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はじめに

新年を迎え「今年一年の抱負を」と言われても、親兄弟自分も含め健康に生活していければ・・・なんてことぐらいしかない。せめて何か目標を持って今年一年を過ごしていければと思い立ったのが旧中山道踏破であります。

実は数年前にも一度チャレンジしましたが軽井沢にて断念。軽井沢から先は交通の便が極端に悪くなり、千葉県に在住する私にとっては電車で行って歩いてまた電車で帰ってくるという日帰り徒歩旅行は時間と忍耐の限界に達しました。

サラリーマンを生業とする私にとっては週休二日との建前があるにもかかわらず、ほとんど日曜日と祝日くらいしか休みが無く、30も半ばにして一人身という現実が、週に一度の休みも買出しや掃除洗濯のためにあるようなもので、なかなか歩く時間など作ることができませんでした。

しかし今年は幸いなことに長年の勤労に対する褒賞休暇なるものが5日間頂けるとのことで、ゴールデンウィークとこの褒賞休暇をうまく利用すれば達成も可能なのではないかと思い、再び決心した次第であります。

12月には京都の三条大橋に立つことを夢見て大江戸八百八町の中心、日本橋を出立します。そんな道中の軌跡をこのブログに残し、少しでも旧中山道中の魅力を伝えていければと思います。
といっても所詮、自己満足の世界ですが・・・
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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

まずは中山道の概要

この道は江戸日本橋と京都三条大橋を結び、その間69箇所の宿場町がある総距離百三十五里三十二町(約534km)の道のりです。江戸時代、太平洋側を通る東海道と山岳地帯を進む中山道は江戸と京都を結ぶ重要な街道であり、日光道中、奥州道中、甲州道中とともに五街道と呼ばれていました。中山道の起点、日本橋

中山道の成立は江戸幕府が1601年(慶長6年)から7年にわたり、それ以前からあった東山道をもとに整備されたもので、大名の宿泊施設である本陣や脇本陣が各宿場に設置され一里(約4km)ごとに一里塚が築かれました。

一日に20km歩いたとして27日間、月4日歩いたとすると約7ヶ月で達成可能・・・机上の計算ではいけそうな気がしてきました。ちなみに江戸時代の旅人は1日で約40km歩いたそうですから、江戸から京都まで2週間足らずで辿り着いたことになります。車社会に育った我々にとっては到底想像もできないような強行軍ですが、当時の人々にとってはごく当たり前のことだったのでしょう。
英泉「木曾街道続ノ壹 日本橋 雪之曙」
といっても鉄路がようやく品川駅と横浜駅間で開通したのが1872年(明治5年)でありますから、私どもの曾祖父さんや曾祖母さんの頃には東京から京都に行くには歩いて行くしかなかったわけで・・・これは遠いようでそう遠くはない昔話なのであります。

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日本橋っ!

【第1日目】1月7日(日)



爆弾低気圧とやらの到来で前日は大雨。さすがに出立は無理かと思っていたが、今日は少々風が強いが嘘のように晴れ上がり快晴。ところどころに黒い雲は残るもののおそらく雨は降らないだろうとの判断で日本橋へ向かう。

銀座線の日本橋駅で降り、まずは日本橋の品川側にあるエクセルシオールで朝食と軽く一服を済ませ11時に日本橋に立つ。
現在の日本橋は明治44年に完成
日本橋はその頭上に首都高が走っているため、景観が失われていると最近にわかに世論が盛り上がり、首都高を地下に埋めてしまおうという計画が持ち上がっている場所である。確かにここに立つとそのことを実感できる。英泉が日本橋の景観を描いた有名な浮世絵である「日本橋雪之曙」のように、お天と様どころか首都高に遮られてろくに空すら見えやしない。絵に描かれている江戸橋の向こう側に日が昇る光景など、現在では不可能な代物なのである。

たまたま女の子が英泉の絵を片手に同じような構図で写真を撮っているようだったが、おそらく自分と同じような葛藤を抱いたことでしょう、多分・・・。早いとこ首都高埋伏計画を実現して、日本橋に日の光を取り戻してほしい。そしてついでにあの巨大な排水溝と化している日本橋川も優雅に川船が行き交う清流にしてほしいなぁ・・・とつくづく願うしだいである。日本国道路元標

前置きが長くなってしったが、日本橋は知る人ぞ知る日本の道の起点であり、五街道はもちろんのこと日本国総ての道は日本橋に通じると言っても過言ではない場所であります。その証として日本国道路元標なるものが、日本橋の北詰に設置されている。

そして忘れてはならないのがここにあった魚河岸の存在である。かつてこの日本橋が架かる日本橋川沿いには魚の問屋や店が密集し、魚河岸と呼ばれる市場が形成されていた。江戸近郊で水揚げされた魚介類がここに船で運ばれ集まってきたのである。現在の変わり果てた光景を見てしまうと想像するのも難しいが、江戸前の魚介類がここに来れば食し、手に入っていたのかと思うと感慨深く、何となく魚の生臭い匂いが日本橋の上でも感じ取ることができるのである。かなり気のせいだが・・・

