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塩尻峠越え⑦

みどり湖PA
柿沢橋で長野自動車道を跨ぐ。金網越しにみどり湖PAが見える。

柿沢集落へ
雲に煙る山々を背景に、柿沢集落の家並みが見えてくる。

柿沢集落
柿沢集落へ入る。古びた味わいのある家並みが続く。この辺りから乗鞍岳が望めるはずなのだが・・・天気が悪すぎます。

柿沢集落にて
屋根に雀おどしを持つ本棟造りの旧家。諏訪地方でよく見られる独特の造りである。

柿沢集落にて
おっと!こちらにも。

下柿沢
柿沢集落を抜け下柿沢交差点を横断すると、火の見櫓下でY字路にさしかかる。左へ進む道が旧中山道。
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テーマ : 街道の旅
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塩尻峠越え⑧

縁並橋
右に永福寺を見ながら小径を進むと、縁並橋の手前で国道153号と合流し四沢川を渡る。

塩尻宿仲町
塩尻宿の入口にあたる仲町交差点が見えてくる。

塩尻宿仲町
今日のゴールとなる塩尻宿に到着。

塩尻宿・中山道と三州街道の追分
仲町交差点のすぐ先に中山道と三州街道の追分(分岐点)がある。ここで旧中山道を離れ三州街道からみどり湖駅へと向かう。

三州街道からの眺め
一日中雨を降りそそいでくれた曇天の空を恨めしく眺めながら、とぼとぼと三州街道を歩く。靴とズボンの裾はもちろんのこと背中のリュックもズブ濡れ、体はグッタリ。今までの中で一番つらい道中となってしまった。18時ちょっと過ぎ、ようやくみどり湖駅に着くと、それと同時に上諏訪方面の列車がホームへ入ってくる。階段を駆け下りて列車に飛び乗り下諏訪駅へ。下諏訪駅からスーパーあずさ34号に乗車し新宿へ向かう。長い1日だった・・・

【第19日目】踏破距離 約11.5km(下諏訪宿→塩尻宿) 日本橋から229.2km 京都まで305km
まだまだ先は長い・・・
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塩尻宿

かつての旅籠「いてふ(銀杏)屋」・小野家



【第20日目】7月22日(日)塩尻宿→洗馬宿→本山宿



8時ちょうどのあずさ2号で~♪とはいかないが、新宿駅発7時ちょうどのスーパーあずさ1号に乗車。今日の東京は梅雨明け間近の名残雨。長野県が晴れていることを祈りつつ、車内販売の釜めし弁当で朝食を済ませ一眠り。さすがに朝が早かったので眠い。定刻通り9時過ぎに上諏訪駅へ到着すると、普通列車に乗り換えみどり湖駅で下車する。やはり空は雲に覆われているものの 雨は降っておらず、わずかな雲の合間から青空ものぞかせている。逆に日が照っていないので絶好のウォーキング日和といってもいいくらいの気候だ。

永福寺信州の清々しい風を感じながら歩くのはやはり気持ちいい。普段、喧騒の東京で過ごしている私にとっては尚更である。三州街道から塩尻宿へ向かい旧中山道に歩みを戻すと、まずは木曽義仲ゆかりの観音堂がある永福寺へ寄る。総欅・入母屋造りの見事な山門(仁王門)は信州下諏訪の名工、立木音四郎種清の手によって明治29年に建立された。門を潜った先の境内では掃き掃除をする寺の方の横で、おそろいの服を着た姉妹であろう女の子二人が、犬を連れて無邪気に遊ぶほのぼのとした光景。そして一角にある茅葺屋根の朝日観音堂は、木曽義仲信仰の馬頭観世音を本尊に祀る。元禄15年(1702年)に創建されたが後に焼失し、安政2年(1855年)に再建された。

十王堂跡にある石造物群仲町交差点まで戻り塩尻宿内を散策する。宿場の面影はすっかり失われているが、所々の遺構跡に標柱が立てられているので場所だけは特定できる。江戸(仲町交差点)側から歩くとまず前述した三州街道の標柱が立っている。別名伊那街道とも呼ばれる三州街道は、ここ塩尻宿から中山道を分岐し、伊那谷を経て三河の岡崎城下へ至る道である。そしてすぐ先右手、小口商店のある場所が塩尻口留番所跡。更に先へ進めば右に十王堂跡の標柱が立っており、庚申塔や双体道祖神の石造物が並べられ、周りに紫や青のあじさいがきれいに花を咲かせている。

旧旅籠・小野家住宅善光寺西街道(北国脇往還)と並行して松本城下へ向かう五千石街道の追分から室町バス停を過ぎると、かつて「いちょう屋」として旅籠を営んでいた小野家住宅がある。現存する切妻造段違の主屋は文政11年(1828年)の火災後から、天保7年(1836年)にかけて再建されたもので、主屋2階は旅籠の客室として使われた。二階の五つの客室には、いずれも絵画や装飾が施され、桜の間等それぞれそれにちなんだ室名が付けられていたという。残念ながら内部の公開はされていないが、宿場時代の名残を語る唯一の遺構である。

