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かかあ天下にからっ風

上毛三山のひとつ榛名山を望む

旧中山道は本町3丁目交差点を左折し高崎城の北側を直進。片道2車線の道は本町1丁目交差点から1車線となり赤坂町に入る。赤坂町には井伊直正の伯母、恵徳院の菩提寺・恵徳禅寺や徳川忠長が自害した部屋が移されている長松寺、狛犬の顔がひょうきんな高崎神社がある。
高崎神社の狛犬
いつのまにか空から雲が消え晴天に。しかし上州名物のからっ風が吹き荒れはじめる。赤城おろしとも呼ばれる上州のからっ風は、冬場に吹く冷たく乾いた北風。「かかあ天下にからっ風」と言われ、養蚕業で一家を支えた働き者の女性と共に群馬県の代名詞として語られる。
高崎白衣観音と烏川
赤坂町の坂を下り常磐町交差点で右折、歌川町に入り金井屋の店先で缶コーヒーを飲みながら一服する。この先の並榎町で烏川を君が代橋で渡る。左前方の山頂には高崎観音の白衣観音像が見え、右には榛名山の全貌が望める。榛名山中央部付近のちょこんと顔を出している富士山のような形をした山が榛名富士である。
下豊岡の道しるべ
下豊岡町に入った旧中山道は500m程、国道406号のルートを辿り、下豊岡バス停の先でY字路を左に行く。右の道が草津を経由して信州に向かう信州街道だ。すぐ先には八坂神社の小さな社があり、「草津温泉」「左中仙道」と彫られた道しるべが建つ。この道しるべは江戸時代末期のものと推定され、中山道と信州街道の分岐点であるこの地に建てられた。
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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

上豊岡の茶屋本陣

上豊岡の茶屋本陣・上段の間

下豊岡町から中豊岡町に入る。からっ風は更に風速を増し、幟が路傍で激しくはためく。幟には「赤き姿に丸き心 高崎だるま」と書かれ、街道沿いにはたくさんの幟が立てられている。
高崎は全国の約8割を占めるだるまの生産地で、お馴染みの丸く赤いだるまは眉が鶴、髭が亀と松を表す縁起の良い伝統工芸品。近郊の達磨寺が発祥の地で、毎年1月6日、7日に高崎だるま市が盛大に開かれる。
からっ風が吹き荒れる若宮八幡宮
砂埃が舞いハードコンタクト使用者には、まともに目を開けることもままならない状態に。若宮八幡宮に駆け込み、水道を拝借してワンデーソフトコンタクトに付け替える。
ここ若宮八幡宮は永承6年(1051年)前九年の役の際に源頼義・義家父子が戦勝祈願のために建立したと伝わる。明治期には乃木大将も参拝したという由緒ある神社だ。
上豊岡町・道しるべと旧中山道
中豊岡町から上豊岡町へ。ここには飯野家の茶屋本陣が現存する。大名などの休息部屋であったお座敷は、書院造の上段の間と次の間で構成され、庭とあわせて無料で公開されている。
「風の強い中、ご苦労様です。」と管理人の方に労をねぎらわれ、玄関で記帳し中へ入ってみる。記帳簿を見る限り今日の訪問者は私を含め二人だ。上段の間には床の間、違い棚、書院が配される純和風な造り。こんな部屋で迎膳の食事をいただけば、気分はすっかり大名だ。

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縁起だるま発祥の地・達磨寺

少林山達磨寺

上豊岡バス停の先で国道18号に合流すると、すぐ先の右手に榎の大木が見える。これが藤塚の一里塚で日本橋から28里目。群馬県内で唯一現存する一里塚で、榎は推定樹齢200年を超える古木。ここから碓氷川の土手に上がり、右手に榛名山を見ながら歩く。正面には浅間山の雪化粧された頂が、きれいに姿を現している。
藤塚の一里塚
ここでちょっと寄り道をする。鼻高橋で碓氷川の対岸に渡り、達磨寺へ向かう。しかし既に時間は16時半。これはヤバイと直感が走りダッシュ!
(走るー走るー俺たちぃ 流れる汗もそのままにぃ・・・♪)
ランナーを歌い自らを鼓舞しながら達磨寺の門前に到着。案の定17時で閉門と書いてある。ここから更に石段をダッシュで駆け登る。それにしても長い長いこの石段。疲れと息切れで頂上が霞んで見える。
(いつかたどり着いたら、君に打ち明けられるだろう♪)
何とかてっぺんにたどり着く。もう既に足はパンパン、腹も減り息も絶えだえになりながら達磨様を拝み、これからの碓氷峠越えに備え熊除けならぬ厄除け鈴守りを購入。ぐったりと疲れ果てた足をひきずりながら石段を降りる。
碓氷川を渡り達磨寺へ
ここ達磨寺は延宝年間(1673~1680年)に、一了という老行者が碓氷川の氾濫で流れて来た大木で、達磨大師の像を彫り御堂に安置したことがはじまりという。そして元禄10年(1696年)前橋城主の酒井忠拳(さかいただたか)が水戸光国の助力を得て、中国僧・心越禅師を迎え禅の道場として、この寺を開いた。
天明年間(1781~1788年)に起きた天明の大飢饉で、生活苦に陥った農民のために、九代東嶽和尚が達磨大師の図を手本に木型を作り、農家の副業として張り子だるまを作らせた。これが高崎が誇る伝統工芸品、縁起だるまの発祥である。

