千住宿 仲町・千住1丁目~千住3丁目

【2009年5月2日(土) 旧日光街道 千住宿】
東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、中山道の板橋宿、そして日光・奥州街道の千住宿、それぞれ五街道への初宿であり、江戸の出入口にあたる宿場町は江戸四宿と称されるほどに繁栄した。旅に出る人あれば送る人あり、そして帰る人あらば迎える人ありと、大いに賑わったことは想像に難くないが、飯盛女の存在も町の繁栄に寄与したことは事実である。飯盛女とは旅籠に置かれた遊女のことで、江戸四宿には飯盛女を置く旅籠が集まり、岡場所と呼ばれる遊郭のような歓楽街があった。格式の高い吉原等の遊郭に比べて代金が安かったことから、遊興目的で訪れる男性客が多かったという。今も江戸の昔も男の考えることにさほど差は無いようだ・・・。

千住宿は天保14年(1843年)当時の人口9956人、家数2370軒、本陣1、脇本陣3、旅籠55軒とあり、中山道の板橋宿より遥かに規模が大きい。日光道中が整備された江戸時代初期には千住1丁目から5丁目までが宿場町であったが、万冶元年(1658年)千住宿南端から千住大橋にかけての家並み続き地を、掃部(かもん)宿・河原町(後に”やっちゃ場”となった)・橋戸町として千住宿に加宿し、更に万治3年(1661年)には千住大橋を越えた小塚原町・中村町(現 南千住付近)までの町をも加える。町の総数から千住八ヶ町と呼ばれ、宿場は繁栄を極めた。


千住仲町商店街
やっちゃ場跡を後にして千住仲町商店街へ。この辺りはかつての掃部宿である。


源長寺
千住仲町商店街の一角に建つ源長寺。掃部宿は安土桃山時代末期の慶長3年(1598)、この地を所領し新田として開拓した石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)にちなみ名付けられた。その石出吉胤が阿弥陀如来を本尊に祀り、一族の菩提寺として開いたのが源長寺である。


本町センター商店街
千住仲町商店街を抜けて本町センター商店街へ入っていく。ここからが千住宿の中心部で、かつて貫目改所(かんめあらためじょ)と問屋場が置かれていた。


千住宿問屋・貫目改所跡
千住宿問屋・貫目改所跡。現在は東京芸術センター前の広場となっている。
宿場町に言う問屋とは、次の宿場町へ荷を運ぶ人馬の継ぎ立てを取り仕切る機関で、宿場には必ず置かれていた。江戸時代は問屋から次の問屋へとリレー方式で荷を運んでおり、荷の重量に制限があったことから、その重量を検査する目的で幕府が置いた出先機関が貫目改所である。日光街道では千住宿と宇都宮宿、中山道では板橋宿、洗馬宿、草津宿に貫目改所が設置されていた。


宿場町通り
旧日光街道は本町センター商店街から北千住駅前通りを越えると宿場町通りとなる。かつて本陣が置かれていたのが、ここ宿場町通りの沿道である。


千住宿本陣跡
写真右、100円ショップの入っているビルが千住宿本陣跡。現在は見る影も無くなっているが、ビル前にその跡地を示す碑が建てられている。千住宿の本陣は享保19年(1734年)には2軒と記録が残るが、天保期(1830-43)には1軒と減少し、ここにあった秋葉市郎兵衛家だけが幕末まで本陣を務めた。


千住本氷川神社旧社殿
千住3丁目と千住4丁目の境、旧日光街道から西へ路地を入った所に千住本氷川神社が鎮座している。写真はその境内に残る旧社殿であり、往時の千住宿を見てきた数少ない建築の一つである。千住本氷川神社は牛田(現 荒川の流域)の地にあった牛田氷川神社の分社として、江戸時代初期この地に創建された。明治43年(1910年)荒川放水路の建設によって牛田氷川神社が川底に消滅してしまったため、分社が本社を合祀するという珍しい社歴を持っている。


