指宿枕崎線の全線乗車を終えて”かごしまプラザホテル天文館”にチェックイン、鹿児島の歓楽街である天文館で少々夜遊びを楽しんだ翌日、ホテルからぶらぶらと歩きながら鹿児島城下を散策する。甲突川左岸の加治屋町は西郷隆盛や大久保利通をはじめ、西郷従道、大山巌、村田新八、東郷平八郎、黒木為楨といった明治維新の原動力となる多くの偉人を輩出した。”孟母三遷の教え”とは、まさにこういうことであろう。来年(2018年)の大河ドラマは「西郷どん」、一足早く西郷隆盛ゆかりの地を訪ねてみることに。

鹿児島中央高校の敷地東南辺に「篠原国幹誕生之地」碑がある。戊辰戦争では薩摩三番小隊長として活躍し、明治5年(1872年)陸軍少尉となる。征韓論に敗れた西郷隆盛に従い鹿児島へ戻り私学校の設立に尽力、子弟の養成に励むべく監督に就任した。西南戦争で薩軍の一番隊長を任され、田原坂で官軍と激戦の末に銃弾に倒れた。

篠原国幹誕生之地から鹿児島中央高校敷地東南辺を60m程西、「井上良馨誕生之地」碑がある。

井上良馨は明治期に元帥まで上り詰めた海軍の軍人。19歳の時に薩英戦争(1863年)に参加、沖ノ島砲台で英軍に応戦して初陣を飾り、戊辰戦争では軍艦「春日」に乗りくんで,阿波沖から,奥州、箱館と転戦した。明治7年(1874年)砲艦「雲揚」の艦長に就任、翌年に江華島で朝鮮との武力衝突(江華島事件)が起こっている。西南戦争では国産第1号の軍艦「清輝」の艦長として鹿児島湾入り。後の日清・日露戦争では佐世保や横須賀、呉等で鎮守府司令長官を歴任し、戦後に軍事参議官、明治44年(1911年)元帥に叙せられた。

鹿児島中央高校敷地東南隅、ここには”村田新八誕生之地”碑。村田新八は幼少時代から西郷隆盛を兄として慕い、戊辰戦争では西郷が東征大総督府の下参謀に就くと二番小隊長を任され、上野戦争、白河奪還戦、二本松戦から会津若松城攻囲戦へ参戦した。戊辰戦争が終結すると岩倉使節団の一員に加わり欧米諸国を視察。帰国して西郷が鹿児島に下野したことを知り、自らも職を辞して帰郷し、西南戦争では薩軍の二番大隊指揮長を任される。熊本城や田原坂、安政橋口を転戦し奮闘するも、明治政府軍の城山総攻撃の日に西郷の最期を見届けてから自刃した。

維新ふるさと館入口交差点の南西角にある「吉井友実誕生之地」碑。吉井友実は精忠組の中心人物として尊王討幕運動を推進、薩長連合の成立に尽力した。戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦いでは自ら兵を率いて旧幕府軍と戦い、明治維新後は新政府にあって司法・民部・工部・宮内省の要職を歴任、明治14年(1881年)日本鉄道会社社長に就き、同17年(1884年)伯爵に叙せられる。同21年(1888年)枢密顧問官を兼任、同24年(1891年)63歳で死去した

鹿児島中央高校敷地北西辺の直線道はかつての二本松馬場。

二本松馬場沿道には東郷平八郎の生家があった。

東郷平八郎は15歳のときに薩英戦争(1863年)に初陣として従軍、世界と日本の力の差をまざまざと見せつけられ、海軍への道を志したという。戊辰戦争で軍艦春日丸に乗り組み新潟・箱館に転戦、維新後は海軍士官としてイギリスのポーツマスに留学し、帆船ハンプシャー号に乗り込んで世界一周を体験した。日清戦争では浪速艦長。日露戦争では連合艦隊司令長官として旅順港封鎖作戦を指揮し、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を全滅させ勝利に大きく貢献、”東洋のネルソン”と称され世界に名を知らしめた。

加治屋町の中心にある鹿児島中央高校。

鹿児島中央高校前には”元帥公爵 大山巌誕生之地”の大きな碑。

大山巌は下加治屋町の元気坊として育ち、青年期に過激派に属して寺田屋事件(1862年)により謹慎処分に。薩英戦争(1863年)に参加、スイカ売決死隊に加わり英旗艦ユーリアスに乗り込んだとも。戊辰戦争では鳥羽・伏見や会津などの各地を転戦、維新後は渡欧してジュネーヴに留学。西南戦争(1877年)では政府軍の攻城砲隊司令官として薩軍と戦う。日清戦争で陸軍大将、日露戦争では元帥陸軍大将に就いて満州軍総司令官を務め、奉天大会戦に勝利するなど、日本の勝利に大きく貢献。「陸の大山、海の東郷」と言われ、「ナポレオン以来の戦略家」」「ブルドックの如き猛将」「人格はグラント将軍、戦略はリー、ジャクソン両将軍に伍する」と、世界に名声を馳せた。

