

下和田上組集落まで来ると三千僧接待碑を見ることができる。もとは信定寺別院慈眼寺に建立されたものだが、寛政7年(1795年)にこの地に移された。諸国遍歴の僧侶を供養接待し、当初1千人を記念して作られたが、後に3千人に達したため一の字に二の字を新たに刻み加え、三の字にしたという。碑文を見ると三の字が明らかに不自然な位置にあるので改刻したことがわかる。時間は17時を過ぎる。心配したのであろう、民宿の方から「到着は何時頃ですか?」と携帯に連絡が入る。和田宿に18時到着と告げ、本陣まで迎えにきてもらうようお願いする。

途中、上立場という停留所があるのだが、これは立場茶屋の名残であろうか。やがて集落を抜けると若宮八幡宮に到着する。随分と背の低い鳥居の向こうには神楽殿と表現していいものなのか社殿を従え、奥に本殿が鎮座している。ここには天文23年(1555年)武田勢の信濃侵攻に敗れた和田城主大井信定とその子信正の首級が葬られ墓碑が建立されている。そしてすぐ先には芹沢の一里塚跡。石碑が建つのみでこれといった痕跡はない。日本橋から49里目(約192km)、数からすると45番目の一里塚。

何とか雨を持ちこたえていた曇天の空もいよいよ限界に達したらしく、しだいに雲の厚みとともに雨粒の数も増しはじめる。リュックから折り畳み傘を取り出し、先を急ぐことにする。芹沢停留所の先には「ようこそ歴史の里へ ゆっくり走ろう中山道を」のスローガンが道路の壁面に書かれている。ゆっくり走ろうの如く、傘をさしながら国道をひたすらに小走りで駆け抜け、坂道を上っていくと「是より和田宿」の石碑に迎えられる。ようやく和田宿に到着したようだ。モダンな校舎の和田小学校前を過ぎると、蛇行する道に宿場情緒漂う町並みとなってくる。追分橋付近の景観は宿場の様相を良く残しておりすばらしい。降りしきる雨の中の18時ちょっと過ぎ、和田宿本陣に到着する。

間もなく本陣まで民宿のマスターが迎えに来てくれる。今日宿泊する「民宿みや」は中山道から大門街道に少し入ったところにあるので、和田宿からは少々遠い。和田宿の宿泊施設は本亭旅館が一軒あるのみで、今日の宿泊は一杯と断られたいきさつもあり、この民宿を見つけた。民宿に着くと早速夕食が用意されており、腹ペコの自分にとっては非常に有難い。食卓につくと幼少の娘さんがママさんに促され「どうぞ。」と水を持ってきてくれる。何とも心温まる家族経営のアットホームな民宿なので中山道を旅する際には利用してみては。
【第17日目】踏破距離 約13.6km(芦田宿→長久保宿→和田宿) 日本橋から196.1km 京都まで338km
まだまだ先は長い・・・
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