日光街道っ!
最初に道を切り開き歩いた人のことを考えてみることがある。薮を掻き分けて少しでも歩きやすい場所を選び、迂回を繰り返しながら東へ西へと向かったのだろうか・・・なんて。そこを少しずつ人が通るようになり、やがて道が形成されていったのだろう。そんな先人達が築いた道だからこそ、旧街道と呼ばれる道には歴史の重さと先人達の息吹を感じるのである。旧中山道の次は・・・特に理由は無いが旧日光街道を歩いてみよう。そう、ゆっくり、のんびりと。
ということで、2009年ゴールデンウィークから歩き始めた旧日光街道の様子をブログに綴ろうと思います。まずは日光街道の簡単な概要から。ちなみに江戸幕府の定めた正式名称は日光道中なのだが、一般には日光街道と呼ばれるので、ここではこれに従います。

日光街道は江戸時代に整備された五街道の一つであり、江戸日本橋と下野国日光坊中を結ぶ延距離36里3町2間(約143km)の街道である。元和2年(1616年)駿河国久能山へ葬られた徳川家康の遺骸が翌年に日光へ改葬されると、歴代将軍や諸大名をはじめ、庶民の日光参詣が頻繁になり日光街道が整備された。道中には21の宿場が置かれ、沿道には杉並木や1里(約4km)毎に一里塚が築かれた。日本橋から宇都宮までの17宿は奥州街道(日本橋から陸奥国白河へ至る街道、江戸幕府の定めた正式名称は奥州道中)と同ルートを通る。

2009年5月、再び日本橋に立つ。世界遺産の日光東照宮へ、いざ参らん!
ということで、2009年ゴールデンウィークから歩き始めた旧日光街道の様子をブログに綴ろうと思います。まずは日光街道の簡単な概要から。ちなみに江戸幕府の定めた正式名称は日光道中なのだが、一般には日光街道と呼ばれるので、ここではこれに従います。

日光街道は江戸時代に整備された五街道の一つであり、江戸日本橋と下野国日光坊中を結ぶ延距離36里3町2間(約143km)の街道である。元和2年(1616年)駿河国久能山へ葬られた徳川家康の遺骸が翌年に日光へ改葬されると、歴代将軍や諸大名をはじめ、庶民の日光参詣が頻繁になり日光街道が整備された。道中には21の宿場が置かれ、沿道には杉並木や1里(約4km)毎に一里塚が築かれた。日本橋から宇都宮までの17宿は奥州街道(日本橋から陸奥国白河へ至る街道、江戸幕府の定めた正式名称は奥州道中)と同ルートを通る。

2009年5月、再び日本橋に立つ。世界遺産の日光東照宮へ、いざ参らん!

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