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島田宿大井川川越遺跡

【2016年10月8日(土)旧東海道 金谷宿→島田宿】
金谷から大井川の対岸にあったのが島田宿川越し場。金谷側に比してこちらは多くの川越し場の遺構を残しており、”島田宿大井川川越遺跡”として昭和41年(1966年)国史跡に指定された。川会所をはじめ川越人足が待機する番宿等が往時の姿を留め、川越し場の雰囲気を存分に堪能できる。そんな見どころ満載の中で私の興味を惹いたのが島田大堤。江戸時代に向谷水門下(島田市向谷)から道悦島村境(島田市高島町)の三一五〇間(約5733m)に渡って築かたこの大堤は、大半が取り壊され消失ているものの、大井川橋東袂から島田川越し場にかけての約540mにかけて、ほぼ原形を留めて残存し見るべきものがある。現在内側に堤防があるため無用の長物と化しているにもかかわらず、よくぞ取り壊されずに今に至ったものだと感心。長らく島田の町を水害から守ってきたことに地元の方が畏敬の念を抱き、今日まで保護してきてくれたのだろう。




大井川渡し跡
島田宿側、大井川渡し跡にあたる河川敷。往時は小石を敷き詰める河原か、大井川の流路だったのだろうが、広々と整備された河川敷に化して川の水が見えない。


島田宿川越し場跡
堤防から東へ延びる旧東海道、ここから島田宿川越し場へ入ってゆく。


朝顔目明観音・川除地蔵・あさがほ蛍
島田宿川越し場の入口にある朝顔目明観音と川除地蔵、あさがほ蛍のお堂。

江戸時代に朝顔という盲目の三味線芸者がいた。かつて恋仲だった阿曽次郎という武士を思い続け、運命の悪戯か偶然に島田宿で行き違う。急ぎの所用で訪れた次郎、そして盲目の朝顔は互いに気付くことができず、後に次郎がいたことを朝顔は知らされ追いかける。しかし運悪く大井川は川止め、半狂乱となって激流の大井川を渡ろうとするが、戎屋という宿屋の主人に諫められ、一命をとりとめた。その犠牲的行為によって朝顔は視力を回復、初めて目に映ったのが一本の大きな松で、これを朝顔の松と呼ぶようになったとう。朝顔の松は昭和10年(1935年)に枯死、これを偲んでお堂を建て、朝顔の松を使って木碑を作り安置している。現在のお堂は平成16年(2004年)再建。


島田市博物館
島田市博物館。ここで島田宿や川越し場の散策前に少しだけ勉強しておきたい。


大井川渡し跡
島田市博物館横、大井川方向の旧東海道。かつては河原だったはずの場所で、旅人が川越人足の肩車や連台から乗降していた辺りと思われる。


八重枠稲荷神社
八重枠稲荷神社。川越人足の安全を祈願して宝暦10年(1760年)に建立されたといわれる。社殿は文化9年(1812年)と明治34年(1901年)に修繕、基礎部分の石積みだけは建築当時のもので、河原の石を拾い亀甲型に積まれている。


一番宿跡
七番宿跡(右手前)と一番宿(左手前)。川越し場西端の番宿が一番宿で、その先に”せぎ”(堰のこと)があり、渡し場へと続いた。


七番宿跡
七番宿は更地に。


五番宿
現在の五番宿は住宅になっている。一番・五番・七番宿は島田大堤の内側、川に最も近いところにあった。


島田大堤
川越し場の町並みもさることながら、私が最も見応えを感じたのがこの島田大堤。残念ながらここで途絶えてしまっているが、江戸時代には向谷水門下(島田市向谷)から道悦島村境(島田市高島町)の三一五〇間(約5733m)に渡り築かれていた。


島田大堤
島田大堤は川越し場から大井川東詰にかけての約540mにかけ、堤上がアスファルトに舗装されながらも、ほぼ原形を留めて残存している。大井川がいかに暴れ川だったかを今に物語ろう。


川会所
大井川の水量で川越賃銭を決め、徴収などの業務を行った川会所。安政2年(1855年)の地震で倒壊し、翌年に再建。当初は札場の向かいにあったが、昭和45年(1970年)現在地へ移された。現存する川会所は地震後に再建された建物を復元したもの。


