
相楽が下諏訪に戻った時、すでに時遅しの感は否めない。追分戦争が勃発したことにより新政府の嚮導隊に対する態度は明らかであった。抹殺である。既に先遣隊は壊滅しており捕縛された西村や大木はほうほうの体で本隊に戻ったものの、金原は捕縛の際に負った傷が致命傷となり自害していた。そして東山道総督府の岩倉具定(岩倉具視の次男)が下諏訪宿本陣に入ることになったため、相楽は本陣を退去して近くの茶屋本陣のある樋橋へ嚮導隊を率いて移動する。そして岩倉が本陣に入った翌日、相楽のもとへ東山道総督府から軍議のため本陣へ出向くよう命令が下る。相楽は隊士らの反対を押しきり、大木を伴って下諏訪へ向かうのである。
この時相楽は既に覚悟を決めていたのであろう。軍議などは真っ赤な嘘で、抵抗する大木を制止しておとなしく捕縛されてしまうのである。そして樋橋に残る隊士たちにも下諏訪へ出向くよう東山道総督府から書状が届く。隊士たちは相楽の添え書きがあったのでこれを信じ下諏訪へ入るが、一網打尽に捕らえられてしまう。相楽をはじめとする隊士たちは冷たい雨が降る中、諏訪大社下社秋宮の杉の大木に縛られ、飢えと寒さに耐えながら夜を明かす。何故捕らわれることになったのか合点のいかない隊士らはわめき叫んだが、相楽だけは微笑を浮かべながらひたすら黙していたという。そして相楽をはじめとする幹部8名は宿場はずれの諏訪湖を望む田畑の中に引ったてられるのである。
西村、大木・・・何の弁明の余地もなく次々に幹部7名は首を刎ねられ、そして最後に相楽の首が飛ぶ。慶応4年(1868年)旧暦3月3日のことだった。この様子は図書館報に詳しいので是非読んでいただきたい。相楽は最期まで慄然とする素振りもみせず、その態度に介錯人は恐れおののき一度は仕損じたという。この時落ちた髪が遺髪となり、死後、相楽らの濡れ衣を晴らすきっかけとなるのである。
ここで私は一つの疑問を抱いた。戊辰戦争の引き金となる江戸市中の撹乱工作という薩摩藩の汚れ役を買って出た相楽を西郷や大久保は何故かばわなかったのか?相楽が大垣へ弁明に赴いたとき、まがりなりにも薩摩藩委任の沙汰書を得ているにもかかわらずである。それともかばえない理由があったのか。撹乱工作では放火、強盗など江戸庶民の反感も大いに買ったであろうから、薩摩藩としての体裁を保つために相楽を犠牲にせざるをえなかったのか。捕縛された後の相楽の態度が事実だとすると、相楽はこの時すべてを悟っていたのであろう。
宿場を少し外れた中山道沿いにこの刑場跡といわれる場所がある。現在は市街地の一角となっているが、ここは魁塚(相楽塚)と呼ばれ、処刑から2年後の明治3年(1870年)かつての同士や有志によりに建立された墓である。ここに来てまず感じたのは相楽の屈辱と無念の思いである。偽官軍という屈辱、それが仕組まれてのことだから尚更無念であったろう。ここで相楽らは何を考え何を思い命を絶たれたのか・・・。墓の両脇に建っている贈正五位相楽総三と贈従五位渋谷総司の碑がせめてもの救いである。
その生涯をかけて相楽の汚名を晴らすべく奔走したのが木村亀太郎という人物である。木村は相楽総三の孫にあたり、12歳のとき東京の自宅にあった神棚から血のついた遺髪を発見し、祖父が偽官軍の汚名を着せられ斬首となったことを知る。それから7、8年経った大正元年(1912年)木村は初めて下諏訪を訪れる。意外にも下諏訪の人々が相楽を好人物と見ており、死後しばらくの間、命日である4月3日(新暦)に相楽祭が行われていたことを知り驚いた。この時木村は祖父が冤罪で刑死したこと確信したのであろう。それから東京に戻った木村は赤報隊関係の資料を集めることに奔走する。そして大正7年(1918年)苦労しながらも相楽祭を再興させ、御贈位の請願準備にとりかかる。しかし1度目は採択にすらかからず、2度目も渋沢栄一子爵の協力を得るも成らず、ようやく請願が叶うのは昭和時代まで待たねばならない。ここでは簡単に書いているが、挫折を繰り返しながら並々ならぬ努力があったことは言うまでもない。昭和3年(1928年)政府により名誉回復が決定され、維新の功により相楽に正五位が贈られたのをはじめ、隊士9名に贈位があった。ここに偽官軍としての汚名が晴らされたのである。相楽が刑死してから62年後のことであった。
かいつまんでのつもりが随分と長文になってしまいました。ご容赦を・・・
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