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千住宿 千住4丁目・千住5丁目

【2009年5月2日(土) 旧日光街道 千住宿】
千住4丁目から5丁目にかけては千住宿の北外れにあたり、かつては水戸佐倉道(水戸街道、佐倉街道)や下妻道が日光街道から分岐する交通の要衝であった。その千住4丁目には横山家が今も重厚な商家造りの伝馬屋敷を構え、その向かい側には今となっては珍しい絵馬屋の吉田家があり、往時の千住宿を偲ぶ見所となっている。千住5丁目の日光街道から分岐していた水戸佐倉道と下妻道はすぐに荒川の中に消えてしまうが、分岐点から荒川土手にかけて当時の道筋が残っている。


長円寺
千住4丁目の旧日光街道から西へ路地を入った所にある長円寺。寺暦は江戸時代初期に溯り、寛永4年(1627年)出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結び、後に賢俊(けんしゅん)という僧が開山したと伝わる。


めやみ地蔵尊
長円寺の入口横に祀られるめやみ地蔵尊。その名の通り眼病に霊験あらたかなお地蔵様として、たくさんの絵馬が奉納されている。この味のある絵馬は、千住の絵馬屋・吉田家で作られたもの。


千住絵馬屋・吉田家
江戸中期から代々、絵馬をはじめ地口行灯や凧等を描いてきた際物問屋の吉田家。江戸時代からの伝統を守り続け、今も手書きで絵馬を描いている。消費と効率を求める現代には時代錯誤なのかもしれないが、こういった老舗こそ後世まで残ってほしいと、つくづく思う。


横山家住宅
ここは本当に近代都市と発展した東京都の23区内なのか!?と、疑うほどに見事な商家造りの伝馬屋敷を構える横山家。戦前まで”松屋”の屋号で地漉紙(じすきがみ)問屋を営み、今に残る母屋は江戸時代後期の建築である。戊辰戦争における上野の戦いで、逃げる彰義隊が切りつけた柱の傷痕や太平洋戦争中の焼夷弾が貫いた屋根等が残っているという。激動の日本史を見てきた都内に残る数少ない建物である。千住宿、いやいや、東京の名所と言っても過言ではないだろう。


かどや
昭和27年(1952年)創業のかどや。横山家のすぐ近く、旧日光街道沿いに味のある看板を掲げている。付近にある清亮寺門前に生えていた槍掛け松から名をとり、”槍かけだんご”と名付けられた団子は、備長炭で一本一本焼き上げる千住の名物。言うまでもなく美味しい団子で、私も東京在勤中にちょくちょく買いに来ました。是非、ご賞味あれ。


日光街道・水戸佐倉道分岐点 日光街道・水戸佐倉道分岐
日光街道・水戸佐倉道の分岐点。写真は千住5丁目の旧日光街道上から南に千住宿を望んでおり、交差点から左折する道が水戸佐倉道である。ここで分岐した水戸佐倉道は次の新宿(にいじゅく)で水戸街道(水戸道中)と佐倉街道(成田街道とも呼ばれる)に分かれていた。


日光街道・下妻道分岐点
日光街道・下妻道の分岐点。ここから直進する道が下妻道であるが、荒川の土手で途切れている。下妻道は千住宿と常陸国(現 茨城県)の下妻を結ぶ脇往還として利用された。


千住名倉医院
旧日光街道との分岐点すぐ、下妻道に面して千住名倉医院がある。江戸時代から骨接ぎの名医として関東一円に知られ、わざわざ遠方から治療に訪れる患者も多かった。門前の広場はその患者を運んできた駕籠や大八車の溜り場になっていたという。現在”名倉”の名が付けられている接骨院が多くあるのは、ここ千住名倉医院にあやかってのことである。


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荒川放水路

【2009年5月2日(土) 旧日光街道 千住宿→草加宿 道中】
下妻道と分かれた旧日光街道の道筋は北西に向きを変え、間もなく荒川(荒川放水路)の中へ消滅する。日光街道が五街道として道中奉行の支配下にあった江戸時代、ここに荒川は流れておらず、千住から梅島にかけて地続きの土地であった。明治43年(1910年)の関東大水害を契機に荒川(現 隅田川)を岩淵水門から分流して東京湾へ注ぐ荒川放水路の開削が計画され、大正2年(1913年)から着工。注水が開始されたのが岩淵水門が完成した大正13年(1924年)のことで、全ての工事が完了するのは着工から17年後の昭和5年(1930年)のことである。


