるという。”海野”と”運の”で語呂を合わせているようにも思えるが、真相は定かでない。

海野町の西端、中央2丁目交差点。直進すれば上田城追手口、枡形を設け番所を置いた。旧北国街道はここを右へ曲折して原町(現 上田市中央3丁目)に。

原町の旧北国街道。上田城下で最初に形成された町が海野町と原町で、上田宿の中心をなした。原町は上田城築城の際、原之郷(現 上田市真田町本原)より住民を移住させたのがはじまり。問屋場を置き代々滝沢助右衛門家が務めた。

原町市神社。社殿は明治12年(1879年)の再建。

原町にあった問屋場、滝沢助右衛門家跡。蕎麦処太平庵の北隣で、現在は駐車場。

問屋場跡の北側にある池波正太郎真田太平記館。

真田太平記館前にある猿飛佐助像。城下の所々に真田十勇士像が見られる。

原町の北端を流れる蛭沢川。旧北国街道(国道141号)を横切っている。

中央3丁目交差点の西側、木町(現 上田市中央4丁目)の町並み。旧北国街道は原町方面の奥から左の小路に曲折し、木町北隣の柳町へ続く。

木町の中央を縦断する蛭沢川。現在は木町橋が架かる。江戸時代にはここを境に東側が商人町、西側が武家屋敷だった。

木町橋より木町西側の町並み。かつて木町橋袂には木戸が設けられ木町口と称した。

柳町入口にある雲隠才蔵像。真田十勇士を探しながらの城下町散策も楽しい。

柳町入口の縁結び地蔵。水琴窟を据える。新居宿の旅籠紀伊国屋で心地よい音色を楽しんだ水琴窟、再びこんなところでその音を聴くことができるとは。

上田城下の最大の見どころ、柳町(現 上田市中央4丁目)へ。太郎山を背景にして往時の面影を残す商家が並ぶ。

見事な酒林を軒先に吊るす岡崎酒造。寛文5年(1665年)創業。主力銘柄は”亀齢”。
岡崎酒造
http://www.ueda.ne.jp/~okazaki/

軽食喫茶店の”森文”。卯建を持つこの商家は明治9年(1876年)の建築で、元は森田屋の屋号で呉服商を営んだ。

柳町の北端、旧北国街道は左に折れ、直進すれば上田大神宮に至る参道。

旧北国街道から上田大神宮参道が分かれる十字路南東角にある蕎麦屋”おお西”。こだわりの手打ち信州そばを堪能できる名店らしい。ここは江戸末期に年寄役の小宮山滝兵衛家跡で、小宮山家は大正期に製糸工場を経営。明治から大正期にかけて”蚕都上田”と呼ばれ、蚕糸業が盛んな時代があった。上田紬は今も上田が誇る伝統工芸の一つ。

蕎麦屋”おお西”の建物際で水を落とす保命水。この水は上田城鬼門を守る海善寺から湧出する水を引く。

柳町から北、神宮橋の先には上田大神宮が鎮座。

柳町の十字路北西角にある菱屋。武田味噌の直売所。

矢出沢川に架かる緑橋から柳町方向。ここが柳町と紺屋町の境。

柳町の西側を流れる蛭沢川。川岸に柳が多くあったことから柳町の名がついたとか。

緑橋の先は紺屋町(現 上田市中央4丁目)。海野郷の染物業者金沢氏がこの地に移って町が成立、それに伴い紺屋職人が移住したことが町名の由来。

紺屋町にある泉屋。 解説板によれば、文政9年(1826年)紺屋町大火後、上田藩が職人町再建のため海野宿より移設した建物で、泉屋小泉弥重が藍染め工房に利用、天保9年(1838年)から米・大豆・小豆・塩等を商う穀屋に。明治になって蚕種の製造販売をはじめ、蚕種製造と養蚕指導員を各地に派遣する「益蚕社」本店として第二次大戦中まで使用された。屋根に見える煙出しは蚕種製造のため明治期に付け加えられたもの。