川会所
大井川を渡河する旅人はここで川札(川越えの切符)を購入して渡し場に向かった。


川会所
川札は川の水量で値段が決められた。最も安いのが股通の四十八文(約1440円)、脇まで水量がある脇通の九十四文(約2820円)が最も高く、更に水量が多くなると川止めとなる。


川会所
川会所には川庄屋や年行事といった役人が詰め、川越し場の管理運営にあたった。


川会所
川会所内部。


半高欄連台
川会所に展示される様々な連台。半高欄連台は上級武士や婦人などを乗せた。


大高欄連台
大名持ちの大高欄連台。大名を駕籠に乗せたまま川を渡すことができた。


川越茶屋
島田宿川越し場の休憩処、川越茶屋。


札場
川札の換金所だった札場。


札場
それぞれの番宿には川札を回収する陸取り(おかどり)という世話人がおり、陸取りは集めた川札をここに持ち込み現金に換えていた。


札場
札場より望む川越し場の町並み。かつて札場の向かいには川会所があった。


立合宿跡
札場の左隣は立合宿跡。ここは立合人が詰める場所で、川越しを待つ旅人を番宿や渡し場まで案内した。


仲間の宿
立合宿の左隣、仲間の宿。川越人足の長老が集まった場所で、仕事上の意見交換や親交の場に使われたという。今で言う町内の集会所みたいな感じか。


権三わらじ
仲間の宿に展示する川越人足が履いた”権三わらじ”。草鞋の縁に紐を通し、川越え中に小石や砂利が挟まっても手を使わずに取り除く工夫がされていた。


ニ番宿・十番宿
ニ番宿(左)と十番宿(右)。


十番宿
十番宿では川越人足がくつろぐ。


十番宿
十番宿内部。今にもいかつい川越人足が威勢よく入ってきそう。


三番宿
三番宿では川越人足が仁王立ち。


島田宿川越し場
三番宿より川越し場の町並み。


島田市博物館分館・桜井邸
島田市博物館分館となっている旧桜井邸。


島田市博物館分館・桜井邸
旧桜井邸は明治23年(1890年)建築の邸宅。明治期に桜井さんは相当な資産家だったことがうかがえよう。


六番宿
旧桜井邸の向かいに六番宿。


島田宿川越し場
旧桜井邸より川越場の町並み。


島田宿川越し場
川越し場の雰囲気を存分に感じながらの散策は楽しい。


橋下仲間の井戸
六番宿の裏手にある”橋下仲間の井戸”。


旧東海道 島田市河原
川越し場を過ぎると、近くに特種東海製紙の工場がありパルプの独特な臭いが漂い始める。


黄鶴一聲天地秋
川越し場東外れに聳える「黄鶴一聲天地秋」の大幟。


塚本家
大村藩が参勤交代等の際に昼食や休憩に利用した塚本家。上段の間が現存するという。


大善寺前交差点
大善寺前交差点。向島(島田市向島町)という街村の東外れにあたる。


大善寺
大善寺前交差点北東角にある大善寺。ここの鐘が川越しの始まりと終わりを告げたとも。


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島田大祭帯祭り

【2016年10月8日(土)旧東海道 島田宿】
元禄8年(1695年)に始まったとされる大井神社の祭礼、島田大祭。俗に”帯祭り”とも呼び親しまれる。その昔、島田に嫁いできた女性は、安産祈願に大井神社に参詣した後、お披露目に宿場内を練り歩くのが慣わしだった。それを不本意に思う花嫁もいたのだろう、見世物にされることを不憫に思った男性が、花嫁の帯を太刀に掛け代わって宿内を練り歩くようになったという。これが大奴(おおやっこ)のはじまりで帯祭りと呼ばれる所以。その大奴の姿と歩く様が奇抜なため、日本三奇祭の一つに数えられる。3年に1度だけ開催される島田大祭は本年(2006年)が108回目、10月8日から10日までの3日間にわたり開催され、私が訪れた当日は御本祭前日の御夕祭。第一街~第五街の屋台がお囃子を鳴り響かせながら運行され、所々で上踊(屋台で披露される地元の子供による踊り)と地踊(屋台に従って披露される数百人による踊り)を披露。 そんな賑わいの中、旧東海道筋の片岡医院では静寂に包まれ大奴25人衆のお門入が行われていた。