塩尻宿本陣跡小野家住宅の先、塩尻町のT字路右角にある塩尻中町郵便局の旧舎が、かつての高札場と上問屋で、ここから中山道を挟んで向かい側に上問屋があった。上問屋跡から消防屯所を挟んで右隣が本陣跡で、更に隣が脇本陣跡である。いずれも明治期の火災で焼失し、それらしき塀とその跡地を示す標柱や看板があるのみで遺構は残されていない。しかし将来復元するつもりなのだろうか、本陣跡は空き地となっており、脇本陣跡もちょっとした庭園が施されている。

塩尻宿脇本陣跡塩尻宿は江戸日本橋から30番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口794人、家数166軒、本陣1、脇本陣1、旅籠75軒。旅籠数の多さに目を引かれるが、これに比例するかの如く飯盛女も多く置かれていたようだ。塩尻峠を控えた旅人はもちろんのこと、近隣の男たちも飯盛女目当てに出掛けてきたようで、随分と繁華な宿場町だったようだ。しかし明治になり中央本線が敷設され大門(現在の塩尻市中心部)に塩尻駅が開設されると、中心部はそちらに移り、かつての賑わいは過去のものとなってしまった。現在の宿場町跡は人通りもまばらで、旧道は国道153号となり車の往来だけは激しい。
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国重要文化財・堀内家住宅

国重要文化財・堀内家住宅



笑亀酒造 中山道鉤の手跡
脇本陣跡の隣には見事な酒林を掲げ、なまこ壁の土蔵が美しい造り酒屋。信州地酒「笑亀」の醸造元・笑亀酒造である。少し先へ進み、歩道橋の下で右折して国道を離れると、すぐ右手に小竹屋というたばこ店があるのだが、宿場時代からの屋号であろうか。旧街道の旅をしていると、このような○○屋といういかにも老舗な名前を見かけることも多く、想像を掻き立てられ楽しい。話がそれたが、この右折地点がかつての鉤の手(枡形)で、小竹屋の向かい側にそれを示す標柱が立てられている。ということは、ここら辺で塩尻宿は終わりとなる。

阿礼神社宿場を抜ければ鬱蒼と樹林に囲まれた阿礼神社が静かに鎮座している。素盞鳴命・大巳貴命・誉田別命の三神を祀るこの神社は、延暦年間(728~806年)征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、戦勝祈願に参拝したと伝わり、また治承四年(1180年)には平家追討のため挙兵した木曽義仲が参拝したという。古代から武運長久の神として崇拝された由緒ある古社なのである。現在の社殿は寛保3年(1743年)に再建されたもので、復元して献納されたひょうきん顔の狛犬がこの神社を守っている。毎年7月には例大祭(塩尻祭り)が行われ、各地区から山車が曳行されると祭りのボルテージは最高潮に達し、見物客も含めた一体感で大いに盛り上がるという。

大小屋交差点にある石造物群旧道は阿礼神社前で左に曲がると、塩尻東小学校前を通過して堀ノ内集落へと入って行く。すると旧堀ノ内村の名主宅であった堀内家住宅が現れる。国重要文化財にも指定されるこの民家は江戸時代中期の建築で、切妻屋根の棟飾りに雀おどりの装飾を持つ、この地方特有の力強い外観の本棟造り。そんな中にも石置板葺屋根に質素な部分も所々に見せ実に味わい深い。堀内家住宅から静かな旧道を歩くのであるが、間もなく大小屋交差点で喧騒の国道と再び合流する。交差点の路傍には庚申塔や道祖神等の石造物群が並び、時代の変遷を思うかのようにひっそりと行き交う車を見つめている。
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桔梗ヶ原の信州ブドウに風林火山と

桔梗ヶ原は信州ブドウの産地



大門神社 耳塚神社 路傍にたたずむ小さな双体道祖神
国道153号を歩き塩尻橋で田川を渡る。下大門交差点で道は三つ又に分かれるのだが、国道は右斜めに離れ、直進する道は塩尻駅へ向かう県道。そして旧道は左の道に進路をとる。井澤茶舗を過ぎると大門神社に至り、境内には樹齢300年と推定される3本の大ケヤキが直立にそびえたつ。大門神社のすぐ先には耳塚神社の小さな祠。耳の形に似た素焼きの皿やお碗に穴を開けて奉納すると耳の聞こえが良くなるという。そのご利益を物語るように皿やお椀がたくさん奉納されている。ここから先に歩みを進めると、電柱の下の小さな双体道祖神にふと気付く。何気ないところに旧街道の情緒が残っているので気が抜けない。そしてカネホン酒店のなまこ壁を見れば、間もなく中央本線のガード下を潜り抜ける。

