三島宿
【2018年9月16日(日)旧東海道 三島宿】

東海道五十三次之内三島 朝霧
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「三島宿」より引用
東海道を京方から来れば静岡県最後の宿駅で、伊豆国としては最初で最後の宿駅となる三島宿。東には天下の険、難所の箱根峠越えが控える。伊豆国の東海道は国境北端を通り、三島宿西端の境川から箱根峠まで。峠を越えれば現神奈川県の相模国で、僅かな距離しかない。平安時代、伊豆国の国府が置かれた三島は伊豆の中心地となり、後に三嶋大社の門前町として発展、江戸期になって東海道五十三次の宿駅に定められ、往来の旅人で賑わいをみせた。”三島女郎衆”と呼ばれる飯盛女は美人が多いとの評判で、東海道膝栗毛の弥次喜多は客引き女に袖を引かれて逃げるも、結局は三島宿に宿泊、飯盛女と遊んだところまでは良かったが、すっぽん騒動を起こしてテンヤワンヤの展開になっている。
三島宿は江戸日本橋から東海道五十三次を11宿目、京都三条大橋から43宿目。天保14年(1843年)当時の人口4084人、家数1025軒、うち本陣2、脇本陣3、旅籠屋74軒。三嶋大社前で東海道から下田街道が分岐する。江戸期を通して幕府の直轄地で天領、江戸初期には将軍休泊用の御殿を設けていた。三嶋大社の土産物として知られた三島暦が名産品。広重は「東海道五十三次之内三島 朝霧」の題で、霧に包まれる三嶋大社の鳥居を背景に、旅人を乗せた駕籠かきや馬曳きが往来する様子を描く。

三島宿京方出入口の西見附跡に鎮座する秋葉神社。

地元の方に話を聞いたところ、秋葉神社の土台となっている石垣は西見附の遺構で、道路を挟んで向かいにも石垣が組まれていたが、そちらは撤去されたという。石垣には溶岩が使われている。

秋葉神社より旧東海道。かつてはここに石塁型の枡形見附があり、宿場への出入りを取り締まっていた。

秋葉神社付近の千貫樋。天文24年(1555年)甲相駿三国同盟が成立、北条氏康の娘早川殿が今川氏真に嫁いだことで、氏康が引出物として小浜池から長堤を築いて駿河に水を通したことに起源があるとされる。樋ははじめ木製だったが、関東大震災で崩落、後に鉄筋コンクリート製へ改められた。

三島宿の西側、加屋町の町並み。

加屋町にある林光寺。

加屋町から西本町に入って間もなくにある和泉屋。名物の”くづ湯”を買いました。

西本町の旧東海道。右手前の”くらや杉山本店”が掲げる看板に注目↓

「江戸時代の昔から 旅人達の汗がにじんでる この道”東海道” 農兵節に唄われた 三嶋女郎衆は この地に居ました」
いいね!

広小路町の町並み。江戸時代に度々大火に見舞われた三島宿は、広小路町の東海道筋に空き地を設け、火災からの類焼を防ぐ火除け地とした。現在は見る影もなく、地名に名残りを見るのみ。

広小路町にある伊豆箱根鉄道の三島広小路駅。

三島広小路駅改札口。交通系ICカードで利用できる自動改札でした。

三島広小路駅の東側、日限地蔵尊を祀る蓮馨寺。日限地蔵尊は古く”身代わり地蔵”と呼ばれたが、何時からか日を限ってお願いすれば叶うと信じられ、”日限のお地蔵さん”と呼ばれるようになったと伝わる。

蓮沼川踏切より、三島広小路駅に停車する三島行列車。

三島広小路駅の北西方には伊豆国分寺。

往古の伊豆国分寺伽藍図。天平13年(741年)聖武天皇の命により、国家鎮護のため日本各国60数ヶ所に造立させた寺院の一つ。南大門を正面入口にして敷地を塀で囲い、中門・回廊・金堂・講堂・僧房・七重の塔等の伽藍を配していた。

境内に現存する七重の塔の礎石。

旧東海道(静岡県道145号)に戻り、”うなぎ桜家”前を通る。15時前だというのに入店待ちのお客さんでいっぱい。

時の鐘と三石神社。三島宿の”時の鐘”が初めて造られたのは寛永年間(1624~44)、宝暦11年(1761)特に大きな鐘が鋳造され、ここ三石神社境内に設置された。第二次世界大戦時に供出され失われたが、昭和25年(1950)市民の有志によって再び姿を取り戻し往時を偲ぶ。

