東に十三峠、西に琵琶峠を控え、いかにも山間の宿場町といったロケーションの大湫(おおくて)宿。寺坂の急勾配を下りきった先から、その家並みを連ねる。大湫は大久手とも表記されるのだが、久手とは湿地や窪地のことを意味する。周辺からの山水がここに集まり滞るのだろうか、山間の狭い平地にもかかわらず、それを物語るように宿場の裏手には水田がひしめき合う。
大湫宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ東西3町6間(約338m)、人口338人、家数66軒、本陣1、脇本陣1、旅籠30軒。江戸方から北町・白山町・中町・神明町・西町と続き、北町と白山町の境に枡形の曲がり角、神明町に弓形の曲りが設けられている。本陣は白山町の街道西側、大湫公民館の裏手辺りにあったのだが、現在は大湫小学校の校庭と化している。脇本陣と問屋は白山神社と神明神社の間、中町に置かれていた。

寺坂を下りきった先から大湫宿の家並みが連なる。寺坂は坂の途中に宗昌寺があることからこの名が付いた。左写真の街道左手が宗昌寺の敷地で、右写真はその街道を挟んで向かいにある寺坂の石仏群。

大湫宿・北町の町並み。ここにある若竹屋は大湫宿唯一の店。次に控える琵琶峠越えのために、ここで飲料や食料を補給しよう。

北町と白山町の境が枡形の曲折点だったとすると、この枡形から白山神社の参道付近までが白山町だったのだろう。旅籠の三浦家や問屋の丸森森川家が江戸末期の建物を残しており、本陣跡もここにある。写真右手奥に見える建物が三浦家で、手前が丸森森川家。その向かいにある大湫公民館の裏手が本陣の敷地で、現在は大湫小学校の校庭と化している。

左写真が大湫公民館で、右写真はその裏手にある大湫小学校。手前の校庭が本陣の敷地跡である。見ての通り遺構は何も残されていないが、皇女和宮が宿泊したことを記念し、傍らに和宮の歌碑が建てられている。
遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり

大湫宿無料休憩所の「おもだか屋」。かつては旅籠を営んでいた。大湫宿は天保14年(1843年)当時、家数66軒の小さな宿場町なのだが、半数に近い30軒もの家屋が旅籠だった。

白山神社参道付近から神明神社付近までが中町だったと思われる。白山町と中町辺りが宿場の中心で、中町には脇本陣や問屋場が置かれていた。脇本陣を務めた保々家は規模を縮小しながらも母屋や門、庭を残している。

神明神社周辺が神明町だったのだろう。街道が弓形に曲げられている。

神明神社の境内にそびえ立つ大杉は樹齢1300年と推定されている古木。幹周り約11m、高さは約60mもあるそうで、これほどの大木はそうお目にかかれない。近年、落雷があったようだが軽微な損傷で済んだのは、さすがは御神木といったところか。その大杉の前にある泉は神明の清水と呼ばれ、昔は飲料水として重宝されていたという。

神明神社を過ぎれば西町。道幅が狭くなり宿場情緒の漂う町並みを残す。京方外れに高札場が置かれていた。

西町の街道右手、高台にある大湫観音堂。道中安全、病気全快の観音様として信仰を集めた。現在の建物は弘化4年(1847年)の再建。

観音堂からは大湫宿を一望。宿場の裏手は水田地帯となっている。

大湫宿京方外れにあたる高札場跡。ここで大湫宿は終わり。
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