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和田峠越え⑫

国道142号
樋橋茶屋本陣跡から国道142号を横断すると薬師堂があり、ここから先の旧道は消失する。国道を進み石材置場の先、右に下りる道から深沢川まで旧道を辿ることができるようだが、ここは素直に国道を歩く。

石材店の中山道道標
途中、高木石材工業に真新しい中山道の道標が置かれている。

樋橋の一里塚跡付近
深沢川を渡ると国道の右下にある産廃処分場の右横に旧道の道筋があり樋橋の一里塚跡もあるようだが確認できず。というかしなかった。かなり疲労困憊。

なんだキミは!
少しだけ国道右下の道に降りてみると・・・「なんだキミは!」と言わんばかりに三毛猫にガンを飛ばされる。スゴスゴ・・・

模擬御柱
屋敷バス停から左の道へ国道を離れ、住宅街の中の坂を上っていくと模擬御柱を見つける。ここが有名な諏訪大社御柱祭の木落し坂。御柱祭は7年に1度の大祭で、次は平成22年に行われる。

木落し坂
木落し坂を覗いてみる。かなりの急斜面だ。この坂を男意気に駆られた若者たちが御柱に跨って一気に引き落とされ転げ落ちていく。テレビで見たことはあったが、実際にこの場に立ってみるともの凄いことだと実感。旧中山道はこの坂下を通っていた。
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和田峠越え⑬

芭蕉句碑と道祖神
木落し坂を降りる。国道との合流地点に芭蕉句碑と道祖神が置かれている。
雪散るや穂屋の薄の刈り残し

落合発電所
すぐ近くにある落合発電所。東俣川と砥沢川の川水を利用した水力発電所で、明治33年(1900年)から現在まで諏訪地方に電力を供給し続けている。

落合橋
落合橋を渡らずに左の道へ。

注連掛
注連掛(しめかけ)にある広場。木落し終えた8本の御柱をここで休め奉り、下社春宮・秋宮へ里曳きされる。

砥川
砥川に沿って国道を先へ。

白鷺山
途中、霊験あらたかな白鷺山なるものが。

下諏訪と諏訪湖
ついに下諏訪の町と諏訪湖が眼前に広がる。

諏訪大社下社春宮
諏訪大社春宮に到着。 諏訪大社は諏訪湖を挟んで南側に上社(本宮と前宮)、北側に下社(春宮と秋宮)の4宮があり、ここはそのうちの一つ春宮である。

長い長い峠越えもようやく終わった。疲労困憊の足をひきずりながら、とぼとぼと下諏訪宿の中を歩き下諏訪駅へ向かう。駅前のチャボ食堂でチャボかつ丼なるものを食べる。東餅屋の力餅以来何も食べていなかった腹ペコの自分には涙が出るほど美味かった!この辺りはカツ丼というとソースが主流なようだ。
18時55分発のスーパーあずさ34号に乗車し新宿へ向かう。車内で飲むビールは格別に美味く、そのうち夢の中へ・・・

【第18日目】踏破距離 約21.6km(和田宿→下諏訪宿) 日本橋から217.7km 京都まで316km
祝200km超え!しかし、まだまだ先は長い・・・
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下諏訪宿

