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蛇抜け

木曽谷の水は清々しく美しい。花崗岩質の山肌を伝ってきた水はコバルトブルーともエメラルドグリーンとも表現できる美しい色に染まり、木曽川はそんないくつのもの沢水を集めて谷底を這う。しかし木曽谷では古の昔からこの美しい沢水が時に住民に対し牙をむいてきた。

三留野宿を抜け梨沢橋を渡り先へ進むと、蛇抜(じゃぬけ)橋という何とも意味深な名を持つ橋に出会う。蛇抜けとは?・・・大蛇伝説でもあるのかと思ったら大間違い。この言葉は古くから木曽谷の人々が怖れてきた山津波ともいわれる土石流のことで、梅雨時等の大雨が降ったときに沢伝いの土砂が崩れ、沢を蛇が抜けていくように土石流が襲ってくるという。木曽谷ではこの蛇抜けが度々発生し、多くの家屋を押し流し人命が失われてきた。蛇抜橋は過去にその自然災害が起こったことを物語っているわけだ。

白い雨が降る。大雨が降り続くのに沢の水が止まる。
蛇抜けが起こる前、木曽谷での言い伝えである。


梨沢橋 読書小学校入口
梨沢橋を渡り三留野宿を抜けると、読書(よみかき)小学校という一風変わった名前の学校前を通る。読書とはこの周辺一帯の地名。明治7年(1874年)に与川村(がわ)、三留野村(どの)、柿其村(かきぞれ)が合併し、それぞれの頭文字を取り読書(よみかき)村という地名ができた。後の昭和36年(1961年)読書村、吾妻村、田立村が合併し、現在の南木曽(なぎそ)町が発足した。


蛇抜橋
これが蛇抜橋。過去に蛇抜けが起きたことを想像するには難しいほど、橋下を流れる沢は小さくか細い流れであった。


蛇抜橋
蛇抜橋は見た通りの頼りない木製の橋であるが、普通に車が走り抜けていく。


南木曽駅
蛇抜橋を渡ると右眼下に南木曽駅が見える。奥に小さく見える橋が桃介橋。大正の電力王、福沢桃介が読書ダム建設の運搬路として造った吊り橋で、国の重要文化財に指定される。


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

和合の枝垂梅とSLはひっそりと

南木曽駅のちょうど裏手に位置する和合集落。ここは三留野宿と妻籠宿の中間点。中山道を歩いてきて和合集落まで来れば妻籠宿は近い。昨今、妻籠宿は中山道の最も有名な宿場町といっても過言ではないほど有名な観光地となり、大勢の観光客が押し寄せるが、この南木曽駅近くの中山道はほとんど行き交う人もなく寂しい。

しかしである。いきなり大型バスや車で妻籠宿に乗り付けるよりも、南木曽駅で下車してこの和合集落辺りから中山道を歩んで妻籠宿まで行く方が存分に宿場気分を味わえるというものである。険しい中山道を歩んだ末に辿り着くからこそ、宿場町の本来の姿を垣間見ることができるのだと思う。中山道あっての妻籠宿、それを忘れてはならない。

和合集落辺りから妻籠宿までは何も無いように見えて、街道の様子を伝えるに十分な名所旧跡が点在し、道筋も古きよき雰囲気を残している。


園原先生碑
園原旧富(そのはらふるとみ)は元禄16年(1703年)ここ和合の神官の家に生まれ、神祇管領長だった吉田兼敬に師事して神学を学んだ。後に「神学則」を著し、「木曽古道記」「神心問答」「御坂越記」「木曽名物記」などの著作を残した。この記念碑は死後5年目の天明元年(1781年)に学徳を慕う門人等によって屋敷跡に建てられたものである。


和合集落を行く旧中山道
和合集落を行く旧中山道。


和合集落にて
和合集落にて。須原宿で見た水舟がここにもあった。


和合の枝垂梅
木曽谷有数の酒造家だった遠山家屋敷跡に残る枝垂梅。庭木として愛育されてきた枝垂梅は、屋敷を失い行き交う人も無い街道筋にひっそりと立つ。今は枝に葉を残しているだけだが、梅の花が咲き誇る姿を見てみたい。


D51(デコイチ)
かつて木曽谷を走り抜けたD51(デコイチ)。和合付近の中央線の旧線上に展示されている。


旧中山道・和合付近 旧中山道・和合付近
和合集落を過ぎ、上り坂の旧中山道を歩む。


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かぶと観音と振袖の松

神戸集落の中を進んでいくと、前方に大きな松が見えてくる。これは巴御前ゆかりの振袖の松。その少し下ったところにかぶと観音がある。木曽義仲が兜の中に納めていた八幡座の観音像を祀ったことがおこりと伝わる。ここから「中山道歴史の道」の道標に従い坂道を下っていけば、神戸沢を渡り合戸立場跡。そして戦沢橋を渡り美しい山々を眺めながら今度は石畳の坂を上っていく。


