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馬籠城址

馬籠宿を出ると、あれほどいた観光客の姿を見ることは無くなる。一転して静かな人里の中を行く旧道はだらだらと下る坂道で、左には雄大な恵那山の姿が見える。横屋の集落まで来ると、坂道は反転して緩やかに上り始め、やがて馬籠城址に着く。城址というにはいかにも頼りない地形の場所で、こんもりと小さく盛り上がった山の頂にはこれまた小さな祠がある。ここが城の主郭だったようだ。かつては周辺に堀や土塁などを張り巡らせていたのであろうが、それらしき遺構は見当たらない。


馬籠宿を出でて
馬籠宿を出でて。


横屋集落
横屋集落の町並み。中央に見える竹やぶの小山が馬籠城址。


馬籠城主郭跡
馬籠城主郭跡。小牧長久手の戦いの際、豊臣方の島崎重通(島崎藤村の祖)がここを守ったが、徳川方の大軍が迫り恐れをなして妻籠城へ逃れたという。おかげで馬籠の集落は戦火を免れたという。


丸山の坂
馬籠城址の前を通る旧中山道・丸山の坂。この辺りの地名は丸山とも城山とも呼ばれる。


諏訪神社
馬籠城址から中山道を挟んで向かい側に諏訪神社がある。


島崎正樹翁碑
諏訪神社にある島崎正樹翁碑。島崎藤村の父正樹は、小説「夜明け前」の主人公青山半蔵のモデル。


荒町集落
横屋の先には荒町の集落が続く。


荒町集落にて
荒町集落にて


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十曲峠の新茶屋

荒町から鍛冶屋前、中のかやの小さな集落を抜けて新茶屋へ。十曲峠の頂にある新茶屋は古くは木曽と美濃の国境であり、近年まで長野県と岐阜県の県境でもあった。平成17年2月、長野県山口村が岐阜県中津川市に越県編入したため、現在馬籠峠が県境になっている。新茶屋には「是より北 木曽路」の碑が建ち、ここが木曽路南の入口にあたる。是より南は美濃路となるわけだ。


鍛冶屋前
荒町を過ぎると鍛冶屋前というバス停がある。この辺りの集落はかつて鍛冶屋だったのか。


中のかや集落
中のかやにて。


笠置山
前方に美濃の広い台地が広がる。写真中央に見えるのは笠置山。


新茶屋と一里塚
新茶屋と一里塚。ここより数百メートルほど南側にあった立場茶屋が、江戸時代末期に現在地へ移転。そのため新茶屋と呼ばれるようになった。わらび餅が名物だったという。ここには一里塚があり、江戸日本橋から83里目(約326 km)にあたる。両塚が現存し、それぞれ塚上に榎と松が植樹されている。


新茶屋の芭蕉句碑

送られつ 送りつ果はては 木曾の龝

新茶屋にある芭蕉句碑。小説「夜明け前」では伏見屋の金兵衛が建立したことになっている。何よりも実在していることに感動!「龝」という字は「あき」と読むのだが、この字を巡って金兵衛と半蔵の父吉左衛門が次のようなやり取りをしている。

「これは達者に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」

小説の舞台を旅するというのも楽しいですね。


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十曲峠越え①

馬籠宿から新茶屋までは緩やかなアップダウンがある程度で、峠を意識することは無い。十曲峠の頂にある新茶屋から先は石畳の坂道を軽快に下るのだが、逆に落合宿側から上ってくると、きつい上り坂が峠越えを実感させるのだろう。落合の石畳と呼ばれる十曲峠越えの中山道は、江戸時代の石畳が切れぎれに残っていたものを、近年になって失われていた部分に石畳を敷いて繋ぎ合わせ、全長840mの石畳の道を復元させた。古の中山道を存分に堪能できるすばらしい道となっている。


