久留里城址 ~新井白石の居宅跡を訪ねてから二の丸へ~
房総半島の中央部、江戸時代に上総国望陀(もうだ)郡久留里(現 千葉県君津市久留里)一帯を支配した久留里藩。その藩庁が置かれた久留里城は、戦国時代に里見氏が敵対する北条氏を睨む最前線を担う重要な城だった。天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅亡、里見義康は秀吉から参陣を命じられるも従わなかったために安房を残して上総の所領を没収される。北条氏旧領の関東へ入った徳川家康は家臣榊原康政の嫡男大須賀忠政(松平忠政)に3万石を与えて久留里へ入封させて久留里藩を立藩、以後城郭や城下町の整備が進められた。慶長6年(1601)忠政は関ヶ原合戦の功により6万石に加増されて遠江国横須賀藩へ転封、代わって土屋忠直が入るが、延宝7年(1679)に土屋氏が改易されて廃藩となり廃城の状態に。それから63年後の寛保2年(1742)上野国沼田藩から黒田直純が3万石で入封し再立藩、以後明治維新まで9代にわたって黒田氏が当地を治めた。
戊辰戦争で久留里藩は新政府軍に帰順。明治4年(1871)廃藩置県により久留里県となり、翌年(1872)廃城令により城の建造物は撤去された。後に木更津県を経て明治6年(1873)千葉県に編入。廃城になってから83年後の昭和30年(1955)国有地となっていた城郭跡地は借受されて城山公園に整備され、同54年(1979)天守台脇に今に見るRC構造の模擬天守が建造された。丘陵部に築かれた本丸や二ノ丸一帯は良好に遺構を残しているが、山裾から小櫃川にかけての平地に築かれていた三の丸や外曲輪は宅地や農地化して往時の様子を偲ぶことが難しい。

久留里駅から国道410号(久留里街道)を久留里城へ向かう途次、国道沿いにある高澤の水でまずは喉を潤し。城下町だった久留里一帯は上総掘りの自噴井戸が所々に残り、これらの井戸水は平成20年(2008)「平成の名水百選」に選ばれた。

久留里駅から国道410号を歩いてきてホワイト急便から左折する道が久留里道の旧道。

ホワイト急便より久留里駅方面の国道(旧久留里道)。

国道から左折して旧道に入れば安住(あんじゅう)地区の旧侍屋敷地。

往時を偲ばせる屋敷が沿道に見られる。

安住地区の旧侍屋敷地。

安住公会堂。

公会堂の敷地内に新井白石居宅跡の解説板が設置されている。新井白石は青年期に久留里藩主土屋利直に仕え、安住の侍屋敷に住んでいたと伝わる。21歳の時に藩主土屋家の内紛のため久留里藩を追放され、江戸へ出て木下順庵の門下に入って後に幕閣入りを果たす。間部詮房と共に6代将軍徳川家宣と7代将軍家継を補佐し、生類憐みの令の廃止をはじめ勘定所の改革や通貨改良、貿易制限による金銀流失を防ぐなど前代の弊政改廃に尽力した。これらの政策を総称して当時の年号から”正徳の治”と呼ばれる。

「史跡新井白石居住之地」碑。

公会堂の少し東側、上総小学校(旧久留里小学校)の入口脇にもひっそりと「新井白石居宅跡」の標柱と解説板。

こちらの解説板は郷土誌編纂員の和田正夫さんが設置したもの。ここに新井白石居宅があったとの説を主張しているように思える。

新井白石居宅跡のすぐ傍に浅間山遊歩道入口がある。このルートからも久留里城本丸へ行けるのかもしれないが、整備状態が怪しかったのでパス。

山裾の舗装道を進んで真勝寺へ。

真勝寺の墓地にある久留里藩黒田家第9代で最後の藩主黒田直養公の墓をお参り。

国道410号(旧久留里道)から真勝寺へ至る参道。

真勝寺参道入口から国道410号(旧久留里道)を久留里城方面へ進んで、沿道左手に田丸家の銘水。この辺りは久留里城外曲輪の北端にあたり、そこにある田丸家の井戸から引かれた水汲み場が設けられている。

この蛇口をひねればひんやりした美味しい水がいただけます。

水質検査結果報告書と解説文。この水は明治期に田丸家で上総掘りで掘られた井戸からの引き水で、清澄山系の伏流水といわれる。水温は常時13度でミネラル豊富な水とのこと。

田丸家の銘水の水汲み場に設置される久留里城址公園入口標柱の解説文。久留里城址公園入口標柱は大正7年(1918)に久留里小学校に建築寄贈された「聖彰奉安殿」の標柱で、昭和20年(1945)の終戦とともに教育方針の転換から奉安殿が撤去され、同29年(1954)城址公園の案内標柱として再利用された。