神戸集落
神戸集落の家並み。


振袖の松
巴御前ゆかりの振袖の松。義仲が弓を引くのに邪魔になるので、巴御前が袖を振って倒したという。しかしながら、しっかり根付いた立派な松である。


かぶと観音
かぶと観音。治承4年(1180年)に平家打倒の兵を挙げた木曽義仲が、木曽谷の南の押さえとして築いた妻籠城の鬼門に当たるこの地に祠を建て、兜の中に納めていた八幡座の観音像を祀ったという。


神戸沢 合戸立場跡
神戸沢を渡り合戸立場跡を行く。


戦沢橋 戦沢にて
立場跡からダラダラと坂道を下り戦沢橋を渡る。


戦沢付近の石畳道
今度は石畳がきれいに敷かれた上り坂を進む。この石畳は近年のもの。


戦沢付近からの眺め
妻籠宿へ向けて美しい山々を眺めながら中山道を歩こう。


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へんび石は蛇の頭?

上久保の一里塚、良寛の歌碑を見て先へ進むと、旧中仙道名石の一つという蛇石(へんびいし)がある。蛇の頭のように見えることからその名が付いたというが、かなり想像を逞しくすればそう見えないこともない。名を付けた先人に失礼かなぁ・・・。ただ、相当の大石であることは確かである。


上久保の一里塚
上久保の一里塚は両塚とも現存している。説明板には江戸から数えて78里目の一里塚とあるが、80里目(約314km)が正解。


良寛の碑 中山道の道標
一里塚を過ぎると良寛の歌碑と中山道の道標を見つける。歌碑には良寛が木曽路を通った折に詠んだ二首のうちの一つが刻まれている。

木曽路にて
この暮れの もの悲しきにわかくさの
妻呼びたてて 小牡鹿鳴くも




中山道蛇石の道標
更に歩みを進めていくと、民家前の路傍に中山道蛇石の道標が置かれている。「右、つまご宿 左、志ん道(新道) 下り、旧道」と刻む。昭和45年(1970年)の建立。


蛇石付近にて
蛇石付近にて。


蛇石
これが蛇石。蛇石と書いて「へんびいし」と読む。蛇の頭のように見えることからこの名が付いた。どうなんでしょうか・・・
うっかり通り過ぎてしまうほど現在は地味な大石だが、「旧中仙道名石の一つ」と、書かれた木札が立て掛けられている。往時は中山道を行き交う人々の目を惹いたのであろうが、現在は時代に取り残され忘れられたかのような趣き。木札も朽ちかけているのが悲しい。


蛇石付近の旧中山道
蛇石付近の旧中山道。


しろやま茶屋
廃屋と化している「しろやま茶屋」。お食事処だったのであろうか、付近の街道は行き交う人もほとんど無く、店を閉めてしまったようだ。名の由来となった妻籠城の城山から近く、ここからすぐ先の中山道から妻籠城址へアクセスできる。


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妻籠城址

妻籠城は木曽義仲が築いたものではなかったのか?妻籠城址入口にさしかかった所で、ふと疑問に思った。かぶと観音にあった説明板には「木曽義仲が木曽谷の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門に当たる神戸に祠を建て、義仲の兜の八幡座を祀った・・・」とある。しかしこの妻籠城の入口にある説明板には「いつ誰によって築かれたか明らかではないが、室町中期には築城されていたと推察される。」と、あるわけだ。室町中期というと義仲が源義経に敗れ、無念の死を遂げてから約300年もの月日が流れている。確かな資料が無いため、その頃にはあったらしいとしか言えないようだ。

しろやま茶屋を過ぎ中山道から西側の山中へ入ると、整備されて歩きやすい山道が山頂へ続いている。ここを10分程登っていくと妻籠城の主郭跡に辿り着く。妻籠城は木曽川と蘭川の合流点にある独立した山一帯を縄張りとし、西側の北から南にかけて両河川が通行を阻み、東側は山稜地帯が南木曽岳を頂点に続く。しかも城から南木曽岳にかけて「妻の神土塁」という防御ラインまで設けられていた。中山道はその山間をわずかな平地を縫うように南北に延びる。

主郭跡に立ってみると、妻籠宿から三留野宿にかけての木曽谷が一望でき、城を築くには好立地であることがよくわかる。木曽義仲がこの場所に城とは言わずとも、砦くらいは築いたであろうことは想像できる。時代が戦国乱世の風雲急を告げると、本格的な山城に改築されていったのであろう。実際に天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いで豊臣方の木曽勢3百が篭城し、徳川方7千の軍勢を退けている。


妻籠城址入口付近
妻籠城址入口付近。整備された山道を辿っていけば主郭跡に着く。


妻籠城址
妻籠城主郭跡。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時、豊臣方木曽義昌の家臣、山村良勝が寡兵で篭城し、徳川方の大軍を退けた。


