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塩名田宿

塩名田宿中宿の町並み

米搗き業を営んだ車屋跡と濁川
谷底を流れる濁川に沿って道は下っていく。川岸の僅かな平地に民家が点在しているのだが、これらの家はかつて濁川の水流を利用して米搗き業を営んでいた車屋の跡だという。旧中山道は坂を下りきった所から、左方向に迂回するような道筋だったのだが、丸山建材工業の敷地に消失している。ここは大正時代に付け替えられた現在の道を直進し、再び左後方から旧道の道筋が現れて合流してくると、間もなく塩名田交差点に至り、ここから塩名田宿の町並みとなっていく。
塩名田宿本陣跡の丸山家
塩名田宿は江戸日本橋から23番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口574人、家数116軒、本陣2、脇本陣1、旅籠7軒。人口も旅籠の数も少ない小規模な宿場ながらも本陣は2軒置かれていた。これは次の八幡宿へ向かうには暴れ川であった千曲川を渡河しなければならず、川止めになることが多かったことによる。また隣の岩村田宿に本陣や脇本陣が無かったことも影響しているのであろう。宿場は江戸側の下宿、本陣のあった中宿、千曲川付近の河原宿で構成され、中でも中宿の町並みは宿場であった頃の面影を留めている。本陣はともに丸山家が努め、問屋場も兼ねた新左衛門家が切妻造・妻入りの建物を残している。
中宿から坂を下ると河原宿
中宿を抜けると道は左へカーブするので、ここは直進する小径に進路をとる。これが旧中山道の道筋で、坂を下った先から河原宿となる。道筋に街道情緒を残す町並みの中を歩くと、川魚料理「竹廼屋」の先で千曲川の流れに行く手を遮られ、ここで塩名田宿は終わりとなる。
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千曲川

千曲川

信濃なる 千曲の川の さざれ石も 君し踏みてば 玉と拾はむ

千曲川というと万葉集にあるこの歌が思い浮かぶ。どこで知ったのか、あるいは教わったのか定かでないが、何故か印象的に頭の中に残っている。千曲川の小石でさえも君が踏んだのであれば玉と思って拾います。そんな恋情に歌われた千曲川、河原には今も変わらずさざれ石が散らばり、清らかな水が流れている。
船繋ぎ石、上部に船繋ぎ用の穴が開けられている
今日の静かな流れからは想像もつかないが、千曲川は昔から氾濫を繰り返す近郷無頼の暴れ川であった。江戸時代に幾度か橋が架けられたが、氾濫するたびに流失し、舟渡しや徒歩渡しで渡河するのが専らだったようだ。明治6年(1873年)になると、9艘の船を針金で繋ぎ、その上に板を置いて人馬を渡す、いわゆる船橋が作られた。その際、船を繋ぎとめるために使われたのが船繋ぎ石である。明治25年(1892年)に木橋が架けられるまで使われたこの石は、今も河原に取り残されている。
御馬寄の集落と旧中山道
中津橋で千曲川を渡ると、御馬寄の集落に入り坂道をどんどん上っていく。歩道橋の所から対向2車線の道を離れ右の小道に入ると、白の帽子と前掛けに身を包んだ大日如来像に出会う。間もなく先ほど分かれた道と再び合流し、佐久川西自動車学校まで来ると、右手に一里塚の標柱が立っている。これは御馬寄の一里塚跡で日本橋から44里目(約173km)、数からすると40番目。遺構は残されていない。
御馬寄の大日如来像
右手水田の向こうには浅間山が、いまだ雄大な姿を見せている。緩やかな上り道は、佐久市浅科支所の先から下りに転じる。左右に広がる水田地帯を見ながら進むと、やがて八幡宿の家並みが見えてくる。そして中澤川を渡り宿場名の由来となった八幡神社まで来ると、八幡宿の町並みとなっていく。
レトロな雰囲気の八幡神社前停留所
17時、八幡宿本陣跡に到着。八幡神社前停留所まで戻り、17:27発の岩村田行きバスに乗車する。客は自分も含めて二人。軽快に走るバスは私をあざ笑うかのように、とぼとぼ歩いてきた道を逆走していく。やがて佐久平駅に到着し、駅内の土産店で買った信州あんずのハイチュウを食べながら、例のごとく新幹線で帰路につく。

