物見峠から先は謡(うとう)坂の下り。案内板に坂の名の由来が書かれていたのでそのまま引用する。『この辺りの上り坂がとても急なため、旅人たちが自ら歌を唄い苦しさを紛らわしたことから、「うたうさか」と呼ばれていたのが次第に転じ、「うとうざか=謡坂」になったのだともいわれています。』
しかし、江戸方からは鼻歌交じりに歩く軽快な下り坂。逆にここを上ってくる旅人には重宝されたのであろう唄清水や一呑の清水、地蔵の清水の名水が今も水脈を残している。十本木立場跡や石畳など、中山道の風情を色濃く残す謡坂を紹介。

物見峠から先は謡(うとう)坂の下りがはじまる。

唄清水と呼ばれる湧水が今も水脈を残している。昔は旅人の喉を潤し憩いの場を提供したのであろうが、現在は生水での飲用はしないようにと、立て看板で注意喚起されている悲しい現実が。旧謡坂村を知行地としていた尾張藩千村氏の千村平右衛門源征重(五歩)がこの清水を歌に詠んだことにちなみ、唄清水と呼ばれるようになった。
馬子唄の 響きに波たつ 清水かな

竹林の中を抜け謡坂の集落へ。

謡坂の集落では「中山道謡坂 竹炭」の看板を置く家が目を引く。

謡坂の集落を過ぎて広い県道に合流にすると、左手路傍に一呑の清水が湧く。この清水は皇女和宮が通行の際、賞味し称えたと伝わる名水。やはり生水での飲用はできないとのこと。

十本木立場跡入口付近。県道から左の小径に続く旧道へ入ると、十本木立場跡である。宝暦5年(1756年)刊行の「岐蘇路安見絵図」に記載が見られる古くからあった立場で、10本の松並木があったことから十本木の名が付けられた。現在その由来となった松の形跡はない。

泉のほとりに地蔵が置かれている地蔵の清水。この清水も昔は飲用されていたのであろうが、これも生水では飲用できないのだろう。この周辺には多くの湧水があったことを伺い知るだけである。

江戸日本橋から94里目(約369km)にあたる謡坂一里塚。現在の塚は昭和48年(1973年)に地元有志の手で復元されたもの。十本木立場はこの一里塚を中心に形成されていた。

立場当時、共同の洗い場だったという池が残されている。このような水場が残されているのも珍しい。昔はここで茶碗や皿を洗っていたのでしょう。

広重の浮世絵、木曽街道六十九次の御嵩はここ十本木立場をモデルに描いたといわれる。浮世絵は木賃宿と街道筋の様子を描写しており、ここに立って見比べてみると、なるほどと思わせる。そのポイントを似たようなアングルで撮影してみたが、案内板の所に大木が立っていれば完璧であろう。その写真と浮世絵を並べてみたが、どう思います?

浮世絵の木賃宿跡らしき場所に建つ家には、観光名所でよく見かけるこんなものまでが・・・。

十本木立場跡から先は謡坂石畳の下りである。旧街道には石畳がよく似合う。
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