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ウサギの神社

岸町付近の旧中山道
焼米坂上から住宅地の中を歩き田島通りを越えると、住所は岸町に変わる。この辺りには古い商家も散見される。調(つき)神社まで来ると、この先は浦和宿の町並みだ。

調神社の狛うさぎ
地元では「つきのみや」とも呼ばれるこの神社は面白い。神社には付き物の鳥居が無く、しかも狛犬ならぬ狛うさぎが出迎えてくれる。調神社は平安時代からの古社で、武蔵国の調(年貢のこと)がここに集められていたことからその名がついた。調はここから東山道を経て京の都へ運ばれていたのであるが、その出し入れに鳥居があると邪魔だったことから、ここには鳥居が設置されず現在に至ったようである。

また調と月が同じ読みであったことから月待信仰と結び付けられ、月神の使者である兎がここでは狛犬の代わりを果たしている。彫刻等境内のいたるところに兎が見られる。
私的には調とツキが同じ読みなので、ギャンブラーにはお勧めのスポットなのではないかと思うが・・・いかが。
旧街道の情緒漂う青山茶舗
調神社からちょっと先に青山茶舗というお茶やさん。この建物は明治期に建てられ築百年以上の歴史を誇る。旧街道の情緒をのこす貴重なたたずまいである。この他にも調神社付近には古い商家が数軒のこる。

ようやく浦和宿に到着した。体は恐ろしいくらいに食べ物を欲している。
県庁通り交差点付近の「梅玉」という手打ち蕎麦屋に入り、「鴨南そば」を注文する。
間もなく出ててきたそばを早速腹に流し込み鴨肉に食らいつく。
「うまい・・・(涙)」
当然のごとく、つゆまで一気に飲み干し完食。ここもおいしい蕎麦屋さんでした。
店を出るとあたりはすっかり薄暗くなっていた。
夕闇せまる浦和宿
17時、本陣跡に到着。JR浦和駅から帰途につく。
踏破距離約14.5km(板橋宿本陣跡→浦和宿本陣跡) 延距離25km 残り509km
まだまだ先は長い・・・
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浦和宿

【第3日目】1月21日(日)浦和宿→大宮宿→上尾宿



ところどころに雲がかかるものの天気は晴れ。それほど寒さも感じない絶好のウォーキング日和。
JR浦和駅から「さくらそう通り」を歩き旧中山道へ向かう。
途中のベローチェで朝食と軽く一服。11時ちょっと前、ここから旧中山道に歩みを戻す。

浦和宿は江戸から3番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口1230人、家数273軒。本陣1、脇本陣3、旅籠15軒の小さな宿場。現在その面影はほとんど失われてしまい、すっかり近代化された都市となっている。宿場内には近年「中山道浦和宿」の石標が建てられ往時を偲ぶ。
そして記憶にも新しい平成13年(2001年)には、ここ浦和市と大宮市、与野市が合併し、新生さいたま市として100万都市が誕生した。
玉蔵院の山門
さくらそう通りから旧中山道を少し先へ進むと左手に門前通り。この通りの向こうには玉蔵院の山門が見える。雑居ビルの谷間に見える山門はひときわ異彩を放っている。
玉蔵院は平安時代創建といわれる古刹で、弘法大師が開山したと伝わる。ここに安置される木造地蔵菩薩立像は平安時代の作とみられ秘仏。県指定の有形文化財である。

仲町交差点すぐ先の左手にある公園が本陣跡。浦和宿の本陣・問屋は代々星野家が努めた。ここには本陣跡の説明板と「明治天皇行在所址」の大きな石碑が建っている。
慈恵稲荷
本陣跡から旧中山道を200m程先へ進むと慈恵稲荷がある。この社頭では戦国時代から昭和の初期頃まで毎月二の日と七の日、月に6度の市が開かれていた。そこでは穀類等の農産物や木綿、布等の生活必需品が取引された。
市場通り
慈恵稲荷の手前、常盤公園と旧中山道を結ぶ道は「市場通り」と名付けられ、路傍にはおばちゃんが大根を片手に農産物を売る姿が、往時を偲ぶモニュメントとして置かれている。
余談だがこのおばちゃんがベンガルによく似ている。もしかしてモデルなのか?何て思ってしまったのは、私だけだろうか・・・

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一本杉の仇討ち

笹岡稲荷の社殿では猫がのんびりとお昼ね中
浦和宿の繁華な街並みも仲町交差点から先は落ち着きを取り戻す。
浦和橋でJR線を跨ぐ。眼下には宇都宮線や高崎線のオレンジとグリーンラインの車両がひっきりなしに行き交う。橋を渡ったすぐ横の赤い鳥居が笹岡稲荷神社。

中山道遊々通りと名付けられたこの道をJR線に沿って北上する。
歩道が広く歩きやすい道が続くが、JR北浦和駅前の生鮮館パワフルの前で、買い物客の放置自転車の束で通行困難に陥る。
北浦和のレディア像
自転車と人を掻き分け先へ進むと、路傍に浦和レッズのマスコットキャラクターのレディア像がお目見えする。このレディアの顔(耳)を3回、鼻を2回なでると、浦和レッズに勝利をもたらし、あなたの願い事が叶うという。早速やってみる。今年の千葉ロッテの優勝が私の願望であるが・・・さていかに。

ごく普通の郊外の街並みの中を坦々と先へ進む。住所は針ヶ谷に変わる。
大原陸橋(東)交差点を過ぎると、第一生命ビル前の歩道に若い杉の木が植えられ、その傍らに「一本杉」の標石。普通に歩いているとうっかり見過ごしてしまうほどの小さな石碑だ。
路傍にひっそりと建つ一本杉の標石
ここは文久4年(1864年)1月、水戸藩士・宮本鹿太郎らが父の仇であった讃岐丸亀藩の河西祐之助を討ち取った場所で、かつては大きな杉の木がそびえ立っていた。この仇討ちに至った前後関係はよくわからないが、日本で最後の仇討ちという。

この年の時代背景は新選組がその名をとどろかせることになった「池田屋事件」が起きた幕末の動乱期である。この時期の水戸藩は保守派と改革派の抗争で統率がとれなくなり、多くの過激派浪士を生み、桜田門外の変や天狗党の乱などを起こすに至った。

