島田宿大井川川越遺跡
【2016年10月8日(土)旧東海道 金谷宿→島田宿】
金谷から大井川の対岸にあったのが島田宿川越し場。金谷側に比してこちらは多くの川越し場の遺構を残しており、”島田宿大井川川越遺跡”として昭和41年(1966年)国史跡に指定された。川会所をはじめ川越人足が待機する番宿等が往時の姿を留め、川越し場の雰囲気を存分に堪能できる。そんな見どころ満載の中で私の興味を惹いたのが島田大堤。江戸時代に向谷水門下(島田市向谷)から道悦島村境(島田市高島町)の三一五〇間(約5733m)に渡って築かたこの大堤は、大半が取り壊され消失ているものの、大井川橋東袂から島田川越し場にかけての約540mにかけて、ほぼ原形を留めて残存し見るべきものがある。現在内側に堤防があるため無用の長物と化しているにもかかわらず、よくぞ取り壊されずに今に至ったものだと感心。長らく島田の町を水害から守ってきたことに地元の方が畏敬の念を抱き、今日まで保護してきてくれたのだろう。

島田宿側、大井川渡し跡にあたる河川敷。往時は小石を敷き詰める河原か、大井川の流路だったのだろうが、広々と整備された河川敷に化して川の水が見えない。

堤防から東へ延びる旧東海道、ここから島田宿川越し場へ入ってゆく。

島田宿川越し場の入口にある朝顔目明観音と川除地蔵、あさがほ蛍のお堂。
江戸時代に朝顔という盲目の三味線芸者がいた。かつて恋仲だった阿曽次郎という武士を思い続け、運命の悪戯か偶然に島田宿で行き違う。急ぎの所用で訪れた次郎、そして盲目の朝顔は互いに気付くことができず、後に次郎がいたことを朝顔は知らされ追いかける。しかし運悪く大井川は川止め、半狂乱となって激流の大井川を渡ろうとするが、戎屋という宿屋の主人に諫められ、一命をとりとめた。その犠牲的行為によって朝顔は視力を回復、初めて目に映ったのが一本の大きな松で、これを朝顔の松と呼ぶようになったとう。朝顔の松は昭和10年(1935年)に枯死、これを偲んでお堂を建て、朝顔の松を使って木碑を作り安置している。現在のお堂は平成16年(2004年)再建。

島田市博物館。ここで島田宿や川越し場の散策前に少しだけ勉強しておきたい。

島田市博物館横、大井川方向の旧東海道。かつては河原だったはずの場所で、旅人が川越人足の肩車や連台から乗降していた辺りと思われる。

八重枠稲荷神社。川越人足の安全を祈願して宝暦10年(1760年)に建立されたといわれる。社殿は文化9年(1812年)と明治34年(1901年)に修繕、基礎部分の石積みだけは建築当時のもので、河原の石を拾い亀甲型に積まれている。

七番宿跡(右手前)と一番宿(左手前)。川越し場西端の番宿が一番宿で、その先に”せぎ”(堰のこと)があり、渡し場へと続いた。

七番宿は更地に。

現在の五番宿は住宅になっている。一番・五番・七番宿は島田大堤の内側、川に最も近いところにあった。

川越し場の町並みもさることながら、私が最も見応えを感じたのがこの島田大堤。残念ながらここで途絶えてしまっているが、江戸時代には向谷水門下(島田市向谷)から道悦島村境(島田市高島町)の三一五〇間(約5733m)に渡り築かれていた。

島田大堤は川越し場から大井川東詰にかけての約540mにかけ、堤上がアスファルトに舗装されながらも、ほぼ原形を留めて残存している。大井川がいかに暴れ川だったかを今に物語ろう。

大井川の水量で川越賃銭を決め、徴収などの業務を行った川会所。安政2年(1855年)の地震で倒壊し、翌年に再建。当初は札場の向かいにあったが、昭和45年(1970年)現在地へ移された。現存する川会所は地震後に再建された建物を復元したもの。

大井川を渡河する旅人はここで川札(川越えの切符)を購入して渡し場に向かった。

川札は川の水量で値段が決められた。最も安いのが股通の四十八文(約1440円)、脇まで水量がある脇通の九十四文(約2820円)が最も高く、更に水量が多くなると川止めとなる。