落合の石畳
ここから石畳の坂道がはじまる。


落合の石畳
新茶屋側から約120mの石畳は平成17年に山口村と中津川市の合併記念事業として整備されたもの。これにより落合の石畳は約1kmもの長さとなっている。


落合の石畳
途中、案内板と休憩小屋が設けられている。


落合の石畳
十曲峠の名を示すように、くねくねと曲がりながら石畳の坂道が続く。


石畳茶屋
石畳茶屋なるものがあったのだが、営業している様子はない。


落合の石畳
軽快に石畳の道を下りて行く。


落合の石畳
写真の石畳は江戸時代からのもの。大小様々な石が使われている。


落合の石畳
落合宿側からの石畳入口。ここで石畳の道は終わり。


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十曲峠越え②

落合の石畳を下り終えると、医王寺の枝垂れ桜に迎えられる。境内から門前の中山道に枝垂れる桜は、この晩秋の季節に逆らうことなく寒風に吹かれて枝を揺らすのみだが、4月初旬には見事な花をつけ人々を楽しませるという。この枝垂れ桜は昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で倒れ、今は二代目。かつては県内髄一といわれる名木だった。

医王寺についても少々。山中薬師とも呼ばれる瑠璃山医王寺は、虫封じの薬師として三河の鳳来寺、御嵩の蟹薬師とともに日本三薬師の1つとして知られ、ここに伝わる狐膏薬は太田南畝の「壬戌紀行」や十返舎一九の「木曽街道続膝栗毛」にも紹介されるほど有名なものだった。そんな古刹の寺を過ぎると、中山道は落合川に向けて一気に急坂を下っていく。川を渡った先で馬頭観音と道祖神が並び立つ姿を見れば落合宿は近い。


医王寺の枝垂れ桜
医王寺の枝垂れ桜。


医王寺
医王寺の薬師如来は行基(ぎょうぎ)の作と伝わる。ちなみに行基は鑑真と並ぶ奈良時代の高僧。


高峰山
右に高峰山を見ながら先へ。


下桁橋
落合川に向けて一気に急坂を下る。写真道の奥に見える橋は落合川に架かる下桁橋。


落合川
下桁橋から落合川の流れ。


中山道案内板
下桁橋の袂に設置されている中山道の案内板。これによるとここから馬籠宿に至る中山道は幾度か付け替えされているようで、今日辿ることのできる医王寺から落合川に至る旧道は明和8年(1771年)に造られたものという。


滝場の馬頭観音と道標道祖神
下桁橋を渡った先に馬頭観音と道祖神がある。写真右に見える石仏群がそれで、この道祖神は飯田道との追分を示す道標を兼ねている。


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落合宿

高札場跡を過ぎた先で旧中山道は直角に右折する。これが桝形の跡で、この先から落合宿の静かな町並みが続く。桝形の角には秋葉様の常夜燈が残る。これは宿内にあった4基のうちの一つで、残りの3基は他所に移されてしまった。火防(ひぶせ)の神である秋葉様を祀っていることから防火を祈願したようだが、文化元年(1804年)と同12年(1815年)の二度にわたり大火に遭っている。

落合宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ三町三十五間(約390m)、人口370人、家数75軒、本陣1、脇本陣1、旅籠14軒の美濃の東の玄関ともいうべき小さな宿場町。宿内は京側から下町、中町、上町、横町に分かれ、中町に置かれた本陣は井口家が、その向かいにあった脇本陣を塚田家が務めた。宿場を貫く街道中央に用水路が設けられていたが、現在は見る影も無い。


落合の高札場跡
落合宿の江戸方外れにある高札場跡。奥に見える赤い橋は中央自動車道の落合川橋。


上町の常夜燈
落合宿の江戸方入口にあたる桝形に残る常夜燈。かつては道の中央に配置されていたようだが、このご時勢、路傍に寄せられている。寛政4年(1792年)の建立。


落合宿にて
馬籠宿ではマイルドセブンが250円だったが、落合宿では270円だった。本当にこの価格で買えるのかは、実証していないので不明。ここでもプチタイムスリップした気分。