万治の石仏



【第19日目】6月24日(日) 下諏訪宿→塩尻宿



下諏訪駅にて
早朝7時30分新宿発のあずさ3号に乗車。都会から山里へ変わりゆく車窓を眺めながら、車内販売のバーべQ弁当で朝食を済ませる。定刻通り10時ちょっと過ぎに下諏訪駅に到着。日本列島は梅雨に入り、諏訪の天気もご多分にもれず、雨・・・。駅を出ると静かな町の中にカッコーカッコーとカッコウの鳴き声が響き渡る。そのうちカッコーカッコーがアッホーアッホーのようにも聞こえ、こんな日に無謀にも塩尻峠を越えようかという自分に言われているような気がしてくる・・・しかし、ここまで来たら何もせずにすごすごと帰るわけにはいかない。
諏訪大社下社春宮と御柱
まずは諏訪大社春宮で前途多難な今日の道中の安全祈願を済ませ、近くにある万治の石仏を見に行く。この石仏は昔、浮島の阿弥陀様と呼ばれ、それほど世間では認知されていなかったが、芸術は爆発だ!でお馴染みの芸術家、故・岡本太郎氏が「世界中歩いているがこんな面白いものは見たことがない」と絶賛したことがきっかけで一躍有名になった。それから「万治3年(1660)11月1日」の文字が彫られていたことから、万治の石仏と呼び親しまれるようになった。巨石の体にちょこんと頭をのせた風体もさることながら、大きな鼻をもつ顔の表情もユーモラスで、確かに印象的な石仏である。
龍頭水口
境内を抜けて旧中山道に歩みを戻し竜の口と呼ばれる場所まで来る。慈雲寺の石段脇には龍頭水口という見事な龍の彫刻があり、口からはこんこんと清水が落ちる。これは江戸時代中期の作で、慈雲寺の参拝者や中山道を往来する人々の喉を潤すために供されたという。
慈雲寺の長い石段を上っていく。途中、風林火山の幟がはためく所で男の子が一人つまらなそうに腰を降ろしている。ここから右に入った所には信玄ゆかりの矢除石があり、ツアーの一行が熱心に案内人の話を聞いている。信玄なんて知らない子供にはつまらないのかな・・・
慈雲寺石段にて
更に石段を上り慈雲寺を見学。再び石段を降りて男の子にバイバイと別れを告げ竜の口を後にする。下之原一里塚跡と諏訪大社の末社で御作田祭(御田植神事)が行われる御作田社を過ぎると、街道情緒が漂う町並みとなってくる。路傍には風林火山や信州諏訪の幟が立ち並び、NHK大河ドラマの舞台として町をあげてアピールしていることが伝わってくる。ここ諏訪は武田勝頼の生母、由布姫が生まれ育った場所である。ちなみに由布姫の名は原作者である井上靖の創作で、新田次郎の小説「武田信玄」では湖衣姫という。実名は不明で正式には諏訪御料人と表記される。
「旦過の湯」の先から緩やかに坂を上っていく。坂上に達すると本陣や脇本陣、問屋が置かれた宿場の中心へと入っていく。
下諏訪町湯田町
下諏訪宿は江戸日本橋から29番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口1345人、家数315軒、本陣1、脇本陣1、旅籠40軒の信州最大規模の宿場町。中山道と甲州街道の合流地点に位置し交通の要所として、また諏訪大社下社の門前町として繁栄した。中山道の前後には和田峠と塩尻峠が控え、また古くから温泉地であったことから多くの旅人が旅装を解いたことであろう。本陣は代々岩波家が務め、今も子孫の方が本陣の跡地に居住されている。また本陣遺構が一部残っており内部公開されている。
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下諏訪宿本陣・岩波家

下諏訪宿本陣正門.
下諏訪宿本陣正門。

本陣に残される関札
本陣に残される関札。

本陣客室と庭園
京風数寄屋造りの和室からは中山道随一の名園と称された庭園が眺められる。

日本橋からここ下諏訪宿まで29宿を訪ねたが、宿場本陣の内部を見学するのは初めてのことである。本陣建築の大半は失われ、部屋が残っている場合でも住居として使われている等、原則非公開で内部を見学する機会はなかった。上豊岡と五料にある茶屋本陣が一般公開され、芦田宿本陣は事前に連絡すれば見学可能ではあったが、大名の宿泊所として使われた由緒ある室内を数百円払えばいつでも見学できるのは有難いことである。岩波家のご厚意には頭が下がる思いだ。
綿の湯
もともと岩波家の隣にある温泉旅館「聴泉閣かめや」も本陣の敷地で、寛政12年(1800年)の記録によると建屋277坪、敷地1865坪の大規模なものだった。聴泉閣かめやは明治初期に岩波家本家から分家した子孫の方が経営されており、上段の間をはじめ、島崎藤村が宿泊した富士の間なる特別室があり歴史と伝統の息づく老舗旅館である。旅館前には古の昔から湧き続ける「綿の湯」の源泉があり、諏訪大社の祭神・建御名方神(たけみなかたのかみ)のお妃、八坂刀売神(やさかとめのかみ)の伝説を今に伝える。旅館の温泉はこの湯を引いており、一度は宿泊してゆっくりとこの湯に浸かってみたいものだ。
諏訪大社下社秋宮
「綿の湯」の前には脇本陣と旅籠を兼ねていた「御宿まるや」が今も旅館を営んでいる。出し梁格子造りの建物は真新しい。中山道はここと温泉旅館「桔梗屋」の間から右折する。直進する道は甲斐を経て江戸へ向かう甲州街道だ。中山道を離れて甲州街道を少し歩き、諏訪大社下社秋宮に寄る。春宮に次いでここでも道中の安全をはじめ、諸事色々と祈願して境内を散策。天に向かって立つ御柱や神楽殿、幣拝殿を見学する。そしていつか甲州街道を歩いて再びここを訪れたいと思いながら中山道に歩みを戻した。
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相楽総三と赤報隊①

