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三島宿

【2018年9月16日(日)旧東海道 三島宿】
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東海道五十三次之内三島 朝霧
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「三島宿」より引用

東海道を京方から来れば静岡県最後の宿駅で、伊豆国としては最初で最後の宿駅となる三島宿。東には天下の険、難所の箱根峠越えが控える。伊豆国の東海道は国境北端を通り、三島宿西端の境川から箱根峠まで。峠を越えれば現神奈川県の相模国で、僅かな距離しかない。平安時代、伊豆国の国府が置かれた三島は伊豆の中心地となり、後に三嶋大社の門前町として発展、江戸期になって東海道五十三次の宿駅に定められ、往来の旅人で賑わいをみせた。”三島女郎衆”と呼ばれる飯盛女は美人が多いとの評判で、東海道膝栗毛の弥次喜多は客引き女に袖を引かれて逃げるも、結局は三島宿に宿泊、飯盛女と遊んだところまでは良かったが、すっぽん騒動を起こしてテンヤワンヤの展開になっている。

三島宿は江戸日本橋から東海道五十三次を11宿目、京都三条大橋から43宿目。天保14年(1843年)当時の人口4084人、家数1025軒、うち本陣2、脇本陣3、旅籠屋74軒。三嶋大社前で東海道から下田街道が分岐する。江戸期を通して幕府の直轄地で天領、江戸初期には将軍休泊用の御殿を設けていた。三嶋大社の土産物として知られた三島暦が名産品。広重は「東海道五十三次之内三島 朝霧」の題で、霧に包まれる三嶋大社の鳥居を背景に、旅人を乗せた駕籠かきや馬曳きが往来する様子を描く。




秋葉神社
三島宿京方出入口の西見附跡に鎮座する秋葉神社。


秋葉神社石垣
地元の方に話を聞いたところ、秋葉神社の土台となっている石垣は西見附の遺構で、道路を挟んで向かいにも石垣が組まれていたが、そちらは撤去されたという。石垣には溶岩が使われている。


秋葉神社
秋葉神社より旧東海道。かつてはここに石塁型の枡形見附があり、宿場への出入りを取り締まっていた。


千貫樋
秋葉神社付近の千貫樋。天文24年(1555年)甲相駿三国同盟が成立、北条氏康の娘早川殿が今川氏真に嫁いだことで、氏康が引出物として小浜池から長堤を築いて駿河に水を通したことに起源があるとされる。樋ははじめ木製だったが、関東大震災で崩落、後に鉄筋コンクリート製へ改められた。


三島宿加屋町
三島宿の西側、加屋町の町並み。


林光寺
加屋町にある林光寺。


和泉屋
加屋町から西本町に入って間もなくにある和泉屋。名物の”くづ湯”を買いました。


三島宿西本町
西本町の旧東海道。右手前の”くらや杉山本店”が掲げる看板に注目↓


くらや杉山本店
「江戸時代の昔から 旅人達の汗がにじんでる この道”東海道” 農兵節に唄われた 三嶋女郎衆は この地に居ました」
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三島宿広小路町
広小路町の町並み。江戸時代に度々大火に見舞われた三島宿は、広小路町の東海道筋に空き地を設け、火災からの類焼を防ぐ火除け地とした。現在は見る影もなく、地名に名残りを見るのみ。


三島広小路駅
広小路町にある伊豆箱根鉄道の三島広小路駅。


三島広小路駅
三島広小路駅改札口。交通系ICカードで利用できる自動改札でした。


蓮馨寺
三島広小路駅の東側、日限地蔵尊を祀る蓮馨寺。日限地蔵尊は古く”身代わり地蔵”と呼ばれたが、何時からか日を限ってお願いすれば叶うと信じられ、”日限のお地蔵さん”と呼ばれるようになったと伝わる。


三島広小路駅
蓮沼川踏切より、三島広小路駅に停車する三島行列車。


伊豆国分寺
三島広小路駅の北西方には伊豆国分寺。


往古の伊豆国分寺伽藍図
往古の伊豆国分寺伽藍図。天平13年(741年)聖武天皇の命により、国家鎮護のため日本各国60数ヶ所に造立させた寺院の一つ。南大門を正面入口にして敷地を塀で囲い、中門・回廊・金堂・講堂・僧房・七重の塔等の伽藍を配していた。


七重の塔礎石
境内に現存する七重の塔の礎石。


うなぎ 桜家
旧東海道(静岡県道145号)に戻り、”うなぎ桜家”前を通る。15時前だというのに入店待ちのお客さんでいっぱい。


時の鐘と三石神社
時の鐘と三石神社。三島宿の”時の鐘”が初めて造られたのは寛永年間(1624~44)、宝暦11年(1761)特に大きな鐘が鋳造され、ここ三石神社境内に設置された。第二次世界大戦時に供出され失われたが、昭和25年(1950)市民の有志によって再び姿を取り戻し往時を偲ぶ。


三石神社
源兵衛川の畔に鎮座する三石神社。かつて元御殿川の川辺に三ツ石という巨石があり、その上に社殿を建てて稲荷を祀ったことにはじまりがあると伝わる。


源兵衛川と石樋
源兵衛川に架かる古びた石樋。


樋口・世古本陣跡
樋口・世古本陣跡付近、本町の町並み。


世古本陣跡
2軒あった三島宿本陣の一つ、世古本陣跡。


世古本陣跡
世古本陣址碑。


世古本陣跡
全く遺構を残していない世古本陣跡。道路を挟んで向かいが樋口本陣跡。


樋口本陣跡
樋口本陣跡も商店やビルが建ち並び全く遺構を残さない。


三島宿復元模型
現地解説板より引用。三島宿は両本陣とも全く面影を残していないので、復元模型の写真を見て想像を膨らませよう。


御殿川
本町と中央町の境を流れる御殿川。江戸初期に三島には徳川家光が休泊用に造営させた御殿があり、その脇を流れていたことから御殿川の名が付いた。現在の旧東海道(静岡県道22号)には上御殿橋が架けられている。