旧日光街道・千住5丁目
下妻道と分かれた旧日光街道は200メートル程で荒川土手に寸断される。


千住新橋と荒川
国道4号(現 日光街道)が通る千住新橋。


千住新橋
千住新橋を渡って荒川の対岸へ。


荒川放水路
千住新橋から荒川を望む。旧日光街道の道筋はこの大河の川底に沈んでいる。ちなみに、荒川放水路が完成する以前は現在の隅田川の流路が荒川の本流であり、千住大橋付近までの隅田川が荒川と称されていた。


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直線道のわけ

【2009年5月2日(土) 旧日光街道 千住宿→草加宿 道中】
荒川を越えてから草加宿へ向かう旧日光街道は、東京都と埼玉県の県境にあたる毛長川付近まで、ほぼ直線の旧街道らしくない道が約4kmも続く。これは日光街道の制定以前、奥州街道の千住宿と越谷宿間は沼地の多い湿地帯だったため、ここを避けて大きく東に迂回するルートだったのを、大川図書という人が沼を埋め立てて最短距離で結ぶ道に付け替えたことが理由らしい。これが徳川家康が江戸に入府して間もない慶長11年(1607年)のこととあり、おそらく軍事的理由で工事を計画し着工されたのだろう。障害物が山と湿地で違いはあるものの、武田信玄が甲斐と信濃を最短で結ぶために敷設させた棒道が家康の脳裏にあったのではないだろうか。越谷宿と千住宿間に草加宿が設置されるのは、3代将軍徳川家光の治世となった寛永7年(1630)年のことで、日光街道が整備され東照宮参詣の通行が多くなったことをうかがわせる。


梅島駅前通り商店街
梅島駅前通り商店街を行く旧日光街道。延々と直線の道が続いている。


旧日光街道・島根
こういった延々と続く直線道が、歩きやすそうで実は辛いわけで・・・。


国土安穏寺
旧日光街道を離れて国土安穏寺に寄り道。元和8年(1622年)の宇都宮城釣天井事件を予言した功により、徳川家からこの寺号を賜り葵紋の使用を許されたという。宇都宮城釣天井事件とは、宇都宮藩主の本多正純が居城の宇都宮城に釣天井を仕掛け、2代将軍徳川秀忠の暗殺を図ったという事件。正純を快く思わない秀忠側近の謀略説が有力で、あくまで疑惑の域を出ない事件なのだが、宇都宮の本多家は改易され正純自身は流罪となった。


鷲神社
足立区島根4丁目に鎮座する鷲(わし)神社。文保2年(1318年)この周辺一帯の地名だった島根村の鎮守として創建されたという。この神社の南に古代の海岸線と伝わる場所があり、島の根のような形状の土地だったことが地名の由来らしい。現在の足立区辺りが海岸線だった古代って、どんだけ~。(これもちょっと古いか・・・)


旧日光街道・竹の塚 日光街道・赤山道分岐
五差路が交わる竹の塚3交差点は旧日光街道の増田橋跡。交差点角にある標柱とバス停名に増田橋の名が残っているが、ここに橋の痕跡は全く無い。かつて増田橋南詰の旧日光街道から赤山道が分岐しており、ここから舎人を経て関東郡代伊那家の陣屋があった埼玉県川口市赤山へ通じていた。


旧日光街道・竹の塚
竹の塚を行く旧日光街道。まだまだ、直線の道が先へ続く。竹の塚という地名にあるが如く、この辺りには竹の塚があるのかと思いきや、現代の東京にそんなもの存在するわけもなく・・・。江戸時代には竹塚村と称されるにふさわしい竹の自生する古墳が多くあったという。


旧日光街道・西保木間
長らく続いた直線の旧日光街道は西保木間で終わり。旧道の道筋はいったん右の小径へ入り、竹の塚中学校東交差点から国道4号を越えて水神橋へ向かう。


毛長川と水神橋
毛長川に架かる水神橋。ここが東京都と埼玉県の県境になっている。いよいよ彩の国さいたまへ!。


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火あぶり地蔵

【2009年5月2日(土) 旧日光街道 千住宿→草加宿 道中】
毛長川を渡り埼玉県に入ってから草加宿まで約2km、旧国道4号(県道足立・越谷線)のほぼ直線の道を歩く。そのちょうど中間、瀬崎町と吉町との境に”火あぶり地蔵”と呼ばれる地蔵があり、悲話を今に伝えている。

