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元荒川のムサシトミヨ

元荒川の流れ

熊久公園入口バス停を過ぎると、まもなく元荒川を渡る。元荒川は小さな流れであるが、水は澄んでいて実に清やかだ。ここにはムサシトミヨという魚が生息する。この魚はトゲウオ科に属する淡水魚で、かつては東京都と埼玉県の各地に生息していたが、環境汚染による水質悪化で、ここ元荒川でしか見られなくなった。天然記念物に指定され捕獲が禁止されている。

熊谷市曙町に入ると右手に曙公園。ここが八丁の一里塚跡で日本橋から15里目。
公園前の電話ボックスには小学生が満員電車のごとく、ぎゅうぎゅうづめの状態。中では任天堂DSなのかプレステポータブルなのかはわからないが、個々にゲーム機を持って熱中している。
(ひー、ふー、みー)数えてみると何と5人!寒風吹き荒れる一日であったことを物語るエピソード。
第六中仙道踏切
秩父鉄道の踏切を渡ると、すぐに高崎線の第六中仙道踏切。400m程狭い道を歩くと、国道17号と合流。旧中山道は片側2車線の広幅な道となり、熊谷市の中心地を突き抜ける。
筑波交差点で左に目を向けると、熊谷駅が見える。先へ進み市役所入口交差点を越えると、右手広場奥が高城神社である。
高城神社
17時、熊谷寺バス停付近にある熊谷宿本陣跡に到着。疲労困憊ぶりはあいかわらずだったが、意外にも左ひざの状態は良好。少しずつ体力強化されてきているようだ。
熊谷駅前の松屋で空腹を満たし、駅のお土産屋で熊谷名物の菓子・五家宝を買って帰路につく。

【第5日目】踏破距離約16.4km(鴻巣宿→熊谷宿)
日本橋から65.2km 京都まで469km
まだまだ先は長い・・・
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熊谷宿

熊谷宿の街並み



【第6日目】2月17日(土)



天気は雲と青空が半々といったところ。風は無いがやはりこの時期だけあって寒い。
まずは熊谷駅で五家宝(ごかぼう)を買う。前回の帰りにこのお菓子を買って帰ったのだが、これが実においしく即時に完食。それからはすっかり五家宝の虜になってしまった。
熊谷名物・五家宝
五家寶は「熊谷に名物五家寶あり」と言われる古くから伝わる菓子。歯ごたえのある練り菓子と、きな粉の甘味が絶妙にマッチする素朴な食感。ホント、癖になります。

熊谷駅を出ると馬上の熊谷直実像がお出迎え。駅前通りを国道17号方面へ向かう。途中、ドトールでコーヒーを飲みながら軽く一服し、今日のルートを確認する。11時、国道17号の筑波交差点から旧中山道の旅を再開する。

熊谷宿は江戸から8番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口3263人、家数1075軒、本陣2、脇本陣1、旅籠19軒。宿内に遊女を置くことを禁じていたためか、宿場の大きさのわりに旅籠の数は少ない。

熊谷の地名のおこりは諸説あるが、ここを本拠とした桓武平氏・平直方の後裔を称する平直貞が、付近を荒らしていた猛熊を退治し、熊野権現堂を築いた。これに因んでこの地を熊谷と呼ぶようになり、直貞も熊谷姓を名乗るようになったという。

直貞の子である熊谷次郎直実は源平合戦で活躍し、一の谷の戦いで平敦盛を討ち取った話はあまりにも有名である。
現在、熊野権現堂は高城神社に遷されている。

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大里郡総鎮守・高城神社

高城神社の常夜灯

熊谷市の中心部を分断する国道17号は、ひっきりなしに車が行き交う。市役所入口交差点のすぐ先に高城神社の鳥居。ここを右折し参道を歩いて高城神社へ向かう。境内入口付近には天保12年(1841年)に建てられた青銅製の常夜灯。台座には熊谷をはじめ、各地の紺屋(藍染業者)の名前が150名も刻まれる。江戸時代に藍染業で活況を示していた、かつての熊谷宿を今に語る常夜灯だ。

高城神社の創建は不明だが、平安時代にまとめられた延喜式神名帳に「大里郡一座高城神社」の名が見え、かなり古くから熊谷の地に鎮座していたことは確かである。熊谷次郎直実も氏神として信仰していたという。
しかし天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原北条攻めの兵火で消失。寛文11年(1671年)忍藩主、阿部正能により本殿が再建された。赤石が敷きつめられる天神社
毎年6月に胎内くぐり、12月には酉の市が開かれる。

また境内に鎮座する天神社は医学、歯の神様として崇敬され、古くから玉垣内の赤石を拝借し、「丈夫な歯がはえますように」と子供のお食初めの時に、歯ぐきに当てる風習がある。赤石は倍にして返すそうだ。天神社の小さな祠の周りには、それを物語るように赤石が敷きつめられている。

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熊谷宿本陣別邸・星渓園

本陣竹井家の別邸・星渓園

高城神社参道から国道17号に歩みを戻し、札の辻(高札場)跡を見学。ここには石標と説明板が建てられている。少し先の右手にある「おこのぎ」という店の脇道が陣屋通り。ここを入った先の千形神社がある敷地が忍藩陣屋跡である。陣屋とは城を持たない小大名や旗本などの居館や、地方を管轄する郡代・代官の役所のこと。江戸時代の熊谷は忍藩に属し、町方事務を司るため出張所である陣屋をここに置いていた。
熊谷宿本陣跡
ここから再び国道に戻り熊谷宿本陣跡に行く。
本陣は明治17年(1884年)の火災と昭和20年(1945年)の戦災で跡形も残っていない。しかし近くに本陣竹井家の別邸にあった庭園が星渓園の名で公開されている。これは竹井澹如(たけいたんじょ)が慶応年間(1865~68年)から明治初期にかけて作った回遊式庭園で、玉の池の周りに施された木々と名石を優雅に楽しむことができる。
八木橋デパートを突き抜ける旧中山道
旧中山道は鎌倉町交差点で国道を右斜めに離れ、八木橋デパートの中に入る。
デパート内をつき抜け、再び一番街通りとしてその姿を現す。
ここからすぐ近くにある熊谷寺に寄り道する。

