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碓氷峠について

碓氷峠は古代より西国と東国を結ぶルートとして重要視され、古くは「うすひのさか」といい、碓氷坂や碓日坂と表記された。日本武尊(ヤマトタケル)が東国平定の帰途、上野国から碓氷坂を越えて信濃国へ向かったと日本書紀にあるが、この当時の道(古東山道)は碓氷峠南端、現碓氷バイパスが通る入山峠のルートを通っていたと推定されている。

東山道駅路が整備された飛鳥時代から奈良時代にかけて、碓氷坂の道は入山峠から碓氷峠を越えるルートに変わっており、平安時代の昌泰2年(899年)には山中に碓氷坂の関所が設けられた。後の江戸時代に整備された中山道も、東山道とほぼ同じルートを踏襲したとの説が有力となっており、碓氷坂の関所と推定される場所が中山道筋に残っている。

軽井沢側がら碓氷峠まで旧中山道の道筋を辿ると、蛇行しながら登る車道と遊歩道の間を、ほぼ直線状に最短距離を登って行く。峠から子持山に向かうと、尾根伝いに比較的平坦な道筋をとり、刎石山から急坂を一気に降りて行く。実際に歩いてみると、人馬が越える道としては比較的安全で経済的なコースを辿っているのかがわかる。

江戸時代末期から明治期にかけて和宮道や明治天皇御巡幸道の迂回路が付けられたが、和宮道は平坦ではあるが大回りの道で、御巡幸道にいたっては危険なため現在通行禁止になっている。そう考えるとやはり東山道と中山道は同じようなルートだったのではないかと思うのである。

ちなみに現在の碓氷峠は国道18号に移っており、旧中山道の碓氷峠は旧碓氷峠と表記されている。時代の変遷を経てきた碓氷峠であるが、我々の先祖が苦渋した碓氷峠越えは、現在も変わることなくその道筋を残しているので、機会があれば是非とも歩いていただきたい道なのである。
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碓氷峠越え①

碓氷峠中山道口
高崎の達磨寺で手に入れた鈴守りをリュックに装着し、中山道口から碓氷峠を目指し山中に入る。

松の木坂
松の木坂の急坂を登る。

堂峰番所跡
隘路となっているこの場所が堂峰番所跡。左側の山上に番所が構えられ、道を挟んだ向かい側に定附同心の住宅が二軒あった。門の土台石が残されているというが、わからなかった。

落石注意の道を登っていく
高圧線鉄塔下あたりに来たところで、突然藪を掻き分ける音。何か獣の気配を感じる。
(熊か!)
体は既に逃げる体勢。すると飛び出してきたのは大きなカモシカ。そそくさと藪の中へ逃げていった。しかし鹿とはいえ、あんなのに襲われたらたまったものではない。
気を取り直して先へ進み、落石がごろごろしている悪路を登って行く。

眼下にゴルフ場が見える
眼下には小さくゴルフ場が見え、自分が標高の高い所にいることを実感する。落石と転落に注意しながら道を登って行く。

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碓氷峠越え②

柱状節理
柱状節理。溶岩が冷却して収縮するときに亀裂を生じて、規則的な柱状に割れたもの。
ここが壁曲といい、道は直角に左へ曲がる。

南無阿弥陀仏、大日尊、馬頭観世音の石碑
南無阿弥陀仏、大日尊、馬頭観世音の石碑が並ぶ。かつて芭蕉句碑もここにあったが、坂本宿の上木戸に移されている。

刎石坂
難所・刎石坂を登る。

覗き
坂本宿が一望できる「覗き」。「坂本や袂の下の夕ひばり」と小林一茶が詠んだ場所。

風穴
刎石溶岩の裂け目である「風穴」は水蒸気で湿った風が吹き出すという。
(川口浩が洞窟に入る~♪カメラマンと照明さんの後に入る~♪)
何だか懐かしい曲が脳裏をよぎるが、そんな上気分とは裏腹に足はきつくなってくる。旧中山道は風穴の横を進み更に山を登っていく。

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碓氷峠越え③

旧中山道はさらに山中へ
旧中山道は更に山中へ。

弘法の井戸
弘法大師の教えにより掘られたと伝えられる「弘法の井戸」。昔、この先の刎石山の頂上付近に刎石茶屋と呼ばれる四軒の茶屋があり、ここの人々が重宝した水であった。力餅やわらび餅が名物で、旅人が一休みした場所であったが、現在は石垣と墓が残されているのみである。

碓氷坂の関所跡
刎石山の頂上から平坦な杉林の道を進み、碓氷坂の関所跡に着く。ここには峠の小屋が設けられ、碓氷峠を旅する人の休憩所となっている。小屋の中には数冊のノートがあり、旅人の思い思いが綴られていた。
(色んな人が歩いているんだなぁ・・・)
と感心し、バナナを食べながら早速自分もノートに書き綴る。

杉林の平坦路を行く
関所跡から杉林の平坦路を行く。

堀切

左の眼下に碓氷湖が見えると、緩やかな下り坂となり堀切に至る。道は狭く両側が深い谷になっており、天正18年(1590年)小田原攻めの豊臣軍を、北条方の大道寺政繁がここで防戦した。

