赤坂宿の歴史は古く、古代から東山道宿駅の杭瀬川駅として町を形成してきた。江戸時代に中山道が整備されると本陣・脇本陣・問屋場が置かれ宿場町としての体裁を整え、将軍が京へ向かう途次の宿泊・休憩地としてお茶屋屋敷も設けられた。江戸期から明治期にかけて物資輸送の手段が陸運から水運中心になると、杭瀬川の川港(赤坂港)が整備され宿場は賑わいをみせた。明治後期から大正期にかけて宿場近くの金生山から採掘された石灰や大理石運搬で杭瀬川の水運は最盛期を迎え、赤坂港には500艘を超える船が往来したという。しかし全国に鉄道網が整備され、水運から鉄道輸送へと移り変わるにつれ赤坂港の水運は衰退していった。
赤坂宿は文久元年(1861年)皇女和宮の通行に際して宿泊地となり、幕府の威信を示すために幕府からの10年債を使って中山道に面した54軒の家が2階建てに建て替えられた。地元ではこれを「お嫁入り普請」と呼び、後世に伝える。宿場中心にある四ツ辻は谷汲街道の分岐点となっており、中山道から北へ延びる道は西国三十三箇所第三十三番札所、満願結願の華厳寺へと続く。天保14年(1843年)当時、赤坂宿の長さ東西7町18間(約795m)、人口1129人、家数192軒、本陣1、脇本陣1、旅籠17軒。

広重が描いた浮世絵の赤坂宿。宿場東方入口、杭瀬川に架かる木橋を描いている。 この浮世絵は天保期(1830~1843年)に描かれたというから、浮世絵を見る限りこの頃には杭瀬川もそれほど大きくなく、小さな河岸くらいがあったのだろう。川港として発展するのは明治時代を迎えてからの話のようだ。

これが現在の赤坂宿東(江戸)方入口。杭瀬川は200m程東側に移動したため、小さな流れとなった旧杭瀬川の上に赤い欄干の橋が架けられている。宿場入口には赤坂宿のシンボルとも言うべき赤坂港の常夜灯が置かれ、火の見櫓がそびえ立つ。

かつて水運で賑わった赤坂港跡。親水公園として整備されているが、今となっては500艘もの船が往来する川港だったことを想像するには難しい。小さな旧杭瀬川の川筋と常夜灯だけが往時を偲んでいる。

赤坂港跡に建つ洋風建築の赤坂港会館。この建物は明治8年(1875年)に中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた警察屯所で、現在の建物は復元されたもの。内部は資料館となっており、赤坂宿や赤坂港に関する展示をはじめ、金生山の化石や大理石等が展示されている。説明員の話を聞きながら見学でき、赤坂の歴史を知りたいのであれば是非とも立ち寄りたい場所だ。

赤坂宿内へ歩みを進めると、踏切横に赤坂本町駅跡の標柱が目に留まる。ここに敷かれた線路は、今でこそ金生山から産出される石灰を運ぶ西濃鉄道の貨物線であるが、昭和20年(1945年)まで旅客営業を行い、ここに赤坂本町駅があった。石垣のホームが残存している。

赤坂宿本陣跡。現在遺構は何も残っていないが公園として整備され、ここ美濃赤坂に生まれた幕末の志士所郁太郎の銅像が置かれている。所郁太郎は刺客に襲われ重傷を負った井上聞多を治療した人物として知られる。

お嫁入り普請を偲ぶ町並みを残している赤坂宿。

赤坂宿の中心に位置する四ツ辻は中山道と谷汲街道の分岐点。写真右、天和2年(1682)建立の常夜灯を兼ねた道標が残っている。道が不自然な形をしており枡形の跡とも思われる。ちなみにこの四つ辻のどこかに現赤坂港会館の警察屯所があったようだ。

かつて脇本陣を務めた榎屋旅館。上段の間や書院が保存されているらしい。近年まで旅館を営んでいたが、現在の様子を見る限り廃業してしまったようだ。

脇本陣跡の隣にある「宿場の駅 五七処」。赤坂宿が江戸日本橋から57番目にあることから五七処の名が付いたようで、特産品を販売する傍ら赤坂の情報発信基地となっている。
雨も本降りになってきたところだったので、雨宿りがてらに立ち寄ってみる。店内には徳川家康にあやかった勝運・開運グッズや饅頭、大福、焼き菓子といった土産物が所狭しと陳列されている。元気で話好きな(多分)おかみさんとの会話が楽しい店で、赤坂宿を訪れた際には休憩がてらに来店したい場所だ。名物五七饅頭を買っただけなのに、関ヶ原合戦図屏風の縮小画や「飛騨弁 美濃弁」といった小冊子まで頂き、恐縮至極・・・。

五七処の隣にはお嫁入り普請探訪館なる建物がある。当然、ここにも寄ってみるが・・・鍵がかかっており戸が開きませんでした。残念。

金生山の麓にある八王子神社へは赤坂宿から参道が続く。

宿場から少しはずれた南側にあるお茶屋屋敷跡。ここは将軍が上洛の往復に利用するため設けられた専用の休泊所だった。中山道中の4里ごとに設けられていたが、ここが唯一の遺構である。江戸時代には庶民など決して立ち入ることのできない場所だったのだろうが、今は気軽に入ることができ竹林やボタン園を散策できる。

赤坂宿にて。

赤坂宿西町の町並み。

赤坂宿西外れにある兜塚。関ヶ原合戦の前日、杭瀬川の戦いで東軍中村隊の武将野一色頼母(のいっしきたのも)が討死し、その死体と鎧兜を埋めたと伝わっている。
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