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美濃不破関

【第38日目】2008年5月25日(日) 関ヶ原宿→今須宿→柏原宿→醒井宿



今回の宿泊先は大垣駅前にあるアパホテル。悠々と朝食を済ませて8時過ぎにホテルを出発し、大垣駅から東海道本線を関ヶ原駅へ向かう。昨日と変わらずどんよりと曇ってはいるが、いくぶん空は明るく雨は降っていない。このまま天気が持ってくれればいいなぁ・・・と、淡い期待を抱きつつ関ヶ原駅から旧中山道の国道21号へ歩みを戻す。さてさて、今回はどんな歩き旅が待っていることやら。

関ヶ原宿を抜けると間もなく美濃不破関(みのふわのせき)跡に着く。不破関は古代東山道の関所であり、東海道の伊勢鈴鹿関(いせすずかのせき)、北陸道の越前愛発関(えちぜんあらちのせき)とともに三関(さんげん、さんかん)として、都を守るため壬申の乱(672年)後に天武天皇の命により設置された。奈良時代末期の延暦8年(789年)には関所としての機能は停止したが、後も関守は置かれ体裁だけは保っていたようである。江戸時代には完全に遺跡と化してしていたようで、芭蕉の句からもその様子がうかがい知れる。

秋風や 藪の畠も 不破の関


国道21号・関ヶ原宿西外れ付近
関ヶ原宿を出でて西へ。


西首塚
梨木川を越えたすぐ先にある西首塚。関ヶ原合戦後数千に及ぶ戦死者の首級を葬った塚で、胴塚とも呼ばれる。明治期の鉄道敷設工事の際、周辺から白骨が多数出土したという。関ヶ原駅近辺の北国脇往還沿道に東首塚がある。


国道21号・松尾信号
旧中山道は松尾信号を左へ。


美濃不破関・東城門跡
美濃不破関の東側入口だった東城門(ひがしきもん)跡。古代東山道の時代にはここに城門や楼が設けられ、通行を取り締まった。


福島正則陣跡
東城門跡から旧中山道を南側に少し外れた場所に関ヶ原合戦の福島正則陣跡がある。賤ヶ岳七本槍の一人、剛勇の猛将と謳われたあの福島正則である。東軍の先鋒となった福島勢は、ここで天満山麓の宇喜多勢と対峙した。

旗指物の裏に見える杉の巨木は月見宮大杉(つきみのみやおおすぎ)と呼ばれ、関ヶ原合戦図屏風にも描かれる推定樹齢800年余りの古木。関ヶ原町天然記念物に指定される。


旧中山道・不破関跡付近
不破関跡付近の旧中山道。見慣れぬ顔にかなり警戒されています・・・。


不破関関庁跡
この辺りが不破関の中心的な建物があったという関庁跡。畑の中にポツンと説明板が立ち、傍らに大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が壬申の乱の時に兜を掛けたと伝わる兜掛石と、皇子が使用したという沓脱石がある。


美濃不破関跡
美濃不破関跡を行く旧中山道。平安時代以降、多くの文人墨客がここを訪れた。


不破関資料館
美濃不破関跡にある不破関資料館。跡地から出土した土器や貨幣、復元模型を展示している。


美濃不破関・西城門跡
美濃不破関西側入口だった西城門(にしきもん)跡。


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壬申の乱

今から1300年以上も昔の645年、中大兄皇子こと後の天智天皇と中臣鎌足が、政治の中枢を牛耳っていた豪族蘇我入鹿を暗殺し、天皇中心の政治に転換させた出来事は大化の改新と呼ばれ、『蒸し米食べて、大化の改新』とその年号を暗記している方も多いことだろう。それから27年後の672年に天智天皇が死去すると、天皇第一皇子である大友皇子と天皇弟の大海人皇子との間で有力豪族を巻き込んだ後継者争いが勃発した。これを壬申の乱という。