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今川橋のおじいさん

さてさて中山道の一歩を踏み出す。
まず目に飛び込んでくるのが三越本店の巨大な建物。ここは延宝元年(1673)に三井高利(三井家の家祖)が開いた越後屋呉服店のあった場所であり、これが後の三越となる。
日本橋から望む中山道(現中央通り)
時代劇でよく耳にする悪徳商人「越後屋ぁ・・・お主も悪じゃのう」とは一切関わりは無いと思うのであしからず。ちなみに日本で初めてエスカレーターが設置されたのが、ここ越後屋呉服店なのである。これが何と遡ること約90年前の1914年(大正3年)のことで、この年には現在の東京駅駅舎が建築され、第一次世界大戦が勃発した。

中央通りを先へ進む。
りそな銀行がある場所はかつて「十軒店(じっけんだな)」と呼ばれ、江戸時代初期から桃の節句や端午の節句に人形を売る仮の店があったことがその名の由来と言われている。五代将軍徳川綱吉が京都の人形師十人を招き、長屋を与えて雛人形屋を開かせたところとも言われる。十軒店跡

明治時代以降もこの地は「本石十軒店」と称されていたが、昭和に入り旧日本橋区室町三丁目に編入されてしまい、その名残を残すものは無くなってしまった。

中央通りを進み中央区から千代田区に入る。この区境にある小路がかつて竜閑川が流れていた場所であり、中山道はここを今川橋で渡った。現在、川は埋め立てられ車一台がやっと通れるような不自然な道となっているが、おそらく川の幅がそのままこの道幅になったのであろう。
橋の存在を気づかせてくれるものは、この先にある今川橋交差点の名と今川橋跡の石碑だけで、すっかり歴史の中に埋もれてしまった。

しかし実はここ、「今川焼き」発祥の地なのである。江戸時代に丸型の焼き菓子をこの付近で売り始めたことがきっかけで、この名がついた。

今川橋跡の案内板を読んでいると、70とも80とも思しめきおじいさんが話しかけてきた。
「ここには川が流れててねぇ、その道のところには橋が架かってたんだよ。」
「はぁ・・・そのようですね。」
「車の動きをよく見てごらんなさい。ちょっと盛り上がっている場所があるだろう。」
「はぁ・・・なるほど。」
私は目を凝らしてよく見てみる。
「それが今川橋の名残なんだよ。」

確かにこの小道と中央通りが交差する場所に多少の起伏が見受けられる。おそらくおじいさんの若かりし頃には現存していたのであろう。さすがにこれには全く気づかなかった。今でもおじいさんには在りし日の今川橋が見えているのだろうか・・・

JR神田駅のガード下をくぐる。この辺りには鍛冶町や紺屋町など江戸城下を偲ぶ粋な地名も多く残る。まもなく旧中山道は靖国通りとの交差点先で、中央通りを離れ直進する。
もう目の前には秋葉原の電気街が見えていた。

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聖地・秋葉原

神田川を昌平橋で渡る。ここから東側にかけての秋葉原駅周辺一帯は電気街として世界的?に有名な場所であり、多くの外国人観光客も見受けられる。最近は再開発ラッシュとなりダイビルやUDXビルなど巨大なビルが建ちはじめた。

そもそも秋葉原の名は明治期になってから歴史上に登場し、由来は明治維新直後の1869年(明治2年)にこの周辺一帯で大火事があり、これを機会に政府は焼け野原となったこの場所を火除地(避難場所)とした。古川柳に「火事と喧嘩は江戸の華」と詠まれるほど、江戸では火事が絶えなかった。
翌年、火防(ひぶせ)・火除けの神である秋葉(あきば)大権現を勧請し、鎮火の神様として祀った。これをきっかけに庶民はこの地を秋葉原と呼ぶようになったわけだが、当初は「あきばはら」「あきばっぱら」などと発音されていた。

1890年(明治23年)に上野から鉄道が延長され、この場所に駅(貨物駅)が設置されたときに駅名を「あきはばら」と誤植され、その読み方が現在に至ってしまった。起源からは「あきばはら」と呼ぶのが正しいのである。

私が初めて東京に来たころ(15年前)の秋葉原は、既に大小様々な電気店が軒を並べる現在の形はできあがっていた。とにかく秋葉原に来れば電化製品が何でも安く買えるというイメージである。当時田舎には郊外型の家電量販店なんてものはなかったから、みんなそう思っていた。

UDXとダイビルがある場所はかつて神田青果市場があった所で、私が初めて行った頃には既に大田区へ移転していた。ここには駅側から駅前広場、巨大な平面駐車場、車のスロープが廻るコンクリむき出しの建物があったことを覚えている。後に建物は壊され更地となり平面駐車場と併せ現在の形となった。仕事柄、秋葉原に電気部品や線材をよく買いに来ていたので、ここに車を停めては秋葉原を散策していたこと思い出す。そんな時代に生きてきた自分にとっては「秋葉原クロスフィードは・・・」何て言われても今ひとつピンとこない。
それともう一つ。秋葉原デパート!閉店するのはかまわないが、せめて入口付近にあった讃岐うどんの店は復活させてほしい!あそこのきつねうどんのおにぎりセット、最高でした。

