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笠取峠越え⑥

長久保へ
旧国道に合流すると小さなせせらぎの沢を渡らずに右方向へ進む。雨上がりの山道を歩いてきたせいで靴はぐちょぐちょの泥だらけだ。沢で軽く靴を洗い流し、アスファルト舗装の有難みを感じながら先へ進むと、対向2車線の現国道に合流し長久保地区へと入る。

段丘状のヒノキ林に消失する旧道
200m程で左へカーブする国道を離れ直進する道に進路をとると、再び左カーブにさしかかる所で旧道の道筋は段丘状に整備されたヒノキ林の中に消失してしまう。

民家前に出現する旧道
S字カーブの車道を辿っていくと、民家の前に旧道の道筋を再び見出すことができる。写真の民家前の小径が旧中山道。

ガードレールの切れ間を下りる
左下に旧道を見ながら車道を下りていく。旧道は車道と交差すると、そのまま直進してガードレールの切れ間から石段を下り、松尾神社の境内へ至る。

松尾神社
長久保の総鎮守・松尾神社。宿場のはずれにある静かなたたずまいの神社だ。本殿は万延元年(1860年)再建で、諏訪の宮大工、三代立川和四郎富重の建築による。大山昨命(おおやまくいのみこと)を祀り、酒造守護の神として崇敬された。大山獅子舞の伝統を今に伝えている。

松尾橋を渡り長久保宿へ
松尾橋を渡り鳥居をくぐると長久保宿はすぐそこだ。
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長久保宿

長久保宿堅町

松尾神社を後にして右眼下に五十鈴川と棚田を見ながら歩くと、長久保宿の町並みへと入っていく。蛇行する坂道を下りきると、新緑の山に向かって家を並べた直線道が続く。ここから突き当りまでが竪町(たてまち)で、突き当りから左に延びる町並みが横町となる。長久保宿は宿場中央で曲折しL字型の町並みを形成している。
長久保宿横町
長久保宿は江戸日本橋から27番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口721人、家数187軒、本陣1、脇本陣1、旅籠43軒。両側に和田峠と笠取峠の難所が控えているだけあって、さすがに旅籠の数は多い。元々は長窪と表記し、宿場は長窪村の一部として西側丘陵下の依田川沿いにあったが、寛永8年(1631年)の大洪水によって宿場の機能だけが高所の現在地に移された。そこで元の長窪村を長窪古町、宿を中心とした集落を長窪新町と呼びわけるようになった。
旧本陣・石合家住宅
江戸時代初期、長窪村に宿駅が設置されるにあたり、真田氏の配下でここの代官であった石合氏が本陣と問屋を兼ね、小林氏が問屋を務めた。問屋場には半月ずつの交代制で石合・小林両氏が詰めていた。現在も石合家には上段の間・二の間・三の間・入側等、当初の本陣建築が残され、現存する中山道の旧本陣としては最古のものである(非公開)。また皇女和宮が関東下向の際、本陣にて休憩している。
長久保宿にて
宿場として長窪村が発展し、次第に商いを営む人々が増えてくると、人気が沈むということから「窪」の字は敬遠されるようになった。そこで久しく保つ「久保」の字を充て通称として使うようになったらしい。江戸時代末頃には正式名にしてもらおうと代官所にも願い出たということだが、結局認められず、願いがかなえられるのは明治時代まで待たねばならない。