落合宿本陣
落合宿本陣だった井口家に残る本陣門。文化元年(1804年)落合宿の大火後に、加賀の前田家から贈られたものという。


落合宿の町並み
落合宿の町並み。


助け合い大釜
本陣向かいにある助け合い大釜。この大釜は寒天の原料である天草を煮る時に使用されたもので、口径約1.5m、容量1000リットルを超える巨大な釜。現在は落合宿祭り等の際、千人きのこ汁を作り、多くの方々に振舞われるという。それにしてもこの大釜できのこ汁とは・・・ギャル曽根も真っ青だろう。落合宿祭りは例年10月末に行われるようで、その様子を見てみたい。


善昌寺と門冠の松
下町にある善昌寺は慶長5年(1600年)の創建という。写真に見える松は創建当時の山門を覆っていたことから「門冠の松」と呼ばれるが、現在は見ての通りで「路上の松」とも称される。説明板によるとおおよそ樹齢450年というから、寺の創建前からここに根付いていたということか。


落合宿京側外れ
落合宿の京方外れに残る道標。ここで中山道が直角に曲げられている。


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おがらん様から与坂立場跡へ

おがらん橋で国道19号を渡ると、おがらん様こと落合五郎兼行の館跡がある。「おがらん」とは伽藍(大きな寺院)からその名に由来があるようだが、あくまで推測で定かではない。館跡についても、発掘調査からその痕跡は見つかっておらず確証はないようだ。しかし古くからそう伝わっている場所なのだから、何らかの由縁はあるのだろう。落合五郎兼行は木曽義仲の家臣で四天王の一人。

横手橋で下落合川を渡り、再び国道19号の向こう側へ隧道を潜り抜けると、与坂の急勾配が待ち受ける。道幅の狭い旧中山道を挟んで民家が軒を連ね、坂を上りきった所に与坂立場跡がある。紅葉に彩られた立場跡は旧街道の情緒をそこはかとなく感じさせる場所。そして立場跡から坂道を下っていけば三五沢の集落に着く。


おがらん橋.
国道19号に架かるおがらん橋。この辺りの旧道や地形は国道19号の敷設で随分と姿が変わってしまったようだ。


おがらん様
おがらん橋を渡った先におがらん様がある。愛宕神社、山之神神社、天神社、落合五郎兼行神社のおがらん四社が祀られている。


横手橋
下落合川に架かる横手橋。


与坂
与坂の家並み。急勾配の旧道を挟んで家々が連なる。


与坂立場跡
与坂立場跡。写真に見える建物はかつての立場茶屋「越前屋」で三文餅が名物だった。


与坂立場跡にて
与坂立場跡にて。


三五沢集落
三五沢の集落。当然のことながら三五沢という小さな川が流れている。右往左往しながら続く道はいかにも旧道らしい。


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子野と上金

三五沢を底辺に上り坂を歩んでいくと、その途中に子野の一里塚がある。更に歩みを進め、坂道を上りつめればスナック鶴美と並んで居酒屋があるのだが、牧坂なのか牧抜なのか???字が判読できません。ま、それはさておき、その隣に木曽御嶽講の開祖である覚明を祀る覚明神社がある。天明5年(1785年)覚明は木曽御嶽山を開山するためにこの地を通り、今ある神社の場所にあった茶屋に泊まったという。

一転して急坂を下り子野の集落へ入っていくと、ちょっとした広場の中に快心庵と名付けられた公共トイレがある。中山道を意識したのであろう建物は、ちょっとした格子窓等があり、静かな集落の景観にマッチしている。ネーミングもグーだ。子野を抜けて左に枝垂れ桜に守れらた地蔵堂と石仏群を見ると、旧道は地蔵堂川を渡り国道19号を地下道で潜り抜ける。その先は上金の集落。立場と尾州白木改番所が置かれていた。


子野の一里塚
子野の一里塚は江戸日本橋から84里目(約330 km)。西側の塚は消失し、東側の塚だけがらしきものを残している。


覚明神社
木曽御嶽講の開祖を祀る覚明神社。


子野集落
子野の集落。風格のある家が残る。


快心庵 子野を行く旧中山道
子野にある公共トイレの快心庵。

子野の里 中山道に 憩いの場

なーんて、洒落た句碑が置かれている。
そして、中山道の標識に従い先へ。


小野の地蔵堂石仏群
枝垂れ桜の古木は中山道を往来する人々の目を楽しませてきたのだろう。そんな桜の下には庚申像や地蔵、観音像などが集められている。この辺りには地蔵堂があったといわれるが、所在は明らかでない。