壬申の乱は琵琶湖周辺の近畿地方を舞台とし、その方々で数々の合戦を巻き起こした。ここ東山道の美濃不破関跡付近でも藤古川を挟んで両軍が対峙し激突。周辺には当時の壮絶な戦いを伝える史跡が点在し、旧中山道を歩きながらにして壬申の乱の舞台を探ることができるという歴史好きにはたまらないコースとなっている。壬申の乱は最終的に大海人皇子が勝利して天武天皇となり、敗者の大友皇子は自害という結末を辿る。しかし一説に、大友皇子は后や僅かな配下を伴って密かに東国へ逃れたともあり、千葉県君津市や神奈川県伊勢原市に大友皇子に関する史跡が残っている。


藤古川
不破関跡から西へ向かうと間もなく藤古川にさしかかる。不破関近くを流れることから、古くは関の藤川と呼ばれた。壬申の乱ではこの川を挟んで西側に大友皇子の軍勢、東側に大海人皇子の軍勢が陣を敷いて対峙し、壮絶な合戦が繰り広げられた。


矢尻の池と旧中山道
藤古川の西側は藤下の集落で、矢尻の池と呼ばれる窪みが残っている。これは壬申の乱の際、大友皇子軍の兵士が水を求めて矢尻で掘ったものと伝わる。しかし池といっても水溜りのような小さなもので、ほとんど水気もなく落葉で埋め尽くされていた。何せ1300年以上も前のことだからねぇ・・・。


藤下にて
藤下の集落にて。

俺「タ・・・タヌキ?」
猫「だ・・・誰がタヌキやねん!」

みたいな雰囲気。


旧中山道・山中付近
藤下から国道21号を越えると旧中山道は山中へ。


若宮八幡神社
山中の集落にある若宮八幡神社は、参道が東海道本線の線路に阻まれ、踏切も無いという珍しい神社で、参拝するには電車の往来に注意が必要。この神社の祭神は壬申の乱に敗れた大友皇子。関ヶ原合戦の戦災に遭い焼失したが、後に徳川家康によって再建された。


\旧中山道・山中
山中の集落を行く旧中山道。山中は古代東山道の宿駅だった集落で、壬申の乱では合戦の舞台ともなった。


黒血川
山中の集落に流れる黒血川。壬申の乱の激戦で両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから黒血川と呼ばれるようになったという。今は静かで穏やかに小川が流れる。


鶯の滝
山中集落を流れる黒血川には鶯の滝と呼ばれる滝がある。落差約5m程度の滝であるが、水量豊富で年中鶯が鳴く風光明媚な場所だったらしい。この辺りでは珍しい平坦地にある滝だったことから、中山道を往来する旅人には憩いの場所として重宝されたようだ。


旧中山道・山中付近
東海道新幹線の下を潜り抜けて。右へ分岐するの道が旧中山道。


常盤御前の墓
山中の集落の西外れまで来ると、常盤御前のものと伝わる墓がある。都随一の美女と言われた常盤御前は源義朝の愛妾となり、3人の男児をもうけた。その三男が牛若丸(後の源義経)である。義朝が平治の乱で平清盛に敗れ、牛若丸らが捕らえられると、母の必死の命乞いによって助命されたことは有名な話しだ。晩年、異母兄の頼朝と対立し奥州平泉へ都落ちした義経の後を追うのだが、その途中土賊に襲われこの付近で息を引き取ったという。しかし、晩年の常盤御前に関する記録は無く、あくまで伝説の話なのだが・・・。


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今須峠越え

常盤御前の墓から約1kmの坂道を上ってくれば、その頂は今須峠である。標高約175mにすぎない小さな峠であるが、室町時代の公卿で摂政関白一条兼良はその著書「藤川の記」に、『堅城と見えたり、一夫関に当たれば万夫すぎがたき所というべし』と認めている。古代東山道の時代には軍事的要衝の地であり、中山道となった江戸時代には茶屋が置かれ往来する旅人で賑わった。