水戸藩の宮本姓では尊攘過激派で浪士組結成前の清河八郎と接触のあった宮本辰之助の名が見えるが、鹿太郎はこの人物の流れのなのだろうか。いずれにしても鹿太郎が保守派、改革派のどちらだったのか、その後の生き様を知る由もないが、幕末の大きなうねりの中で一藩士として奉公し、明治維新を迎えたのであろうか。

与野駅の駅前通りと交差する道の真ん中に大きなケヤキの古木がある。車の往来を妨げるかのように立つこのケヤキは、一里塚と一里塚の中間点に置かれた半里塚の跡だという。

この辺りは相模富士、信濃浅間、甲斐、武蔵、下野日光、上州伊香保の山々が見渡せ、六国見と呼ばれる名所だった。

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新都心をさまよう人魂

ケヤキ並木の向こうはさいたま新都心
左前方にさいたま新都心のビル群が見えはじめると、旧中山道はケヤキの並木道となる。今は冬枯れしてしまっているが、新緑の頃には見事な並木道となることであろう。

ケヤキ並木を抜けると、さいたま新都心である。
近未来的な街並みの中を行く旧中山道にひときわ目をひく祠がある。中には石造物が二体並び安置されている。「高台橋のお女郎地蔵」と「火の玉不動」である。
高台橋のお女郎地蔵と火の玉不動
昔、柳屋という大宮宿の旅籠に千鳥、都鳥という女郎(遊女)姉妹がおり、街道筋でも評判の美人姉妹であった。二人は親に捨てられ、そして借金を残したまま養親にも先立たれてしまい、その返済のために女郎としてこの柳屋に身を置いた。

一夜を供にしたいと訪れる男も多く旅籠は随分と繁盛した。
そんな荒んだ人生を送ってきた千鳥と都鳥であったが、いつしか千鳥が大宮宿の材木屋の若旦那と恋に落ちた。いずれは夫婦にと契りを交わした二人であったが、幸せはそう長くは続かなかった。

時の大盗賊、神道徳次郎に見初められてしまうのである。徳次郎はどうしても千鳥を身受けしたいと柳屋の主人に詰め寄るが、千鳥と若旦那の関係を知っていた主人は、曖昧な返事を繰り返し先延ばしにした。
ついに怒った徳次郎は嫌がらせを繰り返した挙句、宿に火をつけると脅す。
開発が進むさいたま新都心
そのことを知った千鳥は愛する若旦那を裏切ることもできず、かといって世話になった主人に迷惑をかけることもできず、ついには思いあまって高台橋から身を投げてしまう。
以来ここでは人魂が飛ぶようになり、千鳥を哀れんだ近所の人々によって、その霊魂を慰めるため地蔵が置かれた。これがお女郎地蔵である。

高台橋で千鳥の人魂が飛ぶ話は有名になり、ある男がその正体を突き止めようと、闇夜のある日、ついに人魂を見つけ切りつけた。すると人魂は悲鳴をあげ、鬼の形相をした不動明王が現れた。そしてこの一太刀で剣を切り落とされてしまったと言い残し、闇夜に消えた。

翌日、男が高台橋に行ってみると石の不動明王があり、その手には剣を持っていなかったという。以来この不動様は火の玉不動と呼ばれるようになった。

ここから南側に用水路があり旧中山道は高台橋でここを渡る。といっても橋も用水路も現在は全く気づかない暗渠と化している。

この変わり果ててしまった新都心で、千鳥の魂はどこをさまよっているのだろうか・・・
ちなみにさいたま新都心駅のホーム側からわずかにレンガ造りのモダンな高台橋を見ることができる。
さいたま副都心駅の旧中山道
さいたま新都心駅とコクーン新都心を結ぶ連絡通路の下を抜け、さいたまスーパーアリーナへ続く歩道橋をくぐると、近未来都市の景観は突然現代の住宅地へと変わる。

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大宮宿

氷川神社一の鳥居、直進する道が旧中山道
さいたまスーパーアリーナの歩道橋から100m程先へ進む。旧中山道から右斜めに分かれる道が大宮氷川神社の参道で、ここには「武蔵国一宮」の石標と一の鳥居が建つ。鳥居から先に続く並木道が氷川神社の参道で、境内まで約2kmもある。古中山道(東山道)はこの参道を通っていたが、寛永5年(1628年)に一の鳥居から直進する現在の道筋に付け替えられた。

今回はここを直進し、旧中山道の道筋を辿る。吉敷町交差点を過ぎる。ガイドブックによるとこの辺りの右手には塩地蔵があるはずだが、どこにあるのかわからない。路傍で休んでいたご老婦に、「この辺りに塩地蔵があると聞いたんですが・・・知りませんか?」と尋ねたところ「知らんなぁ・・・」のつれない返事。どうも気付かずに通り過ぎてしまったようだ。
大宮宿の街並み
残念ながらお目にかかれなかったが、塩地蔵にはこんな由来がある。
二人の娘と旅していた浪人が大宮宿で急病にかかってしまい、手を尽くしたが一向に良くならない。ある日娘の枕元に地蔵が立ち塩断ちするよう告げたという。娘たちはお告げを守り、塩を断って地蔵に祈ったところ父は全快した。喜んだ父娘は塩をたくさん奉納した。以来この地蔵は塩地蔵と呼ばれ、塩を供えて念ずれはご利益があるという。

人通りが増え始める。車の通行も激しい。大宮宿に到着である。
大宮南銀座には古い商家も僅かに残る
仲町1丁目の南銀座付近には古い建物が数軒のこるが、かつては宿場であったことを気付かせてくれるものは無い。現在は高島屋やロフト等の大きなビルが建ち、林立する雑居ビルには様々な店が入る。
大宮の市街地を貫く旧街道も人と車でごった返す。大宮は交通の要衝であるとともに商業都市として発展しつづけている。

大宮宿は江戸から4番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口1508人、家数319軒。本陣1、脇本陣9、旅籠25軒。脇本陣が9軒と非常に多いのが特徴。もともとは氷川神社の門前町として人が集まり、後に中山道の宿場町として発展した。大宮の名も氷川神社が由来である。
一番街周辺が宿場の中心
高島屋が建っている場所が脇本陣北沢家の跡で、その先住吉通りの角、大和証券がある辺りが本陣山崎家跡である。現在ここに来ても案内板も標識も全く無く。そんな歴史があることに気付くことはない。