そしてここが西郷隆盛の誕生地。

文政10年(1827年)西郷隆盛はここ下加治屋町に生まれ、藩校造士館に学び、下加治屋町の郷中頭として、明治維新に活躍する多くの少年たちを指導した。2018j年の大河ドラマの主人公、生まれ育った地に来れたことで来年は大河ドラマを一味楽しく見れそうだ。

西郷隆盛誕生地にある”西郷従道邸庭園の庭石”。平成12年(2000年)東京都目黒区にあった従道の庭園跡が公園に整備されるに伴い、この庭石が鹿児島市に寄贈され従道の生誕地でもあるここに移された。

西郷従道は兄隆盛の15歳下の実弟。戊辰戦争に参加して各地を転戦。維新後は山県有朋とともに渡欧して兵制を視察、帰国後に兵部権大丞に就任した。兄隆盛が鹿児島へ下野した際には薩摩藩出身者の多くが従う中、従道は明治政府に残り兄と袂を分かつ。明治7年(1874年)に陸軍中将へ昇進、征討都督として台湾出兵を指揮。西南戦争(1877年)では従軍することなく東京に残り留守を守った。明治18年(1885年)初代海軍大臣に就任、海軍の拡張整備に尽力し、内務大臣や枢密顧問官などを経て初代海軍大将に就任、明治31年(1898年)海軍軍人として初めて海軍元帥に列せられた。

西郷隆盛誕生地近くにある維新ふるさと館。

維新ふるさと館を見学。薩摩藩伝統の郷中教育や明治維新の原動力となった偉人たちの歴史について学べる施設。

”西郷どん”と記念撮影。

篤姫(天璋院)コーナー。2008年の大河ドラマ「篤姫」で使われた衣装を展示している。

明治30年代頃から流行した”手合わせ歌”。全国各地に様々なバリエーションで歌い継がれ、西郷隆盛の娘が墓参りに行くという内容の歌詞。当時”西郷どん”が庶民にいかに人気があったことをうかがい知れよう。

薩摩藩下級武士の屋敷を再現した”二つ家”。屋外展示されている。

現地解説板より引用
二つ家の間取り。下加治屋町には70数戸の下級武士の屋敷があり、多くは座敷を中心として”おもて”と、台所等の日常生活に使う”なかえ”が、”樋の間”で繋ぐ住居形態だった。

二つ家玄関。

二つ家”おもて”の縁側。

維新ふるさと館を後にして南州橋に。

南州橋から甲突川の下流方向。

甲突川左岸から山之口馬場。

高麗橋から高見橋にかけての甲突川左岸は”維新ふるさとの道”として散策の道に。

高麗橋より南州橋を望み。

高麗橋南詰から”ナポリ通り”を少し東に行ったところに大久保利通誕生之地。

南州橋南詰付近、甲突川右岸には”高島鞆之助誕生地”。天保15年(1844年)高麗町(現 鹿児島市上之園町)に生まれる。戊辰戦争に従軍、西南戦争では別働第1旅団司令長官を務めた。明治16年(1883年)陸軍中将に昇進、後に陸軍大臣や枢密顧問官などを歴任した。

南州橋を渡って甲突川左岸に渡り、維新ふるさと館に戻って上流(北西)側へ。、維新ふるさと館のすぐ隣には”大久保利通生い立ちの地”。西郷隆盛の盟友、大久保利通は高麗町で生まれ、間もなくここ下加治屋町に移り育った。

甲突川左岸から二本松馬場。昔は正面に武大明神ヶ岡(武岡)が見え、その岡に二本の大きな松が生えていたことが道名の由来と云われる。

甲突川左岸から萩原小路(はっぐわらんしゅっ)。小路のことを鹿児島弁で「シュッ」と発音する。この小路は萩原家の屋敷があったことが由来とされる。

高見橋東袂に立つ大久保利通像。「為政清明(いせいせいめい)」、政治を為すには清く明瞭でなければならない、大久保の座右の銘である。西郷と共に倒幕を推し進め、明治維新を成し遂げた維新三傑(他に西郷隆盛、木戸孝允)の一人。

五大石橋跡に架かる西田橋。高見橋より上流側に向かって次の橋。かつてここに架かっていた五大石橋は天保期(1831年~45年)に薩摩藩家老の調所広郷が肥後の名石工、岩永三五郎を招いて架けさせた。平成5年(1993年)8月の集中豪雨で、武之橋と新上橋の2石橋が流失、五大大橋は被害を免れたたものの、河川改修に合わせ保存のため祇園之洲町に移設された。

現地解説板より引用。在りし日の旧五大石橋。江戸時代には鹿児島城下入口にあたり、東詰に御門が設けられていた。
加治屋町の散策はこれで終わり。次は西郷どん最期の地、城山に登ろう!
撮影日:2017年6月27日(火)
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