源兵衛川の畔に鎮座する三石神社。かつて元御殿川の川辺に三ツ石という巨石があり、その上に社殿を建てて稲荷を祀ったことにはじまりがあると伝わる。

源兵衛川に架かる古びた石樋。

樋口・世古本陣跡付近、本町の町並み。

2軒あった三島宿本陣の一つ、世古本陣跡。

世古本陣址碑。

全く遺構を残していない世古本陣跡。道路を挟んで向かいが樋口本陣跡。

樋口本陣跡も商店やビルが建ち並び全く遺構を残さない。

現地解説板より引用。三島宿は両本陣とも全く面影を残していないので、復元模型の写真を見て想像を膨らませよう。

本町と中央町の境を流れる御殿川。江戸初期に三島には徳川家光が休泊用に造営させた御殿があり、その脇を流れていたことから御殿川の名が付いた。現在の旧東海道(静岡県道22号)には上御殿橋が架けられている。

上御殿橋付近より本町方面。

三島市中央町別館(三島中央郵便局)の場所が問屋場跡。

近代的な建物に挟まれて異彩を放つ扇屋洋品店の佇まい。

昔懐かしい看板建築の高橋綿店。

三嶋大社前を行く旧東海道(静岡県道22号)。大鳥居前で下田街道が分岐する。下田街道はここから伊豆半島の中央部を進み、天城峠を越えて下田へ至る17里14町(約68km)の道程。

三嶋大社大鳥居より旧東海道と下田街道の分岐点。奥へ直進する道が下田街道。三嶋大社へ参拝したいところだが、先に三島宿を歩き通しておこう。

路傍に旧傳馬町の碑。歩道面には「箱根八里 三島宿←→箱根関所 15km」と示す。箱根関所まで結構遠いなあ…。

日の出町の旧東海道(静岡県道22号)筋にある莨屋肥料店。莨屋と書いて”たばこや”と読む。勉強になりました。

日の出町に鎮座する六所王子神社。ここ周辺一帯はかつて”長谷(ちょうや)と称した地で、その守り神。

同じく日の出町に鎮座する守綱八幡神社。見聞きしたことがない珍しい社名だが由緒不詳。家康に仕えた徳川十六神将の一人、渡辺守綱に関わる神社なのだろうか。

三島宿の東端、大場川に架かる新町橋。大場川の通称は神川(かんがわ)。

新町橋西詰が三島宿の東見附跡。こちらも西見附と同じく石垣が組まれていたはずだが、何も残っていない。

新町橋から大場川右岸を歩いて”三嶋暦師の館”を見学に。ここは江戸時代に三島の名産品、三島暦を代々にわたり編集・印刷・販売をしてきた暦師の旧河合家。現存する建物は安政地震(1854年)後に十里木(現 裾野市)にあった関所の建物を移築したもの。三嶋暦は鎌倉時代には製作されていたと考えられている。

三嶋大社境内の東側出入口から中に入り、神鹿園。

まずは昭和6年(1931)建築の総門から。

次は本殿への出入口、神門。慶応3年(1867)の建築。

神門前にある神馬舎横にある腰掛石。源頼朝と北条政子が腰掛けて休息したと伝わる。

腰掛石近くにはひっそりと佇む感じで芸能殿。昭和5年(1930年)伊豆大震災後に現総門が完成するまで使われていた旧総門の建築物で、一部改造され芸能殿として保存されている。慶応4年(1868年)の建築。

神門を中に入ると舞殿と本殿、厳かな雰囲気が漂う。舞殿と本殿は嘉永7年(1854)に発生した東海地震で被災、慶応2年(1866年)に再建された。

参拝を終えて総門を出れば神池の中に厳島神社。北条政子が勧請したと伝わる。

大鳥居傍に据えられている”たたり石”。元々は大鳥居前の東海道中央にあったもの。”たたり”は祟りではなく、糸のもつれを防ぐ道具の絡垜(たたり)に意があり、人の往来を整理する役目を果たす大石だった。

三嶋大社から旧東海道を京方へ戻り、再び御殿川に架かる上御殿橋に。

御殿跡に鎮座する御殿神社。元は稲荷神社として御殿に祀られていた。御殿地は御殿川右岸に総面積1万坪以上の広さがあったとされ、本丸・二ノ丸を設け東南西辺に石垣土塁が巡らされていた。

樋口・世古本陣跡に戻り三島宿の散策は終わり。三島駅へ向かおう。

三島駅への途次、愛染院跡の熔岩塚を見る。これは約1万年前の富士山噴火で流下してきた三島溶岩流の末端。火口からここまで約40kmも離れている。愛染院は室町期に三嶋大社の別当寺院だった伊豆随一の大寺院、明治元年(1868年)の神仏分離令で廃寺となり、現在は跡形もない。ここは愛染院の庭園の一部だったとも云われる。