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武蔵国一の宮・氷川神社

氷川神社参道
大宮宿から一の宮通りを歩き氷川神社へ向かう。
氷川神社の創建は古く、社伝によると孝昭天皇3年(紀元前473年)という。8世紀頃、聖武天皇の奈良時代に「武蔵国一の宮」に定められた。鎌倉時代になると源頼朝により社殿が再建され、後の北条氏、足利氏、後北条氏の武門の信仰も篤く、江戸時代には徳川家康も社参して300石を寄進し、大規模に社頭を造営させた。後の歴代徳川将軍の崇敬も深く、明治元年(1868年)には明治天皇も行幸され、武蔵国鎮守として定められた。
ここ大宮氷川神社から勧請した同名の神社は、埼玉・東京・神奈川の南関東一円に及び、280社を数える。
朱塗りが見事な楼門
神橋を渡り、見事な朱塗りの楼門から神域へ足を踏み入れる。拝殿には参拝者が多く訪れており、所々に着物を身にまとった女性もいる。神社の清浄な雰囲気の中、着物姿の日本女性は実に美しい。
拝殿は多くの参拝客で賑わう
参拝を済ませ、せっかくなのでおみくじを引く。運勢は吉。内容は勢いが強く、大きく崩れることを恐れずに、人のために苦労をいとわずに行えば、功績を成し遂げる兆しがある。末は大変よく、思いは成し遂げられ、心の意志を強く持てば困難に打ち勝ち、時を待てば思いがけない幸せが来るとのこと。
せっかくなので信じましょう(^-^)
三の鳥居前に出店する屋台、焼そばのいい匂いが・・・
参道から大宮宿へ戻る途中、「氷川だんご」の看板が目に入る。小腹がすきはじめた頃だったので、思わず立ち寄る。醤油が焼ける香ばしい匂いがたまらない。焼だんごと海苔付のミックス5本入りを買う。焼きたてのだんごはおいしい。

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大宮銘菓・盆栽最中

参道から一の宮通りを歩き大宮宿に戻る。
三好屋という和菓子屋さんの店先に「大宮銘菓 盆栽最中」の貼り紙が目に留まる。(何で盆栽なんだろう。決してうまそうなネーミングじゃないよなぁ・・・)と疑問を抱えながら店内に入る。店のおばちゃんに「盆栽最中って、何で盆栽何ですか?」とくだらない質問。
おばちゃん曰く「大宮の盆栽村って有名でしょ。そこからついたんですよ。」
ふーん。大宮って盆栽が有名だったんだ。全然知らなかったので調べてみた。
三好屋の盆栽最中
明治末から大正にかけての時代、東京の文京区千駄木にある団子坂のあたりには、植木職人や盆栽師がたくさん住んでいた。大正12年(1923年)の関東大震災でこの辺りは甚大な被害を受け、これを機に盆栽の栽培に適した土地を求めて大宮に集団で移住した。大正14年(1925年)ここに大宮盆栽村が誕生し現在に至っている。

盆栽最中をひとつ食べてみる。うーん、何だか懐かしい餡の甘みと皮のさくさく感が実に和風な味わいだ。日本茶をすすりながら、優雅に食べたいお菓子である。

大宮宿を後にし、一路上尾宿へ向けて歩みを進める。
土手町の裏参道バス停先に2本の椎の木が生える。街道筋では名高い、「土手町の椎の木」である。現在は忘れ去られたようにひっそりと立っている。

東武野田線と高崎線の高架橋下をくぐり、延々と続く直線の県道を行く。
安政七年建立の道標
郵便局北交差点角にあるココスの駐車場出入口には安政7年(1860年)に建てられた道標が残る。ここから神奈川県伊勢原市の阿夫利神社へ続く大山道や東京都青梅市の御嶽山へ続く信仰の道が分かれていた。この辺りでは男子が15~20歳になると、一人前の証として大山参りの旅にでたそうである。
タバコと飲料が同居する珍しい自販機
さらに直線をひたすら先へ歩く。淡々とした県道の直線はきつい。どこまで行っても同じような風景に見えてくる。たまらず途中のコインランドリー「ピュア」にある飲料とたばこを売る自販機でコーヒーを買い、一服。ふと、道の反対側に目をやると、地蔵の石柱が車社会に疲れたかのように傾き建っていた。

東北・上越新幹線の高架橋手前左手には、小さな祠の中に元禄10年(1697年)に建てられた東大成の庚申塔が安置される。古くから春3月と秋の収穫後に、ここで庚申講が開催されていた。現在もその伝統を残すため、年1回の講を開いているとのことだ。

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宮原の加茂神社

旧中山道は宮原駅前から高崎線に近づき、ともに平行して北上する。
「天神橋」バス停の傍らには天神橋と彫られた石の欄干が置かれている。用水路は暗渠となってしまい、これはその役目を終えた天神橋の遺物である。
ここからすぐ先には天神橋の名の由来となった天神社があり、学問の神様こと菅原道真を祀る。
加茂神社の競べ馬
天神社から300mほど歩みを進めると加茂神社である。
加茂神社の創建は不詳。しかし相当古いらしく、宝暦3年(1753年)、弘化2年(1845年)、文政10年(1827年)の文字が刻まれた石灯篭がある。文化7年(1810年)徳川幕府によって作られた新篇武蔵風土記稿にも「加茂社、加茂宮村の鎮守にして社辺に古杉数林あり、土地のさま旧社と見ゆれど勧請の年代詳かならず」とある。

京都上賀茂神社を勧請したと伝わり、別雷(わけいかづち)の神を祀る。別雷神はあらゆる災難を除く守護神で、五穀豊穣を祈願し加茂宮村の鎮守として崇められた。
英泉の浮世絵にも「木曾街道 上尾宿 加茂之社」として、ここが題材に描かれている。

京都上賀茂神社で催される競馬会神事(くらべうまえじんじ)を模したのであろう、本殿には「競(くら)べ馬」の見事な彫刻が施されている。

1889年(明治22年)この周辺一帯の加茂宮村、吉野原村、奈良瀬戸村、大谷別所村が合併し、加茂宮の宮と吉野原の原をとり宮原の名がついた。
南方神社を過ぎると上尾宿は近い
新大宮バイパスの陸橋をくぐり、宮原小学校の横を進む。吉野町交差点を過ぎると右手には南方神社が鎮座する。南方神社は鹿児島県の諏訪大社系神社で多く見られる名で、なぜ埼玉のこの地に南方なのかは不明。地元では「お諏訪さま」と呼ばれている。