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碓氷峠越え④

南向馬頭観世音
南向馬頭観世音の辺りから道の南側が絶壁となり、昔は山賊が出没する危険な場所だったとか。ここを過ぎると左手に岩場があり、北向馬頭観世音が置かれている。

一里塚跡
一里塚の説明板。日本橋からの距離を換算すると36里目の一里塚か。どれが一里塚なのかは不明。この付近から東山道と中山道は少し違うルートを辿ったようだ。

座頭ころがし
座頭ころがし(釜場)の坂を登る。赤土の滑りやすい急坂に岩や小石がごろごろしている難所。

不法投棄された車
坂を登ると不法投棄された車が。一体、どうやってここまでこの車を持ってきたのか・・・不思議である。

熊出没注意
熊に注意しながら先へ進む。といっても熊が出たらどう注意したらいいんでしょうか。やはり単独で山に入るのは危険なのだ。不安を煽られて歩みを速める。

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碓氷峠越え⑤

栗が原
栗が原で明治天皇御巡幸道が左から合流してくる。明治8年(1875年)明治天皇北陸巡幸の際に設けられた道で、ここに交番の前身である見回り方屯所が設置された。現在、御巡幸道は通行不能。

馬込(まごめ)坂
「入道くぼ」の説明板が立てられている所に線刻馬頭観世音がある。ここから赤土のだらだらした下りが続く馬込(まごめ)坂。説明板を読んでも「入道くぼ」とは何のことなのかよくわからない。手前の深い切通し道のことを指すのだろうか。

山中茶屋跡
馬込坂の先には山中茶屋跡。峠の中心にあった茶屋で、寛文2年(1662年)には13軒の立場茶屋や寺、茶屋本陣が置かれ集落を形成した。明治期には学校もでき、明治11年(1878年)明治天皇御巡幸の際には、児童が25人いたので25円の下附があった。

道を離れ集落の中へ入ってみる。集落跡には石垣や墓が残骸のように残され、一体の地蔵が遠く山を見つめている。その背中がなんとも寂しく、在りし日の賑わいに思いをはせるかのようにたたずんでいた。

山中坂
山中坂を登る。この坂は飯喰い坂とも呼ばれ、ここを登る旅人は空腹ではとても登りきれない長く急な坂だったので、山中茶屋で腹ごしらえをしたという。山中茶屋の繁盛はこの坂にあったようだ。

山中集落の人々は、なぜこんな山奥で営みを続けていたのか、疑問であったが、あなるほど合点がいった。これはスキー場やゴルフ場で缶ジュースが200円で売っているのと同じことなのだ。他に買うところがなければ市場原理が働かず、倍くらいの値段をつけても売れてしまうのだ。先に控えた山中坂の難所が旅人の財布の紐を緩めさせたのであろう。意外に良い商いができたのではなかろうか。

一つ家跡
一つ家跡。説明書きが意味深なのでそのまま紹介する。
「ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている。」
意地悪ばあさんが住んでいたのだろうか。昨年末にお亡くなりになられた元東京都知事の青島幸男さんが脳裏に浮かぶ。

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碓氷峠越え⑥

陣場が原
陣場が原で道は二手に分かれる。直進する道が幕末に造られた和宮道。中山道は左の道を行く。ここは太平記の新田方と足利方、戦国時代の武田方と上杉方の合戦場になったといわれる。

人馬施行所跡
旅人が姿を直した化粧水跡の水場を経て、人馬施行所跡に至る。文政11年(1828年)江戸呉服の与兵衛が安中藩から土地を借りて、笹沢の清流が流れるほとりに人馬の休憩所を設けた。

急斜面の長坂を登り碓氷峠へ
急斜面の長坂を登り碓氷峠へ。

力餅屋が並ぶ旧碓氷峠
やがて思婦石の前で大きく迂回してきた和宮道と合流し、碓氷川の水源地を左眼下に見ながら峠の頂上に到着する。峠名物の力餅屋が並んでいるが、既に時間は17時をとっくに過ぎ、ひと気はない。力餅は次の機会にお預けとする。

熊野神社
日本武尊が祀ったと伝わる熊野神社。群馬と長野の県境に建ち、ここから先は信州・長野県だ。また、ここは中央分水嶺(水の分去れ)となっており、ここに降る雨水は日本海側と太平洋側の異なる方向に流れる境界点である。

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碓氷峠越え⑦

掃部坂を降り軽井沢宿へ
みすずやから右の舗装道が明治天皇御巡幸道、左へ行く道は見晴台や遊歩道に続く道であり、旧中山道は谷間を直進し急坂を降っていく。

道なき道を
中山道の道標がかろうじてその道筋を示す。

荒れ果てた旧中山道
荒れ果てた旧中山道。

崩れかけた急勾配の道を降る
崩れかけた急勾配の道を降る。

整備中の旧中山道
道幅が急に広くなり整備中の道になる。ここから峠まで道を直してしまうのだろうか。できれば今の状態での保存を願う。

旧中山道は左から遊歩道が合流した所で、右の道を上がり、車道の斜面に沿って聖沢へ降りていく。この道筋は現在大変わかりにくくなっているので、日暮れ間近の今、辿ることは難しい。次回に譲ることにして、今日は遊歩道を進む。

二手橋
二手橋に着く。軽井沢宿の遊女が客をここまで見送り、二手に別れたことからその名がついた。

軽井沢宿
18時過ぎ、日暮れ間近の軽井沢宿に到着。最後の力を振り絞って軽井沢駅まで歩く(意外に遠い)。駅売店で信州限定の七味そばベビースターを買い新幹線で帰途につく。

【第12日目】踏破距離 約11.6km(坂本宿→軽井沢宿) 日本橋から147.6km 京都まで386km
まだまだ先は長い・・・


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上州の山々と浅間山の大パノラマ!