今須峠へ
いざ、今須峠へ。


旧中山道・山中踏切付近
旧中山道は右横を並行する東海道本線を山中踏切で渡る。その先から上り坂がきつくなりはじめる。


今須峠越えの旧道
今須峠越えの旧道。並行してきた東海道本線はトンネルへ。


今須峠越えの旧道
旧道は急勾配の坂道を上って行く。


今須峠
木々の合間から今須の町並みを望む今須峠。かつて峠の頂付近には茶屋があったというが、現在は藪と雑木に覆われ何も無い。


今須峠にて
今須峠にて。


今須峠一里塚跡
峠を下ってくると間もなく国道21号に合流。路傍に復元された今須の一里塚がある。江戸日本橋から114里目(約448km)の一里塚。


青坂神社
鎌倉権五郎景政を祭神とする青坂神社。今須峠西の登り口に位置する。関ヶ原合戦の翌日、徳川家康が佐和山城攻めの際に腰掛けたという石がある。


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今須宿

美濃国と近江国の境、美濃路最後の宿場となる今須宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ東西10町55間(約1189m)、人口1784人、家数464軒、本陣1、脇本陣2、旅籠13軒。美濃16宿中加納宿に次いで人口と家数が多く、宿長さは加納宿、関ヶ原宿に次ぐ。加納宿が城下町であったことを考えれば、美濃路最大規模の宿場町と言えるだろう。しかし旅籠の数は13軒と極端に少ない代わりに、問屋場は一時期7軒もあったといい、商業地として発展してきたことがうかがえる。

そんな宿場町として繁栄した今須宿であるが、明治維新を迎えた頃には凶作もあり困窮を極めたようで、明治2年には農民騒動が起きて本陣・問屋が襲われた。さらに追い討ちをかけるように鉄道網が整備されるにつれ、人や荷物の往来は減り、時代の流れに取り残されるようにさびれていったのだろう。現在の今須宿は近くを東海道本線が通ってはいるが、近くに柏原駅があるためなのか駅が無く、今もゆっくりと時間が流れる小さな町。私は観光客でごった返す観光地の宿場町よりも、こういったそこはかとなく往時の様子を静かに伝える町が好きである。


今須宿・東の入口付近
写真の街道手前に見える橋が門前橋で、その奥が今須橋。この辺りが今須宿東の入口だったと思われ、S字カーブは枡形の跡だろうか。先が見通せない道筋になっている。


今須宿本陣跡
今須橋を渡ったすぐ先が今須宿本陣跡。写真左に見える関ヶ原町今須生活改善センターの敷地一帯が本陣跡だったようであるが、往時を偲ばせるものは何も残っていない。が・・・前述した青坂神社にある徳川家康が腰掛けたという石は、もともとここ本陣の伊藤家にあったもので、後に移されたものである。これが唯一の遺構のようだ。


今須宿・脇本陣跡付近
写真右に見える門柱は今須中学校の入口。この辺りに脇本陣2軒が軒を連ねていたようである。その奥が本陣跡の生活改善センター。今須宿の中心はこの宿場東側にあったようだ。


妙応寺
本陣跡付近の街道を挟んだ向かい側、山の麓に向かって延びる参道を行けば妙応寺がある。南北朝時代の1360年(南朝:正平15年、北朝:延文5年)、今須の豪族で領主長江重景(ながえしげかげ)が母の菩提を弔うために建立したという。


今須宿問屋場跡
一時期は7軒もあったという今須宿の問屋場の一つ山崎家。現在その威容を伝える建物はここだけである。


今須宿の町並み
かつては宿場として旅人で賑わった町なのだが・・・


今須宿の町並み
闊歩するのはニャンコのみのようで。


今須宿の永代常夜灯
文化5年(1808年)京都の問屋・河地屋は大名の荷物を運んでいたところ、ここ今須宿付近でその荷物を紛失してしまった。困ったときの神頼みだったのかどうかは知らないが、金比羅様に願を掛けたところ荷物が見つかり、そのお礼にと寄進されたのがこの常夜灯。


今須宿にて
今須宿にて。板壁の褪せた茶色に若々しい青葉の緑が映える。


今須宿の町並み
今須宿西側の町並み。


法善寺
真新しい木造建築の法善寺。


今須宿・八幡神社付近
八幡神社まで来れば今須宿の西外れ。


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車返しの坂

今須宿の西外れに面白い逸話の伝わる坂がある。その名も車返しの坂。さもありなん、車が引き返すほどの急坂なのだろうと思ってしまうが、そんな単純な話ではない。今から遡ること600年以上も前の南北朝時代、関所としての必要性が無くなりその役目を失った不破の関所は、「不破の関所の板びさし」と荒廃したものを揶揄する言葉に用いられるほどに荒れ果てていた。

