大垣輪中

木曽川・長良川・揖斐川といった木曽三川が集中する濃尾平野は、三川の間に無数の中小河川をはりめぐらしており、水に恵まれた地域である一方、昔から水害が多い地域でもあった。その最下流域に位置する尾張藩は徳川御三家の一つ尾張徳川家が治める重要地で、尾張側には高い堤を築いて出水に備えていたため、その対岸にあたる美濃側は洪水の度に被害を受けたようである。

そんな濃尾平野北西にあたる揖斐川中流域に位置する美濃国大垣は、城下町として大垣城を中心に発展してきたが、市域東側に揖斐川、西側に杭瀬川が流れる海抜数メートルの低地にあるため、両河川の氾濫には随分と悩まされてきた。そこで上流部に大島堤・前田堤・笠縫堤を築いて大垣を出水から防ぎ、周辺住民は輪中(わぢゅう)と呼ばれる堤を築いて田畑や家屋を守ってきた。

輪中とは馴染みの無い言葉であるが、読んで字の如く輪の中といった意味である。濃尾平野のような低湿地帯に暮らす人々が、水害から田畑や家屋等の生活基盤を守るため、集落の周りを堤で囲み水害に備えたものである。木曽川三川の中下流域にはこのような輪中が多く見られた。呂久から赤坂宿にかけての中山道周辺は大垣輪中と呼ばれる大小様々な複合した輪中があった地帯で、水害と闘ってた歴史を肌で感じながら歩こう。


旧中山道・神戸町付近
呂久の渡し跡から先、神戸町柳原地区を行く旧中山道。写真は小簾公園(呂久の渡し跡)方面を撮影したものだが、昔はここに呂久川が流れていた。


平野井川
新橋(旧呂久橋)で平野井川を渡ると大垣市に入る。


旧中山道と大島堤
大島堤を上る旧中山道。大島堤は呂久川(現揖斐川)の出水から大垣を守るために造られた。


道標「右すのまた宿道 左木曽路」
土手上に「右すのまた宿道 左木曽路」の道標が立っていた。


柳瀬一里塚跡
平野井川に架かる柳瀬橋と旧中山道。写真は平野井川対岸から旧中山道を撮影したもので、柳瀬橋付近に柳瀬一里塚があったらしい。江戸日本橋から109里目(約428km)にあたる一里塚。


旧中山道・坂下町付近
柳瀬橋から大島堤を越え坂下町へ。


旧中山道・坂下町付近
坂下町の大島堤を行く旧中山道。写真右に見える建物は大垣輪中坂下水防倉庫で、水害対策用の道具が備えられているという。大垣周辺にはこのような水防倉庫がたさん設置されている。


旧中山道・三津屋町3交差点
旧中山道は大島堤を離れ三津屋町を行く。


長徳寺
三津屋町の旧中山道筋にあった長徳寺。


旧中山道・三津屋町付近
三津屋町・旧中山道にて。


聖観世音菩薩
三津屋町の聖観世音菩薩。「右ぜんこうじ道 左谷汲山 ごうど いび近道」と刻まれ道標を兼ねている。西国三十三ケ所札止めの観音霊場である谷汲山華厳寺への道がここで分岐する。


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中仙道七回り半?

三津屋町の旧中山道を通り抜けるとS字に曲げられた道筋にさしかかる。ここに「中仙道七回り半」と刻まれたように見える石碑が置かれているのだが、”半”と読める字が本当に”半”なのかがイマイチわからない。この先、加納排水路を越えると直角に近い曲がりが4ヶ所設けられており、前記のS字カーブと併せて”七回り”はこれに由来するのだろうが、何故こんな道筋になったのか、理由がこれまたわからない。