旧東海道 島田市本通1丁目
島田宿に近づくにつれ祭りの雰囲気に。


第一御中老本部
島田大祭の第一御中老本部。


島田宿京方入口
大井神社境内前、島田宿西(京方)出入口の枡形跡。


大井神社
旧東海道に面する大井神社境内入口。


大井神社境内
大井神社境内。3年に1度の島田大祭、出店が並び見物客を待つ。


大井神社拝殿
大井神社拝殿。


大井神社
境内に水を湛える御神池。大井神社は大井川の水を鎮めるため建立された神社といわれ、水の神である弥都波能売神 (みつはのめのかみ)をはじめ、 土の神の波邇夜須比売神 (はにやすひめのかみ) 、日の神の天照大神 (あまてらすおみかみ)を祭神に祀る。三祭神が女神であることから、安産にご利益がある神社として古くから信仰されてきた。


大奴像
境内には大奴の銅像も。


第一街屋台
島田宿内へ。第一街の屋台が出発直前。


島田宿
本日は車両通行止、旧東海道のど真ん中を堂々と闊歩しよう。


島田宿
宿内は祭りの見物客で賑わう。


第五街屋台
地踊りに先導される第五街の屋台。


第五街屋台
黄昏の空の下、第五街の屋台が曳かれる。


島田宿一里塚跡
宿内にある島田宿一里塚跡。


中村菓子舗
中村菓子舗。ここで小腹がすいたときにと、川越饅頭を購入しておく。


片岡医院お門入り
大奴25人衆による片岡医院お門入り。


片岡医院お門入り
静寂の中、ゆっくりと厳かに大奴が片岡医院に入ってくる。


第二街屋台
第二街の屋台。


第二街屋台
威勢いい掛け声のもと、多くの氏子たちに曳かれる第二街の屋台。


第四街屋台
第四街の地踊りを先導にして華やかに屋台が現れた。


鹿島踊り
県指定無形文化財の島田鹿島踊を披露する子供たち。


鹿島踊り
鹿島踊は延宝年間(1673年~81年)に、大井神社に春日神社を祀り、疫病退散を願い踊り始めたことに起源があるという。踊り子四役(三番叟・お鏡・太鼓・ササラ)がそれぞれ違う形で同時に踊る。


第五街屋台
第五街の氏子たちが屋台を懸命にけん引。


第五街屋台
屋台ではお囃子が奏でられ祭りを盛り上げる。


第四街屋台
第四街の屋台では可愛らしい踊り子が上踊(長唄屋台踊り)を披露。


第三街屋台
第三街の屋台。なかなか様になってます。


第三街屋台
大人顔負けの妖艶さ。


第二街屋台
最後は第二街の屋台を見て。


川越饅頭
川越饅頭をいただきましょう。


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島田宿

【旧東海道歩き 第24日目】ホテルセレクトイン島田駅前→島田宿→藤枝宿→上伝馬停留所



【2016年10月9日(日)旧東海道 島田宿】
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東海道五十三次之内嶋田 大井川駿岸
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「島田宿」より引用


島田大祭御本祭当日の10月9日、前日に行われた御夕祭の余韻を残しつつも島田宿は静かに雨模様の朝を迎える。人もまばらな宿内を散策しつつ、11:40正午から始まる大名行列を見物してから次の藤枝宿へ向かうことに。それまで時間が空いたので、午前中は世界一長い木造歩道橋の蓬莱橋を渡ってみることにした。蓬莱橋については追記に書くとして、まずは島田宿から。

島田宿は江戸日本橋から東海道五十三次を23宿目、京都三条大橋から31宿目、駿河国の西側入口にあたる宿場。大井川が増水で川止めともなると、行き場を失った京方面への旅人は島田宿に留まるしかなく、旅籠や遊興場はそんな旅人相手に随分と繁盛したらしい。天保14年(1843年)当時、町並み長さ東西9町40間(約1053m)、人口6727人、家数1461軒、うち本陣3、脇本陣0、旅籠屋48軒。本陣は村松九郎次家(上本陣)、大久保新右衛門家(中本陣)、置塩藤四郎家(下本陣)の三家が務めた。名物は小饅頭。江戸時代に若い娘たちに人気の髪結い”島田髷”を考案した遊女”虎御前”の出身地と伝わり、島田髷発祥の地とされる。島田髷の派生から更に発展したのが”文金高島田”、今も神前結婚式で新婦の髪型に見られ、現代人には最もなじみ深い日本髪だろう。毎年9月の第3日曜日に島田髷祭りが行われている。