時の公家で大臣二条良基はその荒廃した板びさしから漏れる月を眺めるのも風流と、都から牛車に揺られて不破の関へ向かった。その噂を聞きつけた地元の人々が気を利かせたのか、大臣の訪問に失礼があってはならないと屋根を修理してしまったらしい。この坂道を上っているときにその話を聞いた二条良基は、すっかり興醒めしてしまい都へ引き返してしまった。それからこの坂道は車返しの坂と呼ばれるようになったという。


車返しの坂
今須宿の西外れ、今須交差点の手前にある車返しの坂。


車返しの坂
電柱が邪魔であるが、旧道の趣をよく残している。


車返しの坂
車返しの坂上には車返し地蔵が祀られている。しかし、ここで道は途切れてしまう。


車返しの坂
その先はこんな感じ。国道21号と東海道本線の敷設によって西側の坂道は削られた。


今須交差点
国道21号と旧中山道が交差する今須交差点。左の小山が車返しの坂がある所で、西側の坂道が大きく失われてしまったことがわかる。


車返踏切車返しの坂跡を通る東海道本線。車返踏切として今にその名を留めていた。


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寝物語

車返しの坂は長かった美濃路の西の果て。いよいよ近江国へ入ることになるのだが、その中山道が通る国境(現在は岐阜県と滋賀県の県境)は寝物語と呼ばれる。現在ここには美濃と近江の国境を示す標柱が立ち、その境に細い溝があるのだが、何ゆえ寝物語と呼ばれるのか?何の予備知識も無くここを通り過ぎると、何の変哲もない県境にその名の所以を想像するのも難しいだろう。

広重の浮世絵、木曽街道六十九次の今須はここ寝物語の街道風景を描いている。その浮世絵から往時の様子がありありと見て取れるのだが、かつては国境を挟んだそれぞれに旅籠が並んでいた。美濃側は「両国屋」、近江側が「かめや」という屋号だったという。その旅籠に泊まると寝ながらにして他国の人と会話ができたことから、いつしか寝物語と呼ばれるようになった。今となっては国境を示していた細い溝だけが往時を物語っている。


芭蕉句碑

正月も美濃と近江や閏月

寝物語の手前にある芭蕉句碑。松尾芭蕉は「野ざらし紀行」で寝物語の地を旅した。


寝物語
ここが美濃と近江の国境で、現在の岐阜県と滋賀県の県境となる寝物語の地。かつてはこの細い溝を挟んで旅籠が並んでいた。源義経の愛妾静御前にまつわる話も伝わっている。


旧中山道・長久寺
近江国の国境付近は長久寺の集落で寝物語の里と呼ばれる。その昔、七堂伽藍の長久寺という寺があったことに地名の由来がある。


長久寺の楓並木
野瀬山の裾、楓並木を行く旧中山道。秋には紅葉に彩られた美しい並木道になることだろう。


旧中山道・柏原東
柏原東の旧中山道。


神明神社
右に神明神社の鳥居を見ると、その鳥居前から野瀬山川にかけて旧東山道の道筋が少しだけ残っている。


旧東山道
野瀬山の山裾に残る旧東山道。


旧中山道・野瀬踏切付近
旧中山道は写真正面奥から右の野瀬踏切を越える道筋。踏切を渡ったすぐ先から柏原宿となる。左手林の中に旧東山道の道筋が残っている。


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柏原宿 東町・市場町

伊吹山の南麓に位置する柏原宿は、古代東山道の宿駅として古くから繁栄してきた町。現在も往時を偲ばせる建物が街道筋を彩るが、行き交う人や車も少なく喧騒とは無縁の静かな町である。柏原といえば”もぐさ”と言うわれるほどに、古くから名産品として知られてきた。江戸時代のことだろうが、最盛期には10軒ものもぐさを扱う店があったらしい。しかしその繁盛ぶりも今は昔、現在は伊吹堂・亀屋佐京商店が老舗としてもぐさを商い続けているだけである。

柏原宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ東西13町(約1418m)、人口1468人、家数344軒、本陣1、脇本陣2、旅籠22軒。江戸方から東町・市場町・今川町・西町と続き、本陣と脇本陣は市場町に置かれていた。先述の通り”もぐさ”が名産品だったことから、毎年7月末の土日に「やいと祭り」が開かれ、祭りの日は往時の賑わいを取り戻すようだ。ちなみに”やいと”とはもぐさを使ったお灸のことで、街道を歩いて旅する人々に重宝された。