今度はゆっくりと歩きながら橋を渡り対岸に戻る。碓氷川に反映する夕陽が美しい。群馬八幡の大鳥居を右に見ると旧中山道は安中市に入る。

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妙義の山影を眺めながら

碓氷川と妙義山

旧中山道は安中市板鼻を進む。碓氷川に注ぐ用水路の所から土手を下り国道18号を横断すると、用水路の橋上には享保2年(1802年)建立の寒念仏橋供養塔がある。
かねつ橋の寒念仏橋供養塔
かつてここには「かねつ橋」と呼ばれる石橋があり、中山道を往来する旅人に供していた。この石橋を板鼻宿の念仏講中が寒念仏供養で得た報謝金で石橋を改修した。後に板鼻宿の木嶋七郎左衛門という者が亡父の意志を継いで堅固な石橋に改修し、この供養塔を建て後世に遺したものという。今では国道の脇に追いやられ、車に乗っていると全く気づかないであろう供養塔は、かねつ橋がここにあったことを今に伝える唯一の存在だ。
板鼻宿夕景.
国道18号から三つ又に分かれる道の真ん中が旧中山道。ここからが板鼻宿となり、入口には旧中仙道板鼻宿の標柱が建つ。17時半過ぎ、安中市板鼻公民館の本陣跡に到着。高崎で買った宿場まんじゅうで空腹を紛らわせながら夕暮れの板鼻宿を歩き、鷹之巣橋を渡って、安中駅へ向かう。
碓氷川の向こうには、夕陽の中に妙義山の山影がくっきりと浮かび上がり、川面は鮮やかなオレンジ色に染まる。そしてしばらく落陽を眺めながら・・・

安中駅から信越本線で高崎に向かう。高崎駅で群馬限定のベビースター「下仁田ねぎラーメン」なるものを買い新幹線で帰途につく。それにしても限定という言葉には弱い。
【第9日目】踏破距離 約13.2km(倉賀野宿→高崎宿→板鼻宿)日本橋から113.6km 京都まで420km
まだまだ先は長い・・・

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板鼻宿

板鼻宿の双体道祖神



【第10日目】3月24日(土)



晴れ間もありそれほど寒くはない朝、上野駅から新幹線で高崎へ。高崎の駅そばで朝食を済ませ、信越本線に乗車。安中駅一つ手前の群馬八幡駅で下車し、まずは上野国一社・八幡宮へ向かう。
上野国一社・八幡宮
八幡(やわた)の八幡(はちまん)様と呼ばれるこの神社の創建は古く、天徳元年(957年)に京都岩清水八幡宮を勧請したことにはじまる。永承6年(1051年)前九年の役の際に源頼義・義家父子が戦勝祈願し、後に源頼朝をはじめ新田氏、足利氏、武田氏、豊臣氏からも深く崇敬され、徳川幕府はご朱印地100石を寄進した。現在の社殿は宝暦7年(1757年)の造営。また八幡宮大大御神楽は県下でも有数の神楽で、高崎市重要無形文化財に指定されている。

ここから国道18号を歩き、板鼻宿へ向かう。先週訪れた夕闇の板鼻宿とは、いささか雰囲気が違うが人影は変わらずまばらだ。まず宿場の入口で男女二体が寄り添う双体道祖神が出迎えてくれる。これは信州に多く見られる祝言形の道祖神で、女神が瓢、男神が盃を持ち仲睦まじく肩を寄せ合っている。
板鼻宿入口
板鼻宿は江戸日本橋から14番目の宿場で、1843年(天保14年)には人口1422人、家数312軒、本陣1、脇本陣1、旅籠54軒。次の安中宿へ向かう途中、鷹之巣山の崖下で碓氷川を「徒歩(かち)渡し」で渡河していたため、増水時には川止めとなり多くの旅人が逗留した。そのため旅籠の数も多く、飯盛女も置かれ宿場は繁盛した。

また、ここは源義経が金売り吉次とともに奥州へ下る途中、伊勢三郎義盛と出会ったという伝説も残る。伊勢三郎は後に義経四天王の一人として、数々の源平合戦で活躍した武将。一昨年の大河ドラマ「義経」ではウッチャンナンチャンの南ちゃんが演じていた人物である。やはりもとは盗賊であったらしく、義経一行を襲う予定だったが、義経の人柄に惚れこみ主従の関係となった。