昭和電工の敷地横を進む旧中山道 平出一里塚
無機質なコンクリート塀に囲われた昭和電工の敷地横をしばらく直進する。周辺に田畑の緑が広がりはじめると、小高く盛り上がった塚上にポツンと1本、立派な松が見えてくる。これが平出一里塚で、江戸日本橋から59里目(約232km)の一里塚。両塚が原形を残しているのだが、場違いなように風林火山の幟がはためいている。何故ここに風林火山の幟が立っているのか?実はこの松、桔梗ヶ原合戦の際に山本勘助がここで乳児を拾ったこという伝説から、「勘助子育ての松」と呼ばれる松なのである。知る人ぞ知る、というより知る人も知らない大河ドラマ「風林火山」の主人公、山本勘助ゆかりの地なのである。

平出遺跡・竪穴式住居内部一里塚を過ぎると、たわわに実るブドウ畑が一面に広がる。ここ桔梗ヶ原は信州ぶどうの産地としても知られる。そして200m程直線の道を歩くと国史跡・平出遺跡に至る。昭和25年からの発掘調査で199軒の住居跡が発見され、縄文・古墳時代から平安時代にかけての土器や石器が大量に出土した。現在、歴史公園として整備され、古墳時代(約1300年前)の竪穴式住居が復元されている。時間の関係で訪問することはできなかったが、近くに平出博物館があり、平出遺跡をはじめ塩尻市内の出土品を展示している。

中央本線・平出付近にて KIDOワイナリー
第一中仙道踏切で中央本線を越えて先へ進み、中信農業試験場を過ぎると、ぶどう園の中にポツンとかわいらしい建物の小さなワイン工房がある。せっかくなので寄ってみる。ここ「KIDOワイナリー」は地元桔梗ヶ原の信州ぶどうを使ってワインを醸造販売しているワイン工房。小さな店内であるが、手作りの赤や白ワインが所狭しに並べられている。色々と試飲してみる。口に含んだ瞬間に甘酸っぱい香りが漂う。思わず「おかわり!」と言いかかったが、さすがにかっこ悪いので、「うーん・・・なるほど」といった風に考え込む。普段、紙パックの安ワインばかり飲んでいる自分にとっては、さすがにどれも美味しい。迷ったあげくメルロー2006を購入。帰ってからちびちびと飲みましょう。
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細川幽斎の肱懸松

肱懸松(ひじかけまつ)



「塩尻名物玄蕃おやき」の看板中山道一里塚信号で国道20号と交差すると、ここを左折して木曽福島方面へ国道を歩く。途中、「塩尻名物 玄蕃おやき」なる看板が目に留まるが、国道沿いを見渡してもどこに売っているわけでもない。ちなみに玄蕃とは、ここ桔梗ヶ原に残る伝説のいたずら狐「玄蕃之丞」のことである。昔、桔梗ヶ原に住んでいた玄蕃之丞は、おたきという娘に恋をしてしまう。そして人間に化けておたきに近づくのだが、これが全く相手にされず、おたきは隣の村へ嫁に行ってしまう。その腹いせにさんざん悪さをはたらいた挙句、最後には人間に捕まり死んでしまうという何とも切ない話が伝わる。しかし玄蕃之丞は今も近隣の人々から愛され、毎年夏には玄蕃まつりが行われる。

コスモ石油手前から左斜め行く道が旧道車の往来が激しい国道をひた歩く。コスモ石油手前で左斜めに離れる砂利道が旧道なので、ここに入れば車の喧騒から離れてホッと一息。それもつかの間、平出歴史公園交差点で国道と再び対面してこれを横断すると、県道304号の道となり道路標識や郵便局に洗馬の名が見えはじめる。

洗馬の肘松 日出塩の青木 お江戸屏風の 絵にござる

肱懸松跡線路沿いを下っていくと右に洗馬の肘松と呼ばれた肱懸松(ひじかけまつ)に出会う。この松は、細川幽斎(一説には徳川秀忠とも)が肱をかけて休んだとも伝えられる名高い赤松であった。かつての松は現在地とは少し違った場所にあったようで、ここから洗馬宿寄りに肱懸松跡の標柱が立っている。江戸の屏風に描かれるほどの名木であったようだが、現在植えられている松は少々貧弱なのが残念である。

肱懸けて しばし憩える松陰に たもと涼しく 通う河風

細川幽斎がここで詠んだと伝えられる。

中山道と善光寺道の分去れ(枡形跡)旧中山道は肱懸松から県道を右に離れ急坂の小道を下る。うっかり県道を直進してしまいそうになってしまうが、この道は昭和7年(1932年)洗馬の大火後に開通した道なのでご注意を。坂を下りきると常夜灯が現れT字路に突き当たる。ここがかつての枡形跡で、また中山道と善光寺道(西街道)の分去れでもあった。ここから右へ行けば松本城下を経て善光寺へ向かう、牛に曳かれて善光寺参りの道である。
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洗馬宿