柏原宿東外れ
柏原宿東側の入口。


照手姫傘掛地蔵
先ず柏原宿で迎えてくれるのが照手姫ゆかりと伝わる傘掛地蔵(写真右側の背の低い地蔵)。毒酒を飲まされ餓鬼阿弥と化した夫の小栗判官を哀れみ、自分の傘を掛けてこの地蔵に祈りを捧げたと伝わる。もともとは野瀬山南麓、神明神社東側にあったといわれる蘇生寺の本尊だった。蘇生寺は慶長期(1596年~1615年)の兵火で焼失し廃寺となり、この地蔵だけが残ったという。照手姫については以前に書いたので、記事の”東山道宿駅跡・青墓”を参照して下さい。


柏原宿の町並み
東から丸山に向かって家並みを連ねる柏原宿。


柏原宿の町並み
柏原宿の家々はかつての屋号が書かれた看板を掲げており、散策は楽しい。


蝋燭屋助三郎
こちらは蝋燭(ろうそく)屋だった家。江戸時代、蝋燭は貴重品で高価な品だった。


問屋役杉野家
問屋役を務めた杉野家。柏原宿には6軒もの問屋場が置かれていた。人馬荷物の往来がいかに多かったことがうかがえる。


柏原宿の町並み
杉野家付近から柏原宿東側を望む。


造り酒屋西川家
造り酒屋だった西川家。格子戸や格子窓がふんだんに使われ味のある日本建築。軒先を彩る華が綺麗です。


問屋役吉村家
問屋役を務めた吉村家は昭和を代表する映画監督の一人、吉村公三郎の実家。


医師年寄役堤家
医者だった堤家は現在接骨院となっている。


柏原宿本陣跡
本陣を務めた南部家跡。現在は澁谷佐治郎酒店となっている。文久元年(1861年)中山道を江戸へ降嫁する皇女和宮がここで宿泊した。


柏原宿・市場橋
柏原宿の中心、市場川に架かる市場橋。橋の袂(常夜灯の辺り)に高札場があったようだ。


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柏原宿 今川町・西町

柏原宿の西側は今川町と西町。江戸方の東から宿場内を歩いてくると、市場橋を渡ったすぐ左手に今も伊吹もぐさを商う伊吹堂亀屋佐京商店がある。店内には柏原宿のシンボルとも言うべき巨大な福助人形があるのだが、日曜日は休業日らしく入口は固く閉ざされていた。窓には撮影禁止の貼紙があり、店内はもとより福助人形も撮影できないようだ。店構え同様、昔気質で商売をされている老舗なので、ちょい見の観光客はお断りらしい(予約で見学可能)。せめて福助さんだけでも拝顔できればと思ったのだが、それも叶わず・・・。日曜日に訪れたなら斜向かいにある柏原宿歴史館へ行こう。様々な福助人形が展示され、写真で亀屋の福助を見ることができる。でもやっぱり本家本元をナマで見てみたいというのが本音であるが・・・。


柏原宿・市場橋付近
市場橋から柏原宿の西側を望む。


柏原宿・伊吹堂亀屋
右側の建物が伊吹堂亀屋佐京商店。今も伊吹もぐさを商う唯一の店である。ここは広重の浮世絵、木曽街道六十九次「柏原」のモデルになっており、浮世絵には元祖と言われる福助人形も描かれている。


柏原宿歴史館
柏原宿歴史館は伊吹堂亀屋佐京商店の分家、旧松浦家住宅を利用している。この建物は大正6年(1917年)の建築で内部公開されている。


伊吹堂亀屋の分家・松浦家
松浦家住宅の内部。「備後畳」の「中継ぎ」と呼ばれる製法で織られた畳を使っている。普通の畳の3、4倍のい草を使う高級品で、現在この織り方ができる職人さんは一人しかいないという。