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うだつが上がらない・・・

旅籠建築を残す一福処濱屋

長久保宿歴史資料館・一福処濱屋
竪町の江戸寄りには明治時代初期の旅籠建築が「一福処濱屋(いっぷくどころはまや)」の名で歴史資料館として公開されている。出桁造り連子格子を持つ山間部によく見られる旅籠建築であるが、近年改装されたのであろうか、建物は新しい。実際には国道や鉄道の開通により中山道の交通量が減ったため開業には至らなかったようだ。1階は休憩所となっており、2階には宿場関連の歴史・民俗資料が展示されている。
釜鳴屋・竹内家住宅
旧本陣・石合家の立派な門を見て先へ進むと、寛永期から昭和初期まで酒造業を営んでいた釜鳴屋こと竹内家住宅がある。屋根に特徴があり、当初の板葺きから瓦に葺き代えられたものの、見事な「本うだつ」を持つ格式と歴史を感じさせるものである。正確な建築年代は不詳であるが、江戸時代初期と推定される。竹内家には笠取峠立場図版木と宿場札版木が保存されている。
浜田屋旅館
ちなみに「うだつ(卯建)」とは上に突き出した壁に小さな屋根をのせたもので、ここ釜鳴屋のような様式を「本うだつ」といい、二階の軒下部分に設けられたものを「軒うだつ」という。本来防火壁として造られたものであるが、後に家の財力を示すための装飾的意味合いが強くなった。それなりに財力がないと当然うだつなど上げることもできず、出世や金銭に恵まれない人を「うだつが上がらない」と言うようになった。(語源は他にも複数ある)
長久保宿横町の町並み
釜鳴屋の道を挟んで向かい側には脇本陣と問屋場が並んでいた。現在ここには切妻造り妻入りの大きな庭を持った民家があるのだが、特に案内板も無いので詳細はわからない。ここからT字路の突き当りまで行き左折すると竪町から横町となる。この曲折点付近は桝形跡である。曲がり角には旧旅籠「浜田屋」が現在も旅館業を続けている。横町には宿場時代の面影を残す建物はほとんど残されていないが、出桁造り連子格子の建物が1軒だけ往時の姿を留めている。

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ミミズの双体道祖神

ミミズの双体道祖神

依田川に沿って山間へ
長久保宿を出ると山間の平地に田園地帯が広がる。長久保交差点手前で国道142号に合流してからは、先へ歩みを進めるごとに視界の両側に山が迫ってくる。途中、「中仙道」というドライブインの駐車場にある自販機で缶コーヒーを買い一休み。ドライブインの裏手には依田川がサラサラと流れ、水田の水面には濃淡灰色に色づいた雲が映し出される。そこに新緑の若稲が所狭しと植えられ、何とも心がホッと安らぐ風景だ。
四泊の一里塚跡
「四泊落合(よとまりおちあい)標高680M」の標識が立つ所で、旧道は国道を離れ右斜めの小径に進路をとる。ここの分岐点は四泊の一里塚があった場所であるが、痕跡は全く残されていない。しかも説明板が立てられてはいるが、旧道側に向かって立っているので、旧中山道歩きをしている人でなければまず気付くことはないだろう。日本橋から48里目(約188km)、数からすると44番目の一里塚。
上深山口停留所
間もなく旧道らしさを残す道はヤマザキデイリーの横に出て再び国道に合流する。500m程進み大和橋を渡らずに大門街道(国道152号)へ少し行くと、大門川に架かる落合橋があるのでここを渡り、すぐに依田川をたて続けに渡る。そして再び国道142号に合流すると、すぐにバイパスと分かれるので交通量の少ない道を歩くことができる。バイパスとの分岐点は水明の里という公園に整備されており、中山道の説明板や付近にあったと思われる馬頭観世音等の石造物が並べられている。
メーター見な!
依田川に沿って山間の道を進むと、茅葺き屋根が印象的な上深山口停留所がある。脇にはよく手入れされた花壇が設けられ、地元の方々の優しい心遣いを感じる。下和田中組集落まで来るとかわいらしいミミズの双体道祖神に出迎えられるが、すぐ先で強面の白バイ隊の看板にも出迎えられる。「メーター見な!」の一語には迫力があるのだ。