見晴台から眺める上州の山々

浅間山



【第13日目】4月29日(日) 軽井沢宿→沓掛宿→追分宿



今日はいつもより早起きし上野駅から長野新幹線に乗車。10時前、軽井沢駅に到着する。軽井沢の天気は晴れ、気温は少々肌寒い10℃。信州長野県、ひんやりした空気はさすがにおいしい。駅前で思いっきり深呼吸をして、軽井沢宿へ向かい再び碓氷峠を登る。軽井沢宿から旧中山道の最短距離を行けば、徒歩でも30分程度で登れる。
あづまやの力餅
まずは「あづまや」で念願の峠名物・力餅を味わい、見晴台へ向かう。見晴台からは上州の山々や浅間山のパノラマが広がり、彼方には蓼科山の冠雪した頂も望める。次に控えた難所、和田峠があの山の向こうかと思うと、何だか身震いがしてきた。
ホント一日ここにいても飽きないほどのすばらしい眺めである。できれば夕暮れも見てみたいほどだ。しかしその割には意外に観光客は少ない。軽井沢にお越しの際は、是非とも遊歩道で旧碓氷峠に登ってください。1時間もかからないで、マイナスイオンをたっぷり吸収できた上に、こんな絶景を見ることができるのですから。ショッピングやテニス、ゴルフだけではもったいないですよ。
タゴール記念像
「神は名もない野の草に、何億年もかけて、一つの花を咲かせ給う」
「大地一面の微笑みを咲かせるのは、天地の涙あればこそだ」
アジアで初めてノーベル文学賞を受けたインドの詩人タゴールが軽井沢を訪れたのは、大正5年(1916年)夏のことである。軍国主義に傾く日本を強く危惧し、講演では再三警告したという。そんなタゴールも軽井沢を愛した一人だ。
聖沢を渡る旧中山道、左上のガードレールが車道
旧中山道の険しい道を再び降りる。遊歩道が合流する所で右の道に入り、前回断念した聖沢を渡る旧道を辿ることにする。斜面を聖沢へ降りていくと、沢を渡るところに石が敷き詰められ、ここが渡河地点であることを僅かに示す。ここから上の車道に向けて再び斜面を上がっていくのであるが、道は藪の中に消失しかかりわかりにくい。車道と合流する地点に中山道の道標が置かれているが、これに気付く人は少ないであろう。

別荘が点在する車道を下っていき、二手橋を渡って軽井沢宿に入る。さすがはゴールデンウィーク、今日は観光客でごった返している。

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軽井沢宿

お洒落な店舗が並び、人であふれる軽井沢宿

浅間山の麓に位置する軽井沢宿は江戸日本橋から18番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口451人、家数119軒、本陣1、脇本陣4、旅籠21軒。沓掛宿、追分宿とともに浅間根腰の三宿と並び称され、碓氷峠を控えた旅人で賑わった。最盛期には100軒近くの旅籠があり、多くの飯盛女が働いていたという。
アレキサンダー・クロフト・ショウ像
しかし明治12年(1879年)碓氷新国道(現国道18号)が開通すると軽井沢宿は衰退の一途を辿るのであるが、同19年(1886年)英国人宣教師のアレキサンダー・クロフト・ショウが布教の途上に軽井沢を訪れたことが状況を好転させる。美しい自然と清涼な気候が故国スコットランドに似ていることから、夏には家族を伴って避暑に訪れるようになり、2年後には簡素な別荘まで建てた。そして軽井沢の素晴らしさを内外に紹介すると、外国人をはじめ多くの人々が訪れるようになり、別荘地軽井沢の形がつくられることになった。

現在の軽井沢宿は旧軽井沢銀座と称して、休日には多くの人が足を運ぶ観光地となった。その一方、宿場時代の面影は急速に失われてしまい、今では当時茶屋を営んでいた「つるや旅館」の名に、面影を留めているにすぎない。

軽井沢宿の西はずれのロータリーは枡形の跡。ここにある土産物屋で信州地区限定の信州あんずコロンと野沢菜茶づけを買う。やはり限定物には・・・
店を出て宿場を後にするところで、背後から突然声をかけられる。
「しまむーさんですか?」
「あ、そうですが。」
ブログにコメントを頂いていたhiroさんでした。しかしよくぞ見つけてくれました。この場を借りて御礼申し上げます。これも何かの縁、これからも応援よろしくお願いします。

