塩尻峠越え⑧

右に永福寺を見ながら小径を進むと、縁並橋の手前で国道153号と合流し四沢川を渡る。

塩尻宿の入口にあたる仲町交差点が見えてくる。

今日のゴールとなる塩尻宿に到着。

仲町交差点のすぐ先に中山道と三州街道の追分(分岐点)がある。ここで旧中山道を離れ三州街道からみどり湖駅へと向かう。

一日中雨を降りそそいでくれた曇天の空を恨めしく眺めながら、とぼとぼと三州街道を歩く。靴とズボンの裾はもちろんのこと背中のリュックもズブ濡れ、体はグッタリ。今までの中で一番つらい道中となってしまった。18時ちょっと過ぎ、ようやくみどり湖駅に着くと、それと同時に上諏訪方面の列車がホームへ入ってくる。階段を駆け下りて列車に飛び乗り下諏訪駅へ。下諏訪駅からスーパーあずさ34号に乗車し新宿へ向かう。長い1日だった・・・
【第19日目】踏破距離 約11.5km(下諏訪宿→塩尻宿) 日本橋から229.2km 京都まで305km
まだまだ先は長い・・・

塩尻宿

【第20日目】7月22日(日)塩尻宿→洗馬宿→本山宿
8時ちょうどのあずさ2号で~♪とはいかないが、新宿駅発7時ちょうどのスーパーあずさ1号に乗車。今日の東京は梅雨明け間近の名残雨。長野県が晴れていることを祈りつつ、車内販売の釜めし弁当で朝食を済ませ一眠り。さすがに朝が早かったので眠い。定刻通り9時過ぎに上諏訪駅へ到着すると、普通列車に乗り換えみどり湖駅で下車する。やはり空は雲に覆われているものの 雨は降っておらず、わずかな雲の合間から青空ものぞかせている。逆に日が照っていないので絶好のウォーキング日和といってもいいくらいの気候だ。






国重要文化財・堀内家住宅



脇本陣跡の隣には見事な酒林を掲げ、なまこ壁の土蔵が美しい造り酒屋。信州地酒「笑亀」の醸造元・笑亀酒造である。少し先へ進み、歩道橋の下で右折して国道を離れると、すぐ右手に小竹屋というたばこ店があるのだが、宿場時代からの屋号であろうか。旧街道の旅をしていると、このような○○屋といういかにも老舗な名前を見かけることも多く、想像を掻き立てられ楽しい。話がそれたが、この右折地点がかつての鉤の手(枡形)で、小竹屋の向かい側にそれを示す標柱が立てられている。ということは、ここら辺で塩尻宿は終わりとなる。



桔梗ヶ原の信州ブドウに風林火山と




国道153号を歩き塩尻橋で田川を渡る。下大門交差点で道は三つ又に分かれるのだが、国道は右斜めに離れ、直進する道は塩尻駅へ向かう県道。そして旧道は左の道に進路をとる。井澤茶舗を過ぎると大門神社に至り、境内には樹齢300年と推定される3本の大ケヤキが直立にそびえたつ。大門神社のすぐ先には耳塚神社の小さな祠。耳の形に似た素焼きの皿やお碗に穴を開けて奉納すると耳の聞こえが良くなるという。そのご利益を物語るように皿やお椀がたくさん奉納されている。ここから先に歩みを進めると、電柱の下の小さな双体道祖神にふと気付く。何気ないところに旧街道の情緒が残っているので気が抜けない。そしてカネホン酒店のなまこ壁を見れば、間もなく中央本線のガード下を潜り抜ける。


無機質なコンクリート塀に囲われた昭和電工の敷地横をしばらく直進する。周辺に田畑の緑が広がりはじめると、小高く盛り上がった塚上にポツンと1本、立派な松が見えてくる。これが平出一里塚で、江戸日本橋から59里目(約232km)の一里塚。両塚が原形を残しているのだが、場違いなように風林火山の幟がはためいている。何故ここに風林火山の幟が立っているのか?実はこの松、桔梗ヶ原合戦の際に山本勘助がここで乳児を拾ったこという伝説から、「勘助子育ての松」と呼ばれる松なのである。知る人ぞ知る、というより知る人も知らない大河ドラマ「風林火山」の主人公、山本勘助ゆかりの地なのである。