三島宿本町
上御殿橋付近より本町方面。


問屋場跡
三島市中央町別館(三島中央郵便局)の場所が問屋場跡。


扇屋洋品店
近代的な建物に挟まれて異彩を放つ扇屋洋品店の佇まい。


高橋綿店
昔懐かしい看板建築の高橋綿店。


旧東海道(静岡県道22号) 三嶋大社前
三嶋大社前を行く旧東海道(静岡県道22号)。大鳥居前で下田街道が分岐する。下田街道はここから伊豆半島の中央部を進み、天城峠を越えて下田へ至る17里14町(約68km)の道程。


三嶋大社大鳥居
三嶋大社大鳥居より旧東海道と下田街道の分岐点。奥へ直進する道が下田街道。三嶋大社へ参拝したいところだが、先に三島宿を歩き通しておこう。


旧傳馬町
路傍に旧傳馬町の碑。歩道面には「箱根八里 三島宿←→箱根関所 15km」と示す。箱根関所まで結構遠いなあ…。 


莨屋肥料店


日の出町の旧東海道(静岡県道22号)筋にある莨屋肥料店。莨屋と書いて”たばこや”と読む。勉強になりました。


六所王子神社
日の出町に鎮座する六所王子神社。ここ周辺一帯はかつて”長谷(ちょうや)と称した地で、その守り神。


守綱八幡神社
同じく日の出町に鎮座する守綱八幡神社。見聞きしたことがない珍しい社名だが由緒不詳。家康に仕えた徳川十六神将の一人、渡辺守綱に関わる神社なのだろうか。


新町橋
三島宿の東端、大場川に架かる新町橋。大場川の通称は神川(かんがわ)。


東見附跡
新町橋西詰が三島宿の東見附跡。こちらも西見附と同じく石垣が組まれていたはずだが、何も残っていない。


三嶋暦師の館
新町橋から大場川右岸を歩いて”三嶋暦師の館”を見学に。ここは江戸時代に三島の名産品、三島暦を代々にわたり編集・印刷・販売をしてきた暦師の旧河合家。現存する建物は安政地震(1854年)後に十里木(現 裾野市)にあった関所の建物を移築したもの。三嶋暦は鎌倉時代には製作されていたと考えられている。


三嶋大社境内
三嶋大社境内の東側出入口から中に入り、神鹿園。


三嶋大社総門
まずは昭和6年(1931)建築の総門から。


三嶋大社神門
次は本殿への出入口、神門。慶応3年(1867)の建築。


三嶋大社腰掛石
神門前にある神馬舎横にある腰掛石。源頼朝と北条政子が腰掛けて休息したと伝わる。


三嶋大社芸能殿
腰掛石近くにはひっそりと佇む感じで芸能殿。昭和5年(1930年)伊豆大震災後に現総門が完成するまで使われていた旧総門の建築物で、一部改造され芸能殿として保存されている。慶応4年(1868年)の建築。


三嶋大社本殿
神門を中に入ると舞殿と本殿、厳かな雰囲気が漂う。舞殿と本殿は嘉永7年(1854)に発生した東海地震で被災、慶応2年(1866年)に再建された。


厳島神社
参拝を終えて総門を出れば神池の中に厳島神社。北条政子が勧請したと伝わる。


たたり石
大鳥居傍に据えられている”たたり石”。元々は大鳥居前の東海道中央にあったもの。”たたり”は祟りではなく、糸のもつれを防ぐ道具の絡垜(たたり)に意があり、人の往来を整理する役目を果たす大石だった。


上御殿橋
三嶋大社から旧東海道を京方へ戻り、再び御殿川に架かる上御殿橋に。


御殿神社
御殿跡に鎮座する御殿神社。元は稲荷神社として御殿に祀られていた。御殿地は御殿川右岸に総面積1万坪以上の広さがあったとされ、本丸・二ノ丸を設け東南西辺に石垣土塁が巡らされていた。


樋口・世古本陣跡
樋口・世古本陣跡に戻り三島宿の散策は終わり。三島駅へ向かおう。


愛染院跡の熔岩塚
三島駅への途次、愛染院跡の熔岩塚を見る。これは約1万年前の富士山噴火で流下してきた三島溶岩流の末端。火口からここまで約40kmも離れている。愛染院は室町期に三嶋大社の別当寺院だった伊豆随一の大寺院、明治元年(1868年)の神仏分離令で廃寺となり、現在は跡形もない。ここは愛染院の庭園の一部だったとも云われる。


三島駅
三島駅から”こだま東京行”に乗車し帰途につく。


【旧東海道歩き 第33日目】沼津駅→沼津宿→三島宿→三島駅 歩行距離約12km
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箱根旧街道 今井坂・愛宕坂・初音ケ原松並木

【旧東海道歩き 第34日目】三島駅→三島宿→箱根宿→箱根町港バス停



【2018年11月4日(日)旧東海道 三島宿→箱根宿】
京都から旧東海道を歩きはじめて早5年、ようやく箱根八里の箱根峠越えを迎える。峠を越えれば相模の国、神奈川県である。
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と、馬子唄にも唄われた箱根峠は、大井川と並ぶ東海道の大難所で、峠上の芦ノ湖畔には箱根宿と箱根関所が設けられていた。峠越えの旧道は峠を境に西側が箱根西坂、東側を箱根東坂と称し、現在は箱根旧街道の総称で呼ぶ。当時の石畳が所々に残っていたり、復元整備されたりしていて、往時の面影を感じながら歩ける旧街道好きには絶好のウォーキングコースになっている。




