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琵琶峠越え④

天神坂を下りきると弁財天の池に着く。『左の方に小さき池あり 杜若(かきつばた)生ひ茂れり 池の中に弁財天の宮あり』と太田南畝(蜀山人)の壬戌紀行にも紹介されている古池は、今も静かに水を湛えている。琵琶峠を越えてきた旅人はここでひとときのくつろぎを得たのであろう。

弁財天の池から奥之田一里塚を経て、夕闇に暮れる道を急ぎ足で細久手宿へ。


旧中山道・細久手宿まで2.7km地点
細久手宿まで2.7km地点の旧中山道。


天神坂
天神坂の上り下り。近隣の北野天神に坂の名の由来があるのだろう。


弁財天の池
天神坂を下りきると弁財天の池が旅人を迎える。池の中央に見える弁財天の宮は天保7年(1836年)の建立。


夕焼けの空 笹口バス停付近にて
笹口バス停付近にて。西の空は茜色の色彩を濃くしてゆく。


奥之田一里塚
ほとんど何も見えなくなってしまったが、ここが奥之田一里塚。江戸日本橋から92里目(約361km)にあたり、両塚がほぼ原形をとどめている。


見晴し台の馬頭観音 旧中山道・細久手宿付近
細久手宿手前、三国見晴し台の馬頭観音から先の旧中山道は技研日吉工場の敷地に消失している。工場の右手を迂回して細久手宿へ。


夕闇の細久手宿
夕闇に暮れゆく細久手宿。店の軒先にこぼれる明かりと、ほのかに照らす電柱灯を頼りに。


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大黒屋

町と呼ぶには少々頼りない気がするほど小さな宿場町の細久手宿。尾州家定本陣であった大黒屋が今も健在に旅館を営んでいる。大井宿から太田宿にかけての約44km間にはここ大黒屋しか宿泊施設がなく、中山道を旅する人々にとっては貴重な定宿であろう。安政5年(1858年)大火直後の再建という建物は、細久手宿の面影を伝える唯一といってよい遺構である。

宿に着く頃にはすっかり天候も回復し、明日の天気を期待させるほどに星が輝いている。大黒屋の若女将に迎えられ、天気も気分も上々といったところ。年末ということもあって今日の宿泊客は私だけで、この由緒ある老舗の旅館を一人占めというのも贅沢なものだ。若女将によると、今時期はほとんど客が来ることもなく、私が今年最後の客だろうとのこと。この時期から真冬を迎える2月頃までは宿泊客は少ないらしい。泊まってみたい方はこの時期は狙い目ですよ。


大黒屋
夕闇の中に消えゆく静寂な町並みの中、温かい玄関灯で軒先を照らす大黒屋。周辺には明かりらしい明かりが無いので、モノトーンに暮れる山家の背景に大黒屋がポツンとが浮かび上がっていた。


大黒屋の夕食 あまごの塩焼き
本日の夕食。いかにも山里といった素朴ながらも趣向をこらした料理に舌鼓を打つ。


蜂の子
これは「蜂の子」という珍味。まさに読んで字の如く・・・。しかしこれが見た目に反して意外に美味しく、ビールのつまみにはうってつけ。


大黒屋客室
宿泊部屋は2階の座敷。書院には宿泊者の思い思いが綴られたノートが置かれており、私もこれに一筆を書き込んでみた。ペラペラとノートをめくってみると、NHK街道てくてく旅でお馴染みの勅使川原郁恵さんのサインも書き残されていた。

さてさて、おやすみなさい。


2階座敷の違い棚
翌朝、泊まった部屋や建物内部を撮ってみた。大黒屋の様子が少しでも伝わればと思う。まずは2階座敷の違い棚。


2階座敷の障子腰板
2階座敷の障子腰板。


大黒屋の階段
1階と2階をつなぐ大黒屋の箱階段。


大黒屋の寄付
玄関を入ってすぐにある寄付部屋。


大黒屋の朝食
そして本日の朝食♪上段の間でいただきました。


大黒屋
大黒屋は切妻造り平入りの建築に本卯建をあげ、かつては問屋役と尾州家定本陣までも務めた家。このような由緒ある家に宿泊できるだけでも貴重な体験なのに、趣向をこらした山家の料理も美味しい。機会があったら是非とも利用してほしいイチオシの旅館。ちょっとした大名気分を味わってみてはいかが。

大黒屋のホームページへはこちらから↓
http://www.tono-gifu.net/daikokuya/



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細久手宿

【第32日目】12月30日(日) 細久手宿→御嵩宿



しとしと降る雨音に目を覚ます。昨晩の星空が嘘のような悪天候である。でき得る限りの防寒着を重ね、最後にレインウェアで身支度を整える。2007年最後の歩き旅は1年間の垢を洗い流せということなのか、それとも心身を鍛え直せということなのか、凍えるような寒さとみぞれ交じりの冷たい雨の中からスタートする。

