千住宿 仲町・千住1丁目~千住3丁目
東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、中山道の板橋宿、そして日光・奥州街道の千住宿、それぞれ五街道への初宿であり、江戸の出入口にあたる宿場町は江戸四宿と称されるほどに繁栄した。旅に出る人あれば送る人あり、そして帰る人あらば迎える人ありと、大いに賑わったことは想像に難くないが、飯盛女の存在も町の繁栄に寄与したことは事実である。飯盛女とは旅籠に置かれた遊女のことで、江戸四宿には飯盛女を置く旅籠が集まり、岡場所と呼ばれる遊郭のような歓楽街があった。格式の高い吉原等の遊郭に比べて代金が安かったことから、遊興目的で訪れる男性客が多かったという。今も江戸の昔も男の考えることにさほど差は無いようだ・・・。
千住宿は天保14年(1843年)当時の人口9956人、家数2370軒、本陣1、脇本陣3、旅籠55軒とあり、中山道の板橋宿より遥かに規模が大きい。日光道中が整備された江戸時代初期には千住1丁目から5丁目までが宿場町であったが、万冶元年(1658年)千住宿南端から千住大橋にかけての家並み続き地を、掃部(かもん)宿・河原町(後に”やっちゃ場”となった)・橋戸町として千住宿に加宿し、更に万治3年(1661年)には千住大橋を越えた小塚原町・中村町(現 南千住付近)までの町をも加える。町の総数から千住八ヶ町と呼ばれ、宿場は繁栄を極めた。

やっちゃ場跡を後にして千住仲町商店街へ。この辺りはかつての掃部宿である。

千住仲町商店街の一角に建つ源長寺。掃部宿は安土桃山時代末期の慶長3年(1598)、この地を所領し新田として開拓した石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)にちなみ名付けられた。その石出吉胤が阿弥陀如来を本尊に祀り、一族の菩提寺として開いたのが源長寺である。

千住仲町商店街を抜けて本町センター商店街へ入っていく。ここからが千住宿の中心部で、かつて貫目改所(かんめあらためじょ)と問屋場が置かれていた。

千住宿問屋・貫目改所跡。現在は東京芸術センター前の広場となっている。
宿場町に言う問屋とは、次の宿場町へ荷を運ぶ人馬の継ぎ立てを取り仕切る機関で、宿場には必ず置かれていた。江戸時代は問屋から次の問屋へとリレー方式で荷を運んでおり、荷の重量に制限があったことから、その重量を検査する目的で幕府が置いた出先機関が貫目改所である。日光街道では千住宿と宇都宮宿、中山道では板橋宿、洗馬宿、草津宿に貫目改所が設置されていた。

旧日光街道は本町センター商店街から北千住駅前通りを越えると宿場町通りとなる。かつて本陣が置かれていたのが、ここ宿場町通りの沿道である。

写真右、100円ショップの入っているビルが千住宿本陣跡。現在は見る影も無くなっているが、ビル前にその跡地を示す碑が建てられている。千住宿の本陣は享保19年(1734年)には2軒と記録が残るが、天保期(1830-43)には1軒と減少し、ここにあった秋葉市郎兵衛家だけが幕末まで本陣を務めた。

千住3丁目と千住4丁目の境、旧日光街道から西へ路地を入った所に千住本氷川神社が鎮座している。写真はその境内に残る旧社殿であり、往時の千住宿を見てきた数少ない建築の一つである。千住本氷川神社は牛田(現 荒川の流域)の地にあった牛田氷川神社の分社として、江戸時代初期この地に創建された。明治43年(1910年)荒川放水路の建設によって牛田氷川神社が川底に消滅してしまったため、分社が本社を合祀するという珍しい社歴を持っている。