白滝公園
三島駅近く、富士山からの水が湧く白滝公園。桜川や御殿川の水源となっている。


白瀧観音堂
湧水池の上にある白瀧観音堂。平安時代には現在地より北にあり、当時から水上に御堂が建てられていたという。御堂の傍らに白い飛沫を上げながら水を落とす滝があったとされ、これが名の由来と伝わる。


白滝公園めぐみの子
公園入口には湧水を飲める場所がある。からくり人形の「めぐみの子」が水を汲んでくれる仕組みになっているが、どうやったら動くのか…。


正岡子規の文学碑
桜川に沿った道には文学碑が並ぶ。


十返舎一九の文学碑
十返舎一九の文学碑。「東海道中膝栗毛」にある三島宿での場面が碑面に刻まれる。


新町橋
三島宿東(江戸方)端、新町橋に。ここから旧東海道歩きを再開、三島宿から次の箱根宿まで3里28町(約14.8km)もの長丁場、あいにくの悪天候だが頑張って歩こう!


鞍掛け石
新町橋東詰にある鞍掛け石。解説板には「川原ケ谷宝鏡院への入口の左右に一対ある。」と書かれているが、写真の1個しか見当たらない。将軍が参拝の折に下馬して鞍を掛けたとされるが、いつの時代の将軍なのかよくわからない。また、昔は川原ケ谷神社への参詣人がこの石を使って馬に乗っていたらしく、馬乗り石とも呼ばれていたという。


宝鏡院
鞍掛け石から少し南に入ったところ、宝鏡院がある。門前の解説板によれば室町幕府二代将軍、足利義詮の建立とある。


笠置の石
境内にある笠置の石。三島七ツ石の一つ。源頼朝が参拝の折に笠を置いた石と伝わる。


宝鏡院本堂
宝鏡院本堂。


川原ケ谷バス停
旧東海道(静岡県道22号)沿い、川原ケ谷バス停。


旧東海道 三島市川原ケ谷
川原ケ谷で静岡県道22号を分かれ旧道を直進。


旧東海道 三島市川原ケ谷
川原ケ谷の旧道入口。箱根旧街道の道標が立つ。


愛宕橋
山田川に架かる愛宕橋。ここを渡れば箱根峠へ向けての上りがはじまる。


今井坂
真立寺前、最初の上り坂となる今井坂。


旧東海道踏切
東海道本線を渡る旧東海道踏切。


愛宕坂
踏切の先から愛宕坂の上りが続く。


愛宕坂
愛宕山横を上る愛宕坂。現在は石畳風の道に整備されている。


愛宕坂03
愛宕坂の坂下方面。左手の小高くなっている所が愛宕山。


愛宕山碑
愛宕山の頂に残る愛宕山碑。


三島東海病院
愛宕山より南側の三島東海病院を望む。かつてはここに愛宕社ほか、いくつかの社寺があった。


三界萬霊塔
愛宕坂上にある三界萬霊塔。


愛宕坂上
愛宕坂上、五本松交差点で石畳風の道は途切れ。


三島大根生産都々逸碑
五本松交差点角にある三島大根生産都々逸碑。平井源太郎が創作した「三島大根生産都々逸」の一節と、源太郎の号”源水”を碑面に刻む。

箱根八里の 馬子唄消へて 今は大根を 造る歌


初音ケ原松並木
五本松交差点から国道1号に合流、ここから初音ケ原松並木が約1kmに渡って続く。


初音ケ原松並木
旧街道筋にあたる車道(国道1号上り線)の両側には土盛りと松並木が残る。


初音ケ原松並木
旧街道筋は車道になり歩けないので、左側に石畳風の歩道が設けられている。


初音ケ原松並木
初音ケ原歩道橋付近、石畳風の歩道。


初音ケ原歩道橋
初音ケ原歩道橋。階段を石畳風にするこだわりよう。


初音ケ原松並木
初音ケ原歩道橋より松並木(京方面)。


初音ヶ原松並木
松が伐採され並木が歯抜けになっている所も多い。維持することの難しさを感じさせる。


錦田一里塚
松並木の中に両塚を残す錦田一里塚。江戸日本橋から28里(約110km)、京三条大橋からは86番目で実測約407km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。


錦田一里塚
松並木の中に一里塚、旧街道の面影を存分に感じさせる素晴らしい景観。


愛鷹山
北西へ目を転じれば愛鷹山が横たわる。天気が良ければその向こうに富士山が見えたはず。


初音ヶ原松並木
三島塚原I.C交差点手前で松並木は終わり。


三島塚原I.C交差点
三島塚原I.C交差点。国道1号の下で伊豆縦貫自動車道が交差する。
次の記事に続く。


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箱根旧街道 臼転坂・題目坂・大時雨坂・小時雨坂・下長坂

【2018年11月4日(日)旧東海道 三島宿→箱根宿】
三島塚原I.C交差点から箱根旧街道を東進、塚原の集落を通り抜ければ臼転坂、ここを登り切って市の山の集落。題目坂・大時雨坂・小時雨坂と上り坂が続いて三ツ谷の集落に。三ツ谷は三島宿と箱根宿の中間地点にあたり、往時には茶屋本陣があり間の宿に近い街村を形成していた。そして急勾配が長く続く下長坂(こわめし坂)を登り切って笹原の集落に入り、家並みが途切れたところから石畳が敷かれた緩やかな坂道(笹原地区の石畳)がはじまる。その入口付近に笹原一里塚が片方だけ現存している。