出家し法然の弟子となった熊谷直実は蓮生と名乗り、ここ熊谷で草庵を結び念仏修行に励んだ。承元元年(1207年)に自らの死を予言し、翌年大往生を遂げる。
天正年中(1573~92年)に幡隋意上人(ばんずいいじょうにん)が蓮生の徳を慕い、この草庵に建てた寺が熊谷寺である。

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熊谷にまで来て犬に襲われる

熊谷一番街

八木橋デパートから一番街通りに入る。入口付近にはデパートの駐車場があり人通りもあるのだが、商店街を中ほどまで行くと閑散としていて、おばあちゃんが手押し車を押しながら、のんびりと歩いている。
一番街通り
この静かな商店街も八坂神社を越えると国道17号と合流し、車の喧騒となる。石原一丁目歩道橋の先で片道2車線の道は1車線の道となり、よくある郊外の国道といった風情。

熊谷警察署を過ぎて500m程行くと、左手に元治元年創業の和菓子屋・梅林堂。ここで旧中山道は国道から左に分かれ、梅林堂とラーメン金華の間の小道を進む。
間もなく右手に大きなケヤキが見える。これが新島の一里塚で日本橋から16里目。このケヤキは樹齢300年を超える古木である。
新島一里塚のケヤキは樹齢300年を超える
ここから静かな住宅地の中を進む旧中山道を歩く。と思ったが・・・
いきなり民家の門から犬が猛吠えしながらこちらに向かって飛び出てくる。鎖には繋がれていない。「うわっ!」一瞬ぎょっとして急いで先へ逃げる。幸い追ってはこなかったが、犬は道の真ん中でこちらを見て威嚇を続けている。首輪がついていたので飼い犬のようだが・・・
飼い主さん、お願いだから鎖で繋いでおいてください。ホントやられると思いましたよ。
忍藩領の境界に建てられた石標
すぐ先、左手に忍領石標が建つ。「従是南忍領」と彫られたこの石標は忍藩が他藩との境界を示すために安永9年(1780年)に建てられたもの。明治期の廃藩置県の際に撤去されたが、昭和14年(1939年)に発見され元の位置に再建された。

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籠原を行く

熊谷市久保島にて

旧中山道は熊谷市玉井と久保島の境界を進む。久保島歩道橋で国道17号を横断すると筋交橋。ここからは県道264号線となる。右には大きな畑が広がり、その向こうには「はなぶさ温泉リハビリセンター」が見える。
熊谷市玉井付近の旧中山道
旧家の塀と用水路に挟まれた雰囲気のある道を歩く。しかし旧道の道幅そのままなのだろう、狭いうえ双方向に車通りも多く、歩きにくいのが残念だ。
玉井団地の玉
国道17号のバイパスを横断すると、右手の田園地帯に、ポツリと千間神社の小さな社が見える。
住宅街の中を先へ進み、石丸病院バス停を過ぎると玉井団地である。団地入口には大きな白球のモニュメント。何の意味があるのかと疑問に感じながら近づいてみると、白球の下には「井」の土台。(なるほど、これで玉井かぁ~)と勝手に合点したが、真相はどうなんでしょう?

すぐ先、右手の地蔵が納められた不動堂の前には庚申像が建ち、ここが旧街道であることを改めて認識させる。新堀バス停から先の道は、現在拡張工事の最中だ。
スーパー「ベルク」を過ぎると左手は明治天皇御小休所跡。
鬼林稲荷大明神
籠原の駅前通りを横断し新堀北交差点まで来ると、深谷市東方に入る。ドラッグストア「ビッグサン」から、先のきんぺい酒店という変わった名前の店を過ぎると、右手に鬼林稲荷大明神。参道には小さな赤い鳥居が恭しく並んでいた。

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秋元長朝と熊野大神社

深谷市東方にて

旧中山道は熊谷市東方の長閑な住宅地の中を進む。東方五丁目バス停の先、右手には古くから営んでいそうな商店。キリンビールの看板がいかにも昭和の匂いを感じさせる。店名は、ん!?どこにも見当たらない。そんな訳はないだろうと、うろうろしながら自販機でコーヒーを買い一服。店先は実にレトロな雰囲気を醸し出している。
この先、東方鈴木バス停前にも似たような店があるのだが、やはりここにも店名を掲げる看板がない。おそらく二代、三代も前から営むこの辺りの店には、店名の看板なんて必要ないのであろう。
熊野大神社
幡羅農協を過ぎて右、石灯篭が並ぶ参道の先に熊野大神社が鎮座する。本殿の創建は古く、天正年間(1573~92年)に上野台の領主であった秋元長朝が寄進したものである。元は城の守り神であった。

秋元長朝は戦国時代の武将で、はじめ深谷上杉氏に仕えた。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の際、主君が北条方に与したので、それに従い深谷城を守備し豊臣軍と戦った。小田原城開城とともに深谷城も開城。隠棲した後に徳川家康に仕え、関が原の戦いの際には上杉景勝の降伏に貢献し、上野国に1万石の所領を得て総社藩初代藩主となった。
山内一豊ほどのスケールではないが、戦国の戦乱期を巧みに生き抜き一大名となった立身出世の人物なのだ。

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国済寺と見返りの松

国済寺の三門

熊野大神社から旧中山道に歩みを戻す。冬枯れしたイチョウ並木の中を歩き国済寺に寄る。ひと気がなく静寂感が漂う境内には、梅が白い花をつけ美しい。
深谷のイチョウ並木
この地は13世紀末頃に上杉憲英が庁鼻和(こばなわ)城を築いた場所だ。以後、憲光・憲信と3代がここに居住し、庁鼻和上杉氏を名乗った。4代目の房憲が深谷城を築いて居城を移すと、城跡には深谷上杉家の菩提寺として国済寺が建てられた。

旧中山道は原郷交差点で国道17号と交差する。ここには深谷宿の名所であった「見返りの松」がある。というよりあった。樹齢500年といわれた松の大木は、残念ながら昨年の2月に枯死し、伐採の憂き目にあってしまった。国道沿いで排ガスの影響をもろに受けてしまったのだろう。現代環境の劣悪さが招いてしまった悲劇である。
見返りの松も今は2代目。左が旧中山道で右は現中山道
この松は深谷宿の遊女が一夜を供にした男をここまで見送り、別れを惜しんだので「見返りの松」の名がついた。今はいじらしく2代目の幼松が植えられている。

