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鳥籠山

小野を出た旧中山道は原町を経て芹川を渡る。その芹川の手前には木々の鬱蒼と生い茂る台形状の大堀山(鞍掛山とも)があり、この山が万葉集に登場する鳥籠(とこ)の山ではないかといわれている。鳥籠山は壬申の乱に際して戦場にもなった場所であり、付近に平安期編纂の「延喜式」に記されている東山道の鳥籠駅があったとされる。今となってはその鳥籠駅がどこにあり、いつまであったのか、はっきりしたことはわからない。

淡海路の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉川(いさやがわ) 日(け)のこのごろは 恋ひつつもあらむ
【万葉集巻4-487】

犬上(いぬがみ)の 鳥籠の山なる 不知哉川 いさとを聞こせ 我が名告ぐらすな
【万葉集巻11-2710】 


旧中山道・原町
原町を行く旧中山道。


原八幡神社
原町の原八幡神社。


昼寝塚と白髪塚

昼顔に 昼寝せうもの 床の山

松尾芭蕉が吉野、高野山・和歌の浦、奈良、大坂、須磨明石と旅した「笈(おい)の小文」の帰路、大津から岐阜へ向かう途次にこの地で詠んだもの。床の山は鳥籠山を指しており、昼寝にかけて床の字を使っているようだ。原八幡神社の境内には芭蕉来訪を記念して造られたのであろう昼寝塚なるものがあり、そのためなのだろうが原八幡神社には床山八幡宮の別称がある。


旧中山道・正法寺町交差点
正法寺町を行く旧中山道。


旧中山道・大堀山付近
旧中山道は大堀山の裾を通り抜ける。この小さな山が万葉集に登場し、壬申の乱の戦場となった鳥籠山なのだろうか。歴史舞台の謎は一種のロマンでもある。


大堀橋と大堀山
芹川を大堀橋で渡る。写真に見える鬱蒼とした木々の山が大堀山。


芹川
大堀山の麓を流れる芹川。万葉集の不知哉川(いさやがわ)は芹川であるという説が有力。


旧中山道・大堀町交差点
芹川を渡ると大堀町に入る。その入口にあたる交差点角に「旧中山道旧跡 床の山」と刻まれた石碑が建てられている。


かどや跡と岩清水神社
大堀町の岩清水神社は応神天皇とその母、神功皇后を祀る。この神社から中山道を挟んだ向かい側に「かどや」という茶屋があった。約200年前に建てられたという建物は更地になってしまったが、井戸らしきものだけが残っている。この井戸水で煎れられた茶が大正天皇に献上されたという。


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

高宮宿

高宮上布の集散地として賑わった高宮宿。高宮上布とは、高宮宿の周辺で生産された高宮布(麻布)によって織られる上質の麻織物で、彦根藩から将軍家に献上されるなどして全国的に有名であった。宿場内には高宮布を扱う商家が多くあり、また商売上手の近江商人によって他国へ売りさばかれ、高宮宿は豊かな経済力を誇っていた。

高宮宿の天保14年(1843年)当時の宿長さ南北7町16間(約793m)、人口3560人、家数835軒、本陣1、脇本陣2、旅籠23軒。中山道中では武蔵国の本庄宿に次ぐ規模の大きな宿場町で、多賀大社の門前町としても賑わった。宿場の南外れを犬上川が流れ、当時では珍しく無料で渡れる仮橋が架けられており、むちん(無賃)橋と呼ばれていた。


旧中山道・高宮町大北交差点
高宮町大北交差点の先から高宮宿の町並みが続く。


高宮宿
高宮宿を行く旧中山道。賑わいをみせた宿場の面影を留めている。


高宮宿
高宮宿の町並み。右手前の家が高宮布の布惣跡。


高宮布の布惣跡
高宮布の布惣跡・倉儀。布惣とは布を扱う現在の問屋みたいなもの。高宮布が7つの蔵一杯に集められ出荷された。それが平時で年12回繰り返されたといい、豊かな宿場町だったことを物語る。