箱根路の碑
三島塚原I.C交差点付近にある箱根路の碑。昭和43年(1968)建立。


箱根路の碑
箱根路の碑の裏面、「箱根八里は 馬でも越すが 越すにこされぬ 大井川」を刻む。


萬霊等
箱根路の碑の傍らにあった萬霊等。


旧東海道 塚原新田
塚原新田を行く旧東海道。


宗福寺
塚原新田にある宗福寺。


塚原バス停
塚原バス停付近の旧東海道。塚原新田は家康の関東移封後に、近郷農村から次男や三男を募って村を形成させた箱根西坂五ヶ新田の一つで、村内に立場を置いた。坂人参と呼ばれたニンジンやゴボウ、大根が産物だった。


山神社
塚原新田の山神社。


普門庵
建物が真新しい普門庵。最近何かあったのか建て替えられたようだ。


カフェ コルソ マルケ 38
旧東海道筋にある”カフェ コルソ マルケ 38”。塚原新田にはこんな洋風のカフェもあるのだ。


旧東海道 塚原新田
塚原集落の東外れ、薄暗い臼転坂の登り口が待ち受ける。


臼転坂
臼転坂の登り口。いかにも旧街道らしい石畳。


臼転坂の馬頭観世音
臼転坂の馬頭観世音。文政3年(1820)建立。


臼転坂の石畳
臼転坂は牛が転がったとか、臼を転がしたとかで坂名の由来になったという。


臼転坂上
路傍が広々とした臼転坂上。かつては茶屋なんかがあったんだろうか。


臼転坂上
臼転坂上で車道の東海道(旧国道1号)に合流し、市の山の集落へ。


市の山新田の六地蔵
市の山新田の六地蔵。2組6体+1体のお地蔵さんが並ぶ。


市の山バス停
市の山新田は箱根西坂五ヶ新田の一つ。ニンジン、ゴボウ、大根が産物で、へぎ石と呼ばれれる板状節理を産出した。


法善寺
市の山新田にある法善寺。元は題目坂上の坂公民館辺りにあった。元禄17年(1704年)の創建。


市の山新田の山神社
市の山新田に鎮座する山神社。享保14(1729)の棟札を残す。社殿は昭和57年(1982年)8月の台風により大破、翌年に再建されたもの。


市の山新田・題目坂道標
題目坂の登り口にある夢舞台東海道「市の山新田 題目坂」道標。ここ題目坂は玉沢妙法華寺(三島市玉沢)への道程を示す題目石があったことに名の由来があるという。その題目石は現在、市の山新田の法善寺に移されている。


題目坂
階段が付けられる題目坂。


題目坂
題目坂の半ばより坂下。山神社からこの辺りまでの題目坂は、下の車道を通すに伴い開削され失われたのだろう。そのため急勾配になり階段を付けたと思われる。


題目坂
上写真より坂上。やはり急勾配部分に階段が付けられている。


題目坂
題目坂坂上付近より坂下。この辺りは舗装こそされているが、昔の勾配を残しているのだろう。


題目坂04
題目坂上。箱根旧街道題目坂の解説板と七面堂旧址碑を置く。七面堂は法善寺にあった堂宇の一つ、足利尊氏の建立と伝わる。おそらく坂幼稚園辺りが跡地。


坂幼稚園
題目坂上にある坂幼稚園。


法善寺旧址碑
坂公民館の敷地一角にある法善寺旧址碑。現在は市の山新田にある法善寺の旧地。


坂公民館
坂公民館。


三島市眺望地点 坂公民館
坂公民館の裏手は富士山のビュースポット。本日は愛鷹山しか見えませんが…。


大時雨坂
坂公民館付近からは大時雨坂の上り。この先で旧国道1号(東海道)に合流。


大時雨坂上
旧国道1号(東海道)の大時雨坂(坂上方向)。現在は均されて緩やかな坂道だが、路傍左が擁壁になっており、往時の地形が想像できる。旧国道1号が通されるまでは、短いながらもそれなりに勾配がある坂道だったと思われる。


三ツ谷下バス停
三ツ谷下バス停。先に小時雨坂、この辺りがその坂下にあたる。


小時雨坂
なだらかに曲がりながら上る小時雨坂。道両側の土地が低くなっており、こちらは盛り土して勾配を緩くし旧国道1号(東海道)を通しているがいることがわかる。往時とは随分と坂の形状を異にしているのだろう。


小時雨坂(坂下方向)
小時雨坂より坂下方向。


JA三島函南 坂支店
小時雨坂上、三ツ谷の町並み。左はJA三島函南の坂支店。三ツ谷新田は箱根西坂五ヶ新田の一つ。ニンジンやゴボウ、大根、山芋が産物で、土地柄から駕籠かき渡世の村人が多かった。


かめやマート
三ツ谷新田の”かめやマート”付近、旧東海道(旧国道1号、京方)。三谷新田は江戸時代初期に箱根西坂五ヶ新田が形成されるまでは、3軒の茶屋があることから”三ツ屋”と称していたという。Jlgosの”三ツ谷新田”によれば油屋という屋号で細井家が代々名主を務め、富士見屋という旅籠が茶屋本陣を務めていたとのこと。三島宿と箱根宿の中間地点にあたり、間の宿に近い街村を形成していたようだ。


松雲寺
三ツ谷新田にある松雲寺。明暦2年(1656)の創建。江戸時代には参勤交代で東海道を往還する大名の休息所となり、江戸時代末期には徳川家茂や慶喜の寺本陣となった。明治天皇も行幸の折に休息された。


明治天皇御腰掛石
境内にある明治天皇御腰掛石。


参杉明神
同じく境内にある参杉明神。解説板によれば、昭和33年(1958年)狩野川台風に襲われ、境内にあった樹齢約400年の大杉3本が倒木、村内風除けとして永年の恩に報い神号を捧げて祀ったとのこと。天気が良ければ小さな社殿の背景に富士が望めたはず。