第一中仙道踏切で中央本線を越えて先へ進み、中信農業試験場を過ぎると、ぶどう園の中にポツンとかわいらしい建物の小さなワイン工房がある。せっかくなので寄ってみる。ここ「KIDOワイナリー」は地元桔梗ヶ原の信州ぶどうを使ってワインを醸造販売しているワイン工房。小さな店内であるが、手作りの赤や白ワインが所狭しに並べられている。色々と試飲してみる。口に含んだ瞬間に甘酸っぱい香りが漂う。思わず「おかわり!」と言いかかったが、さすがにかっこ悪いので、「うーん・・・なるほど」といった風に考え込む。普段、紙パックの安ワインばかり飲んでいる自分にとっては、さすがにどれも美味しい。迷ったあげくメルロー2006を購入。帰ってからちびちびと飲みましょう。

細川幽斎の肱懸松



洗馬の肘松 日出塩の青木 お江戸屏風の 絵にござる

肱懸けて しばし憩える松陰に たもと涼しく 通う河風
細川幽斎がここで詠んだと伝えられる。


洗馬宿







ガイドブックによると洗馬宿本陣は宝暦年間(1751~64年)頃から百瀬家が努めたとある。また脇本陣は代々志村家が努め、両家が半月交代で問屋を兼ねていた。両家ともに広い敷地を有し、大きな庭園を持っていたようで、中山道中でも評判のものだったという。しかし建屋は昭和の火災で焼け、自慢の庭園も中央本線の敷設により大部分が失われてしまった。残念と言うほかないが、洗馬駅前付近の街道筋にあった本陣や、本陣京側隣にあった貫目改所跡、更にその隣の脇本陣跡にはその痕跡を示す標柱があり、場所だけは確認できる。余談だが、貫目改所跡には生垣に囲われた民家があるのだが、入口にある表札を見るとここは百瀬宅。今も子孫の方が住まわれているようだ。

言成地蔵と滝社



宿内にある山本屋酒店前で缶コーヒーを飲みながら一休み。ふと「洗馬宿旧跡マップあります」の貼り紙が目に留まる。「ほぉー」と興味をそそられ店内に入ろうとするのだが、入口は鍵がかかっており開かない!いかにも営業しているようなのであるが・・・仕方なくあきらめる。山本屋酒店の向かい側には真新しい赤門があり、ここから続く参道は聖徳山の力強い文字の扁額を掲げる萬福寺へと至る。そして旧中山道を先へ進むと左に洗馬公園。この付近は高札場跡で説明板と中山道の石柱、洗馬宿の石碑が置かれている。




神社を後にして先へ進む。高台にある牧野公民館の下に「牧野一里塚之跡」と書かれた木製の標柱が現れる。ここは江戸日本橋から60里目(約236km)の一里塚である。左の高台斜面にそれらしき大きな木はあるが、これといった遺構には気付かない。そして一里塚から坂を上りきるとかつて立場茶屋が置かれていた牧野集落である。集落を抜けると山間の田園地帯を進むのであるが、やがて牧野交差点で国道と合流し喧騒の道となる。ここまで来ると本山宿は近い。

本山宿


旧宗賀南部保育園前というバス停を過ぎ、沿道に家が並び町の様相となりはじめると、「本山そばの里→」の看板が立っている。ここから右に目を向けると、線路脇にポツンと蕎麦屋がある。ここ本山は「そば切り」発祥の地であるという。