東に十三峠、西に物見峠を控えた細久手宿。隣の大湫宿と似たような地勢にあるが、町の規模としてはるかに小さく、山間の細長い平坦地に細々と家を並べる。地名に久手を持つことから、やはりここも湿地帯であることがうかがえよう。町並みに宿場の面影は薄く、本陣や脇本陣も残されていないが、前述の大黒屋だけが僅かにその歴史を伝えている。大黒屋は何としても後世に残さねばならない細久手宿の遺構であろう。

細久手宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ東西3町45間(約408m)、人口256人、家数65軒、本陣1、脇本陣1、旅籠24軒。江戸方から上町・中町・下町と続き、上町と下町に弓形の曲りが設けられている。慶長9年(1604年)大井宿から御嵩宿間の中山道が十三峠、物見峠越えの道筋に付け替えられたことにより、その6年後に新宿として設けられた。


細久手宿・江戸方外れ付近
細久手宿・江戸方外れ付近。直進する道が旧道で左が新道。旧道は技研日吉工場の敷地に消失している。


細久手宿高札場跡
右の路傍に見える標柱が細久手宿高札場跡。現在は何も無いただの空き地である。


庚申堂と石造物群
上町の宿場を望む高台にある庚申堂と石造物群。庚申堂は「細久手宿のこうしんさま」として近郷や旅人から親しまれてきた。境内には宿場当時の賑わいを偲ばせる石造物が多く残されている。


細久手宿上町
細久手宿上町の町並み。細久手唯一の商店があるが、年末のお休みのようで。


細久手宿・大黒屋付近
細久手宿・大黒屋付近。この辺りから中町である。


細久手宿中町
細久手宿中町の町並み。写真は京方から江戸方を望んでいる。右手前の空き地が脇本陣跡、左の家が本陣跡の敷地である。


細久手宿下町
街道が弓形に曲げられている細久手宿下町の家並み。家々の母屋や庭先の下を経て宿場を貫いてきた地下用水路がここで地上に現れる。この用水路はかつての宿場用水の名残で、江戸時代に造られたもの。ご多分にもれず、細久手宿も数多くの大火に遭ったため、このような地下用水路が造られたという。


日吉愛宕神社
細久手宿京方外れに鎮座する日吉愛宕神社。雨音だけが耳に響く静寂な場所。


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平岩辻

細久手宿を過ぎてからも緩やかに続く下り道は細久手坂。途中に穴観音や津島神社、くじ場跡等を路傍に見ると、下り坂は傾斜を急にして平岩川を渡り平岩辻へ至る。ここから東西の道は中山道で、南の道を行けば松野湖、鬼岩へ。そして北へ行けば地名の由来となった平岩を経て土岐頼元の開基と伝わる開元院の古刹に至る。平岩辻から旧中山道は上り坂に転じ、アスファルトの車道を離れて西の坂の砂利道に路面を変貌させる。


細久手坂
細久手宿を抜けると細久手坂の緩やかな下り坂が続く。


細久手坂の穴観音 津島神社
細久手坂の途中にある穴観音(右写真)と津島神社の小さな社(左写真)。穴観音は九万九千日観音とも呼ばれ、縁日に拝むと9万9千回分のご利益があるらしい。毎日1回拝んで約271年分のご利益であるから、まさに”どんだけ~”である。


津島神社付近にて
”百姓一同より”というのが思わず目に留まったので。不法投棄する人がいかに多いのか・・・絶対に止めましょう。


県道分岐点 くじ場跡
県道の分岐点。左へ曲がる道は土岐へ、直進する道が御嵩に至る県道。旧中山道はここを直進する。この分岐点のすぐ先に中仙道くじ場跡(右写真)がある。昔の人はここで何のくじを引いていたんだろうか。


旧中山道・平岩辻付近
急坂を下り平岩辻へ。


平岩辻付近にて
手書きの中山道案内地図。道を間違ってしまう人が多いのでしょうか。


平岩川 小沢商店
平岩川を渡ると四つ辻の平岩辻である。右写真はその辻にある小沢商店。何となく昔は茶屋だったのではないかと、勝手な想像をしてしまう。


西の坂より平岩辻を望む
西の坂より平岩辻を望む。旧中山道は平岩川を最下点にして上り坂に転じる。


西の坂の旧道入口 「左中仙道西の坂」の石碑
アスファルトの車道を離れ、いかにも旧道といった雰囲気の西の坂へ。この旧道入口には「左中仙道西の坂」の石碑が置かれている。


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西の坂越え

旅人の上り下りや西の坂
「西の坂旧道入口の石碑より」

『左中仙道西の坂』の石碑からハイキングコースに整備された砂利道を踏みしめて行く。秋葉坂を上って行くとまずは石窟に納められた三尊の石仏に迎えられ、この上りは鴨之巣辻(日吉辻)を経て鴨之巣一里塚まで続く。一里塚から先で瑞浪市から御嵩町へと行政区域を変えると、くじあげ坂、藤あげ坂と津橋の集落に向けて次は下り坂が続く。平岩辻から津橋の上り下りの中山道は西の坂と呼ぶ。


