落合宿
高札場跡を過ぎた先で旧中山道は直角に右折する。これが桝形の跡で、この先から落合宿の静かな町並みが続く。桝形の角には秋葉様の常夜燈が残る。これは宿内にあった4基のうちの一つで、残りの3基は他所に移されてしまった。火防(ひぶせ)の神である秋葉様を祀っていることから防火を祈願したようだが、文化元年(1804年)と同12年(1815年)の二度にわたり大火に遭っている。
落合宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ三町三十五間(約390m)、人口370人、家数75軒、本陣1、脇本陣1、旅籠14軒の美濃の東の玄関ともいうべき小さな宿場町。宿内は京側から下町、中町、上町、横町に分かれ、中町に置かれた本陣は井口家が、その向かいにあった脇本陣を塚田家が務めた。宿場を貫く街道中央に用水路が設けられていたが、現在は見る影も無い。

落合宿の江戸方外れにある高札場跡。奥に見える赤い橋は中央自動車道の落合川橋。

落合宿の江戸方入口にあたる桝形に残る常夜燈。かつては道の中央に配置されていたようだが、このご時勢、路傍に寄せられている。寛政4年(1792年)の建立。

馬籠宿ではマイルドセブンが250円だったが、落合宿では270円だった。本当にこの価格で買えるのかは、実証していないので不明。ここでもプチタイムスリップした気分。

落合宿本陣だった井口家に残る本陣門。文化元年(1804年)落合宿の大火後に、加賀の前田家から贈られたものという。

落合宿の町並み。

本陣向かいにある助け合い大釜。この大釜は寒天の原料である天草を煮る時に使用されたもので、口径約1.5m、容量1000リットルを超える巨大な釜。現在は落合宿祭り等の際、千人きのこ汁を作り、多くの方々に振舞われるという。それにしてもこの大釜できのこ汁とは・・・ギャル曽根も真っ青だろう。落合宿祭りは例年10月末に行われるようで、その様子を見てみたい。

下町にある善昌寺は慶長5年(1600年)の創建という。写真に見える松は創建当時の山門を覆っていたことから「門冠の松」と呼ばれるが、現在は見ての通りで「路上の松」とも称される。説明板によるとおおよそ樹齢450年というから、寺の創建前からここに根付いていたということか。

落合宿の京方外れに残る道標。ここで中山道が直角に曲げられている。
落合宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ三町三十五間(約390m)、人口370人、家数75軒、本陣1、脇本陣1、旅籠14軒の美濃の東の玄関ともいうべき小さな宿場町。宿内は京側から下町、中町、上町、横町に分かれ、中町に置かれた本陣は井口家が、その向かいにあった脇本陣を塚田家が務めた。宿場を貫く街道中央に用水路が設けられていたが、現在は見る影も無い。

落合宿の江戸方外れにある高札場跡。奥に見える赤い橋は中央自動車道の落合川橋。

落合宿の江戸方入口にあたる桝形に残る常夜燈。かつては道の中央に配置されていたようだが、このご時勢、路傍に寄せられている。寛政4年(1792年)の建立。

馬籠宿ではマイルドセブンが250円だったが、落合宿では270円だった。本当にこの価格で買えるのかは、実証していないので不明。ここでもプチタイムスリップした気分。

落合宿本陣だった井口家に残る本陣門。文化元年(1804年)落合宿の大火後に、加賀の前田家から贈られたものという。

落合宿の町並み。

本陣向かいにある助け合い大釜。この大釜は寒天の原料である天草を煮る時に使用されたもので、口径約1.5m、容量1000リットルを超える巨大な釜。現在は落合宿祭り等の際、千人きのこ汁を作り、多くの方々に振舞われるという。それにしてもこの大釜できのこ汁とは・・・ギャル曽根も真っ青だろう。落合宿祭りは例年10月末に行われるようで、その様子を見てみたい。

下町にある善昌寺は慶長5年(1600年)の創建という。写真に見える松は創建当時の山門を覆っていたことから「門冠の松」と呼ばれるが、現在は見ての通りで「路上の松」とも称される。説明板によるとおおよそ樹齢450年というから、寺の創建前からここに根付いていたということか。

落合宿の京方外れに残る道標。ここで中山道が直角に曲げられている。

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