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離山麓の別荘地を歩きながら

雨宮池と浅間山

別荘が点在する落葉松の並木道をしばらく進むと、右手に離山が見えてくる。和宮様が降嫁の折、その名を嫌って兜山や子持山とも変えられたというが・・・今も残る名前はやはり離山。真相はよくわからない。
軽井沢町歴史民俗資料館
離山交差点で国道18号に合流し、すぐ先の軽井沢町歴史民俗資料館に立ち寄る。民家の生活を再現している囲炉裏コーナーだけは撮影OKとのことなので、写真を撮らさせていただく。ここでは浅間三宿の歴史や暮らし、交通史、別荘の沿革、浅間山についての展示がされている。
市村記念館
同敷地内には市村記念館があり、この建物は大正15年(1926年)元首相の近衛文麿が第一号別荘として購入した一棟を、昭和7年(1932年)に市村今朝蔵・きよじ夫妻が譲り受け南原に移築したもの。市村夫妻の南原開発の活動拠点や学究の場となった。夫妻没後の平成9年(1997年)市村家より軽井沢町に寄贈され、現在地である雨宮池のほとりに移築復元され今日に至っている。

旧中山道は資料館前で国道18号としなの鉄道の鉄路に遮られる。国道を少し先に進み、軽井沢中学校前信号で踏切を渡ると、再び旧道の道筋を辿ることができる。そして前沢橋に至るのだが、ここから先の旧中山道の道筋は失われているので、ここは前沢橋で湯川を渡り、線路の下を潜って沓掛宿の町並みへと入っていく。

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沓掛宿

離山と沓掛宿の町並み

現在、沓掛という地名を聞いてもピンとくる人はそういないであろう。現在の国道18号に沿って町並みが続いていた沓掛宿であるが、宿場の面影は軽井沢宿と同様にほとんど失われ、それどころか沓掛駅が昭和31年(1956年)に中軽井沢駅と改称されると、面影どころか沓掛の名すら見出すことは難しくなった。
沓掛宿脇本陣跡
中軽井沢と呼ばれる現在の沓掛の町は、軽井沢のような賑わいはなく人影もまばらであるが、景勝地、鬼押出し園の玄関口であり、車の交通量だけは非常に多い。鬼押出しは天明3年(1783年)の浅間山噴火によってできた溶岩の海原で、火口で鬼が暴れ岩を押し出したという、当時の人々の恐れがこの名をつけた由縁だ。

宿場の名残を探しながら歩くのであるが、脇本陣が置かれていた旅館桝屋本店の玄関に「脇御本陣」の看板が掲げられ、本陣跡である土屋家に「本陣」の表札が掲げられているにすぎない。宿場の西外れに草津道の道標がかろうじて残され、上州草津へ続く道がここから分岐していたことを今に物語る。
草津道の分去れに建つ道標
沓掛宿は江戸日本橋から19番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口502人、家数166軒、本陣1、脇本陣3、旅籠17軒。「千両万両まげない意地も 人情からめば弱くなる 浅間三筋の煙の下で 男 沓掛時次郎」、長谷川伸の小説「沓掛時次郎」で知られる沓掛の名は、長倉神社の一角に建てられた記念碑に僅かにとどめられている。

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かつての中馬・中牛の宿も、今は昔

古宿の馬頭観世音と浅間山

旧中山道は沓掛宿を出ると国道18号を左斜めに離れる。双体道祖神を右に見ると、蛇行する道は起伏を繰り返しながら古宿集落へと入っていく。途中、右手には浅間山がきれいな姿を見せている。古宿は中馬、中牛の宿として賑わった集落で・・・ようは馬や牛による陸上運輸の中継地点になった場所だ。そのせいもあって、この辺りには馬頭観世音が多い。
借宿から分岐する女街道
川魚料理の「ゆうすげ」前で国道に合流すると、軽井沢バイパスの下を抜け次は借宿集落に入る。馬頭観世音が建つ変形四叉路から左へ曲がる道は女街道とも姫街道とも呼ばれる道で、「入鉄砲に出女」を厳しく取り締まる碓氷関所を避けた女人が、和美峠や入山峠を越えて上州に向かう裏街道であった。
借宿の馬頭観世音
遠近(おちこち)神社の向かいにある自販機で缶コーヒーを買い一服。街道情緒が残る借宿集落のなだらかな上り坂を歩く。集落西外れには大きな馬頭観世音碑が建ち、中馬で賑わった往時の様子を彷彿させてくれる。浅間山が描かれた大きな看板が目を惹く「追分そば茶家」前で再び国道に合流すると、追分一里塚が道の両脇にあり、その間をスピードにのった車がひっきりなしに行き交う。
追分一里塚
これは日本橋から40里目の一里塚であるが、ガイドブックには36番目とある。距離からすると40里(約157km)が正しいのだが、数からすると36番目なのだろうか。なにせ江戸時代に造られたもの、ここまで来ると曖昧になってくる。そして一里塚の奥には喫茶店があり、その名もハーブカフェガーデン「一里塚」。旧道はここから国道を右斜めに離れ追分宿へと入っていく。