話を戻します。最近の秋葉原について語ります。
秋葉原といえば?と聞かれ、とっさに何が思いつきますか?
今では「オタク」が多数を占めるのではないだろうか。そもそもオタクなんて言葉は無かった昨今に生きてきた自分にとっては、オタクとマニアの意味する違いがよくわからないにも関わらず、オタクという言葉には誰かが意図した悪意というか蔑視を感じる。別にオタクを擁護しようというわけではないが・・・。現在オタク=アキバ系みたいなイメージがあるが、そもそもオタクという言葉が世の中に広く認知され、世間的にオタクといえば秋葉原みたいなイメージが出来はじめたのは、映画・ドラマ化された「電車男」の影響が大きいのではないかと思う。それ以前からオタクという言葉は存在していたのであろうが、それは所詮ごく一部の人々だけの話で、この言葉が市民権を得るに至った経緯は電車男を抜きには語れないと思う。エルメス役の伊東美咲がメイド姿で「ご主人様、お帰りなさいませ」という台詞が今でも脳裏に焼きついて離れない。まさに萌え~である。

電気部品から無線、家電品、パソコンショップと時代の遷移を経てきた秋葉原であるが、最近になってゲームはもちろんのことアイドル、フィギュア、アニメ、コスチューム・・・しまいにゃメイド喫茶でご主人様ときたもんだ。テレビや雑誌の偏向報道も一因であると思うが、様々なオタクが闊歩する聖地的な場所となってしまった。

旧態依然としてあるラジオデパートなどの電気部品小売店も健在で、新興メイド喫茶やフィギュア、アニメ店等とともに一種独特の雰囲気を作りはじめている。そんな中に秋葉原クロスフィールドである。どんな街となっていくのか秋葉原・・・今後も推移を見守りたい。

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明神下の岡っ引き

秋葉原を後にし湯島坂を上る。ここからは本郷通りを進む。右に神田明神の鳥居と左に湯島聖堂が見えてくる。まずは湯島聖堂に行く。ここは1690年(元禄3年)、徳川五代将軍綱吉が儒学を奨励するために孔子を祀り創建した。1797年(寛政9年)には幕府により「昌平坂学問所」が置かれ、明治維新に至る70年間にわたり公立大学の機能を果たした。
厳粛な雰囲気が漂う湯島聖堂
湯島聖堂の杏壇門を入るといきなり厳粛な雰囲気に包まれる。黒塗りされた建物がそのことをより一層際立たせているようだ。大成殿に入り孔子像にお参りする。都心にもこんな静寂な場所があるのだ。

神田明神に向かう。まずは参道入口にある茶屋の明神甘酒で体を温める。上品な甘さという表現がぴったりな飲み口である。しかし1杯350円というのはちょっと高い気もするのだが・・・
神田明神は平将門を祀っている場所として知られる。将門神に祈願すれば勝負に勝つといわれ、徳川家康も関が原の戦いに際しここで戦勝祈願した。
初詣で客で賑わう神田明神
今日は初詣客で随分と賑わっている。お賽銭を投げるのも順番待ちのありさまだ。私も10分程並んでお賽銭を投げ早速祈願した。「パチと競馬で勝てますように・・・」あとは内緒。

社殿右脇に「銭形平次」と彫られた石碑がある。銭形平次といえば投げ銭を武器に悪者を鮮やかに捕縛するあの岡っ引きである。時代劇の定番中の定番である。
ちょっと気になったので調べてみた。
これは銭形平次が神田明神下の長屋に住んでいるという設定だったので、原作者である野村胡堂の死後、ここに功績を称え建立された。
「男だった~ら、ひとつにか~け~る~♪か~け~ても~つれ~た謎をと~く~♪」まさに謎は解けました。意外な発見があるものです。ちなみにルパン三世に登場するとっつぁんこと銭形警部は平次の子孫です。

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大岡越前の名裁き

本郷通りを先へ進む。右手に東京ガーデンパレスの大きな建物がある。かつてここには日本医科大学の前身となる医師養成学校の済生学舎があった。黄熱病・梅毒の研究で有名な野口英世もここに在籍していた。野口英世は多くの伝記や小説に取り上げられ、今日では千円札の肖像画にもなっている。