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民宿みや

「民宿みや」にて

三千僧接待碑
下和田上組集落まで来ると三千僧接待碑を見ることができる。もとは信定寺別院慈眼寺に建立されたものだが、寛政7年(1795年)にこの地に移された。諸国遍歴の僧侶を供養接待し、当初1千人を記念して作られたが、後に3千人に達したため一の字に二の字を新たに刻み加え、三の字にしたという。碑文を見ると三の字が明らかに不自然な位置にあるので改刻したことがわかる。時間は17時を過ぎる。心配したのであろう、民宿の方から「到着は何時頃ですか?」と携帯に連絡が入る。和田宿に18時到着と告げ、本陣まで迎えにきてもらうようお願いする。
若宮八幡神社
途中、上立場という停留所があるのだが、これは立場茶屋の名残であろうか。やがて集落を抜けると若宮八幡宮に到着する。随分と背の低い鳥居の向こうには神楽殿と表現していいものなのか社殿を従え、奥に本殿が鎮座している。ここには天文23年(1555年)武田勢の信濃侵攻に敗れた和田城主大井信定とその子信正の首級が葬られ墓碑が建立されている。そしてすぐ先には芹沢の一里塚跡。石碑が建つのみでこれといった痕跡はない。日本橋から49里目(約192km)、数からすると45番目の一里塚。
モダンな校舎の和田小学校
何とか雨を持ちこたえていた曇天の空もいよいよ限界に達したらしく、しだいに雲の厚みとともに雨粒の数も増しはじめる。リュックから折り畳み傘を取り出し、先を急ぐことにする。芹沢停留所の先には「ようこそ歴史の里へ ゆっくり走ろう中山道を」のスローガンが道路の壁面に書かれている。ゆっくり走ろうの如く、傘をさしながら国道をひたすらに小走りで駆け抜け、坂道を上っていくと「是より和田宿」の石碑に迎えられる。ようやく和田宿に到着したようだ。モダンな校舎の和田小学校前を過ぎると、蛇行する道に宿場情緒漂う町並みとなってくる。追分橋付近の景観は宿場の様相を良く残しておりすばらしい。降りしきる雨の中の18時ちょっと過ぎ、和田宿本陣に到着する。
雨の和田宿
間もなく本陣まで民宿のマスターが迎えに来てくれる。今日宿泊する「民宿みや」は中山道から大門街道に少し入ったところにあるので、和田宿からは少々遠い。和田宿の宿泊施設は本亭旅館が一軒あるのみで、今日の宿泊は一杯と断られたいきさつもあり、この民宿を見つけた。民宿に着くと早速夕食が用意されており、腹ペコの自分にとっては非常に有難い。食卓につくと幼少の娘さんがママさんに促され「どうぞ。」と水を持ってきてくれる。何とも心温まる家族経営のアットホームな民宿なので中山道を旅する際には利用してみては。

【第17日目】踏破距離 約13.6km(芦田宿→長久保宿→和田宿) 日本橋から196.1km 京都まで338km
まだまだ先は長い・・・
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和田宿