時計は既に15時半をまわり、さすがに腹も減りはじめる。
最近の強行軍がたたりはじめたのか、左ひざがにわかに痛み始める。その上だいぶ日も落ち始め、寒さが身にこたえ辛い。何でこんなことしてるんだろうと、自暴自棄にもなってくる。
(古いアルバムめくり ありがとうってつぶやいた・・・♪)
いつのまにか口ずさんでいる曲は「涙そうそう」。
きつくなってくると歌で気を紛らわせる習性があるらしい。
(・・・おもかげ探して よみがえる日は 涙そうそう♪) 
もう涙が止まりません。

そんなこんなで上尾市に入る。バリュープラザという大きなショッピングモールの先が横浜ゴムの上尾配送センター。金網の向こうに3mはあると思われる巨大なタイヤが一際目をひく。
県道51号を横断し愛宕神社を過ぎると、上尾宿に到着である。
上尾駅前の夜景
このとき膝痛と空腹は限界に達し、なかば半落ち状態でJR上尾駅にたどり着く。
駅前の東武ホテル2階にある田中屋というそば屋で、日替わりのネギトロ丼セットを注文。一心不乱にマグロとそばを腹に掻きこみ、17時半、ほうほうの体で帰路につく。

踏破距離約12.9km(浦和宿→上尾宿) 延距離37.9km 残り496km
まだまだ先は長い・・

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上尾宿

【第4日目】1月28日(日)



天気は薄く雲がかかる程度の晴れ。前日の予報ではあまり期待できない空模様だったが、予想以上に天気は上々。気温も日陰にいると寒さを感じる程度。真冬の気温としては暖かい。

JR上尾駅に隣接するベローチェでコーヒーを飲みながら軽く一服。今日のルートを確認する。隣のおじさんは赤ペン片手に競馬新聞にもくもくと何かを書き込んでいる。
11時、氷川鍬神社から旧中山道に歩みを戻す。
お鍬さまこと氷川鍬神社
氷川鍬神社は江戸初期の万治年間(1658~1661年)の創建と伝わる。元は御鍬太神宮(おくわだいじんぐう)と称されていたが、明治末期の内務省による神社合祀令により周辺の神社と合祀され、氷川鍬神社の名となった。小鍬2挺が御神体として祀られ、地元では「お鍬さま」と呼び親しまれている。

氷川鍬神社から道路を挟んで向かい側に上尾宿本陣の林家があった。現在は全く痕跡も無く、ビルが建ち並ぶ。この本陣のあった仲町が宿場の中心で、脇本陣、問屋場、高札場があった。
ベッドタウンとして発展する上尾宿
上尾宿は江戸から5番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口793人、家数182軒。本陣1、脇本陣3、旅籠41軒の小さな宿場。人口のわりに旅籠の数が多いのが特徴で、旅籠には飯盛女と呼ばれる遊女が大勢いた。

現在の街並みは駅前を中心にビルが建ち並び、かつての宿場の面影は薄い。人通りは比較的多く、車の通行量も多い。しかし浦和や大宮ほどの喧騒はなく、大宮のベッドタウンという様相である。

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遊女お玉

遍照院
上尾駅前から200m程進んだ左手の路地奥に遍照院という寺がある。
ここに上尾宿の遊女であった、お玉の墓がある。墓には「孝女お玉」の看板が掲げられ、今なおきれいな花が手向けられている。

お玉は越後で産まれ育ち、名を清という。家の貧しさを助けるため文政3年(1820年)に11歳の若さで上尾宿の大村楼に身を売る。14歳で初座敷をこなし、貧しい家族のために懸命に働いた。お玉は美しく気立ても良かったので上尾宿でも評判の遊女となった。

その後、参勤交代のお役目で上尾に寄った加賀前田家の小姓に見初められ、共に江戸に行く。2年ばかり江戸で過ごしたが不運にも悪病を患い、上尾に戻された。
悲話を今に伝えるお玉の墓
病を患いながらも依然貧しい家のために働いたお玉であったが、その苦労も報われることなく25歳の若さでこの世を去った。
そんなお玉の孝心を哀れんで、大村楼の主人がここ遍照院に墓を建て厚く弔ったという。

この時代、一遊女のためにこれほど立派な墓を建てるのは稀なことで、たいがいの遊女は無縁仏となって、せいぜい小さな石塔に名前が残されるくらいであった。
墓には「廊室妙顔信女」の戒名が彫られ、大村楼の主人や同輩に愛されたお玉の人柄が偲ばれるのである。
武州紅花仲買問屋・須田家
上尾宿を後にし一路、桶川宿へ向かう。交通量の多い県道を進み、北上尾駅を越えると久保西交差点。この交差点の一角に古い板塀で囲われた重厚な屋敷がある。
武州紅花仲買問屋であった須田家である。見事な屋敷林の中に垣間見る白壁の土蔵は、紅花の産地として賑わった往時の様子を色濃く残す。

旧中山道を先に進む。車の往来が多い中、歩道は狭く歩きにくい。間もなく桶川市の標識が見えてくる。上尾宿から桶川宿までは約3.7kmと近い。

桶川市に入る。歩道は広くなり歩きやすい道となる。
富士見通りを横断し、右手に建つ「旧跡木戸跡」の石碑から先が桶川宿である。

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桶川宿

桶川宿は江戸から6番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口1444人、家数347軒。本陣1、脇本陣2、旅籠36軒。桶川は桶川臙脂(おけがわえんじ)と呼ばれる紅花の集散地で、幕末頃には出羽最上(山形県)に次ぐ産地として全国に知られた。明治期に入り化学染料が主流になりはじめると、各地の紅花栽培は衰退していった。
桶川宿の街並み
桶川というと桶川女子大生ストーカー殺人事件を思い出す人も多いのではないだろうか。平成11年(1999年)警察の怠慢で、女子大生が元交際相手に執拗にストーキングされた上、殺害されてしまったあの忌々しい事件である。この事件がきっかけとなりストーカー規制法が制定されたのは記憶に新しいところ。