「蕎麦きりといっぱ、もと信濃本山の里よりはじまり、あまねく世にもてはやされける」
と、あることから、蕎麦を切り麺にして食するようになった発祥がここ本山であるといわれる。また、狂歌師の蜀山人は「本山のそばは名物と誰も知る 荷物をここにおろし大根」と歌を残している。大根おろしを絞った汁に味噌で塩味をつけたものが蕎麦切りに用いられていたので、これにひっかけ洒落たのであろう。ちなみに本山宿内に蕎麦屋らしきものは他に見当たらなかったので、蕎麦切りの本場で地元産の蕎麦を食せるのは「本山そばの里」だけのようだ。



関沢・釜之沢越えの旧道跡






【第20日目】踏破距離 約10.5km(塩尻宿→洗馬宿→本山宿) 日本橋から239.7km 京都まで294km まだまだ先は長いよ・・・

是より南、木曽路

【第21日目】8月12日(日) 本山宿→贄川宿→奈良井宿


夏真っ盛りの8月、日本列島は猛暑に見舞われ、とにかく暑いという以外に表現のしようがない。今回も新宿発7時ちょうどのスーパーあずさ1号に乗車。塩尻駅で中央本線の各駅停車に乗り換え日出塩駅で下車する。やはり長野県も例外なく暑い。(みーーーん みーーん みーん みんみー)山里はセミの大合唱で騒がしく、アスファルトに照りつける陽射しは眩しい。新緑の山々はいつのまにか深緑へと緑の色を濃くし、その背後に控える空の青も深みを増している。ギラギラした太陽が逆に恨めしく感じるほど天気は良い。
11時ちょっと前、日出塩駅から木曽路へ向けて中山道の旅を再開する。まずは日出塩駅前の中山道沿いにある民家前に自動販売機があったので、ここで軽く喉を潤しておく。中山道に今日の一歩を踏み出し、日出塩集落を抜けて国道の高架橋下を潜る。ここで更に線路下を潜り、左の道へ外れれば熊野神社があるので、道中の安全祈願に寄る。そして中部北陸自然歩道の道標に従い歩行者専用道で再び高架橋の下を潜り抜け国道の右側に出る。ここで国道と道筋を共にし、車の騒音を聞きながらひたすら先へ。

ホテルアルファというラブホが沿道に見えてくる。この手前から国道を左に離れる道が、牛首峠・小野宿・三沢(小野)峠を経て下諏訪宿へ通じる初期の中山道。慶長19年(1614年)に塩尻峠越えのルートに変更されるまで中山道だった道である。ここ桜沢から岡谷市の長地東堀交差点(中山道と伊那道の分岐点)までが廃道となった道筋で、徳川家の家臣大久保長安により敷設された道であった。2つの峠を越えなければならない難所続きの古中山道ともいうべき道がどの程度残っているかわからないが、いずれ機会を作って歩いてみたい。



右眼下に奈良井川を見ながら国道を行くと、中部北陸自然歩道の案内板が立っており、更に先へ行けば「ようこそ木曽へ」と書かれたモニュメントが現れる。そして「是より南 木曽路」の道路標識先で桜沢橋を渡れば、いよいよ中山道のハイライトとも言うべき木曽路のはじまりである。
「歌に絵に其の名を知られたる、木曽路はこの桜沢より神坂に至る南二十余里なり」
桜沢の藤屋百瀬栄が昭和15年に建立した「是より南 木曽路」の石碑裏面に記したものである。木曽路はここ桜沢から贄川宿、奈良井宿を経て鳥居峠を越え、深山幽谷の木曾谷を抜けて落合宿に至る木曽十一宿の路である。古くから良質のヒノキの産地として知られ、現在、妻籠宿や馬籠宿は観光地として有名だ。

桜沢の高巻き

桜沢を越えると左手擁壁斜面の上から高巻きの旧道跡が残っている。高巻きとは沢や淵等の難所を避けるため、沢の上流側や山の斜面に迂回することをいう。桜沢の高巻きも奈良井川に侵食された断崖の淵を避けるために設けられたが、現在は開削され国道が敷かれているのでこの難所に気付くことはない。