秋葉坂の三尊石窟 秋葉坂の三尊石窟
西の坂旧道入口から坂道を上っていくと、秋葉坂の三尊に迎えられる。三室の石窟には200年以上前に作られた石仏が納められている。その前を行く中山道の坂道は、石窟すぐ上に秋葉様が祀られていることから秋葉坂と呼ばれていた。


鴨之巣道の馬頭文字碑標柱 鴨之巣道の馬頭文字碑
おやっ!?
『鴨之巣道の馬頭文字碑』の標柱が立っているのだが、肝心の馬頭文字碑が見えない。疑問に思い標柱周辺を探してみると、それらしき石が倒れている。よっこらしょと、ひっくり返してみるとやはり馬頭観音の文字が刻まれていた。ここ数日続いた雨により地面が緩んで倒れてしまったようだ。間もなく新年を迎えるというのに、これではいかにも不憫と思い・・・。


鴨之巣道の馬頭文字碑
これでよし。


旧中山道・鴨之巣道付近
さてさて、先へ進もう。


鴨之巣辻・旧鎌倉街道道標と道祖神 鴨之巣辻・旧中山道を望む
鴨之巣辻(日吉辻)は辻と呼んでよいのかと思ってしまう三叉路。東西を旧中山道が延び、南へ向かって旧鎌倉街道への道が分かれている。分岐点に『右旧鎌倉街道迄約一里余』と刻まれた道標と道祖神が置かれている。


切られヶ洞 切られヶ洞石碑
左写真は”切られヶ洞”と呼ばれる場所で、右写真の石碑だけが置かれている。現地では全く何のことかわからないのだが、ここで牛追いが盗賊に斬られたらしい。ようは江戸時代の強盗殺人現場ということか。


鴨之巣一里塚
鴨之巣一里塚は街道を挟む左右の塚がずれている珍しいもの。江戸日本橋から93里目(約365km)にあたり両塚が現存。この辺りが西の坂の頂となる。


くじあげ坂 くじあげ坂の道祖神
鴨之巣一里塚から先で御嵩町に入ると、くじあげ坂の下りとなる。途中、石窟に道祖神が祀られている。


藤あげ坂
藤あげ坂の下りまで歩みを進めると視界が開け、津橋の家並みが望める。


山内嘉助屋敷跡
藤あげ坂の途中に山内嘉助屋敷跡があり、屋敷土台の立派な石垣だけが残されている。酒造業を営んでいたらしく、相当の豪商だったことがうかがえる。


津橋
西の坂の上り下りを越えると、旧中山道は民家敷地の中を進み津橋の集落へ。


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間の宿・津橋

つばせ村と呼ばれた津橋は、かつての間の宿。物見峠と西の坂の合間に位置する、今は静かな山間の集落である。津橋薬師堂や熊野神社の廻り舞台等、見どころもあるのだが思いっきりスルー。今回は集落の様子を紹介するのみで。


津橋の家並み 津橋の家並み
西の坂を越えると津橋の静かな山間の集落に着く。


津橋
写真の中央に見えるのが津橋。この小さな橋が地名の由来になったのか、地名が橋の名の由来になったのか、定かではありません。


津橋川
ちなみに津橋の下を流れるのは津川ではなく、津橋川。写真は津橋の上から北側を撮影したもの。集落の裏手は田園地帯が広がっている。


津橋にて
津橋にて。ナナカマドは私の地元旭川の市民の木で、何となくノスタルジーな気分に。


津橋交差点付近
津橋交差点付近には貴重な自動販売機があり、ここで缶コーヒーでも飲みながら一服しておこう。この先から物見峠の上りである。


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物見峠越え①

旧中山道は津橋県道交差点で県道から分岐して道幅を狭めると、家並みが途切れたところから物見峠越えの上り坂がはじまる。諸之木峠とも称される物見峠は、遠く御嶽山や笠置山、恵那山を望む眺望の良い場所だったことから、和宮降嫁の際には休息用の御殿が建てられた。そのため御殿場とも呼ばれている。


津橋 津橋の西外れ
津橋県道交差点を過ぎてから先、旧中山道は道幅を狭めて旧街道の雰囲気を残す家並みの中を行く。


津橋川・諸の木坂から望む
津橋の家並みが途切れると物見峠の上りがはじまる。眼下に津橋川を望みながらぐんぐんと坂道を上っていく。


諸の木坂 津橋の馬頭観音
この坂道は諸の木坂と呼ばれ、やはりここにも石窟に守られた馬頭観音が置かれていた。今も変わらず通行する旅人を見守ってくれる馬頭観音は心強い存在なのだ。