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深谷城址

深谷宿稲荷町の旧中山道

旧中山道右手の常夜燈先から深谷宿の稲荷町。
街道沿いには米屋の「だいまさ」や嶋田精果店、石川屋洋品店など、味のある老舗の店舗が軒を連ねている。唐沢川を行人橋で渡ると本住町。本住町交差点を右折し深谷城址へ向かう。
深谷宿の米屋・大政
深谷城は康正2年(1456年)深谷上杉氏の上杉房憲により築城され、庁鼻和城から移ったことは前にも書いた。深い濠と土塁に囲まれた城は、その形から木瓜(ぼけ)城とも呼ばれ、面積約20ヘクタールの平城であった。現在は城址公園として整備され、城壁のモニュメントや小さな濠が施されているが、深谷上杉氏の祈願社であった富士浅間神社(智形神社)周辺に遺構を残すのみで、昔日の面影を残すものは少ない。
深谷城址公園
深谷上杉氏は5代134年間にわたりここを居城としたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐により城は開城し、深谷上杉氏は滅亡。徳川家康の関東入府後、一族である松平康直、忠輝、忠重が居城とし、元和8年(1622年)には譜代家臣の酒井忠勝が1万石で入封。忠勝が寛永3年(1626年)に武蔵国の忍に転封すると、寛永11年(1634年)に深谷城は廃城となった。
毎年夏には城主であった深谷上杉氏を偲び深谷祭りが催されている。
深谷の銘菓・翁羊羹
深谷宿に戻り、本町にある飯島印刷所の本陣跡に到着。ここから先の糸屋製菓店で深谷名物「翁羊羹」を購入し、JR深谷駅に向かう。駅前のカレーハウス壱番屋で空腹を満たし、17時帰途につく。

【第6日目】踏破距離 約10.8km(熊谷宿→深谷宿)
日本橋から76km 京都まで458km
まだまだ先は長い・・・

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深谷宿

深谷宿にて



【第7日目】2月25日(日)



天気は晴れ。しかし天気とは裏腹に真冬の寒さ。完全防備に身を包み、深谷駅に降り立つ。深谷駅はレンガ造りのモダンな駅舎。東京駅のミニチュア版といった様相だ。駅前には深谷が生んだ偉人、明治の実業家・渋沢栄一像が建てられている。
モダンな駅舎の深谷駅
まず深谷といえば「ねぎ」。ここで生産出荷されるねぎは、「深谷ねぎ」のブランドで全国的に知られる。品種は長ねぎや白ねぎと呼ばれる根深ねぎで、白の葉鞘部分が長い。以前ゴルフでこの近くに来たときに、帰りに深谷ねぎを買い、ねぎ飯にして食べたことを思い出す。甘みのあるねぎはご飯とマッチして実に美味かった。

深谷宿稲荷町の常夜燈から旧中山道に歩みを戻す。深谷宿は旧商家や土蔵が点在し、地方の商店街といった風情の中に、宿場時代の名残を残す街並みだ。街道に交わる細い路地には、室町時代に形成された城下町時代の町割りの雰囲気も感じる。
深谷宿には味のある店が軒を連ねる
深谷宿は江戸から9番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口1928人、家数524軒、本陣1、脇本陣4、旅籠80軒。隣の熊谷宿では旅籠に飯盛女(遊女)を置くことを禁じていたため、ここは旅籠の数が非常に多い。英泉の描く深谷宿にも多くの遊女が描かれている。

本陣は宝暦2年(1752年)から代々飯島家が努め、深谷町にある飯島印刷所が本陣跡。ここの裏手には本陣の一部が残されているが、非公開となっている。手作りの説明板と小さな花壇が設けられ、ここが本陣であったことを僅かに物語る。
田所町の常夜燈
田所町にある菊泉の醸造元・滝澤酒造はレンガ建築が印象的な造り酒屋だ。街道を挟んでその向かい側にある吉村屋製菓舗も味のある老舗。この先宿場の出入口には稲荷町と同様に常夜燈が置かれている。この田所町の常夜燈は天保11年(1840年)の建立だ。

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萱場集落から宿根へ

萱場集落にて

深谷宿を出て一路、本庄宿を目指す。深谷市萱場に入り左手奥、高崎線の向こうにある清心寺へ寄る。境内には平忠度の供養塔がある。忠度は平清盛の弟。
清心寺
この供養塔は寿永3年(1184年)源平合戦の一ノ谷の戦いで、岡部六弥太忠澄が平家方の平忠度を討ち取り、その菩提を弔うため建てられたもの。忠澄は智勇に優れた忠度の死を悼み、領内で一番景色の良かったこの場所に五輪塔を建て供養した。
瀧宮神社
宿根交差点で国道17号を渡る。交差点角には瀧宮神社が鎮座する。社殿の裏手には干からびた池の跡。御手洗池やひょうたん池と呼ばれた溜池の水は、昭和61年(1986年)に干上がってしまった。

この溜池は室町時代の明応5年(1496年)に大干ばつに襲われた際、領主がここを掘ったところ、水が湧き出したことにはじまる。その水は耕地を潤し、領民は神の恵みと大変喜んだ。そしてここに社殿を建て瀧宮神社として祀ったのである。

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高島秋帆幽囚の地

高島秋帆幽囚の地(岡部藩陣屋跡)

旧中山道は深谷市宿根の静かな住宅地を抜け、国道17号と合流すると深谷市岡部に入る。左手には「関東一の漬物名産地 岡部」の看板。その先には菊池漬物店や滝沢漬物の看板が見える。岡部は最近まで岡部町という単独の自治体だったが、昨年1月1日に花園町、川本町とともに深谷市と合併した。深谷市宿根にて

岡部北交差点の角、宮倉食料品店を左に入り300m程奥に、高島秋帆(たかしましゅうはん)幽囚の地。石碑と案内板が建てられている。ここは岡部藩の陣屋があった所で、この石碑の建つ場所に秋帆が幽囚されていた。

