塩名田宿


谷底を流れる濁川に沿って道は下っていく。川岸の僅かな平地に民家が点在しているのだが、これらの家はかつて濁川の水流を利用して米搗き業を営んでいた車屋の跡だという。旧中山道は坂を下りきった所から、左方向に迂回するような道筋だったのだが、丸山建材工業の敷地に消失している。ここは大正時代に付け替えられた現在の道を直進し、再び左後方から旧道の道筋が現れて合流してくると、間もなく塩名田交差点に至り、ここから塩名田宿の町並みとなっていく。

塩名田宿は江戸日本橋から23番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口574人、家数116軒、本陣2、脇本陣1、旅籠7軒。人口も旅籠の数も少ない小規模な宿場ながらも本陣は2軒置かれていた。これは次の八幡宿へ向かうには暴れ川であった千曲川を渡河しなければならず、川止めになることが多かったことによる。また隣の岩村田宿に本陣や脇本陣が無かったことも影響しているのであろう。宿場は江戸側の下宿、本陣のあった中宿、千曲川付近の河原宿で構成され、中でも中宿の町並みは宿場であった頃の面影を留めている。本陣はともに丸山家が努め、問屋場も兼ねた新左衛門家が切妻造・妻入りの建物を残している。

中宿を抜けると道は左へカーブするので、ここは直進する小径に進路をとる。これが旧中山道の道筋で、坂を下った先から河原宿となる。道筋に街道情緒を残す町並みの中を歩くと、川魚料理「竹廼屋」の先で千曲川の流れに行く手を遮られ、ここで塩名田宿は終わりとなる。