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板鼻宿本陣跡と板鼻堰

板鼻堰

第九中仙道踏切を渡り、板鼻二丁目交差点を直進する。ここで右折する道はかつての榛名道で、文政13年(1830年)建立の道標がある。板鼻宿の中心へと入っていくと左手に長伝寺、右手に板鼻館という料理屋がある。板鼻館は元々「角菱屋」という旅籠で、現在は料理屋を営んでいる。4代続くカツ丼が名物だ。
板鼻宿本陣書院
板鼻宿交差点の先、右手にある安中市板鼻公民館の敷地が木島家本陣跡。敷地内には皇女和宮降嫁の際に宿泊された本陣書院が現存し、皇女和宮資料館となっている。

ちなみに和宮降嫁とは、幕末に徳川幕府が失墜しはじめた権威の回復を図るため、天皇家との絆を深め威信を回復する目的から、孝明天皇の御妹・和宮親子を将軍御台所に迎えた政略結婚のこと。文久元年(1861年)和宮は京都から中山道を経て江戸の14代将軍徳川家茂へ輿入れした。俗に言う公武合体の象徴的な出来事である。
板鼻宿の「てうちん屋」
公民館隣の花屋は特にその名を示す看板が掲げられてはいないが、「てうちん(ちょうちん)屋」といい、江戸時代末期に造られた土蔵造りの建物。入口の戸は防火対策のために土で作られた土戸で、火事の際には隙間に味噌を塗りこんで火を除けたという。
板鼻宿にて
てうちん屋横の脇道の先、国道18号の向こうには聞名寺。ここを行くと宿場に沿っての裏手には、清流といっても過言ではないくらい澄んだ用水路が流れていることに気づく。これは板鼻堰といって、碓氷川と九十九川の水を取り入れ、ここ安中市板鼻、高崎市八幡町、剣崎町、藤塚町、上豊岡町、中豊岡町、下豊岡町を経て、烏川に流れこむ全長15kmの用水路。今から約400年前の慶長年間(1596~1614年)に開削された。

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碓氷川の徒歩渡しから中宿へ

中宿の旧中山道、正面が鷹之巣山

板鼻宿を出ると、眼前に鷹之巣山の断崖が現れる。かつての中山道はこの崖下、鷹之巣橋から上流約50mの地点で碓氷川を徒歩渡しで渡った。また渡し場跡は旧鷹之巣橋が架けられていた場所でもあり、現在もレンガ造りの橋台が残っている。
東邦亜鉛安中精錬所
今日の碓氷川は十分に徒歩で渡れそうな流量だったので、江戸時代の旅人の如く、歩いて渡ってみようとも思ったが、そんな根性も無く普通に鷹之巣橋を行く。

前方の山一帯を占拠する東邦亜鉛安中精錬所は実に異様な光景だ。これを見ながら碓氷川を渡りきると中宿に入り、すぐの中宿交差点を右折して旧中山道に歩みを戻す。中宿の町並みの中を歩くと、左手の路傍には大日・一宮道の道標を兼ねた庚申塔あり、ここから左へ行く道は富岡の一之宮貫前神社に通じていた。
再び碓氷川を渡り安中宿へ
「菅公シャツ」や「乾電池はナショナル」のレトロな看板が掲げられた古い建物から左斜めの道を行くと安中駅。旧中山道はここを直進し、石積みの堤防前で再び碓氷川に阻まれる。ここには中山道の標柱が建ち、ここが旧街道であることを示している。

渡河した先はひさよし緑地公園となり、道は野球グランドの中に消失しているが、民家の入口付近でその道筋は出現し、ここにも中山道の標柱が建っている。この軒先の道が旧中山道のようだ。そして下ノ尻交差点の歩道橋で国道18号を横断し、道は安中宿へと入っていく。

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安中宿

旧碓氷郡役所

安中宿の下野尻から宿場の中心へと入っていく。街灯の看板は下野尻から伝馬町に変わり、旧商家の建物が所々に見え、宿場の様相を示しはじめる。左手の安中郵便局のある場所が安中宿本陣の須藤家跡。この先の伝馬町交差点から右に入り、坂を上ると旧碓氷郡役所がある。
安中宿伝馬町
明治11年(1878年)郡区町村編成法が公布され、群馬県には17郡が置かれ11の郡役所が設置された。碓氷郡役所はその一つで、当初は安中宿本陣の須藤家に置かれていたが、明治21年(1888年)この場所に碓氷郡役所が新築された。しかし初期の建物は火災で消失してしまい、現在の建物は明治44年(1911年)に再建されたもの。大正12年(1924年)に郡制が廃止されるまで郡役所として使われ、平成8年に当時の状態を復元修復し一般公開されている。