【第15日目】踏破距離 約8.1km(岩村田宿→塩名田宿→八幡宿)日本橋から174.2km 京都まで360km
まだまだ先は長い・・・

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八幡宿

八幡神社随神門



【第16日目】5月19日(土) 八幡宿→望月宿→芦田宿



上野駅から8時ちょっと前の長野新幹線あさま号に乗車。東京の天気は何とか曇り。しかし安中榛名駅を過ぎた頃から重たい雲が空を覆い、雨が降り始める。軽井沢まで来ると、空はその重さに耐えかねたかのように低くなり、それに呼応して雨足も強さを増してくる。浅間山などは裾野を見せているに過ぎない。まずい日に来てしまったかなと少々後悔するが、ここまで来た以上すごすごと引き返すわけにもいくまい。道中の教訓で得た突然の雨に対する用意もできている。車内で深川飯弁当を平らげ、覚悟を決めて佐久平駅で下車する。
宿名の由来となった八幡神社
佐久平の空は変わらず厚い雲に覆われているが、雨足は明らかに弱まっている。9:35発の白樺湖行きバスに乗車すると、20分程度で八幡神社前停留所に到着。天気は傘が要らない程のぱらつく程度に回復し、空も明るみを増しはじめる。日頃の行いが良いせいだろう・・・何て自分勝手な思い込みをしつつ、八幡宿の散策を開始する。まずは八幡神社へ道中の安全祈願に寄る。見事な本瓦葺き屋根・楼造りの随神門をくぐり、社殿を拝観。延徳3年(1491年)建立の旧本殿・高良社が室町時代の遺構として重要文化財に指定されている。
八幡宿本陣跡
八幡東交差点を過ぎると右手に代々本陣を務めた小松家が現れ、現存する表門の前には「中山道八幡宿本陣跡」の石柱が立っている。八幡宿は江戸日本橋から24番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口719人、家数143軒、本陣1、脇本陣4、旅籠3軒。隣の塩名田宿と同規模の、人口も旅籠の数も少ない小さな宿場だったが、脇本陣4軒というのは特筆すべき点である。やはり暴れ川の千曲川が控えていることが要因であろう。
八幡宿の町並み
近年、八幡宿の町並みは旧家屋の建替えや取り壊しが進み、変貌してしまったようだ。往時、4軒もあった脇本陣すらどこにあったのかよくわからない。かつて人馬が闊歩した街道は自動車専用の道となり、交通量はそれほど多くはないにしろ、歩行者は道路脇のわずかなスペースを歩くことになる。とはいえ、かつて宿場であったことは、宿内を蛇行する道筋や町の雰囲気でそれとなくわかる。そんな宿場町の中心部を抜けて八幡入口バス停の先から右の小道を進むと、八幡宿西交差点で国道142号に合流し、その町並みは途切れる。