そんな世の中を騒然とさせた事件が起きた桶川であるが、旧中山道沿いの街並みはそんなことを微塵も感じさせない閑けさに漂う。人通りは少なく、いかにも地方の商店街といった風情であるが、旧商家や旅籠、本陣の遺構も一部残り、宿場の面影をよく残している。
宿場の面影を残す桶川宿
宿場の出入り口であった下の木戸跡から宿内を歩く。木戸とは町の出入り口に治安維持の目的で設置された門で、暮れ六つ(夏は20時頃、冬は17時頃)から明け六つ(夏は4時頃、冬は6時頃)の時間は門が閉じられ、通行が禁止された。木戸番と呼ばれる番人が常駐し、通行人の監視や検問を行った。江戸時代、江戸や大阪などの大きな町には、そこらじゅうに木戸があった。

まず左手に武村旅館。ここは桶川に唯一残る宿場時代からの旅籠で、大正時代に改築されたが、間取りは江戸時代後半の建築のまま残る。

安川呉服店の古い建屋の隣に「桶川名物べに花まんじゅう」の看板が目に留まる。早速味見をと思ったのであるが、シャッターは半開きの状態で店はやってないようだ。残念・・・またの機会に。

駅前通りを横断し右手の路地を入ったところに、三階建ての土蔵がある。これは穀物問屋木嶋屋の総本家、島村家の土蔵で、天保7年(1836)の建築である。天保の飢饉に苦しむ人々に仕事を分け与えるために建てられたといい、「お助け蔵」と呼ばれていたそうだ。
穀物問屋であった矢部家の店蔵
ここからすぐ先に旧中山道に面する重厚な蔵作りの旧商家。木半の屋号で知られた矢部家の店蔵である。米や麦のほか、紅花の集荷問屋を商っていた。

桶川本町バス停前、右手門前に「明治天皇桶川行在所」の石碑が建つ民家が桶川宿本陣で、府川家が代々努めた。加賀前田家の宿所とされたほか、文久元年(1861)には江戸に下向する皇女和宮が宿泊した。
上段の間、次の間、湯殿が現存し、埼玉県内では唯一残る本陣の遺構。現在は民家として利用されているため非公開となっている。

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桶川宿・中山道宿場館

本陣近くにある中山道宿場館に立ち寄る。
館内には桶川宿の大きなガイドマップと中山道の宿場を描く「木曾街道六十九次」の浮世絵が掲げられ、中山道や宿場関係の書物も数多く置かれている。

客は私一人だけであったので、ここのおばちゃんにはつきっきりで色々と説明していただき、見学に来た小学生等に配っているという資料やらパンフをたくさん頂きました。桶川宿を知るうえで非常に役立ちました。感謝。
桶川宿へ訪れたときには、休憩がてらにでも立ち寄ってみてはいかが。
紅花商人寄進の石灯籠
旧中山道から東和銀行桶川支店手前の交差点を右へ進み、稲荷神社に寄る。ここには紅花商人寄進の石灯籠と日本一の力石がある。

この石灯籠は安政4年(1857年)の寄進。もともとは桶川宿にあった南蔵院という寺に寄進されたものであったが、明治2年(1869年)に南蔵院が廃寺となり、ここに移された。
紅花商人24名の名前が刻まれ、往時の様子を今に伝える。
稲荷神社にある日本一の力石
力石は長さ1.25m、幅0.76m、重さ610kgもある大きな石で、江戸相撲の名力士であった三ノ宮卯之助が持ち上げたと刻まれている。

旧中山道に歩みを戻す。少し先の北一丁目歩道橋あたりに桶川一里塚があった。日本橋から10里目となるこの一里塚は現存せず、痕跡を留めるものはない。最近まで一里塚跡の標柱が建てられていたが、交通事故で失われてしまったそうだ。
大雲寺の女郎買い地蔵
ここの路地を左手に入ったところに大雲寺。ここの本堂の傍らには地蔵が3体並び、そのうちの一体が「女郎買い地蔵」の名で呼ばれる。この地蔵は夜な夜な女郎を買いに行くので、和尚が懲らしめのため背中に鎹(かすがい)を打ち込み鎖で繋いだという。今も背中には鎹が打ち込まれたままであるが、改心したのであろうか、鎖には繋がれていない。

市役所入口交差点付近の上の木戸跡で桶川宿は終わり。旧中山道を鴻巣宿へ向かう。

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紅花と桶川

紅花(べにばな)は末摘花(すえつむはな)とも呼ばれる菊科の花で、6月中旬から7月上旬にかけて真黄色の花を咲かせる。
原産地はエジプト・ナイル川流域といわれ、シルクロードを通って中国へ伝わり、飛鳥時代の推古天皇の頃、日本に伝わったと考えられている。

古代より染料や化粧品の原料として重宝され、江戸時代中期には出羽(山形)の最上川流域が一大産地となり、「最上紅花」のブランドは京都や大阪に運ばれ全国に知れわたった。

桶川では寛政年間(1789~1801年)頃から紅花栽培がはじまったといわれ、江戸時代後期になると出羽最上に次ぐ産地となった。「桶川臙脂(おけがわえんじ)」と呼ばれた桶川の紅花は品質もよく、主に中山道を陸路で京都へ運ばれ高値で取引された。この頃桶川に紅花商人が登場し最盛期を迎えるのである。

しかし明治時代に入り安い中国産が輸入され、化学染料が主流になりはじめると、国内の紅花栽培は衰退の一途をたどり、明治10年(1877年)頃には終に全国からその姿を消す。

昭和時代、第二次世界大戦も終結し平和な世への足音が聞こえる頃、紅花の特性が見直され山形最上地方で紅花栽培が復活する。化粧品メーカーの資生堂との間で大量の栽培契約が結ばれ、かつての隆盛を取り戻したかにみえた紅花であるが、後に資生堂が撤退し安い外国産におされはじめると、またしても衰退していくのである。近年は栽培農家の高齢化もあり、その生産量は年々減少しつつ今日に至っている。

桶川でも平成5年(1993年)にふるさと創生事業として「紅花の郷づくり」事業に着手し、観光事業として紅花栽培が復活する。その一環として作られた「べに花摘み取り園」では、広大な敷地に紅花が栽培され、6月下旬から7月上旬にかけてオレンジや黄色の花が彩り、見ごろを迎えるという。
畑一面に咲き誇る紅花は実に見ごたえがありそうだ。是非一度訪れてみたい。