蔵前橋通りとの合流地点で地名は湯島から本郷となる。更に本郷通りを進み、春日通りと交差する本郷三丁目交差点に至る。

この交差点角に「かねやす」という店がある。あいにく入口はシャッターに閉ざされ店内の様子をうかがい知ることはできなかったが、ここは江戸時代から続く老舗の雑貨店なのである。
かねやすの成り立ちは兼康祐悦という口中医師(歯科医)が乳香散という歯磨き粉を売り出したところ大評判となったことが始まりである。
古川柳にも詠まれた「かねやす」
享保15年(1730年)にこの周辺一帯で大火事があり、当時の町奉行大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)は防災上の理由で、ここを境に江戸城側を土蔵造りの塗屋にし屋根を瓦で葺くこととした。一方でここから先の中山道は従来の板や茅葺きの町家が続いた。その境目にあるかねやすの大きな土蔵は特に目立ち、「本郷も かねやすまでは 江戸の内」と古川柳にも詠まれた。
大岡越前といえば「大岡裁き」ともいわれる名裁きで有名なお奉行様であるが、こんな行政における名裁きもあったのだ。感動です。
東大赤門
ちょっと寄り道をする。本郷三丁目交差点を右折したところに「藤むら」という老舗の和菓子屋がある。ここは羊羹で知られ、夏目漱石の「吾輩は猫である」にも登場する。
早速、味見をと思い店を訪ねる。しかし店内改装中とのことで休業していた。残念・・・

本郷通りに歩みを戻し、東大赤門に至る。現在この赤門は東京大学のシンボルとして有名であるが、もとはこの付近一帯にあった加賀藩前田家上屋敷の御守殿門である。1827年(文政10年)加賀藩主前田家に嫁いだ徳川十一代将軍家斉の息女、溶(やす)姫のために建てられた。
宝暦年間創業の老舗「高崎屋酒店」
旧中山道は東大農学部正門前で本郷通りから左折する。国道17号線も同じルートを辿る。ここから直進する本郷通りは、かつての日光御成道で岩槻を経由して日光道中の幸手宿まで続く。交差点角にある高崎屋酒店付近には日本橋から最初の一里塚(追分一里塚)があったが、現在その痕跡をうかがい知ることはできない。

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八百屋お七の悲話

国道17号を進み白山上の大円寺に至る。ここには「八百屋お七」にちなむ地蔵尊、ほうろく地蔵がある。「八百屋お七」とは・・・せっかくなので日本昔ばなし風にまとめてみました。語りは市原悦子でお願いします。
お七を供養する「ほうろく地蔵」
『むかしむかしのお話じゃ。江戸の本郷にそれは大きな八百屋がありました。そこの主人、太郎兵衛の娘として生まれたお七はすくすくと育ち、それは素直で、たいそう気立てのいい娘となったそうな。16となったお七は店を手伝うかたわら弟や妹の面倒も良く見、貧しいながらも幸せな暮らしを送っておりました。

そんなさなかのことでした。大火事が起きたのです。火の見やぐらの鐘が町中に響きわたります。火のまわりは早く、お七は幼い弟と妹の手を握り、火の合間をかいくぐって必死に逃げました。

ようやく火は鎮まりましたが、本郷あたりもずいぶんと焼けました。お七の八百屋もすっかり焼けてしまい、白山の坂下にある圓乗寺というお寺で、家族ともどもしばらくそこで暮らすことになりました。

そこでお七は一人の寺小姓と知り合いました。寺小姓の名は佐兵衛といいました。
若いふたりの間にどんな会話があったのでしょうか。日を重ねるにつれ、いつしか二人は恋仲となりました。それはお七にとって初めての淡い恋でした。お七は火事のことも忘れ毎日が楽しくて仕方がありませんでした。

しかしそんな楽しい暮らしも、そう長くは続きませんでした。
八百屋も再び建て直され本郷に戻ることになったお七は、佐兵衛に別れも告げぬまま寺を後にしました。

しばらく時が流れました。
佐兵衛のことはいずれ忘れてしまうだろうと思っていたお七でありましたが、それとは裏腹に思いはつのるばかりで、夜な夜な涙で頬をぬらしました。

お七は考えました。また大火事があれば佐兵衛に会えるのではないかと・・・
ある晩お七は家を抜け出し、必死に火打ち石を鳴らしました。ようやくついた幽かな火を眺めながら佐兵衛の顔を思い浮かべました。しかしその火はお七の思いのごとく激しく燃え上がりはじめたのです。

「あっ!」

火は瞬く間に家に燃え移り、さらに大きくなってしまいました。
結局それほど大きな火事にはならなかったのですが、お七は捕まりお縄となりました。

このころ放火は死に値する重い罪です。お奉行様はお七の若さを哀れんで「お主は15であろう」と問いかけます。15より下の者は罪を軽くできたのです。しかしお七は自分の犯した罪の重さを感じていたのでしょうか、あくまで16と答えるのです。

そしてお七は鈴ヶ森の刑場で火にあぶられます。
そんなとき一体のお地蔵様が現れました。お地蔵様は焙烙(ほうろく)という素焼きの鍋をかぶり、お七の苦しみを一身に受けました。
お七は苦しむことなく天に召され、その短い生涯を閉じたのです。

いつしかこの地蔵様はほうろく地蔵とよばれるようになり、後の世まで人々に大切にされました。そしてお七は今も圓乗寺に静かに眠っています。』
圓乗寺にある八百屋お七の墓
お七が焼け出された江戸の大火事は、1682年(天和2年)12月の天和の大火といわれる。
うら若き16歳という乙女の心情を考えると何とも切ない話なのである。この事件は江戸庶民にも同情をかい、井原西鶴の「好色五人女」など、数々の作品に描かれた。