高宮神社
古くは十禅師宮と称した高宮神社。鎌倉時代の創建と伝わるが明治3年の大洪水によって旧記が流され沿革がほとんどわからなくなってしまった。


提灯製造 馬場
高宮宿にある提灯屋さん。


高宮宿・多賀大社大鳥居
旧中山道筋の多賀大社参道入口に構える大鳥居。ここから約4kmの参道を行けば社殿に辿り着く。

お伊勢に参らばお多賀に参れ お伊勢はお多賀の子でござる

と、唄われるほど江戸時代には多賀信仰が盛んであった。ちなみに多賀大社の祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)であり、両神の御子である天照大神(あまてらすのおおかみ)が伊勢神宮の祭神であることから、このような歌詞になっている。多賀大社は古事記や延喜式に記載が見られるほどの古社で、延命長寿の神として名高く、今も多くの参詣客が訪れる。高宮宿のシンボル的存在となっている大鳥居は寛永年間(1624~1643年)の建立。


小林家住宅

たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子

松尾芭蕉が貞享元年(1684年)に宿泊した小林家。この時、芭蕉は小林家から新しい紙子羽織を贈られ、詠んだのが上の句である。その後、芭蕉の古い紙子を収めて庭に塚を造り、紙子塚と名付けた。


高宮宿ふれあいの館
江戸時代の高宮宿には2軒の脇本陣が置かれ、ここがその一軒で問屋場を兼ね、門前は高札場となっていた。現在は「高宮宿ふれあいの館」があり、高宮宿や犬上川越えの”むちん橋”に関する展示がされている。

この時、突然の豪雨に見舞われ、しばしここで雨宿り。


高宮宿小林本陣跡
小林家が務めた高宮宿本陣跡。当時の表門だけが現存している。


円照寺
街道を挟んで本陣跡の向かい側にある円照寺。明応7年(1498年)高宮氏の重臣、北川九兵衛が仏堂を建立したのが起源。境内に明治天皇ゆかりの「止鑾の松」や「家康公腰懸石」がある。


高宮宿南外れの町並み
高宮宿南外れの町並み。街道の先は犬上川を渡る高宮橋で、そこで高宮宿は終わり。


高宮橋と犬上川
犬上川に架かる高宮橋。かつては”むちん橋”という無料で渡れる仮橋が架けられていた。平時の犬上川は地下を流れているため徒歩渡しできたのだが、水量が増すと地表に川水が現れ仮橋が架けられた。現在も平時の犬上川は地下川なのだが、昨日から降り続く雨のおかげで、写真を見ての通りの有り様である。


むちん橋地蔵尊
高宮橋の袂に鎮座する「むちん橋地蔵尊」。昭和52年(1977年)橋脚改修工事の際に発掘された2体の地蔵尊を祀る。


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旧ほうぜ村・旧つづら村・旧あまご出村

高宮宿を出でた旧中山道は法士町(旧ほうぜ村)、葛籠町・西葛籠町(旧つづら村)、尼子町・出町(旧あまご出村)へと延びる。葛籠(つづら)という地名にはちょっと興味をそそられる由来があるので紹介。

南北朝の争乱期、足利義詮(よしあきら、尊氏の子で室町幕府二代将軍)は近江と美濃を平定して京へ戻る途次、ここで連れ添った側室が男子を出産。家臣9名が残り母子を保護するのだが、その甲斐も無く子は死んでしまう。母は出家して尼となり、その家臣らは土着して子の霊を弔いながら、藤蔓や竹を使って葛籠(つる状のもので編んだ蓋付きの籠)を作り生計を立てた。その古事からいつしかこの辺りは”つづら”と呼ばれるようになったという。


高宮宿を出でて
犬上川を越えて先へ延びる旧中山道。


旧中山道・法土町
旧ほうぜ村の法士町へ入る。


葛籠町の旧中山道松並木
法土町の家並みが途切れ、ちょっとした松並木が現れると旧つづら村の葛籠(つづら)町へ入る。


旧中山道・葛籠町
葛籠町を行く旧中山道。


月通寺
西葛籠町にある月通寺。


葛籠町の若宮八幡宮
古来から「産の宮」と呼ばれ、安産祈願に参詣する人々が多い(かった?)若宮八幡宮。葛籠町の地名の由来となった足利義詮の側室と家臣9名ゆかりの神社である。