地蔵堂橋
地蔵堂橋で地蔵堂川を渡る。


地下道
ほのぼのとした地下道で国道19号を潜り抜け上金へ。


尾州白木改番所跡
尾州白木改番所跡。一石栃と同じく尾張藩によって木曽五木を取り締まる番所が置かれていた。


上金集落
この辺りは江戸時代に上金村と称し中津川村の支村だった。寛政7年(1795年)の「濃州徇行記」には、石高67石余りの小村で、家数18戸、人口85人、民家は街道左右に散在し、多くの山畠があったと記されている。


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茶屋坂

旭ヶ丘公園から先でつづら折れの急坂を下っていく。これが茶屋坂で中津川宿の江戸側外れにある高札場まで続いていが、国道19号(現在は旧国道)の開通により一部が失われ分断されてしまった。しかし、短いながらも石畳が敷かれ紅葉の美しい坂道を辿ることができる。


旭ヶ丘公園にて
旭ヶ丘公園にて。


旭ヶ丘稲荷大明神 三井寺観音
旭ヶ丘公園内にある稲荷大明神と三井寺観音。


茶屋坂

山路来て何やらゆかしすみれ草

茶屋坂には芭蕉句碑が置かれ、ちょっとした石畳も敷かれている。道筋には紅葉が艶やかに彩り、往時を偲ばせながら美しい坂道を下りる。眼下に中津川の街並みを望みながら。


茶屋坂
石畳の短い坂道は一般道と合流したところで終わり。この先は国道の開通によって失われてしまったが、写真右ガード下の雑木林の中に道筋らしきものが残っている。


茶屋坂
写真中央の道が旧国道。茶屋坂は右に見える雑木林の中から左へ下る道筋だった。


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中津川宿 淀川町・新町・本町

茶屋坂を下りきると高札場があり、その先から中津川宿の町並みとなる。町並みと書くより街並みと書いたほうが適切であろうか。宿場跡は中津川の中心部に位置し、今は一地方の商店街と化している。江戸方から淀川町・新町・本町・横町・下町と続き、新町と本町の境に四ツ目川が流れる。鉤の手に折れ曲がった横町辺りの家並みに宿場時代の面影を残している。

中津川宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ南北10町7間(約1102m)、人口928人、家数228軒、本陣1、脇本陣1、旅籠29軒。本町に本陣を務めた市岡家や脇本陣の森家、問屋や庄屋の屋敷があり、宿場の中心部だった。この本町を挟んで江戸方筋に商家、京方筋には旅籠屋や馬宿、茶屋等が多く軒を連ねていたという。


中津川宿高札場
茶屋坂を下りきった所にある高札場。


栗きんとん本家「すや」
新町交差点の角にある栗きんとん本家「すや」。栗きんとんは広く知られる中津川の名物。もちろん、お土産に買いました。


中津川宿新町付近
新町から淀川町にかけての町並み。


料亭やけ山跡
新町から街道を外れて路地へ入ると、桂小五郎(後の木戸孝允)の隠れ家だったという料亭やけ山跡なるものもある。


間家大正の蔵
写真右の建物は間家大正の蔵といい、大正6年(1917年)の建築。東濃随一の豪商といわれた間家があった場所にわずかに残る遺構。左の建物は中津川郵便局なのだが、かつてはこの郵便局を中心とした約3000㎡の広大な土地が間家の敷地だった。蔵の内部が公開されており関連資料等を展示。