高島秋帆は江戸時代後期の砲術家で、西洋式の高島流砲術の創始者。秋帆はアヘン戦争で清がイギリスに負けたことを知ると、欧米のアジア進出を強く危惧。天保12年(1841年)に徳丸ヶ原(現東京都板橋区高島平)で洋式砲術の公開調練を行い、幕府に洋式兵術・砲術の軍備を急がせた。しかし翌年、讒言にあい投獄され、弘化3年(1846年)に岡部藩預かりの身としてここに幽囚された。
岡部を行く旧中山道
嘉永6年(1853年)ペリーの黒船が来襲すると、幕府は近代兵学の必要性から秋帆を急遽赦免し、鉄砲・砲術方の師範とした。秋帆は幕府の砲術訓練に尽力し、慶応2年(1866年)69歳で没した。余談であるが高島平の地名は昭和時代になり、秋帆に因んでつけられた。

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岡部六弥太忠澄ゆかりの地

ネギ畑の向こうに山が近づく関東平野を眺めながら

高島秋帆幽囚の地から岡部北交差点に戻り、交差点手前の源勝院に寄る。ここは徳川家康の関東入府とともに、この地を領地とした岡部藩主安部氏の菩提寺で、歴代藩主の墓が並ぶ。
また墓地の脇道奥には、岡部六弥太忠澄の祈願所といわれる岡部神社が鎮座し、安部氏の祈願所ともなった。
岡部六弥太忠澄の墓
旧中山道を500m程先へ進むと普済寺交差点。ここを右折した先の左手に岡部六弥太忠澄の墓がある。
岡部六弥太忠澄は源頼朝の挙兵から義仲追討、数々の源平合戦に活躍。一ノ谷の戦いでは平忠度を討ち、自領内で一番景色の良かった清心寺の地に弔ったことは前にも書いた。忠澄は武勇に優れていただけではなく、慈悲深き人物だったようだ。

墓からの景色は畑が視界に広がり、空は青く清々しい。はるか向こうには日光の山々も見える。この眺望の良い静かな場所に、今も忠澄は夫人とともに岡部の地を見守っている。
安産の神様として有名な島護産泰神社
普済寺交差点から国道17号を先へ進む。旧中山道は藤屋食堂の先から右に国道を離れ、車の喧騒は遠ざかる。ネギ畑の向こうには関東平野が広がり、景色を楽しみながら歩く。間もなく深谷市岡に入り、右手に島護産泰神社。安産の神として信仰され、参拝の際には底の抜けた柄杓を奉納するという。

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上毛三山のひとつ赤城山が視界に

上毛三山のひとつ赤城山が視界に

島護産泰神社から600m程道なりに進むと、道は二又に分かれる。旧中山道は直進する細い道。山口輪店の先、右の塀に「百庚申100m→」の道しるべが貼られ、旧中山道はここを右折する。
百庚申と旧中山道
坂を下りながら鬱蒼とする林の中を行くと、おびただしい数の庚申塔が建ち並ぶ異様な光景。これは百庚申と呼ばれ、万延元年(1860年)の庚申の年から翌年にかけて、ここ岡の有志13人により作られたものだ。万延元年は井伊大老が桜田門外で暗殺された幕末激動の年。世情の不安がこのようなものを作り上げた。
滝岡橋を渡ると本庄市
百庚申から岡交差点で国道17号のバイパスを横断し、滝岡橋で小山川を渡る。旧中山道の道筋は岡交差点から左斜めの方向に進路をとり、滝岡橋の上流150m付近で渡河していたが、現在は畑の中に消滅している。
滝岡橋の前方には赤城山がきれいに姿を見せている。「赤城の山も今宵限りか・・・」思わず国定忠治の名台詞が口元をつく。

小山川を渡ったところで本庄市堀田に入る。本庄市に入ったことで一息つきたくなり、堀田集落の前原商店で缶コーヒーを買い一服。時計は14時半をまわったところだ。
集落を抜け、右に赤城山を眺めながら元小山川の堤防と畑の間の道を進む。畑にはビニールハウスが点在し、のどかな風景が続く。

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牧西、傍示堂を経て本庄宿へ

牧西集落を進む旧中山道

旧中山道の道筋は本庄市牧西。道は蛇行しながら集落の中を抜けていく。藤田小学校の前を過ぎると、右手の向こうに朱色に塗られた宝珠寺の山門が見え、道を挟んだ向かい側には牧西の村社・八幡神社が鎮座している。
牧西の町並み
ここは本庄市指定文化財・金鑚神楽の宮崎組を伝える神社だ。金鑚神楽は埼玉県北部地域で演じられている神楽で、本庄市には宮崎組の他、本庄組、杉田組、根岸組、太駄組の5組が今に伝わる。宮崎組の面は正徳年間(1711~15年)以前に作られた古いもので、現在の演目数は25座伝わるという。
牧西にて
蛇行しながら歩みを先へ進める。藤田郵便局の前には立派な長屋門。牧西交差点を過ぎると、庚申塔や地蔵の石造物が道の傍らに建ち、牧西は旧街道の面影を存分に感じさせてくれた。そして旧中山道は本庄市傍示堂に入る。
一見、興味の惹かれるこの地名。傍示とは境界を示すことを意味し、境界に御堂を建て傍示堂と呼んだ。傍示堂集落センターにある小さな御堂が傍示堂である。
御堂坂を上り本庄宿へ
新泉橋で元小山川を渡る。諏訪町交差点で横断歩道を上り国道17号を横断する。御堂坂の緩やかな勾配を上ると、本庄宿はもうすぐだ。

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日暮れの近づく本庄宿に到着

大正院

御堂坂を上ると本庄市東台。旧中山道には花の形をした可愛らしい街灯が建ち並ぶ。中山道交差点を越え本庄宿に入る。
本庄宿の町並み
宿場入口付近の大正院に立ち寄る。ここの掲示板には「暖冬で、分からぬ春の、有難み」の貼り紙が・・・。なるほど、有難いお言葉である。冬の厳しい寒さがあるからこそ、人は春を待ちわび、その訪れに歓喜するのである。この冬、東京では雪の降る気配もないまま、春を迎えそうである。