妻籠城址から妻籠宿を望む
妻籠城址から妻籠宿を一望。


妻籠城址から木曽駒ケ岳を望む
妻籠城址からは冠雪した木曽駒ケ岳がきれいに望めた。


いよいよ妻籠宿へ
妻籠城址を降りて、いよいよ妻籠宿へ。


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妻籠宿

言わずもがな、妻籠宿は宿場町の趣きを色濃く残す有名な観光地。昭和51年(1976年)重要伝統的建造物群保存地区の第1号に指定され、その町並みは古きよき日本の姿を今に伝える。テレビや旅行雑誌等数多くのメディアに取り上げられ、今日も多くの観光客でごった返している。世界遺産登録へ向けての動きもあり、今後更に注目を浴びることだろう。

木曽川の支流、蘭川(あららぎがわ)東岸に位置する妻籠宿。天保14年(1843年)当時の宿場は南北二町三十間(約273m)の長さで、人口418人、家数83軒、本陣1、脇本陣1、旅籠31軒。北(江戸より)の恋野の坂を下ったところから下町、中町、上町と続き、枡形を挟んで寺下、尾又の町並みとなる。天保期から江戸時代後期にかけて宿場の規模はかなり大きくなったようだ。江戸日本橋から42番目の宿場。


妻籠宿恋野
妻籠宿の入口にあたる恋野の町並み。この辺りでは観光客もチラホラ。


鯉岩
木曽路名所図会にも描かれた鯉岩。かつては水面から飛び出たような上半身の鯉形だったが、明治24年(1891年)の濃尾大地震で移動し、形が変わってしまったという。名所図会の絵と比較してみると、目から口にかけての部分が欠落したようだ。


口留番所跡
口留番所は通行人や物資の出入りを監視するために設けられた小規模の関所。最近発見された正保3年(1646年)と推定される史料にその名が出てくるが、いつ頃廃止になったのかは明らかでない。


熊谷家住宅
江戸時代後期の長屋建築を残す熊谷家住宅。左右の長屋が取り壊され、残った間取りの右半分と左半分を使って住居としていた。


恋野の坂
恋野の坂を下って妻籠宿下町へ。


妻籠宿下町
妻籠宿下町の町並み。多くの観光客が行き交い、宿場だった頃より賑やかなのではなかろうか。


妻籠宿中町
妻籠宿中町の町並み。この辺りが妻籠宿の中心で、本陣と脇本陣が置かれていた。本陣は江戸時代後期の間取図をもとに忠実に復元され、脇本陣を務めた林家住宅とともに公開されている。


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脇本陣奥谷

妻籠宿脇本陣と問屋を務めた林家は「奥谷」の屋号で酒造業を家業とし、昭和8年(1933年)まで「鷺娘」という酒を醸造していた。現在の建物は明治10年(1877年)の建築で総檜造り。案内人の説明を聞きながら屋敷内を見学できる。裏手には歴史資料館が併設されており、木曽谷や宿場に関する歴史資料や模型が展示され興味深い。


脇本陣奥谷



囲炉裏の間



手前から竹の間・宝の間・上座の間



脇本陣奥谷にて



脇本陣奥谷二階



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妻籠宿本陣

妻籠宿本陣は代々島崎家が務めた。隣の宿場、馬籠宿本陣を務めていた島崎家とは遠縁にあたる。馬籠島崎家は文豪島崎藤村の生家で、その生母ぬいがここ妻籠島崎家から嫁いだ。また、馬籠島崎家からは藤村の次兄広助が養子に入り、妻籠島崎家最後の当主となった。明治維新を迎え宿駅制度が廃止されると、その役目を終えた本陣は取り壊されてしまった。現在の建物は平成7年の復元。


冠木門



台所



玄関の間



縁側



上段の間



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宿場の賑わいの後に

夕暮が迫り徐々に人が減りはじめた頃、桝形から寺下の町並みを抜けて宿場南外れの尾又まで足を延ばす。そして尾又から夕暮れの妻籠宿内を戻ってバス乗り場へ向かう。南木曽駅方面のバスは17時26分着。30分程時間があったので駐車場内にある売店に寄り、五平餅を食べながら待つことに。それにしてもこの五平餅とやらの美味しいこと!トロトロの味噌(醤油?)ダレが絶妙で、思わず皿を舐めようかと思ったほどだ。


妻籠宿桝形付近
桝形付近の町並み。


松代屋
創業1804年の旅籠松代屋。元々は木賃宿だったという。


下嵯峨屋
下嵯峨屋の建物は長屋の1戸を解体復元したもの。妻籠宿における庶民の暮らしぶりがうかがい知れる。


延命地蔵堂
延命地蔵堂には直径2mの自然石が安置されている。これは文化10年(1813年)蘭川の河原に地蔵尊が浮かび出ている石があり、当時の光徳寺住職と村人たちがここまで運びあげたという。