大井神社
まずは早朝の大井神社に参拝。


大奴と鹿島踊三番叟の銅像
大奴と鹿島踊三番叟の銅像。3年に1度しか開催されない島田大祭だけに、実際の踊りを見ることができたのは、つくづくよかった。


大井神社境内
大井神社境内にて。


大井神社の神橋
境内にある神橋。石の太鼓橋は神輿が渡る神橋で、正徳3年(1713年)造営。両脇の平橋は安政3年(1856年)川越連中が奉納した。


帯塚
安産祈願に使用済の帯を奉納した帯塚。


宿西入口枡形跡
境内入口前は宿西入口の見付跡。街道南側(写真正面の民家辺り)に枡形が設けられていた。


正覚寺
西見付跡の南側にある正覚寺。


正覚寺小路
正覚寺より本通りに向かって延びる正覚寺小路。左手民家が枡形跡。


島田宿
大通りと駅西通りの交差点。駅西通りは面影なないが宮小路と半十郎小路の名残。南西角に江戸後期に島田随一の素封家、桑原家があった。四代目の伊右衛門宣之は画人であり、隠居後に地誌「駿河記」を著す。


大村屋
大村屋酒造場。屋根上には鬼がでんと構える。”若竹鬼ころし”、”おんな泣かせ”が代表銘柄。


島田宿
前日の賑わいが嘘のように静かな朝を迎える。


島田宿
ブルーシートに覆われる屋台。何番街の屋台だろうか。


塚本如舟屋敷跡
塚本如舟屋敷跡(現 静岡銀行島田支店)。塚本家は代々孫兵衛を名のり、元禄9年(1696年)から川庄屋を任命され、六代目からは問屋を務めるなど、代々宿役人を務めてきた家。三代目は”如舟”と号して俳諧を嗜み、松尾芭蕉と親交があった。元禄4年(1691年)と元禄7年(1694年)に芭蕉がここに宿泊している。


上本陣・中本陣跡
塚本家の向かいには、村松九郎次家(上本陣)と大久保新右衛門家(中本陣)が並び建っていた。


中本陣跡
中本陣・大久保新右衛門家跡の一角、天野屋呉服店。


下本陣跡
下本陣・置塩藤四郎家跡。


問屋場跡
問屋場跡(写真左手)。現在はマンション建設中。


林入寺小路
林入寺に向かって延びる林入寺小路。宿場時代の建物が残っていない島田宿では、こういった小路に往時の面影を見るしかない。


島田大祭ポスター
島田大祭の案内ポスター。


片岡医院
昨日、大奴のお門入りが行われた片岡医院。


島田宿一里塚跡
島田宿一里塚跡。両塚とも現存しないが、跡地に解説板を置く。江戸日本橋から52里目(約204km)、京三条大橋からは63番目で実測約308km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。


島田宿
ここで島田宿をいったん離れ、蓬莱橋へ向かう。

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島田大祭大名行列

【2016年10月9日(日)旧東海道 島田宿】
島田大祭の見どころの一つ、大名行列。江戸時代には島田御陣屋の代官が供奉していたが、寛政6年(1794年)に御陣屋が駿府に統合されてからは、島田宿の有力家から子供を出して大名役を務めるようになったという。明治になり静岡藩島田十万石支配所が置かれて以来、十万石の格式で大名行列が仕立てられるのが慣わしになった。御本祭当日の大名行列は11:40に七丁目東バス停前を出発 、私は一里塚跡付近で待ち構えて見物することに。お先触・御先騎・大奴・大鳥毛・御殿様と続き、最後に葛籠馬を引き締めくくられる絢爛豪華な大名行列、3年に1度しか見られないと思ったら、見る方も気が引き締まる。