本庄駅入口交差点を越え、本庄宿の中心に入る。右手のセトモノ・ガラス器の店「戸谷八」には創業永禄三年の看板文字。裏手の瓦屋根と土蔵造りの建物が長い歴史を感じさせる。
諸井家住宅
すぐ先の仲町郵便局は旧本庄郵便局で、その建物は国登録有形文化財に指定される。郵便局の奥には明治12年(1879年)頃に竣工された諸井家住宅がある。これは本庄の初代郵便局長・諸井泉衛が、横浜の洋館を手本に作らせたモダンな建物。しかし入口はシャッターに閉ざされ公開はされていないようだ。せっかくなので、以前に訪問したときの写真を紹介する。
本庄宿田村本陣門
本庄宿本陣の遺構は跡形も無く失われているが、歴史民俗資料館に田村本陣門だけが保存されている。16時ちょっと過ぎに歴史民俗資料館に到着。早速中へ入ると館員の方に「ご苦労様。16時半までだけど、ごゆっくりとどうぞ。」と優しい言葉をかけられ、その言葉に甘えゆっくりと資料館を見学。ここには市内で出土した土器や埴輪から宿場、戦時、近代と本庄の歴史を辿る展示がされている。
日暮れの本庄宿にて
本庄駅前にある菓子店「たかの家」で五家宝を買い、17時半本庄駅から熊谷駅へ向かう。熊谷駅構内のそば屋で空腹を満たし、新幹線で帰路につく。
【第7日目】踏破距離 約10.6km(深谷宿→本庄宿)
日本橋から86.6km 京都まで447km
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本庄宿

本庄宿の歴史を伝える商家



【第8日目】3月4日(日)



天気は薄く雲がかかる程度の晴れ。先週とはうって変わって春の陽気。11時、本庄駅に降り立ち、円心寺を経由して本庄城址へ向かう。上着を脱いでも歩いていると汗をかくほどの暖かさだ。
朱塗りの山門が見事な円心寺
本庄は平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国に勢力を伸ばした武蔵七党の武士団、児玉党の庄氏がこの地に居住し、後に本庄を名乗ったことにはじまる。室町時代に関東管領・上杉憲政の家臣であった本庄実忠が本庄城を築いたが、後に北条氏に攻められ落城。

天正18年(1590年)北条氏が豊臣秀吉の小田原征伐により滅亡すると、徳川家康が関東に入府。徳川家の家臣・小笠原信嶺が本庄城主となり城下町として発展していく。
本庄城址の城山稲荷神社とケヤキ
慶長17年(1612年)小笠原氏が下総国の古河に移封となると、本庄城は廃城となり中山道の宿場町として姿を変える。本庄宿は地の利を生かした利根川の水運で商業が盛んになり、中山道最大の宿場町にまで発展した。城跡には城山稲荷神社が鎮座し、社殿前の大ケヤキは本庄実忠の献木と伝わる。
本庄宿にて
本庄宿は江戸日本橋から10番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口4554人、家数1212軒、本陣2、脇本陣2、旅籠70軒の中山道最大の宿場町。本庄は気候風土の良さ、水害の恐れがない、海から離れており外敵の攻撃を受けにくい等の理由から、明治時代初期頃に元老院議官だった佐野常民(日本赤十字社創設者)により本庄遷都が計画されたこともある。

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金賛神社

本庄宿鎮守・金賛神社

本庄城跡から本庄駅入口交差点に戻り旧中山道の旅を再開する。
交差点を過ぎた先、りそな銀行の隣辺りが田村本陣跡らしいが、一方ではその先の埼玉県信用金庫の西側とも書かれている。どちらにもその跡地を示すものは何も無く、どちらが本当なのかわからない。前述したが田村本陣門だけは歴史民俗資料館に移築され現存している。
安養院
中央3丁目交差点を右折した小道の先に安養院の山門が見える。門前には「纏屋」の何ともシンプルで粋な看板。纏(まとい)を作る店なのだろうか。纏とは江戸時代に町火消が組の区別をつけるために持っていたもので、装飾された幟のようなもの。時代劇やお祭りで見かけることがある。
本庄宿西端の町並み、右手の森が金賛神社
本庄宿西端にある金鑚(かなさな)神社に寄る。神社は本殿と拝殿を幣殿でつなぐ権現造りと呼ばれる建築で、鬱蒼と生い茂る木々の中に極彩色漆塗りの社殿が美しい見事な景観。本殿は享保9年(1724年)、拝殿は安永7年(1778年)、幣殿は嘉永3年(1850年)の再建。毎年11月2日、3日の本庄まつりでは、豪華な山車が引き回され大いに賑わうという。

ここで本庄宿も終わり。神社から千代田3丁目交差点を右折し、国道462号で神社裏手を進む。歩道の路面には中山道の各宿場名が書かれたタイルが埋め込まれている。間もなく高尾歩道橋手前の脇道を左折し、国道を離れる。

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愛の国から幸福へ・神保原

神保原を行く旧中山道

国道を離れた旧中山道は本庄市小島の住宅街の中を進む。400m程歩くと県道に合流し、片道1車線の歩道をひた歩く。ゼロタウンの大きな敷地を過ぎると左手に「やきとりハウス幸福駅」という店。「幸せここにあり」というキャッチフレーズが印象的だ。
本庄市小島の旧中山道
幸福駅といえば北海道の廃線・広尾線の駅で、一昔前に隣にあった愛国駅から幸福駅行きの切符は「愛の国から幸福へ」という縁起物として、ちょっとしたブームになった。北海道出身の私にとっては、故郷を思い出し懐かしい。経営者にこの名をつけた由縁を聞きたいものだ。
上里町神保原の浅間山古墳
ラーメン大関を過ぎ左にカーブすると埼玉県の北端、上里町に入る。
すぐ左手の畑の中に雑草と樹木に覆われ、こんもりと盛り上がる小山は浅間山古墳。赤い鳥居をくぐり古墳に登ると、古墳内部に通じている小さな入口があるが、さすがに鉄扉で閉じられ中には入れない。この古墳は推定で直径約38m、高さ約6mの円墳で、築造時期は出土遺物から古墳時代終末期の7世紀後半と考えられている。上里町指定文化財。
中山道筋の住民が幕府の苦役に涙した泪橋
上里町神保原の道筋を先へ進む。左手路傍には泪橋の由来が書かれた石板があり、泪橋の遺物と思われる欄干らしき石が置かれている。農繁期のさなかや、極寒風雪の日にも伝馬という苦役を課せられた中山道筋の住民が、この橋を憩いの場とし、身のはかなさに涙したことが由来という。伝馬とは公用の書状や荷物を運ぶための人馬のことで、宿場毎に人馬を交代しながら目的地まで荷を運んだ。