旧商家・万屋



【第18日目】6月10日(日) 和田宿→下諏訪宿



和田宿中町の町並み
7時半、朝食を済ませ万全の体調で民宿みやを出発。ママさんに和田宿本陣まで送ってもらう。和田峠越えの旧中山道は去年の大雨で崩れた場所も多いという。本陣に到着すると、「もう少し先まで送りましょうか?」と優しい気遣いを頂き、思わずその言葉に甘えてしまおうかと心がぐらつくが、旧中山道完全踏破が目的なので、ここは泣く泣くお断りする。和田宿から次の下諏訪宿までは5里18町(約21.6km)の長丁場。しかも街道最大の難所、和田峠が控えている。
車を降りると何とか雨が降っていないといったぐずついた空模様。そして今日の天気予報は見事に雨。しかも雷注意報まで出る始末。無事峠を越えることができるのでしょうか・・・
和田宿本陣御入門
まずは本陣を見学しようと思ったが、なにしろ時間は8時前、敷地内に入ることすらできず、門外からの見学のみとなる。和田宿本陣は文久元年(1861年)3月に焼失。同年に皇女和宮東下の際、和田宿が宿泊地と決まったため、幕府から多大な借入金を得て11月に急ぎ再建された。現在保存公開されている建物は、代々本陣を務めた長井家の居住棟で、昭和61年から5年の歳月をかけて解体修理されたものである。大名の宿泊施設を備えた座敷棟と本陣入口に設けられていた御入門はそれぞれ丸子町の龍願寺と向陽院へ移築されている。ここにある御入門は平成元年に復元された。
歴史の道資料館・河内屋
和田宿は江戸日本橋から28番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口522人、家数126軒、本陣1、脇本陣2、旅籠28軒。宿場は江戸側から下町、中町、上町で構成される。宿場の中心地であった中町には本陣や脇本陣、問屋が置かれていた。現在も宿場の雰囲気をよく残しており、先述した本陣をはじめ、旧旅籠であった河内屋が復元され歴史の道資料館として公開されている。いずれも今回の旅では時間が早く見学することができなかったが、次の機会を作ることにしたい。
和田宿脇本陣・翠川家
和田宿の脇本陣は翠川(みどりかわ)家と羽田家のニ家が務めたが、今も翠川家は切妻造妻入りの威厳を感じさせる建築だ。ここには上段の間、二の間等の御殿部分が文久元年(1861年)再建時のまま残されている。脇本陣の向かい側にあるのが和田宿唯一の宿泊施設、本亭旅館。もともと庄屋であった建物を利用した味のある旅館。そして隣には白壁の土蔵を持ち、これ見よがしにうだつを上げる旧商家の万屋(よろずや)が酒屋を営む。やがて上町の高札場跡を過ぎ、鍛冶足の集落を抜ける。そして雲のかかる山々を見ながら、和田峠へ向けて。
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依田川に沿って山中へ

依田川に沿って山中へ

鍛冶足の一里塚跡
和田鍛冶足交差点で国道142号を横断する。交差点角は鍛冶足の一里塚跡で、日本橋から50里目(約196km)、数からすると46番目の一里塚。国道の開通で取り壊されてしまったのであろう、痕跡は全く残っていないが、「中山道一里塚跡 江戸より50里」の石標が建てられ、周りはきれいにガーデニングされている。交差点から右斜めの道を行き茅葺屋根の大出停留所を過ぎると、Y字路の分岐点に道標らしき大石が置かれている。刻まれている文字は風化も著しく判読できない。ここを左の小径に進み、依田川の清流を従えて国道と合流する。
牛宿跡にある「杉の屋」
国道には歩道が無いので横を過ぎ去る車は近い。途中「塩尻45km 下諏訪26km」の道路標識。(下諏訪までまだ26kmもあるのか・・・)と少々意気消沈。車だったら30分ぐらいの距離であるが、これが徒歩となると・・・歩いている人にしかこの心境はわかりません。やがて「御食事処 杉の屋」に着くと、ひとまずここの自販機で缶コーヒーを買い一服。この辺りはかつての牛宿(うしやど)跡で、読んで字のごとく荷牛のために設けられた宿があった。
中山道のゴミ拾いをするボランティアの方々
再び国道に歩みを戻すとボランティアでゴミ拾いをしている町民の方々に出会う。片手に提げられたゴミ袋は空き缶やら何やらでどれも一杯だ。車からポイ捨てする人がいかに多いかを物語っている。こんなにすばらしい自然の中を走っているにもかかわらず、平気でゴミを捨てていく神経には正直腹が立つ。しかしこればっかりはドライバーの良心に訴えるしかなく・・・止めましょうよ、ポイ捨て。ボランティアの方々と挨拶を交わし先へ歩みを進めると、路傍にはゴミ拾いで集めたのであろう中身の詰まったゴミ袋が山積みにされている。これだけのゴミが捨てられていたのかと思うと悲しいやら情けないやら・・・。お陰でここから先はゴミ一つ落ちていない国道を気分良く歩くことができました。ボランティアの皆様、ありがとうございます。
左に上る道が古中山道
やがてドライブイン和田宿を過ぎると扉峠口。ここを分岐する県道は扉峠を越えて松本方面へ向かう。ガイドブックによるとこの先から旧中山道の道筋は失われているようだ。ここは旧国道の一の橋で依田川を渡る。旧中山道は橋から上流10m付近で徒歩渡しだったようだ。国道を200m程先へ進むと、左から山中へ上って行く道がある。これは旧中山道に付け替えられる以前の古中山道。ここはすぐ先の国道を右に分かれる道を選択し、唐沢集落の入口にさしかかると、再び旧中山道の道筋を歩むことができる。
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和田峠越え①