下諏訪町歴史民俗資料館

宿場内にある歴史民族資料館を訪ねる。明治初年建築の旧商家を利用したこの建物は二階窓に縦繁格子を入れ、大戸から中へ入ると通り庭という土間が裏庭へ続き、入口脇には見世と呼ばれる広い板の間がある。この現代では考えられないほどの開放的な間取りは典型的な宿場の町屋造りである。資料館の方に聞いたところによると、当初は旅籠として建てられたが結局開業には至らず、商家として使われたとのことだ。
諏訪清陵高校の図書館報
資料館では明治維新の犠牲となった草莽隊の一つである赤報隊の展示がされており、これには思わず見入ってしまった。相楽総三や赤報隊の名を聞いたことはあったが、その成り立ちや群像等はほとんど知らなかった。幸いにも諏訪清陵高校の生徒たちが平成11年に発行した「赤報隊埋もれた歴史」と題する図書館報のコピーを資料館で頂くことができた。高校生がよく調べたものだと感心するほど内容は充実しており、文章もよくまとめられておりすばらしい。せっかくなのでかいつまみ加筆したうえで相楽総三と赤報隊について紹介する。

相楽総三(本名:小島四郎左衛門将満)は天保10年(1839年)下総の裕福な郷士であった小島兵馬の四男として東京は赤坂に生まれる。幕臣酒井錦之助の教育を受け兵学と国学に秀でた文武両道の士として育つ。22歳頃には200人にも及ぶ相楽を慕う弟子がいたという。後に尊王攘夷論の支柱となった国学者平田篤胤に影響を受け、安政の大獄と桜田門外の変の報に衝撃を受けると、攘夷論を引っ提げて平田篤胤ゆかりの地である出羽の久保田へ赴き同志を募る。この頃信州尊王攘夷派の中心人物であった国学者飯田武郷を諏訪に訪ねている。元治元年(1864年)には水戸浪士過激派の筑波山挙兵(天狗党の乱)に加わるが、水戸藩の内部抗争の様相となってきたのを見て失意のうちに下山した。慶応元年(1865年)雲州松江藩主松平家に仕える渡辺家の娘を嫁に迎え、翌年慶応2年(1866年)には男子をもうけた。この年、日本の将来を憂い「華夷弁論」を著すと、薩長同盟を結んだ勤王倒幕派に認められ薩摩藩の西郷や大久保に近づく。

慶応3年(1867年)大政奉還と王政復古の大号令により徳川慶喜に政権を返上させるが、倒幕の大義名分を失ってしまい、依然旧幕府の勢力は江戸に残ってしまうことになる。あくまで勢力一掃を目指す西郷や大久保、倒幕派公家の岩倉にとっては不愉快なものであった。そこで西郷らは一計を投じる。旧幕府への挑発行為を繰り返すことで、こちら側を攻撃させ旧幕府軍征伐の機会を得ようとしたのだ。そこで暗躍したのが相楽総三であった。相楽は500人もの同志を集め薩摩藩邸浪士隊を結成し関東で一揆を扇動する一方、江戸市中の撹乱工作を繰り返した。ついに激昂した旧幕府側は浪士隊の根拠と目される薩摩藩邸を焼き討ちにする。これを戦端に戊辰戦争へと突入していくわけである。
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相楽総三と赤報隊②