近鉄養老線の踏切を越えた先で菅野川を渡り、白山神社、青木一里塚、多賀野神社を経て赤坂大橋まで進む。そしてついに雨が・・・。


中山道七回り 「中仙道七回り半」碑
七回り最初のS字カーブ。ここに右写真の「中仙道七回り半」と読める石碑が置かれている。


加納排水路の桜並木
加納排水路の桜並木を越える。


中山道七回り半 中山道七回り半
S字カーブで2回りとすると、左写真の地点が3回り目。そして右写真、道の突き当たりを左に曲がるのだが、これが4回り目。


中山道七回り
興福地町に入り5回り目と6回り目を迎える。ここはきれいな直角の鉤の手に曲げられており、6回り目の角に加納薬師如来への道標を兼ねた地蔵がある。これで七回りの中山道は終わるのだが、結局6回りしかないような・・・。


加納薬師如来地蔵
これが加納薬師如来への道標を兼ねた地蔵。「左かのふ村 やくし」の文字が読み取れる。


旧中山道・近鉄養老線踏切
近鉄養老線を渡る旧中山道。


旧中山道・菅野橋
菅野橋と旧中山道。


白山神社
枝郷の白山神社。ここで何とかこらえていた雲り空から雨粒が落ち始める。


青木(池尻)一里塚跡
青木(池尻)一里塚跡。遺構は全く残っておらず、「史跡中山道一里塚跡」の石碑が跡地を示すのみ。江戸日本橋から110里目(約432km)にあたる一里塚。


旧中山道・多賀神社付近
多賀神社横を行く旧中山道。


杭瀬川と赤坂大橋
赤坂大橋で杭瀬川を渡れば赤坂宿は近い。


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赤坂宿

赤坂宿の歴史は古く、古代から東山道宿駅の杭瀬川駅として町を形成してきた。江戸時代に中山道が整備されると本陣・脇本陣・問屋場が置かれ宿場町としての体裁を整え、将軍が京へ向かう途次の宿泊・休憩地としてお茶屋屋敷も設けられた。江戸期から明治期にかけて物資輸送の手段が陸運から水運中心になると、杭瀬川の川港(赤坂港)が整備され宿場は賑わいをみせた。明治後期から大正期にかけて宿場近くの金生山から採掘された石灰や大理石運搬で杭瀬川の水運は最盛期を迎え、赤坂港には500艘を超える船が往来したという。しかし全国に鉄道網が整備され、水運から鉄道輸送へと移り変わるにつれ赤坂港の水運は衰退していった。

赤坂宿は文久元年(1861年)皇女和宮の通行に際して宿泊地となり、幕府の威信を示すために幕府からの10年債を使って中山道に面した54軒の家が2階建てに建て替えられた。地元ではこれを「お嫁入り普請」と呼び、後世に伝える。宿場中心にある四ツ辻は谷汲街道の分岐点となっており、中山道から北へ延びる道は西国三十三箇所第三十三番札所、満願結願の華厳寺へと続く。天保14年(1843年)当時、赤坂宿の長さ東西7町18間(約795m)、人口1129人、家数192軒、本陣1、脇本陣1、旅籠17軒。


広重浮世絵「赤坂」.
広重が描いた浮世絵の赤坂宿。宿場東方入口、杭瀬川に架かる木橋を描いている。 この浮世絵は天保期(1830~1843年)に描かれたというから、浮世絵を見る限りこの頃には杭瀬川もそれほど大きくなく、小さな河岸くらいがあったのだろう。川港として発展するのは明治時代を迎えてからの話のようだ。


火の見櫓と常夜灯
これが現在の赤坂宿東(江戸)方入口。杭瀬川は200m程東側に移動したため、小さな流れとなった旧杭瀬川の上に赤い欄干の橋が架けられている。宿場入口には赤坂宿のシンボルとも言うべき赤坂港の常夜灯が置かれ、火の見櫓がそびえ立つ。


赤坂港跡
かつて水運で賑わった赤坂港跡。親水公園として整備されているが、今となっては500艘もの船が往来する川港だったことを想像するには難しい。小さな旧杭瀬川の川筋と常夜灯だけが往時を偲んでいる。