今は役目を終えて横たわる久留里城址公園入口標柱。別面に刻まれていた「聖彰奉安殿」はセメントで埋められているらしい。

田丸家の銘水から国道(旧久留里道)を久留里城方面へ進んで。右手に”さんのまる薬局”。このちょい先、左手に入る道が外曲輪出入口の外張(戸張)門に通じる。

「ようこそ 城と生きた水の里 久留里城入口」の看板が設置されているこの場所が外張(戸張)門跡。

外張(戸張)門跡から左(北東方、山側)に入る道が登城路。

外曲輪の外張(戸張)門跡から山へ向かって延びる登城路。

現在の登城路は舗装された道がトンネルを抜けて二の丸へ続く。トンネル手前を左に入る小路が旧登城路。

旧登城路を進み。

その途中に鎮座する城山神明社。

城山神明社に祀られる黒田家の守護神だった丹生明神は、久留里藩黒田家初代藩主の黒田直純が久留里城再建の際の延享2年(1745)、城の鬼門封じとして勧請されたことに起源がある。天明2年(1782)剣之峯に社殿をを設け円生明神が遷座されたという。

城山神明社から二の丸へ向けて延びる旧登城路。2019年に千葉県で猛威を振るった台風15号による被害で、旧登城路は倒木等で荒れたままの状態。自己責任で進もう。

旧登城路を進み。

路傍には久留里小学校や真勝寺の方向を示す道標が横たわっていた。

先ほど新井白石居宅跡付近で見た浅間山遊歩道入口から延びる道は、ここに通じていたのかもしれない。

天守閣がある本丸へ向けて先へ進もう。

旧登城路の左下には現登城路の舗装道。

旧登城路の右手に火薬庫跡の標柱。

火薬庫跡から旧登城路を進んで途中、大木が根元から地面を剥がれ斜めに。一昨年(2019)の台風15号の影響だろうか。

尾根伝いに延びる旧登城路。

眼下にかつての三の丸や外曲輪を望み。

二の丸へ入る手前に設けられていた堀切跡。

二の丸側より堀切跡。現在は旧登城路が少しくぼんでいる程度の遺構。

二の丸近くにあるお玉が池。
戦国時代、里見義堯は二の丸の水源確保のため兵馬という家臣に水溜めの池を掘るよう命じる。しかしその工事半ばで兵馬は兵糧庫を焼失させた過失を問われ捕らわれの身に。当時の城将小川秀政の娘”お玉”はこれを哀れんで代わって池を掘り続けたが、兵馬は嫌疑を晴らすことができず打ち首になったという。後にお玉は剃髪し兵馬を弔ったとの伝説が残る。
訪問日:2021年5月4日(火)
戊辰戦争で久留里藩は新政府軍に帰順。明治4年(1871)廃藩置県により久留里県となり、翌年(1872)廃城令により城の建造物は撤去された。後に木更津県を経て明治6年(1873)千葉県に編入。廃城になってから83年後の昭和30年(1955)国有地となっていた城郭跡地は借受されて城山公園に整備され、同54年(1979)天守台脇に今に見るRC構造の模擬天守が建造された。丘陵部に築かれた本丸や二ノ丸一帯は良好に遺構を残しているが、山裾から小櫃川にかけての平地に築かれていた三の丸や外曲輪は宅地や農地化して往時の様子を偲ぶことが難しい。

久留里駅から国道410号(久留里街道)を久留里城へ向かう途次、国道沿いにある高澤の水でまずは喉を潤し。城下町だった久留里一帯は上総掘りの自噴井戸が所々に残り、これらの井戸水は平成20年(2008)「平成の名水百選」に選ばれた。

久留里駅から国道410号を歩いてきてホワイト急便から左折する道が久留里道の旧道。

ホワイト急便より久留里駅方面の国道(旧久留里道)。

国道から左折して旧道に入れば安住(あんじゅう)地区の旧侍屋敷地。

往時を偲ばせる屋敷が沿道に見られる。

安住地区の旧侍屋敷地。

安住公会堂。

公会堂の敷地内に新井白石居宅跡の解説板が設置されている。新井白石は青年期に久留里藩主土屋利直に仕え、安住の侍屋敷に住んでいたと伝わる。21歳の時に藩主土屋家の内紛のため久留里藩を追放され、江戸へ出て木下順庵の門下に入って後に幕閣入りを果たす。間部詮房と共に6代将軍徳川家宣と7代将軍家継を補佐し、生類憐みの令の廃止をはじめ勘定所の改革や通貨改良、貿易制限による金銀流失を防ぐなど前代の弊政改廃に尽力した。これらの政策を総称して当時の年号から”正徳の治”と呼ばれる。