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瓜生坂越え

瓜生坂碑と百万辺念仏塔

旧街道情緒の漂う百沢集落
八幡宿を抜けた旧中山道は国道142号と道筋を共にして田園風景の中を進む。百沢東交差点で国道を右斜めの小径に離れ、百沢集落に入っていく。幸いにもここの道筋は主要道から離れたため、町並みは街道情緒を良く残している。道の両脇には用水路が施され、水の流れる音が静かな佇まいに心地よく響く。
百沢の祝言形道祖神
右の草叢の中に祝言形道祖神を見ると、布施温泉入口交差点で国道を横断する。そして布施温泉に向かう県道を歩くと、左にカーブする所の民家脇に、「右中仙道」と彫られた元禄期の道標があるので、見過ごさぬよう。ここから先が瓜生坂(峠)の入口にあたる金山坂らしく、旧道は県道を離れて右に進路をとるのだが、これが道なのか、民家の敷地なのか、不安にかられながら芝生の付く坂道を上って行くことになる。
瓜生坂(峠)入口となる金山坂
途中、草刈り機で道の雑草を刈り取る人がいたのだが、ここが旧中山道ですか?と聞くのも気が引けたので、軽く会釈を交わす程度に済ませ、突当りの舗装道まで上りきる。すると「中山道 道はここから斜面を上り望月宿方面へ向かう。」という案内板が立っており、やはりここが旧道の道筋だったのかと確信する。しかしだ・・・ここから斜面を上ろうにも先は雑木林と雑草に覆われ、とてもじゃないが歩けるような状態ではない。右往左往しながら思案した挙句、ここから先の旧道を進むのは不可能と判断し、舗装道を右に行って国道に出る。
瓜生坂の一里塚
国道からは八幡方向へ少し戻って、左の望月城跡へ向かう道で峠を上る。途中、「中山道 望月方面→」の看板が立つ所で、旧中山道が草叢の中から合流してくる。ここまで上ってくると金山坂からはじまる瓜生坂(峠)の上り道は、大半が望月トンネルの県道(旧国道)や現国道の開削で失われていることに気づく。間もなく山中の道脇に瓜生坂の一里塚跡が現れる。日本橋から45里目(約177km)の一里塚で、数からすると41番目。南塚が現存し、道路に削り取られているが北塚の半分が残る。
望月の町並みを一望
峠まで到達すると「中山道 道はここを斜めに下っていた」との案内板があるのだが、当然道らしき道も無いので、普通に舗装道を行くと、すぐに瓜生坂碑と百万辺念仏塔を見ることができる。ここから舗装道を離れ、瓜生坂碑裏手の山道を下りていくと、一面雑草に覆われた平地になる。ここにはかつて茶屋があったらしい。獣道の様相となった旧中山道を進み、いかにも古そうな緑がかった石仏から道は二又に分かれる。ここは左に進路をとり、坂を下って再び舗装道に出ると、前方に望月宿の町並みを一望する。

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望月宿

旅籠兼問屋を務めた真山家

路傍の馬頭観世音や道祖神の石造物群を見ながら、コンクリート路面の長坂を下っていく。道が平坦になると長坂橋で鹿曲川を渡り、再び段丘を上る。旅館島田屋前で旧道は鉤形の道筋を辿り、望月宿へと入っていく。すると「倍駆商処 清水」の屋号が掲げられたバイク店に出くわし、向かいには格子窓の旧家が建つ、いかにも宿場町跡の様相となる。
鹿曲川を渡り望月宿へ
望月宿は江戸日本橋から25番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口360人、家数82軒、本陣1、脇本陣1、旅籠9軒、信州の小さな宿場町。望月の地は蓼科山北側の緩斜面に位置し、一帯は奈良時代末期頃に牧(馬の牧場)が開かれ、ここで育てられた馬が朝廷に献上された。その所以で御牧ヶ原と呼ばれるようになったわけだが、信濃には全部で16もの牧が置かれ、中でもここ御牧ヶ原は「望月の駒」と呼ばれる名馬・月毛(淡いクリーム色)の駒を産する地であった。
望月宿の町並み
そもそも望月とは満月の別称である。信濃16牧で年間80頭の貢馬を朝廷へ献上していたわけだが、中でも御牧ヶ原で育てられた望月の駒は20頭にものぼり、毎年旧暦8月15日の満月の夜に献上されたという。望月の名はこれが由来であるとの説もある。いずれにせよ、満月にちなんでつけられた地名であることは間違いなさそうだ。
望月歴史民俗資料館
本陣を務めた大森家の一部は望月歴史民族資料館となり、周辺で発掘された縄文時代から室町時代の遺跡や遺物を展示、紹介している。中でも原寸大で復元されている縄文時代の住居跡は、柄の付いた手鏡のような形をしており、望月周辺でのみ見られる珍しい形だという。もちろん望月宿に関する展示も豊富にされており、街道歩きで訪れた際には立ち寄りたい場所だ。
脇本陣を務めた鷹野家
資料館の隣、大森小児科医院の敷地も本陣跡。斜向かいには旅籠と問屋を兼ねた大和屋こと、真山家が出桁造りの貴重な建物を残している。明和2年(1765年)の大火後に再建されたもので、重要文化財に指定されている。宿内には大和屋呉服店や井出野屋旅館、山城屋旅館、呉服・寝具・洋品ますや等の古い建築も残り、そこはかとなく宿場情緒を漂わせている。