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追分宿

夕闇に沈む浅間山

そもそも追分とは道が二つに分かれることをいう。中山道と北国街道の分岐点にある追分宿は、江戸日本橋から20番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口712人、家数103軒、本陣1、脇本陣2、旅籠35軒。北国街道は善光寺を経て越後へ向かう脇街道であった。

碓氷峠の 権現様は 主のためには 守り神
浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾に三宿 持ちながら

追分節発祥の地碑
追分宿は、知る人ぞ知る追分節発祥の地である。もともと馬子たちが馬を曳きながら唄っていた馬子唄を、浅間三宿の飯盛女たちが唄うようになり、三味線と合いの手も入って座敷唄として洗練され、追分節として成立していく。やがて追分節は北国街道を北上して伝播し、越後から北海道までの関東以北の各地に広まった。有名なものに江差追分などがある。

一節に「追分 枡形の茶屋で ホロと泣いたが 忘らりょか」とある。これは宿場の西外れにあった茶屋を唄ったものであるが、現在もこの茶屋の建物が現存している。ちなみに枡形とは宿場の入口に設けられた防衛施設のことで、道を鍵の手に曲げ石垣の土手を囲い、見通しがきかないようにしたもの。
信濃追分駅
既に18時を過ぎてしまった。宿内の散策は次の機会に譲ることにして、松葉屋の前から左に宿場を離れ、夕闇に暮れる落葉松林の別荘地を歩いて信濃追分駅へ向かう。駅に着くと次の軽井沢行きまでは1時間ほど時間がある。急速に色を失っていく浅間山をみながら、列車の到着を待っていた。

【第13日目】踏破距離 約8.8km(軽井沢宿→沓掛宿→追分宿) 日本橋から156.4km 京都まで378km
まだまだ先は長い・・・

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堀辰雄と追分

追分宿高札場跡



【第14日目】5月4日(金) 追分宿→小田井宿→岩村田宿



8時半過ぎに上野駅に到着。ホームからマルイの気温計を見ると既に21℃を表示している。この分だと今日は暖かいどころ暑い1日になりそうだ。しかし向かうは信州、東京とは気候が違う。長野新幹線に乗車すると、さすがはゴールデンウィーク、車内は満員御礼、デッキまで人が溢れている。10時前には軽井沢に着く。気温はやや肌寒い16℃。東京とは5℃もの気温差があるわけだ。
群青の空と浅間山
のんびりと駅内にある「おぎのや」の山菜そばで朝食をすます。やはり本場信州のそばはうまい。この味で400円とは、信じられません。何て感心をしていたら、10時発の小諸行きに乗り遅れてしまう。「オーマイゴーッ」次の列車は1時間後・・・仕方なく駅内の喫茶店で時間をつぶす。

出発時間が近づき、改札入口前にある屋台の売店で「おやき」を二つ買う。中身は野沢菜とあんこ。やはり長野といえばこれでしょう。道中の腹ごしらえの準備を整え、10時58分発の小諸行に乗車。信濃追分駅で降車し、青空の下にどっしりと腰を下ろす浅間山を望みながら、再び追分の宿場へ向かう。
追分宿の町並み
まずは追分宿郷土館に立ち寄る。ここでは追分宿の歴史を中心に、宿場の様子や暮らしを知ることができる。旅籠コーナーでは当時の様子を再現し、旅人の気分で追分節を聞くことができる。郷土館の隣には室町時代建築の本殿を持つ浅間神社があり、境内には追分宿発祥の碑や芭蕉句碑もあり、追分宿に来たならば是非とも寄りたい場所だ。

昇進橋を渡ると堀辰雄文学記念館がある。昭和初期に活躍した作家の堀辰雄は、若くして肺を患い、晩年ここ追分で闘病生活を送った。代表作に「美しい村」「風立ちぬ」等があり、「ふるさとびと」は追分宿の旅籠、油屋を舞台にした。そしてこの油屋は場所こそ変われど、今なお旅館として営業を続けている。
追分宿本陣裏門
記念館の入口にある門は、かつての追分宿本陣裏門。すぐ先には本陣跡の土屋家があり、明治天皇行在所の碑が建っている。本陣は代々土屋家が務め、問屋場も兼ねた建屋は238坪もあり、中山道の中では塩尻宿、上尾宿に次ぐ大きなものであった。
半跏思惟の石仏
宿場内にある泉洞寺に寄る。ここは慶長3年(1598年)心庵宗祥禅師により開基。禅師はもともと三河の武士であったが、長篠の戦いで多くの死者を目の当たりにし、無常心を抱いて出家したという。ここには堀辰雄が愛した半跏思惟の石仏があり、朝夕と境内を散歩するほどお気に入りの場所だったようだ。
枡形の茶屋「つがるや」
宿場西外れに残る枡形の茶屋「つがるや」で追分宿の散策は終わる。正直、堀辰雄の小説など読んだこともないどころか、その名前すら知らなかった。せっかく追分宿に来て彼の息吹を感じることができたのだ。彼の小説を手に取ってみようと思う。