赤坂港会館
赤坂港跡に建つ洋風建築の赤坂港会館。この建物は明治8年(1875年)に中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた警察屯所で、現在の建物は復元されたもの。内部は資料館となっており、赤坂宿や赤坂港に関する展示をはじめ、金生山の化石や大理石等が展示されている。説明員の話を聞きながら見学でき、赤坂の歴史を知りたいのであれば是非とも立ち寄りたい場所だ。


赤坂本町駅跡
赤坂宿内へ歩みを進めると、踏切横に赤坂本町駅跡の標柱が目に留まる。ここに敷かれた線路は、今でこそ金生山から産出される石灰を運ぶ西濃鉄道の貨物線であるが、昭和20年(1945年)まで旅客営業を行い、ここに赤坂本町駅があった。石垣のホームが残存している。


赤坂宿本陣跡
赤坂宿本陣跡。現在遺構は何も残っていないが公園として整備され、ここ美濃赤坂に生まれた幕末の志士所郁太郎の銅像が置かれている。所郁太郎は刺客に襲われ重傷を負った井上聞多を治療した人物として知られる。


赤坂宿
お嫁入り普請を偲ぶ町並みを残している赤坂宿。


赤坂宿の四ツ辻 谷汲観音道道標
赤坂宿の中心に位置する四ツ辻は中山道と谷汲街道の分岐点。写真右、天和2年(1682)建立の常夜灯を兼ねた道標が残っている。道が不自然な形をしており枡形の跡とも思われる。ちなみにこの四つ辻のどこかに現赤坂港会館の警察屯所があったようだ。


赤坂宿脇本陣跡・榎屋旅館
かつて脇本陣を務めた榎屋旅館。上段の間や書院が保存されているらしい。近年まで旅館を営んでいたが、現在の様子を見る限り廃業してしまったようだ。


宿場の駅 五七処
脇本陣跡の隣にある「宿場の駅 五七処」。赤坂宿が江戸日本橋から57番目にあることから五七処の名が付いたようで、特産品を販売する傍ら赤坂の情報発信基地となっている。

雨も本降りになってきたところだったので、雨宿りがてらに立ち寄ってみる。店内には徳川家康にあやかった勝運・開運グッズや饅頭、大福、焼き菓子といった土産物が所狭しと陳列されている。元気で話好きな(多分)おかみさんとの会話が楽しい店で、赤坂宿を訪れた際には休憩がてらに来店したい場所だ。名物五七饅頭を買っただけなのに、関ヶ原合戦図屏風の縮小画や「飛騨弁 美濃弁」といった小冊子まで頂き、恐縮至極・・・。


お嫁入り普請探訪館
五七処の隣にはお嫁入り普請探訪館なる建物がある。当然、ここにも寄ってみるが・・・鍵がかかっており戸が開きませんでした。残念。


八王子神社
金生山の麓にある八王子神社へは赤坂宿から参道が続く。


お茶屋屋敷跡
宿場から少しはずれた南側にあるお茶屋屋敷跡。ここは将軍が上洛の往復に利用するため設けられた専用の休泊所だった。中山道中の4里ごとに設けられていたが、ここが唯一の遺構である。江戸時代には庶民など決して立ち入ることのできない場所だったのだろうが、今は気軽に入ることができ竹林やボタン園を散策できる。


鹿光堂
赤坂宿にて。


赤坂宿西町
赤坂宿西町の町並み。


兜塚
赤坂宿西外れにある兜塚。関ヶ原合戦の前日、杭瀬川の戦いで東軍中村隊の武将野一色頼母(のいっしきたのも)が討死し、その死体と鎧兜を埋めたと伝わっている。


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東山道宿駅跡・青墓

西濃鉄道昼飯線の廃線跡を越えたところで赤坂宿と別れ、石灰工場の横を通り抜けて昼飯町という一風変わった名前の集落に入る。普通に”ひるめし”と読んでしまうが、実は”ひるい”と発音する。どれくらい昔のことなのだろうか、大阪の海から善光寺如来の仏像が拾い上げられ長野の善光寺へ運ぶことになった。その仏像を運ぶ一行がここで昼食をとったことに名の由来があるという。