川会所には川庄屋や年行事といった役人が詰め、川越し場の管理運営にあたった。

川会所内部。

川会所に展示される様々な連台。半高欄連台は上級武士や婦人などを乗せた。

大名持ちの大高欄連台。大名を駕籠に乗せたまま川を渡すことができた。

島田宿川越し場の休憩処、川越茶屋。

川札の換金所だった札場。

それぞれの番宿には川札を回収する陸取り(おかどり)という世話人がおり、陸取りは集めた川札をここに持ち込み現金に換えていた。

札場より望む川越し場の町並み。かつて札場の向かいには川会所があった。

札場の左隣は立合宿跡。ここは立合人が詰める場所で、川越しを待つ旅人を番宿や渡し場まで案内した。

立合宿の左隣、仲間の宿。川越人足の長老が集まった場所で、仕事上の意見交換や親交の場に使われたという。今で言う町内の集会所みたいな感じか。

仲間の宿に展示する川越人足が履いた”権三わらじ”。草鞋の縁に紐を通し、川越え中に小石や砂利が挟まっても手を使わずに取り除く工夫がされていた。

ニ番宿(左)と十番宿(右)。

十番宿では川越人足がくつろぐ。

十番宿内部。今にもいかつい川越人足が威勢よく入ってきそう。

三番宿では川越人足が仁王立ち。

三番宿より川越し場の町並み。

島田市博物館分館となっている旧桜井邸。

旧桜井邸は明治23年(1890年)建築の邸宅。明治期に桜井さんは相当な資産家だったことがうかがえよう。

旧桜井邸の向かいに六番宿。

旧桜井邸より川越場の町並み。

川越し場の雰囲気を存分に感じながらの散策は楽しい。

六番宿の裏手にある”橋下仲間の井戸”。

川越し場を過ぎると、近くに特種東海製紙の工場がありパルプの独特な臭いが漂い始める。

川越し場東外れに聳える「黄鶴一聲天地秋」の大幟。

大村藩が参勤交代等の際に昼食や休憩に利用した塚本家。上段の間が現存するという。

大善寺前交差点。向島(島田市向島町)という街村の東外れにあたる。

大善寺前交差点北東角にある大善寺。ここの鐘が川越しの始まりと終わりを告げたとも。
金谷から大井川の対岸にあったのが島田宿川越し場。金谷側に比してこちらは多くの川越し場の遺構を残しており、”島田宿大井川川越遺跡”として昭和41年(1966年)国史跡に指定された。川会所をはじめ川越人足が待機する番宿等が往時の姿を留め、川越し場の雰囲気を存分に堪能できる。そんな見どころ満載の中で私の興味を惹いたのが島田大堤。江戸時代に向谷水門下(島田市向谷)から道悦島村境(島田市高島町)の三一五〇間(約5733m)に渡って築かたこの大堤は、大半が取り壊され消失ているものの、大井川橋東袂から島田川越し場にかけての約540mにかけて、ほぼ原形を留めて残存し見るべきものがある。現在内側に堤防があるため無用の長物と化しているにもかかわらず、よくぞ取り壊されずに今に至ったものだと感心。長らく島田の町を水害から守ってきたことに地元の方が畏敬の念を抱き、今日まで保護してきてくれたのだろう。

島田宿側、大井川渡し跡にあたる河川敷。往時は小石を敷き詰める河原か、大井川の流路だったのだろうが、広々と整備された河川敷に化して川の水が見えない。

堤防から東へ延びる旧東海道、ここから島田宿川越し場へ入ってゆく。

島田宿川越し場の入口にある朝顔目明観音と川除地蔵、あさがほ蛍のお堂。
江戸時代に朝顔という盲目の三味線芸者がいた。かつて恋仲だった阿曽次郎という武士を思い続け、運命の悪戯か偶然に島田宿で行き違う。急ぎの所用で訪れた次郎、そして盲目の朝顔は互いに気付くことができず、後に次郎がいたことを朝顔は知らされ追いかける。しかし運悪く大井川は川止め、半狂乱となって激流の大井川を渡ろうとするが、戎屋という宿屋の主人に諫められ、一命をとりとめた。その犠牲的行為によって朝顔は視力を回復、初めて目に映ったのが一本の大きな松で、これを朝顔の松と呼ぶようになったとう。朝顔の松は昭和10年(1935年)に枯死、これを偲んでお堂を建て、朝顔の松を使って木碑を作り安置している。現在のお堂は平成16年(2004年)再建。