妻籠宿寺下
妻籠宿寺下の町並み。光徳寺の寺下に位置することからこの地名が付いたと思われる。


上嵯峨屋
木賃宿の雰囲気を伝える上嵯峨屋。木賃宿とは食糧持参で自炊、大部屋が原則である庶民の旅籠。ほとんどが宿場の外れに置かれ、上嵯峨屋も例外なく寺下の外れにある。木賃宿の木賃とは薪代のことを指す。


妻籠宿尾又
妻籠宿尾又の町並み。昔はここから伊奈道(飯田道)が分岐していたことから、この地名が付いたと思われる。しかし宝暦年間(1760年頃)に飯田道が付け替えられ、分岐もここから約600m馬籠寄りの橋場に移動した。


夕暮れの妻籠宿
尾又の外れでUターンし、夕暮れの妻籠宿をとぼとぼ歩きバス乗り場へ。

そして五平餅を食べバス停でバスの到着を待っていたわけだが、17時半を過ぎてもバスはいっこうに来る気配がない。辺りは暗さを増し、先ほどの賑わいが嘘のように静まり返っている。不安になって近くのタクシー会社の事務所に行って聞いてみたところ、その時間のバスは今日は来ないという。何ゆえか・・・仕方なくタクシーを呼んでもらい、ここでテレビを見ながらしばし待つことに。

すると、テレビの中でプロゴルファーの青木功が満面の笑みを浮かべている。何があったのかと思いきや、65歳にしてシニアツアーで優勝したというではないか!しかもエージシュートのおまけ付きときたもんだ。いやはや、民宿ほていやのご主人といい、青木功といい、日本のおじいさんは元気だ。

【第27日目】踏破距離 約15.7km(野尻宿→三留野宿→妻籠宿)日本橋から319.6km 京都まで214km まだまだ先は長い・・


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夜明け前

【第28日目】11月24日(土) 妻籠宿→馬籠宿



木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。

島崎藤村の名作「夜明け前」はこのプロローグからはじまる。舞台はこの長い木曽谷の端、美濃との境に位置する馬籠宿。本陣を努める青山半蔵の目を通して、幕末から明治にかけて御一新の激動期を描いた大作である。この青山半蔵のモデルとなったのが、藤村の父島崎正樹なのだ。私もこの木曽谷を旅するにあたって、大急ぎで読み進めてきたのだが、豊かな情感で描出された木曽谷の様子、そして明治維新における一庶民の有様がありありと蘇えり、印象深い1冊となった。

妻籠宿から馬籠宿の間の中山道は青山半蔵も足しげく行き交った道。木曽路の中でも歩くのを最も楽しみにしていた道である。12時半頃再び妻籠宿の地に立ち、すっかりその虜になってしまった五平餅で昼食を済ませ、いざ青山半蔵の生きた馬篭宿へ。


五平餅 吊し柿
まずは駐車場内にある売店で五平餅を食べて腹を満たす。やはり美味しい!これで先に控える馬籠峠越えに向けて体力は万全だ。ふと店先を見ると吊し柿が・・・郷愁を誘います。


光徳寺のはんこ
妻籠宿を見下ろす高台に位置する光徳寺。天文11年(1542年)土地の住人道清が開基したと伝わる。ここの門前で番犬「はんこ」が寺を守っている。といっても、ものすごくおとなしく人懐っこいはんこであった。


妻籠宿
今日も妻籠宿は観光客で大賑わい。


妻籠宿南側入口
妻籠宿南側入口付近。旧中山道が国道256号に合流したところで妻籠宿ともお別れ。


旧中山道・妻籠宿南側入口付近
いざ、馬籠宿へ。


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大妻籠

妻籠宿を出ると蘭川に沿って旧中山道は先へ延びる。その蘭川を渡る手前に橋場の集落があり、ここはかつての中山道と飯田街道の分岐点。そのため追分とも呼ばれ、「飯田道 中山道」と刻まれた石柱道標が今も健在に立つ。蘭川と別れて神明坂を上がり坂上の小さな集落を過ぎると、道は神明橋に向けて下り坂となり大妻籠の集落へ。妻籠宿のような賑わいはないが、ここも街道筋の雰囲気漂う町並みを残していた。


橋場の石柱道標
橋場集落に残る石柱道標。ここはかつて中山道と飯田道の追分(分岐点)だった。


蘭川
蘭川を渡る。木曽路の醍醐味の一つは谷底に這う川である。贄川宿から奈良井宿までは奈良井川、鳥居峠を越えて藪原宿から三留野宿までは木曽川、そして妻籠宿から蘭川を従えながら中山道は続くわけだ。