昼飯町の次は青墓町。ここは中山道の前身、東山道の宿駅として栄えた町で平安時代末期には遊女や傀儡(くぐつ)子も多くいて賑わったようであるが、後に渡し場があり利便性の高い杭瀬川沿岸(東山道杭瀬川駅、後の中山道赤坂宿)に宿駅が移ってしまい青墓は廃れたようだ。源氏と深いゆかりがあり、平治の乱で平清盛に敗れた源義朝(頼朝の父)がこの地に隠れ、大炊の長者の娘との間に子をもうけたといい、また義経にまつわる伝説も残っている。


西濃鉄道昼飯線廃線跡と金生山
西濃鉄道昼飯線の廃線跡を越えて赤坂宿を出る。線路向こうに見える山は石灰の採掘で山肌を露わにした金生山。


旧中山道・昼飯町
昼飯町を行く旧中山道。


旧中山道・青墓町
青墓町に入る旧中山道。


青墓の町並み
中世に東山道の宿駅として賑わった青墓の町並み。平安時代には遊女や傀儡子が多くいて、それらの者によって歌われた今様(当時の流行歌)の中心地だった。今様の歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」を編纂するほど今様に熱心だった後白河院は、青墓にいた乙前(おとまえ)という名手を呼び寄せ自らが習ったという。

遊びをせんとや生れけん 戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ




白髭神社
青墓の白髭神社。


照手姫の水汲み井戸
鎌倉時代の浄瑠璃、小栗判官の物語に登場する照手姫の伝説が残る水汲み井戸。街道から少し南に外れた田んぼの一角にある。武蔵・相模の郡代の娘だった照手姫は、愛する小栗判官を殺されたうえに青墓の長者へ売られてしまう不運な女性。遊女として働くことを拒んだため、一度に百頭の馬に餌をやれとか、籠で水を汲んで来い等と無理な仕事を言いつけられこき使われたという。その照手姫が籠で水を汲んだと伝わるのがこの井戸。


青墓のよし竹庵
青墓の円願寺は「よし竹庵」の名で呼ばれ、牛若丸(後の源義経)の伝説を伝える。東山道を奥州平泉へ落ちのびる時、円願寺で休み平治の乱の後に殺された父や兄の霊を供養したという。しかし廃寺になってしまったのかここに寺は無く、西町集会所の敷地となっている。一角によし竹庵の説明板と照手姫ゆかりという小篠竹(こざさだけ)の塚、観音菩薩がある。


大谷川
青墓町の西外れを流れる大谷川。


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青野ヶ原を行く

大谷川を渡り田園地帯を過ぎれば青野の集落に入る。集落から少し北に行くと国家太平を願うため、天平13年(741年)聖武天皇の命によって築かれた全国66ケ所の国分寺の一つ、美濃国分寺跡がある。この辺りは青野ヶ原と呼ばれた平原地帯で、南北朝時代の延元3年(1338年)上洛を目指す北畠顕家率いる南朝方と、土岐頼遠、高師直ら北朝方(足利勢)の合戦場ともなった場所である。


旧中山道・青野町
大谷川を渡り田園地帯を過ぎると青野の集落へと入って行く。


旧中山道・青野町
青野の集落を行く旧中山道。


青野一里塚跡
常夜灯の辺りが青野一里塚跡。江戸日本橋から111里目(約436km)の一里塚だったが、遺構は全く残っていない。


旧中山道・青野ヶ原 平尾御坊道標
青野ヶ原を行く旧中山道(其の壱)。右写真は途中の路傍にあった平尾御坊の道標。この道標から北へ行けば平尾御坊願證寺に着く。


旧中山道・青野ヶ原
青野ヶ原を行く旧中山道(其の弐)。


旧中山道・青野ヶ原
青野ヶ原を行く旧中山道(其の参)。


梅谷川 垂井の追分道標
旧中山道は追分橋で梅谷川を渡る。ここは東海道の宮宿へ至る美濃路(大垣道)との追分だった。宝永6年(1709年)建立の「右東海道大垣みち 左木曾街道たにぐみみち」の道標が残されている。