早速、ここから浄心寺坂を下り白山下の圓乗寺へ行く。ここにはお七の墓がある。この場所で恋に落ちたお七を思い、墓前で静かに手を合わせた。

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おばあちゃんの原宿

圓乗寺から白山神社へ向かう。参拝客は私と幼女を抱えたお母さんの3人だけで閑散としていたが、ここは毎年6月に紫陽花祭りが催され賑わいをみせる。

旧中山道は白山通りと合流し片道3車線の広幅な道となる。不忍(しのばず)通りと交差する千石一交差点を過ぎ文京区から豊島区に入る。車の往来が激しい。

左手のローソン前に豊島区教育委員会設立の説明板がある。このあたり一帯は大政奉還で失墜した徳川慶喜が、静岡での長い謹慎生活を送った後に住んでいた巣鴨屋敷があった場所とのことである。慶喜は現在の山手線が開通したため、その騒音を嫌って4年間住んだだけでこの地を去ってしまった。現在では当時の面影は全く残されていない。

腹が減ってきた・・・それもそのはず既に15時をまわっている。ここから白山通りを横断し「武蔵野本店」なる蕎麦屋に入る。店のおばちゃんに、にしんそばを注文する。
麺はつるつるの細麺で、これが絶妙ににしんとマッチしている。「うまいよ、これ」と思いつつ一気につゆまで飲み干す。ただ量が少なく満腹感が得られなかったのが残念である。

巣鴨地蔵通りは旧中山道旧中山道は巣鴨駅を越え、白山通りから左の巣鴨地蔵通りへと道筋を変える。
ここには有名な高岩寺の「とげぬき地蔵」があり、おじいちゃん、おばあちゃんはもちろんのこと老若男女が集まり、人でごった返している。商店街にはお茶、佃煮、饅頭、煎餅、大福・・・漢方薬に洋服、しまいにゃ数珠に線香と、ありとあらゆるおばあちゃんの大好きな物が凝縮されている。「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる所以である。

とげぬき地蔵の絵姿を飲むか、痛むところに貼ればとげが抜けたように病が治るという。まさに薬いらずの有難いお地蔵様なのである。
とげぬき地蔵の高岩寺
また高岩寺には「洗い観音」なるものがあり、自分の病気や痛い場所を洗うと治るという。とげぬき地蔵と同じような効能に、思わず二番煎じのような気がしてしまうのだが・・・罰当たりなことを考えてはいけません。

せっかくなので最近飲みすぎると翌日痛くなる頭でも洗おうかと思ったが、長蛇の列に呆気にとられ、挙句の果てにあまりにも動機が不純なことに気づき、そそくさとその場を去った。人間、健康であることが一番の幸せなのです。

日暮れも近づき、なんだか急に風が強くなりはじめた。雑踏をかきわけ高岩寺から先へ地蔵通りを進む。徐々に人通りも減る。都電荒川線の踏切を越え、明治通りを渡ると北区滝野川である。

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新選組局長・近藤勇

滝野川銀座の商店街を進み埼京線の踏切に至る。この付近には日本橋から二里目となる平尾一里塚と近辺には板橋刑場があった。しかしともに現在その場所ははっきりしない。そして左手には板橋駅。

板橋駅前には新選組局長こと近藤勇をはじめ、新選組隊士の供養塔がある。近藤勇は千葉県の流山で薩長軍に捕らえられ板橋平尾宿の脇本陣に幽閉された後、この板橋刑場で斬首された。首級は京都で晒され、胴体はここに埋葬された。その霊を弔うため新選組の生き残りであった二番隊組長の永倉新八によりこの供養塔が建てられた。

新選組はペリー来航、桜田門外の変から大政奉還、明治維新に至る幕末の変乱を、幕府軍として壮絶に駆け抜けた組織である。この話は昔から小説やドラマの題材にもよく取り上げられ、近年では映画「壬生義士伝」やNHK大河ドラマ「新選組!」などの作品があり、日本人ならその名を知らぬ者はいないであろう。

大河ドラマは欠かさずに見ている私にとっても「新選組!」は面白かったので非常に印象に残っている。大河ドラマとしては異色の感がある三谷幸喜が脚本を書いたというのもあるが、配役が絶妙で特に土方歳三役の山本耕史、芹沢鴨役の佐藤浩市、深雪太夫役の優香は群を抜いていた。
この大河ドラマは近藤の死をもって最終回を迎えるのであるが、その後の新選組の行く末が見たいという要望が多く寄せられ、それに応える形で大河ドラマとしては異例の続編が1年後にスペシャル版として放送された。
榎本武揚役は草彅剛から片岡愛之助に代わっていたものの、同キャストで土方を主人公に続編が放送された。まさに異色の大河ドラマであった。