相楽ら浪士隊は江戸湾から翔鳳丸をのっとり脱出。伊豆小浦、紀州九鬼を経て兵庫で上陸し京都へ向かう。既に京都では鳥羽伏見の戦いが始まっており、新政府軍を指揮していた西郷と会う。西郷は相楽の手を取って涙を流して感謝したという。そして江州(現在の滋賀県)で公家の綾小路俊実、滋野井公寿らの一行と合流し、近江国松尾山の金剛輪寺で挙兵。慶応4年(1868年)1月、「赤心をもって国恩に報ぜん」から名付けられた赤報隊はここに誕生する。東海道鎮撫先鋒を命ぜられた赤報隊は3隊で編成し、相楽は江戸以来の相楽派同志を率いた一番隊隊長を任せられ、二番隊隊長は元新撰組で御陵衛士だった鈴木三樹三郎、三番隊隊長を水口藩士の油川錬三郎が務めた。相楽はこれを機に旧幕府領の年貢軽減を建白し、朝廷から年貢半減令布告の許可を得ている。

進軍するにあたり旧幕方であった東海道の桑名城(現三重県桑名市)を目指したが、桑名藩は抗戦か恭順かで内部分裂していたので戦わずとも城は落ちるとの確信があり、東海道軍とは合流せずに信州へ進んで甲州(現山梨県)を鎮撫してから東征軍本隊と協力する作戦をとる。先鋒として相楽の一番隊は年貢半減の高札を掲げ、民衆の支持を得ながら進軍する。二番隊、三番隊も後に続くはずだったが、病のため松尾山に滞在していた滋野井の一派が赤報隊士と称して強盗をしただの、赤報隊は官軍本営の命令を無視して進軍しているといった悪い風聞が広がりはじめたため、官軍本営から東海道軍と合流するよう命令が下る。綾小路は命令に従い二番隊、三番隊を率いて名古屋へ向かった。滋野井の一派も綾小路らと合流しようとしたが、四日市で捕縛される。しかし相楽は命令を聞き入れず進軍を続けた。

赤報隊に対する悪い風聞は新政府が意図的に流したものらしい。当時黒幕は岩倉具視であるとみている者も多かった。相楽に年貢半減令布告を許可したものの、新政府の財政は窮乏しており実現することは不可能であった。相楽の強い信念に押され民意を味方につけるには上策だと安易に布告を許可してしまった感がある。しかし相楽ら赤報隊がこれを武器に農民層を味方につけていく様を見て、あまりの反響の大きさに驚いたのであろうか。また多大な借金をしていた豪商三井家の反発もあったといい、新政府は密かに年貢半減令を取り消してしまう。そして赤報隊の悪い風聞を流し、偽官軍の汚名を着せることによって年貢半減令はでっち上げであるという事実を作り出し、新政府に対する民衆の信用を守ったのである。いかにも岩倉らしい謀略にみえる。

相楽はこの不穏な空気に薄々気付いていたのであろうか、はたまた関東の要所である碓氷峠を抑えるか甲州を鎮撫する戦果をあげれば認められると思ったのであろうか、相楽率いる赤報隊は嚮導隊と名を改め、再三の帰還命令を無視して進軍を続ける。そして甲州街道と中山道の分岐点である下諏訪に到着し本陣に逗留すると、要所碓氷峠を抑えるべく地理に明るい桜井常五郎を隊長に金原忠蔵や西村謹吾、大木四郎らを幹部とする約70名の北信分遣隊を組織し先発させた。分遣隊は小諸藩、上田藩から献金を取り陣屋を接収しながら進軍し、ついには碓氷峠を占拠する。しかし順調に事が運んだのはここまでだった。その数日前に東山道総督府より官軍と偽る嚮導隊を取り押さえるよう信濃諸藩に通達が出されていたのである。