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土砂降りの雨の中で

土砂降りの雨の中で

大伴神社にて
宿場西はずれにある大伴神社に寄る。社殿の前には様々な願いが込められた絵馬が奉納され、表面には望月の駒と双体道祖神が描かれている。いかにも望月の地らしい、微笑ましい絵馬だ。そんな絵馬を眺めていると、ポツリポツリと顔に当たる滴が気にはなってくる。それも束の間、滴の量は増えはじめ、雨となって強さを増し始める。億劫ではあったが傘を差して神社を後にし、宿場を抜けて旧中山道をひた歩く。
青木坂の上り口にかかる旧中山道
御桐谷(おとや)という難読の名を持つ交差点を過ぎると、道なりに坂を上っていく。佐久良荘前停留所まで来たところで、何気なく異変に気づく。どうやら旧中山道の道筋から外れてしまったらしい。ガイドブックを確認すると、旧道の道筋は交差点を渡ってすぐに左の段丘を上って行くようだ。標識も無く、非常にわかりにくいので注意が必要だ。足取りを反転させ段丘を上がると、Z字状の坂道を持つ青木坂にさしかかる。途中、寒念仏供養塔を見ながら坂を上りきると、国道142号の下を潜り抜ける。右に国道の陸橋、青木橋を見たところで、道幅2m程の旧道は県道となって対向2車線の道となる。
近年作られたものだろうか、旧道沿いには新しい双体道祖神の姿も見える
本牧小学校前信号の先で御巡見道標を見て、県道右脇に施された広い歩道を歩く。すると観音寺入口停留所付近まで来たところで、にわか雨に見舞われる。土砂降りの様相となってきた雨は、激しく路面を叩きつけ、既に傘が意味を為していない。幸い停留所が小屋付きだったので、ずぶ濡れになりながらも駆け足で避難する。そこで頭上を覆うダークグレーの雲を眺めながら、ふと何故こういう激しい雨のことを土砂降りと言うのだろう・・・何てどうでもいいことを考える。土砂が降ったかのように、激しい音をたてるからなのか・・・上手い表現を考えたものだ、と勝手に解釈して悦に浸っていると、やがて雨は小降りとなってくる。
エメラルドグリーンに色づく濁池
ようやく重い腰を上げて再び歩きはじめる。停留所のすぐ先には「旧中山道 茂田井宿」の道路標識が頭上に掲げられ、程なくして右手木々の合間に池が見えてくる。この池の名は濁池というのだが、その名から受ける印象とは裏腹に、エメラルドグリーンに色づく水は美しい。そして「中山道茂田井入口の案内板から旧道は県道を離れ、下り坂の先に視界が開けてくると、間もなく茂田井の町へと入っていく。

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間の宿・茂田井

間の宿・茂田井

神明社から眺める茂田井
茂田井の町は地図を見ると茂田井宿と表記さてれているが、正確には宿場ではない。正式に宿場とは幕府によって指定されたもののみを言い、茂田井は宿場として認められていなかった。望月宿と芦田宿の中間地点に位置し、自然発生的に町を形成していった茂田井は、旅人の休憩場所として繁栄し、間の宿と称される。以前に通過した鴻巣宿と熊谷宿の中間に位置する吹上も同じような扱いだ。江戸時代、幕府は宿場以外で旅人の宿泊を原則禁じていたので、茂田井の町並みは、やはり宿場町とは趣を異にしている。2軒の造り酒屋を中心に古い家屋が軒を連ね、すばらしい景観を残している。
武重本家酒造
神明社から茂田井の町並みの中を歩く。旧道の道幅は昔ながらのままで狭く、脇には用水路がコポコポと静かに流れている。どっしりと腰を下ろして町並みを描く人も散見される。こちらはパチパチ写真を撮りまくり。それほどここの景観は美しい。そして右手門の入口に酒林を吊るす重厚な建物は、明治元年(1868年)創業の武重本家酒造。酒造蔵内に浮遊する天然の乳酸菌を利用して、酵母を育てる昔ながらの酒造法が特徴で、「生もと造り」と呼ばれる。これは非常に手間のかかる酒造法であるが、独特の風味を醸し出し生き生きしたおいしい酒ができるという。
大澤酒造
坂道を上っていくと、こちらにも立派な酒林が吊るされている。ここは元禄2年(1688年)創業の老舗大澤酒造。明鏡止水や善光寺秘蔵酒が代表的な銘柄。秘蔵酒は善光寺貫主の宿を務めた縁により命名された。門を潜ると時代劇のセットに入り込んだような気分だ。敷地内には民俗資料館や名主の館書道館、しなの山林美術館が併設され、無料で公開されている。大澤家は元文2年(1737年)より明治4年(1871年)まで茂田井村の名主を務めた家柄で、高札場も設けられていた。また、元治元年(1864年)水戸浪士の天狗党が挙兵し中山道を通過すると、これを追ってきた小諸藩兵500人の宿となった場所でもある。
石原坂
集落の西端にあたる石原坂の急坂を上りきると、茂田井の一里塚跡がある。日本橋から46里目(約181km)の一里塚で、数からすると42番目。痕跡は残されていないが、説明板が立てられている。立科ゴルフ倶楽部前で対向2車線道に合流すると、田園地帯の様相となり、後方には随分と小さくなった浅間山の頂が姿を現している。上州から連れ添った浅間山の眺望も、ここら辺が最後となりそうだ。