物見峠旧道
途中、視界が開けた平坦地に飼料小屋と化した民家がある。その軒先を旧中山道は進む。


物見峠
物見峠へ。



馬の水呑み場跡
物見峠に残されている馬の水呑み場跡。


物見峠御殿場
物見峠の街道からすこし上った高台が御殿場の跡。和宮もここでひと時の休息を得たのであろう。


御殿場からの眺め
御殿場からの眺め。頭上の空は広がり、草原の向こうに笠置山だけはその姿を現していたが、御嶽山、恵那山を望むことはできなかった。


ラ・プロヴァンス
物見峠には「ラ・プロヴァンス」という喫茶店がある。現代版の茶屋ともいうべき峠の旧道筋にある喫茶店なのだが、残念ながら年末のお休みのようで。


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物見峠越え②

物見峠から先は謡(うとう)坂の下り。案内板に坂の名の由来が書かれていたのでそのまま引用する。『この辺りの上り坂がとても急なため、旅人たちが自ら歌を唄い苦しさを紛らわしたことから、「うたうさか」と呼ばれていたのが次第に転じ、「うとうざか=謡坂」になったのだともいわれています。』

しかし、江戸方からは鼻歌交じりに歩く軽快な下り坂。逆にここを上ってくる旅人には重宝されたのであろう唄清水や一呑の清水、地蔵の清水の名水が今も水脈を残している。十本木立場跡や石畳など、中山道の風情を色濃く残す謡坂を紹介。


謡坂上
物見峠から先は謡(うとう)坂の下りがはじまる。


唄清水 謡坂
唄清水と呼ばれる湧水が今も水脈を残している。昔は旅人の喉を潤し憩いの場を提供したのであろうが、現在は生水での飲用はしないようにと、立て看板で注意喚起されている悲しい現実が。旧謡坂村を知行地としていた尾張藩千村氏の千村平右衛門源征重(五歩)がこの清水を歌に詠んだことにちなみ、唄清水と呼ばれるようになった。

馬子唄の 響きに波たつ 清水かな



謡坂
竹林の中を抜け謡坂の集落へ。


謡坂の集落 謡坂の集落
謡坂の集落では「中山道謡坂 竹炭」の看板を置く家が目を引く。


一呑清水
謡坂の集落を過ぎて広い県道に合流にすると、左手路傍に一呑の清水が湧く。この清水は皇女和宮が通行の際、賞味し称えたと伝わる名水。やはり生水での飲用はできないとのこと。


十本木立場跡
十本木立場跡入口付近。県道から左の小径に続く旧道へ入ると、十本木立場跡である。宝暦5年(1756年)刊行の「岐蘇路安見絵図」に記載が見られる古くからあった立場で、10本の松並木があったことから十本木の名が付けられた。現在その由来となった松の形跡はない。


地蔵の清水
泉のほとりに地蔵が置かれている地蔵の清水。この清水も昔は飲用されていたのであろうが、これも生水では飲用できないのだろう。この周辺には多くの湧水があったことを伺い知るだけである。


謡坂一里塚跡
江戸日本橋から94里目(約369km)にあたる謡坂一里塚。現在の塚は昭和48年(1973年)に地元有志の手で復元されたもの。十本木立場はこの一里塚を中心に形成されていた。


洗い場跡
立場当時、共同の洗い場だったという池が残されている。このような水場が残されているのも珍しい。昔はここで茶碗や皿を洗っていたのでしょう。


十本木立場跡 木曽街道六拾九次之内 御嶽
広重の浮世絵、木曽街道六十九次の御嵩はここ十本木立場をモデルに描いたといわれる。浮世絵は木賃宿と街道筋の様子を描写しており、ここに立って見比べてみると、なるほどと思わせる。そのポイントを似たようなアングルで撮影してみたが、案内板の所に大木が立っていれば完璧であろう。その写真と浮世絵を並べてみたが、どう思います?


十本木立場跡にて
浮世絵の木賃宿跡らしき場所に建つ家には、観光名所でよく見かけるこんなものまでが・・・。


謡坂石畳
十本木立場跡から先は謡坂石畳の下りである。旧街道には石畳がよく似合う。


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物見峠越え③

謡坂から西洞(さいと)集落を経て物見峠最後の下りとなる牛の鼻かけ坂(西洞坂)へ。余談になるが、愛用の中山道ルート図に七御前遺跡なる記述があり、そこで近年にキリシタンの遺物が発見されたと書かれている。今回の道中、この遺跡には寄らなかったのだが、調べてみると興味深いことがわかったので紹介する。

謡坂付近には七御前址と呼ばれる場所があり、宝暦6年(1758年)に尾張藩士松平君山が編纂した「濃陽志略」にも次のように紹介されている。
『七御前址、謡坂村にある、あるいは古き五輪塔、あるいは古樹あり、しかれども其所の由、知れず』
古くから五輪塔があり、古い樹木が生い茂る場所だったことをうかがい知るが、何ゆえ五輪塔が多数あるのか、その由来についてはわからなかった。時が幾百年も流れた昭和56年(1981年)3月、道路工事により五輪塔が移転されると、その地下から数点の十字架を彫った自然石が発見され、隠れキリシタンの存在が明らかになったのである。仏教の墓石である五輪塔を隠れ蓑にして、信仰の証を隠していたわけだ。長きにわたり弾圧されてきたキリシタンの生き様を見る思いである。