洗馬宿・現在の善光寺街道と中山道の分岐点



あふたの清水分去れを左折し洗馬宿へと入って行く。間もなく先ほど別れた県道が左後ろから合流してくる。合流地点には昭和時代の新道開通後に枡形跡から移された「右中山道 左北国往還善光寺道」の道標が立っている。そこから人も車もまばらな洗馬の町へと入ると、まず「あふたの清水」の案内板が右手に立っている。ここから民家裏手にまわると、崖状の上から田園風景が眼下に広がり、向こうに奈良井川の流れも見える。階段で崖を降りると、中腹に「ふるさとの水20選 邂逅(あふた)の清水」の看板が現れ、木製の水道口からこんこんと清らかな水が落ちる。

洗馬宿にてここで洗馬という地名の由来を書く。前述のあふたの清水は「大田(おうた)の清水」とも呼ばれる。現在案内板にあるのは「邂逅(あふた)」であるが、これはいずれかが転訛したものであろう。平家追討のため挙兵した木曽義仲が、この地で義仲四天王の一人である今井兼平と合流したといわれる。ようは義仲と兼平がこの地で会うたのである。そして兼平は疲弊しきった義仲の馬を、この清水で洗うとみるみるうちに回復したという。そんな故事から名付けられたのが洗馬宿である。

洗馬宿の町並み洗馬宿は江戸日本橋から31番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口661人、家数163軒、本陣1、脇本陣1、旅籠29軒。宿場成立当初から火災が多く、正保4年(1647年)、慶安元年(1648年)、天明5年(1785年)、天保8年(1838年)には大火が発生し、その度に宿場の人々は再建のための金策に随分と苦労してきたようだ。昭和7年(1932年)の火災では宿場の大部分が焼かれてしまい、現在宿場時代の面影は薄い。本陣や脇本陣もこの時の火災で焼失してしまった。洗馬宿の歴史は大火の歴史といっても過言ではないくらいの印象を受ける。

洗馬宿本陣跡 洗馬宿脇本陣跡 洗馬駅
ガイドブックによると洗馬宿本陣は宝暦年間(1751~64年)頃から百瀬家が努めたとある。また脇本陣は代々志村家が努め、両家が半月交代で問屋を兼ねていた。両家ともに広い敷地を有し、大きな庭園を持っていたようで、中山道中でも評判のものだったという。しかし建屋は昭和の火災で焼け、自慢の庭園も中央本線の敷設により大部分が失われてしまった。残念と言うほかないが、洗馬駅前付近の街道筋にあった本陣や、本陣京側隣にあった貫目改所跡、更にその隣の脇本陣跡にはその痕跡を示す標柱があり、場所だけは確認できる。余談だが、貫目改所跡には生垣に囲われた民家があるのだが、入口にある表札を見るとここは百瀬宅。今も子孫の方が住まわれているようだ。
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言成地蔵と滝社

尾沢川



萬福寺 洗馬宿高札場跡
宿内にある山本屋酒店前で缶コーヒーを飲みながら一休み。ふと「洗馬宿旧跡マップあります」の貼り紙が目に留まる。「ほぉー」と興味をそそられ店内に入ろうとするのだが、入口は鍵がかかっており開かない!いかにも営業しているようなのであるが・・・仕方なくあきらめる。山本屋酒店の向かい側には真新しい赤門があり、ここから続く参道は聖徳山の力強い文字の扁額を掲げる萬福寺へと至る。そして旧中山道を先へ進むと左に洗馬公園。この付近は高札場跡で説明板と中山道の石柱、洗馬宿の石碑が置かれている。

言成地蔵尊言成地蔵尊入口の看板から旧中山道を離れてちょっと寄り道する。踏み切りを渡った先には、読んで字の如く、願い事を叶えてくれるという言成(いいなり)地蔵が安置されている。かつては多くの参詣者で賑わったというが、今は静かな森の中のひっそりとした場所である。しかし現在も参詣者が絶えないと案内板にはあり、御堂は奉納されたたくさんの千羽鶴で彩られている。私もここで二つのお願いをする。旅の道中、ぶっとばして走るトラックや熊出没注意の看板に恐怖を感じることが多いので、とにかく道中の安全。それと遠く北海道に住む親兄弟の無事である。書いてみるとちょっとくさい気もするが・・・

滝神社と尾沢川旧中山道に歩みを戻し中央本線のガード下を潜ると、右に左に蛇行する道が先に続き、旧道の面影を良く伝えてくれる。ガード下からすぐ先の左手には、滝神社へと続く参道が山中へ延びる。ここは中山道を離れて参道に入ろう。いかにも年季の入った石鳥居を潜ると、鬱蒼とした森の中へ一本道が続く。国道19号の高架下から更に奥へ入ると滝神社の社殿が現れ、雑音が無いのが空恐ろしくなるほど、川の流音と鳥や虫の鳴き声が森林にこだまする。神社の裏手には山から染み出し集まった尾沢川の清流が滝を作っている。この神社の由来になったのであろう小さな滝ではあるが、十分に自然美を堪能できるすばらしい場所である。