ここ郡役所のある高台一帯は安中城址で、北に九十九川、南の碓氷川に挟まれる天然の要害だった。文化センターの敷地が本丸跡で安中小学校が二の丸跡。
安中城は、安中忠政が永禄2年(1559年)に野尻の地名を安中に改め、この地に城を築いたことにはじまる。築城当時、安中氏は武田信玄と敵対していたが、永禄7年(1564年)に降伏し武田家に属した。しかし時代の趨勢には勝てず、天正3年(1575年)長篠の戦いで安中隊は全滅し、武田家と命運を共にする。
元和元年(1615年)井伊直勝が安中藩初代藩主に就くと、廃城となっていた安中城を再建し、町割りを行って安中宿を開いた。
伝馬町の安中郵便局が本陣跡
安中宿は江戸日本橋から15番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口348人、家数64軒、本陣1、脇本陣2、旅籠17軒の安中城下の小さな宿場町。安中は日本最古のマラソンといわれる安政遠足(あんせいとおあし)が有名で、安中市のシンボルともなっている。これは安政2年(1855年)に藩士の心身鍛錬のためにはじめられたマラソンで、安中城門から碓氷峠の熊野権現までの約28kmを走り競わせた。現在も侍マラソンと銘打って、毎年5月に安政遠足が行われ、ランナーが侍などに扮装して走る。

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郡奉行役宅と武家長屋

安中藩郡奉行役宅に飾られる享保雛

安中城下を散策する。旧碓氷郡役所から安中教会、安中小学校前の道は、かつての大名小路。この道は道幅三間半(約6.4m)、両側に侍屋敷が軒を並べていた。現在ここには安中藩郡奉行役宅と武家長屋が復元され公開されている。
安中藩郡奉行役宅・上段の間
早速、郡奉行役宅に立ち寄る。観覧料は210円。案内員の方に安中城図を見ながら簡単な説明を受け、内部を見学する。この建物は幕末から明治初年にかけて猪狩幾右衛門懐忠が安中藩郡奉行として住んでいたもので、建物の痕跡と古図面で復元修復された。

建屋は長屋門と母屋で構成され、母屋は曲がり屋というL字形の造り。玄関で客間(上段の間)と居住部分(座敷、納戸、おかって等)が隔たれている。座敷と納戸には享保雛の古人形が飾られ、精巧で美しい雛人形は和建築と相まってよりいっそう華やかさを増していた。
安中藩武家長屋
ここから道を隔てた隣に武家長屋がある。この長屋は当初、四軒長屋であったが、そのうちの三軒が現存していた。これを明治初期の間取図から当時の姿に復元修復したもので、敷地には井戸や門が配され武士の生活の様子を実感できる。何だか江戸時代にタイムスリップした気分だ。

ここで安中城址の高台を下り、安中宿内の旧中山道に歩みを戻す。

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新島襄ゆかりの地

安中宿上野尻にて

旧商家や蔵が残り街道情緒が漂う安中宿谷津の坂を上り上野尻に入る。ここには湯浅治郎が明治5年(1872年)に私財を投じて設立した図書館の「便覧舎」があった。
安中キリスト教会
これは日本で初めて民間人が設立した図書館といわれ、西洋式の建物に約3000冊もの書物を備え、誰でも無料で閲覧することができた。設立者の湯浅治郎は同志社大学の創立者でキリストの布教家、新島襄の思想・教育を支援し、ここ便覧舎で30名の人々がキリスト教の洗礼を受け、後に安中教会を設立する原動力となった。残念ながら便覧舎の建物は明治26年(1893年)の火災で焼失してしまったが、その跡地には石碑が建てられている。

近くには新島襄の旧宅が保存され、一般公開されている。ここには新島襄ゆかりの品や写真が展示され、案内員の説明を聞きながら見学できる。余談だが同志社大学の関係から外国人の来訪も多いらしく、現在トイレを和式から洋式に改装中とのこと。
新島襄旧宅
新島襄は天保14年(1843年)安中藩士の子として生まれ、21歳の時に密航を企て函館からボストンへ行く。キリスト教の洗礼を受け、各地の大学や神学校で学ぶ。明治5年(1872年)岩倉使節団に木戸孝允の通訳として参加し、ニューヨークからヨーロッパへ渡り欧米各国の教育制度を視察。明治政府の教育制度に大きな影響を与える「理事功程」を編集した。明治7年(1874年)に帰国すると、翌年同志社大学の前身となる同志社英学校を開校した。