その昔、千住の掃部宿に二人暮らしの母と娘がおったそうな・・・。しかし、父が借金を残して他界してしまったため生活は苦しく、娘は泣く泣く母を残してここ瀬崎にあった大尽(財産家)の家へ奉公に出ることになった。娘は女中として一生懸命に働いて母へ金を送り、そんな生活がしばらく続いていたが、ある日、母が病に倒れたという知らせを聞く。看病をしたい一心で娘は暇乞いをしたが、主人はそれを許さず。しかし一目でも母の顔を見たい娘は奉公する家が火事になれば実家に帰れると思い、悩んだ末に放火という愚行を犯してしまう。放火の罪は火あぶりの刑と決まっており、捕まった娘はここにあった刑場で火あぶりの刑に処されてしまったという。後に放火の理由を知った村人たちが、そんな娘を哀れんで地蔵を置き弔ったと伝わっている。これが火あぶり地蔵の所以である。

どこかで似たような話を聞いたことがある。そう、東京の白山にある”ほうろく地蔵”に供養された”八百屋お七”のことだ。思いを寄せた人に違いはあれど、同じ過ちを犯し、同じように火あぶりの刑という極刑で悲しい最後を迎えている。家族、恋人、友人…日常的に会うことができるというのは、人権が確立され交通機関の発達した現代では気付きにくいが、人間にとって最も幸せなことなのかもしれない。


旧日光街道・谷塚
毛長川を越えて武蔵国こと埼玉県に入り、谷塚町と瀬崎町の境となっているごく普通の県道を歩く。


火あぶり地蔵
これが火あぶり地蔵が安置される地蔵堂。火あぶり地蔵はこの現代に何を思うのだろうか・・・激しい車の往来を、格子戸の隙間から冷ややかに眺めているような気もしてくる。


旧日光街道・草加宿入口
毛長川から直線の県道を2km程歩くと、左方向に草加宿へ入る旧道が現れる。


草加宿夕景
草加宿へ。


草加宿夕景
草加宿にて。


草加宿夕景
夕闇に暮れゆく。


源兵衛せんべい
草加といえばやっぱ煎餅でしょ。草加煎餅の老舗、源兵衛せんべいまで歩いたところで旧日光街道初日の歩き旅は終わり。草加宿については次の記事で。

【旧日光街道 第1日目】踏破距離 約18.3km(日本橋→千住宿→草加宿)
日本橋から約18km 日光まで約129km 
まだまだ遠いのお・・・


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草加宿

【旧日光街道歩き 第2日目】草加宿→越谷宿→粕壁宿→杉戸宿



【2009年5月3日(日) 旧日光街道 草加宿】
江戸時代初期に大川図書によって千住宿と越谷宿間の日光街道が最短距離で結ばれ、草加宿が新たに設置されたことは前の記事に書いた。その草加宿が設置されたのが寛永7年(1630)年のことで、これにもやはり大川図書が大いに貢献したらしい。湿地帯に茅や土を埋め立てて新道が敷かれ、その上に造られた宿場だったことから、”草を加える”→”草加”という地名が付けられたという。

草加宿の天保14年(1843年)当時の宿長さ南北12町(約1.3km)、人口3619人、家数723軒、本陣1、脇本陣1、旅籠67軒。開宿当時の草加宿は家数84軒のごく小さな宿場町だったが、日光街道の重要度が増し、また江戸中期から綾瀬川の舟運が発達したことから、江戸時代を通して宿場の規模を大きくしていったのだろう。江戸時代には大宮や浦和より、草加の方がよっぽど規模の大きな町だったのだ。


草加宿地蔵堂
草加市役所の一角にある浅古家の地蔵堂。ここが草加宿の南端にあたり、この地蔵堂はかつてここにあった豪商、大和屋・浅古半兵衛の邸宅の名残である。子育て地蔵として祀った屋敷神だったらしい。