捕縛の通達が出されていることを知った分遣隊は碓氷峠を下り、軽井沢宿、沓掛宿、追分宿に分宿していた。そこを信濃諸藩兵に急襲される。根拠地であった追分宿の大黒屋は小諸藩兵の攻撃を受け、金原は深手をを負いながら捕縛され、他の宿場にいた西村や大木も捕縛される。桜井にいたっては意見の相違から碓氷峠で既に隊を離れていたが、この一事を知り逃亡するも結局捕えられる。追分戦争と呼ばれるこの戦いで分遣隊は壊滅状態となり、死者9名、捕縛者45名を出す始末となった。一方、この時期相楽は大垣に滞在していた東山道総督府へ命令違反の弁明のため出頭していた。おそらく嚮導隊捕縛の通達や追分戦争のことなど知る由もなかったであろう。下諏訪へ帰隊するのは追分戦争から6日後のことであった。
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相楽総三と赤報隊③

魁塚(相楽塚)にて

相楽が下諏訪に戻った時、すでに時遅しの感は否めない。追分戦争が勃発したことにより新政府の嚮導隊に対する態度は明らかであった。抹殺である。既に先遣隊は壊滅しており捕縛された西村や大木はほうほうの体で本隊に戻ったものの、金原は捕縛の際に負った傷が致命傷となり自害していた。そして東山道総督府の岩倉具定(岩倉具視の次男)が下諏訪宿本陣に入ることになったため、相楽は本陣を退去して近くの茶屋本陣のある樋橋へ嚮導隊を率いて移動する。そして岩倉が本陣に入った翌日、相楽のもとへ東山道総督府から軍議のため本陣へ出向くよう命令が下る。相楽は隊士らの反対を押しきり、大木を伴って下諏訪へ向かうのである。

この時相楽は既に覚悟を決めていたのであろう。軍議などは真っ赤な嘘で、抵抗する大木を制止しておとなしく捕縛されてしまうのである。そして樋橋に残る隊士たちにも下諏訪へ出向くよう東山道総督府から書状が届く。隊士たちは相楽の添え書きがあったのでこれを信じ下諏訪へ入るが、一網打尽に捕らえられてしまう。相楽をはじめとする隊士たちは冷たい雨が降る中、諏訪大社下社秋宮の杉の大木に縛られ、飢えと寒さに耐えながら夜を明かす。何故捕らわれることになったのか合点のいかない隊士らはわめき叫んだが、相楽だけは微笑を浮かべながらひたすら黙していたという。そして相楽をはじめとする幹部8名は宿場はずれの諏訪湖を望む田畑の中に引ったてられるのである。

西村、大木・・・何の弁明の余地もなく次々に幹部7名は首を刎ねられ、そして最後に相楽の首が飛ぶ。慶応4年(1868年)旧暦3月3日のことだった。この様子は図書館報に詳しいので是非読んでいただきたい。相楽は最期まで慄然とする素振りもみせず、その態度に介錯人は恐れおののき一度は仕損じたという。この時落ちた髪が遺髪となり、死後、相楽らの濡れ衣を晴らすきっかけとなるのである。

ここで私は一つの疑問を抱いた。戊辰戦争の引き金となる江戸市中の撹乱工作という薩摩藩の汚れ役を買って出た相楽を西郷や大久保は何故かばわなかったのか?相楽が大垣へ弁明に赴いたとき、まがりなりにも薩摩藩委任の沙汰書を得ているにもかかわらずである。それともかばえない理由があったのか。撹乱工作では放火、強盗など江戸庶民の反感も大いに買ったであろうから、薩摩藩としての体裁を保つために相楽を犠牲にせざるをえなかったのか。捕縛された後の相楽の態度が事実だとすると、相楽はこの時すべてを悟っていたのであろう。

宿場を少し外れた中山道沿いにこの刑場跡といわれる場所がある。現在は市街地の一角となっているが、ここは魁塚(相楽塚)と呼ばれ、処刑から2年後の明治3年(1870年)かつての同士や有志によりに建立された墓である。ここに来てまず感じたのは相楽の屈辱と無念の思いである。偽官軍という屈辱、それが仕組まれてのことだから尚更無念であったろう。ここで相楽らは何を考え何を思い命を絶たれたのか・・・。墓の両脇に建っている贈正五位相楽総三と贈従五位渋谷総司の碑がせめてもの救いである。