謡坂石畳
謡坂石畳の終わり。


とどめき橋 旧中山道・小原付近
とどめき橋を渡ると旧道は対向2車線の道に合流し道幅を大きく広げる。


耳神社
途中の路傍に耳の病気にご利益があるという耳神社がある。平癒の願をかけ、お供えしている錐(きり)を1本借りて耳にあて、病気が全快したら年齢の数だけの錐をお供えするという。それを物語るように小さな祠には錐がたくさん奉納されていた。


西洞集落
耳神社の先で対向2車線の道を左の小径に離れると西洞(さいと)集落である。


西洞の馬頭観音
この辺りでは馬頭観音を石窟に納める風習があるようだ。


西洞坂
西洞集落を抜けると旧道はアスファルトから山道に姿を変え、西洞坂という急勾配の下りにさしかかる。西洞坂は別名を牛の鼻かけ坂といい、荷牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急坂だった。
『牛坊(うしんぼ) 牛坊 どこで鼻かいた 西洞の坂で かかいた』
と、馬子唄にも歌われるほどの急坂だったらしい。


西洞坂
西洞坂を下りきった先からは平坦な道が続く。木曽路から美濃路にかけて続いてきた山間の道もここで終わりとなるわけだ。


寒念仏供養塔 旧中山道・井尻付近
旧道は右折左折と鉤の手に進む。寒念仏供養塔を路傍に見ると、視界は広がりゆく平地へ延びる中山道の姿である。


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和泉式部の眠る地を経て

山中を抜けてきた旧中山道は道筋に民家を増やしながら国道21号に合流する。その合流点付近に平安時代の女流歌人、和泉式部のものと伝わる墓所がある。和歌をこよなく愛した和泉式部は数多くの名歌を残したが、その一方で恋多き女性という一面もあったらしい。東山道を辿っている中、御嵩辺りで病に侵され鬼岩温泉で湯治したが、寛仁3年(1019年)この地で没したという。

この先、ひたすら直線の国道を歩み御嵩宿へ。


旧中山道・井尻付近 旧中山道・井尻付近
西洞坂から御嵩宿へ向けて平坦な道が続く。


旧中山道・井尻付近
旧中山道は山田商店横で国道21号に合流する。


いづみ式部の廟所
和泉式部の廟所。石碑の形もさることながら刻まれた文字もどこか女性らしさを感じさせる。和泉式部はすばらしい和歌を数多く残したというが、美しい女性だったこともうかがえよう。しかしこの石碑に刻まれている一首を読んでみると、気の強さまでを感じてしまったのは私だけだろうか。

ひとりさへ 渡ればしずむうきはしに あとなる人は しばしとどまれ



中街道道標
旧道と国道21号の合流点には中街道の道標も置かれている。ここが上街道(中山道)と中街道(釜戸経由で大井宿へ至る)の分岐点であった。大井宿~御嵩宿間の中山道は江戸時代初期、現行ルートに付け替えられたことは前にも述べたが、それ以前のルートがこの中街道で、古中山道ともいうべき道である。道標は明治15年建立のもので、「右中街道 中仙道大井宿へ 達」と刻まれている。


国道21号・丸山付近
ひたすら直線に延びる国道21号を歩む。写真に見える半円形の山は丸山というらしい。せっかくなので登ってみた。


丸山稲荷神社 丸山稲荷神社
丸山の頂上には丸山稲荷神社が鎮座していた。急勾配の参道は結構きつい。


国道21号・長岡交差点付近
国道21号・長岡交差点付近。


栢森の道標
路傍にこの道標を見たら左折の道に国道を離れる。ここまで来れば御嵩宿はもうすぐだ。ちなみに栢森(かやのもり)の一里塚がこの辺りにあったらしいが、全く痕跡を留めていないので場所すら特定できず。


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御嵩宿

御嵩宿京方外れ、現在の御嵩駅前にある願興寺は平安時代初期、最澄の開基と伝わる古刹。薬師如来が蟹の背に乗って現れたという伝説があり、古くから蟹薬師の名で親しまれてきた。御嵩宿はこの願興寺の門前町として人が集まり、江戸時代初期に中山道が制定されると宿場町として繁栄した。

御嵩宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ東西4町56間(約537m)、人口600人、家数66軒、本陣1、脇本陣1、旅籠28軒。江戸方から上町・仲町・下町と続き、下町に本陣・脇本陣・問屋場が置かれ、仲町に高札場が設けられていた。京方外れの街道は大きく鉤の手に曲折した枡形となっており、その一角に願興寺がある。