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追分の分去れから

追分の分去れ

さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを 追分の宿

追分宿を出ると、すぐに追分の分去れである。石燈籠から右の道は田毎の月で知られる月見の名所更科を経て、越後へ向かう北国街道。左の道は中山道で京都を経て、桜の名所奈良吉野山へと続く道。誰が詠んだ歌なのかは知らないが、旅人の心をくすぐる良い歌だ。
ミニ中山道
国道18号と合流した旧中山道は分去れを過ぎると、浅間サンライン入口交差点の手前から左の脇道へ進路を変える。親切にも旧中山道の道路標識が掲げられているので、道を間違うことはない。分岐点には中山道69次資料館があり、敷地にミニ中山道なるものが配されている。ここではミニ日本橋からミニ三条大橋に至る散策道を歩くことができ、深谷のミニ見返りの松やミニ五料の茶釜石、ミニ妙義山にミニ碓氷峠・・・、今までの道中を思い出させ実に楽しい。楽しいどころか、よくぞここまで来れたものだと・・・感涙。しかしまだまだ先は長いのだ。
千ヶ滝湯川用水温水路
静かなたたずまいの道を歩き、千ケ滝湯川用水温水路から御代田町に入る。用水路というには、いささか語弊があるのではないかと思うくらい大きな用水路である。ここの水は浅間山の雪解け水や湧き水を水源としているため、低温で農業用水としては不適であり、この溜池状の水路で水を温め、湯川の下流域へ流している。
やはり、おやきは野沢菜です
なだらかな下り道を進むと、「ハッピードリンクショップ御代田店」の看板が掲げられる所に飲料の自販機が並ぶ。ちょうど小腹が空いたところだったので、ひとまず缶コーヒーを買い一服を入れる。そして軽井沢駅で買ったおやきを食べる。まずは野沢菜、次にあんこ。やはりおやきは野沢菜だね。そんな具合でのんびりしていたら、次から次へと中山道をウォーキングしている人たちに先を越されていくのだった。

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御代田の一里塚

御代田の一里塚

旧中山道は右に浅間山を従えて、ゆるやかに台地を下りていく。左へ大きくカーブするところで、旧道は舗装道を離れ右方向に直進する未舗装の小径に進路をとることになるのだが、間もなくジャガイモ畑が広がるところで雑木林の中に消滅してしまう。
旧道はジャガイモ畑から先で消失
仕方なく引き返して、S字カーブを描きながら掘切状の坂を一気に下る新道を行く。途中、壁面に防空壕のような洞穴が複数あるのだが、これはいったい何なのであろうか。坂を下りきった民家の軒先から旧道は再び姿を現し、深い谷底に流れる久保沢川を渡る。

久保沢川に沿って進むと大山神社の小さな社があり、この先右手民家の庭にこんもりとした小山を見つける。これが御代田(大久保)の一里塚である。中山道整備以前に築造されたものなので、現中山道より7m離れたところに対をなして完全な形で残っている。西塚には見事な枝垂れ桜が生い茂る。日本橋から41里目(約161km)の一里塚で、数からすると37番目と思われる。追分の一里塚のときにも述べたが、江戸時代からそれ以前に造られたものなので曖昧になっている。
荒町の町並み
やがて道はしなの鉄道に分断される。ここは歩行者用の地下道を通って線路を越える。栄町交差点から閑散とした町並みの中へ入っていくと、「ファミリーコンピュータ&ニューソフト かめや玩具」の看板が掲げられ、思わず今は昭和時代か・・・と不意に錯覚する。道は正面に広がる霧ヶ峰や蓼科の連山に向かって延びていく。荒町集落の緩やかな坂を下ると、間もなく小田井宿である。

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小田井宿

小田井宿上問屋跡

「中山道小田井宿跡 入口」の標柱から宿場へ入っていくと、道が急に広がるところに案内板が建っている。ここが東の枡形跡で、ここから宿場町となる。
小田井宿の町並み.
小田井宿は江戸日本橋から21番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口319人、家数107軒、本陣1、脇本陣1、旅籠5軒の小さな宿場。古くから集落を形成していたが、慶長年間(1596年~1615年)中山道の成立に伴い、周辺諸村の人々が集められ宿駅としての機能が整えられた。皇女和宮降嫁の際にはご昼食休みで滞在され、また他にも多くの宮家や公家の姫君が休泊に利用したので「姫の宿」とも称される。
宝珠寺と赤松
宿場内を散策する。まずは宝珠寺に立ち寄る。桔梗紋の暖簾が掛けられる門を入ると、見事な枝ぶりの赤松が目に飛び込んでくる。なかなかこれほど立派な松を見ることはできない。また境内には樹齢300年ともいわれる枝垂れ桜もある。満開の花をつけたときには素晴らしい姿を披露するのであろうが、残念ながら時期が遅かったようで、すでに新緑の葉を携えていた。ともに町の天然記念物に指定されている。
小田井宿本陣跡の安川家住宅
宝珠寺入り口の向かいには本陣跡の安川家が、それらしく立派な門を構えている。内部は公開されていないが、宝暦6年(1756年)建築と推定される切妻造りの客室部が良好に残されているという。隣には出桁造りに連子格子の上問屋跡。すぐ近くに脇本陣跡もあるのだが、建物は残されていない。しかし宿内には旅籠の建築も所々に残され、道路脇に施された用水路の水音とともに静かな時間が流れている。
小田井宿下問屋跡
脇本陣跡から先へ進むと、左手に立派な長屋門。奥には切妻造りの建屋がでんと構えている。これは下問屋跡の尾台家住宅で、明和9年(1772年)の大火以降に建てられたものである。宿場の終わりは西の枡形跡。小松屋商店の前からシケインカーブを描く道にその面影を留めている。<