神明坂
神明坂を上る。秋の深まりを感じさせる色付いた木々の中を。


神明茶屋
坂上まで来ると神明茶屋なる民宿がある。この辺りの旧家はかつて茶屋を営んでいたのであろう。


神明橋
坂道を下り神明橋を渡る。


大妻籠集落へ
神明橋を最下点に再び坂道を上がると大妻籠の集落へと入っていく。


大妻籠集落
大妻籠集落の町並み。


大妻籠にて
大妻籠にて。石置き屋根の水車小屋。何とも表現しがたい味があります。


大妻籠集落
大妻籠の集落では本卯建を上げる出桁造りの豪壮な家並みを見ることができる。妻籠宿とは一風違った良い雰囲気を残しているのだが、観光客はほとんどいない。


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藤原家住宅

大妻籠から中山道を離れて西側の大地を上って行くと藤原家住宅がある。中山道から藤原家にアクセスできる道の入口に説明板が掲げられ、非公開とあったのだが外観だけでも見ておこうかと行ってみることに。藤原家住宅は間取り、構造、仕上がりから17世紀中頃までさかのぼる古建築で、長野県内の民家で最も古いクラスの家だという。県宝に指定。


藤原家住宅
藤原家住宅の外観。切妻造妻入りの平屋に石置屋根、たたずまいに古さを感じる。


藤原家住宅
戸が開いていたのでちょっとだけ内部を拝見。


藤原家住宅
藤原家住宅の内部。


色づく木々
中山道へ戻る途中。木々の色付きが秋の深まりを実感させる。


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馬籠峠を控えて

民宿こおしんづかを過ぎとうがめ沢を渡ると、いよいよ馬籠峠の上りとなる。上り口はきれいに石畳が敷かれ街道歩きの気分を盛り上げてくれる。やがて下り谷の集落へ。松本城主小笠原貞慶の重臣を祀る倉科祖霊社があり、その先で道は二又に分かれる。左へ続く道が歴史の道、男滝・女滝を見に来たのであれば右へ行く。この辺りは険阻な山間のため、中山道は幾度か付け替えられ道筋がはっきりしない。


民宿こおしんづか
民宿こおしんづかの横を流れるぎとうがめ沢を渡ると、いよいよ馬籠峠の上りとなる。


馬籠峠旧道
鬱蒼とした森林の中を延びる石畳の旧道は夜明け前の情景そのもの。


馬籠峠旧道
石畳の道が途切れ、いったん下りになる。下った先は下り谷の集落。


倉科祖霊社
下り谷にある倉科祖霊社。松本城主小笠原貞慶の重臣、倉科朝軌の霊が祀られている。天正14年(1586年)倉科朝軌は大阪の豊臣秀吉のもとへ使いに行き、その帰りに馬籠峠で土豪に襲われてここ下り谷の地で非業の死を遂げた。


男滝女滝との分かれ道に立つ庚申塔
倉科祖霊社の先で道は二又に分かれる。左の道が歴史の道に指定される道で、写真の庚申塔が目印。かつての中山道だったと思われ、男滝と女滝の上を通っている。


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男滝と女滝

前述したが男滝・女滝付近の中山道は幾度か付け替えられている。まずは歴史の道に指定されている滝上の道を歩き、男埵(おだる)川の川岸に辿り着いたところで県道を妻籠方面に戻って男滝・女滝へ。ここの説明板によると「幕末頃までの中山道は滝の下を通っていたものと思われる。」と、書かれている。いずれにしても、かつてはどちらも中山道だったのであろう。勝手な想像であるが、大名行列や牛馬を曳く牛方は勾配の緩やかな滝上の道を通り、身軽な旅人は滝見物がてら滝下の道を通ったのではなかろうか。


男滝女滝上の旧道 男滝女滝上の旧道
歴史の道に指定されている滝上の旧道。比較的勾配が緩やかで道幅も広く歩きやすい。


女滝を上から望む
女滝を上から眺められる。


滝上の旧道
木曽五木の一つ、高野槇が林立する中を進む。


滝上の旧道
県道と合流。写真に見える県道のすぐ右側に男埵川が流れている。ここから県道を妻籠方面に戻り、男滝・女滝へ。


男滝
落差はないが幅が広く水量の多い男滝。


女滝
線は細いが高所から一気に落水する女滝。


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馬籠峠越え①

県道と歴史の道の合流点に戻る。ここから少し県道を進むと男埵(おだる)川の対岸に旧道の道筋が現れる。小さな木橋で対岸へ渡り旧道を歩んで行けば、天狗の腰掛けと呼ばれるサワラの大木に出会い、そして旧道は更に山中を緩やかに上っていく。木々の合間に見えていた空が一気に広がると、一石栃(いちこくとち)の白木改番所(しらきあらためばんしょ)跡に着く。番所跡は更地の広場と化しているが、旧道には簡易な番所門が設けられ、その奥に立場茶屋跡の建物が見える。ここも往時の様子を感じる雰囲気ある場所だ。


