逢坂の関
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
平安時代の歌人・蝉丸(せみまる)の歌で、小倉百人一首に詠まれる。袖振り合うも多生の縁、古の時代から、逢坂の関を様々な人々が行き交い、そして出会いと別れを重ねたのだろう。逢坂関は古代から東海道と東山道という二つの幹線道が合流して京へ向かう要衝の地にあり、すでに大化の改新以後の飛鳥時代から奈良時代にかけて関所らしきものが置かれていた。794年に都が平安京に遷されると更に重要性は増し、平安時代中期頃には廃止となった愛発関(あらちのせき)にかわり、不破関と鈴鹿関と共に三関の一つとなった。

逢坂山への上り口、国道161号沿いに鎮座する関蝉丸神社下社。平安時代の歌人で琵琶の名手だった蝉丸(せみまる)を祀る。

国道161号を逢坂山へ上る。

安養寺門前にある逢坂(おうさか)の碑。逢坂は神功皇后の将軍・武内宿禰(たけのうちすくね)が忍熊王とばったりと出会ったことに名の由来があると書かれている。

国道1号に合流し、京阪京津線と並行して逢坂を上る。

国道1号沿いの逢坂山上に鎮座する関蝉丸神社の上社。関蝉丸神社は下社・中社・上社の三社からなる。

弘法大師堂を見ると間もなく逢坂の頂に着く。

逢坂の関跡付近を行く国道1号。右斜めに分岐する道が旧東海道である。逢坂山を越える東海道の坂上に置かれた逢坂の関であるが、現在は深く開削して国道1号を通したため、関跡がどこなのかははっきりしない。

国道1号と旧東海道の分岐点、逢坂の頂にある「逢坂山関址」碑。かつてはここが近江と山城の国境であった。
平安時代の歌人・蝉丸(せみまる)の歌で、小倉百人一首に詠まれる。袖振り合うも多生の縁、古の時代から、逢坂の関を様々な人々が行き交い、そして出会いと別れを重ねたのだろう。逢坂関は古代から東海道と東山道という二つの幹線道が合流して京へ向かう要衝の地にあり、すでに大化の改新以後の飛鳥時代から奈良時代にかけて関所らしきものが置かれていた。794年に都が平安京に遷されると更に重要性は増し、平安時代中期頃には廃止となった愛発関(あらちのせき)にかわり、不破関と鈴鹿関と共に三関の一つとなった。

逢坂山への上り口、国道161号沿いに鎮座する関蝉丸神社下社。平安時代の歌人で琵琶の名手だった蝉丸(せみまる)を祀る。

国道161号を逢坂山へ上る。

安養寺門前にある逢坂(おうさか)の碑。逢坂は神功皇后の将軍・武内宿禰(たけのうちすくね)が忍熊王とばったりと出会ったことに名の由来があると書かれている。

国道1号に合流し、京阪京津線と並行して逢坂を上る。

国道1号沿いの逢坂山上に鎮座する関蝉丸神社の上社。関蝉丸神社は下社・中社・上社の三社からなる。

弘法大師堂を見ると間もなく逢坂の頂に着く。

逢坂の関跡付近を行く国道1号。右斜めに分岐する道が旧東海道である。逢坂山を越える東海道の坂上に置かれた逢坂の関であるが、現在は深く開削して国道1号を通したため、関跡がどこなのかははっきりしない。

国道1号と旧東海道の分岐点、逢坂の頂にある「逢坂山関址」碑。かつてはここが近江と山城の国境であった。

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