追分庵
中山道と美濃路(大垣道)の追分にある「お休み処 追分庵」。戸は閉じられ中にひと気がなかったので、何のための施設なのかは不明。


相川
相川に架かる相川橋を渡って垂井宿へ。いつ頃からここに橋が架けられたのかは不明だが、橋の袂に立てられている解説板によると、以下のようだったらしい。
『相川は昔から暴れ川で、たびたび洪水がありました。そのため、江戸時代初期には人足渡しによる渡川が主でした。川越人足は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡し賃が決められていました。一方、姫宮や朝鮮通信使など特別な大通行のときには木橋がかけられました。』

ただし、今日の相川の流れを見る限り、渇水時はもっぱら徒歩渡しで渡河する人が多かったのではないかと思う。金がかかるくらいなら・・・と、考えてしまうのは現代人ゆえの性なのか。


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黄昏の垂井宿

赤坂宿手前から降りはじめた雨は、途中止むことなくしとしとと最後まで降り続く。今回の歩き旅は垂井宿が終着点。せっかくなので西外れの見付跡まで歩いてみることに。しだいに暮れゆく宿場町はまだまだ冷たさを残す雨の中に佇み、間もなく迎える夜に備えて街道筋には街灯が灯る。その明かりは濡れた路面に反射して濃灰色に浮かび上がる町並みを引き立てていた。

いやぁ、雨の宿場町って本当にいいもんですねー。


垂井宿・東の見付跡



垂井宿



垂井宿



垂井宿



垂井宿



垂井宿



JR垂井駅
JR垂井駅から帰路につく。

【第36日目】踏破距離 約13.9km(美江寺宿→赤坂宿→垂井宿)
日本橋から約439km 京都まで約95km ついに京都まで100kmを切りました!


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垂井宿

【第37日目】2008年5月24日(土) 垂井宿→関ヶ原宿



前回の歩き旅から約2ヶ月後の5月下旬、再び垂井の地に立つ。天候は前回の続きが如く雨降りで、天気予報によると1日中雨が降り続く気配。なので、今思い返しても垂井宿は雨の印象が強いのだが、何の因果か広重が描いた浮世絵の垂井宿も雨の情景である。そもそも垂井宿は水に深い縁があり、宿場近郊にある垂井の泉という湧き水に宿名の由来がある。

垂井宿から相川を隔てた北側一帯の府中地域は古代律令制のもとに置かれた美濃国府跡である。国府は奈良時代から平安時代にかけて機能していた大規模な国の出先機関(地方官庁)で、全国六十数ヶ所に設置されたが、室町時代には完全に消滅し、ほとんどがその所在さえ不明となっていた。美濃国府は近年の発掘調査によって正殿や東西の脇殿等、政庁跡の遺構が見つかり、平成の世になってようやくその場所が特定されたのである。

垂井宿には紙屋塚なる史跡があるのだが、その辺りは美濃国府で使われる紙の管理を一手に担う役所があったらしく、そのことを後世に伝えるために紙屋塚は築かれたのだろう。官営の紙漉き場もあったというから、紙漉きに必要な清水は垂井の泉が利用されていたのかもしれない。垂井宿は天保14年(1843年)当時、宿長さ東西7町程(約763m)、人口1179人、家数315軒、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒。 江戸(東)方から東町、中町、西町と続き本陣・脇本陣は中町に置かれていた。宿場の中ほどに美濃国一の宮であった南宮大社の大鳥居が構え、垂井宿を印象付けるシンボル的存在となっている。


垂井宿東町
垂井宿東町から中山道の歩き旅を再開する。やはり前回同様、垂井宿は今日も雨。


紙屋塚
これが紙屋塚。一見して地味な場所にある地味な史跡だが、古代律令国家の時代を伝えるロマン溢れる場所なのだ。


旧旅籠亀丸屋
枡形の跡と思われる小さく鉤の手に曲がった街道筋に旧旅籠の亀丸屋・西村家がある。安永6年(1777年)建築の建物は200年程前から旅籠を営み、現在も当時の姿を残して旅館業を続けている。浪花講、文明講の指定旅館であった。