唐沢集落
かつて茶屋本陣が置かれていた唐沢集落。羽田家が本陣を務めた。和田宿の脇本陣家と同姓であるが、縁者であろうか。現在の羽田宅がその本陣跡。ちなみに写真手前の民家は茅葺とトタンを併せ持った珍しい屋根を持つ。

唐沢集落にて
唐沢集落にて。こんなレトロな看板も田舎ならでは。

唐沢の一里塚
集落を抜け国道に合流すると、左手に「中山道唐沢一里塚」の標柱が立っている。ここにある階段を上り山中へ入ると唐沢の一里塚がある。旧中山道以前の道筋である古中山道の時代に造られた一里塚であるため、山中に取り残された。そのためほぼ原形をとどめて現存している。日本橋から51里目(約200km)、数からすると47番目の一里塚。

二之橋と和田川
二之橋で和田川を渡り観音沢へ。

男女倉口
標高1100M地点の男女倉口。直進する道は新和田トンネルを経て下諏訪へ向かう有料道路。ここを右折し和田峠方面へ向かう。

和田峠へ
「歴史の道 中山道」の標柱が立つ所から国道を離れ山道に入る。いざ和田峠へ。
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和田峠越え②

観音坂
国道から山道となった旧中山道へ入ると、まず待ち構えるのは観音坂。

休み茶屋跡
休み茶屋跡。和田峠を行き交う旅人が足を休めた茶屋があった所で、石垣のみが往時を物語る。今は休憩小屋が設けられている。

三十三体観音
休憩小屋の隣にある三十三体観音。かつてこの山の中腹に鎮座していた熊野権現社にあったもの。昭和48年(1973年)の発掘調査で29体が確認され、ここに安置された。残り4体は未発見。

さらに観音坂を上る
さらに観音坂を上る。

新緑が清々しい旧中山道
新緑が清々しい旧中山道。土を踏みしめながら歩く。

はしごの仮橋
昨年の大雨の被害であろうか。橋が流失し、はしごの仮橋が架けられている。
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和田峠越え③

和田峠旧道
草付きの土道を踏みしめて。

復元された接待茶屋
林の向こうに視界が開けると国道に出る。ここはかつての接待茶屋(和田峠施行所、永代人馬施行所ともいう) 跡で、茅葺屋根の建物が復元されている。文政11年(1828年)江戸呉服町の豪商・かせや与兵衛(中村有隣)から幕府へ多大な寄付金があり、これを元に和田宿へ50両が下附され、和田峠を越える旅人のためにこの施行所が設けられた。冬期には旅人に粥や焚火を提供し、牛馬には年中小桶一杯の煮麦が与えられた。

接待茶屋内部
接待茶屋内部。

殉職警察官近藤谷一郎巡査之碑
接待茶屋のすぐ先にある殉職警察官近藤谷一郎巡査之碑。明治22年(1889年)近藤谷一郎という警察官が護送中に逃走した犯人を捕まえようとこの付近の谷川で格闘となり、腹部を刺され殉職した。

再び山道へ
国道を離れ再び山道へ入る。

和田峠旧道
近年整備されたものであろうか、一部石畳が敷かれている。
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和田峠越え④

和田峠旧道
これも去年の大雨の被害であろうか、土砂が崩れたらしく山肌を丸太で補強している。

和田峠旧道
避難小屋まで500m。

近藤谷一郎巡査殉職の地
前述した近藤谷一郎巡査が殉職した場所。

和田峠旧道にて
何という花であろうか。ハート形の花びらがカワイイ。道の真ん中にポツンと咲いていた。

和田峠旧道
ポツリポツリと雨が降りはじめる。曇天の空は低いうえに灰色は濃さを増す。お願いだからカミナリだけは勘弁して・・・と、ひとり山中でつぶやく。

避難小屋
避難小屋に着く。ここで少々休憩。みるみるうちに雨足が強くなってくる。
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和田峠越え⑤