国道を離れ擁壁斜面を上る。かつては桜沢橋より上流付近で桜沢を渡河し、高巻きを上っていたと思われる。現在はここからアクセスするしかない。

擁壁上はちょっとした平坦地になっており柵に囲われた畑がある。柵の横を通り奥へ。

畑の奥から山斜面に沿って上る坂道が高巻きの旧道。下を覗くと国道を走る車が小さく見える。

途中、古そうな石碑と馬頭観世音がありいかにも旧道跡らしい。ガサガサ・・・ここで獣の気配を感じる。それも1匹や2匹ではない。猿の群れだ。集団で襲われてはたまらんと逃げかけるが、向こうも危険を感じたらしく山頂目指して次々と逃げていく。

落石防止フェンスの設けられた旧道。

下り道にさしかかる。

京側高巻き上り口付近にある千手観音像。

千手観音像から山側の草むらに入っていくと旧中央本線の朽ち果てた廃トンネルがある。

国道に出ると旧立場の桜沢集落。高巻きの旧道はここで終わり。

群青の空と深緑の山々と




茶屋本陣が置かれていた旧立場の桜沢集落は、国道の片側だけに家を並べる小さなたたずまいであるが、車やトラックの交通量が多く騒がしい。門前に「明治天皇櫻澤御小休所」碑のある家が、藤屋栄左衛門茶屋本陣跡。そして右眼下に奈良井川を見ながら国道を先へ進む。片平橋を渡り奈良井川を左に従えると、国道は緩やかな上り坂に。登坂車線の手前で右に延びる小径が旧中山道で、片平集落へと入って行く。細い街道を挟んで数軒の家が軒を連ね、平入出桁造りの民家が「ふじや」の屋号を掲げている。立場茶屋だったのであろうか。



鶯着(おうちゃく)寺という何とも優雅な名を持つ小さな寺で集落は終わり、広々とした国道の歩道をのんびりと歩く。奈良井川の向こうに見える山々は深い緑で覆われ、盛んな暑さを楽しむかのように群青の空から陽を浴びている。やはり四季折々の様々な風景を見せる日本はすばらしい。やがて若神子一里塚に出会う。国道より一段高い所の擁壁上に片塚だけが現存する。しかし国道の拡幅によって切り崩され、直径約5m、高さ1m程の塚が僅かに残るのみである。江戸日本橋から62里目(約243km)の一里塚で、かつては両塚に榎が植えられていた。


一里塚先から右の小径を上ると若神子集落である。平入出桁造りの民家が構え、所々に水場が設けられている。集落の京側外れには道祖神や庚申像などが旧道に花を添え、小さな諏訪神社も鎮座している。いかにも旧道筋の集落といった風情だ。旧中山道は小さな川を渡って左折すると集落を抜ける。するとY字路の分岐点に中部北陸自然歩道の標識が立っているので、ここを右の上り道に道筋を辿ることになる。


木立の中を抜け視界が広がると、左下に国道が見え右手は中畑集落の家々。国道と並進して先へ行けば、再び自然歩道の標柱が立っているので、ここから車道を離れて右の野道に入ろう。道祖神や庚申塔があり、旧道の雰囲気を残している。再び国道を眼下に眺めながら山の斜面に付けられた草付の野道を歩くと、JR贄川駅まで0.6km地点で舗装された坂道を下り国道に出る。旧道はこの辺りから国道と線路の向こう側に延びていた。贄川駅裏手に道筋が残っているようなので国道を横断し、下遠バス停から中央本線を潜って線路沿いの旧道らしき道を進み贄川宿へ・・・と、思いきや民家で行き止まりとなり、そこから贄川宿へアクセスできる道も見出せず。無念・・・引き返す。

贄川関所


素直に国道19号から贄川(にえかわ)宿へ向かう。途中、贄川駅前の森川酒店でアクエリアスを買い、渇いた喉を潤す。すぐ先にある贄川宿入口の看板から跨線橋を渡り線路の向こう側へ。すると冠木門の奥に復元された贄川関所がでんと構え、今も旅人の往来を監視しているかのような厳しさである。
「贄川の町家六七十ばかり有り、町の東の入口右の方に番所有り」
江戸前・中期の本草学者で儒学者、貝原益軒の「木曾路之記」に記された一文である。ここ贄川関所は豊臣政権下の時代、木曽五木の持ち出しを取り締まる材木番所として設けられたのに始まり、後に四大関所の一つとなる福島関所が設置されると、その副関としての役割を担った。明治2年(1869年)に廃止されるまで、「入鉄砲に出女」はもちろんのこと木材や木製品を取り締まっていた。