その生涯をかけて相楽の汚名を晴らすべく奔走したのが木村亀太郎という人物である。木村は相楽総三の孫にあたり、12歳のとき東京の自宅にあった神棚から血のついた遺髪を発見し、祖父が偽官軍の汚名を着せられ斬首となったことを知る。それから7、8年経った大正元年(1912年)木村は初めて下諏訪を訪れる。意外にも下諏訪の人々が相楽を好人物と見ており、死後しばらくの間、命日である4月3日(新暦)に相楽祭が行われていたことを知り驚いた。この時木村は祖父が冤罪で刑死したこと確信したのであろう。それから東京に戻った木村は赤報隊関係の資料を集めることに奔走する。そして大正7年(1918年)苦労しながらも相楽祭を再興させ、御贈位の請願準備にとりかかる。しかし1度目は採択にすらかからず、2度目も渋沢栄一子爵の協力を得るも成らず、ようやく請願が叶うのは昭和時代まで待たねばならない。ここでは簡単に書いているが、挫折を繰り返しながら並々ならぬ努力があったことは言うまでもない。昭和3年(1928年)政府により名誉回復が決定され、維新の功により相楽に正五位が贈られたのをはじめ、隊士9名に贈位があった。ここに偽官軍としての汚名が晴らされたのである。相楽が刑死してから62年後のことであった。

かいつまんでのつもりが随分と長文になってしまいました。ご容赦を・・・
清陵図書館報はこちら↓
http://www.suwaseiryo.jp/seiryohs/tosyo/toshokanpou.html
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下諏訪宿から四ツ谷立場跡へ

茶屋本陣・今井家

旧中山道(砥川付近)
下諏訪宿が次第に遠のき魁塚を過ぎると、大きな石灯篭がある交差点を横断する。ここで右に見えるのは諏訪大社下社春宮の参道に跨る大鳥居。そこから更に住宅街の中へ進み西弥生町公会所を過ぎると、砥川を目前にして民家に進路を阻まれる。と、思ったら民家と民家の間の狭い路地に、かろうじて道が砥川の堤防まで続いていた。中に入ってもいいのかなと思いながらもここを歩き、堤防に出て上流側にある富士見橋を渡る。対岸に渡ると丸茂ボデーの横から幅1m程の砂利道となって旧道が姿を現すのでここを歩く。西大路口交差点を右に見て車道を横断すると、車一台がやっと通れる程の舗装された道になり、歩みを進めて行くごとに道幅が広がって行く。そして十四瀬川に架かる木橋を渡れば下諏訪市から岡谷市に住所は変わる。
旧渡辺家住宅
岡谷市に入ったところでコーポハナオカというアパートの前にある自販機で缶コーヒーを買い一服。意気揚々と歩みはじめたところで、みるみるうちに雨が本降りとなってくる。この辺りの地名は長地柴宮(おさちしばみや)、わずかながらも上り坂になっていることに気づく。そして民家の庭先に手作りの何とも温かい「中山道 江戸」の看板を見て、すぐ先の路地を左に入ると長野県宝の旧渡辺家住宅がある。渡辺家は代々諏訪高島藩に仕えた郷士で、この住宅を生家にして渡辺千秋宮内大臣と渡辺国武大蔵大臣の兄弟を輩出した。住宅は18世紀中頃の建築と推定され、茅葺屋根・寄棟造りの建物は現存する武士居宅として大変貴重なものである。内部公開しているのであるが、残念なことに下諏訪宿散策に時間を費やしてしまい、内部を見学する時間が取れなかった。次の機会を作りたい。
「右中仙道 左いなみち」伊那道との追分にある道標
旧中山道に歩みを戻し、おひぎりさまで親しまれる日限地蔵尊の平福寺辺りから街道筋は見事な生垣集落を形成する。途中、長地東堀交差点角に「右中仙道 左いなみち」の道標がある。左折する道は伊那谷から飯田を経て中山道妻籠宿へ出るかつての伊那道であるが、ここから小野峠と牛首峠を越えて贄川宿付近(桜沢)に通じていた初期の中山道の道筋でもあった。峠を2つも越えなければならない難所であったため、慶長19年(1614年)塩尻峠越えの道筋に付け替えられた。この交差点を直進し、生垣集落が途切れた所で国道20号を横断すると、一里塚跡を示す石碑がポツンと路傍に置かれている。東堀の一里塚跡で江戸日本橋から56里目(約220km)の一里塚。遺構は何も残されていない。この辺りから前方に雲のたちこめる山々が不気味に迫ってくる。降りしきる雨の中、あの山を越えなければならないのかと・・・不安にかられてくるのである。
今井集落
やがて横河川大橋で横河川を渡る。そのまんまの橋名もどうかと思うが、大橋と言ってしまってよいのかと勝手な心配をしてしまうほどの普通の橋である。そんなことはどうでもいい。ようやく塩尻峠を目前に控える今井集落に入る。旧街道の雰囲気が漂う今井集落はかつての四ツ谷立場跡で、現在も数件の茶屋跡の建物が残る。西外れには茶屋本陣を努めた今井家があり、堂々たる門構えの向こうに見える家屋は、らしさを感じさせる立派なたたずまい。皇女和宮はもちろんのこと、明治天皇も御小休になられた由緒ある場所である。今井集落を抜ければ、本格的な上り坂となってくる。いよいよ塩尻峠越えのはじまりだ。
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塩尻峠越え①