浅古正三家
明治末期建築の浅古正三(あさこしょうぞう)家。浅古家の地蔵堂から市役所を挟んだ旧街道に面して母家が建っている。


草加宿
草加宿南側(市役所通り商店会)の町並み。


「日光街道・葛西道」道標 日光街道・葛西道分岐
かつて草加宿から葛西道が分岐していた。その分岐点に写真の道標がある。葛西道はここ草加宿と東京の葛西方面を結んでいた道で、千住宿・越谷宿間の日光街道の新道が敷かれる前から通じていた古道だという。


草加宿
草加宿中心部(草加中央銀座商店街)の町並み。

八幡神社
商店街の中に窮屈そうに鎮座する八幡神社。享保年間(1716年~1736年)に稲荷社を祀ったのが始まりで、後に八幡神像を併せて祀ったことから現神社名になったという。


藤城家
明治初期建築の旧商家・藤城家は、草加宿に残る数少ない町屋建築。まさか・・・、取り壊しているのか!と思いきや、改修中のようでほっと胸を撫で下ろす。昭和の高度成長期から現在に至るまで、趣のある日本建築を散々に壊して洋風な家やビルを建ててきたのだから、今に残っている歴史ある建物は後世に残してほしいとつくづく願うばかりである。


草加の道路元標
明治44年(1911年)建立の道路元標。ここを基点にして谷塚・千住・越谷・浦和・栗橋への距離が示されている。


草加宿清水本陣跡
住吉商店会の旧街道に面してある堀川産業の敷地が、草加宿本陣を務めた清水家の跡らしい。


おせん茶屋
その昔、草加松原で”おせんさん”という人がやっている茶店があり、そこで売れ残った団子を平らにして天日干しし、焼き餅を作ったという。これが草加煎餅の発祥と伝わる。その”おせんさん”にちなんで”おせん茶屋”と名付けられた小公園が旧街道に面して設けられている。


草加宿
草加宿北側(六丁目商店会)の町並み。草加宿の北側から草加松原にかけて煎餅店が多くある。中でも私のお気に入りは源兵衛せんべいである。草加へ来る度に、ここで煎餅を買って帰るのだが、醤油の香ばしいパリっパリの煎餅は絶品だと思う。


東福寺
草加宿を開設した大川図書が慶長11年(1606年)に創建したという東福寺。草加宿ができる以前、日光街道の新道敷設時に建てられた寺である。境内にはその大川図書の墓がある。


草加宿
草加宿北外れの町並み。


神明神社
草加宿の北外れにあたる神明宮。草加宿の総鎮守だった。江戸中期頃から毎月五の日と十の付く日に市が開かれ、大いに賑わったという。このことから”市神”の別名を持っている。


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札場河岸

【2009年5月3日(日) 旧日光街道 草加宿→越谷宿 道中】
草加宿を抜けると旧街道は伝右川を渡り、綾瀬川に沿って北へ延びる。その伝右川と綾瀬川が最接近して並行する川間に設けられていたのが札場河岸。かつてここを所有していた回船問屋が高札場の場所にあり、屋号が”札場”だったことから、この名で呼ばれていた。江戸から大正期にかけて綾瀬川の舟運で賑わい、江戸と草加を往来する物流の拠点として重要な役割を果たした。


河合曾良像
河合曾良(かわいそら)に見送られて草加宿を後にする。河合曾良とは誰?そう、あの松尾芭蕉の弟子であり、蕉門十哲の一人といわれる優れた俳人だった。”奥の細道”の旅に同行したことで知られる。


おせん公園
その河合曾良像から旧街道を挟んで向かいにあるのが”おせん公園”。おそらく煎餅をかたどっているのだろう、”草加せんべい発祥の地”の石碑が目を惹く。


草加六丁目橋
草加六丁目橋で伝右川を渡る。伝右川は江戸時代初期に伝右衛門により、低湿地帯の干拓を目的として開削された。開削者が川の名の由来となっている。


札場河岸公園
伝右川を渡るとすぐに札場河岸公園がある。ここから先の旧街道は綾瀬川に沿って北へ延び、草加松原の美しい松並木の中を歩くことになる。草加松原については次に記事で。