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官女皎月の伝説を訪ねて

小田井下宿の町並み

小田井宿を出ると地名は御代田町から佐久市に変わり、小田井下宿の静かな町並みの中を歩く。途中、小林製菓という店が「あめのこばやし」と書かれたいかにも老舗な看板を掲げているのだが、今日は定休日なのか、それとも既に店を閉めてしまったのか、引き戸もカーテンも閉じられている。
皎月原(こうげつはら)
小田井南交差点で県道に合流すると、中古車店や車のディーラー店が並ぶ中に一際目立つ立派な松が見えてくる。この辺り一帯は皎月原(こうげつはら)と呼ばれる名勝地で、かつては浅間山を背景に広大な草原が広がっていたという。用明天皇の586年に皎月という官女が、お咎めを受けてこの地に流されてきたことが地名の由来だ。白馬を愛した皎月は、しばしば馬に乗ってこの草原を訪れ、後世に様々な伝説を残す。現在は郊外型の店が連なり、県道沿いの一角に公園としてその面影をとどめているのみである。
鵜縄沢(うなわざわ)一里塚
ほっかほっか亭の先、市川整体療術院裏手の雑木林に、ひっそりと鵜縄沢(うなわざわ)一里塚の東塚だけが現存している。中山道開通時に設置されたものであるが、寛永期の改修で街道から外れてしまった。おかげで現在の県道敷設の際にも破壊を免れた。林の中には旧道の古い道筋も少しだけ残り、かつての姿を示す貴重なものである。日本橋から42里目(約165km)の一里塚で、数からすると38番目。この先しばらく県道を歩くことになる。

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岩村田宿

佐久市の中心地、岩村田本町の夕景

これから夏の陽射しを浴びて信州りんごの実をつける
すぐ近くに佐久インターチェンジもあり県道の交通量は多い。道沿いにはりんご園が点在し、りんごの木には薄いピンクの可愛らしい蕾みがついている。これから名産信州りんごの実をつけるのかと想像するには、まだまだ早すぎるようだ。上信越自動車道を越えて佐久IC東交差点まで来る。路傍には佐久バルーンフェスティバルの立て看板が所々に置かれ、昨日から熱気球競技等、各種イベントが行われているようだ。
住吉神社の大ケヤキ
県道沿いにある住吉神社の境内にはケヤキの巨木がどっしりと根を張る。よくぞ今まで生きながらえたものだと感心するほど、幹の内部は空洞化しているが、樹勢は全く衰えを感じさせない。この神社まで来ると岩村田宿は目と鼻の先である。すぐ先の右手路傍には善光寺道の道標があり、この辺りに岩村田宿江戸方の枡形があったという。
龍雲寺に掲げれれる正親町天皇の勅額
岩村田宿は江戸日本橋から22番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口1637人、家数350軒、本陣なし、脇本陣なし、旅籠8軒。内藤氏岩村田藩一万五千石の城下町として、また商業都市として発展したため、本陣や脇本陣は置かれず旅籠の数も少ない。

古く鎌倉・室町時代には大井氏宗家の治めるところだったが、戦国時代に入ると北信濃の村上義清の侵攻に遭い大井氏宗家は滅亡。後に支族である永窪大井氏が入るのであるが、武田信玄の佐久侵攻によりその支配下に置かれ、北信濃攻略の足がかりの場となった。岩村田には信玄ゆかりの龍雲寺や大井城跡等、中世の姿も垣間見ることができる。

現在の岩村田宿はアーケードの商店街となり、昔日の面影を見ることはできない。人通りは少ないのに車の交通量だけは多く、ゴールデンウィークだというのにシャッターを下ろしている店も散見される。郊外型ショッピングセンターに客を取られた昨今の地方商店街の姿である。18時、岩村田本町交差点に到着。ここから街道をそれて岩村田駅へ向かう。