和田峠旧道
古そうな石畳道が現れる。江戸期のものであろう。しかし土が剥げ落ちてしまっているうえに雨で滑りやすく歩きにくい。

旧道筋の渓流
いくつかの渓流を渡りながら峠を目指す。

広原一里塚
広原の一里塚跡。ガイドブックには東餅屋一里塚とある。日本橋から52里目(約204km)の一里塚。

湿原キャンプ場
旧中山道は湿原キャンプ場の横を進む。雨が一段と強くなり炊事場で雨宿り。

和田峠旧道
雨の中の強行軍。きれいに舗装された石畳の道を歩く。

ロッジ和田峠
ロッジ和田峠の看板を見ると国道に合流する。
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和田峠越え⑥

ドライブイン東餅屋
国道を進むと間もなくドライブイン東餅屋に至る。この一帯はかつて5軒の立場茶屋があり、人馬に休息場所を提供する傍ら名物の力餅を売っていた。幕末には大名の休息所である茶屋本陣も置かれ土屋家が務めた。現在は付近の所々に石垣が残るのみである。

名物力餅
ちょうど小腹も空いてきたし雨も本降りとなってきたのでドライブインで休憩。店内には和田峠特産の黒曜石も売られている。店の主人と談笑を交えながら名物の力餅をいただく。1時間程前この雨の中、4人のグループが峠を目指してここを発ったという。「今頃西餅屋くらいまで行ったのかなぁ・・・峠から先は道が悪いからこの雨じゃ大変だよ。おにいちゃんは若いから大丈夫だよ。」と店の主人。それほど若くはないんだけどなぁ・・・

和田峠旧道
雨が小降りになってきたところでドライブインを後にする。国道から石畳の道を行くと再び現れた国道を渡って山道に入る。

和田峠旧道
車道の下をトンネルで潜り抜ける。

和田峠旧道
美ヶ原と霧ケ峰を結ぶビーナスラインと交差する。

和田峠旧道
再びビーナスラインと交差する。
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和田峠越え⑦

和田峠旧道
ビーナスラインと3度目の交差。ここは開削して車道を通したようで、旧道がプッツリと途切れている。蛇行しながら山を上っていく車道を嘲笑うかのように、旧道はほぼ直線状に最短距離を進んでいるので、これだけ何度も交差を繰り返す。

和田峠まで600M
和田峠まで600M。峠は近い!雨も傘がいらない程の小降りとなり歩みも軽快に。

和田峠旧道
熊笹の生い茂る道を上る。

和田峠スキー場
左手に垣間見えるのは和田峠スキー場。

和田峠(古峠)
ついに和田峠(古峠)に到着。ここは標高1600m、中山道の最高地点。今じゃ人っ子一人いない古峠であるが、昔は大名行列をはじめ牛馬を曳く馬子や旅人等、多くの人々が往来し賑わったのである。晴れた日には遠く御嶽山や木曽駒ヶ岳を望めるというが、さすがに今日の天気ではその姿を拝むこともできず、残念無念。しかし、ここを行き交った人々に思いを馳せながら雲に霞む下諏訪の町を望むだけでも気分は上々だ。

賽の河原
峠付近には賽の河原と呼ばれる場所があり、この一帯は草もわずかで中小の石がごろごろしている。三途の川にある河原を賽の河原というが、ここにはそれらしき川も流れておらず何故こう呼ばれるようになったのであろう。そもそも現世と冥途の境を流れる三途の川など、この世の人間に見えるはずもないのだが・・・昔の人はこの場所に冥途をイメージしたのであろうか。真相は謎である。
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和田峠越え⑧