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原市の杉並木

原市の杉並木

旧中山道の道筋は国道18号を越えると、安中市原市に入る。
ひとまず国道を渡る前に、モスバーガーで休憩を兼ね腹ごしらえ。店を出ると、空はいつの間にか厚い雲に覆われ、不穏な天気になりはじめる。
原市の町並み
国道と並行しながら旧中山道を先へ進むと、杉の並木道が1km程続く。この杉並木は原市の杉並木といい、かつては6里(約24km)にもおよぶ、日光の杉並木と並び称される場所であった。

天保15年(1844年)には街道筋に731本もの杉が連なり、昭和8年(1933年)には天然記念物に指定されるが、その後の自然災害や交通公害で杉は激減し、昭和42年(1967年)その指定を解除された。そして時代が平成になると杉は16本と、ほぼ全滅状態になってしまった。現在、若杉が補植されているが、かつての姿を取り戻すには世代を超えた時間が必要であろう。
とおあし最中・とおあしポテト
原市の町並みの中を歩くと、左手民家の軒先に「原市高札場跡」の木札が建っている。ここは明治天皇の御小休所ともなった茶屋本陣が置かれた場所でもあった。ここから先の坂を上り、和洋菓子「おのや」に寄る。ここで「とおあし最中」と「とおあしポテト」を買い店を出ると、ポツリポツリと雨が降りはじめる。

急ぎ足で先へ進む。旧家前にある「八本木の旧立場茶屋」の木札を見ると、その向かいには地蔵菩薩像が納められる地蔵堂。この地蔵菩薩は松井田小屋城主の安中忠清が勧請したと伝わり、参勤交代でここを通行した大名は、その仏罰を怖れ地蔵堂の前では下乗下馬して通行したという。

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YOUはSHOCK!

安中市郷原に入る。雨脚が強くなりはじめたので、更に歩みの速度を上げて、郷原の日枝神社に向かう。この神社は神楽殿をくぐって拝殿に至る珍しい様式。うっそうと木々に囲われる境内は静寂そのもので、しとしとと木葉に落ちる雨音だけが耳に残る。ここから隣にある自性寺を訪れ、旧中山道に戻る頃には雨も本降りとなり、ダッシュで郷原の旧中山道を駆け抜ける。

国道18号と合流するところにセブンイレブンがあり、ここでひとまず雨宿り。しかし雨脚は弱まるどころか強さを増しはじめ、全く止む気配はない。雨具を用意しておくべきだったと今更ながらに後悔の念にかられるが、松井田宿まではもう一息、何とか辿りつきたい。

ここである異変に気づく。
(YOUはSHOCK!)
デジカメがエラーを表示し動かないのだ。雨で濡れたために壊れたか・・・。これにはさすがに気落ちし、ここで旅を断念する。結局、故障の原因はスマートメディアにあったようで、原市から先の写真は失われてしまった。いまどきスマートメディアというのも時代遅れの感もあり、新しくデジカメを購入することを決意し、17時20分郷原西バス停からバスに乗り、安中を経由して高崎駅に向かう。車内でデジカメに向かってつぶやく。
(お前はもう死んでいる・・・)

高崎駅で群馬限定のねぎ味噌味のばかうけが目に留まり、そのままレジへ。やはり限定物には弱い。駅そばで空腹を満たし、19時高崎駅から新幹線で帰路につく。
【第10日目】踏破距離 約12.9km(板鼻宿→安中宿→松井田宿) 日本橋から126.5km 京都まで408km
まだまだ先は長い・・・

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妙義山の奇怪な山稜が間近に

妙義山



【第11日目】4月8日(日)



この時期の服装は難しい。日が照れば暖かいし、遮られると肌寒い。そんな頭を悩ます微妙な天気であったが、家を出る頃には日が照りはじめ、気温も上がりそうな雰囲気だったので、いつもより上着を1枚減らして家を出る。しかし行先は群馬、念のためリュックに上着を1枚詰め込むところは、前回の雨に降られた経験が生かされる。もちろん折畳み傘も持ち、ぬかりはない。人間万事塞翁が馬、何事も用心にこしたことはないのだ。そんなわけでデジカメも新調し、1GBのSDカードを装備した。以前のデジカメはアクシデントの際の予備。もう完璧です。

上野駅から新幹線で高崎へ向かう。上野駅では厚着の人も目立ったが、東京より明らかに気温が低いであろう高崎では不思議と薄着の人が目に付いた。高崎駅から信越本線に乗車し、松井田駅で下車。前回、旅を断念したセブンイレブンまで戻り、旧中山道の旅を再開する。
妙義道常夜燈
セブンイレブンから国道を渡った向かいには妙義道常夜燈があり、かつて中山道から妙義神社へ向かう妙義道との分岐点に置かれていた。ここから先の旧中山道は、国道18号の開通でその道筋を失っているので、ここは普通に国道を歩き松井田交差点に至る。この辺りからの妙義山の眺望はすばらしく、その美しくも奇怪な岩峰は、何故か妙に心を惹きつける。