垂井宿の問屋跡・金岩家付近
写真右手前から2軒目の家は代々垂井宿の問屋や庄屋等の要職を務めた金岩家。


垂井宿・本陣跡付近 垂井宿本陣跡
栗田家が本陣職を務めた垂井宿本陣跡。現在は安田歯科と栄松堂という和洋菓子店の敷地と化し、本陣の遺構は全く残っていない。


南宮大社の大鳥居
宿場の中心部、中山道に面した所に南宮大社の大鳥居が構えている。この鳥居を潜り抜けた先に垂井の泉があり、更にひたすら行けば南宮大社に至る。鳥居周辺では毎月五の日と九の日、六斎市と呼ばれる市が月に6度立ち大勢の人で賑わった。


垂井の泉
宿場名の由来となった垂井の泉。県指定の天然記念物である大ケヤキの根元から湧き出している。


旧商家・油屋卯吉家
文化年間末頃(1817年頃)建築の旧商家・油屋卯吉家。江戸時代には油を商う商家だったが、明治以後小林家が亀屋と称して旅籠を営んだ。


本龍寺山門
本龍寺の山門や書院玄関は金岩脇本陣の門と玄関を移築したものという。


長屋氏屋敷跡
垂井の長者、長屋氏屋敷跡。宿場から少し南へ外れた所にある。南北朝の争乱期に北朝方の後光厳天皇が仮御所にされ、後に足利尊氏が滞在したという。


旧旅籠長浜屋
旧旅籠の長浜屋は200年前の間取りを残している。明治22年(1889年)に東海道線の新橋~神戸間が開通するまで旅籠を営んでいた。現在はお休み処として保存公開されている。


西の見付跡
垂井宿西の入口、西の見付跡。広重が描いた浮世絵の垂井はここを通行する大名行列の様子を描いている。


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垂井一里塚

垂井宿から垂井一里塚を経て日守の集落へ。この道中で特筆すべき垂井一里塚は久々に見る遺構を残した一里塚。たとえ路面がアスファルトに舗装されようとも、一里塚は旧街道の情緒をひき立ててくれる。また、付近は関ヶ原の戦いで東軍に属する浅野幸長が陣を敷いた場所でもある。幸長は豊臣五奉行の一人、浅野長政の嫡男であるが、石田三成と色々確執があって徳川方についた。いよいよ関ヶ原が近い。


旧中山道・垂井宿付近
垂井宿を出ると、左手に朱色の鳥居を並べる松島稲荷神社がある。


松島稲荷神社
松島稲荷神社は天保10年(1839年)に五穀豊穣を願って伏見稲荷を勧請し創建された。この年は天保の大飢饉がようやく沈静化に向かう頃で、神社の由来には飢饉と何らかの関係がありそうだ。昔、この辺りの中山道は松並木で、その沿道に松島と呼ばれる小村があった。


旧中山道・日守交差点
旧中山道は出屋敷踏切で東海道本線を渡り、日守交差点で国道21号を横切る。


「南宮江近道八町」道標
「南宮江近道八町」と刻まれた道標を見つける。ここから南宮大社への近道があったようだ。


日守の茶所中山道沿いに旧街道の風情を残す日守の茶所。もともとは江戸末期に美濃獅子門化月坊という僧侶が建てた庵で、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)にあった。明治になって現在地に移され中山道を通行する旅人の休み場として利用された。この茶所の裏手が垂井一里塚である。


垂井一里塚
垂井一里塚は南側の一基だけがほぼ完全な形で残っている貴重なもの。中山道ではここと東京都板橋区にある志村一里塚だけが国指定史跡となっている。


旧中山道・日守西 中仙道 好(このみ)
旧中山道は垂井町の日守から関ヶ原町の野上へ。その沿道に喫茶・軽食店の中仙道 好(このみ)という店がある。気にはなったが、時間がおしていたので寄らず・・・。