了法寺と還相寺
了法寺と還相寺という2つの寺が街道を挟んで向かいあう珍しい光景。


旧中山道・葛籠町
葛籠町を行く旧中山道。その弐。


葛籠町の旧中山道松並木
葛籠町を過ぎて再び松並木を過ぎると出町・尼子町である。


旧中山道・出町
江戸方(北側)から歩いて来ると左側が尼子町、右側が出町となっており、旧中山道がその境界となっている。かつてこの辺りは"あまご出村”と称していた。


出町・尼子町の欅並木
出町・尼子町の欅並木を行く旧中山道。この欅並木を過ぎた先で彦根市から豊郷町へと行政区域が変わる。


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間の宿・石畑

彦根市から豊郷町に入り、四十九院を経て間の宿・石畑へ。

高宮宿と愛知川宿の”間の宿”として賑わった石畑。現在は豊郷町の中心部になっており、かつては町内に一里塚があったことから、”一里塚の郷”を名のっている。これといった見所はないが、町を少し南に外れた場所に近江商人・初代伊藤忠兵衛の邸宅が記念館として一般公開されている。ここを生家とする二代目伊藤忠兵衛は大手総合商社の伊藤忠商事・丸紅の創業者。


四十九院付近・旧中山道にて
珍客到来。道の真ん中で佇んでいるところを捕獲。雨の日ならではの遭遇である。


阿自岐神社鳥居
四十九院交差点角に建つ阿自岐神社の鳥居。参道を700m程行くと社殿に着く。百済からの渡来人阿自岐氏といわれる味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)を祀る神社で、併設する阿自岐庭園は奈良時代に築かれたものという。

と、一見の価値ありなのは確かなのだが、ちょっと遠かったので足が向かず・・・。


旧中山道・四十九院
四十九院(しじゅうくいん)を行く旧中山道。


旧中山道と名残松
旧中山道と名残松。豊郷小学校の校門前に立っている。往時は松並木の中山道が続いていたのだろうが、今は1本の名残松だけがその語り部である。


間の宿・石畑
間の宿・石畑へ入る。八幡神社の境内に「一里塚の郷 石畑」と刻まれた石柱が置かれている。かつて町の中心部に一里塚があったので、”一里塚の郷”を名のっている。


石畑の八幡神社
石畑の八幡神社は延応元年(1239年)京都の岩清水八幡宮を勧請し創建された。


八幡神社横の用水路にて
旧中山道と八幡神社境内の間を流れる用水路を覗いてみると・・・いるわいるわ、赤色やら褐色やらの”ザリガニ”がいっぱい。水の中では意外にすばしっこいんだなぁ、と感心。


旧中山道・豊郷町役場前交差点
石畑の一里塚は役場前交差点南の小字一里山という場所にあったという。写真の交差点先辺りがその場所なのだが、どこにあったのか全くわからなくなっている。江戸日本橋から121里目(約475km)の一里塚だった。


間の宿・石畑
石畑の町並み。江戸時代後期頃から間の宿として発展し、立場茶屋等が置かれて中山道を行き交う旅人で賑わった。


伊藤忠兵衛記念館
豊郷町の中心部を過ぎて八目という地区に入ると、左手街道沿いに伊藤忠兵衛記念館がある。この辺り一帯は近江商人として名を馳せた伊藤家の土地だったようで、伊藤長兵衛家屋敷跡が駐車場となり、初代忠兵衛の功績を偲んで築造された”くれない園”が広大な敷地を残している。

ここに着いたのが16時ちょい過ぎ。開館時間が16時までだったので内部の見学はできず。リーマンとして生きる自分には、少しだけ近江商人魂をあやかりたかったのだが・・・残念。


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平将門の怨念

豊郷町の高野瀬・上枝・下枝から宇曽川を越えて愛荘町へ。豊郷町と愛荘町の境界となる宇曽川に架かる旧中山道の歌詰橋は、かつては十数本の長い丸太棒を架台にした土橋であった。この橋には平将門にまつわる伝説が残り、橋名の由来にもなっている。

天慶3年(940年)承平天慶の乱を起こし、東国に独自国家を建設しようと企んだ平将門。結局のところ最期は藤原秀郷によって討伐されてしまい、その首級は東国から京へと運ばれたのだが、その途次に将門の首が転げ落ち、目を見開いて秀郷に向かって追いかけてきた。

秀郷は咄嗟に将門の首に向けて歌を一首といい、それに対して将門の首は歌に詰まりこの橋上に落ちてしまった。それから歌詰橋と呼ばれるようになったと伝わる。後に京に晒された将門の首は東国へ向かって空へ舞い上がり、その首が落ちたという東京の大手町にある首塚のことはあまりにも有名な話。それにしても恐るべきは将門の怨念である。


旧中山道・天稚彦神社付近
高野瀬・上枝を行く旧中山道。


天稚彦神社参道
旧中山道から参道が延びる天稚彦神社。戦国時代に佐々木京極氏の家臣・高野瀬氏がこの地に城を構えてから守護神と敬われ、境内では楽市が開かれたと伝わる。