和田峠旧道
峠からは下諏訪宿へ向けて下り道を行く。

和田峠旧道
賽の河原を横切る。

和田峠旧道
道幅が狭いうえに雨で路盤も緩んでいるので滑らないように一歩一歩注意して歩く。

和田峠旧道
急坂を蛇行しながら旧中山道は峠を下りていく。

水呑場
途中、水呑場なるものが!石桶の隣にあるのは地蔵であろうが、ともに苔で見事なまでに覆われている。長い間ここに置かれているのであろう。苔のむすまで・・・とはまさにこのこと。

石小屋跡
石小屋跡。下原村の勝五郎が安政2年(1855年)旅人の避難場所と荷置場を供するために築いた。かなり大規模のものだったようだが、現在は写真を見ての通り石垣の一部が残骸の如く残されているだけである。
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和田峠越え⑨

和田峠旧道
ぬかるんだ道には雨水が流れ一段と悪路に。

和田峠旧道
国道を横断する。

和田峠旧道
人ひとりがやっと歩けるほどの獣道を行く。

和田峠旧道
急坂を下って再び国道を横断する。

西餅屋茶屋跡
木漏れ日の薄暗い山道を下り視界が開けると西餅屋茶屋跡に到着。ここも東餅屋と同様、立場(人馬の休息所)が置かれていた。小口家と武居家が茶屋本陣を務め、他に犬飼家、小松家の4軒があった。幕末に京都へ向かう水戸天狗党を高島・松本両藩が防戦した砥沢口合戦(和田嶺合戦、樋橋合戦ともいう)で一時焼失したが、すぐに再建された。現在は茶屋の石垣と曲之手(道の直角な曲り)が残っている。

和田峠旧道
茶屋跡を過ぎると三度目の国道横断。ガードレールの切れ間から森林の中へ。
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和田峠越え⑩

西餅屋一里塚
西餅屋一里塚。江戸日本橋から53里目(約208km)の一里塚。

和田峠旧道
一里塚から先は滑落に注意して歩く。

和田峠旧道(垂木坂)
これは右上部にあった垂木岩が崩壊したものらしい。江戸時代には桟が架けられた難所だったという。

和田峠旧道
危険地帯を抜けて平穏を取り戻した旧中山道。ぬかるんだ土をしっかりと踏みしめながら先へ。

和田峠旧道
林道御堂ヶ峰線入口で国道に合流。ここから先の旧道は藪の中に消失し辿ることが困難なので国道を素直に下りて行く。

ホウロク沢
濁流のホウロク沢を渡る。旧道は国道のほうろく橋から数メートル下流付近で渡河していたようだ。
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和田峠越え⑪

国道142号長坂
国道142号の狭い歩行帯を下る。横を大型トラックが勢いにのって過ぎ去るのでかなり怖い。ここはダッシュで駆け抜ける。

国道142号長坂
「水戸浪士の墓」の案内板が立つ所で左の道に国道を離れる。旧道はここから直線に降って砥沢橋へ向かっていたが、フヨーライト鉱業の工場敷地内に消失する。ここは迂回して国道の下を潜り浪人塚へ向かう。それにしてもこの国道は中部北陸自然歩道に指定されているにもかかわらず歩行者には危険極まりない道である。旧道の復元もしくは歩道の設置を願いたい。

浪人塚
浪人塚。元治元年(1864年)砥沢口合戦(和田嶺合戦、樋橋合戦)で討死した水戸浪士が葬られている。

砥沢橋
浪人塚から再び国道の下を潜り抜け砥川を渡ると、右の信州ペット霊園を挟んだ眼下に砥沢橋が見え旧道が出現する。間もなく山の神の小さな社を左に見て旧道と合流し国道へ。

樋橋集落
国道を少し歩き左の道へ離れるとかつて立場が置かれた樋橋集落。今は静けさの漂う集落だが、幕末には砥沢口合戦の舞台になった場所だ。

樋橋茶屋本陣跡
小松家が務めた樋橋茶屋本陣跡。かつては御殿と呼ばれる小建築もあり、和宮嫁下の際には御小休所になった。
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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