三島駅から”こだま東京行”に乗車し帰途につく。
【旧東海道歩き 第33日目】沼津駅→沼津宿→三島宿→三島駅 歩行距離約12km

東海道五十三次之内三島 朝霧
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「三島宿」より引用
東海道を京方から来れば静岡県最後の宿駅で、伊豆国としては最初で最後の宿駅となる三島宿。東には天下の険、難所の箱根峠越えが控える。伊豆国の東海道は国境北端を通り、三島宿西端の境川から箱根峠まで。峠を越えれば現神奈川県の相模国で、僅かな距離しかない。平安時代、伊豆国の国府が置かれた三島は伊豆の中心地となり、後に三嶋大社の門前町として発展、江戸期になって東海道五十三次の宿駅に定められ、往来の旅人で賑わいをみせた。”三島女郎衆”と呼ばれる飯盛女は美人が多いとの評判で、東海道膝栗毛の弥次喜多は客引き女に袖を引かれて逃げるも、結局は三島宿に宿泊、飯盛女と遊んだところまでは良かったが、すっぽん騒動を起こしてテンヤワンヤの展開になっている。
三島宿は江戸日本橋から東海道五十三次を11宿目、京都三条大橋から43宿目。天保14年(1843年)当時の人口4084人、家数1025軒、うち本陣2、脇本陣3、旅籠屋74軒。三嶋大社前で東海道から下田街道が分岐する。江戸期を通して幕府の直轄地で天領、江戸初期には将軍休泊用の御殿を設けていた。三嶋大社の土産物として知られた三島暦が名産品。広重は「東海道五十三次之内三島 朝霧」の題で、霧に包まれる三嶋大社の鳥居を背景に、旅人を乗せた駕籠かきや馬曳きが往来する様子を描く。

三島宿京方出入口の西見附跡に鎮座する秋葉神社。

地元の方に話を聞いたところ、秋葉神社の土台となっている石垣は西見附の遺構で、道路を挟んで向かいにも石垣が組まれていたが、そちらは撤去されたという。石垣には溶岩が使われている。

秋葉神社より旧東海道。かつてはここに石塁型の枡形見附があり、宿場への出入りを取り締まっていた。

秋葉神社付近の千貫樋。天文24年(1555年)甲相駿三国同盟が成立、北条氏康の娘早川殿が今川氏真に嫁いだことで、氏康が引出物として小浜池から長堤を築いて駿河に水を通したことに起源があるとされる。樋ははじめ木製だったが、関東大震災で崩落、後に鉄筋コンクリート製へ改められた。

三島宿の西側、加屋町の町並み。

加屋町にある林光寺。

加屋町から西本町に入って間もなくにある和泉屋。名物の”くづ湯”を買いました。

西本町の旧東海道。右手前の”くらや杉山本店”が掲げる看板に注目↓

「江戸時代の昔から 旅人達の汗がにじんでる この道”東海道” 農兵節に唄われた 三嶋女郎衆は この地に居ました」
いいね!

広小路町の町並み。江戸時代に度々大火に見舞われた三島宿は、広小路町の東海道筋に空き地を設け、火災からの類焼を防ぐ火除け地とした。現在は見る影もなく、地名に名残りを見るのみ。

広小路町にある伊豆箱根鉄道の三島広小路駅。

三島広小路駅改札口。交通系ICカードで利用できる自動改札でした。

三島広小路駅の東側、日限地蔵尊を祀る蓮馨寺。日限地蔵尊は古く”身代わり地蔵”と呼ばれたが、何時からか日を限ってお願いすれば叶うと信じられ、”日限のお地蔵さん”と呼ばれるようになったと伝わる。

蓮沼川踏切より、三島広小路駅に停車する三島行列車。

三島広小路駅の北西方には伊豆国分寺。

往古の伊豆国分寺伽藍図。天平13年(741年)聖武天皇の命により、国家鎮護のため日本各国60数ヶ所に造立させた寺院の一つ。南大門を正面入口にして敷地を塀で囲い、中門・回廊・金堂・講堂・僧房・七重の塔等の伽藍を配していた。

境内に現存する七重の塔の礎石。

旧東海道(静岡県道145号)に戻り、”うなぎ桜家”前を通る。15時前だというのに入店待ちのお客さんでいっぱい。

時の鐘と三石神社。三島宿の”時の鐘”が初めて造られたのは寛永年間(1624~44)、宝暦11年(1761)特に大きな鐘が鋳造され、ここ三石神社境内に設置された。第二次世界大戦時に供出され失われたが、昭和25年(1950)市民の有志によって再び姿を取り戻し往時を偲ぶ。