とにもかくにも新選組が結成されるきっかけとなった清河八郎率いる浪士組は、近藤勇をはじめ土方歳三、沖田総司、永倉新八、山南敬助・・・水戸派の芹沢鴨や新見錦などそうそうたる面々を率いて、勇躍江戸から中山道を歩いて京都へ向かったのである。

板橋は新選組の出発点ともいうべき場所なのだ。しかし何の因果か、最後はここで局長の近藤勇は斬首され、その終着点を迎えるのである。

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板橋宿

ここから板橋宿
埼京線の踏切を渡り板橋区に入る。
国道17号線を上に首都高を見ながら横断すると板橋宿である。入口には板橋宿と書かれたアーチが置かれ、その頭上からはウサギの親子が出迎えてくれる。街のシンボルキャラクターでラッピーという。 

板橋宿は江戸から最初の宿場で、東海道・品川宿、甲州街道・内藤新宿、日光街道・千住宿と並び江戸四宿と称される。ここから川越街道が分岐していた。日本橋側から平尾(下)宿・仲宿・上宿と3宿で構成され、1843年(天保14年)には人口2448人、家数573軒を数え、本陣1、脇本陣3、旅籠54軒と多くの旅籠・茶屋のほか様々な商家が軒を連ねた。旅籠には飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれる遊女もたくさん置かれ、遊興の客も多く訪れていたようだ。
闇夜のせまる板橋仲宿
板橋宿はところどころに古い商家が残り、都内にあるにもかかわらずそれなりの雰囲気を残している。仲宿にあるスーパー「ライフ」のあたりに本陣が置かれていたが、その痕跡を留めるものはなく、ライフの隣民家入口に「板橋宿本陣址」碑がひっそりと建っている。

あたりがかなり暗くなり始めた。歩く速度も自然と速くなる。
地名の由来となった板橋
石神井川を渡る。ここに架かる橋が名前の由来といわれる板橋で、この橋から先が上宿。
上宿の街道沿いには「縁切り榎」と呼ばれる榎が植えられており小さな祠がある。
古くから嫁入りや婿取り行列がこの榎の下を通ると不思議と不仲になってしまったので、いつからか縁切り榎と呼ばれるようになった。そんな由縁から悪縁を断ち切りたいときに、この榎の樹皮を削ぎ落とし煎じて飲むと願いが成就すると伝わる。
現在の縁切り榎は三代目
縁切り榎の敷地内には世にも珍しいおみくじのガチャガチャが置かれている。説明書きによると「あなたがリセットしたいテーマを心に強く念じて『リセットみくじ』を引いて下さい。うまくいくかどうかがわかります。云々・・・」
ご利益があるかどうかは別にして、悪縁を断ち切りたい方は一度訪れてみてはいかが。

17時過ぎ、都営三田線・板橋本町駅から帰途につく。あたりはすっかり暗くなってしまった。
踏破距離約10.5km(日本橋→板橋宿本陣跡) 残り524km
まだまだ先は長い・・・

武州路前夜・とりせんの夜

【第2日目】1月13日(土)



前日の仕事帰りに、同僚の後輩りゅうぢくんと福まんくんを連れ立って、西日暮里にある行きつけの飲み屋「とりせん」へ行く。りゅうぢというこの男、これがなかなかのナイスガイで、まだまだ20代半ばだというのに昨年一児のパパとなり、その溺愛ぶりが目に見えて何とも心に痛い。彼を見ているときっと子供は可愛いんだろうなぁ・・・と、つくづく感じる。

しかし現在の品行方正な彼も独身時代はキャバクラ王子と揶揄されるほどの遊びっぷりで、アフター5ともなれば飲んでキャバクラへはしご、そして・・・行き着く先は想像に任せます。とにかく酒と女に使う金をギャンブルで稼ぐという典型的な転落の人生を歩んでいたのだが、結婚を期に彼は徐々に変わりはじめ、子供ができたことが決定的に彼をまっとうな道に戻すことになった。
子供で男は変わるという典型例を身をもって教えてくれた人物なのである。

それはさておき、福まんは入社2、3年目の若い男なのであるが、これがまた曲者というか何と言うか・・・100kgを超える巨漢の九州男児で本人曰く空手の有段者!酒は少々飲むが女もギャンブルも一切やらない堅物な人物なのである。

しかしこれがなかなかナイーブな心の持ち主で、結局この日の飲み会も彼の抱える悩みというか何というか、結局彼の人生相談で話の内容は終始し、いつものごとく結論も出ぬまま店を後にしたのである。ただただ彼は純粋なんです。頑張れ福まん!