松尾芭蕉像
札場河岸公園にある松尾芭蕉像。”奥の細道”を行く松尾芭蕉の様子を感じさせる秀逸な銅像である。門人の河合曾良を連れて江戸深川を発った松尾芭蕉は、舟で千住宿へ行き、そこから奥州へ向かって日光街道を歩みはじめた。千住宿から2里8町(約8.8km)を歩いて草加に辿り着いたとき、こんな紀行文を残しているので一部抜粋して紹介する。

「その日、漸(やうやう)草加といふ宿にたどり着きにけり。痩骨に肩にかかれる物、まづ苦しむ。ただ身すがらにと出立ち侍るを、紙子一衣は夜の防ぎ、浴衣、雨具、墨筆のたぐひ、あるはさりがたき・・・」

僅か10km弱を歩いてこの弱音である。あれもこれもと、旅の荷物は多くなりがちなのは、芭蕉も私たちも変わらないところに、松尾芭蕉という偉人に親近感を覚えてしまうのである。


札場河岸公園の望楼 望楼内部
札場河岸公園に建てられている望楼。望楼の内部は螺旋階段となっており、上から綾瀬川や草加松原を一望することができる。


望楼からの眺め
望楼から草加松原と綾瀬川を眺める。


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草加松原

【2009年5月3日(日) 旧日光街道 草加宿→越谷宿 道中】
札場河岸公園から綾瀬川に沿って、約1.5kmの美しい松並木が続く。ここは草加松原と呼ばれる場所で、遊歩道に整備された旧街道筋に600本余りの松が植えられ、首都圏に居ながらにして身近に旧街道の情緒を感じさせるすばらしい道となっている。その草加松原に初めて松が植樹されたのは、寛永7年(1630年)の草加宿設置時のこととも、天和3年(1683年)の綾瀬川改修時ともいわれるが、はっきりしたことはわからない。文化3年(1806年)年に幕府が作成した”日光道中分間延絵図”には、街道筋に数多くの松が描かれており、江戸中期から後期にかけて見事な松並木の道が築かれていたことは間違いない。その松並木も明治10年(1877年)には約800本を数えていたが、高度成長期の昭和40年代には、自動車の排ガスや工場の煤煙で多くの松が枯死し、約200本まで数を減らしている。それから松原の再生事業が始まり、保護・補植によって現在の美しい草加松原が回復した。


草加松原
草加松原を行く!


矢立橋
県道に分断される遊歩道を繋ぐ矢立橋。美しい曲線を描く太鼓橋の姿形もそうだが、散策する人のためのこういった配慮がすばらしい。


草加松原
旧街道の情緒が存分に堪能できる草加松原遊歩道。ここが首都圏であることを忘れてしまう。


草加松原と綾瀬川
綾瀬川と松並木。


百代橋
矢立橋の次に架かる百代橋。”矢立””百代”の橋名は、松尾芭蕉の奥の細道に因んで付けられた。


百代橋
百代橋上からの眺め。草加松原を一望する景色は一見の価値あり。


中曽根橋
綾瀬川に架かる中曽根橋。こういった橋にも配慮がなされており、散策をより楽しいものにしてくれる。


草加松原
先に東京外環自動車道が見えてくると、間もなく遊歩道は終点となる。こんな道が延々と日光まで続いていれば歩き旅も楽しいんだけどなあ。


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藤助河岸と蒲生の一里塚

【2009年5月3日(日) 旧日光街道 草加宿→越谷宿 道中】
草加松原を後にした旧街道は更に綾瀬川に沿って北進する。東京外環自動車道の下を潜り抜け、蒲生大橋まで来たところで綾瀬川の対岸へ渡ると、その下流部に蒲生の一里塚があり、更に下流方向に行けば藤助河岸跡がある。藤助河岸は高橋藤助の経営による私設河岸で、札場河岸と同様に江戸中期頃から綾瀬川の舟運で繁盛し、年貢米をはじめ様々な商品荷が江戸へ運ばれた。この河岸は明治・大正と利用されてきたが、陸運が主流となった昭和初期に姿を消すことになる。