大名行列・お先触
大名行列の先頭、お先触がやってきた。


大名行列・お先触
拍子木を打ち鳴らし、「下にー、下にー」と触れを出しながら進む。


大名行列・お長柄
お長柄の列が続き。


大名行列・御先騎
先陣をきる侍大将の御先騎が登場。


大名行列・御先騎
馬上の御先騎は幼いながらも凛々しい表情。


大名行列・稚児行列
赤鉄砲と黒鉄砲の稚児行列。


大名行列・稚児行列
いやはや、可愛らしい鉄砲隊です。


大名行列・御弓と具足
御弓・具足が続く。


大名行列・御先騎
そして御先騎の二人目。


大名行列・御先騎
陣笠の家紋が「丸に橘」のように見える。これは井伊氏の家紋で、来年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」にあやかったものでは、さすがに考え過ぎか…。


大名行列・御先騎
御先騎が過ぎ去り。


大名行列・大奴
行列の花形、大奴25人衆が登場。


大名行列・大奴
奇抜ないで立ちと歩き方、奇祭と言われるにふさわしい。


大名行列・大奴
大奴25人衆が過ぎ去り。


大名行列・大鳥毛
大奴の後に続くのは大鳥毛。


大名行列・大鳥毛
本来の大名行列における大鳥毛は、鳥の羽毛やヤクの尾毛を染めて飾った長槍の鞘を指し、大名の威厳を示す役割を持っていた。天空の邪気を払い世に平和をもたらすものとされる。


大名行列・大鳥毛
大鳥毛を持って疾走。


大名行列・御殿様
御殿様の御一行。


大名行列・御殿様
御殿様の具足。


大名行列・御殿様
台弓と打物。


大名行列・御殿様
お鷹と餌差。


大名行列・御殿様
唄方が続く。


大名行列・御殿様
満を持して御殿様が登場。幼いながらも凛とした顔つきに殿さまの貫録十分。


大名行列・御殿様
殿様に台傘・槍持・挟箱が従い。


大名行列・葛籠馬
大名行列の殿(しんがり)は葛籠馬。背の両側につづらをつけた馬で、約60kgの荷を背負っている。


大名行列・葛籠馬
白馬に絢爛な荷物、とにかくありがたい。


大名行列・葛籠馬
去りゆく葛籠馬。大名行列はこれで終い。


東見付跡
大名行列の賑わいが嘘のように静かな東見付跡へ。ここが島田宿江戸方出入口。


旧東海道 島田市御仮屋町
島田宿東外れ、御仮屋町の旧東海道。島田大祭のため車両は通行止め。そこには見張り番の人たちが。華やかな祭りの裏には、こういった方々の働きがあるのだ。


大井神社御旅所
御仮屋町に設ける大井神社御旅所。御仮屋町は江戸時代には”下島”という地名だったが、御旅所が設けられることから現地名に。御旅所は旭町の大工が1日で建てるといい、正に一夜城ならぬ一夜御旅所。大祭最終日に大井神社からここまで神輿渡御の”お渡り”が行われる。


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瀬戸の染飯

【2016年10月9日(日)旧東海道 島田宿→藤枝宿】
染飯02
瀬戸の染飯(土山宿東海道伝馬館にて撮影)

島田宿東見付を出て大津谷川(栃山橋)を渡り、道悦島(栃山)を過ぎれば島田市から藤枝市へ入る。旧東海道両脇に松並木の名残りを見つつ瀬戸橋(東光寺谷川)を渡り、三軒屋(現 藤枝市上青島)の集落に。更に少し歩みを進めれば旧瀬戸(青島)立場に着く。瀬戸には染飯という道中食を旅人相手に出して商う茶屋が多くあり、藤枝宿の名物とされた。染飯は蒸したもち米をクチナシの実で黄色く染め、すり潰したものを小判形にして干し乾かすと出来上がり。東海道名所記には次のように紹介している。

「ここハ、さかなおほし、茶屋あり 瀬戸の染飯ハ、此所の名物なり。そのかたち、小判ほどにして。こハめしに、山梔子をぬりたり、うすきもの也、男 染飯は黄色なりけりたび人はあはぢの瀬戸とここをいふべきと、よミ侍べり。まことに、粟飯ハ黄なるものなれば、かくよみけるにや」