牧野公民館と一里塚跡 牧野集落
神社を後にして先へ進む。高台にある牧野公民館の下に「牧野一里塚之跡」と書かれた木製の標柱が現れる。ここは江戸日本橋から60里目(約236km)の一里塚である。左の高台斜面にそれらしき大きな木はあるが、これといった遺構には気付かない。そして一里塚から坂を上りきるとかつて立場茶屋が置かれていた牧野集落である。集落を抜けると山間の田園地帯を進むのであるが、やがて牧野交差点で国道と合流し喧騒の道となる。ここまで来ると本山宿は近い。
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本山宿

本山宿



本山宿入口の石造物群本山浄水場の先、道路標識に従って本山方面へ国道を離れる。するとすぐ左手に本山宿を示す標柱があり、隣に秋葉神社の小さな社殿と周辺から集められたのであろう道祖神や庚申塔、地蔵等の石造物が整列し旅人を迎えてくれる。洗馬宿から本山宿までは約3.3kmと近く、洗馬からは道もそれほど起伏は無いので、徒歩でもそれほど時間はかからない。
旧宗賀南部保育園前というバス停を過ぎ、沿道に家が並び町の様相となりはじめると、「本山そばの里→」の看板が立っている。ここから右に目を向けると、線路脇にポツンと蕎麦屋がある。ここ本山は「そば切り」発祥の地であるという。

本山そばの里宝永3年(1706年)江戸中期の俳人、森川許六により刊行された俳文選集「風俗文選」に、
「蕎麦きりといっぱ、もと信濃本山の里よりはじまり、あまねく世にもてはやされける」
と、あることから、蕎麦を切り麺にして食するようになった発祥がここ本山であるといわれる。また、狂歌師の蜀山人は「本山のそばは名物と誰も知る 荷物をここにおろし大根」と歌を残している。大根おろしを絞った汁に味噌で塩味をつけたものが蕎麦切りに用いられていたので、これにひっかけ洒落たのであろう。ちなみに本山宿内に蕎麦屋らしきものは他に見当たらなかったので、蕎麦切りの本場で地元産の蕎麦を食せるのは「本山そばの里」だけのようだ。

本山宿俵屋本山宿は江戸日本橋から32番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口592人、家数117軒、本陣1、脇本陣1、旅籠34軒。三沢峠・牛首峠を経た初期の中山道が慶長18年(1613年)に廃止され、塩尻峠越えのルートに変更されると、塩尻・洗馬とともに本山宿が新たに設置された。宿場は江戸寄りから下町・中町・上町で形成され、中町に本陣・脇本陣・問屋が置かれていた。本陣は代々小林家が下問屋も兼ねて務め、脇本陣と上問屋を小野家が務めたが、途中脇本陣は花村家に代わっている。

本山宿本陣跡本陣、脇本陣とも遺構は残されていないが、本陣は明治13年(1880年)天皇巡行の際、行在所となったことから「明治天皇本山行在所跡」の石碑が立てられている。また、脇本陣跡には「中山道」の石柱があり、傍らにかつて脇本陣家の庭に彩りを添えていたのであろうか、紅葉の古木がポツンと1本立っている。宿場の現況は中町から上町にかけて宿場の雰囲気を色濃く漂わせており、川口屋・池田屋・若松屋といった元旅籠の平入出桁造りの構えが斜交いに連なり、雲にかすむ山々を背景に独特の景観を残している。
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関沢・釜之沢越えの旧道跡

手前国道と中山道の合流付近に関沢、奥上り坂の国道下に釜之沢が流れている



本山神社大田屋商店で缶コーヒーを買い一休みし、上町バス停まで歩く。この辺りは本山宿の京側宿場外れになるのだが、かつては松本藩への出入りを取り締まった口留番所が置かれ、隣に木戸が設けられていた。しかし見たところ場所は特定できない。ここから左の高台に上れば本山学校跡を偲ぶ公園で、更に跨道橋で国道を渡り奥へ入ると本山神社が鎮座する。そして中山道に歩みを戻し、先へ進めば本山宿の町並みも終わりとなる。今日の行程は本山宿までだが、本山に駅は無いので、更に1.5km程中山道を南下して日出塩駅まで歩く。

国道19号を日出塩へ本山宿を抜けて国道19号と合流する。ここで合流地点に流れる関沢を渡る。現在は普通に歩いていると気付かぬほどの小さな流れであるが、旧道はわざわざ上流30m付近まで迂回して渡っていた。かつては深く切れ落ちた場所を沢が流れ、最短距離を渡るには障害だったのであろう。国道左側の沢沿いには旧道の道筋もかろうじて残っているようだが、ここは現代の恩恵を感じつつ素直に国道を進む。深い山中を行く中山道、そんな場所は無数にあったのだろうが、埋め立てられ平坦な国道を歩いていると、そんなことに気付く術も無い。