男埵川
県道から男埵川の対岸へ渡る。この先、土道の旧道を辿ることができる。


馬籠峠旧道
小さな沢を渡りながら美しい山林の中を進もう。


馬籠峠旧道
石畳が敷かれる馬籠峠旧道。車道を横切って先へ続く。


天狗の腰掛け
天狗の腰掛けと呼ばれるサワラの大木。昔から山の神や天狗が腰を掛けて休む場所と信じられてきた。傷つけたり切ったりすると祟りがあると恐れられ、杣人(そまびと)は木の下を歩くことも嫌がったという。


一石栃白木改番所跡
木曽木材の移出を取り締まるため、尾張藩によって置かれた一石栃の白木改番所。尾張藩にとって木曽五木をはじめとする森林資源は重要な収入源であり、小枝一本に至るまで厳重に調べられたという。当初は男滝女滝付近の下り谷に番所があったが、蛇抜け(土石流)の被害があり、江戸時代中期頃この一石栃に移された。奥に見えるのは立場茶屋跡の建物。


一石栃の立場茶屋跡
見事な赤松が目を惹く一石栃の立場茶屋跡。一石栃の集落は往時7軒ほどの家があったが、現在はかつて立場茶屋を営んでいた牧野家住宅の1軒が残るのみである。江戸時代後期の建築。


子安観音と枝垂桜
子安観音は一石栃の旧道を少し離れた場所にある。古くから一石栃沢流域に住んでいるものは難産しないという言い伝えがあり、その信仰の対象として子安観音が祀られてきた。文化年中(1810年頃)蛇抜けの被害により現在地に移ったが、その後慶応元年(1865年)と明治37年(1904年)にもやはり大きな蛇抜けに遭っている。お堂前に立つ枝垂桜の古木はその二度の蛇抜けに耐えてきたという。


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馬籠峠越え②

馬籠峠へ向けて。馬籠峠越えの旧道は比較的緩やかで、石畳や均された土道に整備されている。幾つか越える沢にはどれも木橋が架けられ、道が崩れて危険な場所には小さいながらも桟まである。中山道の厳しい峠を経験してきた者にとっては少々物足りないかもしれないが、歩きやすくウォーキングコースとしてはもってこいの道だ。


馬籠宿へ
さてさて、馬籠宿へ向けて峠道を登ろう。


馬籠峠旧道
落ち葉を踏みしめて。


馬籠峠旧道
この石畳の先で一般道と合流。馬籠峠はすぐそこだ。


峠の茶屋
馬籠峠頂上にある峠の茶屋。休憩したいところだが、日が暮れ始めたので先を急ぐ。


馬籠峠
馬籠峠を越えればいよいよ岐阜県に入る。


馬籠峠の石碑
馬籠峠の石碑。正岡子規の句が刻まれている。

白雲や 青葉若葉の 三十里



馬籠峠より
馬籠峠から望む。沈みゆく陽光を浴びる木葉は、晩秋の趣に色付いていた。


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馬籠峠越え③

馬籠峠を越えると長かった木曽谷の旅も終わりか。そんな感慨にふけるほど遠く視界に広がる景色は深山幽谷の木曽谷とは趣を異にする。行く手の山々は低くなり、その先はやがて濃尾平野へとつながる。峠の集落はその馬籠峠を越えたすぐ先から熊野神社を鎮守にして家並みを連ねる。かつては牛方を生業としてきた人々が暮らした集落は、宝暦12年(1762年)の大火後に再建された家並みを保っている。


熊野神社
峠の集落に鎮座する熊野神社。


峠の集落
峠の集落は牛方を稼業とする人々が暮らしてきた。牛方は俗に岡船と呼ばれ、牛を使って荷物を運搬してきた。ここの牛方は美濃の今渡から長野の善光寺辺りまで荷物を運んでいたという。安政3年(1856年)中津川の問屋の不当な扱いに対して、荷役拒否という強硬手段に出たことで知られ、島崎藤村の「夜明け前」にもその様子が描かれている。


桔梗屋
峠の集落にある民宿の桔梗屋。


峠の集落
峠の集落の家並み。かつては多くの牛が闊歩していたのであろう。


十返舎一九の碑
集落の外れにある十返舎一九の碑。

渋皮の むけし女は見えねども 栗のこわめし ここの名物

古くから栗のこわめしは馬籠峠の名物だった。十返舎一九は文政2年(1819年)に木曽路を訪れ、この狂歌を詠んだ。


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夜更け前

日没が近づき辺りは急速に暗さを増して行く。峠の集落を出ると清水立場跡を経て梨乃木坂の下りとなる。坂の途中、旧道と県道が交差したところで右の岩田橋を渡ると水車塚なるものがある。ここに住んでいた一家4人の惨劇を伝える塚なのだが、詳細は後ほど。いよいよここで日没を迎え、これ以上道路灯の無い旧道を歩くのは無理と判断し、ここからは県道を辿って馬籠宿へ。