現在は瀬戸の立場跡でこれを食することはできないが、藤枝駅前にある喜久屋という弁当屋があり、染飯を再現して販売している。
喜久屋
http://kikuya-f.co.jp/




監物橋
島田宿を後にして、本通り(旧東海道)から県道381号に合流。御仮屋町歩道橋下に架かる監物橋。寛永12年(1635年)から田中藩主となった水野監物忠善は志太郡一帯を支配、栃山川(大津谷川)以東の村々の水不足を解消するため、大井川から栃山川にかけて水路を開削して水を引き入れた。村人はその功績を称え水路を監物川と呼び、東海道に架けられた橋を監物橋と名付けたという。


栃山橋と大津谷川
御仮屋町と阿知ケ谷・道悦の境をなす栃山橋と大津谷川。


県道381号 島田市道悦
分離帯に「夢舞台・東海道 道悦島」の道標。


道悦島西交差点
道悦橋西交差点で県道から旧東海道(左直進方向)が分かれる。


栃山バス停
阿知ケ谷の旧東海道筋にある栃山バス停。かつて栃山と称した地名の名残り。


旧東海道 島田市阿知ケ谷・道悦
阿知ケ谷・道悦に残る旧東海道。この先で再び県道に合流。


県道381号 島田市阿知ケ谷・道悦
阿知ケ谷・道悦を行く県道381号。右手に”魚一”という割烹料理屋がある。


道悦5丁目の旧商店
道悦5丁目の県道381号沿いの旧商店。店構えに目が留まったので。


島田・藤枝市境
島田市と藤枝市の境。先に松並木が見える。


ラーメンショップ島田店
松並木の裏に現代の茶屋の如くラーメンショップ島田店があり。島田店といってもここは藤枝市なのだが…。


上青島の松並木
ラーメンショップ前に残る東海道松並木。


上青島の松並木
一里山交差点で県道を分かれた旧東海道。往時を偲ぶ松並木が続く。


上青島一里塚跡
松並木の中に上青島一里塚跡。両塚とも現存せず。


上青島一里塚跡
上青島一里塚は江戸日本橋から51里目(約200km)、京三条大橋からは64番目で実測約312km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。


上青島の名残松
上青島旧東海道筋に松並木の名残りを。


瀬戸橋西(三軒屋)バス停
瀬戸橋西(三軒屋)バス停。


瀬戸橋
東光寺谷川に架かる瀬戸橋。かつて瀬戸橋東詰の街道筋は、三軒屋と呼ばれる集落を形成していた。


東光寺谷川と三軒屋の八幡宮
東光寺谷川と三軒屋の八幡宮。


青島酒造
喜久醉の酒樽を積み杉玉を吊るす青島酒造。


青島酒造
青島酒造は江戸時代中期の創業、ここ青島の地で長らく酒造りを続けてきた老舗。「喜久醉」が代表銘柄。


青島酒店
青島酒造の旧東海道を挟んで斜向かい、青島酒店。


青島の松並木
上・下青島に残る松並木。


青島の松並木
松並木の根元には土盛りの名残も。


育生舎跡
明治7年(1874年)青島地区に開校した育生舎跡。上青島村の庄屋、小沢家の所有地だった。


染飯茶屋跡
下青島の旧東海道筋にある染井茶屋蹟の標石と解説板。


瀬戸(青島)立場
旧瀬戸(青島)立場。往時に北側は瀬戸山という丘陵地で、その山裾を東海道が通り、沿道に染飯を出す茶屋が軒を連ねていた。現在の瀬戸山(写真右手)は開削されて消滅、茶屋を偲ぶような建物も残っておらず、往時の景観とは随分と異にしてしまったようだ。今はここで染飯を食べることはできないが、藤枝駅前にある喜久屋という弁当店で染飯を再現して販売しており、今も染飯の味だけは守られている。


千貫堤
下青島に残る千貫堤。寛永12年(1635年)田中藩主の水野監物忠善は、大井川の水害から領内を守るため、瀬戸山から南方の藤五郎山(現在は消滅)を挟み、本宮山(正泉寺)にかけて高さ3.6m、幅2.9mの堤防を築かせた。その築造費用が一千貫かかったことが、千貫堤と呼ばれる所以。往時に約360mの長さがあったが、現在は約40mを残すのみ。