紺屋町より八幡宮に向かって延びる参道。この八幡宮は上田城鎮護のため真田昌幸が海野郷より移したといわれる。

紺屋町西端、城下西入口の紺屋町口跡。木戸を設け北側街道筋に番所を置いていた。ここより西側は鎌原(かんばら)村となるが、江戸末期には紺屋町西隣が町場化して下紺屋町と呼ばれ、紺屋町は上紺屋町とも称された。

鎌原の旧北国街道。上田城下北側に位置する鎌原(現 上田市中央西1丁目)の地は城下囲八邑の一村。真田昌幸が上田城築城時、太郎山麓付近の新屋等から住民を移して村を形成した。

明治20年(1887年)創業の和田龍酒造場。
和田龍酒造場
http://www.wadaryu.com/
鎌原で城下散策は終わり。上田城址へ夜桜見物に向かおう。

上野駅から長野新幹線に乗車して約1時間半、上田駅に到着。さすがは真田が本拠とした地、駅舎に飾る六文銭に目が引かれる。

まずは上田駅から城とは逆の南東方向へ。城下南東端辺り、科野大宮社から旧北国街道を歩き城下を散策しよう。

科野大宮社と旧北国街道。ここ境内前の街道筋に上田宿東入口となる木戸と番所を設けていた。

旧常田村(現 上田市常田2丁目)を行く旧北国街道。正面に虚空蔵山を望む。上田城下南東端にあたる常田(ときだ)の地は城下囲八邑の一村。鎌倉時代に常田庄と呼ばれ、真田昌幸が上田城築城後に屋敷割をして町を形成した。

常田にある毘沙門堂。岩門の大日堂で寺子屋を開いていた活文禅師が、文政12年(1829年)ここへ移り寺子屋を続け生涯を終えた。活文禅師に教えを受けた一人に佐久間象山がいるという。

旧北国街道は長野県道79号で突き当り丁字路を右折。県道沿いに続く横町(現 上田市中央2丁目)の町並み。

横町と常田町の境にある日輪寺。真田家の祖先、海野幸義によって天文14年(1545年)建立された。

海堂山宗吽寺。日輪寺の北隣にある。上田藩主千石氏と松平氏の祈願所だった。

宗吽寺境内の石幢。陰刻銘より南北朝時代の作とわかっているが、月形の窓は後世の改変。台石も後世に補われたもの。

横町の旧北国街道(長野県道79号)。横町という町名は海野町から南に折れた街道筋に町家を並べたことから。海野町が発展するにつれ町家が増加し、横町に町家が形成されるに至った。横町と北側の鍛冶町に寺が多くあるのは、城下町防備のためだといわれる。

横町交差点を西に曲がれば海野町(現 上田市中央2丁目)。真田昌幸が上田城築城の際、海野郷(現 東御市本海野)より住民を移住させて形成した商人町。原町寄りの南側に上田宿本陣柳沢太郎兵衛家があった。

商店街の一角にある海野町の市神、高市神社。海野町では当初1・6の日に六斎市を開いたが、享保9年(1724年)3・5の日に変えられた。市神は市商いの繁盛を祈願して祀られた。

高市神社に祀る運の石。ご神体の代わりに九度山(真田昌幸と信繁の配流地)から移した神石で、これを撫でれば良運を授かるという。”海野”と”運の”で語呂を合わせているようにも思えるが、真相は定かでない。

海野町の西端、中央2丁目交差点。直進すれば上田城追手口、枡形を設け番所を置いた。旧北国街道はここを右へ曲折して原町(現 上田市中央3丁目)に。

原町の旧北国街道。上田城下で最初に形成された町が海野町と原町で、上田宿の中心をなした。原町は上田城築城の際、原之郷(現 上田市真田町本原)より住民を移住させたのがはじまり。問屋場を置き代々滝沢助右衛門家が務めた。