清水立場跡
ここが清水立場跡らしいが、特に何も無い。


お食事処樹梨
お食事処樹梨の先から石畳に舗装された梨乃木坂を下る。


梨乃木坂
夕闇に暮れゆく梨乃木坂。


水車塚
岩田橋の袂にある水車塚。ここにある説明板によると、明治37年(1904年)7月、ここに住んでいた一家4人が家ごと押し流されて惨死。難を逃れた家族の一人、蜂谷義一が島崎藤村と親交があったことから、後年に供養のため碑文を依頼してこの水車塚を建立したという。。「山家にありて 水にうもれたる 蜂谷の家族 四人の記念に 島崎藤村しるす」と碑文が刻まれている。


揺れるススキ
ゆらゆらと風に揺れるススキ。山家の里の晩秋を感じます。


夜更け前
夜更け前、馬籠宿へ。


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馬籠宿夜景

西の空に残るわずかな夕焼け空も深い闇の中に消え失せようとする頃、ようやく馬籠宿に到着。すでにほとんどの観光客が引き払い静寂に包まれた山家の里は、今日の1日を終え長い夜の眠りにつく支度を整えているかのよう。空と山と、そして宿場と人も。


馬籠宿の夜



八幡屋



馬籠宿の夜



馬籠宿の夜



馬籠茶屋
今日の宿泊先は本陣跡の隣にある民宿馬籠茶屋。宿泊客は私も含め14人。うち2人が外国人の若いカップルだった。外国人が宿泊することも多いのか、部屋には「How to lay out your futon」なる説明書きも。


馬籠茶屋にて
【第28日目】踏破距離 約7.8km(妻籠宿→馬籠宿)日本橋から327.4km 京都まで207km
まだまだ先は長い・・


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馬籠宿

【第29日目】11月25日(日) 馬籠宿→落合宿→中津川宿



『馬籠は木曽十一宿の一つで、この長い渓谷の尽きたところにある。西よりする木曽路の最初の入口にあたる。そこは美濃境にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲りくねった山坂を攀じ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪を凌ぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札の立つところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役、水役、七里役(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだその他に宿内の控えとなっている小名の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町、みつや、横手、中のかのや、岩田、峠などの部落がそれだ。そこの宿はずれでは狸の膏薬を売る。名物栗こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山の麓の方にひらけて、美濃の平野を望むことの出来るような位置にもある。何となく西の空気も通って来るようなところだ。』

島崎藤村の小説「夜明け前」から引用。当時の馬籠宿の様子がひしひしと伝わってくる。しかし明治維新を迎えて宿駅制度が廃止され、さらに物資輸送の手段が鉄道へと移り変わる中で、馬籠宿は時代から取り残され陸の孤島となっていったようだ。大田南畝(蜀山人)は「壬戊紀行」で次のように紹介している。
『駅舎のさまひなびたり 飯もりてうる家に 御支度所といへる札を出せり 又うり銭ありなど書つけたり 宿のうちより坂を上り 宿をはなれて又つゞらおりなる坂をのぼる これ馬籠峠なり 木曾のみ坂といふは是なりとぞ 人々けはしき道にゆきなやめるに 雨さへふり出ぬ』

明治28年(1895年)、大正4年(1915年)と二度にわたって大火に遭い、宿場時代の建築はほとんど失われてしまったが、近年、妻籠宿とともに観光地として再生し、今日も多くの観光客で賑わっている。天保14年(1843年)当時の宿場は三町三十三間(約387m)の長さで、人口717人、家数69軒、本陣1、脇本陣1、旅籠18軒。本陣は島崎藤村の生家である。


馬籠上陣場
宿場の北側はずれにある馬籠上陣場の展望台。天正12年(1584年)豊臣秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦いで、豊臣方の島崎重通が篭る馬籠城を攻略すべく、徳川方兵七千の一部がこの地に陣を敷いた。故にここら辺り一帯の地名を陣場と呼ぶようになった。


恵那山
上陣場からは遠く恵那山や落合の町を見晴らせる。


馬籠宿北側入口
馬籠宿の北側入口。石畳の下り坂が宿内へ続く。


馬籠宿
馬籠宿の先は美濃の国。山深い木曽の峡谷を抜けてきた旅人は、馬籠から先に広がる景色を見て狭隘の地から開放された気分に浸ったことだろう。


馬籠宿
朝の馬籠宿にて。これから大勢の観光客を迎える。


馬籠宿脇本陣
馬籠宿脇本陣は明治28年(1895年)の大火で焼失し、現在史料館となっている。脇本陣を代々務めたのが蜂谷家で、八幡屋の屋号で造り酒屋を営んでいた。「夜明け前」では桝田屋の名で登場する。