贄川関所は廃止された際に取り壊されたのだが、当時の配置図や資料に基づき昭和51年に復元された。入館料200円を払えば内部を見学できる。中では関所についての展示がされており、受付の女性の方が案内人として親切丁寧に説明してくれる。それにしても外は酷暑だというのに建物の中は涼しい。エアコンどころか扇風機すらないにもかかわらず、心地よいひんやりとした空気が体を撫でる。案内人の方も「冬はさすがに寒いのですが、夏はエアコンも無いのに涼しいのですよ。ゆっくり休んでいって下さい。」と笑顔で言う。

先ほど行き止まりとなった贄川駅裏手の旧道跡を、逆側のこちらからアクセスしてみる。贄川関所から本山方面へ少し戻り急坂の野道を下ると、途中斜面の藪の中に「雀の宮」と呼ばれる石碑群がある。かつてここにお宮があり番所を控えた旅人が身繕いをした場所といわれる。ということはこの辺りが旧道跡と思われる。ここから踏み跡を辿りながら薮を掻き分け、駅裏の線路脇に出る。ここから線路と畑の間にある小道を戻ってみるが、やはり薮に行く手を遮られる。ここで贄川駅裏手の旧道跡を辿るのは無理との結論。中山道の旧道跡を歩きたいのであれば、贄川側から雀の宮まで歩いてみると良いだろう。

贄川宿


贄川(にえかわ)宿は江戸日本橋から33番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口545人、家数124軒、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒。古くは温泉が湧き出していたことから熱川(にえかわ)と称したが、後に温泉が枯渇したため現在の贄川に改められたとの伝承が残る。宿場近郊にある麻衣廼(あさぎぬの)神社の本社である諏訪大社の神事の贄として、ここで獲れた魚を献じていたことから、この贄の字が当てられたという。ちなみに贄とは神仏に捧げる土地の産物のことで、生贄(いけにえ)という言葉が最もわかりやすいだろう。
昭和5年(1930年)の大火で宿場の大半が焼けてしまい、現在宿場の面影はほとんど残されていないが、かつて加納屋という屋号で商家を営んでいた深澤家住宅が僅かに切妻・出桁造りの建物を残している。深澤家は行商を中心に販路を京都や大阪にまで拡げる贄川屈指の商家であった。主屋は嘉永4年(1851年)の大火後の再建。主屋・北蔵・南蔵の三棟が国重要文化財に指定される。


宿内には漆器を扱う店がちらほらと見える。宿場を外れた場所に国道19号が通っているため、車の通行も少なく静かな町である。宿場内から中山道を外れ十一面観音を本尊に祀る観音寺へ向かう。この寺の山門は寛政4年(1792年)に再建され、楢川村有形文化財に指定される。そして寺の西側に麻衣廼神社が鎮座する。天慶年間(938~947年)の創建で、文禄年間(1592~1596年)現在地に再建。諏訪大社と同じく建御名方命を祭神に祀り、6年目毎の寅年と申年に御柱祭りが行われる。境内には4本の御柱が立てられている。

ひのきや漆器店の先で右折し枡形の道筋を辿る。ここが宿場の京側外れで、贄川宿は終わり。跨線橋を渡って国道に出ると「贄川のトチ」の看板があったので寄ってみる。国道を右に入った山裾にトチの大木が見事な太い幹と枝ぶりを見せている。元文5年(1740年)の文献に「栃の大木」と記述されているらしく、相当の老木であることは確かある。しかし樹勢は全く衰えを感じさせず、なおも成長しているのではないだろうか。昭和44年(1969年)長野県天然記念物に指定。