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芦田宿

笠取峠東の登り口・芦田宿

のんびりと田園風景の中を歩き、芦田川の小さな流れを越えると芦田宿は近い。周りには田植えを終えたばかりの水田と、水を湛えて田植えを待つ水田が半々くらい。信州ではちょうど今頃が田植えの時期なのだ。これから梅雨を迎えて夏の陽射しを浴び、秋には黄金色の稲で埋め尽くされるのだろう。四季折々の姿を見せる日本の風景はやはり美しい。
芦田宿へ向け田園の中を歩く
森屋理髪店の渋い看板を見て中居交差点を過ぎると芦田宿となる。傍らに道祖神が立つ古町口停留所を過ぎて、坂を下って行くと「交通安全宣言の町」と書かれた門形看板を潜る。支柱には何やらキャッチフレーズが書かれているが、文字が消えかけていてよくわからない。すぐ先の交差点を左折した先が立科町役場で、ここを直進すると宿場町らしい様相となってくる。芦田中央交差点辺りが宿場の中心で、最も宿場町らしさを残す町並みとなっている。
芦田宿本陣跡
芦田宿は江戸日本橋から26番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口326人、家数80軒、本陣1、脇本陣2、旅籠6軒。望月宿より更に規模の小さな宿場町であるが、笠取峠を目前に控え旅装を解く旅人も多かったであろう。皇女和宮様も東下の折、昼食休みで本陣に立ち寄られた。その本陣は慶長初期から明治維新に至るまで代々土屋家が務め、問屋も兼ねた。
本陣跡の土屋家には寛政12年(1800年)に改築された客殿が残されている。この客殿は切妻造りの屋根両端に鯱を載せ、妻入りの玄関屋根は唐破風で鬼瓦を持つ堂々たる構え。内部は上段の間・広間・小姓部屋・湯殿・雪隠で構成され、江戸時代後期の建築をほぼ完全な形で残しているというが、内部を見学することはできなかった。事前に予約をすれば見学可。
金丸土屋旅館
本陣向かい側の民家と芦田中央交差点を挟んで斜向かいの藤屋商店が脇本陣跡。藤屋商店からすぐ先の出桁造り連子格子の建物は200年以上の歴史を持つ旧旅籠「土屋」。現在も金丸土屋旅館として旅館業を続けており、芦田宿唯一の宿泊施設。
バスの時間まで1時間ほどあったので、笠取峠の入口付近まで足を延ばしてみる。松並木まで来るとまたしても大粒の雨が・・・早歩きで芦田宿まで戻り、17時過ぎ千曲バスで佐久平駅へ向かう。

佐久平駅の土産物店をうろついていると鯉のうま煮なるものが目に留まる。見事な鯉が1匹まるごとのものもあれば、切り身もある。さすがは佐久鯉の産地、鯉のうま煮とは一体どんな味なのだろうか。切り身を買って帰ってからの楽しみとする。
【第16日目】踏破距離 約8.3km(八幡宿→望月宿→芦田宿)
日本橋から182.5km 京都まで352km
まだまだ先は長い・・・