「三ツ谷の夢小路」案内地図
路傍にあった”三ツ谷の夢小路”の案内地図。こんな素敵な地図を見てしまったら、歩いてみたい衝動に。しかし日暮れ前に箱根宿に着かねばならず時間が足りない。ジレンマに襲われつつ先へ進むことに。


下長坂(こわめし坂)
三ツ谷の集落東(江戸方)外れ、下長坂(こわめし坂)の登り口。


下長坂(こわめし坂)
アスファルト舗装されてしまっているが、旧街道の雰囲気を残す下長坂(こわめし坂)。


下長坂(こわめし坂)
こわめし坂の異名は、急勾配が長く続く坂道だったことから、旅人の背負っていた米が汗で蒸され、ついには強飯(こわめし)のようになったからだという。江戸時代には米を蒸して飯にしたものを強飯といった。


下長坂(こわめし坂)
下長坂(こわめし坂)上から笹原の町並み。


笹原会館
笹原会館前、笹原の集落を行く旧東海道。緩やかに上る旧東海道筋に家が連なる。笹原新田は箱根西坂五ヶ新田の一つ、付近の東海道に敷いていた篠竹(根笹の仲間の総称)が村名の由来、篠竹の坂道は江戸時代中期に石畳へ敷き直されている。立場を置き、見晴屋という屋号の家が務めていた。産物は山芋、往来の旅人相手にあぶって売っていたらしい。


笹原の石仏二体
路傍に佇む石仏二体。


旧東海道 笹原新田
笹原の集落東端より京方。


旧東海道 笹原新田
集落東端、国道1号(東海道)を渡った先より石畳の坂道が緩やかに上る。


旧東海道 笹原一里塚付近
笹原一里塚付近の旧東海道。右手林の中に一里塚が残っている。


笹原一里塚
南側の塚が現存する笹原一里塚。北側の塚は失われている。


笹原一里塚
笹原一里塚は江戸日本橋から27里(約106km)、京三条大橋からは87番目で実測約412km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。


旧東海道 笹原一里塚付近
笹原一里塚付近、石畳の傍らには箱根旧街道の碑。


笹原地区の石畳
旧街道の面影を色濃く残す笹原地区の石畳。


笹原地区の石畳
路傍左に小屋があり、中を覗いてみたら↓


笹原の馬頭観世音
馬頭観世音が安置されていた。


笹原地区の石畳
笹原石畳の坂上、この先で石畳が途切れ国道1号(東海道)に合流。


三島スカイウォーク
国道1号(東海道)の左手には日本最長の大吊橋から富士山や駿河湾の絶景が望めるという三島スカイウォーク。あいにくの悪天候ながら駐車場は車や観光バスでいっぱい。
次の記事に続く。


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箱根旧街道 上長坂・山中城址

【2018年11月4日(日)旧東海道 三島宿→箱根宿】
三島スカイプウォークの南辺を通る国道1号(東海道)から旧東海道が分かれ、石畳の上長坂を登る。上長坂は坂下から富士見平ドライブインがある坂上まで、現状保存や一部に根布川石を補填したり全面敷設して、往時の様子をよく留めて改修されている。地元自治体をはじめ、関係者方々には頭が下がる思い。しかし、上長坂上から山中城口交差点にかけては国道1号笹原山中バイパス工事のため歩くことができなかった。バイパス開通後にこの区間がどうなってしまうだろうと、老婆心に危惧しながら山中城岱崎出丸跡の北西側を進んで山中の集落に。

北条氏が築いた山中城の縄張り内に位置する山中の集落、三ツ谷と同じように小ぶりながらも間の宿に近い街村を形成していたようで、御小休本陣が笹屋、脇本陣を大和屋が務めていた。特に芋や寒ざらし団子が名物だった。寒ざらし団子は現在、山中城跡公園にある売店で販売している。周辺一帯は山中新田と称する箱根西坂五ヶ新田の一つ。

山中城は日本百名城に数えられる中世の山城で、永禄年間(1558~70)小田原西側防備の最前線として北条氏康が築いたとされる。天正18年(1590)秀吉の小田原征伐に対抗するため、氏政・氏直父子は新たに岱崎出丸や西ノ丸を築造するなど、大規模に縄張りを拡張させた。しかしこの堅城を秀吉は7万もの大軍をもって包囲、これに対し城を守る北条方の将兵はわずか4千2百、秀吉の軍勢は数にものを言わせた猛攻撃でわずか半日で落城させたという。この攻防戦により北条方はほぼ全滅、城主だった松田康長と副将の間宮康俊の墓は三ノ丸跡の宗閑寺境内にひっそりと建つ。




上長坂登り口
三島スカイプウォークの南辺を通る国道1号(東海道)から分かれる旧東海道。夢舞台東海道「笹原新田 上長坂」道標が立つ。ここから石畳の道が先へ延びる。


上長坂
上長坂の登り口。


上長坂
上長坂の石畳。


上長坂
上長坂の中間地点、石畳が現状保存されている部分。


上長坂
坂上近く、根布川石を全面敷設し石畳を改修している。


上長坂上
上長坂上、国道1号(東海道)と交差する所に階段が設けられている。この辺りは国道1号を通すために盛り土された地形が改変されたことがわかる。


「明治天皇御駐輦阯」碑
上長坂と国道1号(東海道)の交差地点付近にある「明治天皇御駐輦阯」碑。明治天皇御巡幸の折、ここで車を停め休まれたのだろう。


上長坂上
上長坂上、国道1号を挟んで向こうに石畳の道が続く。その右手に富士見平ドライブイン。


芭蕉句碑
霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き

上長坂と国道1号(東海道)の交差地点東側にある芭蕉句碑。碑面の句は貞享元年(1684)芭蕉が箱根越えをした際に詠んだとされる。建碑者は東京家具センターの倉島延三氏。