釜之沢越えの旧道跡。林道釜ノ沢線の一段右下に旧道らしき痕跡が前を歩くウォーキング中らしきおばちゃんの後ろを、トコトコと歩調を合わせながら国道を行く。そして釜之沢の流れを渡るのであるが、関沢より更に深く切れ落ちていたらしく、ここも旧道は上流に100m以上も迂回して渡河していた。沢の手前に林道釜ノ沢線の入口があるのだが、ここに入ると林道から沢側の一段下に旧道らしき道跡が上流に延びている。しかし藪や木に覆われており、辿るにはかなりの勇気と根性が必要だ。

一里塚跡と日出塩集落そんな旧道跡を辿ってみたかったのだが、今の自分には時間も体力も足りない。明日は憂鬱な月曜日、時計は既に16時半をまわり、駅へ向けて足の回転も自然と速くなる。国道から左斜めに歩行者用の小径に入り、第二中仙道踏切を渡る。そしてシンセイという会社を右に見ながら進むと一里塚跡の標柱を見つける。この一里塚は江戸日本橋から61里目(約240km)の一里塚で、ご多分にもれず両塚に榎が植えられていたようだが、現在痕跡は全く残っていない。

長泉院立場跡の日出塩集落を早足で駆け抜け、ふと気付いた長泉寺に寄る。何をするわけでもなく急ぎ写真だけ撮り、駅へ向かって中山道を離れる。すると駅の手前まで来たところで、ジャストなタイミングで松本方面の列車が入ってくる。ダッシュで乗ろうとするのだが、どういうわけか扉が開かない!何で?と思っていたら、運転手さん曰く「お客さん、後ろから乗ってください」と。そう、この区間を走る中央本線の普通列車はワンマンカーなので、無人駅では降り口と乗り口が違うのだ。しかもボタンを押さないと扉が開かないので気をつけましょう。ちなみに整理券も取り忘れないように!

【第20日目】踏破距離 約10.5km(塩尻宿→洗馬宿→本山宿) 日本橋から239.7km 京都まで294km まだまだ先は長いよ・・・
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是より南、木曽路

「是より南 木曽路」石碑



【第21日目】8月12日(日) 本山宿→贄川宿→奈良井宿



日出塩駅前 熊野神社
夏真っ盛りの8月、日本列島は猛暑に見舞われ、とにかく暑いという以外に表現のしようがない。今回も新宿発7時ちょうどのスーパーあずさ1号に乗車。塩尻駅で中央本線の各駅停車に乗り換え日出塩駅で下車する。やはり長野県も例外なく暑い。(みーーーん みーーん みーん みんみー)山里はセミの大合唱で騒がしく、アスファルトに照りつける陽射しは眩しい。新緑の山々はいつのまにか深緑へと緑の色を濃くし、その背後に控える空の青も深みを増している。ギラギラした太陽が逆に恨めしく感じるほど天気は良い。

11時ちょっと前、日出塩駅から木曽路へ向けて中山道の旅を再開する。まずは日出塩駅前の中山道沿いにある民家前に自動販売機があったので、ここで軽く喉を潤しておく。中山道に今日の一歩を踏み出し、日出塩集落を抜けて国道の高架橋下を潜る。ここで更に線路下を潜り、左の道へ外れれば熊野神社があるので、道中の安全祈願に寄る。そして中部北陸自然歩道の道標に従い歩行者専用道で再び高架橋の下を潜り抜け国道の右側に出る。ここで国道と道筋を共にし、車の騒音を聞きながらひたすら先へ。

ホテルアルファの手前を左に離れる道が初期の中山道
ホテルアルファというラブホが沿道に見えてくる。この手前から国道を左に離れる道が、牛首峠・小野宿・三沢(小野)峠を経て下諏訪宿へ通じる初期の中山道。慶長19年(1614年)に塩尻峠越えのルートに変更されるまで中山道だった道である。ここ桜沢から岡谷市の長地東堀交差点(中山道と伊那道の分岐点)までが廃道となった道筋で、徳川家の家臣大久保長安により敷設された道であった。2つの峠を越えなければならない難所続きの古中山道ともいうべき道がどの程度残っているかわからないが、いずれ機会を作って歩いてみたい。

木曽路入口にあるモニュメント 是より南 木曽路 尾張藩と松本藩の藩境であった桜沢
右眼下に奈良井川を見ながら国道を行くと、中部北陸自然歩道の案内板が立っており、更に先へ行けば「ようこそ木曽へ」と書かれたモニュメントが現れる。そして「是より南 木曽路」の道路標識先で桜沢橋を渡れば、いよいよ中山道のハイライトとも言うべき木曽路のはじまりである。
「歌に絵に其の名を知られたる、木曽路はこの桜沢より神坂に至る南二十余里なり」
桜沢の藤屋百瀬栄が昭和15年に建立した「是より南 木曽路」の石碑裏面に記したものである。木曽路はここ桜沢から贄川宿、奈良井宿を経て鳥居峠を越え、深山幽谷の木曾谷を抜けて落合宿に至る木曽十一宿の路である。古くから良質のヒノキの産地として知られ、現在、妻籠宿や馬籠宿は観光地として有名だ。
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桜沢の高巻き