四ツ目川
新町と本町の境に流れる四ツ目川。川上に恵那山が姿を見せている。


中津川宿本陣跡 本陣間取り図
中津川宿本陣跡とその間取り図。建坪283坪の本陣は美濃16宿中最大規模のものだったが、見ての通りらしきモニュメントの門があるだけで遺構は残っていない。しかし、ここが小説「夜明け前」に登場する景蔵の家だったと思うだけでも感慨深い。景蔵は青山半蔵とともに平田国学に傾注した学友。


中津川市中山道歴史資料館
旧脇本陣跡地は中津川市中山道歴史資料館になっている。中山道の資料が豊富に展示されているとのことだが、残念ながら時間は17時の閉館間近。見学は後日また。


曽我家住宅
旧中津川村庄屋宅の曽我家住宅。江戸時代には肥田家(田丸屋)が庄屋の役目を務めていたが、明治中頃に曽我家が移り住み医院として用いられた。建築年代は不明だが、構造体の部分は江戸中期頃のものと推定されている。


中津川宿本町
本町の町並み。


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中津川宿 横町・下町

米屋の松霞堂(可児家)、旅籠屋の十八屋(間家)、小間物屋の天満屋(古井家)、大正時代に足袋を製造販売していた白木屋(横井家)、中津川村や子野村の庄屋だった杉本屋(旧中川家)、卯建(うだつ)をあげる長屋造りの吉本屋・・・横町には古の中津川を感じさせる家々が軒を連ねている。そして、はざま酒造の前から枡形の角を曲がるとその先は下町である。枡形から川上川(現中津川)にかけての下町界隈の道筋は変貌しており、残念ながら昔の面影を留めていない。


中津川宿横町
中津川宿の歴史を伝える横町の家並み。


中津川宿横町
中津川宿は横町で枡形を形成している。街道突き当たりに見えるのがはざま酒造で、ここを右折した先から下町となる。


松霞堂・可児家
米屋を営んでいた松霞堂(可児家)。本町と横町の境、枡形の角にあり、現在は表具店になっている。


吉本屋
本屋ではありません。吉本屋です。二軒の長屋であった吉本屋は一方で薬局、一方で履物店を営んでいる。立派な卯建が目を惹く。


はざま酒造
中津川唯一の造り酒屋、はざま酒造。日本酒「恵那山」の醸造元。


中津川宿下町
中津川宿下町は昔の道筋を失ってしまったため、宿場の面影を残していない。


「これより北 木曽路」の碑
下町まで来たところで今日の旅は終わり。歩みを反転させ日の暮れ行く中津川宿から駅へ向かう。中津川駅のホームには十曲峠にあったはずの「これより北 木曽路」の碑がある。ちなみに筆跡は島崎藤村のもの。もちろん複製です。

【第29日目】踏破距離 約8.4km(馬籠宿→落合宿→中津川宿)日本橋から335.8km 京都まで198km
京都まで200kmを切った!しかし、まだまだ先は長い・・


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年末だから

【第30日目】12月28日(金) 中津川宿→大井宿



あと何日かで今年も終わりかぁ・・・
ラジオからはユニコーンの曲が恒例のように聞こえてくる。

だーかーら 嫌いだよ こんな日に出かけるの♪
人がやたら歩いてて 用もないのに♪
今年は久しぶり 田舎に帰るから♪
彼女なんか土産でも どんなもんかな♪

年暮れもおしせまり、人も車も忙しそうに行き交う頃、中津川から中山道の旅を再開する。今回は2泊3日の行程だが、天気予報は3日とも良くないどころか雪との情報も。レインウェアも準備万端にまずは再び中津川宿へ。


中津川村庄屋跡・曽我家住宅
まずは中山道歴史資料館に訪問したのだが、やはり年末のこの時期、残念なことに休館日だった。仕方ないかぁ・・・と落胆にくれながらその隣にある中津川村庄屋跡の曽我家住宅の写真を撮っていたら、偶然にもここに住まわれるおばあちゃんが出てきた。ご挨拶をしたところ、中も見て行きますか?との思わぬ言葉に甘え屋敷の中へ。