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笠取峠の松並木

笠取峠の松並木



【第17日目】6月9日(土) 芦田宿→長久保宿→和田宿



佐久平駅の天気は雨が軽くぱらつく程度の曇り。何とか天気は持ちそうだ。気温は半袖では少々肌寒い16℃。東京では初夏の到来を感じさせる陽気で、上着を1枚脱ぐほどだったのに、こちらではまだまだ春先の雨下がりといったところだ。佐久平駅からは前回と同様に9:38発の白樺湖行バスに乗る予定だったが、少々寝坊してしまい佐久平駅到着が10時ちょっと前。次のバスは10:50発なので、駅内の軽食喫茶の店でコーヒーを飲みながらバスの到着を待つ。

バスに乗車すると乗客は自分も入れて6人。このバスは塩名田宿、八幡宿、望月宿を経て芦田宿へ向かう旧中山道を踏襲するルートを通ってくれるので、車窓から眺める風景は今まで歩いてきた景色の映像をリプレイして見ているようで楽しい。

何もないな 誰もいないな 快適なスピードで
道はただ延々続く 話しながら 歌いながら♪ 
カレンダーも 目的地も テレビもましてやビデオなんて
いりませんノンノン僕ら 退屈なら それもまたグー♪
名曲をテープに吹き込んで
あの向こうの もっと向こうへ♪
芦田宿の双体道祖神
ローカルバスに揺られながら奥田民生のお気に入りのフレーズを鼻歌まじりに口ずさむ。車窓からゆっくりと過ぎ去る新緑の山々や田園の緑は初々しい。そして行った事もない知らない町へ。人は暇人と言うけれど、何て贅沢な時間の使い方だろうと思ってしまうのは自分だけだろうか。そんなバスの旅も40分程で芦田の町へと入り、芦田停留所で下車する。ここから再び中山道中の一歩を踏み出す。寝坊した遅れを取り戻すため一気に芦田宿を抜ける。
芦田宿を出て、いざ笠取峠へ
宿場の出口付近にある赤のトタン屋根が印象的な正明寺に寄り、いざ笠取峠へ向かう。宿場を出て国道142号を横断すると、笠取峠の上り口にさしかかる。ここから笠取峠の松並木が続く。道脇には水路が施され石畳の散歩道として整備されており、勾配も緩やかなので歩きやすい。ただ今日は路面が濡れているので滑りやすく注意が必要だ。
笠取峠入口、笠を取って歩く母娘の姿
笠取峠は芦田宿と長久保宿の中間に位置し、旅笠を取るほど暑さに悩まされる峠道だったことからこの名が付いたようだ。そのためだろうか、幕府から小諸藩に赤松の苗753本が下付され、近隣の村々に人足を割り振り、約15町(1.6km)にわたって植樹を行った。長い年月が経ち、数こそかなり減ってしまったが、現在も樹齢150~300年の老赤松が100本程残されており、往時の中山道を偲ばせている。昭和49年(1974年)長野県天然記念物指定。

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笠取峠越え①

笠取峠松並木の道
笠取峠松並木の峠道は緩やかな勾配。遊歩道として整備されており歩きやすい。

笠取峠松並木の休憩所
公衆トイレとあずまやが設置されている休憩所。茅葺屋根の建物が周りの緑と調和していてすばらしい。せっかくなのであずまやで腰を下ろし休憩。

休憩所からの眺め
休憩所から芦田宿方面を望む。左が松並木の旧中山道、右は国道。

松並木公園・薬草園
休憩所のすぐ先で国道を横断すると、小さな薬草園がある。

松並木もここで終わりとなる
間もなく松並木が途切れると国道に合流する。

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笠取峠越え②

ユニークないでたちの案山子
国道に合流し、アスファルト路面になった歩道を上っていく。勾配は変わらず緩やかだ。山間のわずかな平地には水田が並ぶ。稲を守る番人はヘルメットとジャンパーに身を包む案山子さんだ。