「史跡新井白石居住之地」碑。

公会堂の少し東側、上総小学校(旧久留里小学校)の入口脇にもひっそりと「新井白石居宅跡」の標柱と解説板。

こちらの解説板は郷土誌編纂員の和田正夫さんが設置したもの。ここに新井白石居宅があったとの説を主張しているように思える。

新井白石居宅跡のすぐ傍に浅間山遊歩道入口がある。このルートからも久留里城本丸へ行けるのかもしれないが、整備状態が怪しかったのでパス。

山裾の舗装道を進んで真勝寺へ。

真勝寺の墓地にある久留里藩黒田家第9代で最後の藩主黒田直養公の墓をお参り。

国道410号(旧久留里道)から真勝寺へ至る参道。

真勝寺参道入口から国道410号(旧久留里道)を久留里城方面へ進んで、沿道左手に田丸家の銘水。この辺りは久留里城外曲輪の北端にあたり、そこにある田丸家の井戸から引かれた水汲み場が設けられている。

この蛇口をひねればひんやりした美味しい水がいただけます。

水質検査結果報告書と解説文。この水は明治期に田丸家で上総掘りで掘られた井戸からの引き水で、清澄山系の伏流水といわれる。水温は常時13度でミネラル豊富な水とのこと。

田丸家の銘水の水汲み場に設置される久留里城址公園入口標柱の解説文。久留里城址公園入口標柱は大正7年(1918)に久留里小学校に建築寄贈された「聖彰奉安殿」の標柱で、昭和20年(1945)の終戦とともに教育方針の転換から奉安殿が撤去され、同29年(1954)城址公園の案内標柱として再利用された。

今は役目を終えて横たわる久留里城址公園入口標柱。別面に刻まれていた「聖彰奉安殿」はセメントで埋められているらしい。

田丸家の銘水から国道(旧久留里道)を久留里城方面へ進んで。右手に”さんのまる薬局”。このちょい先、左手に入る道が外曲輪出入口の外張(戸張)門に通じる。

「ようこそ 城と生きた水の里 久留里城入口」の看板が設置されているこの場所が外張(戸張)門跡。

外張(戸張)門跡から左(北東方、山側)に入る道が登城路。

外曲輪の外張(戸張)門跡から山へ向かって延びる登城路。

現在の登城路は舗装された道がトンネルを抜けて二の丸へ続く。トンネル手前を左に入る小路が旧登城路。

旧登城路を進み。

その途中に鎮座する城山神明社。

城山神明社に祀られる黒田家の守護神だった丹生明神は、久留里藩黒田家初代藩主の黒田直純が久留里城再建の際の延享2年(1745)、城の鬼門封じとして勧請されたことに起源がある。天明2年(1782)剣之峯に社殿をを設け円生明神が遷座されたという。

城山神明社から二の丸へ向けて延びる旧登城路。2019年に千葉県で猛威を振るった台風15号による被害で、旧登城路は倒木等で荒れたままの状態。自己責任で進もう。

旧登城路を進み。

路傍には久留里小学校や真勝寺の方向を示す道標が横たわっていた。

先ほど新井白石居宅跡付近で見た浅間山遊歩道入口から延びる道は、ここに通じていたのかもしれない。

天守閣がある本丸へ向けて先へ進もう。

旧登城路の左下には現登城路の舗装道。

旧登城路の右手に火薬庫跡の標柱。

火薬庫跡から旧登城路を進んで途中、大木が根元から地面を剥がれ斜めに。一昨年(2019)の台風15号の影響だろうか。

尾根伝いに延びる旧登城路。

眼下にかつての三の丸や外曲輪を望み。

二の丸へ入る手前に設けられていた堀切跡。

二の丸側より堀切跡。現在は旧登城路が少しくぼんでいる程度の遺構。

二の丸近くにあるお玉が池。
戦国時代、里見義堯は二の丸の水源確保のため兵馬という家臣に水溜めの池を掘るよう命じる。しかしその工事半ばで兵馬は兵糧庫を焼失させた過失を問われ捕らわれの身に。当時の城将小川秀政の娘”お玉”はこれを哀れんで代わって池を掘り続けたが、兵馬は嫌疑を晴らすことができず打ち首になったという。後にお玉は剃髪し兵馬を弔ったとの伝説が残る。
訪問日:2021年5月4日(火)

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