柏原宿歴史館にて
柏原宿歴史館にて。様々な福助人形が雛壇に飾られていた。雛壇右に置かれている写真の福助が伊吹堂亀屋の福助。


柏原宿
柏原宿の町並み。


旅籠三寳屋
手前の家は旅籠だった三寶屋。


艾屋亀屋
往時10軒程の艾(もぐさ)屋があったという柏原宿。こちらはその内の1軒だった亀屋跡。ふれあい会館が建てられている。


柏原宿御茶屋御殿跡
柏原宿御茶屋御殿跡。江戸時代初期に将軍専用の休憩・宿泊場所として二代将軍徳川秀忠によって殿舎が築かれた。近江では他に野洲の永原御殿、水口の水口御殿があり、併せて近江三御殿と称された。


郷宿跡・加藤家
柏原宿でただ一軒現存する郷宿跡の加藤家。郷宿とは脇本陣と旅籠の中間に位置づけられる宿泊施設で、公用で旅する武士や庄屋の宿泊に利用された。


中井橋
中井橋の西側袂から「堺屋」「古榮屋」の旅籠が軒を連ねていた。


柏原宿・丸山橋付近
天野川を丸山橋で渡る。


柏原一里塚跡
江戸日本橋から115里目(約452km)にあたる柏原一里塚。南塚だけが街道を少し外れた田んぼの一角に復元され、塚上に榎の幼木が植えられている。榎は成長が早く、根が深く広く張るため塚が崩れにくいという利点があり、一里塚には主に榎が植えられた。10年後には見事な一里塚になっていることだろう。


柏原宿西見付跡付近
西の見付跡付近を行く旧中山道。かつて柏原一里塚から西へ向かう街道筋は松並木で、丸山の南麓に位置するこの付近に西の見付が置かれ宿場への出入りを取り締まっていた。


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小川の関跡と東山道古道

柏原宿を抜けた旧中山道は徐々に遠ざかる丸山をバックにしながら長沢(ながそ)の集落へと入っていく。ここは中山道の前身である古代東山道の関所、小川(こかわ、粉川とも)の関があった場所で、薄暗い林の中を行く旧道が今も往時を偲ばせる形で残っている。その旧道から小川(粉川)坂を下り薄暗い林を抜けると、舗装道に合流して間もなく梓川を渡る。その先は梓の集落で、松並木の旧中山道は梓川に沿って西へ延びる。


丸山
丸山をバックに柏原宿を後にする旧中山道。丸山には鎌倉時代末期の公卿、北畠具行の墓がある。北畠具行は後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府の倒幕計画(元弘の乱)に主要メンバーとして参画するが、挙兵に失敗して鎌倉方に捕らわれ、後に柏原で斬首された。


長沢集落
長沢(ながそ)集落へ入る旧中山道。


長沢のやくし道道標
長沢のやくし道道標。西薬師と呼ばれた明星山明星輪寺泉明院へと続く道が分岐している。この寺は現在衰退してしまったようであるが、往時は眼病に効く泉を求めて多くの参詣客があったという。


小川の関跡
小川(粉川)の関は不破の関設置以前にあったという古代の関屋で、ここはその比定地。右に分岐して林の中へ入る道が東山道の古道(旧中山道)で、沿道に館跡や寺院跡が発掘調査によって確認されている。


十善寺跡
寺院跡の十善寺遺跡(写真左付近一帯)。周辺は林になっており遺構は確認できないが、中世以前には寺があったのだろう。


旧中山道・小川の関跡付近
薄暗い林の中を行く旧中山道。この感じ、久しぶりです。


小川坂
小川(粉川)坂を下れば間もなく車道に合流する。


旧中山道・梓河内
梓河内へ入る旧中山道。


旧中山道・梓河内信号付近
国道21号と旧中山道が並行する。


梓集落
梓の集落を行く旧中山道。


梓河内の中山道松並木
旧中山道は梓の集落を抜けると、梓川に沿って西へ進む。所々に往時の松並木が残っている。


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鶯ヶ端跡

旧中山道は喫茶樹里とホテルリスボンの間から国道21号に合流し、梓河内を離れ一色地区に入る。喧騒の国道を500m程歩けば山形屋という食堂があり、ここから国道を左に離れる道が旧道。醒井宿まで見晴らしの良い静かな道を歩くことが出来る。一色の集落を過ぎて醒井宿へ入る手前には鶯ヶ端と呼ばれる場所があり、遥か山間に京都の空を望む景勝地だった。かつては往来の旅人が足を止めてその眺望を楽しんだようだ。