大黒屋
造り酒屋で問屋だった大黒屋は両隣が本陣と脇本陣の宿場中心に位置する。「夜明け前」では伏見屋の名で登場し、主人の金兵衛と次代の伊之助は重要なバイプレーヤーの役割を果たす。


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馬籠宿本陣・島崎家

馬籠宿本陣を代々務めた島崎家は島崎藤村の生家であり、藤村の父正樹が最後の当主であった。「夜明け前」の主人公、青山半蔵はこの父をモデルにして書かれたもので、時代に翻弄させられながらも、日本の夜明けを信じて生きた一庄屋の姿を通して、近代日本へと移り変わる過渡期を描く。明治維新とはいったい庶民にとって何だったのか、考えさせられる藤村晩年の名作。

話が少々飛躍したが、この本陣の建物は明治28年(1895年)の大火で大部分を焼失し、現在その跡地は藤村記念館となっている。唯一大火を免れた祖父母の隠居所だった建物が残されており、少年時代の藤村がこの二階部屋で、平田派の国学者であった父から四書五経の素読を受けたという。


馬籠宿本陣跡
馬籠宿本陣跡。街道に面する冠木門が厳格な本陣の様子を偲ばせる。


馬籠宿本陣跡の敷地
馬籠宿本陣跡の敷地内。明治期の大火で建物が焼失したため、だだっ広い敷地が印象に残る。写真右に見える石置き屋根の建物が唯一大火を免れた本陣隠居所。


本陣の池
本陣跡にて。


「夜明け前」原稿
藤村記念堂に展示されている「夜明け前」原稿。


永昌寺
本陣の裏手から永昌寺を望む。写真中央、杉木立の丘に埋もれるように永昌寺がある。島崎家の菩提寺で、「夜明け前」では万福寺の名で登場する。


島崎家の墓
永昌寺には島崎春樹(藤村)の墓があり、遺髪と爪が埋葬されている。また、ここから一段下に青山半蔵こと父正樹の墓もある。最後の本陣当主は明治の夜明けから平成の今に、馬籠の変遷を見守りながら何を思うのだろうか・・・。


永昌寺にて
永昌寺にて。


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宿場を彩る家々

もし、タイムスリップができたら・・・誰もが一度は考えたことがあるのではなかろうか。花のお江戸を歩いてみたい。日本橋の上から太陽を拝んでみたい。屋根船に揺られて墨田川を下ってみたい。もちろん芸者の風流な歌を聴きつつ一杯やりながら。そして中山道を歩いてみたい。鉄筋コンクリートのビルやアスファルトで固められた道路、ネオンに煌めく夜空にはもう飽きた。

人は便利さを過分に求めたがために、その分、何か大事なものを失ってしまったような気がする。コンビ二やファーストフード店は24時間営業し、正月も関係なくスーパーは開いている。そして日本全国どこへ行っても見たことのあるチェーン店が国道沿いを埋め、大型ショッピングモールが渋滞の列を作っている。これが日本人の誰もが理想としてきた世の中なのだろうか。

妻籠宿もそうだが、馬籠宿を訪れる観光客は多い。何ゆえ大して何も無い古い町並を残す宿場町に人々は惹きつけられるのだろう。ゆっくりと静かに時間が流れる山家の里に、その失った大事なものを見出しているのだろうか。非現実の世界に、かつては確実に存在した古き良き日本の姿を垣間見て。

そんな馬籠宿を彩る家々をかいつまんで・・・


槌馬屋
槌馬屋(つちまや)・島崎家は本陣・島崎家とは親戚関係にあり、古くは馬籠宿の南、湯舟沢村の庄屋を務めていた。馬籠宿の槌馬屋では土産店を商う傍ら資料館を併設している。


槌馬屋資料館
槌馬屋資料館では島崎藤村の父、正樹直筆の書やゆかりの品々の他、木曽谷の行政に関する資料が展示されている。


槌馬屋にて
槌馬屋にて。マイルドセブンが250円!しかもパッケージが懐かしい。プチタイムスリップした気分。


但馬屋
老舗の風格を感じる民宿の但馬屋。


清水屋
写真右手前の家は馬籠宿の宿役人を務めていた清水屋の原家。築100年を超える母屋を残す。


馬籠宿の町並み
恵那山をバックに家並みを連ねる馬籠宿。絵になりますねぇ。


櫛屋
車屋坂にさしかかると、香ばしい匂いが鼻をよぎる。五平餅を焼く櫛屋の前には人だかりが。もちろん私もここで五平餅を頬張る。


車屋坂
馬籠宿南側の入口にあたる車屋坂。ここで桝形をなしている。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
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川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
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【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
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約1年6ヶ月の月日をかけて、
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鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
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【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
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【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

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