中津川村庄屋跡・曽我家住宅
風格ある玄関を潜り、土間を抜けて裏にある庭を見学。そしてしばしおばあちゃんと会話を楽しむ。おばあちゃんは元教師で、長い間教鞭を執ってこられたという。優しい眼差しと語り口調がなるほどと思わせる。
「子供は教師や親の背中を見て育っていくものだからね。大人がしっかりしなければならないのよ。」の言葉には同感。歩きタバコやポイ捨て、電車内の携帯電話・・・マナーを守れない大人は多い。おばあちゃん、年末の忙しい時にありがとうございました。


中津川宿本町付近
中津川宿本町付近。前回訪問の時とはうって変わって人や車の動きがあわただしい。
人も景色も忙しそうに 年末だから あーあ♪
こちらも本町、横町、下町と、あわただしく中津川宿を通り抜ける。


中津川橋
中津川は昔、川上川と呼ばれていた。この川を渡ると中津川宿は終わり。向こうに見える冠雪した頂は恵那山。


柳町
中津川を渡った先から柳町の町並みとなる。


石屋坂
津島神社参道の標柱を見ると、旧中山道は上り坂に。石屋坂という。


石屋坂の馬頭観世音
石屋坂には3基の石造仏からなる馬頭観世音がある。


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旧駒場村

石屋坂を上りきると旧駒場村の家並みである。駒場村は古代の道、東山道の坂本駅があった場所と推測されている。ここから西へ向かえば大井駅、東は神坂峠を越えて阿智駅へ至る。しかし、坂本駅の位置については諸説あり、その場所は特定できていない。

駒場村の中山道は枡形の道筋を形成し、家並みが途切れた所で上宿橋を渡ると小手ノ木坂の上りとなる。坂を上りきったところに双頭一身道祖神と呼ばれる石像があるのだが、一見の価値ありの珍しい道祖神である。このすぐ先で上宿の一里塚を見れば道の両脇に用水路が静かに流れる上宿の町並みとなる。


駒場下町の枡形付近
駒場下町の枡形付近。鉤の手に曲げられた中山道沿いに駒形村の家並みが続く。この辺りが駒形村の中心部だった。


駒場村の高札場跡
駒場村の高札場跡。切支丹禁制の高札だったらしい。


茶亭市川
旧駒場村の中心部にある茶亭市川。味のあるこざっぱりした日本建築が印象的。


旧中山道と米田川
旧中山道と米田川。旧街道の情緒を残している。


小手ノ木坂
米田川を上宿橋で渡ると小手ノ木坂の上りとなる。


小手ノ木坂の双頭一身道祖神
小手ノ木坂にある双頭一身道祖神。一つの体に男女二つの頭部を持つ珍しい形態の道祖神。石像の左上に「是より苗木道」と彫られ道標も兼ねている。ここから苗木城下へ至る苗木道が分かれていた。


上宿の一里塚跡
上宿の一里塚は江戸日本橋から85里目(約334km)。南側の塚は消滅し、現在残る北側の塚は昭和9年(1934年)の復元。塚上に立つ石柱には「史蹟 中津一里塚址」と刻まれている。


上宿
上宿の家並み。旧中山道の両脇に用水路が配されている。


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旧手賀野村

旧駒場村上宿からだらだらと坂道を下りはじめれば旧手賀野村の村域。手賀野は手金野とも表記される。坂道を下りきった所で会所沢橋という小さな橋を渡ると、旧道は上り坂へ反転。坂の上にあるコンビニのタイムリーの辺りが小石塚の立場跡である。ここから先が旧手金野村と旧千旦林村の村境だったのだが、約400m間の旧道は国道19号によって失われている。


会所沢橋
上宿から坂道を下りきった所で会所沢橋(写真中央の家前)を渡る。何気に歩いていると見過ごしてしまうほど小さな橋であるが、かつては4.5m程の木橋が架けられ、近辺には終戦直後まで松並木が残っていたという。