浅間平地区の石畳
富士見平ドライブイン横、上長坂上から東へ延びる浅間平地区の石畳。しかし…。


浅間平地区の石畳
工事中につき通行できないので迂回してくださいとのこと。笹原山中バイパス工事の真っ只中のようで。


笹原山中バイパス工事現場
笹原山中バイパスの工事現場。先ほど通行止めになっていたのは、バイパスを通すために旧東海道(浅間平地区の石畳)の路盤が開削されたため。写真の赤線部分が消えた旧東海道、こうやって徐々に古い道は消えてゆくわけだ。おそらくここには跨道橋が架けられるのだろう。


浅間平地区の石畳
通行止め地点東側の旧東海道(浅間平地区の石畳)。


浅間平地区の石畳
歩行者通行止の案内板。


山中城口交差点
浅間平地区の石畳は山中城口交差点で途切れ。写真左が通行止め区間。


倶楽部四季遊山
”倶楽部四季遊山”入口前の旧東海道。すぐ先から腰巻地区の石畳がはじまる。


腰巻地区の石畳
腰巻地区の石畳入口。右手(東側)一帯の舌状台地上が山中城岱崎出丸跡。


腰巻地区の石畳
薄暗い山林の中へ延びる石畳。


腰巻地区の石畳
箱根旧街道は歴史と自然を感じながら歩ける格好のハイキングコース。


腰巻地区の石畳
腰巻地区の石畳。左手路傍に箱根八里記念碑(司馬遼太郎)。


箱根八里記念碑(司馬遼太郎)
箱根八里記念碑(司馬遼太郎)。
幾億の跫音(あしおと)が 坂に積もり  吐く息が 谷を埋める わが箱根にこそ


腰巻地区の石畳
薄暗い山林を抜ければ山中の集落。


腰巻地区の石畳
腰巻地区の石畳は山中城跡公園内のここで終わり。


山中城跡案内図
山中城跡を散策してみよう。まずは岱崎出丸跡に。


山中城 岱崎出丸跡
秀吉の小田原征伐に対抗するため、氏政・氏直父子が増築した岱崎出丸。


出丸御馬場跡
古くから御馬場跡伝わる場所。 岱崎出丸最大の曲輪。東側と北側に土塁が設けている。


山中城 岱崎出丸跡
御馬場跡より岱崎出丸の先端(南側)方向。


岱崎出丸より三島市街
岱崎出丸より三島市街や駿河湾を遠望。


出丸御馬場堀
出丸御馬場の南辺には深い空堀(出丸御馬場堀)。


岱崎出丸一の堀
岱崎出丸西側に設けられる一の堀。畝堀がきれいに復元されている。


すり鉢曲輪見張台
すり鉢曲輪見張台。


すり鉢曲輪見張台からの眺め
すり鉢曲輪見張台からの眺め。下の山裾を通る旧東海道を監視できるのはもちろんのこと、三島・沼津方面を望めば韮山城まで遠望できるという。天気が良ければ…。


すり鉢曲輪
岱崎出丸先端部のすり鉢曲輪。その名の通り中央部を窪ませている。敵が攻めにくくする工夫なのだろうが、理由がよくわからない。


すり鉢曲輪虎口
すり鉢曲輪南端にある虎口。東側の”武者溜り”と推定される曲輪に接続している。


武者溜り
ここが武者溜り。山中城の最前線となる場所、攻める秀吉の軍勢を防ぐべく、ここに死を覚悟した北条方の兵士たちが配備されていたのだろうか。


旧東海道 山中新田
岱崎出丸の散策を終えて次は本城に。


芝切地蔵尊
三ノ丸跡にある芝切地蔵尊。その昔、巡礼姿の旅人が山中の旅籠に泊まり、腹痛を発して急死した。旅人は死の間際、芝塚を造り故郷の常陸国(現 茨城県)が見えるように地蔵尊として祀るよう遺言、村人は遺言を守り地蔵尊を建立したという。以来、毎年7月19日を縁日として供養し、合わせて”小麦まんじゅう”を作り参拝者に振舞った。これが名物となり、江戸時代には大勢の参拝客が集まり、山中の集落は大いに潤ったと伝わる。


山中城跡記念の碑
芝切地蔵尊の北東側、宗閑寺参道入口に立つ山中城跡記念の碑。昭和5年(1930年)、東京に住んでいた豊臣家の家臣、一柳直末の末裔による建立。一柳直末は秀吉の小田原征伐に参戦、山中城の攻城戦の際、敵の銃弾を受け戦死した。


宗閑寺
三ノ丸跡に建つ宗閑寺本堂。


北条家家臣松田康長、間宮康俊と豊臣家家臣一柳直末の墓
宗閑寺境内にある豊臣家家臣、一柳直末の墓(写真右)。左に北条家家臣の松田康長や間宮康俊の墓が並び呉越同舟の様相。


北条家家臣松田康長の墓
北条家家臣松田康長の墓(写真手前)、左隣には間宮康俊の墓。ともに秀吉の小田原征伐に対抗して山中城を守備していたが、秀吉方の軍勢の猛攻によって戦死した。


山中公民館
宗閑寺北側、三ノ丸跡の北端にある山中公民館。ここの敷地横を通って山中城の本城へ。


箱井戸跡
箱井戸と呼ばれる池。解説板によれば城兵の飲料水に利用していたと推定している。


田尻の池
箱井戸の隣にある田尻の池。箱井戸とは土塁で遮り、排水溝を設けて向こうから水を流し込んでいたという。解説板によれば、こちらは洗い場や馬の水飲み場等に利用していたと推定、西側に馬舎があったとの伝承がある。