桜沢の高巻き①
桜沢を越えると左手擁壁斜面の上から高巻きの旧道跡が残っている。高巻きとは沢や淵等の難所を避けるため、沢の上流側や山の斜面に迂回することをいう。桜沢の高巻きも奈良井川に侵食された断崖の淵を避けるために設けられたが、現在は開削され国道が敷かれているのでこの難所に気付くことはない。

桜沢の高巻き②
国道を離れ擁壁斜面を上る。かつては桜沢橋より上流付近で桜沢を渡河し、高巻きを上っていたと思われる。現在はここからアクセスするしかない。

桜沢の高巻き③
擁壁上はちょっとした平坦地になっており柵に囲われた畑がある。柵の横を通り奥へ。

桜沢の高巻き④
畑の奥から山斜面に沿って上る坂道が高巻きの旧道。下を覗くと国道を走る車が小さく見える。

桜沢の高巻き⑤
途中、古そうな石碑と馬頭観世音がありいかにも旧道跡らしい。ガサガサ・・・ここで獣の気配を感じる。それも1匹や2匹ではない。猿の群れだ。集団で襲われてはたまらんと逃げかけるが、向こうも危険を感じたらしく山頂目指して次々と逃げていく。

桜沢の高巻き⑥
落石防止フェンスの設けられた旧道。

桜沢の高巻き⑦
下り道にさしかかる。

桜沢の千手観音像
京側高巻き上り口付近にある千手観音像。

旧中央本線トンネル
千手観音像から山側の草むらに入っていくと旧中央本線の朽ち果てた廃トンネルがある。

旧立場の桜沢集落
国道に出ると旧立場の桜沢集落。高巻きの旧道はここで終わり。
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群青の空と深緑の山々と

群青の空と深緑の山々と



桜沢茶屋本陣跡・百瀬家 桜沢付近の奈良井川にて 片平集落
茶屋本陣が置かれていた旧立場の桜沢集落は、国道の片側だけに家を並べる小さなたたずまいであるが、車やトラックの交通量が多く騒がしい。門前に「明治天皇櫻澤御小休所」碑のある家が、藤屋栄左衛門茶屋本陣跡。そして右眼下に奈良井川を見ながら国道を先へ進む。片平橋を渡り奈良井川を左に従えると、国道は緩やかな上り坂に。登坂車線の手前で右に延びる小径が旧中山道で、片平集落へと入って行く。細い街道を挟んで数軒の家が軒を連ね、平入出桁造りの民家が「ふじや」の屋号を掲げている。立場茶屋だったのであろうか。

鶯着禅寺 国道19号片平付近 若神子一里塚
鶯着(おうちゃく)寺という何とも優雅な名を持つ小さな寺で集落は終わり、広々とした国道の歩道をのんびりと歩く。奈良井川の向こうに見える山々は深い緑で覆われ、盛んな暑さを楽しむかのように群青の空から陽を浴びている。やはり四季折々の様々な風景を見せる日本はすばらしい。やがて若神子一里塚に出会う。国道より一段高い所の擁壁上に片塚だけが現存する。しかし国道の拡幅によって切り崩され、直径約5m、高さ1m程の塚が僅かに残るのみである。江戸日本橋から62里目(約243km)の一里塚で、かつては両塚に榎が植えられていた。

若神子集落 若神子の道祖神
一里塚先から右の小径を上ると若神子集落である。平入出桁造りの民家が構え、所々に水場が設けられている。集落の京側外れには道祖神や庚申像などが旧道に花を添え、小さな諏訪神社も鎮座している。いかにも旧道筋の集落といった風情だ。旧中山道は小さな川を渡って左折すると集落を抜ける。するとY字路の分岐点に中部北陸自然歩道の標識が立っているので、ここを右の上り道に道筋を辿ることになる。

中畑の庚申塔 贄川宿手前付近。旧道らしき道は先の民家で途絶える
木立の中を抜け視界が広がると、左下に国道が見え右手は中畑集落の家々。国道と並進して先へ行けば、再び自然歩道の標柱が立っているので、ここから車道を離れて右の野道に入ろう。道祖神や庚申塔があり、旧道の雰囲気を残している。再び国道を眼下に眺めながら山の斜面に付けられた草付の野道を歩くと、JR贄川駅まで0.6km地点で舗装された坂道を下り国道に出る。旧道はこの辺りから国道と線路の向こう側に延びていた。贄川駅裏手に道筋が残っているようなので国道を横断し、下遠バス停から中央本線を潜って線路沿いの旧道らしき道を進み贄川宿へ・・・と、思いきや民家で行き止まりとなり、そこから贄川宿へアクセスできる道も見出せず。無念・・・引き返す。
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贄川関所