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中山道の元宿場・北本

旧中山道を市役所入口交差点から700m程直進し、北本市に入る。
途中ウエルシアというドラッグストアの前で缶コーヒーを飲みながら一休み。空には薄く雲がかかり、日は遮られ少々寒さを感じる。時間は既に14時をまわり、これから更に気温は下がる。
北本本宿
何の変哲もない直線の県道を更に先へ進む。しばらく行くと本宿交差点。ここから先が北本市本宿となる。この交差点角には北本宿の石碑と案内板が置かれている。

北本の本宿あたりは江戸幕府による五街道の整備以前まで宿駅が置かれていた。中山道が整備されるにあたり、慶長7年(1602年)現在の鴻巣の地へ移転した。その後旅籠は置かれず、本宿に下茶屋、東間に三軒茶屋の立場茶屋が置かれ、人や馬はそこで旅の疲れを癒した。
天神社の境内にて
多聞寺にある樹齢200年のムクロジを見学し、隣の天神社へ行く。暖冬の影響であろうか、境内の梅の枝にはピンクの花が咲き、早い春の足音を予感させた。

古中山道は、本宿にある多聞寺の先から左斜めに進み、北本駅東口側りそな銀行横の道筋から、JR高崎線の西側を線路に沿って鴻巣宿へ向かうルートだった。
北本には三軒茶屋の名も残る
いつ現在の道筋に付け替えられたのかはわからないが、中山道古道の名残として原馬室(はらまむろ)一里塚の西塚が現存する。東塚は明治16年(1883年)高崎線の敷設に伴い壊された。
近年の不審火で焼失した東間浅間神社
JR北本駅を過ぎ、500m程行くと左手に東間浅間(あずませんげん)神社。火の神とされる木花開耶姫命(このはなのさくやびめ)を祭神として祀るが、残念ながら社殿は近年の不審火で焼失してしまったようだ。

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北の国から筋斗雲チキン

北本市東間の旧中山道は相変わらず何の変哲もない県道の直線道。うんざりしながら、うつむき加減に歩いていると、「元祖筋斗雲チキン」の大きな看板が目に飛び込んでくる。とっくに15時もまわり腹も減っていたので、「←ここ入る」の文字のとおりに、旧中山道を離れここに向かう。

高崎線を越えたところにオリエンタル食堂という一風変わった建物。ここに筋斗雲チキンがあるようだ。店内の様子を窺ってみる。しかしひと気はない。
突然背後から「6時からの営業なんですよ。」と店主らしき人。
(な、なぬっ・・・)「そうなんですか・・・わかりました。」すごすごと来た道を引き返す。
背後からは「またよろしくお願いします。」との明るい声。
もうこうなると空腹感は増幅され何か食いたくて仕方がない。
(またここに来ることはあるのだろうか・・・)と筋斗雲チキンに後ろ髪をひかれつつ、オリエンタル食堂を後にした。

気を取り直して旧中山道を先へ進む。
あいかわらず単調な直線が続く。左膝がにわかに疼きはじめる。
筋斗雲といえば孫悟空。孫悟空といえばガンダーラ。そんなことを考えている。
(そこに行けば どんな夢も かなうというよ♪・・・)
(・・・その国の名はガンダーラ♪・・・)
ゴダイゴのガンダーラが自然と口につく。懐かしさに浸りながら歩く。
(ガンダーラじゃなく京都だよ。)
もう頭の中は単調な道路と同様、単純にくだらない思考回路になっている。

すると「味工房詩箱 北の国から」の看板が目に留まる。どうも食堂のようだが、何で埼玉県の北本で北の国からなのだろうかと、疑問に思いながら、
(あーあー あああああーあ・・・んんーんんんんー・・・らららららー♪)
既に頭の中ではさだまさしに切り替わる。純と蛍と五郎がるーるるるの世界です。
(こりゃ北の国から筋斗雲だな。チキン食いてー。)
と意味不明な状態でようやく鴻巣市に突入。

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鴻巣の雛人形

鴻巣人形町の街並み
深井二丁目交差点の先から鴻巣市人形町。
ここはその住所が示すとおり、古くから江戸の十間店・武州越谷とともに関東三大雛市として繁盛し、今なお多くの雛人形屋が軒を連ねる。
鴻巣の雛人形は天正年間(1573年~1592年)京都伏見の人形師がここに移り住んで人形製作をはじめたことが由来という。江戸時代中期頃からお内裏様とお雛様が揃う、お馴染みの雛人形が作られるようになり、これが鴻巣雛として知られるようになった。
400年以上の伝統を誇る雛人形の町・鴻巣
「おおとり」という老舗の煎餅屋を見つける。中を覗いてみると所狭しと煎餅が並べられている。早速中に入り、「大角久助」と名がついた煎餅を一袋買う。
煎餅をバリボリと食べながら歩く。少々はしたない行為ではあると思うが、空腹に耐えかね背に腹は代えられない。
夕闇に漂う鴻巣宿
鴻巣本町に到着。この辺りが鴻巣宿の中心であった。ガイドブックによると高野薬局辺りが本陣跡とあるが、本陣跡はおろかその薬局すらどこにあるのかわからない。

鴻巣駅に向かい、駅前の瀧の家食堂でけんちんそばを食べる。けんちん汁がそばつゆの懐かしい田舎風味。そばもおいしい。腹を満たし、17時過ぎJR鴻巣駅から帰途につく。

【第4日目】踏破距離約10.9km(上尾宿→鴻巣宿) 江戸から48.8km 京都まで485km
まだまだ先は長い・・

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鴻巣宿

【第5日目】2月4日(日)



天気は快晴だが、風が強く寒い。
JR鴻巣駅下にあるドムドムバーガーでコーヒーを飲みながら軽く一服。今日の目的地、熊谷までは16km以上の長い道のり。左膝に不安を感じながらルートを確認する。
11時過ぎ、鴻巣市本町の勝願寺から旧中山道の旅を再開する。
勝願寺・伊奈忠次・忠治の墓
勝願寺は関東18檀林の名刹。毎年11月に「お十夜」という念仏会と、壊れた人形を供養する人形感謝祭が行われる。人形の町、鴻巣らしい行事である。ここには徳川家康の家臣で関東郡代の伊奈忠次・忠治父子の墓をはじめ、本多忠勝の娘で信州松代藩祖・真田信之(幸村の兄)に嫁いだ小松姫、真田信之三男の信重夫妻、豊臣秀吉の家臣で後に家康に仕えた信州小諸藩祖・仙石秀久の墓がある。
コウノトリ伝説が伝わる・鴻巣宿
勝願寺から旧中山道を歩み、本町を散策する。この辺りが宿場の中心で本陣、脇本陣、問屋場が置かれた。
鴻巣宿は江戸から7番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口2274人、家数566軒、本陣1、脇本陣1、旅籠58軒。宿場には徳川家康、秀忠、家光が鷹狩りの際に宿泊所とした鴻巣御殿があった。ちょうど勝願寺の裏手辺り一帯が跡地という。
12月には酉の市が開かれる鴻神社