そんな飲み会の中で福まんが語った話を1つ。
先の正月の連休中、彼は実家にも帰らずメル友のいる岐阜だか名古屋だかに行ったそうだ。私が「そっちの方に行くなら妻籠宿に行ったほうがいいよ。」何て自分は行ったことが無いにもかかわらず、いい加減なことを言っていたら、本当に行ってしまったようで・・・しかも各駅停車で。やはり彼は純粋です。

どんな文句を言われるのかと思ったら、意外や意外、最初の一言が「良かったですよぉ~妻籠宿」。なんだか随分と歩いて馬籠宿の方にある滝まで見に行き、しまいにゃ温泉にまで入ってきたそうで、苦労して辿り着いた後に入る温泉の気持ち良さをこんこんと説いてくれました。ふくまんくん、きみは立派な旅人です。この味をしめると旅はやめられなくなります。

さてさて・・・その妻籠宿を目指して明日は歩こう。どんだけうまい飯と気持ちのいい温泉が待っているのか楽しみです。

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荒川を越え、いざ武州路彩の国へ

都営三田線の板橋本町駅から環七を歩き旧中山道へ歩みを戻す。天気はところどころに薄い雲がかかるものの快晴。ベローチェで軽く朝食と一服を済ませ、11時半に蕨宿へ向け出発する。
中山道両脇に残る志村一里塚
まもなく国道17号(現中山道)と合流し、車の喧騒の中をしばらく歩くと、国道両脇に大きな榎が見えてくる。日本橋から3里目の志村一里塚である。都内で現存する一里塚はここと北区西ヶ原にある日光御成街道の一里塚だけであり、貴重なものとなっている。

立派な榎なのではあるが冬枯れしていて寒々しい。新緑のシーズンには見事な榎の姿となることだろう。
富士・大山道の道標と庚申塔
旧中山道は志村坂上交差点から交番左脇の小径を進む。
坂の頂上付近に庚申庵という店がある。この軒下に道標と庚申塔が並ぶ。ここは中山道から霊山である富士山や神奈川の大山へ通じる富士・大山道との分岐点で、道標は寛政4年(1792)、庚申塔は万延元年(1860)に建てられたものである。
中山道最初の難所、清水坂
中山道最初の急坂で難所といわれた清水坂を一気に降る。大きく左右に曲がっているため街道で唯一富士山が右に眺望できる名所であった。

都営三田線のガード下をくぐり国道17号を横断すると、すぐに環八と交差する。
三清酒店脇の小道が旧中山道の道筋で、ここを進む。600mほどで国道と合流し、再び車の喧騒の中を歩く。
志村橋を渡ると戸田橋が見えてきた。荒川を渡河するといよいよ埼玉県に突入である。

戸田橋を渡る。右手には高架橋があり新幹線が急ぎ足で行き交う。左手荒川の向こうには秩父多摩の連山がきれいに遠望できる。新幹線に乗っている人たちには、この景色は見えないんだろうなと思いながら、ちょっと優越感に浸る。河川敷のグランドではサッカーの試合が複数行われており、子供たちが熱戦を繰り広げていた。
荒川を渡り彩の国へ
そもそもこの戸田橋が初めて架けられたのは明治8年(1875年)になってからのことで、それ以前は江戸の防衛上の理由から橋は架けられず、戸田橋下流100m付近で渡し舟により渡河していた。「戸田の渡し」と呼ばれるこの渡船場は英泉の浮世絵にも描かれた。

川風が寒い。早足で荒川を渡る。

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埼京戦隊ドテレンジャー

埼玉県戸田市に入る。ここからはいよいよ彩の国さいたまだ。
川口に向かう荒川の流れ
荒川土手を下流方向に行くと、土手下に「中山道戸田渡船場跡」の記念碑がある。旧中山道はここから北へ200mほどその道筋を残すが、菖蒲川から先は区画整理により住宅地と化しその姿を消す。国道17号「川岸三」交差点の先、つつじ幼稚園付近で国道17号として旧中山道の道筋が出現するが、本町一交差点付近で再び右方向に国道を離れ消失する。つつじ幼稚園のあたりには日本橋から4里目の一里塚があったらしいが、現在は全くどこにあったのかもわからない。

ここで店先に掲げられたとあるカレンダーに目を奪われた。なんと「埼京戦隊ドテレンジャー」ときたもんだ。火事からみんなを守るレッドを筆頭にブルー、グリーン、ピンク、イエローと5人勢ぞろいし、荒川土手上でポーズを決めている。ゴレンジャーをパロッたのであろうが、胸の前についている「ど」の文字が何ともいえないローカルさを醸し出している。他のローカルヒーローとの違いを表現したかったのだろう。
埼京戦隊ドテレンジャー
なぜかレッドのベルトバックルは携帯禁止マークだ。火事と何の関係があるのだろうか・・・
まぁ・・・それはさておき、きっと戸田地域のちびっ子のヒーローなのであろう。いきなり埼玉県の奥深さを見せられた思いだ。
ドテレンジャーにはテーマソングまである。手作り感があっていい。

ドテレン最新情報→http://doteren.hp.infoseek.co.jp/

400mほど消失した旧中山道は小森たばこ店前からその道筋を現し、その面影を残した道もまもなく国道と合流する。小森たばこ店が店前の道に対して微妙に斜めに建っているのは、旧中山道の名残と思われる。
ここでいちご牛乳を飲みながら一服し、再び国道を歩く。

正面にシェル石油が見えてくる。旧中山道はここで国道と分岐して直進方向に行く。分岐点には「中山道蕨宿」の石碑が建ち、ここから先が蕨宿となる。既に時計は14時をまわっていた。