今井の中山道道標
今井集落を出ると、まずは中山道道標に出会う。
「右しもすは 左しほじり峠」

降りしきる雨の中、いざ塩尻峠へ
降りしきる雨の中、いざ塩尻峠へ。

塩尻峠旧道
しんかい跨道橋で国道20号を渡ると、旧中山道の案内板があるのでこれを頼りに歩みを進める。大した問題ではないが、”しんかい”の漢字がわからない。おそらく新しく開いたということで新開なのか?

塩尻峠旧道②
左に目を向けると長野自動車道や岡谷ICが眼下に見える。沿道の民家も徐々に少なくなり、雲のかかる山中へ。

石船観音
馬頭観世音を祀る石船観音。ガイドブックによると足腰の弱い人の信仰を集めているという。それを物語るようにたくさんのわらじが奉納されている。下諏訪あたりからここまで歩いて来るだけでも足腰は強くなるような・・・ましてや塩尻峠を越えてきたというなら尚更です。

石船観音の金名水
石船観音入口には金名水と呼ばれる清水がこんこんと流れ落ちる。ここで喉を潤し峠を登ろう!
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塩尻峠越え②

塩尻峠旧道
石船観音に別れを告げ先へ進む。おっ!?何かある。

旧中山道の大石
旧中山道の大石でした。路傍にでんと構えるこの大岩、昔から何故こんなところにあるのか不思議に思われていたようだ。中山道造成時からあったのか、それとも誰かが何かの目的で運んできたのか・・・それを知る由もないのが残念だ。諏訪七不思議の一つとなっている。

馬頭観世音
大岩のすぐ近くにある馬頭観世音。大岩の秘密を知っているのは、この観音様だけなのか。


塩尻峠旧道
舗装されているが、かなり急勾配の坂道。足腰にこたえる。

塩尻峠旧道
本降りの雨は、轍(わだち)に川筋を作って流れていく。

塩尻峠
塩尻峠の頂上!
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塩尻峠越え③

塩尻峠
標高1060mの塩尻峠。明治天皇行幸記念碑、富士浅間神社の石祠、御嶽遥拝所、展望台がある。天文14年(1545年)武田晴信(後の信玄)と信濃守護の小笠原長時がこの周辺一帯を戦場に争った。いわゆる塩尻峠の戦いである。武田軍の不意を衝く急襲を受け、小笠原軍はあっけなく潰走。小笠原氏は信濃の地盤を失うことになるのである。

塩峰御野立公園展望台
塩尻峠にある塩峰御野立公園展望台。

展望台からの眺望
諏訪湖はもちろんのこと、遠く富士山まで望むことができるはずなのだが・・・。さすがに今日の天気では何も見えません。それどころか峠付近も雲に覆われはじめ、雨と霧で視界不良の状態に。