現在は人通りも少なく静かな地方の町。ただ車の交通量は多い。街灯には「おおとり商店会」の旗がなびき、歩道にはコウノトリが描かれている。
駅前通りを越え鴻神社近くまで来ると、土蔵造りの商家等、旧商家の建物が散見される。

鴻神社には地名の由来、コウノトリ伝説が伝わる。境内では毎年12月に酉の市が開かれ、縁起物の熊手を買い求める人で賑わうという。

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武蔵武士発祥の地・箕田

第三中仙道踏切を越えると鴻巣市箕田
鴻巣宿を後にし一路、熊谷宿へ向かう。
第三中仙道踏切を渡り、先へ進む。そば処滝乃屋から左に分かれる道が、かつての松山道。ここから現在の東松山市に通じる道であった。

ラーメン幸楽の前には二本木バス停。すぐ先の左手には大きな二本の木が街道を覆う。
渡辺綱の守り本尊と伝わる箕田観音堂
宮前と箕田(みた)の境を北西に伸びる県道をしばらく直進する。「ふれあいセンター入口」交差点を過ぎ、500m程行くと右手に箕田観音堂。本尊は源経基ゆかりの馬頭観音で、永延元年(987年)に箕田源氏の渡辺綱(わたなべのつな)が守り本尊としてここに安置したと伝わる。
砂塵舞う宮前交差点付近
さらに風が強くなる。路上には砂埃が舞い、ハードコンタクトの私には歩行困難な状態に陥る。目を出来る限り細めながら進むも、やはり砂埃が目に入る。
たまらずスーパーの「ベルク」に逃げ込むが、風は一向に治まる気配をみせない。やむなくトイレの洗面台を拝借し、ハードレンズから1DAYのソフトレンズにつけ換え、旅を続ける。

宮前交差点を過ぎると右手に龍昌寺。この先の氷川八幡神社(箕田八幡)には宝暦9年(1759年)建立の箕田碑があり、武蔵武士発祥の由来を今に伝えている。
武蔵武士発祥を今に伝える箕田碑
傍らに鴻巣市教育委員会の案内板が建っているので内容を要訳する。
「清和天皇の第6皇子、貞純親王の子である源経基が平安時代中期頃、武蔵介としてこの地方を治め源氏繁栄の礎を築く。その後、嵯峨源氏の流れをくむ源仕(みなもとのつこう)がここに土着し、箕田源氏を名乗る。知勇を兼ね備え、経基をよく助け大功があった。その孫である渡辺綱(わたなべのつな)は摂津源氏の源頼光に仕え剛勇の誉れ高く、頼光四天王の筆頭として活躍した。
箕田源氏三代(源仕・源宛(みなもとのあつる)・渡辺綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝わる。」

ちなみにこの先の館林道・忍(おし、現行田市)道との追分(分岐点のこと)にある案内板には、箕田源氏の祖は源仕の子、充(宛のこと、ここでは“みつる”と呼ぶ)であるとする説をとり、村岡(熊谷市)に居を構えていた平良文と合戦に及んだことが「今昔物語集」に書かれていることを紹介している。
なにせ千年以上も前の話。諸説様々ある。
神社裏手の宝持寺は渡辺綱が祖父・仕と父・宛を追善するために建てたものである。
武蔵水路は利根川から荒川への連絡水路
武蔵水路を中宿橋で渡る。橋手前を右に行くと箕田源氏の館があったといわれる満願寺。
住宅地の中を進む。途中左手の路傍に石造物群があるが、長年の風雨にさらされ文字は読み取れない。

かつての館林道・忍道との追分(分岐点のこと)に着く。旧中山道は直進する道。ここには平成の道標と説明板が置かれている。説明板には箕田源氏や中山道のことが書かれ、この周辺の中山道分間延絵図(江戸幕府の道中奉行によって作成)が紹介されている。
道を挟んで向かい側には、分間延絵図にも描かれている地蔵堂がある。

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鴻巣吹上富士遠望

鴻巣市前砂の旧中山道

鴻巣市の中井から前砂に入り、田畑の景色に視界が広がる。依然風は強いが空は澄んで青い。右手にはJR高崎線の電車が駆け抜ける。ここから先は歩道が整備され歩きやすい。所々の電柱には、いかにも手製の道しるべが貼り付けられ、旧中山道を案内してくれる。

左手の路傍に史跡一里塚の標柱。通行の邪魔にならないよう、いかにも申し訳なさそうに建っている。案内板も建てられてはいるが、文字が消えかけ実に読みとりにくい。ここ前砂の一里塚は日本橋から13里目。右手に近づく高崎線と旧中山道

右にJR高崎線が徐々に近づき、横に並んだところで吹上富士見に入る。
この住所が示すとおりここからは富士が遠望できるのであろう。英泉が描いた「鴻巣吹上冨士遠望」はこの辺りの風景を描いたという。富士山を背景に野原の中を蛇行しながら続く中山道を、旅人が行き交う様子が描かれている。
しかし残念ながら今日のところは富士を眺望することはできなかった。
第四中仙道踏切を渡ると吹上本町に入る
第四中仙道踏切を渡り、すぐに左折。妙徳地蔵尊の右を抜け県道と合流する。この辺りまで手製の道しるべが貼られているので、道を間違えることはない。

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間の宿・吹上

間の宿・吹上にて

吹上本町の静かな街並みの中を歩き、吹上駅前の交差点を通過する。旧中山道は吹上本町交差点で左折し県道と離れる。交差点手前の右折する道は、忍(おし)城下へ続く忍道。
吹上本町の旧中山道
県道を離れた街道は車も人通りもなくなり、更に静まりかえる商店街の道。途中、東曜寺に立ち寄り境内を散策する。参道沿いには長年の風雨に晒され、その役目を終えたかのように壊れた土蔵がたたずんでいた。
明治40年に近隣5社を合祀し改称した吹上神社
東曜寺参道前から右にカーブした先が吹上神社。毎年7月下旬に祇園祭りが開かれる。