原町市神社。社殿は明治12年(1879年)の再建。

原町にあった問屋場、滝沢助右衛門家跡。蕎麦処太平庵の北隣で、現在は駐車場。

問屋場跡の北側にある池波正太郎真田太平記館。

真田太平記館前にある猿飛佐助像。城下の所々に真田十勇士像が見られる。

原町の北端を流れる蛭沢川。旧北国街道(国道141号)を横切っている。

中央3丁目交差点の西側、木町(現 上田市中央4丁目)の町並み。旧北国街道は原町方面の奥から左の小路に曲折し、木町北隣の柳町へ続く。

木町の中央を縦断する蛭沢川。現在は木町橋が架かる。江戸時代にはここを境に東側が商人町、西側が武家屋敷だった。

木町橋より木町西側の町並み。かつて木町橋袂には木戸が設けられ木町口と称した。

柳町入口にある雲隠才蔵像。真田十勇士を探しながらの城下町散策も楽しい。

柳町入口の縁結び地蔵。水琴窟を据える。新居宿の旅籠紀伊国屋で心地よい音色を楽しんだ水琴窟、再びこんなところでその音を聴くことができるとは。

上田城下の最大の見どころ、柳町(現 上田市中央4丁目)へ。太郎山を背景にして往時の面影を残す商家が並ぶ。

見事な酒林を軒先に吊るす岡崎酒造。寛文5年(1665年)創業。主力銘柄は”亀齢”。
岡崎酒造
http://www.ueda.ne.jp/~okazaki/

軽食喫茶店の”森文”。卯建を持つこの商家は明治9年(1876年)の建築で、元は森田屋の屋号で呉服商を営んだ。

柳町の北端、旧北国街道は左に折れ、直進すれば上田大神宮に至る参道。

旧北国街道から上田大神宮参道が分かれる十字路南東角にある蕎麦屋”おお西”。こだわりの手打ち信州そばを堪能できる名店らしい。ここは江戸末期に年寄役の小宮山滝兵衛家跡で、小宮山家は大正期に製糸工場を経営。明治から大正期にかけて”蚕都上田”と呼ばれ、蚕糸業が盛んな時代があった。上田紬は今も上田が誇る伝統工芸の一つ。

蕎麦屋”おお西”の建物際で水を落とす保命水。この水は上田城鬼門を守る海善寺から湧出する水を引く。

柳町から北、神宮橋の先には上田大神宮が鎮座。

柳町の十字路北西角にある菱屋。武田味噌の直売所。

矢出沢川に架かる緑橋から柳町方向。ここが柳町と紺屋町の境。

柳町の西側を流れる蛭沢川。川岸に柳が多くあったことから柳町の名がついたとか。

緑橋の先は紺屋町(現 上田市中央4丁目)。海野郷の染物業者金沢氏がこの地に移って町が成立、それに伴い紺屋職人が移住したことが町名の由来。

紺屋町にある泉屋。 解説板によれば、文政9年(1826年)紺屋町大火後、上田藩が職人町再建のため海野宿より移設した建物で、泉屋小泉弥重が藍染め工房に利用、天保9年(1838年)から米・大豆・小豆・塩等を商う穀屋に。明治になって蚕種の製造販売をはじめ、蚕種製造と養蚕指導員を各地に派遣する「益蚕社」本店として第二次大戦中まで使用された。屋根に見える煙出しは蚕種製造のため明治期に付け加えられたもの。

紺屋町より八幡宮に向かって延びる参道。この八幡宮は上田城鎮護のため真田昌幸が海野郷より移したといわれる。

紺屋町西端、城下西入口の紺屋町口跡。木戸を設け北側街道筋に番所を置いていた。ここより西側は鎌原(かんばら)村となるが、江戸末期には紺屋町西隣が町場化して下紺屋町と呼ばれ、紺屋町は上紺屋町とも称された。

鎌原の旧北国街道。上田城下北側に位置する鎌原(現 上田市中央西1丁目)の地は城下囲八邑の一村。真田昌幸が上田城築城時、太郎山麓付近の新屋等から住民を移して村を形成した。

明治20年(1887年)創業の和田龍酒造場。
和田龍酒造場
http://www.wadaryu.com/
鎌原で城下散策は終わり。上田城址へ夜桜見物に向かおう。
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