【第14日目】踏破距離 約9.7km(追分宿→小田井宿→岩村田宿)
日本橋から166.1km 京都まで368km
まだまだ先は長い・・・

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鼻顔稲荷神社でふと佐久鯉

鼻顔稲荷神社



【第15日目】5月13日(日) 岩村田宿→塩名田宿→八幡宿



10時半、長野新幹線にて佐久平駅到着。天気は曇り、気温19℃。岩村田まで小海線で行こうと思ったが、11時50分まで列車が来ないので、ここは歩くことにする。まずは佐久平駅内にある軽食ができる店で山菜そばの朝食をとる。値段は500円だが、さすがは信州!軽井沢駅と同様、値段以上にうまいものを食べさせる。東京なら800円はとられてもおかしくない味とボリュームだ。
城下町として発展した岩村田
徒歩で岩村田駅に到着。ここから岩村田本町を経て郊外にある鼻顔稲荷神社へ向かう。途中、「鍛冶や」なる看板を掲げる店も見え、城下町の風情も僅かながら残っているようだ。鼻顔橋で湯川の対岸に渡り、神社入口から男坂の石段を上ると朱塗りの鳥居が建ち並び、その奥に厳かな社殿を構えている。鼻顔と書いて「はなづら」と読ませる難読なこの神社、湯川の断崖に懸崖造りの社殿を持ち、湯川の穏やかな流れと相まって見事な景観を作っている。創建は永禄年間(1558年~69年)、京都伏見稲荷から勧請された。京都の伏見・愛知の豊川・佐賀の祐徳・茨城の笠間と共に五大稲荷の一つに数えられる名社だ。
佐久鯉の泳ぐ湯川は千曲川の支流
空中楼閣の社殿から下を覗くと、湯川を悠々と漂う立派な鯉が見える。そう、ここ佐久は鯉の名産地であることも述べねばならない。佐久鯉の歴史は古く、天明年間(1781年~88年)に呉服商が大阪の淀川から鯉を持ち帰ったことがはじまりという。それから約40年後の文政8年(1825年)に、時の岩村田藩主であった内藤豊後守正縄が大阪城勤番を終えて帰国する際、再び淀川の鯉を持ち帰ったことをきっかけに、佐久の諸地域で養殖がはじめられる。幕末には商品生産としての養殖が行われ、後々品種改良を重ねて昭和初期には全国一の生産量を誇るようになり、現在の佐久鯉の名声となっていくのである。千曲川の冷やかな清流と信州の気候が育てる鯉は、臭みもなく身の引き締まった肉質で美味とのことだ。

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岩村田城址

岩村田城址碑

岩村田城址と湯川
再び鼻顔橋を渡り湯川沿いに下っていく。鬱蒼と木々が茂る高台はかつての岩村田城址。元治元年(1864年)藩主内藤正誠が築城をはじめたこの城、築城中に明治維新を迎えてしまったため、完成を待たずに取り壊しになってしまった。言うなれば幻の城である。高台上にある岩村田小学校の前には鳩山一郎筆の記念碑が建てられている。
相生の松
旧岩村田小学校跡地のある天神堂商店街を経て、相生町交差点から旧中山道に歩みを戻す。右手にこども未来館の円形ドームを見ると、間もなく小海線を中仙道踏切で渡り、御嶽神社の小さな社の前に至る。右に左にカーブして岩村田高校、浅間総合病院をかすめながら進むと、皇女和宮降嫁の折、野点(のだて:野外でお茶を立てること)を行ったとされる「相生の松」が現れる。赤松と黒松が一つの根から生る松は相生の松と呼ばれ、縁結び・和合・長寿の象徴とされる。

浅間病院西交差点で国道141号を横断する。民家の塀と道の間にはよく手入れされたチューリップの赤い花が並び、道行く人々の目を楽しませる。やがて旧中山道の舞台は岩村田の市街から、田畑やりんご園の広がるのどかな風景に変わっていく。

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野に咲く花のように

田植えを終えた水田は夏の到来を待つ

浅間山は右後方に随分と遠のいた。旧中山道はブロックに川筋を守られた濁川を渡る。その名の由来なのだろうか、水量の減った川には茶褐色の泥がむき出しになっている。すぐ先、右手民家の裏には荘山稲荷神社が鎮座する。この辺りの街道両脇に平塚の一里塚があったというが、今はその痕跡すら窺い知ることはできない。日本橋から43里目(約169km)の一里塚で、数からすると39番目。
平塚集落の店で一服
平塚集落に入り、ひとまず店の軒先で休憩。木造の店構えと「TOBACCO」のレトロな看板が何ともいい味を出している。雲がたちこめていた空も、いつのまにか大部分が青空の晴天となり、和宮様のように野点とはいかないが、缶コーヒーを飲みながら一服する。集落を出ると再び田園風景が続き、カエルの鳴き声が耳に心地よい。

野に咲く花のように風に吹かれて 野に咲く花のように人をさわやかにして♪
そんな風に僕たちも生きて行けたら素晴らしい 時には暗い人生もトンネル抜ければ夏の海♪
そんなときこそ野の花の けなげな心を知るのです♪
根々井塚原の集落にて
思わず鼻歌まじりにダ・カーポの名曲が口につく。路傍には春の到来を待ちわびたタンポポが地味ながらも黄色い花を咲かせ、田植えを終えたばかりの水田と新緑の山々は実に清々しい。そんな信州のさわやかな風の中に身を置くと、一足も二足も先に裸の大将が歩いているような気になってくる。そんなことを思いつつ、やがて根々井塚原集落の古い町並みの中を歩いていく。
下塚原集落の旧中山道
妙楽寺を過ぎると道はY字路にさしかかる。分岐点には「旧中山道 岩村田宿⇔塩名田宿」の看板が立っているので、ここは左へ進路をとり下塚原集落の中を抜けていく。そして再び先ほど分かれた道に合流すると、騎乗の男女二神像を祀る重要文化財の駒形神社が現れ、ここから濁川に沿って谷間の道を進むことになる。

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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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