明治時代になり宿場町としての役目を終えた御嵩なのだが、周辺の一帯で亜炭(石炭の一種であるが、炭素の含有成分が少ない)の存在が確認されると、徐々に採掘がはじめられ亜炭の町として変貌を遂げてゆく。第二次世界大戦から戦後の復興期にかけて、石炭の不足を補う燃料として産出量はピークに達したが、エネルギーの主流が石炭から石油に変わると御嵩の亜炭鉱も衰退し、昭和42年(1967年)最後の鉱山が閉山され亜炭産業の幕は閉じた。近年になって無数に掘られた地下廃坑が崩れ、いまだに陥没や壷抜けといった災害が起こっている。


弘法堂 御嵩宿上町
弘法堂の先から御嵩宿の町並み。


御嵩宿上町
御嵩宿上町の町並み。街道が弓形に曲げられている。


御嵩宿仲町
御嵩郵便局付近が仲町で、写真中央の家付近に高札場があったようだ。


御嵩宿にて
御嵩宿にて。


御嵩宿の路地
旧宿場町は街道を外れた小さな路地にもその面影を留めていることが多い。


御嵩宿下町
宿場の中心だった下町には本陣、脇本陣、問屋場が置かれていた。本陣を務めた野呂家は健在で、その隣の脇本陣跡は中山道みたけ館となっている。


御嵩宿本陣跡
御嵩宿本陣跡の野呂家。門構えに本陣の面影を残しているが、敷地の多くが駐車場となってしまった。


願興寺にて
京方外れにある願興寺の門前で御嵩宿は終わり。


願興寺本堂
国指定重要文化財の願興寺本堂は天正9年(1581年)の再建で、400年以上の歴史を物語る風格あるたたずまい。「四周一間通り」と呼ばれる建築様式は珍しいもので、四方から本尊を拝むことができるようになっている。その本尊は12年に1度の御開帳という秘仏。それも子年の4月ということは・・・今年。


願興寺鐘楼門
四脚楼門造りの鐘楼門は寛文10年(1670年)の建立。岐阜県指定重要文化財。


願興寺にて
願興寺を訪れたら是非見ていただきたいのがこれ。意外なところに蟹が居ます。蟹瓦とでも表現したらよいのでしょうか。

【第32日目】踏破距離 約11.8km(細久手宿→御嵩宿)日本橋から377km 京都まで157km
まだまだ先は長い・・


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中山道みたけ館と商家竹屋

【第33日目】2008年2月10日(日) 御嵩宿→伏見宿→太田宿



前日は近畿地方から関東にかけて雪という荒れ模様の天候。大阪市では11年ぶり、名古屋市では3年ぶりの大雪となった。普通こんな日に歩きに行かないよなぁ・・・と思いつつも、久々の2連休だったこともあり、とりあえず朝の東京駅へ向かう。さすがにウインターシーズンだけあって長野・上越新幹線の指定席は全て満席で埋まり、スノボーを担いだ客でごった返しているが、大雪の影響なのか東海道新幹線はガラガラ。とにかく通常通りに運行しているので、8:13発のぞみに乗車し一路名古屋へ。

名古屋駅からは名鉄で御嵩駅まで行き、御嵩宿から再び旧中山道に歩みを戻す。まずは中山道みたけ館と一般公開されている商家竹屋を見学することに。中山道みたけ館は旧脇本陣跡に建てられた資料館と図書館の複合施設。御嵩宿や亜炭鉱のことはもちろん、古代から近代に至る御嵩の郷土史が文化財や資料の展示に加え、映像と音声を使ってわかりやすく紹介してくれる。そしてこの中山道みたけ館から本陣跡を挟んだ隣にあるのが商家竹屋。江戸時代末期に本陣を務めた野呂家の分家という商家は、明治10年(1877年)頃と推定される建築を残し、江戸期の商家の姿を今に伝える。


御嵩駅
名鉄広見線の終着、御嵩駅。前日の大雪により雪国の駅といった様相。


願興寺
願興寺も雪化粧。


雪景色の御嵩宿
唐沢川を渡り再び雪景色の御嵩宿へ。


唐沢川と御嵩富士
唐沢橋より川上に望むのは御嵩富士。


中山道みたけ館
本陣跡の隣、脇本陣跡に建つ中山道みたけ館。「田中比左良の世界展」が催されていた。明治23年(1890年)ここ御嵩に生まれ、24歳まで過した挿絵画家の田中比左良は、近代モダンと美人画のさきがけと称されるまでに名声を高めた。私は正直なところ初めて聞く名であるが、どこかで見たことがあるような優しい配色とタッチは、古きよき大正・昭和の時代を感じさせる画風。