塩尻峠旧道
急ぎ塩尻峠を下りる。この辺りは松並木であったらしい。

塩尻峠立場跡
ほどなくして民家が1軒現れる。ほっと一安心。ここはかつての塩尻峠立場で、左の民家が茶屋本陣の名残である。民家向かい側に明治天皇塩尻嶺御膳水の碑がある。

塩尻峠立場跡にて
民家の軒先をお借りして、しばし雨宿り。
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塩尻峠越え④

塩尻峠旧道
立場跡を後にし、鬱蒼と木々が生い茂る道を下る。

親子地蔵
真紅の前掛けが印象的な親子地蔵に迎えられる。ガイドブックによると天明の大飢饉の際、塩尻峠で行き倒れになった旅人を弔った地蔵だという。

夜通道
親子地蔵のすぐ傍に「伝説 夜通道(よとうみち)」の標柱が立つ。説明文が意味深なのでそのまま引用する。「いつの頃か片丘辺の美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり男に会うため毎夜この道を通ったという」
今でもこの峠道には電灯らしきものも無く、日が落ちれば真っ暗闇になるであろう。今日の天気のせいもあるだろうが昼間でも薄暗いくらいだ。現代でも夜な夜な一人では怖くて歩けそうにもないのだが・・・。しかも電灯も無い時代の話であろうから尚更である。一途の愛がなせる業なのか。それにしても何故男の方は会いに来なかったか?何故夜のなのか?その後、この男女の恋は成就したのか?色々考えさせてくれる。

塩尻峠旧道
見事な水溜りが行く手を遮る。

東山一里塚
徒歩渡しで水溜りを越えると東山一里塚。南塚だけが現存する。江戸日本橋から57里目(約224km)の一里塚であるが、ここの説明文によると52番目とある。

中山道の看板
一里塚を過ぎ、高ボッチ高原へ至る道との交差点にこの看板がある。
「大名行列も 皇女降下も 野仏は 黙し迎へむ 中山道に」 
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ジャンル : 旅行

塩尻峠越え⑤

塩尻峠旧道
雲のかかる山々を眺めながら先へ。

塩尻峠旧道
なだらかな下り坂をひたすら歩く。

東明神社
途中、旧道沿いにある東明神社に寄り道。

塩尻峠旧道
旧中山道を淡々と先へ。車の通行はほとんどない。

東山集落
東山集落へと入っていく。屋根に雀おどしを持つ家も見える。

犬飼の清水
旧道は岩垂酒店の所で一瞬だけ国道に接触すると、そこから逃げるように右へ離れる。すると写真の犬飼の清水という標柱が現れるのだが、清水らしきものは湧き出しておらず、普通に用水路が流れているだけである。ここの説明文もそのまま引用。
「江戸時代中山道を通交中の公卿の愛犬が病気になり、この水を飲ませたらなおったと伝えられる。」
今で言う熱中症になりかけてたのかな・・・何て思ったら夢も希望もありません。昔はきっとミネラル分豊富な水がこんこんと湧いていたのであろう。
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塩尻峠越え⑥

旧塩尻東山にて
犬飼の清水を見ると旧道は国道と合流する。合流点にはほのぼのと野菜を売る小屋が。取れたての新鮮な野菜がこのように無人の店で手に入るというのも田舎ならではの光景だ。

国道20号東山付近
水しぶきをあげて行き交う車を横目に見ながら国道を150m程歩く。東山食堂の看板が掲げられる手前で、右へ国道を離れる上りの小径が旧中山道。

新茶屋立場跡
旧道は木々の中を抜けると視界が開け下り坂となる。ガイドブックによると左へカーブする辺りにある民家が新茶屋立場跡らしい。

牛馬守護神の碑
新茶屋立場跡付近にある牛馬守護神の碑。

長井坂
新茶屋立場跡を過ぎると長井坂の下りとなる。

長井坂
長井坂は再び現れた国道に遮られる。ここは地下道で横断し先へ。
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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高札場
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