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蕨宿

蕨宿の旧商家
蕨宿は江戸から2番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口2223人、家数430軒を数え、本陣2、脇本陣1、旅籠23軒の記録が残る。宿内には豆腐屋、煙草屋、髪結など様々な店が軒を連ね賑わった。現在でも古い商家や蔵が残り、宿場としての面影をよく残している。
蕨宿本陣跡
本陣が置かれていた加兵衛家(岡田家)の跡地には本陣をイメージしたモニュメントが置かれ、その隣には歴史民族資料館がある。ここでは蕨宿を中心とした展示がされており、本陣上段の間・旅籠・商家の内部が実物大で復元され、当時の宿場の様子をうかがい知ることができる。

資料館を見学し、すぐ先の交差点角にある「船橋屋」なる和菓子屋の前を通る。ふと店内の様子を窺っていると「花びら餅はじめました」の文字が目に飛び込んでくる。思わず足を止め店内へ。
店内には様々な和菓子が並ぶ。店のおばちゃんに「花びら餅は・・・どれですか?」と尋ねると、
「これですね。中に白餡と味噌が入ってます。おいしいですよ。」
思わずおばちゃんの笑みと何とも可愛らしい菓子の姿にひきずられ2個購入。1個200円でした。
渋川氏が守り神として祀ったと伝わる和楽備神社
船橋屋の交差点を右折し、旧中山道を離れ和楽備(わらび)神社へ向かう。
和楽備神社がある場所は、南北朝時代に武蔵国司渋川氏によって築かれた蕨城の跡地である。神社隣は城址公園となり、わずかながら水堀が残る。後の戦国期に北条氏に攻められあえなく落城、渋川氏は北条氏の軍門に降った。
和楽備神社で参拝を済ませ、旧中山道へ戻る。
閑かに時が流れる蕨宿
蕨宿内を先へ進むと、天保年間(1830~1843年)創業の老舗「萬寿屋」という煎餅屋がある。ここを右折する道は「地蔵の小径」と呼ばれ、この突き当たりに江戸時代「関東七ヶ寺」の一つとして数えられた三学院がある。その門前には子育地蔵があり、これがまた見応えのある大きさで、身の丈2.4mという大きな地蔵様である。いかにもご利益がありそうなので、道中の安全を祈願し、その場を後にする。

蕨宿を抜け、一路浦和宿へ向かう。既に15時、この時期の日暮れは早い。先を急ぐ。

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焼米茶屋の看板娘

蕨宿から国道17号を横断し、左手に旧商家を見ながら500m程直線を進むと、旧街道ならではの蛇行した道がしばらく続く。この辺りの旧街道沿いは春日商店街というらしく、街灯には申し訳なさそうに小さな看板が掲げられている。
辻一里塚跡
東京外環自動車道の高架手前に至る。右にある公園の一角が辻一里塚跡である。日本橋から5里目の一里塚であるが、現在は残っていない。辻一里塚跡の碑がその痕跡を留めている。

外環を越え先へ進む。蛇行する旧街道に菅谷布団店のたたずまいが何ともいえない情緒。
腹が減ってきたので蕨宿で買った花びら餅をほおばる。餅はとろとろの食感。白餡と味噌がマッチしておいしい。たまらずもう1個ほおばるが、空腹感は癒せない。(もっといっぱい買っておけばよかった・・・)ちょっと後悔の念にかられる。
焼米坂を上ると浦和宿は近い
突き当たりの信号を右折し、六辻交差点で国道17号を渡る。
道路標識のとおりに中山道を浦和駅方面へ向かうと、まもなく焼米坂にさしかかる。
焼米とは籾殻がついたままの米を焼き、籾殻をとってそのまま食べたり湯茶につけて食べる古くからの備蓄食である。中山道を行く旅人の携行食として重宝されたのであろう。江戸時代にはここで焼米を売る茶店があり名物であったため、いつしか焼米坂の名がついた。

焼米坂を上る。足取りは重い。何のことは無い坂なのであるが、疲労と空腹の二重苦にあえぐ体には応える。
(あ~腹減った。マジで・・・昨日のとりせんの焼おにぎり美味かったなぁ・・・。坂上にある茶店の看板娘に焼米を注文しよう・・・)何てことを考えながら失笑する。もちろん現代にはそんなものはない。

無意識のうちに私はアリスのチャンピオンを口ずさんでいる。
(つかみかけた熱い腕を ふりほどいて君は出てゆく♪・・・)
何故チャンピオンなのかと自分でもわからないうちに、坂を上りきる。そして片膝をついてうずくまった。もう限界か・・・そして頭の中ではチャンピオンの曲が続いている。
(・・・立たないで もうそれで充分だ おお神よ彼を救いたまえ♪)
谷村新司さんよ、そんな訳にはいきませんぜ。

さぁ、浦和宿は近い。もうひと頑張りだ。少々休憩後ふたたび歩きはじめる。

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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
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16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
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高札場
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