源兵衛川の畔に鎮座する三石神社。かつて元御殿川の川辺に三ツ石という巨石があり、その上に社殿を建てて稲荷を祀ったことにはじまりがあると伝わる。

源兵衛川に架かる古びた石樋。

樋口・世古本陣跡付近、本町の町並み。

2軒あった三島宿本陣の一つ、世古本陣跡。

世古本陣址碑。

全く遺構を残していない世古本陣跡。道路を挟んで向かいが樋口本陣跡。

樋口本陣跡も商店やビルが建ち並び全く遺構を残さない。

現地解説板より引用。三島宿は両本陣とも全く面影を残していないので、復元模型の写真を見て想像を膨らませよう。

本町と中央町の境を流れる御殿川。江戸初期に三島には徳川家光が休泊用に造営させた御殿があり、その脇を流れていたことから御殿川の名が付いた。現在の旧東海道(静岡県道22号)には上御殿橋が架けられている。

上御殿橋付近より本町方面。

三島市中央町別館(三島中央郵便局)の場所が問屋場跡。

近代的な建物に挟まれて異彩を放つ扇屋洋品店の佇まい。

昔懐かしい看板建築の高橋綿店。

三嶋大社前を行く旧東海道(静岡県道22号)。大鳥居前で下田街道が分岐する。下田街道はここから伊豆半島の中央部を進み、天城峠を越えて下田へ至る17里14町(約68km)の道程。

三嶋大社大鳥居より旧東海道と下田街道の分岐点。奥へ直進する道が下田街道。三嶋大社へ参拝したいところだが、先に三島宿を歩き通しておこう。

路傍に旧傳馬町の碑。歩道面には「箱根八里 三島宿←→箱根関所 15km」と示す。箱根関所まで結構遠いなあ…。

日の出町の旧東海道(静岡県道22号)筋にある莨屋肥料店。莨屋と書いて”たばこや”と読む。勉強になりました。

日の出町に鎮座する六所王子神社。ここ周辺一帯はかつて”長谷(ちょうや)と称した地で、その守り神。

同じく日の出町に鎮座する守綱八幡神社。見聞きしたことがない珍しい社名だが由緒不詳。家康に仕えた徳川十六神将の一人、渡辺守綱に関わる神社なのだろうか。

三島宿の東端、大場川に架かる新町橋。大場川の通称は神川(かんがわ)。

新町橋西詰が三島宿の東見附跡。こちらも西見附と同じく石垣が組まれていたはずだが、何も残っていない。

新町橋から大場川右岸を歩いて”三嶋暦師の館”を見学に。ここは江戸時代に三島の名産品、三島暦を代々にわたり編集・印刷・販売をしてきた暦師の旧河合家。現存する建物は安政地震(1854年)後に十里木(現 裾野市)にあった関所の建物を移築したもの。三嶋暦は鎌倉時代には製作されていたと考えられている。

三嶋大社境内の東側出入口から中に入り、神鹿園。

まずは昭和6年(1931)建築の総門から。

次は本殿への出入口、神門。慶応3年(1867)の建築。

神門前にある神馬舎横にある腰掛石。源頼朝と北条政子が腰掛けて休息したと伝わる。

腰掛石近くにはひっそりと佇む感じで芸能殿。昭和5年(1930年)伊豆大震災後に現総門が完成するまで使われていた旧総門の建築物で、一部改造され芸能殿として保存されている。慶応4年(1868年)の建築。

神門を中に入ると舞殿と本殿、厳かな雰囲気が漂う。舞殿と本殿は嘉永7年(1854)に発生した東海地震で被災、慶応2年(1866年)に再建された。

参拝を終えて総門を出れば神池の中に厳島神社。北条政子が勧請したと伝わる。

大鳥居傍に据えられている”たたり石”。元々は大鳥居前の東海道中央にあったもの。”たたり”は祟りではなく、糸のもつれを防ぐ道具の絡垜(たたり)に意があり、人の往来を整理する役目を果たす大石だった。

三嶋大社から旧東海道を京方へ戻り、再び御殿川に架かる上御殿橋に。

御殿跡に鎮座する御殿神社。元は稲荷神社として御殿に祀られていた。御殿地は御殿川右岸に総面積1万坪以上の広さがあったとされ、本丸・二ノ丸を設け東南西辺に石垣土塁が巡らされていた。

樋口・世古本陣跡に戻り三島宿の散策は終わり。三島駅へ向かおう。

三島駅への途次、愛染院跡の熔岩塚を見る。これは約1万年前の富士山噴火で流下してきた三島溶岩流の末端。火口からここまで約40kmも離れている。愛染院は室町期に三嶋大社の別当寺院だった伊豆随一の大寺院、明治元年(1868年)の神仏分離令で廃寺となり、現在は跡形もない。ここは愛染院の庭園の一部だったとも云われる。

三島駅から”こだま東京行”に乗車し帰途につく。
【旧東海道歩き 第33日目】沼津駅→沼津宿→三島宿→三島駅 歩行距離約12km

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