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松井田宿

満開を迎える崇徳寺の桜

左に妙義山、正面には雪化粧された浅間山の頂が見える爽快なシチュエーション。そんな旧中山道も下町交差点辺りから宿場町の雰囲気になり、松井田宿の町並みとなる。左手の崇徳寺に寄ると、ちょうど桜が満開を迎え、薄いピンクの花が咲き誇る。既に東京では葉桜となっていたので、この辺りの桜前線の到来は1週間ほど遅いようだ。
妙義山の登山口でもあった松井田宿
松井田宿は江戸日本橋から16番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口1009人、家数252軒、本陣2、脇本陣2、旅籠14軒。次の坂本宿へは碓氷関所が控え、面倒な関所は早いところ越えてしまおうと、松井田宿を足早に通過した旅人も多かったようだ。「雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らじゃ越しましょ坂本へ」と上州馬子唄に歌われ、碓氷関所を目の前にした旅人の心境が感じ取れ面白い。

松井田宿の本陣は2軒置かれ、そのうちの一つ金井本陣は群馬県信用組合の敷地にあったが、残念ながらその痕跡をとどめるものは何も無い。本陣の向かいにある山城屋酒店が、小田原外郎(ういろう)の分家・陳道斎の店跡で、かつては旅人を相手に外郎を売る店が出されていた。
松井田宿仲町の畑中医院
すぐ先の仲町交差点を右折する道が、かつての榛名道。交差点角には畑中医院の古い看板が掲げられた立派な旧家が建つ。隣の下田屋商店で缶コーヒーを買い一服する。向かい側には伊勢屋辻中薬局や柏屋呉服店などがあり、松井田には古くからの屋号が、そのまま店名になっている店が多いことに気付く。

ここから先、クリーニング店のオオツキやヨロズヤ書店のある辺りが松本本陣跡であるらしいが、こちらも痕跡は全くとどめていない。ただ、敷地の一角に松本パーマという美容院があるのだが、本陣家筋の方が経営されているのだろうか。

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補陀寺と大道寺政繁

補陀寺のふくちゃん

松井田歩道橋の先から新堀に入る。松井田商工会館のモダンな建物から新堀交差点を経て、西松井田駅前の交差点に至る。ここからすぐ先の右には、小田原北条氏の家臣で松井田城主だった大道寺政繁の菩提寺・補陀寺がある。単層四脚柱の山門をくぐり中に入ると、広々とした境内の片隅に、ワンちゃんが春の陽を満喫しながら、気持ちよさげに寝そべっている。犬小屋には「ふくの家」と書かれ、名前は「ふく」というらしい。ワシが寺の住職じゃといった表情は何ともいえず、思わずパチリ。(メスだったりして)
補陀寺
大道寺氏は後北条氏の祖である北条早雲の頃から仕えた御由緒家といわれる家柄で、代々宿老的役割を担った。その末裔である大道寺政繁は北条家三家老の一人として、北条氏康・氏政・氏直の三代にわたって仕え、三増峠の戦いや神流川の戦いなど、北条氏の主要な合戦のほとんどに参戦した。
新堀の道祖神
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で、松井田城に籠もった政繁であったが、多勢に無勢、ついに城は開城し降伏した。その後、豊臣方に与し忍城をはじめとする武蔵松山城、鉢形城、八王子城と北条氏の支城攻略に加わったが、小田原城が陥落すると、北条氏政、氏照とともにその開戦責任を秀吉に咎められ、切腹を命じられる。北条氏から寝返った大道寺政繁は、結局北条氏と命運を共にする。

補陀寺から先で旧中山道は左の小径にルートをとるが、信越本線の製糸踏切から先で道筋は失われている。本来の道はここから丘陵を下り、碓氷川の河畔を西へ進んで、五料に入ったところで再び丘陵に上っていたが、度重なる川の氾濫でその道筋を失ってしまった。
五料の旧中山道らしき山道
ここはできるだけ本来に近いルートを選び、丘陵を下りて碓氷川河畔の畦道を歩き、車道に出たところで左に急カーブしながら丘陵に上る道を行く。途中左手に階段があり、山道を登って坂の上住民センターに至る道があるのだが、どうもこれが旧中山道のような気がする。道の傍らには馬頭観世音や庚申塔があり、いかにも旧道の匂いがするのだが・・・しかし真相を知る由もないのが残念だ。