元西櫓と西之丸
二ノ丸より本城先端部の元西櫓(写真手前)と西ノ丸(写真奥)を望む。


西ノ丸南辺の畝堀
西ノ丸南辺の畝堀。


二ノ丸(北条丸)
二ノ丸(北条丸)。本丸の西隣りに位置し、城の中枢だったところ。


本丸堀
二ノ丸(写真右)と本丸(左)の間に設ける本丸西堀。


本丸
山中城の中心となる本丸。北隅に天守櫓を設け、写真に見える藤棚の場所に本丸広間が建てられていた。


天守櫓跡
本丸北隅の天守台。山中城の最高地点に位置し、往時には井楼(物見用の建物)と高櫓(攻撃用の建物)からなる天守櫓が設けられていた。


本丸
天守台より本丸。


矢立の杉
天守台に接して聳え立つ”矢立の杉”。推定樹齢500年、樹高約32m。解説板によれば、出陣の際にこの杉に矢を射立て、勝敗を占ったと「豆州志稿」(江戸時代後期に編さんされた地歴書)の記述にあるとのこと。


兵糧庫・爆薬庫跡
本丸南側に接して位置する兵糧庫・爆薬庫跡。


兵糧庫跡の柱穴
兵糧庫跡の柱穴。


本丸・北ノ丸を繋ぐ架橋
本丸と北ノ丸を繋ぐ架橋。


本丸堀
本丸北西辺の空堀(本丸堀)。写真左が本丸。


北ノ丸
本丸北隣りの曲輪、北ノ丸。本丸より高地に位置し、周囲に土塁と深い空堀を配する。二ノ丸と共に城の中枢をなす曲輪だったことをうかがう。


駒形諏訪神社
山中城址の散策を終え、旧東海道の駒形諏訪神社鳥居前に。


茶屋竹屋
駒形諏訪神社鳥居前には茶屋竹屋。次の記事に続く。


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箱根旧街道 小枯木坂・大枯木坂・石割坂・かぶと石坂・箱根峠

【2018年11月4日(日)旧東海道 三島宿→箱根宿】
山中の集落を出て箱根峠の頂を目指す。約720mに渡って延びる願合寺地区の石畳から、小枯木坂・大枯木坂を登り、次に続く石割坂(石原坂・石荒坂)を登りきったところが、箱根峠を往来する旅人や馬の救済にあたった接待茶屋跡。隣接して山中一里塚が現存しているが、接待茶屋こそ今は無い。ここから”かぶと石坂”を登りきれば、かつてイバラが生い茂る草原だった茨ヶ平で、間もなく箱根峠の頂に着く。かつての箱根峠は石がゴロゴロと転がるカヤ原に、伊豆と相模の国境を示す標柱があるだけの荒涼とした場所だった。しかし現在は国道1号・箱根新道をはじめ、芦ノ湖スカイラインや静岡県道20号が集結し車の往来が激しく、往時を偲びようもない。




願合寺地区の石畳
山中集落を出て旧東海道は願合寺地区の石畳に。


旧東海道 雲助徳利の墓
石畳の道に入ってすぐ、路傍には雲助徳利(くもすけとっくり)の墓。


雲助徳利の墓
雲助徳利の墓。この墓に眠る御方は松谷久四郎と名乗り、西国大名の剣道指南役だったが、大酒飲みの上に酒癖が悪く、問題を起こして国外追放、箱根まで来て雲助(くもすけ、江戸時代に荷物運搬や駕籠かき等の交通労働に従事した住所不定の人夫)の仲間に入った。久四郎は剣術の腕前はもちろんのこと、文字の読み書きができたことから親分並みに慕われるようになるが、酒の飲み過ぎがたたって死んでしまう。雲助仲間は久四郎を偲んで盃と徳利を浮き彫りするこの墓を建て供養したという。墓前にはワンカップ酒が供えられ、今も酒飲みであることは変わらないようだ。