高橋酒店前で缶コーヒーを飲みながら小休憩。
旧中山道はここから少し先の陸橋下で線路に分断される。ここには「中山道間の宿」と刻まれた平成の道標と説明板が置かれ、吹上の説明と分間延絵図が紹介されている。

吹上は正式な宿場ではなかったが、鴻巣宿と熊谷宿の距離が約16kmと離れていたため、休憩所である茶屋本陣や馬継ぎの立場が置かれ、間の宿として発展した。江戸時代「忍のさし足袋」「荒川のうなぎ」「榎戸の目薬」は吹上名物として、街道筋の名品に数えられていた。

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権八地蔵と久下の長土手

久下の長土手をひたすらに先へ

陸橋で高崎線を渡り鴻巣市榎戸に入る。榎戸堰公園に寄り元荒川の清流を楽しむ。そしてブロック塀に囲われた住宅地の中を先へ進むと、二宮尊徳像とお堂が見えてくる。
荊原の権八地蔵
このお堂の中に安置されているのが権八(ごんぱち)延命地蔵である。歌舞伎「鈴ヶ森」に登場する白井(平井)権八が江戸に向かう途中、この地蔵の傍で上州の絹商人を斬って金を奪った。権八が地蔵に「今見たことは他言するな」と声をかけたところ、地蔵は「わしは言わぬが、お主も言うな」と答えたという。以来「物言い地蔵」と呼ばれた。
権八地蔵は熊谷市久下と鴻巣市の勝願寺にもあり、同じ伝説を伝えるが、どれが本物なのかは当の権八にもわからないのではなかろうか。
旧中山道はここから荒川土手に上る
荒川土手に上り熊谷市久下に入る。久下集落までの旧中山道は荒川土手上を進むルートとなり、約2.5kmも続く。
この土手はかつて久下の長土手と呼ばれ、天正年間(1573~1592年)に北条氏によって築かれたとされる。「久下の長土手、深谷の並木、さぞや寒かろ寂しかろ」と馬子唄に歌われほど、ひと気のない寂しい場所だったようだ。

土手道を先へ進む。もの凄い風が吹き荒れている。しかも川上から吹きつける風は、熊谷方向に向かう私には完全に向かい風。時々歩みを押し戻される。大げさではない。風は冷たく、手がかじかみ始める。こんな日に当然人はいない。まさに馬子唄に歌われる通りの寂しさと寒さである。

(嵐を起こして すべてを壊すの♪)
工藤静香の名曲を歌いながら気持ちを奮い立たせ先へ進む。幸い左ひざの状態はいい。

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カスリーン台風

荒川土手からの眺め

強風が吹き荒れる荒川土手を突き進む。途中、「決潰の跡」の石碑。昭和22年(1947年)9月のカスリーン台風による増水で、ここが決壊し大水害をもたらしたとある。

このカスリーン台風は戦後史上に残る大雨を降らせた大型の台風。マリアナ諸島付近で発生したこの台風は、15日に駿河湾沖から房総半島南端を通過し、翌日には三陸沖に抜けていく。台風は本州に近づくにつれ勢力を弱めていたが、13日から停滞していた前線が既に大雨を降らせており、更に台風の接近で記録的な豪雨をもたらした。
荒川決潰の跡
被害は甚大で、ここで決壊した荒川の濁流は元荒川周辺の行田や鴻巣一帯に大水害をもたらす。また同時期に埼玉県大利根町付近で決壊した利根川は、江戸川と元荒川に挟まれる埼玉県域一帯(栗橋、鷲宮、幸手、久喜、春日部)を濁流にのみこむ。

そしてこの荒川と利根川の濁流が合流し吉川、八潮辺りが水没。ついには都内の綾瀬川と江戸川に挟まれる地域(足立区亀有、葛飾区金町、柴又)に流れ込み、江戸川区小岩や船堀あたりまで水没させた。その死者は1千名を超え、倒壊家屋約9千戸、浸水家屋38万戸、被災者は40万人を超える大災害であった。

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久下権守直光

久下集落に入る旧中山道

ようやく久下集落の入口に到着。ほうほうの体で土手を下りる。
久下は南北朝時代に足利方として活躍した久下氏の発祥地。家祖である久下直光は八幡太郎源義家の七男、源義隆の子として産まれる。
平治元年(1159年)平治の乱で源氏が平家に敗れ、父義隆は関東へ落ち延びる際に落命。直光は母方の生家である下野国の小山氏に匿われた後、久下の地に土着し久下氏を興す。
当初は平家方である大庭景親に属していたが、源頼朝が挙兵すると一番に駆けつけ、一番字の家紋を与えられた。
久下村の鎮守・久下神社
子孫は承久3年(1221年)承久の乱後に丹波国(現在の京都府中部と兵庫県東側の一部)に移住。南北朝時代には足利方として数々の武勲をあげ、丹波国に多くの所領を得る。久下氏は有力な国人領主となり全盛期を迎える。

しかし室町時代末期の明応2年(1493年)、明応の政変で将軍足利義材についたことをきっかけに久下氏は衰退の一途を辿り、多くの所領を失う。ついには戦国時代、明智光秀による丹波攻略によりその地位を追われ、久下氏は歴史から名を消した。

鎌倉時代の歴史書・吾妻鏡には久下直光と熊谷直実の争論が書かれている。建久3年(1192年)直光と直実は所領境界のことで争いとなり、源頼朝の面前でお互いの主張を述べ口論する。ついに直実が争いに敗れ憤怒のあまり、子に家督を譲り出家してしまったという。
久下の権八地蔵
旧中山道は久下から再び荒川土手に向かう。土手の上り口には権八地蔵が再び登場。こちらのお堂前には赤頭巾を被った可愛らしい小地蔵がたくさん奉納され、実に楽しげな様子。
ここで旧中山道の道筋は一旦消失するが、200m程先のみかりや跡から再びその姿を現す。

みかりやは中山道を往来する旅人が休憩した茶店で、忍藩の殿様が鷹狩りの途中、ここで休んだので「御狩屋」の名がついた。「しがらぎごぼうに久下ゆべし」の言葉にあるように柚餅子(ゆべし)が名物であったという。

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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

カレンダー
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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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