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五料の茶屋本陣

五料の茶屋本陣・茶の間

ふと妙義山を見上げると、頂上付近に未確認飛行物体発見!と思ったら、悠々と空を漂うパラグライダー。空から見下ろす奇岩は、さぞかし絶景の眺めであろう。興味津々でしばらくパラグライダーの軌跡を追いながら歩いていたが、さすがに向こうからこちらは見えないんだろうなぁ・・・。できれば自分もあの空から妙義山を眺めて見たい。
五料の町並み
旧中山道は国道18号を横断し、上信越自動車道の下を抜け五料の集落へと入っていくと、右手の線路向こうに名主役宅・中島家こと五料の茶屋本陣がある。「お西」と「お東」の二軒からなるこの茶屋本陣は、松井田宿と碓氷関所の中間地点にあたり、中山道を往来する大名や公家の休息所として使われた。現在は当主の中島氏から寄贈された建物を保存修理や復元工事を施し、一般公開されている。
夜泣き地蔵と茶釜石
五料平交差点手前で榎踏切を渡り丸山坂を上る。途中、道祖神や青面金剛塔の石標が建つ街道情緒が残る道を上ると、夜泣き地蔵と茶釜石がある。叩くと空の茶釜のような珍しい音色がすることから名付けられたこの大石は、五料の七不思議の一つという。石の上には石ころが置かれており、当然叩いてみる。
(くゎーん、くゎーん、くぅぉゎーん)
なるほど予想に反して面白い音がする。おそらく石の中には空洞があるのだろう。X線で中の形状を見てみたいものだ。(夢がないなぁ・・・)

ここから梨の木集落の坂を下ると、信越本線と国道18号に旧中山道は遮断される。仕方ないので線路と並行する道を進み、右手の高台上にある碓氷神社に至り、すぐ先の高墓踏切から国道を渡って旧中山道の道筋に戻る。

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百合若大臣の伝説・星穴岳

星穴岳

旧中山道を臼井小学校の前から江戸方向へ少し逆戻りしてみる。すると碓氷神社へ向かう石畳の参道が国道と線路に分断される形で残されていることに気づく。参道は生垣の脇を通ってガードレールに阻まれているが、先には赤い鳥居が見え、かつて中山道から参道が延びていたことをひっそりと物語っている。
御所平の町並み
京都方向へ180度方向転換し、御所平の集落に入る。この地は源頼朝が信州浅間への牧狩りの際、碓氷神社の境内に御所を構えたことから、御所平の名がついたとの伝説がある。
集落を抜けた旧中山道は国道18号に合流して小山沢川を渡ると、再び左斜めに国道を離れる。

旧道は再び国道に合流するのだが、その手前に百合若大臣の足跡石がある。この石は真ん中がくぼんでおり、これが足跡らしい。昔、百合若大臣という大男が川向こうの山へ矢を射放った際、後足を踏ん張ったときにできたものという。
百合若大臣の足跡石
ここから左手奥の山を良く見てみよう。奇岩の峰を持つ山が見えるのだが、これが星穴岳で山頂付近に穴が二つ見える。左の穴が百合若大臣の射抜いた射抜き穴で、右がその家来が負けじと思い弁当の結びを投げたときにできたものという。この時使った弓と矢が妙義神社に奉納されている。

下横川交差点に旧中山道の標識があるので、ここを右折し第十五中仙道踏切を渡る。線路と崖に挟まれる道をひた歩き、やがて町並みが見えてくると「峠の釜めし」で有名な横川である。

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峠の釜めし

峠の釜めし

高崎駅から信越本線に乗車すると横川駅は終着駅である。かつての信越本線は高崎駅を起点に横川駅から碓氷峠を越えて軽井沢駅に向かい、長野県内を北上して新潟駅に至る、全長300kmを超える鉄路であった。
横川駅とおぎのや
横川駅からは碓氷峠の急勾配を登らねばならず、アプト式機関車の連結をここで行っていたため停車時間が長くなった。この時間を利用して乗客相手に販売し、大ヒットした駅弁がおぎのやの「峠の釜めし」である。

平成9年(1997年)に長野新幹線が開通すると、横川駅~軽井沢駅間の在来線は廃止され、横川駅で駅弁を売るかつての旅情は見られなくなってしまった。しかし現在も「峠の釜めし」の味は人々に愛され、横川駅はもちろんのこと、横川周辺のドライブインやサービスエリア、長野新幹線の車内等で、その味を堪能することができる。
横川の茶屋本陣
横川駅で「峠の釜めし」を食べて腹ごしらえを済ませ、さてさて歩みを先へ進める。横川には五料と同じく茶屋本陣が現存するが、残念ながら居宅であるため内部は公開されていないようだ。代々横川村の名主であった武井家が茶屋本陣を務めていた。