願合寺地区の石畳
アスファルト舗装された車道に並行して延びる石畳。


願合寺地区の石畳
願合寺地区の石畳。山中城跡から0.2Km、箱根峠まで3.3Km地点。


願合寺地区の石畳
願合寺地区の石畳。


願合寺地区の石畳・一本杉石橋
解説板前には一本杉石橋。平成7年(1995年)の発掘調査で発見された。


願合寺地区の石畳
国道1号と交差するここで願合寺地区の石畳は終わり。この辺りが小枯木坂の坂下と思われる。


小枯木坂跡
国道1号が通され消失している小枯木坂跡。ここから国道の歩道を歩き。


農場前バス停
農場前バス停。ここからすぐ先の横断歩道を渡って。


大枯木坂迂回路
恐る恐る農家入口の道に入る。これが大枯木坂への迂回路。


大枯木坂下
私有地なのではと思いつつ道標を信じて農家母屋前で右折。


大枯木坂
農家母屋前から突如として現れる旧東海道。ここから大枯木坂の上り。


大枯木坂石畳
大枯木坂に残る石畳。


大枯木坂石畳
直線状に上る大枯木坂。坂名の由来が気になるがよくわからない。周辺一帯に枯れ木が多かったのだろうか。


大枯木坂上
大枯木坂上の石畳。


石割坂(石原坂・石荒坂)下
次に待ち受ける石割坂(石原坂・石荒坂)の上り。


石割坂(石原坂・石荒坂)
石割坂(石原坂・石荒坂)の石畳。


石割坂(石原坂・石荒坂)
石割坂(石原坂・石荒坂)に残る石畳は、文久元年(1861)皇女和宮の降嫁に際し、大改修されたときのものと推測されている。


念仏石
石割坂(石原坂・石荒坂)の路傍に突き出る大石、これを念仏石と呼ぶ。


念仏石
念仏石の前には「南無阿弥陀仏 宗閑寺」と刻む石碑がある。


石割坂(石原坂・石荒坂)
ハコネザサが密集する中を登り。


石割坂(石原坂・石荒坂)
右へ戻る方向に分かれ道。


明治天皇御小休趾碑
その分かれ道のすぐ先に明治天皇御小休趾碑。今では想像もつかないが、こんなところに茶屋なんかがあったのだろう。


施行平分岐点
石割坂(石原坂・石荒坂)から左に施行平(せぎょうだいら)方面への道が分岐。施行平は昔から富士を遠望する光景地として知られた場所。


かぶと石
国道1号と交差する手前、かぶと石前を行く旧東海道。


かぶと石
兜のような形をした”かぶと石”。一説には秀吉が小田原征伐の際、ここに兜を置いて休息したとも云う。元々は甲石坂(かぶといしさか)の途中にあったが、昭和初期の国道1号拡幅工事が行われた際にここに移された。


山中一里塚
旧東海道が国道1号と交差する地点に残る山中一里塚。


山中一里塚
山中一里塚は江戸日本橋から26里(約102km)、京三条大橋からは88番目で実測約416km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定、薩埵峠上道ルートによる)にあたる。


接待茶屋解説板
旧東海道を挟んで山中一里塚の向かいにある接待茶屋解説板。跡地は解説板から国道1号を越えた左手辺り。江戸時代中期に箱根山金剛院別当が箱根峠を往来する旅人を救護するため、無料で人馬に食事や焚き火等を提供したことが始まりと伝わる。一時途絶えていたところを文政7年(1824)江戸の豪商加勢屋与兵衛が再興、しかし明治維新を迎えてて間もなく中断する。明治12年(1879)以後は八石性理教会から鈴木家と受け継がれて接待茶屋は続くが、昭和45年(1970)ついに茶釜を降ろし歴史に幕を閉じた。今は建物が残っておらず近辺にこの解説板が設けられるのみ。


接待茶屋跡
接待茶屋の解説板から箱根(江戸方)方向。国道1号を越えた左手辺りが跡地かと。


接待茶屋バス停
国道1号沿いにある接待茶屋バス停。


接待茶屋跡
箱根方(江戸方)より接待茶屋跡(写真中央の山林辺り)。


甲石坂
接待茶屋跡より箱根峠へ向けて上る甲石(かぶといし)坂。


甲石坂
少々荒れ気味の甲石坂石畳。


兜石跡
この右手が先ほど見た”かぶと石”の旧地。昭和43年(1968)函南町が建立した跡碑があり、こちらは”兜石”の字が使われている。。


兜石跡碑
函南町が建立した”兜石跡”の碑。


兜石跡
兜石跡と甲石坂石畳。


甲石坂
石畳の両側にハコネザサが迫る。


甲石坂上
ハコネザサのトンネルを抜けると。


甲石坂上
休憩所の四阿(あずまや)と兜石解説板。この辺りが甲石坂上。


箱根八里記念碑(井上靖)
そしてすぐ近くには箱根八里記念碑(井上靖)。


旧東海道 茨ヶ平
ここで旧道が車道に合流。箱根峠手前の平坦地に。周辺一帯はイバラが生い茂る草原があったので茨ヶ平と呼ばれる。


旧東海道 茨ヶ平
芦の湖カントリークラブ横、茨ヶ平を行く旧東海道。


峠茶屋
茨ヶ平にある峠茶屋。本日は定休日だった。


旧東海道 茨ヶ平
茨ヶ平から峠へ向かう石畳風の遊歩道。


箱根八里記念碑(峠の地蔵)
遊歩道脇に謎の石造物群が。


箱根八里記念碑(峠の地蔵)
これは箱根八里記念碑(峠の地蔵)。橋田寿賀子さんや黒柳徹子さんなど、女性著名人8名の揮毫を得て8体の地蔵碑が建立されている。


箱根峠
そしてここが現在の箱根峠。ここを境に伊豆国と相模国が分かれていた。


箱根峠
箱根峠で静岡県道20号と国道1号が合流。奥の高くなっている場所に箱根くらかけゴルフ場がある。かつては石がゴロゴロと転がるカヤ原に、伊豆と相模の国境を示す標柱があるだけの荒涼とした場所だったらしいが、今は行き交う車が多くて騒々しい。


箱根の親不知(脚気地蔵)
伊豆箱根バス・箱根峠バス停横には箱根の親不知(脚気地蔵)の解説板。これによれば大阪で商いをする呉服商の道楽息子が出奔、行方を捜すべく旅に出た父親が箱根峠に差し掛かったところ、持病の脚気に倒れてしまう。そこを通りがかった駕籠かきが介抱を装い、短刀で刺殺して財布を奪った。この駕籠かきが実はあの道楽息子、父とは気付かずに襲ってしまったのだ。さすがの道楽息子も深く後悔の念にかられ、自身の咽喉に短刀を突き付けたが死にきれず、ついには気が狂って山中の宿に辿り着き相果てたと云う。

しかし肝心のお地蔵さんが見当たらない…。


箱根の親不知(脚気地蔵)
解説板付近から山上へ向けて茂みの中を登ると、斜面に古そうな供養塔らしきものがあった。これが箱根の親不知(脚気地蔵)と何らかの関係があるのか不明。


箱根くらかけゴルフ場入口
箱根峠交差点から箱根くらかけゴルフ場へアクセスする道。この辺りがかつての箱根峠の頂で、伊豆と相模の国境を示す標柱があったのではと思われる。しかし、峠には数多く幹線道が通されて地形が大きく改変されており、往時を偲びようもない。

いよいよ旧東海道の歩き旅も佳境、伊豆の国から相模の国へ。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
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9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
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15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
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23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
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29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

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