大岩山古墳群
辻町を出た旧中山道は東海道新幹線と並行し、桜生(さくらばさま)史跡公園の山裾を辿る。この周辺一帯は大岩山古墳群と呼ばれ、弥生時代築造の古墳が点在する古代歴史ロマン溢れる場所。8基の古墳が国史跡に指定され、そのうち前方後円墳の天王山古墳と円墳の甲山古墳・円山古墳が公園として整備されたのが桜生史跡公園である。
桜生史跡公園から三ツ坂立場跡・小篠原・野洲を経て行畑へ続く旧中山道を紹介。

旧中山道は桃生史跡公園と東海道新幹線の間を行く。

桃生史跡公園の古墳を一つだけ紹介。というより一つしか見に行かなかった・・・。写真は円墳の甲山(かぶとやま)古墳。

甲山古墳の内部は石室となっており、石棺が安置されている。どんな御方がここに眠っていたんでしょうかねぇ・・・。想像を掻き立てられます。

甲山古墳の内部から。外はうだるような暑さだというのに、古墳の中は涼しいんです♪

三ツ坂付近の旧中山道。この辺りの集落は立場だったらしい。

三ツ坂にて。

本藍染「紺九」の屋号で知られる森氏宅。明治3年(1870年)に創業してから四代目の現在に至るまで本藍染の伝統を守り続けている。

小篠原を行く旧中山道。

小篠原の旧中山道筋には茅葺屋根の旧家も見え、旧街道の情緒が漂う。

中山道と朝鮮人街道の分岐点。写真右の道が江戸方面へ向かう旧中山道で、左の道が朝鮮人街道。朝鮮人街道は近江八幡・安土・彦根を経て、鳥居本宿で再び中山道に合流する。以前に鳥居本宿の記事に書いたので参照してみてください。

中山道・朝鮮人街道の分岐点にて。

行畑の町並み。

行畑に鎮座する行事神社。

旧中山道の道筋に今も変わらず旅人を見守り続ける”背くらべ地蔵”。鎌倉時代の作という。「我が子がこの背の低い地蔵くらいになれば一人前」と背比べさせたことから、この名で呼ばれるようになったらしい。小児医療が未発達だった昔は、幼児の死亡率が高かったというから、親にとってはこの地蔵くらいに子が成長してくれれば安心できたのであろう。
桜生史跡公園から三ツ坂立場跡・小篠原・野洲を経て行畑へ続く旧中山道を紹介。

旧中山道は桃生史跡公園と東海道新幹線の間を行く。

桃生史跡公園の古墳を一つだけ紹介。というより一つしか見に行かなかった・・・。写真は円墳の甲山(かぶとやま)古墳。

甲山古墳の内部は石室となっており、石棺が安置されている。どんな御方がここに眠っていたんでしょうかねぇ・・・。想像を掻き立てられます。

甲山古墳の内部から。外はうだるような暑さだというのに、古墳の中は涼しいんです♪

三ツ坂付近の旧中山道。この辺りの集落は立場だったらしい。

三ツ坂にて。

本藍染「紺九」の屋号で知られる森氏宅。明治3年(1870年)に創業してから四代目の現在に至るまで本藍染の伝統を守り続けている。

小篠原を行く旧中山道。

小篠原の旧中山道筋には茅葺屋根の旧家も見え、旧街道の情緒が漂う。

中山道と朝鮮人街道の分岐点。写真右の道が江戸方面へ向かう旧中山道で、左の道が朝鮮人街道。朝鮮人街道は近江八幡・安土・彦根を経て、鳥居本宿で再び中山道に合流する。以前に鳥居本宿の記事に書いたので参照してみてください。

中山道・朝鮮人街道の分岐点にて。

行畑の町並み。

行畑に鎮座する行事神社。

旧中山道の道筋に今も変わらず旅人を見守り続ける”背くらべ地蔵”。鎌倉時代の作という。「我が子がこの背の低い地蔵くらいになれば一人前」と背比べさせたことから、この名で呼ばれるようになったらしい。小児医療が未発達だった昔は、幼児の死亡率が高かったというから、親にとってはこの地蔵くらいに子が成長してくれれば安心できたのであろう。

スポンサーサイト