今日は本当に暖かい日。13時を過ぎ更に気温も上昇してきたようだ。歩いていると喉も乾く。神保原陸橋(北)交差点を越え、日野岩酒店でクランベリーウォーターを買い、喉を潤す。神保原1丁目のT字路を右に行き、国道17号を横断すると上里町金久保に住所は変わる。

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武田信玄夫人ゆかりの陽雲寺

陽雲寺にて

金久保に入るとすぐ左手、小さな地蔵が納められた祠の前に庚申塔や二十三夜塔の石造が集められている。この辺りの旧中山道に置かれていたものであろう。地蔵には招き猫や酒が奉納され地元の人たちに大事にされているようだ。
陽雲寺本堂
金久保を見守る八幡神社に参拝し、その先の陽雲寺に寄る。ここは鎌倉時代初期の元久2年(1205年)の創建で、初めは満願寺と称していた。新田義貞がここに不動堂を建立し、鎌倉幕府の打倒を誓った場所ともいう。

天文9年(1540年)に金窪城主の斎藤定盛が崇栄寺と改め、諸堂を修復したが、天正10年(1582年)織田氏と北条氏が死闘を繰り広げた神流川合戦の兵火で焼失してしまった。天正19年(1591年)になり川窪信俊が養母であった武田信玄夫人を伴って金窪に入封すると、信玄夫人はこの寺の境内に居住。信玄夫人の死後、その法号から陽雲寺と改称した。境内には新田義貞の家臣で四天王の一人、畑時能の供養祠がある。
勅使河原の庚申塔と旧中山道
賀美公民館バス停の隣には上里町教育委員会により建てられた中山道の説明板。この先右手に庚申塔を見ると上里町勅使河原である。間もなく国道17号と合流し、神流川で武州路埼玉県の旅も終わりを迎える。道中色々あった武州路も今となってはなんだか懐かしい。彩の国さいたま、さようなら!

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いざ上州路、上野国へ

神流川を渡り上州路へ

武蔵国に別れを告げ、神流川を渡り上野国こと群馬県へ突入。ここからは上州路だ。
神流川橋と常夜燈
神流川は今でこそ神流川橋で渡河できるが、橋ができる以前は仮土橋が架けられ、増水時には渡し船により対岸へ渡っていた。渡し場の両岸には目印として見通し灯籠と呼ばれる常夜燈が置かれていたが、本庄側にあった灯籠は近くの大光寺に移されている。現在、神流川橋の両端にはこの灯篭を模した常夜燈が設置されている。
神流川古戦場跡
群馬県高崎市に入るとすぐ左手には神流川古戦場跡の碑。この辺りは織田信長が本能寺の変で討死した直後の天正10年(1582年)に、織田方の滝川一益と北条氏直が争った神流川の戦いの戦場跡だ。北条軍5万に対し滝川軍1万6千は暑い夏のさなか、ここを舞台に激戦を繰り広げ、滝川軍は3760名もの戦死者を出し敗走した。

古戦場跡から国道17号を250m程進むと旧中山道は右斜めに分かれる。分岐点には中山道新町宿の標柱と常夜燈が置かれている。ここから先が上州路最初の宿場、新町宿だ。

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新町宿

新町宿の入口に建つ常夜燈

新町宿は中山道で最も遅く成立した宿場。江戸時代初期の中山道は新町宿を通らず、本庄宿から金久保村(現上里町金久保)で北に進路をとり、玉村(現玉村町)を経由して倉賀野宿に至っていた。承応3年(1654年)に現在の新町宿を通るルートに変更されると、新町宿の前身となる落合村と笛木村に宿場町の形ができはじめ、落合新町と笛木新町と呼ばれるようになる。そして享保9年(1724年)に両町を併せ新町宿として中山道の正式な宿場になった。中山道の宿駅が制定されてから123年後のことである。
八坂神社と芭蕉句碑
新町宿は江戸日本橋から11番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口1437人、家数407軒、本陣2、脇本陣1、旅籠43軒。現在の新町は、昨年1月に群馬町、箕郷町、倉渕村とともに高崎市と合併したが、藤岡市と玉村町に阻まれ高崎市の飛び地のような状態になっている。

新町宿に入ってすぐ右手には小さな土蔵造りの八坂神社。ここには柳茶屋の芭蕉句碑があり、「傘におしわけ見たる柳かな」の句碑が建っている。昔、この辺りに柳の大木があり、傍には柳茶屋という名の茶屋があった。新町宿の俳人が柳にちなむ芭蕉の句を選び、天保10年(1725年)頃、風流なこの場所に句碑を建てた。
諏訪神社
新町宿を中ほどへ進むと、右手には諏訪神社が鎮座する。境内では子供たちが泥を投げ合って遊んでいる。すっかり服は泥だらけ。きっと家に帰って母親に叱られるんだろうなと思いながらも、無邪気にはしゃいでいる姿には、何だかこちらも楽しくなってくる。

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於菊稲荷神社

於菊稲荷神社

諏訪神社から400mほど先へ進むと「群馬新町名物・元祖みそまんじゅう」の看板が目に留まる。有無を言わさず、ここ酢屋製菓に入る。小ぢんまりとした店内には、かなり古そうな雛人形が飾られている。
みそまんじゅうと中山道最中
店のおばちゃんとたわいもない世間話を交わしながら、目的のみそまんじゅうとついでに中山道最中を買い、店の向かい側にある行在所公園で、早速みそまんじゅうを味見。みそ味がきいた皮と白餡が絶妙にマッチし、懐かしくも新鮮な味でおいしい。