こちらはちょっとオシャレかな??.
もう一つ案山子。

国道を歩いて峠を目指す
とぼとぼと歩いている私を尻目に、時折通る車やトラックはエンジンをうならせながら峠道を駆け上って行く。

ひと気の無い民家には蜂の巣が・・・
途中、ぽつんと民家があるのだが、人が住んでいる気配はない。まんまると見事な蜂の巣が・・・

峠はすぐそこだ!.
登坂車線終りの看板を見ると、間もなく峠の頂となる。

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笠取峠越え③

笠取峠の頂
笠取峠の頂を越え、立科町から長和町へ。

笠取峠
かつて笠取峠には立場茶屋があり、名物力餅が売られ、峠を登ってきた旅人で賑わった。しかし茶屋付近は明治34年に切通しを開け7~8m程低くなったため、現在痕跡をほとんど留めておらず、かつて旅人の喉を潤したのであろう金明水・銀明水の泉が僅かに水を残しているに過ぎない。

銀明水
銀明水。濁ってはいるが、今も水を残している。

金明水
金明水。水は枯れてしまったようだ。

峠乃茶屋
かつての立場茶屋跡にあるドライブインの「峠の茶屋」。既に12時をとっくに過ぎ、腹も減ってきた。ここで昼休みとし、店内に入り早速冷やし中華を注文する。
食事を始めると店のおばちゃんが話しかけてくる。
「歩いてきたの?」
「ええ、芦田から歩いてきました。」
「どこまで行くの?」
と、すかさず質問を返される。
「今日は和田まで行きます。和田で泊って、明日下諏訪まで行く予定です。」
ラーメンをすすりながら私は答える。
「本亭?」
おばちゃんの言う本亭とは、和田宿にある唯一の旅館のことである。
「本亭に泊ろうと思ったんですが、一杯と言われましてね。近くに宿を探したら民宿があったので、そこに泊ります。」
「え!?何てところ?」
「えーっと、確か「みや」という民宿です。」
と、答えると客のおばちゃんが会話に加わってくる。
「あー、大門の方に行ったとこね。」
大門とは長久保宿の先、大和橋から中山道を分岐し白樺湖を経て茅野へ向かう大門街道のことである。この道は武田信玄が信州攻略のために造らせた棒道跡でもある。
「あそこじゃ、和田からちょっと遠いでしょ。」
客のおばちゃんも食べながら話してくる。
「ええ。そうなんですが、宿の方が迎えに来てくれるので。」
そんなたわいもない会話をしながら昼食を終え、茶屋を後にする。

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笠取峠越え④

笠取峠立場図版木
長久保宿の釜鳴屋には笠取峠立場図版木が保存されている。これは天保年間(1830年~43年)から安政年間(1854年~59年)頃に作成されたと推定されるもので、江戸期の立場茶屋の様子が描かれている。

中山道原道入口
立場茶屋跡のすぐ先左手に中山道原道の標識がある。地味で小さな立て看板なので、うっかり見過ごしてしまいそう。ここから旧道を辿ることができる。

中山道原道①
雑草と木々に覆われた旧中山道。

中山道原道②
林の中に道が途切れたら、右の国道に出る。すると国道と旧国道が分岐するY字路の真ん中に旧中山道の道筋を見つけることができる。

中山道原道③
藪の中へ。僅かに残る道筋を辿る。

中山道原道④
旧中山道は何とか人一人が歩ける程度の獣道と化す。不安にかられながら坂道を降っていく。

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笠取峠越え⑤

中山道原道⑤.
やがて旧国道の車道が前方に見えてくる。

旧国道の傍らに馬頭観世音と地蔵
旧中山道は旧国道を突き抜けて直線状に坂を降りて行くのだが、その道筋は完全に失われてしまっているので、仕方なくここは旧国道を歩く。U字カーブの中心には付近の旧道にあったものと思われる馬頭観世音と地蔵が行き場を失ったかのようにたたずんでいる。

中山道原道⑥
再びガードレールの向こうに旧道が出現する。

石垣跡?
旧道を下りていくと右手斜面に石垣らしきものが・・・何なのかは不明。

中山道原道⑦
足元に気をつけながら獣道の旧道を下りていく。

中山道原道⑧
U字カーブした先で再び旧国道に合流する。

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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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