島田市博物館。ここで島田宿や川越し場の散策前に少しだけ勉強しておきたい。

島田市博物館横、大井川方向の旧東海道。かつては河原だったはずの場所で、旅人が川越人足の肩車や連台から乗降していた辺りと思われる。

八重枠稲荷神社。川越人足の安全を祈願して宝暦10年(1760年)に建立されたといわれる。社殿は文化9年(1812年)と明治34年(1901年)に修繕、基礎部分の石積みだけは建築当時のもので、河原の石を拾い亀甲型に積まれている。

七番宿跡(右手前)と一番宿(左手前)。川越し場西端の番宿が一番宿で、その先に”せぎ”(堰のこと)があり、渡し場へと続いた。

七番宿は更地に。

現在の五番宿は住宅になっている。一番・五番・七番宿は島田大堤の内側、川に最も近いところにあった。

川越し場の町並みもさることながら、私が最も見応えを感じたのがこの島田大堤。残念ながらここで途絶えてしまっているが、江戸時代には向谷水門下(島田市向谷)から道悦島村境(島田市高島町)の三一五〇間(約5733m)に渡り築かれていた。

島田大堤は川越し場から大井川東詰にかけての約540mにかけ、堤上がアスファルトに舗装されながらも、ほぼ原形を留めて残存している。大井川がいかに暴れ川だったかを今に物語ろう。

大井川の水量で川越賃銭を決め、徴収などの業務を行った川会所。安政2年(1855年)の地震で倒壊し、翌年に再建。当初は札場の向かいにあったが、昭和45年(1970年)現在地へ移された。現存する川会所は地震後に再建された建物を復元したもの。

大井川を渡河する旅人はここで川札(川越えの切符)を購入して渡し場に向かった。

川札は川の水量で値段が決められた。最も安いのが股通の四十八文(約1440円)、脇まで水量がある脇通の九十四文(約2820円)が最も高く、更に水量が多くなると川止めとなる。

川会所には川庄屋や年行事といった役人が詰め、川越し場の管理運営にあたった。

川会所内部。

川会所に展示される様々な連台。半高欄連台は上級武士や婦人などを乗せた。

大名持ちの大高欄連台。大名を駕籠に乗せたまま川を渡すことができた。

島田宿川越し場の休憩処、川越茶屋。

川札の換金所だった札場。

それぞれの番宿には川札を回収する陸取り(おかどり)という世話人がおり、陸取りは集めた川札をここに持ち込み現金に換えていた。

札場より望む川越し場の町並み。かつて札場の向かいには川会所があった。

札場の左隣は立合宿跡。ここは立合人が詰める場所で、川越しを待つ旅人を番宿や渡し場まで案内した。

立合宿の左隣、仲間の宿。川越人足の長老が集まった場所で、仕事上の意見交換や親交の場に使われたという。今で言う町内の集会所みたいな感じか。

仲間の宿に展示する川越人足が履いた”権三わらじ”。草鞋の縁に紐を通し、川越え中に小石や砂利が挟まっても手を使わずに取り除く工夫がされていた。

ニ番宿(左)と十番宿(右)。

十番宿では川越人足がくつろぐ。

十番宿内部。今にもいかつい川越人足が威勢よく入ってきそう。

三番宿では川越人足が仁王立ち。

三番宿より川越し場の町並み。

島田市博物館分館となっている旧桜井邸。

旧桜井邸は明治23年(1890年)建築の邸宅。明治期に桜井さんは相当な資産家だったことがうかがえよう。

旧桜井邸の向かいに六番宿。

旧桜井邸より川越場の町並み。

川越し場の雰囲気を存分に感じながらの散策は楽しい。

六番宿の裏手にある”橋下仲間の井戸”。

川越し場を過ぎると、近くに特種東海製紙の工場がありパルプの独特な臭いが漂い始める。

川越し場東外れに聳える「黄鶴一聲天地秋」の大幟。

大村藩が参勤交代等の際に昼食や休憩に利用した塚本家。上段の間が現存するという。

大善寺前交差点。向島(島田市向島町)という街村の東外れにあたる。

大善寺前交差点北東角にある大善寺。ここの鐘が川越しの始まりと終わりを告げたとも。

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