ここ行在所公園には明治11年(1878年)明治天皇が北陸・東海地域の御巡幸の際に宿泊した施設が現在も残され、高崎市指定史跡となっている。
明治天皇新町行在所
そして行在所公園から脇道を奥に行くと、朱色の鳥居が建ち並ぶ於菊稲荷神社。新町宿の於菊という遊女が、医者も見離すほどの重病を患い、この稲荷様に深く帰依したところ、奇跡的に回復したという。以来、於菊はこの稲荷様の巫女となって、「困ったことがあったら於菊に聞け」と言われるほど、作物の出来具合や物事の吉凶、紛失物の在りかまで言い当てるようになったという。於菊は江戸時代版の細木数子といったところか。
新町宿小林本陣跡
新町駅入口交差点角にある群馬銀行の先には小林一茶が宿泊した旅籠高瀬屋の跡。左に大きくカーブしながら新町宿の町並みの中を進むと、ブロック塀前の路傍に小林本陣跡の標柱が建つ。すぐ先には温井川が流れ、新町宿はここで終わる。ほとりには弁財天の小さな社が静かにたたずんでいた。

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新町から烏川に沿って

烏川河川敷にて

温井川を弁天橋で渡り群馬県藤岡市に入ると、すぐに県道から右の脇道へ分かれる。分岐点には旧中山道の道路標識があるので間違うことはない。きれいに咲き誇る梅を見ながら伊勢島神社を過ぎると、白壁の土蔵と重厚な塀に囲われた旧家が目を見張る。
烏川堤防のサイクリングロード
静かに時間が流れる立石新田の住宅街を抜け、関越自動車道の下をくぐると、烏川の堤防に出る。ここからは堤防に上り、高崎伊勢崎自転車道を烏川に沿ってしばらく歩く。広い河川敷に視界は広がり、風は暖かく気持ちいい。左の県道が離れていくところで堤防を下り、車1台がやっと通れるくらいの道を行く。地元の住民が軒先で世間話をしている長閑な風景。
烏川堤防に阻まれる旧中山道
突き当たりで右に曲がると左手の路傍に旧中山道の道路標識があるが、その道筋はすぐ先の堤防に阻まれ、烏川の河川敷に姿を消す。かつての中山道は柳瀬橋下流300m付近にあった柳瀬の渡し場で舟渡しにより渡河していた。
舟渡しで渡河していた烏川
ここは柳瀬橋を渡り対岸へ。ここからは再び高崎市域となる。こちら側にも旧道が消失する地点に古びた旧中山道の道路標識があり、ここから旧商家や民家が密集する細い路地を進む。子育観世音門前の坂を上ると岩鼻町交差点で、この先は県道となり道幅も広くなる。

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落陽の倉賀野へ

倉賀野・烏川の夕景

高崎市岩鼻町には寛政5年(1793年)から幕末まで岩鼻代官所(陣屋)が置かれ、武蔵国六郡を支配していたが、徳川幕府が政権を返上すると代官所も崩壊。すると慶応4年(1868年)明治新政府により岩鼻県が設置され、代官所跡地が県庁となった。
岩鼻陣屋跡
明治4年(1871年)岩鼻県が廃止され群馬県が成立すると、県庁は高崎城内に移された。観音寺裏手一帯がかつての代官所で天神山と敷地の一部が跡地として残されている。

旧中山道は「八栄鮨」先の小道を直進し、県道から離れる。旧道の面影を残す道は300m程で再び県道に合流。新柳橋北交差点で国道17号を横断し、高崎線を陸橋で越える。山の向こうから倉賀野の街並みに西日が差し美しい。岩鼻町の旧中山道
(知らない町を歩いてみたい、どこか遠くへ行きたい♪・・・)
名曲を口ずさみながら、上機嫌で倉賀野町の県道を歩く。

旧中山道を離れ烏川河畔へ寄り道してみる。時計は既に17時半をまわり、川の向こうの山々に日が沈んでいくところだ。静かに流れる川面には夕日が映えていたが、やがて辺りの色は急速に失われていった。
夕闇の倉賀野宿
すっかり暗くなった倉賀野宿に到着。18時倉賀野駅から高崎駅に向かう。高崎駅構内の立ち食い蕎麦で空腹を満たし、新幹線で帰路につく。
【第8日目】踏破距離 約13.8km(本庄宿→新町宿→倉賀野宿) 日本橋から100.4km 京都まで434km
祝100km超え!しかしまだまだ先は長い・・

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倉賀野宿

日光例幣使街道との追分にある常夜燈



【第9日目】3月17日(土)



前回とは一転して寒さが身に応える朝、天気は曇り。上野から新幹線で高崎に向かい、高崎線で倉賀野に到着。さすがに群馬まで来ると、ひんやりとした空気は東京のそれとは質が違う。しかし雲の合間から日が差しはじめ、これから気温も上がっていきそうだ。10時半倉賀野駅を出て、旧中山道を逆行。日光例幣使街道の追分(分岐点)から旧中山道の旅を再開する。
日光例幣使街道の追分
日光例幣使街道は倉賀野宿で中山道から分岐し、下野国(栃木県)の楡木(にれぎ)に通じる街道。江戸時代、徳川家康の命日である毎年4月に朝廷の使いが日光東照宮に派遣され、この使い人を例幣使と呼んだ。

例幣使は京都から中山道を下り、ここ倉賀野から例幣使街道を通って楡木、今市を壬生道で経由、今市からは日光街道で東照宮に至っていた。追分には文化11年(1814年)建立の常夜燈と閻魔堂が今もその名残をとどめている。
倉賀野宿の町並み
ここから先が倉賀野宿となる。倉賀野宿は江戸日本橋から12番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口2032人、家数297軒、本陣1、脇本陣2、旅籠32軒。倉賀野宿は利根川と烏川を使った江戸通い物資運搬船の遡航終点河岸であったため、江戸から西上州、信州、越後との水陸運送の拠点として大変賑わった。

近くの高崎藩や安中藩の外港として、また松本藩や飯山藩など信州の大名、旗本などから運ばれる米を扱う回米河岸として、10軒もの米宿を抱えていた。しかしそんな活況を誇った倉賀野河岸も、明治17年(1884年)高崎線の開通に伴い、その使命を終えた。