金田池
この井戸はかつて付近にあった金田池を偲んで造られたモニュメント。金田池の湧水は周辺の田と中山道を旅する人々の喉を潤してきたが、近年になって水源が途切れ池は埋め立てられた。


上枝・下枝を行く旧中山道
旧中山道を挟んで左が下枝、右が上枝の地区。この辺りには日枝の地名が残っており、下枝・上枝の地名はその名残なのか。


又十屋敷と一里塚跡碑
豊郷町下枝にある又十(またじゅう)屋敷。ここは江戸時代後期に”又十”という屋号で呉服屋を営んでいた近江商人・藤野喜兵衛喜昌の旧宅。後に松前藩を頼って蝦夷地へ渡り、多くの漁場を開いて廻船業を営んだ。江戸時代の昔、極寒秘境の地に渡った近江商人魂の勇気に感服。

屋敷前に「中山道一里塚跡」の碑があるのだが、一里塚があったという石畑から約1.5km地点のここで何ゆえに一里塚跡なのか。幾度かのルート変更があった中山道であるから、一里塚の位置が変わることもあったのだろうが、真相は不明。


旧中山道・西還寺前
西還寺前を行く旧中山道。


千寿寺 千寿寺にて
下枝の千寿寺は観音堂と呼ばれ、江州音頭発祥の起源がここにあるという。江州音頭とはどんな曲と踊りなんでしょうかねぇ?


歌詰橋と宇曽川
歌詰橋と宇曽(うそ)川。秦川山と押立山(鈴鹿山脈)を水源とし、湖東平野を経て琵琶湖に注ぐ宇曽川は、古くから水量豊富で舟運が盛んであったために”運槽川”と称していたが、時の流れと共に転訛して”うそ川”と呼ばれるようになったという。歌詰橋については前述の通り。


旧中山道・石橋
愛荘町石橋を行く旧中山道。


石部神社
愛荘町石橋にある石部神社。古代の部民制における石作部(いしつくりべ)に由来があるとされ、平安期編纂の延喜式に記される古社である。石作部は石を扱う技術集団だったとの解釈で良いと思う。


旧中山道・沓掛
沓掛という地区で写真のY字路に差しかかる。旧中山道は右へ。間もなく愛知川宿に入る。


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愛知川宿

愛知川と書いて”えちがわ”と読む。宿場の南側外れを同名の川が流れており、古の時代から愛知川によってここに人が集まり町を形成し、その深い所縁から宿名にもなったことは何となく想像がつく。隣の高宮宿と同様に近江上布(麻織物)が名産品で、商売上手な近江商人によって全国各地へ売りさばかれ、宿場はそれなりに潤っていたのであろう。

高宮宿の犬上川に無賃で渡れる橋があったのと同じく、愛知川にも”はし銭いらず”の無賃橋が架けられていた。橋を渡るには有料だったのが当たり前の江戸時代、無料であったというのも豊かな経済力のなせる業なわけだ。愛知川宿の天保14年(1843年)当時の宿長さ南北5町34間(約607m)、人口929人、家数199軒、本陣1、脇本陣1、旅籠28軒。


愛知川宿
愛知川宿北の入口。


近江商人亭
宿場入口付近にある近江商人亭(写真右)。近江商人・田中家の屋敷を利用した郷土料理店で、閑静な商店街の中に豪壮な古建築が目を惹く。


愛知川宿
愛知川宿を行く旧中山道。


木曽海道六拾九次之内 恵智川
広重が描いた木曽海道六拾九次の「恵智川」は、宿場南外れを流れる愛知川に架けられた”むちん橋”の様子を描いている。


宝満寺
蓮如上人御影道中の定宿として知られる宝満寺。御影道中とは、本願寺中興の祖である蓮如上人の御影(ごえい)を抱いた門徒一行が、京都東本願寺から吉崎御坊(現 福井県あわら市)までを歩いて往復する行事。毎年5月7日の晩に愛知川の家々は提灯を掲げ、御上洛(帰路)の一行を迎えるという。


愛知川宿・八幡神社前
八幡神社前に高札場が設けられていた。


愛知川宿の町並み
一地方の商店街となってしまった愛知川宿であるが、中山道の宿場町として賑わった往時の残影を感じるのは私だけだろうか。


竹平楼
料理旅館の竹平楼は「竹の子屋」の屋号で宝暦8年(1758年)から旅籠を営んでいたという老舗。明治11年(1878年)明治天皇がな北陸巡幸の際、ここに立ち寄った。