綾瀬川の桜並木
草加松原遊歩道の北端から先は桜並木の小径が続く。


「奥の細道」壁画
芭蕉と曾良が奥の細道を旅する様子を描いた壁画。東京外環自動車道の下にある。


綾瀬川と蒲生大橋
下を流れるは綾瀬川、先に見える橋が蒲生大橋である。綾瀬川の西岸を辿ってきた旧日光街道は蒲生大橋で綾瀬川の対岸へ渡る。蒲生大橋は文化3年(1806年)年編纂の”日光道中分間延絵図”には大橋土橋”と記されており、長さ12間4尺(約23m)・幅2間1尺(約4m)の土橋だったという。


蒲生の一里塚
埼玉県内の日光街道筋で唯一現存する蒲生の一里塚。かつては街道の左右に両塚が築かれていたが、現在は東塚のみが現存する。よくぞこの埼玉県内で生き残ったと感心してしまう。


藤助河岸跡
かつて綾瀬川の舟運で賑わった藤助河岸(とうすけがし)跡。


藤助酒店
藤助河岸跡の前にある藤助酒店。もしや、経営者は高橋さんなんでしょうか?


綾瀬川・蒲生愛宕町
一里塚の残る蒲生愛宕町で、しばらく付き添った綾瀬川と別れる。


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蒲生茶屋通り

【2009年5月3日(日) 旧日光街道 草加宿→越谷宿 道中】
蒲生の一里塚から蒲生本町交差点に至るまで、旧日光街道は蒲生茶屋通りと名付けられた道を辿る。何ゆえ”茶屋通り”なのか・・・、沿道には茶屋はもちろんのこと喫茶店一つ無い。理由は今でこそ面影を留めるものは何もないが、かつては茶屋が軒を連ねる立場があったらしい。日光街道を往来する旅人や藤助河岸から船頭等が集まり賑わったという。江戸時代には草加松原の松並木北端から蒲生に至る街道が茶屋通りと呼ばれ、草加側を出茶屋、蒲生側を下茶屋と呼び分けていた。


蒲生茶屋通り
かつて茶屋が軒を連ね賑わったという蒲生茶屋通り。


蒲生茶屋通りの沿道にて
蒲生茶屋通りの沿道にて。


大相模不動尊道標
蒲生茶屋通り沿道に置かれている道標と庚申像。道標には「是よ里大さかミ道」と刻まれており、ここから日光街道を右に分岐する道は、越谷市相模町にある大相模不動尊(大聖寺)へ続く。大相模不動尊は越谷最古の寺院で、関東三大不動の一つに数えられる名刹。


清蔵院山門
蒲生茶屋通りと県道足立越谷線(旧国道4号)の合流点にある清蔵院。ここの山門は寛永15年(1638年)関西の工匠による建立で、龍の彫刻が夜な夜な山門を抜け出して畑を荒らすことから金網で囲ったという伝説が残る。


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県道足立越谷線

【2009年5月3日(日) 旧日光街道 草加宿→越谷宿 道中】
蒲生本町交差点から越谷宿入口までの約3kmは県道足立越谷線の直線を淡々と歩く。蒲生本町、蒲生寿町、南越谷、瓦曽根と住所表示は目まぐるしく変わるが、これといって途中に見所も無い。ただし、この県道足立越谷線は旧日光街道の道筋であるとともに、旧国道4号の道筋でもあった。昭和42年(1967年)に草加バイパスが完成して国道の座を譲ったが、それでも車の交通量は多い。


県道足立越谷線・蒲生本町
蒲生本町交差点から県道足立越谷線をただ無心に歩く。


県道足立越谷線・南越谷
そして、南越谷。


庚申像・南越谷にて
おっと、路傍にひっそりと庚申像が・・・。


県道足立越谷線・瓦曽根
瓦曽根で旧日光街道の道筋は県道を左に分岐する。


照蓮院
瓦曽根にある照蓮院。ここ越谷で意外な感じもするが、甲斐武田家ゆかりの寺である。天正10年(1582年)武田家滅亡の際、家臣の秋山信藤とその次男長慶が武田勝頼の遺児千徳丸を伴い、ここ瓦曽根まで逃れて匿った。しかしながら千徳丸は早世してしまい、秋山長慶が照蓮院の住職となって菩提を弔ったという。墓地には千徳丸の供養のために建てられた五輪塔が残る。


県道越谷流山線・越谷駅付近
県道足立越谷線(旧国道4号)を離れ、ようやく越谷宿へ。


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

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しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
千葉県在住。

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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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