小石塚の立場跡
会所沢橋から反転して上り坂を歩んでいくと、小石塚の立場跡に着く。今は茶屋に代わってコンビニタイムリーがある。ここいらで一服としましょうや。


嵐讃岐の供養碑
小石塚の立場跡にある嵐讃岐の供養碑。嵐讃岐は木曽家の有力武将の一人で、千旦林に居を構えていた。供養碑は寛永3年(1626年)十三回忌の建立。


小石塚立場付近の旧中山道
小石塚立場から先、400m間の旧道は中津川ICの開設による国道改良により失われた。


中津川インター付近
中津川インター付近の国道19号。旧道の失われた部分。踏切横を流れる千旦林川を渡るのだが、ここが旧手賀野村と旧千旦林村の村境だったと思われる。


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旧千旦林村

旧道が復活したところから千旦林の家並み。まずは路傍に置かれた六地蔵の石憧が迎えてくれる。更に先へ進めば坂本神社、高札場跡があり、この辺りは札の辻と呼ばれた。藪下バス停を過ぎて左へ分岐する小径から中平の集落へ。弘法堂や将監(しょうげん)塚、三ツ屋の一里塚等の史跡があるのだが、ここで完全に日没を迎える。


千旦林の旧中山道
中津川ICと国道19号に分断されていた旧道が復活する。


六地蔵石憧
地蔵菩薩は六道を巡って衆生を救済し、極楽へ行く手助けをしてくれると信じられていた。人は死ぬと生前の行いによって地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道のいずれかに転生し、苦しみを輪廻するものと考えられていた。六道それぞれに地蔵菩薩を分身させたのが六地蔵である。千旦林の六地蔵石憧は明暦3年(1657年)の建立。


旧千旦林村
千旦林の家並み。集落中心部に坂本神社が鎮座している。


千旦林の高札場跡
千旦林の高札場跡。この辺りは札の辻と呼ばれた。


旧中山道・札の辻付近
札の辻付近の旧中山道。


旧中山道・藪下バス停付近
藪下バス停付近の旧中山道。


藪下の分岐点
この分岐点から左へ続く小径が旧中山道。


中平集落
中平を行く。中平は笠置山を背景にした静かな集落。


弘法堂
中平にある弘法堂。


旧中山道・三ツ屋の一里塚付近
三ツ屋の一里塚付近の旧中山道。完全に日没を迎え付近は暗闇に包まれる。途中、将監塚もあったのだがまともに見えない。日没サスペンデッドともいかないのが、歩き旅の辛いところ・・・
一里塚の先から緩やかに坂道を上がると坂本立場跡に着く。ここが旧千旦林村と旧茄子川村の村境にあたる。紹介は次で。


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旧茄子川村

坂本立場跡から先は旧茄子川村の村域となる。茄子川は中津川宿へ1里23町(約6.4km)、大井宿へは1里(約4km)の中間点に位置し、間の宿として発展した。ここから岩村城下を経て遠州秋葉山に通ずる秋葉道が分岐する。その分岐点に茶屋本陣を務めた篠原家があり、皇女和宮や明治天皇が御小休したという建物が現存している。また、江戸時代には茄子川焼とよばれる陶器も盛んに作られ、明治末期まで村の重要産業として続いた。


坂本立場跡
坂本立場跡。この先から茄子川の町へ向けて急傾斜の坂本坂を下る。


馬の水飲池
坂本立場跡にある馬の水飲池。暗闇の中、鬱蒼とした木々に囲まれた池はちょっと怖い。


尾州白木改番所跡
茄子川の尾州白木改番所跡。こうして木曽路・美濃路を歩いていると、白木改番所がいたる所に設けられ、木曽材木の厳しい取締りがあったことを改めて実感させられる。


茄子川夜景
茄子川は中津川宿と大井宿の中間に位置し、間の宿として発展した。


茄子川小休所・篠原家
暗くて何も見えないが、右手前の建物が茄子川小休所(茶屋本陣)・篠原家。17世紀の初め頃、加賀前田家の重臣篠原一孝の子、弥右衛門がここに移り住んだことに由来があるという。