国道21号・一色付近
一色を行く国道21号。この先、旧中山道は山形屋食堂手前から左斜めの上り坂へ国道を分岐する。


八幡神社
一色の集落の東側入口に鎮座する八幡神社。


一色の集落
国道を見下ろす1段上の高台に旧中山道が通り、一色集落の民家が連なる。


一色の一里塚跡
江戸日本橋から116里目(約456km)にあたる一色一里塚跡。遺構は残っていない。


等倫寺
一色の集落内にある等倫寺。


一色より天野川を望む
一色付近の旧中山道からの北側を望む。東海道本線の鉄路の向こうに天野川が見え、遠く伊吹山も望める。


鶯ヶ端跡
旅やとり 夢醒ヶ井の かたほとり 初音も高し 鶯ヶ端

平安時代の歌人で中古三十六歌仙の一人、能因法師がここ鶯ヶ端を詠んだもの。古くから景勝地として知られていた。昔は西方の眺望が特に良かったらしいが、現在西方を望んでも名神高速道の擁壁とはげ山が見える程度である。今となっては高速道路を走っていた方が良い景色を眺められるであろう。現代の鶯ヶ端は、鶯の初音の代わりに高速道路の騒音だけが高らかである。


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黄昏の醒井宿

黄昏時の宿場町はどこか儚く寂しい旅情に誘われるのは何故なのだろう。

江戸へ京へと往来した旅人の足跡のせいなのか、それを迎えた遊女の傷ついた心のせいなのか。

徐々に色を失いながら闇の中に沈みゆく宿場町は、様々な人々の思いとともに歴史の中へ消えてゆく。

時間よ、もう少しだけゆっくりと流れてはくれまいか。

静寂の中に子供たちの笑い声がこだまする。


醒井宿


醒井宿


醒井宿


醒井宿


地蔵川


JR醒ヶ井駅
JR醒ヶ井駅から帰路につく。

【第38日目】踏破距離 約13.7km(関ヶ原宿→今須宿→柏原宿→醒井宿)
日本橋から約458km 京都まで約76km 
京の都の空が見えてきた。


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醒井宿

【第39日目】2008年6月28日(土) 醒井宿→番場宿→鳥居本宿



美しい地蔵川の流れに沿って町並みを形成する醒井(さめがい)宿。川のほとりに軒を連ねる様は古き良き時代を偲ばせ、宿名の由来となった居醒(いざめ)の清水が地蔵川の水源として今もこんこんと清水を湧き出す。宿場内にはこの居醒の清水をはじめ、十王水、西行水といった湧水が今も水脈を断たれることなく湧き出し、昔から「三水四石」の名所として名を馳せてきた面目を保っている。ちなみに四石とは地蔵川にある蟹石、腰掛石、鞍懸石と源海寺の影向石を指す。醒井宿は天保14年(1843年)当時の宿長さ東西8町2間(約876m)、人口539人、家数138軒、本陣1、脇本陣1、旅籠11軒。

この日、醒井宿を訪れてまず感じたことは観光客が多かったことである。休日ということもあろうが、カメラを片手に川辺に佇む人がとにかく多かった。隣の柏原宿がここと遜色ない町並みを残しているにもかかわらず閑散としていたのを見ると意外だったわけである。これは地蔵川に群生する梅花藻(バイカモ)という水生植物が観光客を呼んでいるらしい。梅花藻は初夏から晩夏にかけて梅に似た白く可愛らしい小花をつける。現在では「三水四石」よりもこの梅花藻の方が有名なようだ。


醒井宿・枡形跡
醒井宿の江戸方(東側)入口に位置する枡形跡。はっきりとその道筋が残っている。


醒井宿
醒井宿江戸方(東側)の町並み。


居醒の清水
地蔵川の水源、居醒の清水。加茂神社の下から清水を湧き出している。古くは日本書紀にも記された名水で、熱病に侵された日本武尊がこの清水で熱を冷ましたと伝わる。醒井宿の宿名の由来となった。


