【第36日目】2008年3月30日(日) 美江寺宿→赤坂宿→垂井宿
美江寺という地名は想像の通りここにあった同名の寺社に由来する。養老年間(717~724年)の創建と伝わる美江寺は伊賀国の伊賀寺に安置されてた十一面観音を美濃国に移したことに由緒があるという。この古刹を中核にして人々が集まり門前町を形成していったのだろうが、戦国時代の天文8年(1549年)肝心要の十一面観音は斎藤道三によって稲葉山城下(現岐阜市内)に移されてしまったという。しかしながら町名にその名だけは留め、太閤秀吉が天下人となった頃には問屋場が設けられ、荷継ぎの役にあたるほどに栄えていたようだ。
寛永14年(1637年)徳川の世となって中山道が整備されるにあたり宿場町となったが、本陣が置かれたのは遅れること32年後の寛文9年(1669年)のことであった。宿場は大雨が降ると長良川の逆水により浸水し、そのうえ幕末頃には治安も悪かったようで、旅人の評判は良くなかったらしい。美江寺宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ東西4町28間(約486m)、人口582人、家数136軒、本陣1、脇本陣なし、旅籠11軒。明治24年(1891年)の濃尾大地震で壊滅的な被害に遭ったので、現在の町並みに古い建物はほとんど残っていない。

どんよりとした曇り空の早朝、カプセルイン大垣こと大垣健康センターを出発。バスで大垣駅へ向かい樽見鉄道で美江寺駅へ。

美江寺宿江戸方(東方)入口付近。路傍には「左 北方谷汲ニ至ル 右 岐阜加納ニ至ル」と刻まれた道標が置かれている。大正10年建立。

美江寺大門裏信号付近 の美江寺宿。分間延絵図には記載がないのだが、この辺りが上町だったと思われる。この信号先に美江寺一里塚があった。江戸日本橋から108里目(約424km)の一里塚で、現在は消滅している。

連子格子の窓に旧商家の面影を残す酒の布屋。美江寺宿内で濃尾大地震による倒壊を免れた唯一の家である。

美江神社前で街道は枡形の曲折となる。この辺りがかつての仲町で、庄屋を務めた和田家(写真左の家)がある。

美江神社とその境内にある美江寺観世音。戦国時代斎藤道三によって持ち去られた十一面観音の代わりに安置されたのが現在の美江寺観音。本家本元は今も岐阜市内にある。

美江寺宿下町にあった本陣は寛文9年(1669年)に設置され、当時問屋役だった山本金兵衛が兼ねて務めたことにはじまる。明治3年(1870年)宿駅制が廃止されるまで、代々山本家が継承することになる。本陣の遺構は濃尾大地震により全壊してしまったようで残っていない。

墨俣道との分岐点で中山道は右折。ここが美江寺宿京方入口で木戸が設けられていた。「左 大垣墨俣ニ至ル 右 大垣赤坂ニ至ル」と刻まれた大正10年の道標が置かれている。
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