広久手坂
茄子川の町を抜けると、緩やかな広久手坂の上り下り。


「中山道 是より大井」の石碑
広久手坂を下りきった少し先が大井村と茄子川村の境だった。現在は「中山道 是より大井」の石碑が置かれている。


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ジャンル : 旅行

大井宿夜景

高台から恵那市街を一望し、五妙坂を下っていくと復元された高札場跡に着く。ようやく今日の目的地、大井宿である。宿場を一気に通り抜け、まずは今日の宿泊先であるエナプラザホテルでチェックインを済ませる。受付の方に食事ができる所を聞いてみたところ、「わかたけ」という店を紹介され、早速腹ごしらえに。


恵那市街夜景
関戸を過ぎると恵那市街を一望。


五妙坂
高台から五妙坂を下ると復元された高札場がある。写真左手前がその高札場なのだが、暗くて何も見えていない。


大井宿夜景
写真正面に見える建物が大井宿本陣。


大井宿夜景
大井宿の夜景。本町付近。


大衆割烹わかたけ わかたけにて
ホテルで紹介された大衆割烹「わかたけ」で夕食を取る。威勢のいい元気な大将が印象的な店だった。私にとっては店の雰囲気も味も☆☆☆。

30日目(12/28) 中津川宿→大井宿 9.8Km
【第30日目】踏破距離 約9.8km(中津川宿→大井宿)日本橋から345.6km 京都まで188km
まだまだ先は長い・・・


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大井宿 横町・本町

【第31日目】12月29日(土) 大井宿→大湫宿→細久手宿



恵那市の中心部に位置する大井宿。市街地にあるにもかかわらず、宿場の面影をよく留めている。宿内を貫く中山道は枡形の曲折が6ヶ所も設けられ、現在も右に左に折れ曲がりながらの道筋を残している。その特徴ある街道筋には本陣の門をはじめ、商家、町役人の家、庄屋等の建築が情緒ある佇まいを見せてくれ、訪れる人々にその歴史を物語ろう。

大井宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ東西6町半(約708m)、人口466人、家数110軒、本陣1、脇本陣1、旅籠41軒。江戸方から横町・本町・竪町・茶屋町・橋場と続き、それぞれの町境に枡形の曲がり角が設けられていた。本陣は横町と本町の境、枡形の角にあり代々林家が務めてきた。西に十三峠を控え旅装を解く旅人も多かったのであろうか、美濃16宿中旅籠の数が最も多い。


五妙坂と高札場
大井宿江戸方外れ、五妙坂の坂下にある高札場。もちろん復元されたもので、元々は現在地とは違い、この坂上にあったようだ。


横町の枡形
五妙坂から上横橋を渡り、最初の枡形を左折すれば横町である。枡形の角には延寿院横薬師という寺がある。


大井宿本陣
二つ目の枡形角にある大井宿本陣。枡形を右折すると本町の町並み。本陣の母屋部分は昭和22年(1947年)の火災で焼失してしまったが、表門周辺だけは不幸中の幸いにも焼け残った。門の傍らに見える松は樹齢300年を越えるという老松。


大井宿本陣
本陣の写真をもう1枚。どちらもいい感じで撮れていたので。


大井村庄屋・古山家
古山家は大井村の庄屋を務める傍ら、「菱屋」の屋号で酒造と商家を営んでいた。現在の建物は明治初期に上宿から移築されたもので、中山道ひし屋資料館として一般公開されている。


宿役人の家
「宿役人の家」として説明板を掲げている林家は、文化2年(1805年)本陣家より分家した家柄で、明治に至るまでの60余年間、旅籠屋を営みながら上問屋を務めてきた。今更ながらではあるが、ここで言う問屋とは道中奉行の指図のもと、荷物や人の輸送、飛脚などの継立事務を行う責任者の立場にある宿役人のことである。


大井宿本町の町並み
大井宿本町の町並み。上問屋の林家(写真左手前から2軒目)とその隣に明治天皇行在所となった岩井家(写真左手前)が見える。中山道を挟んで岩井家の向かいが下問屋だった。


旅館いち川
本町と竪町の境、3つ目の枡形角にある旅館いち川。もとは「角屋」という旅籠だった。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
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8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
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10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
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