日守にて
野上の中仙道沿道にて。


伊富岐神社鳥居
美濃国二の宮であった伊富岐神社の鳥居。一の宮の南宮大社と同じように、旧中山道に面して鳥居を構えている。


平木川
野上の集落を流れる平木川。小さな流れであるが土石流危険渓流である。


旧中山道・野上
野上の集落を行く旧中山道。付近には関ヶ原の戦いで徳川家康が最初に陣を構えた桃配山がある。いよいよ天下分け目の関ヶ原が近い。


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野上の旧中山道松並木

野上の集落を過ぎると旧中山道は松並木の道に様変わりする。垂井宿から関ヶ原宿にかけては狭隘地となっており、東海道新幹線や東海道本線の鉄路をはじめ、名神高速道や国道21号の道路がひしめき合う。そんな場所を行く旧中山道には今も美しい松並木が残り、かつての中山道を感じながら歩くことができる。


旧中山道松並木
野上の集落を抜けると松並木の道が続く。


旧中山道松並木と東海道本線
松並木の横を東海道本線の列車が走り抜ける。


山内一豊陣跡
関ヶ原の戦いで東軍に属する山内一豊が陣を敷いた場所。この付近の中山道左右に並列に陣を配し、南宮山の毛利勢に備えた。ちなみに山内一豊の妻千代は、内助の功で夫の立身出世を支え、山内家を土佐一国の大名にまでのし上げたことはあまりにも有名。


六部地蔵
松並木の中に今も昔と変わらず街道を行く旅人を見守る六部地蔵。六部とは「六十六部」の略で、全国の社寺を巡礼行脚しながら修行する人のこと。宝暦11年(1761年)頃、その六部の人がこの地で亡くなり、祠を建て祀ったことに由来があるといわれる。


旧中山道松並木
雨の中、のんびり歩く松並木の道もいいもんだ。


国道21号・一ツ軒交差点
旧中山道はいったん一ツ軒交差点付近で国道21号に合流する。


旧中山道・一ツ軒付近 旧中山道松並木・一ツ軒付近
国道21号と東海道本線に挟まれた場所を行く一ツ軒付近の旧中山道。街道筋には若い松並木が植えられている。


若宮八幡神社
若宮八幡神社を過ぎれば関ヶ原宿は近い。


国道21号・関ヶ原宿東町付近
国道21号を歩き関ヶ原宿へ。


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関ヶ原宿

言わずもがな、関ヶ原宿は慶長5年(1600年)徳川家康と石田三成が天下の覇を争った関ヶ原にある宿場町である。北から北国脇往還、南から伊勢街道が東西を貫く中山道と交わる交通の要衝であり、宿場町は規模も大きく相当賑わったようである。現在宿場町を貫く中山道が国道21号に変貌してしまったため、残念ながら往時の面影は薄い。

関ヶ原宿は天保14年(1843年)当時、宿長さ東西12町49間(約1396m)、人口1389人、家数269軒、本陣1、脇本陣1、旅籠33軒。 美濃16宿中加納宿、今須宿に次いで人口が多く、宿長さも加納宿に次ぐ。宿内は賑わいを見せたのだろうが、広重が描く浮世絵の関ヶ原は、ほのぼのとした街道沿いの茶屋の様子を描いている。この辺りでは『さとうもち』が名物だったようだ。