竹平楼まで来たところでこの日の中山道の歩き旅は終わり。近江鉄道の愛知川駅から米原へ向かい、新幹線で帰路に着く。

【第40日目】踏破距離 約13.7km(鳥居本宿→高宮宿→愛知川宿)
日本橋から約479km 京都まで約55km 
京の匂いがしてきた・・・


豊郷駅にて
おまけ。
近江鉄道の豊郷駅にて車内からの一枚。ホームのベンチで列車の到着を待つのは人ではなく・・・。ほのぼのとした光景に思わず笑みがこぼれます。


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愛知川のむちん橋

【第41日目】(2008/8/3) 愛知川宿→武佐宿



少々雲はかかっているが、私の旅にとっては久々の快晴である。いや違う。快晴が快い晴れという意味ならば、猛々しい晴れの猛晴と言うべきであろう。暑い。とにかく暑い。盛夏の近江路をなめていたと、自責の念にかられる程に拙い日に来たもんである。とにもかくにもここまで来たからには歩かねばなるまい。酷暑という過酷な近江路を歩くことになるのであろう、中山道の旅を愛知川宿から再開させた。

旅人を あはれみかけてむちんばし ふかき心を 流す衛知川

この歌は西園寺(藤原)実文という人が詠んだものという。愛知川に無賃橋が架けられたのが天保2年(1831年)というから、それ以後の江戸時代末期から明治初期頃に詠まれたものなのか。愛知川は”人取り川”の異名があるほどの暴れ川だったようで、鈴鹿山脈に源を発するという地勢から、上流部で大雨が降ると鉄砲水のような水害が発生したのであろう。


郡分地蔵
路傍に並ぶ郡分(こおりわけ)地蔵。今日の中山道の歩き旅はここからスタート。写真奥、用水路を横切る道が旧中山道で、宿場時代ここが郡と郡の境だったことから郡分地蔵と呼ばれている。また、ここは愛知川宿江戸方(北側)の入口だった。


愛知川宿・八幡神社
八幡神社で道中の安全を祈願。


愛知川宿・竹平楼付近
厳しい暑さの中、愛知川宿を旅立つ。


不飲川
愛知川宿京方(南側)入口にあたる不飲川(のまず)川。何故だかわからないが、橋の欄干に酒瓶のようなモニュメントが置かれている。しっかり栓がされていることから、”飲まず”ということなのか。川の名前に面白い由来がありそうなので調べてみた。

歌詰橋と同様に、この川にも平将門にまつわる伝承があるらしい。不飲川の名は源流にある不飲池に由来があるのだが、この池は平将門の首を洗ったところ水が血で濁ったとか、平将門が汚れた身を洗ったとか。他にも諸説あるのだが、そんな由縁から不飲池と呼ばれてきたらしい。いずれにしてもこの辺りの民は東国で独立国家を築こうとした平将門を忌み嫌い、その怨念を恐れたのだろう。


愛知川宿南側入口.
愛知川宿を出ると国道8号に合流。かつてはこの辺りに一里塚があった。


愛知川の一里塚跡
その一里塚跡を示す碑。国道から少し外れた場所にひっそりとある。


国道8号・御幸橋北付近
愛知川に架かる御幸橋へ向かう国道8号。アスファルトの照り返しと車の排気ガスが行く手を阻む。


祇園神社の常夜灯
御幸橋袂の祇園神社境内にある常夜灯。


御幸橋
かつて無賃橋があった場所に架かる御幸橋。もちろん現在も無賃で渡れます。


愛知川
御幸橋から愛知川を望む。渇水期だったからなのだろうが、かつて”人取り川”の異名があったのかと疑わしくなるほどに水量は少ない。これなら橋を渡らずとも徒歩渡しができそうな感じ。


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近江商人発祥の町・五個荘

愛知川を越えた旧中山道は五個荘(ごかしょう)へ。江戸方(愛知川側)から歩いてくると中町、小幡町、竜田町、新堂町、三俣町、北町屋町、石塚町、山本町を通り抜け、清水鼻町で国道8号に合流。これらの町名にはいずれも”五個荘”の冠が付けられている。この地域は昭和30年(1955年)から五個荘町という独立した自治体だったが、平成17年に八日市等と合併し東近江市となった。