腰掛石と鞍懸石
醒井の四石の二つ、腰掛石と鞍懸石。日本武尊が腰を掛け、鞍を懸けたと伝わる名石。


醒井延命地蔵尊
最澄(伝教大師)ゆかりと伝わる醒井延命地蔵尊。昔は水中に安置されていたので「尻冷し地蔵」と呼ばれていた。


醒井宿本陣跡
本陣跡は樋口山という料理屋になっている。


醒井宿問屋場跡
問屋場だった山口家は往時の姿に修復され公開されている。問屋場の遺構を残す貴重なもの。


醒井宿問屋場跡内部
問屋場跡の内部。


地蔵川
今も生活に密着する地蔵川。水温15℃前後の澄んだ湧水地を好む梅花藻(バイカモ)が群生しており、ハリヨと呼ばれる魚の繁殖地ともなっている。水温20℃以下の流れの緩やかな清流を好むハリヨは、滋賀県東北部と岐阜県南西部の湧水地のみで生息が確認される絶滅危惧種。大切に保護していきたいものです。


梅花藻
梅花藻のアップ。水中から心もとない茎が伸び小さな花をつけている。まだ五分咲きといったところかなぁ。


御葉附銀杏
了徳寺の境内にある御葉附銀杏(おはつきいちょう)。葉面の上に銀杏(ぎんなん)の実がなる貴重なもので、国の天然記念物に指定されている。


醒井宿・醒井大橋付近
宿場の中心西側寄りにある醒井大橋。大橋っていうほどの大袈裟なものではないが、この石橋で地蔵川を渡る。


十王水
醒井三水のひとつ十王水。醒井大橋の手前、地蔵川の中にある。


醒井宿
醒井宿京方(西側)の町並み。


西行水
醒井宿京方外れにある西行水。付近は泡子塚と呼ばれ岩の上に西行法師の伝説を伝える小さな五輪塔がある。西行法師東遊のとき、この泉の畔で休憩していたところ、茶店の娘が西行に一目惚れに恋をした。話がこれで終わればちょっとした恋話で終わるのだが、この娘が西行の残した茶の泡を飲んだところ懐妊し、男子を出産したという。この先も云々と話は続くのだが、とにもかくにも西行ゆかりの泉である。西行については以前に”西行ゆかりの地”で書いたので興味のある方は参照してみてください。

長くなった・・・醒井宿終わり!


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六軒茶屋跡

昔、醒井宿の隣に六軒茶屋と呼ばれる場所があった。その名の通り6軒もの茶屋が並んでいた場所で、中山道筋でも名の知れた場所だったようだ。現在はそのうちの1軒だけが現存し、休憩所として活用されている。


旧中山道・六軒茶屋
六軒茶屋を行く旧中山道。往時は六軒もの茶屋が並んでいた。


六軒茶屋の休憩所入口
唯一現存する六軒茶屋は1軒だけとなってしまった。無料の休憩所となっている。


六軒茶屋内部
六軒茶屋の休憩所(茶屋跡)の内部。ひと気はない。


昭和30年頃の六軒町
昭和30年頃の六軒茶屋はこんな感じ。建売住宅のように似たような茅葺屋根の家が並んでいた。


国道21号・一類狐魂等衆の碑付近
六軒茶屋を過ぎると間もなく国道21号に合流。国道で丹生川を渡るのだが、その手前に一類狐魂等衆の碑(写真右)が建てられている。


一類狐魂等衆の碑
これが一類狐魂等衆の碑。せっかくなので説明板の全文を紹介。

『江戸時代後期のある日、東の見附の石垣にもたれて、一人の旅の老人が、「母親の乳がのみたい・・・」とつぶやいていた。人々は相手にしなかったが、乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い「私の乳でよかったら」と、自分の乳房をふくませてやりました。老人は、二口三口おいしそうに飲むと、目に涙を浮かべ「有り難うこざいました、本当の母親に会えたような気がします。懐に七〇両の金があるので、貴女に差し上げます」と言い終わると、母親に抱かれて眠る子のように、安らかに往生をとげました。この母親は、お金は頂くことは出来ないと、老人が埋葬された墓地の傍らに、「一類狐魂等衆」の碑を建て、供養したと伝えられています。』

んー、いい話なんですが、今なら確実に警察に連れて行かれます・・・。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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高札場
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