中山道みたけ館のホームページへはこちらから↓
http://www.seikatsu-guide.com/facilities/show/402759


雪景色の御嵩宿
御嵩宿本陣付近。雪があるだけで随分と雰囲気が変わるものだ。


商家竹屋
本陣跡隣にある竹屋は江戸期の商家のたたずまいを残している。


商家竹屋・表店の間
商家竹屋・表店の間


商家竹屋・中の間
商家竹屋・中の間


商家竹屋にて
商家竹屋にて。


商家竹屋にて
商家竹屋にて。


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鬼の名は

旧中山道は御嵩宿の願興寺門前から右折、左折、右折と忙しく道筋を曲げながら国道21号に合流し西へ向かう。途中、国道の路傍にあるのが鬼の首塚(天神塚)と伝わる場所。鎌倉時代、付近に乱暴狼藉、悪行三昧を極めた鬼のような男がおり住民を怖れさせたが、蟹薬師のお告げによって捕らえられついに首を刎ねられた。その首が埋められたというのが、ここ鬼の首塚である。この男、西美濃不破の関の生まれであったことから「関ノ太郎」とか「鬼ノ太郎」と呼ばれた。


旧中山道・御嵩町中付
願興寺門前を右折すると時計・宝石・メガネの原(写真中央の店)という店があるので次はここを左折。


旧中山道・御嵩町中付
中公民館前を通り過ぎ、写真の松月堂菓子舗まで来たら右折の道へ。


旧中山道・御嵩町中付 国道21号・中信号付近
太陽社電気の前で左折し国道21号を西へ進む。


「左京大坂道」道標
国道の路傍には電柱に寄りかかるようにひっそりと古びた道標が置かれていた。すっかり国道へと変貌した中山道であるが、幾たびもの変遷と往来する人々を見てきたのだろう。「左京大坂道」と刻まれているように見える。


鬼の首塚
これが鬼の首塚(天神塚)。悪事の限りを尽くした関ノ太郎の首は検分のため首桶に納めて京へ運ばれていたところ、急に首桶が重くなり一歩も進むことができなくなった。すると首桶を縛っていた縄が切れ中から首が転げ落ち、その首も動かすことができなくなったため、この地に埋められたという。この言い伝えから首塚付近は「桶縄手」とも呼ばれ、十辺舎一句もこの地を詠んだ歌を残している。

桶縄手 今もその名を朽ちさりき 塩漬けにせし 鬼の首かも


鬼の首塚と子規歌碑
鬼の首塚の横には正岡子規の歌碑が置かれている。明治24年(1891年)子規が木曽路から東濃を経て故郷の愛媛県・松山へ帰る途中に記された「かけはしの記」の中で詠まれた歌である。

草枕むすぶまもなきうたたねの ゆめおどろかす野路の夕立


国道21号・御嵩町中付近 国道21号・大庭交差点
国道21号をひたすら西へ。


旧中山道・新木野付近 旧中山道・新木野付近
新木野で一旦国道を離れ右の小径へ。曲りくねったいかにも旧道らしい道は500m程で再び国道に合流する。


御嵩町旧中山道の路傍にて
旧中山道の路傍にて。


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伏見のお柳様

可児川に沿って国道21号を進む。陽光が煌めく川面を左に、顔戸城跡の小山を右に見ながら歩みを進めると比衣一里塚跡に着く。ここから国道を離れて東海環状自動車道の下を潜り抜けると、比衣川に架かる土橋を渡る。中山道の標識に従って道を選び、再び国道に合流。間もなく伏見警察官駐在所の横から旧道の小径に道筋を変える。ここで名鉄八百津線の廃線跡を越えるのだが、北の方角に目を向けると100m程先、線路跡脇にポツンと石塔が見える。これが樹齢千年を越えていたというお柳様こと大柳の跡である。


可児川
可児川に沿って国道21号を進む。


顔戸橋
可児川に架かる顔戸橋。


顔戸城跡
顔戸交差点から左は顔戸橋、右に行くと顔戸城址がある。雑木林に覆われた小高い場所に空堀や土塁の遺構がはっきりと見られる。築城は室町時代応仁の乱(1467~1477年)の頃で斎藤妙椿によるもの。妙椿は幼少時から出家していたが、長禄4年(1460年)守護代の兄利永が亡くなると還俗し、甥である新守護代利藤を後見。戦国期に下克上によって美濃一国を治めた道三に繋がる美濃斎藤家の礎を築いた。


国道21号・顔戸付近
国道21号・顔戸付近。


比衣一里塚跡
写真に見える中山道の標柱辺りが比衣一里塚跡で、江戸日本橋から96里目(約377km)にあたる。遺構は残っていない。ここで国道を離れる。


御嵩町比衣にて
御嵩町比衣にて。柿の木も寒そう。


土橋 比衣川
昔は土橋だったのだろうが、土橋というコンクリートとアスファルトで固められた橋で比衣川を渡る。


旧中山道・高倉付近
旧中山道はここを左折。うっかり直進してしまうので注意。


国道21号・高倉付近
再び国道に合流するが、間もなく伏見警察官駐在所の横から小径にそれる。


大柳の跡
写真中央のポツンと見える石塔が大柳の跡。樹齢千年を越える大柳があったといい、お柳様と呼ばれて近隣住民に信仰されてきた。伏見宿は遊女を多く抱えていたといい、お柳様に櫛を供えると苦死から免れ、病気回復や早く親元に帰れると信じられてきた。昭和37年(1962年)の秋に台風で倒木してしまったが、木を切ると祟りがあると恐れられ、昭和49年に耕地整理されるまで放置されていたという。現在の石塔は昭和53年(1978年)お柳様を偲び建てられた。