贄川関所



国道を歩き贄川へ
素直に国道19号から贄川(にえかわ)宿へ向かう。途中、贄川駅前の森川酒店でアクエリアスを買い、渇いた喉を潤す。すぐ先にある贄川宿入口の看板から跨線橋を渡り線路の向こう側へ。すると冠木門の奥に復元された贄川関所がでんと構え、今も旅人の往来を監視しているかのような厳しさである。

「贄川の町家六七十ばかり有り、町の東の入口右の方に番所有り」

江戸前・中期の本草学者で儒学者、貝原益軒の「木曾路之記」に記された一文である。ここ贄川関所は豊臣政権下の時代、木曽五木の持ち出しを取り締まる材木番所として設けられたのに始まり、後に四大関所の一つとなる福島関所が設置されると、その副関としての役割を担った。明治2年(1869年)に廃止されるまで、「入鉄砲に出女」はもちろんのこと木材や木製品を取り締まっていた。

かつての番所の厳しさが漂う贄川関所
贄川関所は廃止された際に取り壊されたのだが、当時の配置図や資料に基づき昭和51年に復元された。入館料200円を払えば内部を見学できる。中では関所についての展示がされており、受付の女性の方が案内人として親切丁寧に説明してくれる。それにしても外は酷暑だというのに建物の中は涼しい。エアコンどころか扇風機すらないにもかかわらず、心地よいひんやりとした空気が体を撫でる。案内人の方も「冬はさすがに寒いのですが、夏はエアコンも無いのに涼しいのですよ。ゆっくり休んでいって下さい。」と笑顔で言う。

雀の宮
先ほど行き止まりとなった贄川駅裏手の旧道跡を、逆側のこちらからアクセスしてみる。贄川関所から本山方面へ少し戻り急坂の野道を下ると、途中斜面の藪の中に「雀の宮」と呼ばれる石碑群がある。かつてここにお宮があり番所を控えた旅人が身繕いをした場所といわれる。ということはこの辺りが旧道跡と思われる。ここから踏み跡を辿りながら薮を掻き分け、駅裏の線路脇に出る。ここから線路と畑の間にある小道を戻ってみるが、やはり薮に行く手を遮られる。ここで贄川駅裏手の旧道跡を辿るのは無理との結論。中山道の旧道跡を歩きたいのであれば、贄川側から雀の宮まで歩いてみると良いだろう。
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贄川宿

深澤家住宅



贄川宿の町並み
贄川(にえかわ)宿は江戸日本橋から33番目の宿場で、天保14年(1843年)には人口545人、家数124軒、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒。古くは温泉が湧き出していたことから熱川(にえかわ)と称したが、後に温泉が枯渇したため現在の贄川に改められたとの伝承が残る。宿場近郊にある麻衣廼(あさぎぬの)神社の本社である諏訪大社の神事の贄として、ここで獲れた魚を献じていたことから、この贄の字が当てられたという。ちなみに贄とは神仏に捧げる土地の産物のことで、生贄(いけにえ)という言葉が最もわかりやすいだろう。

昭和5年(1930年)の大火で宿場の大半が焼けてしまい、現在宿場の面影はほとんど残されていないが、かつて加納屋という屋号で商家を営んでいた深澤家住宅が僅かに切妻・出桁造りの建物を残している。深澤家は行商を中心に販路を京都や大阪にまで拡げる贄川屈指の商家であった。主屋は嘉永4年(1851年)の大火後の再建。主屋・北蔵・南蔵の三棟が国重要文化財に指定される。

まるはち漆器店  麻衣廼神社の御柱
宿内には漆器を扱う店がちらほらと見える。宿場を外れた場所に国道19号が通っているため、車の通行も少なく静かな町である。宿場内から中山道を外れ十一面観音を本尊に祀る観音寺へ向かう。この寺の山門は寛政4年(1792年)に再建され、楢川村有形文化財に指定される。そして寺の西側に麻衣廼神社が鎮座する。天慶年間(938~947年)の創建で、文禄年間(1592~1596年)現在地に再建。諏訪大社と同じく建御名方命を祭神に祀り、6年目毎の寅年と申年に御柱祭りが行われる。境内には4本の御柱が立てられている。

贄川のトチ
ひのきや漆器店の先で右折し枡形の道筋を辿る。ここが宿場の京側外れで、贄川宿は終わり。跨線橋を渡って国道に出ると「贄川のトチ」の看板があったので寄ってみる。国道を右に入った山裾にトチの大木が見事な太い幹と枝ぶりを見せている。元文5年(1740年)の文献に「栃の大木」と記述されているらしく、相当の老木であることは確かある。しかし樹勢は全く衰えを感じさせず、なおも成長しているのではないだろうか。昭和44年(1969年)長野県天然記念物に指定。
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

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