関ヶ原宿・東公門信号
東公門信号付近の関ヶ原宿。中山道は国道21号に変貌し、宿場町の面影は薄い。


旅館桝屋
もともと旅籠だった桝屋は現在も旅館業を続けている。創業永長元年(1096年)という老舗中の老舗。


関ヶ原宿・中町.
関ヶ原宿・中町の様子。中町に本陣、脇本陣が置かれていた。


関ヶ原宿脇本陣跡
脇本陣を務めた相川家に残る脇本陣門。往時の関ヶ原宿を物語る数少ない遺構である。


関ヶ原宿・本陣跡付近
関ヶ原宿・本陣跡付近。歩道橋右手付近一帯が本陣の敷地だったようだが、現在は全くわからなくなっている。


八幡神社
本陣跡裏手に鎮座する八幡神社。神社横を通る道はかつての北国脇往還で、関ヶ原宿から北国街道の木之本へ至る。


関ヶ原宿本陣跡のスダジイ
八幡神社境内の一角にあるスダジイの古木。ここはかつて本陣の庭の一角にあたり、このスダジイだけがわずかに本陣の名残を伝えている。


関ヶ原宿・西町
関ヶ原宿・西町の町並み。車の交通量が多いが西町には古い家並みも残っている。


西町の常夜灯
西町にある常夜灯まで歩いたところで今日の中山道歩きは終わり。本陣跡付近まで戻り北国脇往還を北上して、いざ関ヶ原古戦場へ。


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関ヶ原古戦場

慶長5年(1600年)天下分け目の合戦場となった関ヶ原。豊臣方石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が天下の覇を争った戦いはここで決戦を迎えた。西軍8万2千に対し東軍8万9千とほぼ互角の戦力だったが、先に関ヶ原に陣取った西軍は鶴翼の陣を敷き、東山道(中山道)を西上する東軍を包み込む万全の布陣。しかし西軍有利と思われた合戦も、始まってみれば南宮山に陣を構える西軍の毛利勢は動かず、しかも松尾山の小早川秀秋ら、諸将の裏切りによって西軍はあっけなく潰走した。ここに豊臣政権は崩壊の一途を辿り、徳川家による天下統一が確立されていくことになるわけだ。


陣場野の床几場跡
陣場野の床几場跡。ここは関ヶ原の戦いで徳川家康が最後に本陣を置いた場所。最初、桃配山に本陣を置いた家康は形勢有利とみるや、石田三成の本陣があった笹尾山の東南1キロ、関ヶ原の中心部にあたるこの地点まで陣を進めた。写真に見える土塁は天保12年(1841年)幕府の命により、当時領主だった竹中家が築いたもの。


関ヶ原・笹尾山を望む
関ヶ原から石田三成が本陣を置いた笹尾山を望む。写真中央に見える小高い山が笹尾山。


関ヶ原古戦場・決戦地
関ヶ原の戦いの決戦地。笹尾山を前にしたこの辺りは、敗色濃厚となった石田勢が頑強に抵抗し最大の激戦地となった。


笹尾山
今も石田三成の旗指物がなびく笹尾山。


笹尾山・島左近陣跡
笹尾山の麓は竹矢来を二重にめぐらし、島左近(勝猛)が陣を構えて本陣を守った。


笹尾山・石田三成陣跡
石田三成が本陣を構えた笹尾山頂上。ここからは関ヶ原が一望できる。


笹尾山から関ヶ原を望む
笹尾山から東軍主力が布陣した関ヶ原の東側、桃配山方面を望む。合戦当日、両軍が布陣を終えた早朝は雨が降り、関ヶ原一帯は濃霧に覆われていたという。ここで石田三成はどんな思いで東軍の布陣を眺めていたのだろうか。


笹尾山から松尾山を望む
こちらは関ヶ原の西側。写真中央付近に見える小高い山が天満山で、その麓に西軍の宇喜田秀家、小西行長らが陣を構えた。そして、その奥に小早川秀秋が布陣した松尾山があるのだが、悪天候のため雲に隠れて見えない。


島津義弘陣跡
関ヶ原古戦場を巡る最後はここ。笹尾山と天満山の間、北国脇往還が通るここに島津義弘(惟新)と豊久が陣を構えた。島津勢は西軍が総崩れとなる中、敵中突破という離れ業を敢行して伊勢方面へ脱出した。後人の語り草となっているこの敵中突破こそ、勇猛果敢な薩摩兵の屈強さを世間に知らしめたといってもいいだろう。

何故だか西軍中心の紹介となってしまった。判官贔屓ということで・・・。


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