名鉄八百津線の廃線跡
名鉄八百津線の廃線跡。平成13年に廃止された。この廃線跡を越えた先から伏見宿である。


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伏見宿

伏見宿の成立は遅く、中山道が整備されてから90年程後の元禄7年(1694年)のことである。当初は御嵩宿から中山道を西へ向かうと土田(どた)宿[現 可児市土田]があり、この土田宿から木曽川を渡って鵜沼宿方面へ向かうルートだった。しかし木曽川の流れが変遷し、渡し場も大きく東寄り(上流側)に移動すると新たに太田宿が設置されたため、土田宿は中山道から外れるとともに宿場としての重要性を失い廃宿となった。それに対応して御嵩宿と太田宿間に誕生したのが伏見宿である。

ただし、慶長7年(1602年)の御嵩宿の駄賃定書に伏見の名が見られるというから、もともと荷物の継立てを行う間の宿的な町があり、そこに本陣や脇本陣を置いて宿場町としての体裁を整えたようだ。しかし伏見宿は立地条件が悪く、隣の御嵩宿や商業地の兼山に近く、また木曽川の水運が発達すると新村湊が物資流通の拠点となってしまい、伏見宿は廃れ困窮を極めたようだ。そのため銭を稼ぐ一手段としてなのか、遊女(飯盛女)を抱える女郎屋が多くあったといい、花街としての一面もあったようだ。

伏見宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ東西5町16間(約573m)、人口485人、家数82軒、本陣1、脇本陣1、旅籠19軒。江戸方の東坂を上った所から東町、仲町、西町と続き、西坂の下りが宿場京方外れである。東町に本陣、仲町に問屋、西町に脇本陣が置かれていた。遊女を多く抱える宿場だったことは先述したが、近郊の子安観音堂の一角に身寄りのない遊女らを弔ったという女郎塚がある。そこに眠る彼女らは変わり果てたこ世の中とこの伏見宿を見て何を思うのだろうか。


東坂
名鉄八百津線の廃線跡から先は東坂の上り。


中山道標識
伏見宿へ。


伏見宿・本陣付近
伏見宿東町、本陣付近の町並み。写真左の木が立っている場所が本陣跡。宿内を貫く中山道が国道21号と化したため宿場の面影は薄い。


伏見宿本陣跡
伏見宿本陣跡の敷地は御嵩町伏見公民館になっている。本陣跡を示す石碑と「是より東尾州領」と刻まれた領界石が立ってはいるが、本陣の遺構は全く残されていない。ちなみにこの領界石は宿場の京方入口にあたる西坂に置かれていた。


浄覚寺
本陣跡の裏手にある浄覚寺。


伏見宿・伏見交差点付近 兼山道道標
伏見宿仲町辺り、伏見交差点付近の町並みとその交差点角にある兼山道の道標。ここから兼山や八百津に向かう道が分岐している。道標は「右御嵩 左兼山八百津」と刻まれているが、見た感じに新しく近年のものだろう。ちなみに「御嵩」の表記は明治初期に「御嶽」から改められたものなので、宿場時代のものでは無いことは確かである。

旅籠三吉屋跡
伏見宿西町の町並み。写真右に見える旧家が旅籠兼生薬屋だった三吉屋の跡。伏見が宿場だったことをうかがい知る唯一の遺構であろう。現在、人が住んでいる気配が無く、後々壊されてしまうのだろうか。心配である。


伏見宿にて
伏見宿にて。


西坂
西坂の緩やかな下りで伏見宿は終わり。


子規の歌碑
西坂の途中に置かれている正岡子規の歌碑。明治24年(1891年)子規は木曽路を経て故郷の愛媛県松山へ向かう道中、伏見宿で宿泊し、新村湊から舟で木曽川を下り木曽川駅へ向かった。歌碑に刻まれた歌はその時、新村湊で詠まれたものである。

此夜伏見に足をとゞむ。
朝まだきほの暗き頃より舟場に至って下り舟を待つ。つどい来る諸國の旅人七・八人あり。


すげ笠の 生國名のれ ほととぎす

『かけはしの記』より


犬山街道の道標
西坂を下りきると上恵土交差点で、その角に犬山街道の道標がある。「右 太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル約九里」「左 多治見及犬山ニ至ル約四里」と刻まれている。大正4年(1915年)の建立。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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