千貫堤・瀬戸染飯伝承館
千貫堤上にある千貫堤・瀬戸染飯伝承館。瀬戸立場や千貫堤に関する展示をしており、旧東海道歩きの際には是非とも立ち寄ってほしいところ。


延命地蔵堂
旧瀬戸立場の東外れ、延命地蔵堂と瀬戸古蹟群供養塔碑。延命地蔵堂はかつてこの辺りにあった無縁寺の名残りと思われる。


瀬戸(青島)立場
旧瀬戸立場北側の瀬戸山は均されてカインズモールの敷地に。


下青島の松並木
旧瀬戸立場を出れば下青島のちょっとした松並木。


古東海道の追分
下青島にある古東海道の追分。写真直進の小路が藤枝方向の古東海道。中世の瀬戸新屋や水上辺りは湿地帯で、水上池(現在は消滅)という大きな池があり、当時の東海道は島田から瀬戸山を越え、水上池を避けて東へ大きく迂回するルートだった。江戸時代に干拓が進んで東海道が瀬戸新屋を通るようになり、新旧の東海道が分かれるここを追分と呼ぶようになったという。


鏡池堂
六地蔵尊を安置する鏡池堂。駿河国二十四番札所第九番に指定される古くからの霊場。ここの六地蔵尊は鏡ヶ池(現在は消滅)から出現、承安3年(1171年)鏡ヶ池の畔に建てられた草庵に祀られたのがはじまりという。それから約500年後の正徳3年(1713年)、この地を治める大草太郎左衛門が六地蔵尊に祈願して世継ぎを授かり、感謝の意から「鏡池堂六地蔵尊」と名付けた堂宇を建築して寄進、六地蔵尊を移して奉安したと伝わる。


鏡池堂の六地蔵石像
境内には新旧の六地蔵尊を彫る石仏が見られる。


瀬戸新屋の松並木
瀬戸新屋に残る松並木。


瀬戸新屋の松並木
道の両側に松並木が残っている所は、道幅も江戸時代と変わらないはず。


田中藩領牓示石蹟
瀬戸新屋にある田中藩領牓示石蹟。かつての瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組み、その境界を示す「従是西田中藩領」榜示石がここに設けられていた。


南新屋の津島神社
南新屋の旧東海道沿いに鎮座する津島神社。


南新屋古東海道追分
南新屋の古東海道追分。下青島で分かれた古東海道は、南新屋会館(東泉寺跡)の南側を通り、この辺りで合流していたようだ。


旧東海道 南新屋
南新屋を行く旧東海道。


青木交差点
青木交差点(青木五叉路)。


青木交差点付近の名残松
青木交差点付近の名残松。


岡野繁蔵出生地の標石
岡野繁蔵出生地の標石。この御方は明治27年(1889年)青島村(明治22年に上青島村・下青島村・南新屋村等の周辺11ヶ村が合併して発足)に生まれ、21才でスマトラ島に渡り雑貨貿易商として成功、スラバヤに千代田百貨店を経営した。太平洋戦争でやむなく日本へ引き揚げることになるが、「裸一貫から南洋のデパート王」へ登り詰めたここ青島の偉人。


稲川橋
内瀬戸谷川に架かる稲川橋。


旧東海道 志太
稲川橋を渡れば志太の町並み。


旧東海道 志太
”しずおか信用金庫志太支店”前を行く旧東海道。


八百屋本陣
志太3丁目の旧東海道沿いにある八百屋本陣。

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為善館
八百屋本陣隣りの民家敷地に為善館跡の標石と解説板がある。為善館は明治6年(1873年)に志太村に創設された学校。現在の青島小学校(藤枝市下青島)の前身。


志太一里塚跡
勝草橋南袂にある志太一里塚跡。江戸日本橋から50里目(約196km)、京三条大橋からは65番目で実測約316km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。


志太一里塚跡
志太一里塚は両塚とも現存しないが、その跡地を示す標石と共に、常夜燈と秋葉神社が設けられている。


勝草橋
勝草橋を渡れば藤枝宿に。


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ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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