英泉が浮世絵に描いた鵜沼宿は木曽川対岸の犬山城からの遠望。浮世絵を見るとかつては鵜沼宿付近まで河原が続いていたことがわかる。現在はその河原一帯が市街地と化しているため、浮世絵のような遠望は不可能であろうが、天守閣に登れば宿場を一望できるのかもしれない。宿場名の鵜沼というのも、長良川で有名な鵜飼いの鵜に由来があるのだろうが、実際に昔から木曽川でも鵜飼いが行われてきた。
鵜沼宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ東西7町半8間(約831m)、人口246人、家数68軒、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒。宿長さが800m以上あったにもかかわらず、美濃16宿中で最も人口が少ない。宿場を分断するように大安寺川が中心に流れ、その川を挟んで江戸方を東町、京方を西町と呼んだ。現在の行政区域名にも面影を留めている。明治24年(1891年)濃尾地震により壊滅的な被害を受けたため、宿場時代の建築は残されていない。

鵜沼宿東町の町並み。宿場の面影は無い。

大安寺川に架かる大安寺大橋。この橋を渡った先から西町となり、本陣や脇本陣が置かれた宿場の中心だった。常夜灯や木製の欄干が整備されており宿場情緒の漂う場所になっている。

鵜沼宿・本陣跡付近の町並み。写真の街道右手前、塀の辺りが鵜沼宿本陣・桜井家跡で、その奥が脇本陣・坂井家だったと思われる。本陣跡は遺構はもちろんのことその跡地を示すものも無いのではっきりした跡地がわからないが、脇本陣に隣接していたというからこの辺なのだろう。脇本陣・坂井家跡は案内板と芭蕉塚があるので跡地が特定できる。

脇本陣・坂井家跡にある芭蕉塚。松尾芭蕉は3度にわたりここ鵜沼宿を訪れ、脇本陣の坂井家に宿泊した。その滞在時に詠んだという句碑が建てられている。
汲溜の 水泡立つや 蝉の声ふぐ汁も 喰へば喰せよ 菊の酒

脇本陣・坂井家跡の隣に鎮座する二ノ宮神社。境内はちょっとした高台になっているのだが、実はここ、古墳時代後期(6世紀後半)に造られた墳丘だという。石垣の中に横穴式石室が露出している(右写真)。

大安寺川から二ノ宮神社前にかけて街道に沿った南側一帯は菊川酒造の敷地になっている。旧中山道に面して本蔵や豆蔵といった2階建ての土蔵が並び建ち、鵜沼宿の景観を特徴的なものにしている。

江戸時代に丸一屋の屋号で旅籠を営んだ坂井家住宅。鵜沼宿脇本陣家と同姓であり、おそらく分家した家柄なのだろう。現在の建物は明治27年(1894年)の建築で寄棟屋根に特徴がある。

鵜沼宿西町の町並み。旧旅籠若竹屋・安田家住宅や梅田家住宅といった切妻造り平入りの建築が町屋の構えをよく伝えている。

鵜沼宿の京方(西)外れにあるモニュメント。ここで鵜沼宿は終わり。
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