五個荘は近江八幡や日野と並んで多くの近江商人を輩出し、中でも五個荘出身の商人は五個荘商人と呼ばれ、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した。呉服・太物・高宮布(麻布)・野洲晒し(麻布)・編笠等の近江で生産された商品を扱って全国各地へ行商し、行く先々で他国の物産を仕入れてくる”諸国産物廻し”という地域価格差を活かした商法で大きな蓄財をなした。


愛知川の睨み灯籠
愛知川を越えて先へ延びる旧中山道。その入口に太神宮の常夜灯が対岸の常夜灯と睨み合っている。ゆえに”睨み灯篭”とも呼ばれているそうだ。


五個荘中町
五個荘中町の旧中山道。かつては中村と呼ばれた集落だった。


五個荘小幡町
五個荘小幡町の旧中山道。近江鉄道の小幡踏切を渡る。


五個荘小幡町
五個荘小幡町は江戸時代から作られている郷土人形の小幡土偶(おばたでこ)が有名。


五個荘小幡町
中山道と御代参街道の追分。左へ分岐する道が御代参街道で、ここ小幡より八日市、日野を経て東海道の土山宿を結ぶ。江戸時代中期、皇族の名代が伊勢神宮と多賀大社への参詣に通行したことから名づけられた。


中山道と御代参街道の追分道標
中山道と御代参街道の追分に残る道標。享保3年(1718年)の建立で、「右京みち、左いせ ひの 八日市みち」と刻まれている。


五個荘小幡町の太神宮常夜灯
五個荘小幡町の太神宮常夜灯と旧中山道。ここは「中仙道ぽけっとぱーく」という小さな公園になっている。


五個荘小幡町
五個荘小幡町を行く旧中山道。旧街道風情が漂う。この辺りはかつて北之庄村という集落だった。


五個荘三俣・竜田町
五個荘三俣・竜田町の旧中山道。


西沢梵鐘
五個荘三俣町にある西沢梵鐘鋳造所。三俣の鋳物師は300年もの歴史があるという。


伊勢道常夜灯
三俣付近の中山道からも伊勢方面への道が分かれていた。その分岐点にあるのがこの常夜灯で、天保15年(1844年)の建立。京方から来ると先述した御代参街道への近道だったようだ。やはりこの常夜灯にも「右京みち、左いせ ひの 八日市みち」と刻まれていた。


明治天皇北町屋御小休所
明治11年(1878年)明治天皇は北陸東海巡幸の際、北町屋の市田邸で御小休された。


五個荘北町屋町
北町屋を行く旧中山道。


五個荘山本町にて
五個荘山本町にて。今では珍しくなった茅葺屋根の家。手入れが行き届いており美しい佇まい。


てんびんの里
五個荘の旧中山道京方入口付近の様子。近江商人が天秤棒を担いで全国を行商したという所以から、五個荘は”てんびんの里”と称している。


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清水鼻立場

五個荘清水鼻町の旧中山道筋は、かつて立場が置かれ場所で、今も”清水鼻の名水”と親しまれる清水が湧く。”焼米はぜ”という何だか良くわからないが、とにかく焼米の一種が名物だったという茶屋があった。いったい”はぜ”とは何ぞや?と考えてしまったのだが、おそらく”爆ぜる”のことと思われ、この言葉には”裂けて開く”とか”はじける”という意味がある。子供の頃によく食べたポン菓子を想像してしまったのだが・・・真相は如何に。


繖山(観音寺山)
繖山(きぬがさやま)は別名を観音寺山といい、中腹に観音正寺と佐々木六角氏の居城・観音寺城があった。この山の南麓を中山道が通り、清水鼻の立場が置かれていた。


旧中山道・清水鼻町
清水鼻町を行く旧中山道。


清水鼻の名水
清水鼻の集落に今も湧く名水。立場に必要不可欠なものは、やはり美味しい水であり。


旧中山道・浄敬寺前
浄敬寺前の旧中山道。


清水鼻立場跡
旧中山道は”フードショップ タケヤス”の角を左折する。直進する道は観音寺城の城下町として栄えた石寺へ続く。


清水鼻立場跡
清水鼻立場跡。”焼米はぜ”が名物の立場だったが、清水女郎と呼ばれる良き遊女もいたらしい。


清水鼻の常夜灯
清水鼻の常夜灯。


竜石山
旧中山道から竜石山を望む。


安土町石寺の夕焼け
みるみるうちに空が朱色に染まっていく。


国道8号・石寺
旧中山道は国道8号に合流。国道を歩いているうちに日没を迎える。お天道様、今日も1日ありがとうございました。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

カレンダー
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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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