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入鉄砲に出女

碓氷関所跡

御岳のむき出しになった岩肌を見ながら歩き碓氷関所跡に到着する。ここは元和年間(1615年~1623年)に以前からあった碓氷峠山中の関長原の番所を移し、「入鉄砲に出女」と言われる厳しい取り締まりを行った。これは徳川幕府が諸大名の謀反を防ぐため、江戸に入る鉄砲と江戸から出て行く大名の妻女等を厳しく監視したことによる。碓氷関所は明治2年(1869年)に廃止されるまで東海道の箱根と並ぶ二大関所であった。
横川に迫る御岳の断崖
跡地には当時の門扉や門柱を使用した東門が復元され、通行人が手をついて手形を差し出したおじぎ石も残されており、当時の旅人の苦労がうかがえ興味深い。もちろん現在は普通に素通りできるのだが、かつての番人や旅人に敬意を表し、おじぎ石に手をついて通行の許可を得る。

鉄道文化村を左に見ながら、現在アプトの道として鉄路が残されている陸橋下をくぐる。国道18号と合流し霧積橋を渡ると、国道を離れ薬師坂にさしかかる。坂の途中には薬師堂や薬師の湧水があり、かつては心太(ところてん)を商う店も置かれ、碓氷関所を目前に控えた旅人が憩う場所であったようだ。
坂本宿と刎石山
蛇行しながら坂道を上ると、再び国道18号と合流する。左に裏妙義の岩峰を眺めながら直線に伸びる道を進むと、上信越自動車道の下を抜ける。橋下には桜に守られた小さな水神宮が祀られている。やがて坂本宿の下木戸が見え、日没間近の18時、薄闇の空に閑けさが漂う坂本宿に到着する。

【第11日目】踏破距離 約9.5km(松井田宿→坂本宿) 日本橋から136km 京都まで398km
まだまだ先は長い・・・

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坂本宿

坂本宿の旅籠・かぎや



【第12日目】4月21日(土) 坂本宿→軽井沢宿



うららかな春の陽気が気もちいい朝。例の如く上野駅から新幹線に乗車し高崎駅に着くと、信越線に乗り換えて横川駅へ向かう。信越線も今日が最後の乗車かと思うと、何だか感慨深い。そんな思いで今まで歩いてきた道を車窓から眺める。ついに今日は碓氷峠を越え、信濃路長野県に入る予定だ。
鉄道文化むら
まずは駅前のおぎのやで峠の釜めしを食べ、いざ碓氷峠への一歩を踏み出す。横川駅から旧中山道を歩き坂本宿へ向かうが、せっかくなので途中、鉄道文化むらに寄ってみる。ここには碓氷峠の鉄道の歴史を伝える資料館があり、旧国鉄時代からの蒸気機関車や電気機関車がずらりと野外展示される様は圧巻だ。廃線跡を利用しEF63系電気機関車の体験運転もでき、休日には親子連れや鉄道ファンで賑わうようだ。

碓氷関所、薬師坂と前回歩いた道を再び歩き坂本宿に入る。坂本宿は江戸日本橋から17番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口732人、家数162軒、本陣2、脇本陣2、旅籠40軒で宿場の規模のわりに旅籠の数が多い。前後に碓氷関所と碓氷峠の難所が控え、旅装を解く旅人が多かったようだ。
坂本宿・佐藤本陣跡
宿場の成立は中山道整備後の寛永年間(1624年~44年)のことで、峠の登り口であるこの場所に宿場が必要となり、町割が行われた。峠の麓を意味する坂の下(もと)から転じて、坂本と名付けられた宿場町は、広くまっすぐに伸びる中山道の両側に、整然とした町割がなされ、現在もその雰囲気がよく残されている。

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いざ難所、碓氷峠へ

いざ難所、碓氷峠へ

坂本宿内を散策する。江戸側の出入口である下木戸には「中山道坂本宿」と書かれた木戸のモニュメントが置かれ、ここから坂本宿の町並みとなる。宿内の家々には宿場時代の屋号が書かれた看板が掲げられ、かつての賑わいを偲ぶ。
坂本宿・上の木戸跡
本陣は金井家と佐藤家の二家に置かれ、それぞれ下の本陣、上の本陣と呼ばれた。参勤交代のために江戸と国許を往来した加賀や信州の諸大名が宿泊し、上りと下りからの宿泊がかち合うこともあったようで、そんな時は大変な騒ぎになったろうと想像がつく。現在、本陣建築は残されていないが、宿内には「かぎや」に代表される旅籠建築や旧商家の建物が所々に残され、刎石山の背景と相まって当時の面影をとどめている。
碓氷峠・中山道口
ヤマザキショップの「ふじや」でバナナと飲料を買い、これからの道中に備える。上の木戸から坂本宿を抜け、八幡宮で道中の安全を祈願する。国道が右に曲がるところを直進し、林道赤松沢線に入ると「安政遠足」の看板があるので、ここを左折する林道を横目に更に直進する。

貯水槽の間を蓋がかけられた排水路の道を進み、右に付けられた階段から国道によじ登る。ここが碓氷峠の中山道口で、難所・碓氷峠越えのはじまりである。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

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