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倉賀野神社と安楽寺

須賀(喜太郎)脇本陣跡

倉賀野宿の町並みの中を歩く。中町交差点の先、ベイシアマートの広い敷地が勅使河原本陣の置かれていた場所だ。すぐ先の小金沢医院の辺りが継立場跡で「御伝馬人足継立場跡」の標柱が建っている。
倉賀野宿高札場跡
倉賀野駅入口交差点を過ぎた先の右手に連子格子の二階建て木造家屋があり、ここが須賀(喜太郎)脇本陣跡。旧中山道を挟んで向かい側には須賀(庄兵衛)脇本陣があった。また須賀(喜太郎)脇本陣跡の隣が高札場跡で、復元された高札が立っている。
倉賀野神社
倉賀野の総鎮守、倉賀野神社に寄る。重厚な鳥居と銅板葺きの屋根が印象的な神社だ。社殿前には文久3年(1863年)に「三国屋つね」が寄進した常夜燈があり、玉垣には「金沢屋りつ、ひろ、ぎん」「升屋内はま、やす、ふじ」等の名が刻まれている。河岸で繁栄した倉賀野であるが、はたまた多くの旅籠と飯盛女で賑わった別の一面も垣間見る。
安楽寺
倉賀野宿の西端となる安楽寺へ向かう。本堂裏手のこんもりと盛り上がる小山は安楽寺古墳で群馬県指定史跡。直径約30m、高さ4mの円墳で7世紀末の築造。石室内の奥壁と左右両壁には鎌倉時代末に彫られたと推測される薬師仏7体が残されているが、公開はされていない。盗掘で荒らされた墳墓を見て憐れんだ僧が彫ったのだろうか。
ここ安楽寺付近が上の木戸跡で、ここで倉賀野宿も終わりとなる。

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榛名の山々に向かって

倉賀野の松並木

倉賀野宿を後にし一路、高崎宿へ向かう。高崎宿までは約6kmの道程。街道は上町西交差点の先から若い松並木が続き、自動車のディーラー店が建ち並ぶ。
倉賀野の浅間山古墳
松並木が途切れた左手には浅間山古墳がある。この古墳は古墳時代中期頃に造られた全長173mもある大型の前方後円墳だ。早速、畑の中の小道を行き古墳に登ってみる。円墳の頂上は雑木林となっているだけで、特に見るべき物はない。しかし、1500年もの歴史と古代人の営みを感じるには十分な遺跡である。

旧中山道は右に緩くカーブしながら北西の方角にひたすら延びる。「とりめし だるま弁当 たかべん」の看板が目に留まる。高崎名物のだるま弁当を販売する「たかべん」こと高崎弁当(株)が経営するドライブインだ。ちょうど昼時、これからの長旅に備えてランチタイムにする。店内は広々としているが、雰囲気は昭和の匂いがぷんぷんとする自然にレトロな感じ。づけ丼そばセットを食べたのだが、このボリュームで525円とは安いの一言。団体客を迎えるようなテーブルの配置となっているが、客はタクシーやトラックの運転手が多いようだ。
榛名山に向かって延びる旧中山道
満腹感に浸りながら店を出ると、眼前には榛名山と赤城山のパノラマが視界に広がる。赤城山を右手に見ながら榛名山に向かってひたすら延びる旧中山道。名山が迫り何とも爽快で美しいシチュエーションは今も昔と変わらず旅人の目を楽しませてくれる。

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中仙道名物・宿場まんじゅう

わらじの宿場まんじゅう

榛名山が徐々に視界に近づいてくる。国道17号の陸橋下を進み、上越新幹線をくぐり抜けると高崎市街へ入っていく。上信電鉄の踏切を渡った先、和田町交差点から右折の道が高崎競馬場に至る競馬場通り。
高崎市街に入る旧中山道
ライブドアが買収に次ぐ買収で肥大化し、世間を騒がせていた頃、ホリエモンが再建支援を表明した高崎競馬場であるが、残念ながら2004年12月31日をもって競馬場は81年の歴史に幕を閉じた。その後のライブドアはご存知のとおり、ニッポン放送の買収に失敗した挙句、証券取引法違反の容疑でホリエモンを初めとする幹部は逮捕され、自殺者まで出す始末。高崎競馬場の廃止とともに、堀江ライブドアも斜陽となるのである。
わらじ高崎宿店
先へ進み南町交差点の左が愛宕神社。高崎城の前身となる和田城の鎮護神として崇拝された。旧中山道はここから右にカーブし、高崎市街を直線に突き抜けていく。新田町交差点から右に目をやると「中仙道名物 宿場まんじゅう」の看板。早速、この和菓子屋さん「わらじ」に入ってみる。狭い店内に所狭しと和菓子が並べられている。宿場の風景を描いた味のある箱の宿場まんじゅうはやはり目を惹く。購入した品物をリュックにしまい込み店を後に。昼飯を食べてまだ間もないので、とりあえず味見は後だ。

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高崎宿

高崎城乾櫓

新町交差点から右が高崎駅、左の市役所や高崎病院、シティギャラリー、音楽センターのある広大な敷地一帯が高崎城址である。城址は市街化が進んでしまっているが、水堀や土塁が現存し、航空写真を見ると城域の原形を残しているのがよくわかる。また高崎城にあった16の城門のうち唯一、東門が現存し、乾櫓とともに高崎城址のシンボルとなっている。
高崎城飛龍の松
元々この地には鎌倉時代初期、和田正信の築城と伝わる和田城という城があった。上杉家、武田家、北条家と巧みに主を変えながら、代々和田氏が守ってきた和田城も、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原攻めによって、北条氏の滅亡とともに落城し廃城となった。

徳川家康の関東入府後、家臣の井伊直正により廃城となっていたこの地に近代城郭の高崎城が築かれると、高崎藩が成立し直正が初代藩主となる。以後、有力な譜代大名が代々藩主を務め、高崎は城下町として発展し、明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となるまで、約270年間にわたり存続した。
三つ葉葵が門印の大信寺
高崎宿は江戸日本橋から13番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口3235人、家数837軒、本陣なし、脇本陣なし、旅籠15軒。言わずもがな高崎城下の宿場町で本陣、脇本陣は置かれず旅籠の数も少ない。昔も今と変わらず交通の要衝で、越後へ向かう三国街道がここから分岐する。宿内の大信寺には三代将軍徳川家光の実弟、徳川忠長の墓がある。

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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

カレンダー
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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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